青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

高科、桜盛りの里にて。

2024年04月26日 17時00分00秒 | 樽見鉄道

(瀬をはやみ、根尾の流れに@日当~鍋原間)

桜の写真を中心に撮り歩く根尾谷・樽見鉄道の旅。今年は桜の開花が遅かったせいか、桜と山々の芽吹きが同時に訪れている。そんな根尾川の谷は深く、そしてその水は蒼く清冽に流れております。第6根尾川橋梁を行く「うすずみ観桜号」。樽見鉄道は終点の樽見までに根尾川を10回渡るのだが、そのうちの8回は神海から先の新線区間。橋を作る事やトンネルを作る事に関して、安定的な土木技術が確立した時代の路線ということが出来ます。根尾谷にこだまするNDCのタイフォン、あっという間に車両は足元の舟山トンネルに吸い込まれて行きました。

桜の高科駅。樽見鉄道の各駅、この時期どこの駅にも桜が咲いていて訪れる人の目を楽しませてくれている。開業したのが平成の初期、植樹されたのもその頃だとすると、樹齢としたら30年と少しだろうか。一応、ソメイヨシノの寿命は約60~80年と言われていて、花を咲かせるために品種改良をされた種類だけに、樹木にしては非常に病害虫に弱く、寿命が短い。30歳くらいというと、桜の木としては一番の働き盛りという感じで、それこそ花付きもボリュームも見事なもの。この高科駅は集落からは遠く離れた田園の中の小駅で、普段は利用する人の少ない駅なのでしょうが、近所の子供たちが列車待ちの時間を使ってのお花見に来ていた。落ちてくる花弁を追いかけまわして大騒ぎ。こらこら、本数が少ないとはいえ、ホームで走ってはいけません。

薄く雲間から差す春の陽射し、街へ向かう列車へ乗り込む子供たち。行き先は桜の谷汲口か、それともモレラ岐阜へのショッピングか。駅前の農道をカブのおっちゃんが春風に乗ってゆるりと駆けて来る。高科の駅を出る樽鉄のDC、先頭のハイモ295-315は平成11年生まれと、樽鉄では一番古株の気動車なんだそうだ。タラコ色に塗られているのは、一応国鉄首都圏色のリバイバル・・・ということらしい。言われてみれば「ああ」という感じなのだが、ちょっとこの形の三セクDCを国鉄色に塗られてもリバイバル感はあまり出ないし、何なら樽鉄は他の車両のカラーリングもハデハデ過ぎて逆に埋没しちゃってるんよねえ。これならそもそも普段の樽見カラーにした方が良かったのでは?という気がしないでもない。

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世界に轟く「根尾谷」の名。

2024年04月24日 17時00分00秒 | 樽見鉄道

(飲んで、乗り過ごして、あれ・・・?@高尾駅)

神海から先の新線区間。深い谷を刻む根尾谷に沿って、トンネル&鉄橋&トンネル&鉄橋でストレートに樽見を目指すその途中、根尾川に沿った僅かな明かり区間の途中にある高尾駅。この「集落の位置と合わない高い位置にある森の中の小駅」というのは、いかにも「昭和の鉄建公団線の設計だなあ」ともいうべきバリアフリーのなさという感じがします。この時代の鉄建公団線、例えて言うならA市とB市をなるべく真っすぐトンネルと鉄橋で結んで連絡させることに重きを置いていて、その通過途中にある小駅についての利便性は特に考慮されていないのが特徴。なので、駅の名前になっている集落が駅から平気で2kmくらい離れてたり、主要国道から細道をたどった先の山の中にあったり、およそ地元の普段使いに馴染まない場所に設定されていたりするんですよね・・・

高尾駅前にある村の鎮守さま。ここにも立派な桜の古木。小さな神楽殿のようなステージを持つこの神社、高尾神社というらしい。高尾駅なんてーと、新宿とか吉祥寺で飲んだ酔客が電車を乗り過ごして連れて行かれた先、なんて雰囲気もありますが、こんなところまで連れてこられたら大変だ(笑)。淡墨桜対応の増結2連が、新しいお客さんを取りに本巣方面へ戻っていく。桜ダイヤでは、基本増便される列車は本巣~樽見間を快速運転するので、樽見での折り返し時間などもかなりタイト。神海~樽見間の新線区間には交換設備のある駅が1つもないので、こういう事になってしまうのだが。

高尾から水鳥駅に向かっては、根尾谷断層の上を築堤と高架橋で越えて行く。断層の周辺は公園として整備されていて、断層の上には「地震断層観察館」が建っている。植え込まれた桜がちょうど見ごろであった。「根尾谷断層」と言えば、明治24年(1891年)の濃尾地震によって生まれた日本最大の地震断層。地学の分野では世界レベルで有名な断層なので、教科書などにも載ってますから興味ない人でもその名前くらいは見たことがあるでしょう。濃尾地震の規模は、M8.0という内陸の直下型地震の規模では未曽有のもので、その被害の状況は岐阜県のホームページに詳しいが、死者が7,000人以上、西濃・中濃・尾西地域を中心に岐阜市や大垣町、笠松町その他での家屋の倒壊や火災による都市機能喪失。そして東海道線の長良川と揖斐川の橋梁が破壊されるなど、黎明期の鉄道路線にも壊滅的な被害をもたらしました。正月の能登地震では珠洲市で2m規模の断層が地上に露出したそうだけど、この濃尾地震によって根尾谷の地表に出現した断層崖の高さは、この地震断層観察館がある水鳥断層でなんと高低差最大6m。能登地震のM7.6は沿岸部に沿った海中の断層帯のズレなので、地震の構成自体の違いはあるものの、M8.0の破壊力というモノを発災130年の後にも伝え続けています。最近・・・というか、1995年の阪神大震災以降の日本は長期的な地震の活動期に入っていて、確実に太平洋プレートないしはフィリピン海プレートから押し込まれた力の大きな「ひずみ」がしわ寄せとなって様々な場所で大きな内陸地震を引き起こしている。太平洋プレートからの押し込みは2011年の東日本大震災で一定の開放があったのだと思うけど、南海トラフもいつ起こってもおかしくありませんからねえ。先日も高知・南予でM6規模の大きな地震が発生したばかりですが。

対岸の国道は、根尾の淡墨桜を見に行く車で大渋滞。淡墨桜って、結構な山奥にあると勝手に思っていたのだが、樽見駅から歩いて15分くらいなんだってね。今回は渋滞に巻き込まれるのが嫌だったんで行かなかったけど、駅から15分くらいなら十分徒歩圏内だと思うのは都会の感覚だろうか。逆に地方に行くと完全なる車社会なので、5分で歩けるところもクルマで行ってしまうとこはあるようだけど。お出かけは、早くて確実な樽見鉄道をご利用くださいというところ。桜のトンネルを潜って樽見を目指すモレラ号、今日は年イチの稼ぎ時。花見を楽しめるのも、平穏な日常があってこそ。地震のみならず、豪雨や水害によって常にどこかで災害が発生している日本の国だからこそ、常在防災の必要性を痛感しますね。

築堤を往く列車に、花見の人影が揺れて。

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日当、桜の仁義。

2024年04月22日 17時00分00秒 | 樽見鉄道

(日の当たる駅@日当駅)

国鉄時代の樽見線は、美濃神海より先にも延伸計画があり、昭和40年代中期から実際に新線区間の工事も開始されていました。しかしながら、大量の赤字ローカル線を抱え過剰債務に陥っていた国鉄の再建計画の余波を受け、昭和50年代になってその工事が凍結。大量の未成区間を残したまま、特定地方交通線入りしてしまいました。その後、昭和59年の第三セクターへの移管を経て工事が再開され、終点の樽見までの10kmあまりが開通したのが1989年(平成元年)のこと。おりしも昭和の末期から平成にかけて、「ふるさと創生」なんて言葉が日本列島を駆け抜けた時代でもあります。本当であれば、特定地方交通線の延伸計画区間ってのはそのまま工事凍結→事業中止となる訳なんですけども、確か地元が路線を引き受けて運営する意思を示せば無償で工事が再開されるというルールがあったんですよね。しかも、三セク転換時に延伸区間のキロ単位で距離に応じて転換交付金の割増のお土産まで付けてくれたんじゃなかったかな。この手のお土産で、野岩線とか秋田内陸縦貫線みたいなものが全線開通に漕ぎ付けられ、地方自治体が運営するふるさとの鉄道としての「三セク鉄道ブーム」みたいなものがあったと記憶してるのだけど。

新線開業区間は、鉄建公団線らしく根尾川の刻む深い谷を何回も鉄橋で渡り、山があればトンネルを真っ直ぐに掘って、地形に沿うことはせず真っ直ぐに終点の樽見を目指す。その途中にある日当の駅。「日が当たる」と書いて「ひなた」というのは、イメージに当てはめた瑞祥地名のような取って付けた名前ではなく、駅があるのが根尾村の「日当」という場所。ちょうど山間を屈曲して流れる根尾川の谷あいの南斜面に開けた場所にあって、文字通りの「ひなた」にある集落だったのでしょう。駅の入口にあたる道の斜面に大きな桜が植樹されていて、陽の光を受けて大きく咲き誇っています。咲きぶりだけで言えば、谷汲口よりも日当の方が良かったかな。谷汲口で見送った原色ハイモが、樽見から戻って来ました。

日当の駅で列車を待つ、麦わら帽子の女性が一人。当然のことながら利用者ではなくて、どうもモデルさんを雇ってカメラマンがポートレート写真を撮影しているようだ。基本的に列車を含めた駅の風景を撮ろうと他のカメラマンも構図を作っている中で、意図していないものが入り込む「わざとらしさ」みたいなものはこちらの本意ではないのだが、そういう撮影をこの場所で始められてしまった以上は仕方ない。どいてくださいというのも無粋なので、そのまま構図の中に取り込んでみました。どうもこうなってしまうとイメージ写真っぽいね。ただまあ、私を含め大勢の「テツ」側のカメラの連中からは、意図した構図の中に物凄く目立って入り込むモデルさんの姿に「何なんだアイツは」みたいな声が上がっていたのも事実。

イメージ写真っぽくなるなー。自然さが全くない(笑)。最近は「個撮」なんて言って、SNSで探してお金を払えば簡単に被写体にモデルを使用した撮影を頼める時代ではありますが、そういうのだったら、自分とモデルと一対一の場所でやって欲しいってのはあるよね。ちなみに、列車の接近時刻が近付いているのにモデルさんをホームに腰掛けさせてみたり、あんまりそこらへんには理解がないお二人さんだった。シチュエーションは最高だったが・・・まあ、こういう時期に撮影しているといろいろある。我々も決して日々褒められた行為をしているとは思わないけれど。

モデルさんでも何でもいいけど、これが列車に乗る乗客であれば、テツ側も全く文句は言わないのだが、ジャンルは違えど同業者なのでね。
ここら辺の折り合わせ方というか、仁義ってものはどういう風に切ったらよいのかな。やはりカメラ趣味の慣習で、先入者優先か?

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花弁舞い散る、記憶舞い戻る。

2024年04月20日 13時00分00秒 | 樽見鉄道

(桜の駅、賑わい@樽見鉄道・谷汲口駅)

名鉄谷汲線の廃線跡に、在りし日の憧憬を追う桜旅。少し廃線跡から離れ、根尾川を渡って樽見鉄道の谷汲口駅へ。岐阜県の西域を流れる根尾川の流域は、「根尾の淡墨(うすずみ)桜」で名高い桜の里。この時期は「桜ダイヤ」として日中の増便増車がかけられ、年で一番のお祭りムードになります。そして、花の便りに沸く樽見鉄道沿線でも随一の「花の駅」がこの谷汲口駅。根尾谷に春を告げる淡墨桜はエドヒガンの大きな一本桜ですが、この駅はソメイヨシノの系統。この時期、駅の周辺に植えられた桜が一斉に咲き誇り、普段は人影少ない簡素な造りのローカル線の駅に、多くの観光客が訪れます。

花曇りなのが少し残念ながら、時を今かと待ちわびたように、ときめく春を謳歌する谷汲口の桜。駅を望む北側の踏切からの定番構図。現在は第三セクターとして運営されている樽見鉄道ですが、元々は国鉄の樽見線として1956年(昭和31年)にこの谷汲口駅まで、二年後の1958年に美濃神海までが開業しました。この谷汲口の駅は、谷汲「口」というだけあって、旧谷汲村の中心からは3kmほど東に外れています。沿線住民の足・・・というよりは、国鉄の樽見線は本巣にある住友セメントの岐阜工場からのセメント輸送が主力の路線だったのですよね。どっちかと言えば、根尾川流域の住民は昔っから走っていて駅数も本数も多い名鉄谷汲線を利用していたらしいのですけど。

国鉄時代の樽見線は、昭和30年代に美濃神海(現:神海)まで開通しましたが、もともとさほど人口居住地を意識したルート取りをしていないこと、そして沿線住民は国鉄で大垣へ出るようなことはせず、名鉄電車で直接岐阜へ向かってしまうという流動の合わなさもあり、国鉄時代末期には特定地方交通線としての整理対象になりました。しかしながら、年間50万トンを超える大口のセメント輸送の収益は無視できませんで、三セク鉄道としての存続が決定。荷主の住友セメントと貨物専業の西濃鉄道が7割を保有する大株主となり、その他を地元の自治体が応分に持ち合うという珍しい形態で1984年(昭和59年)に「樽見鉄道」として再スタートします。新造されたレールバスに加え、国鉄からセメント輸送用のディーゼル機関車(DE10)と、多客対応用の旧型客車の払い下げを受け、朝の通勤時間帯や淡墨桜の開花時期などの繁忙期は、ディーゼル機関車による旧型客車の運転なんかが行われていました。そんな樽見鉄道の客レで使われていたオハフ33(樽見鉄道ではホハフ503)が、駅横の広場に保存されています。

桜の谷汲口駅に、大垣行きの単行NDCが到着。北側の踏切から望遠レンズでガッツリと定番構図をシュート。土曜日の朝、駅に群がるのは専ら花見客と我々のような鉄道マニアばかりで、実際の利用者は僅かでありました。名鉄谷汲線が廃止されて、旧谷汲村の中心市街地や谷汲山華厳寺への最寄り駅はここ谷汲口になってしまいましたが、現在は谷汲の街へ向かう揖斐川町のコミュバスは平日朝の1本のみが小学生の登校用に残されているだけ。とても公共交通として機能しているとは言えない状況で、谷汲に向かうには、養老鉄道の揖斐駅からのバスに頼るしかないのが現状です(それでも本数は相当少ない)。谷汲の町の人々は、実質クルマで送迎されない限り、通常ではこの駅を活用するのは難しい現状にありますが、今回のように桜のシーズンだけは、谷汲山行きのコミュバスが観桜対応で運転されているようでした。

桜の谷汲口を出る樽見行きのNDC。谷汲口の駅周辺は、普段は静かな里山風景・・・という感じの西濃の山村。駅の裏手の遠くに見える山はベンチカットされていますが、この辺りは石灰質の山が多く、揖斐川町と大野町にまたがる雁又山の東側は住友大阪セメントの岐阜工場で使われる石灰石を採掘している鉱山となっています。岐阜鉱山で採掘された石灰石は、根尾川の上をベルトコンベアーで渡り、工場に運び込まれて各種製品に加工されているそうです。住友大阪セメントの本巣駅からのセメントの鉄道での年間出荷量はピーク時には年間60万トンにも及び、発足後の樽見鉄道の収益の80%を占めるに至りましたが、鉄道貨物輸送の縮減の波に押される形で住友大阪セメントは2006年(平成18年)3月に鉄道輸送から撤退。旅客輸送専業となった樽見鉄道は、収益の大きな柱を失い苦境に陥ることとなります。現在は沿線の自治体の支援を得ながら旅客確保に努めてはいますが、少子高齢化と過疎化による将来的な見通しの悪さは、全国どこでも同じこと。

それだけに、この時期の淡墨桜を始めとする沿線の観桜輸送は、樽見鉄道の一番の稼ぎ時。大垣で折り返してきた樽見行きが、花の谷汲口を出ていく。車内には、多くの乗客が詰め込まれているのが分かります。樽見鉄道発足当時からのオリジナルカラーを纏ったハイモ330。樽見鉄道、どの車両も結構ラッピングが派手なのでなかなか撮り難しいのだけど、やっぱ樽見と言えばこの赤と水色のカラーリングですわなあ。余談ですが、子供の頃ちょこっとだけ鉄道模型(Nゲージ)をいじったことがあるのだけど、その時に買ってもらった模型がなぜか樽見鉄道のハイモ180だったのを思い出す。なぜ縁もゆかりもない樽見鉄道の車両だったのかはよく分からんのだが。その時の手持ちのNゲージは、スターターセットのしょっぱい円形のレイアウトと、ハイモ180とDD16と旧型客車と貨車が何両か・・・というどうしようもなく地味なラインナップだったのだが、今思えばそれってまごうかたなき発足当時の樽見鉄道だったのだな・・・と思ったり(笑)。今ならタキ1900を大人買いしてヤードに並べ、住友大阪セメント本巣工場からの出荷風景でも再現してやるのだが。

趣味の世界というもの、特に鉄道趣味は「子供の頃の原体験」みたいなものがその後の趣味嗜好に大きく影響を及ぼすものと思っておるのだけれど、今回私が樽見鉄道を訪れたのも、そんな子供の頃の原体験が頭の隅のどこかに埋もれていたからなのかもしれない。三つ子の魂百まで、雀百まで踊りを忘れず、じゃないけれどもね。そして、特に趣味になると余計に懐古的で未練がましく、いつも昔を懐かしみながら今を生きているような感覚がある。今を昔の思い出に透過させて谷汲口。今年もきれいに桜が舞い散る。クリスマスプレゼントで買ってもらった初めての鉄道模型、あの頃の思い出の中に、桜は咲いていただろうか。

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憧憬の 春に桜が 咲き乱れ。

2024年04月17日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(来ない列車を待つ桜@旧名鉄谷汲線・更地駅跡)

旧名鉄600V線区を辿る旅は、黒野から北へ。根尾川に沿って、谷汲へ向かう参詣鉄道の廃線跡を辿ります。根尾川沿いに開けた平野がやや狭まり、視界に山が近付きつつあるあたり。県道を少し折れた集落の路地裏に、ひっそりと一本のホームがありました。これが旧名鉄谷汲線・更地(さらぢ)駅跡。ここに駅があったことを示すかのように、ホームの傍らに立つ一本桜。谷汲線が現役だった頃は、春になるとこの一本桜とオールドタイマーの赤い電車の組み合わせを求めて、多くの鉄道ファンがこの駅を訪れたそうです。電車が来なくなってはや四半世紀弱、今年も春を迎え、今年も桜が咲き、そして駅のホームが静かに来ない電車を待っていました。

名鉄谷汲線の更地駅。何年か前、この駅で撮られた写真の数々に触れる機会があり、その雰囲気の素晴らしさが印象に残っていた駅です。それにしても、もう廃線になってから20年以上の時が流れているというのに、こうもはっきりと駅の遺構がそのままになっていることに驚く。今でも目を閉じれば、一両の赤い電車が山裾を回って走って来そうな、そんな雰囲気すらある。廃線跡は、レールこそ剥がされているものの、さりとて何かに転用される素振りもなく。路盤は草に覆われつつもその下にバラストを残し、そしてホームは白線を鮮やかに残したまま、大きな躯体物としてそこにあり続けていた。道路と路盤の境目の部分にはフェンスが立てられていて、一応公有地と私有地の境目くらいの区切りはついているのだが、放置?というならもう少し朽ち果ててる気もするし、少なくとも草刈り程度の最低限の管理はまだなされているのだろう。廃線跡によくある、駅があったことを示すような案内看板なども特にないのだが、見た目がまごうかたなき「駅」であったことを示しており、保存状態をして天然かつ絶妙、とも言える状態である。

レールが剝がされた路盤に彩りを添える菜の花。更地駅のホームの少し谷汲寄りには、おそらくキロポストだったと思われるコンクリートの標識がそのまま残されている。営業当時、黒野起点で更地駅が3.9kmの位置にあったことが記されているので、ペンキが剥げるまでは白地に黒い文字で「4」の表示がなされていたものと思われる。かつての更地駅は、ホームの上に市民プールの日よけのようなビニールの小さな屋根掛けと、駅を示す駅名票、そして駅の黒野寄りに「更地駅」という名鉄の駅看板があったそうな。「谷汲線 更地駅」で検索すると、あまたの先輩諸氏が撮影されたその当時の写真を見ることが出来ますが・・・やはり春に撮られた写真が多いですね。憧憬、といってもいいでしょう。それだけに、レールが現役の時に来てみたかったなという思いは訪れてなお一層強くなってしまったのは言うまでもない。谷汲線が廃線になったのは2001年(平成13年)のこと。21世紀まで、名古屋の近郊で夢のようなローカル私鉄の風景が楽しめた訳で・・・笠松競馬までは来てたけど、岐阜まで出て谷汲まで行けよ!とその頃の自分に伝えてあげたい気分だ。

誰も訪れることのない春の朝。何となく立ち去りがたく、別れがたく、いじましく駅の周りをグルグルと回ってしまう。当時の写真を改めて見返すと、桜の木がずいぶん大きくなったことが分かる。おそらく、現役当時は架線や車両に干渉しないよう、伸びた枝は適時剪定されて揃えられていたのだろう。正式に廃線となった後は、特に遮るものもない分、桜の木は思う存分に枝を伸ばすことが出来るようになった。桜の気持ちとしては、電車が来なくなったことがかえって良かったのかもしれない・・・けれど、この桜には、やっぱり赤い電車が必要だよね。そう思いませんか。


赤い電車を待ち続け、四半世紀の時が過ぎ。
桜咲く春、霞の朝も、まだかまだかと、待っている。

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