青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

日当、桜の仁義。

2024年04月22日 17時00分00秒 | 樽見鉄道

(日の当たる駅@日当駅)

国鉄時代の樽見線は、美濃神海より先にも延伸計画があり、昭和40年代中期から実際に新線区間の工事も開始されていました。しかしながら、大量の赤字ローカル線を抱え過剰債務に陥っていた国鉄の再建計画の余波を受け、昭和50年代になってその工事が凍結。大量の未成区間を残したまま、特定地方交通線入りしてしまいました。その後、昭和59年の第三セクターへの移管を経て工事が再開され、終点の樽見までの10kmあまりが開通したのが1989年(平成元年)のこと。おりしも昭和の末期から平成にかけて、「ふるさと創生」なんて言葉が日本列島を駆け抜けた時代でもあります。本当であれば、特定地方交通線の延伸計画区間ってのはそのまま工事凍結→事業中止となる訳なんですけども、確か地元が路線を引き受けて運営する意思を示せば無償で工事が再開されるというルールがあったんですよね。しかも、三セク転換時に延伸区間のキロ単位で距離に応じて転換交付金の割増のお土産まで付けてくれたんじゃなかったかな。この手のお土産で、野岩線とか秋田内陸縦貫線みたいなものが全線開通に漕ぎ付けられ、地方自治体が運営するふるさとの鉄道としての「三セク鉄道ブーム」みたいなものがあったと記憶してるのだけど。

新線開業区間は、鉄建公団線らしく根尾川の刻む深い谷を何回も鉄橋で渡り、山があればトンネルを真っ直ぐに掘って、地形に沿うことはせず真っ直ぐに終点の樽見を目指す。その途中にある日当の駅。「日が当たる」と書いて「ひなた」というのは、イメージに当てはめた瑞祥地名のような取って付けた名前ではなく、駅があるのが根尾村の「日当」という場所。ちょうど山間を屈曲して流れる根尾川の谷あいの南斜面に開けた場所にあって、文字通りの「ひなた」にある集落だったのでしょう。駅の入口にあたる道の斜面に大きな桜が植樹されていて、陽の光を受けて大きく咲き誇っています。咲きぶりだけで言えば、谷汲口よりも日当の方が良かったかな。谷汲口で見送った原色ハイモが、樽見から戻って来ました。

日当の駅で列車を待つ、麦わら帽子の女性が一人。当然のことながら利用者ではなくて、どうもモデルさんを雇ってカメラマンがポートレート写真を撮影しているようだ。基本的に列車を含めた駅の風景を撮ろうと他のカメラマンも構図を作っている中で、意図していないものが入り込む「わざとらしさ」みたいなものはこちらの本意ではないのだが、そういう撮影をこの場所で始められてしまった以上は仕方ない。どいてくださいというのも無粋なので、そのまま構図の中に取り込んでみました。どうもこうなってしまうとイメージ写真っぽいね。ただまあ、私を含め大勢の「テツ」側のカメラの連中からは、意図した構図の中に物凄く目立って入り込むモデルさんの姿に「何なんだアイツは」みたいな声が上がっていたのも事実。

イメージ写真っぽくなるなー。自然さが全くない(笑)。最近は「個撮」なんて言って、SNSで探してお金を払えば簡単に被写体にモデルを使用した撮影を頼める時代ではありますが、そういうのだったら、自分とモデルと一対一の場所でやって欲しいってのはあるよね。ちなみに、列車の接近時刻が近付いているのにモデルさんをホームに腰掛けさせてみたり、あんまりそこらへんには理解がないお二人さんだった。シチュエーションは最高だったが・・・まあ、こういう時期に撮影しているといろいろある。我々も決して日々褒められた行為をしているとは思わないけれど。

モデルさんでも何でもいいけど、これが列車に乗る乗客であれば、テツ側も全く文句は言わないのだが、ジャンルは違えど同業者なのでね。
ここら辺の折り合わせ方というか、仁義ってものはどういう風に切ったらよいのかな。やはりカメラ趣味の慣習で、先入者優先か?

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花弁舞い散る、記憶舞い戻る。

2024年04月20日 13時00分00秒 | 樽見鉄道

(桜の駅、賑わい@樽見鉄道・谷汲口駅)

名鉄谷汲線の廃線跡に、在りし日の憧憬を追う桜旅。少し廃線跡から離れ、根尾川を渡って樽見鉄道の谷汲口駅へ。岐阜県の西域を流れる根尾川の流域は、「根尾の淡墨(うすずみ)桜」で名高い桜の里。この時期は「桜ダイヤ」として日中の増便増車がかけられ、年で一番のお祭りムードになります。そして、花の便りに沸く樽見鉄道沿線でも随一の「花の駅」がこの谷汲口駅。根尾谷に春を告げる淡墨桜はエドヒガンの大きな一本桜ですが、この駅はソメイヨシノの系統。この時期、駅の周辺に植えられた桜が一斉に咲き誇り、普段は人影少ない簡素な造りのローカル線の駅に、多くの観光客が訪れます。

花曇りなのが少し残念ながら、時を今かと待ちわびたように、ときめく春を謳歌する谷汲口の桜。駅を望む北側の踏切からの定番構図。現在は第三セクターとして運営されている樽見鉄道ですが、元々は国鉄の樽見線として1956年(昭和31年)にこの谷汲口駅まで、二年後の1958年に美濃神海までが開業しました。この谷汲口の駅は、谷汲「口」というだけあって、旧谷汲村の中心からは3kmほど東に外れています。沿線住民の足・・・というよりは、国鉄の樽見線は本巣にある住友セメントの岐阜工場からのセメント輸送が主力の路線だったのですよね。どっちかと言えば、根尾川流域の住民は昔っから走っていて駅数も本数も多い名鉄谷汲線を利用していたらしいのですけど。

国鉄時代の樽見線は、昭和30年代に美濃神海(現:神海)まで開通しましたが、もともとさほど人口居住地を意識したルート取りをしていないこと、そして沿線住民は国鉄で大垣へ出るようなことはせず、名鉄電車で直接岐阜へ向かってしまうという流動の合わなさもあり、国鉄時代末期には特定地方交通線としての整理対象になりました。しかしながら、年間50万トンを超える大口のセメント輸送の収益は無視できませんで、三セク鉄道としての存続が決定。荷主の住友セメントと貨物専業の西濃鉄道が7割を保有する大株主となり、その他を地元の自治体が応分に持ち合うという珍しい形態で1984年(昭和59年)に「樽見鉄道」として再スタートします。新造されたレールバスに加え、国鉄からセメント輸送用のディーゼル機関車(DE10)と、多客対応用の旧型客車の払い下げを受け、朝の通勤時間帯や淡墨桜の開花時期などの繁忙期は、ディーゼル機関車による旧型客車の運転なんかが行われていました。そんな樽見鉄道の客レで使われていたオハフ33(樽見鉄道ではホハフ503)が、駅横の広場に保存されています。

桜の谷汲口駅に、大垣行きの単行NDCが到着。北側の踏切から望遠レンズでガッツリと定番構図をシュート。土曜日の朝、駅に群がるのは専ら花見客と我々のような鉄道マニアばかりで、実際の利用者は僅かでありました。名鉄谷汲線が廃止されて、旧谷汲村の中心市街地や谷汲山華厳寺への最寄り駅はここ谷汲口になってしまいましたが、現在は谷汲の街へ向かう揖斐川町のコミュバスは平日朝の1本のみが小学生の登校用に残されているだけ。とても公共交通として機能しているとは言えない状況で、谷汲に向かうには、養老鉄道の揖斐駅からのバスに頼るしかないのが現状です(それでも本数は相当少ない)。谷汲の町の人々は、実質クルマで送迎されない限り、通常ではこの駅を活用するのは難しい現状にありますが、今回のように桜のシーズンだけは、谷汲山行きのコミュバスが観桜対応で運転されているようでした。

桜の谷汲口を出る樽見行きのNDC。谷汲口の駅周辺は、普段は静かな里山風景・・・という感じの西濃の山村。駅の裏手の遠くに見える山はベンチカットされていますが、この辺りは石灰質の山が多く、揖斐川町と大野町にまたがる雁又山の東側は住友大阪セメントの岐阜工場で使われる石灰石を採掘している鉱山となっています。岐阜鉱山で採掘された石灰石は、根尾川の上をベルトコンベアーで渡り、工場に運び込まれて各種製品に加工されているそうです。住友大阪セメントの本巣駅からのセメントの鉄道での年間出荷量はピーク時には年間60万トンにも及び、発足後の樽見鉄道の収益の80%を占めるに至りましたが、鉄道貨物輸送の縮減の波に押される形で住友大阪セメントは2006年(平成18年)3月に鉄道輸送から撤退。旅客輸送専業となった樽見鉄道は、収益の大きな柱を失い苦境に陥ることとなります。現在は沿線の自治体の支援を得ながら旅客確保に努めてはいますが、少子高齢化と過疎化による将来的な見通しの悪さは、全国どこでも同じこと。

それだけに、この時期の淡墨桜を始めとする沿線の観桜輸送は、樽見鉄道の一番の稼ぎ時。大垣で折り返してきた樽見行きが、花の谷汲口を出ていく。車内には、多くの乗客が詰め込まれているのが分かります。樽見鉄道発足当時からのオリジナルカラーを纏ったハイモ330。樽見鉄道、どの車両も結構ラッピングが派手なのでなかなか撮り難しいのだけど、やっぱ樽見と言えばこの赤と水色のカラーリングですわなあ。余談ですが、子供の頃ちょこっとだけ鉄道模型(Nゲージ)をいじったことがあるのだけど、その時に買ってもらった模型がなぜか樽見鉄道のハイモ180だったのを思い出す。なぜ縁もゆかりもない樽見鉄道の車両だったのかはよく分からんのだが。その時の手持ちのNゲージは、スターターセットのしょっぱい円形のレイアウトと、ハイモ180とDD16と旧型客車と貨車が何両か・・・というどうしようもなく地味なラインナップだったのだが、今思えばそれってまごうかたなき発足当時の樽見鉄道だったのだな・・・と思ったり(笑)。今ならタキ1900を大人買いしてヤードに並べ、住友大阪セメント本巣工場からの出荷風景でも再現してやるのだが。

趣味の世界というもの、特に鉄道趣味は「子供の頃の原体験」みたいなものがその後の趣味嗜好に大きく影響を及ぼすものと思っておるのだけれど、今回私が樽見鉄道を訪れたのも、そんな子供の頃の原体験が頭の隅のどこかに埋もれていたからなのかもしれない。三つ子の魂百まで、雀百まで踊りを忘れず、じゃないけれどもね。そして、特に趣味になると余計に懐古的で未練がましく、いつも昔を懐かしみながら今を生きているような感覚がある。今を昔の思い出に透過させて谷汲口。今年もきれいに桜が舞い散る。クリスマスプレゼントで買ってもらった初めての鉄道模型、あの頃の思い出の中に、桜は咲いていただろうか。

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憧憬の 春に桜が 咲き乱れ。

2024年04月17日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(来ない列車を待つ桜@旧名鉄谷汲線・更地駅跡)

旧名鉄600V線区を辿る旅は、黒野から北へ。根尾川に沿って、谷汲へ向かう参詣鉄道の廃線跡を辿ります。根尾川沿いに開けた平野がやや狭まり、視界に山が近付きつつあるあたり。県道を少し折れた集落の路地裏に、ひっそりと一本のホームがありました。これが旧名鉄谷汲線・更地(さらぢ)駅跡。ここに駅があったことを示すかのように、ホームの傍らに立つ一本桜。谷汲線が現役だった頃は、春になるとこの一本桜とオールドタイマーの赤い電車の組み合わせを求めて、多くの鉄道ファンがこの駅を訪れたそうです。電車が来なくなってはや四半世紀弱、今年も春を迎え、今年も桜が咲き、そして駅のホームが静かに来ない電車を待っていました。

名鉄谷汲線の更地駅。何年か前、この駅で撮られた写真の数々に触れる機会があり、その雰囲気の素晴らしさが印象に残っていた駅です。それにしても、もう廃線になってから20年以上の時が流れているというのに、こうもはっきりと駅の遺構がそのままになっていることに驚く。今でも目を閉じれば、一両の赤い電車が山裾を回って走って来そうな、そんな雰囲気すらある。廃線跡は、レールこそ剥がされているものの、さりとて何かに転用される素振りもなく。路盤は草に覆われつつもその下にバラストを残し、そしてホームは白線を鮮やかに残したまま、大きな躯体物としてそこにあり続けていた。道路と路盤の境目の部分にはフェンスが立てられていて、一応公有地と私有地の境目くらいの区切りはついているのだが、放置?というならもう少し朽ち果ててる気もするし、少なくとも草刈り程度の最低限の管理はまだなされているのだろう。廃線跡によくある、駅があったことを示すような案内看板なども特にないのだが、見た目がまごうかたなき「駅」であったことを示しており、保存状態をして天然かつ絶妙、とも言える状態である。

レールが剝がされた路盤に彩りを添える菜の花。更地駅のホームの少し谷汲寄りには、おそらくキロポストだったと思われるコンクリートの標識がそのまま残されている。営業当時、黒野起点で更地駅が3.9kmの位置にあったことが記されているので、ペンキが剥げるまでは白地に黒い文字で「4」の表示がなされていたものと思われる。かつての更地駅は、ホームの上に市民プールの日よけのようなビニールの小さな屋根掛けと、駅を示す駅名票、そして駅の黒野寄りに「更地駅」という名鉄の駅看板があったそうな。「谷汲線 更地駅」で検索すると、あまたの先輩諸氏が撮影されたその当時の写真を見ることが出来ますが・・・やはり春に撮られた写真が多いですね。憧憬、といってもいいでしょう。それだけに、レールが現役の時に来てみたかったなという思いは訪れてなお一層強くなってしまったのは言うまでもない。谷汲線が廃線になったのは2001年(平成13年)のこと。21世紀まで、名古屋の近郊で夢のようなローカル私鉄の風景が楽しめた訳で・・・笠松競馬までは来てたけど、岐阜まで出て谷汲まで行けよ!とその頃の自分に伝えてあげたい気分だ。

誰も訪れることのない春の朝。何となく立ち去りがたく、別れがたく、いじましく駅の周りをグルグルと回ってしまう。当時の写真を改めて見返すと、桜の木がずいぶん大きくなったことが分かる。おそらく、現役当時は架線や車両に干渉しないよう、伸びた枝は適時剪定されて揃えられていたのだろう。正式に廃線となった後は、特に遮るものもない分、桜の木は思う存分に枝を伸ばすことが出来るようになった。桜の気持ちとしては、電車が来なくなったことがかえって良かったのかもしれない・・・けれど、この桜には、やっぱり赤い電車が必要だよね。そう思いませんか。


赤い電車を待ち続け、四半世紀の時が過ぎ。
桜咲く春、霞の朝も、まだかまだかと、待っている。

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ああ追憶の600V。

2024年04月15日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(ああ、追憶の名鉄600V@黒野レールパーク)

北陸新幹線の敦賀開業前の話をしていたら、既に年度末が過ぎ、桜の時期になってしまった。今年の桜は例年に比べると咲く直前の天候の悪さで花の進みが遅く、新年度に入ってからようやく咲き始めるという体たらくであった。まあ自然の摂理に「体たらく」も何もないもんだが、この時期は桜の開花に合わせて撮影行動を取るのがカメラ趣味のあるある。ウェザーニュースの予報を眺めながら、「今年は3月22日過ぎに開花からの3月27日~28日満開」と読み、この年度末のクソ忙しい時に後ろ指を指されつつ有給の申請まで出したのに花の気配が全くなく・・・(その後有給は「忙しくって休めないっすよね!」みたいな感じでカジュアルに取り下げてしまった)。改めて仕切り直しの新年度。どこへ行くかは天気と花の咲き具合、狙いと天気を定めて4月6日(土)の丑三つ時に家を出て、新東名を西に西に。春霞の夜明けを迎えたのは岐阜県揖斐郡大野町。2005年に全線が廃止された名鉄の600V路線、旧名鉄揖斐線・谷汲線の黒野駅。現在は「黒野レールパーク」としてその遺構が残されています。

今回の春の桜旅のテーマのひとつは、在りし日の岐阜県に名鉄600V区間の遺構を訪ねる・・・というもの。「名鉄600V区間ってなんですのん?」というそこまでテツではないお客さまに簡単にご説明すると、名鉄が岐阜市内中心部に走らせていた路面電車(岐阜市内線)と、岐阜駅前から関・美濃市方面へ向かっていた美濃町線、そして岐阜市内線を北に走り、長良川を渡って忠節から美濃北方~黒野~本揖斐に向かっていた揖斐線、そして東国の名刹・谷汲山華厳寺への参詣路線としてこの黒野から分かれて北へ向かった谷汲線の4路線こと。岐阜市内を中心に、周囲に広がる全長約70kmの路線網が各方面から軌道線の岐阜市内線に乗り入れてくるため、軌道線と郊外線の特徴を持ったステップ付きのクラシカルな名車が西美濃のローカルな風景とアーバンな岐阜市内の光景の中を行き交うという鉄道ファンにはつとに有名な魅力ある路線でした。しかしながら、狭い道路を電車が占有することが市内の交通渋滞の原因と目されたこと。また、市内線の通る道幅の狭さから軌道内の車両通行を警察が許諾したこと。そのせいで鉄道がクルマの渋滞に巻き込まれ定時性が確保されないこと。特に岐阜市内線では道路の真ん中にある安全地帯もない未改良の電停が多く、乗車には車通りの多い場所での道路横断が伴い危険なこと。そしてなにより名鉄本体による投資がなかなか後回しになっていて、大正時代に製造された冷房もない古い電車が走り続けていたこと。岐阜市のクルマ優先の交通政策と、そもそもの岐阜中心部の経済の落ち込み(繊維産業の衰退とか)や、もろもろの理由による乗客離れによる累積赤字はいかんともしがたく、名鉄が撤退を表明。2001年(平成13年)の谷汲線全線、揖斐線・美濃町線の末端区間廃止を端緒に、2005年(平成17年)に600V区間は根こそぎ全廃されてしまいました。

揖斐線と谷汲線が分岐していた黒野駅は、そんな名鉄600V区間の北の要衝。残されたホームから、揖斐・谷汲方面を望む。黒野駅は、岐阜県揖斐郡大野町の中心部にあり、当時は揖斐・谷汲線系統を走る車両を一手に管理する黒野検車区を擁する主幹駅でした。保存されたのは島式の旧2番・3番ホームのみですが、当時はもう1本南側(この写真で言うと左側奥)に片面の1番ホームがあり、ここから揖斐行きの電車が発着していました。廃線を控えた末期は、岐阜駅前~黒野と黒野~本揖斐・谷汲で系統が分断されており、2番線は岐阜からの電車の折り返しに使用され、1番線から黒野~揖斐間の折り返しローカルと、3番線から谷汲線の電車が出発していたそうです。名鉄揖斐線が廃線となって鉄道のなくなった大野町ですが、現在では岐阜駅前から毎時一本の岐阜バス(大野忠節線)が大野町のバスセンターまで運行されており、またJRの穂積駅からもバスが出ていて、公共交通はある程度維持されているようです。

鉄道が廃止され、ホームとかつての駅舎を中心に整備された黒野駅周辺は再整備され、広い構内を活かした公園となっています。駅舎はミュージアムになっているのだけど、朝早過ぎて開いてなかったのは仕方なし。廃止されてからの植樹と思われる桜並木が、春の朝に七分咲き程度の花を咲かせていましたが、吊るされた桃色のぼんぼり、夜になったら灯りがつくのかな・・・それにしても、黒野レールパーク、折角ホームと上屋と上下のレールを残したのだから、ここに保存する車両の1両でもあってもよさそうなものだが。手作り感満載のモ512だけじゃ寂しくないかい。

在りし日の黒野駅とモ512の案内板。現在は長良川鉄道の美濃市駅前にある旧名鉄美濃駅の保存館で静態保存されている車両ですが、平成27年に、揖斐線の全線廃止10周年のイベント企画として1年間だけここで展示されていたことがあったようだ。いまさら揖斐線・谷汲線を走ったツリカケ旧型車両の新しい展示などはなかなか難しいのだろうから、揖斐線の末期を飾った名鉄の770系が福井鉄道での役目を終えたら、ここへ迎え入れて静かに余生を過ごさせてあげればいいのではないか・・・と思う。2月に乗って来たけど、あっちではまだバリバリの現役だから、ちょっとここに来るには時間がかかりそうだけど。そうそう、モ513が岐阜市内の公園から岐阜駅前に移設されて保存されてるけど、こっちに持ってくるという話はなかったんかね。岐阜市の持ち物?っぽいから、大野町に移設というわけにもいかなかったのかな。

谷汲線の発着番線に残されていた行灯式の注意表示。谷汲線は、終点の谷汲までの交換設備は途中の北野畑駅の一つだけでした。この行燈式の表示灯は、そんな谷汲線の運転取り扱いの確認のために使われていたもので、 北野畑での交換があれば左側が光り、黒野~北野畑では「△」、北野畑~谷汲では「□」のスタフ(通票)を設定。北野畑でそれぞれの列車がスタフを交換するという「基本」の閉塞で2列車の運用。北野畑での交換がなければ右側が光り、北野畑を境とする前後2つの閉塞区間を「併合」して黒野~谷汲を1閉塞とみなし、谷汲線には「□」のスタフを持つ1列車しか入れませんよ、ということにしていたのだと思われる。末期はおよそ1時間に1本の閑散スジで、日中は単行のモ750形がひたすらに往復するダイヤだったそうですから、「併合」の□スタフが常用になっていたということかな。

ただ、谷汲山の初詣や例大祭などの多客時は増発を実施して日中も北野畑交換を行っていたようで、 「基本」の「△スタフ」を出して30分ヘッドにダイヤを詰めていたようだ。
黒野に残る行灯に、北辺の600Vへの思いを馳せる。

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車窓の闇に酔いしれて。

2024年04月13日 09時00分00秒 | えちぜん鉄道

(波止の終着駅@三国港駅)

三国芦原線の終着、三国港駅。かつては金津から出ていた国鉄三国線が、京福電車の線路と並んでこの港町まで足を延ばしていました。福井県では、永平寺と並んで・・・というか、一番の観光地になる「東尋坊」の最寄り駅。もっとも、距離的には近くとも、バスは一つ手前お隣の三国駅からの方が本数も多い。便によっては三国港駅前も通るので、アクセスできないことはないのだが。どっちかと言えば、この駅は水産物を中心にした物資の運び出しのために作られた駅という雰囲気が強く、今でも残る錆びた機回し線が「貨物の駅なんだなあ」という雰囲気を醸し出している。木造瓦屋根の渋い駅舎が、いかにも地方私鉄の終着駅らしい。えち鉄の終着駅は、勝山も三国港も、どちらもいい駅舎を持っていますよね。

駅前の道路を隔てると、九頭竜川の大きな河口から日本海に繋がる風景が見える。三国漁港の漁師さんが船のそばでぼんやりと煙草を吸っている。朝ならば、出船する漁師さんやらなんやらでもう少し活気があったんだろうか。三国港に来るのはいつも旅の終盤だから、午後遅くの訪問になってしまって港町らしい朝の風景を見たことがない。周囲にはこの時期旬のカニを売る鮮魚店や土産物や料理屋などが立ち並んでいるが、基本的には朝から昼までの商売なのか、この時間ではほぼ店じまいとなっていて閑散としたものである。休日なんだけどね一応。そうそう、最近はインバウンド需要というのか単なる物価高なのか、カニも随分昔と比べると高額になりましたよね。前日に福井の居酒屋で出してるカニの値段を見ても、ちょっとこのお値段ではいくら旅先でサイフのヒモが緩いってったってキビシイお値段ではないかと思いましたものねえ。そして三国港駅と言えば駅から歩いて2~3分の所にある「三国温泉ゆあぽーと」。旅の締めにひとっ風呂を浴びるにはちょうど良い場所であり、ちょうど良い施設。天然温泉。海辺の湯らしい塩辛く熱めの湯が湧いている。露天風呂はありませんが、大浴場から眺める日本海がいいんだよね。この日は曇っていて夕日は見れなかったけど、晴れてればいいサンセットが見えるはずです。

ゆったりと広い湯船につかり、サウナなんぞにも入って、ほかほかになった湯上りを館内の売店で売っていた缶ビールをグビリ。すっかりほろ酔いのいい気分になって三国港の駅に戻って来ると、帰りの福井行きが待っていた。この時間から三国の宿にでも入るのか、構内踏切を渡って行く観光客の姿の向こうにカニのオブジェ。福井の港町の風景である。最近、旅先での酒量がことのほか増えたような気がするのだが、昔は旅先で昼間っから飲むとかったるくなって行動が億劫になるからあまりしなかったような気がするなあ。最近は、飲めるときは飲んじゃえ、みたいな感覚(笑)。今回は、鉄道旅でしたしね。

三国港から一時間、福井の街に戻った頃には雨が降り出していた。この二月の福井行き、一泊二日の両日とも曇りか雨のよろしくない予報だったのだけど、結局行程に差し障るような雨が降ったのはこの時だけだったですね。雨に濡れる福井駅の展望デッキ、ダイナソーワールドとして恐竜推しな福井県らしい恐竜のオブジェ。このデッキは北陸新幹線の開業CMなんかにも使われていましたね。家族へ向けての土産物なんかを調達しつつ、18:33福井発のサンダーバード35号で金沢へ。福井~金沢は新幹線だと20分ちょっとらしいですね。牛ノ谷峠あたりの曲線区間を除けば、サンダバも結構なかっ飛ばし方をしているんですけど45分くらいかかりますのでねえ。やはり新幹線は別格の速さだなと。

さて、今回の旅のラストランナーは金沢20:20発のはくたか578号東京行き。ちなみに私が使った「北陸応援フリーきっぷ」、行きはかがやき指定が使えるんですけど、帰りに使用出来るのはははくたかの自由席オンリーというレギュレーションのキップだったんですよね。かがやきだとこの後にもう一本東京行きがあるんだけど。どんくらいの混み具合か分からなかったので、一応入線20分前にホームに上がって自由席の乗車位置で待ってたんですが、拍子抜けもいいところのガラガラでした。軽井沢まで各駅停車、通過するのは安中榛名と本庄早稲田と熊谷だけという実質各駅停車ですからね、はくたか。

金沢駅で買ったささやかな打ち上げグッズ。北陸新幹線の敦賀開業から一ヶ月、開業フィーバーとそれに伴う「敦賀乗り換え」問題がクローズアップされておりますが、それは別の方の著に譲る。そして、北陸土産の定番となりつつある「ビーバー」は、白えび味なんかよりあおさ塩味が神的に美味い。これをつまみにすればいくらでも酒が飲めるのではないかという危険なカワキモノである。ガラガラのはくたかの自由席、車窓は夜とトンネルでは、相手となるのはスマホと酒くらいのもの。三列シートをガッツリ占領してチビチビと飲んだくれながら夜の碓氷峠を下ると、東京駅の到着は23時半。またこっからが長いんだよなあ・・・と重いお土産を手に家路につくのでありました。

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