青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

ああ追憶の600V。

2024年04月15日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(ああ、追憶の名鉄600V@黒野レールパーク)

北陸新幹線の敦賀開業前の話をしていたら、既に年度末が過ぎ、桜の時期になってしまった。今年の桜は例年に比べると咲く直前の天候の悪さで花の進みが遅く、新年度に入ってからようやく咲き始めるという体たらくであった。まあ自然の摂理に「体たらく」も何もないもんだが、この時期は桜の開花に合わせて撮影行動を取るのがカメラ趣味のあるある。ウェザーニュースの予報を眺めながら、「今年は3月22日過ぎに開花からの3月27日~28日満開」と読み、この年度末のクソ忙しい時に後ろ指を指されつつ有給の申請まで出したのに花の気配が全くなく・・・(その後有給は「忙しくって休めないっすよね!」みたいな感じでカジュアルに取り下げてしまった)。改めて仕切り直しの新年度。どこへ行くかは天気と花の咲き具合、狙いと天気を定めて4月6日(土)の丑三つ時に家を出て、新東名を西に西に。春霞の夜明けを迎えたのは岐阜県揖斐郡大野町。2005年に全線が廃止された名鉄の600V路線、旧名鉄揖斐線・谷汲線の黒野駅。現在は「黒野レールパーク」としてその遺構が残されています。

今回の春の桜旅のテーマのひとつは、在りし日の岐阜県に名鉄600V区間の遺構を訪ねる・・・というもの。「名鉄600V区間ってなんですのん?」というそこまでテツではないお客さまに簡単にご説明すると、名鉄が岐阜市内中心部に走らせていた路面電車(岐阜市内線)と、岐阜駅前から関・美濃市方面へ向かっていた美濃町線、そして岐阜市内線を北に走り、長良川を渡って忠節から美濃北方~黒野~本揖斐に向かっていた揖斐線、そして東国の名刹・谷汲山華厳寺への参詣路線としてこの黒野から分かれて北へ向かった谷汲線の4路線こと。岐阜市内を中心に、周囲に広がる全長約70kmの路線網が各方面から軌道線の岐阜市内線に乗り入れてくるため、軌道線と郊外線の特徴を持ったステップ付きのクラシカルな名車が西美濃のローカルな風景とアーバンな岐阜市内の光景の中を行き交うという鉄道ファンにはつとに有名な魅力ある路線でした。しかしながら、狭い道路を電車が占有することが市内の交通渋滞の原因と目されたこと。また、市内線の通る道幅の狭さから軌道内の車両通行を警察が許諾したこと。そのせいで鉄道がクルマの渋滞に巻き込まれ定時性が確保されないこと。特に岐阜市内線では道路の真ん中にある安全地帯もない未改良の電停が多く、乗車には車通りの多い場所での道路横断が伴い危険なこと。そしてなにより名鉄本体による投資がなかなか後回しになっていて、大正時代に製造された冷房もない古い電車が走り続けていたこと。岐阜市のクルマ優先の交通政策と、そもそもの岐阜中心部の経済の落ち込み(繊維産業の衰退とか)や、もろもろの理由による乗客離れによる累積赤字はいかんともしがたく、名鉄が撤退を表明。2001年(平成13年)の谷汲線全線、揖斐線・美濃町線の末端区間廃止を端緒に、2005年(平成17年)に600V区間は根こそぎ全廃されてしまいました。

揖斐線と谷汲線が分岐していた黒野駅は、そんな名鉄600V区間の北の要衝。残されたホームから、揖斐・谷汲方面を望む。黒野駅は、岐阜県揖斐郡大野町の中心部にあり、当時は揖斐・谷汲線系統を走る車両を一手に管理する黒野検車区を擁する主幹駅でした。保存されたのは島式の旧2番・3番ホームのみですが、当時はもう1本南側(この写真で言うと左側奥)に片面の1番ホームがあり、ここから揖斐行きの電車が発着していました。廃線を控えた末期は、岐阜駅前~黒野と黒野~本揖斐・谷汲で系統が分断されており、2番線は岐阜からの電車の折り返しに使用され、1番線から黒野~揖斐間の折り返しローカルと、3番線から谷汲線の電車が出発していたそうです。名鉄揖斐線が廃線となって鉄道のなくなった大野町ですが、現在では岐阜駅前から毎時一本の岐阜バス(大野忠節線)が大野町のバスセンターまで運行されており、またJRの穂積駅からもバスが出ていて、公共交通はある程度維持されているようです。

鉄道が廃止され、ホームとかつての駅舎を中心に整備された黒野駅周辺は再整備され、広い構内を活かした公園となっています。駅舎はミュージアムになっているのだけど、朝早過ぎて開いてなかったのは仕方なし。廃止されてからの植樹と思われる桜並木が、春の朝に七分咲き程度の花を咲かせていましたが、吊るされた桃色のぼんぼり、夜になったら灯りがつくのかな・・・それにしても、黒野レールパーク、折角ホームと上屋と上下のレールを残したのだから、ここに保存する車両の1両でもあってもよさそうなものだが。手作り感満載のモ512だけじゃ寂しくないかい。

在りし日の黒野駅とモ512の案内板。現在は長良川鉄道の美濃市駅前にある旧名鉄美濃駅の保存館で静態保存されている車両ですが、平成27年に、揖斐線の全線廃止10周年のイベント企画として1年間だけここで展示されていたことがあったようだ。いまさら揖斐線・谷汲線を走ったツリカケ旧型車両の新しい展示などはなかなか難しいのだろうから、揖斐線の末期を飾った名鉄の770系が福井鉄道での役目を終えたら、ここへ迎え入れて静かに余生を過ごさせてあげればいいのではないか・・・と思う。2月に乗って来たけど、あっちではまだバリバリの現役だから、ちょっとここに来るには時間がかかりそうだけど。そうそう、モ513が岐阜市内の公園から岐阜駅前に移設されて保存されてるけど、こっちに持ってくるという話はなかったんかね。岐阜市の持ち物?っぽいから、大野町に移設というわけにもいかなかったのかな。

谷汲線の発着番線に残されていた行灯式の注意表示。谷汲線は、終点の谷汲までの交換設備は途中の北野畑駅の一つだけでした。この行燈式の表示灯は、そんな谷汲線の運転取り扱いの確認のために使われていたもので、 北野畑での交換があれば左側が光り、黒野~北野畑では「△」、北野畑~谷汲では「□」のスタフ(通票)を設定。北野畑でそれぞれの列車がスタフを交換するという「基本」の閉塞で2列車の運用。北野畑での交換がなければ右側が光り、北野畑を境とする前後2つの閉塞区間を「併合」して黒野~谷汲を1閉塞とみなし、谷汲線には「□」のスタフを持つ1列車しか入れませんよ、ということにしていたのだと思われる。末期はおよそ1時間に1本の閑散スジで、日中は単行のモ750形がひたすらに往復するダイヤだったそうですから、「併合」の□スタフが常用になっていたということかな。

ただ、谷汲山の初詣や例大祭などの多客時は増発を実施して日中も北野畑交換を行っていたようで、 「基本」の「△スタフ」を出して30分ヘッドにダイヤを詰めていたようだ。
黒野に残る行灯に、北辺の600Vへの思いを馳せる。

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車窓の闇に酔いしれて。

2024年04月13日 09時00分00秒 | えちぜん鉄道

(波止の終着駅@三国港駅)

三国芦原線の終着、三国港駅。かつては金津から出ていた国鉄三国線が、京福電車の線路と並んでこの港町まで足を延ばしていました。福井県では、永平寺と並んで・・・というか、一番の観光地になる「東尋坊」の最寄り駅。もっとも、距離的には近くとも、バスは一つ手前お隣の三国駅からの方が本数も多い。便によっては三国港駅前も通るので、アクセスできないことはないのだが。どっちかと言えば、この駅は水産物を中心にした物資の運び出しのために作られた駅という雰囲気が強く、今でも残る錆びた機回し線が「貨物の駅なんだなあ」という雰囲気を醸し出している。木造瓦屋根の渋い駅舎が、いかにも地方私鉄の終着駅らしい。えち鉄の終着駅は、勝山も三国港も、どちらもいい駅舎を持っていますよね。

駅前の道路を隔てると、九頭竜川の大きな河口から日本海に繋がる風景が見える。三国漁港の漁師さんが船のそばでぼんやりと煙草を吸っている。朝ならば、出船する漁師さんやらなんやらでもう少し活気があったんだろうか。三国港に来るのはいつも旅の終盤だから、午後遅くの訪問になってしまって港町らしい朝の風景を見たことがない。周囲にはこの時期旬のカニを売る鮮魚店や土産物や料理屋などが立ち並んでいるが、基本的には朝から昼までの商売なのか、この時間ではほぼ店じまいとなっていて閑散としたものである。休日なんだけどね一応。そうそう、最近はインバウンド需要というのか単なる物価高なのか、カニも随分昔と比べると高額になりましたよね。前日に福井の居酒屋で出してるカニの値段を見ても、ちょっとこのお値段ではいくら旅先でサイフのヒモが緩いってったってキビシイお値段ではないかと思いましたものねえ。そして三国港駅と言えば駅から歩いて2~3分の所にある「三国温泉ゆあぽーと」。旅の締めにひとっ風呂を浴びるにはちょうど良い場所であり、ちょうど良い施設。天然温泉。海辺の湯らしい塩辛く熱めの湯が湧いている。露天風呂はありませんが、大浴場から眺める日本海がいいんだよね。この日は曇っていて夕日は見れなかったけど、晴れてればいいサンセットが見えるはずです。

ゆったりと広い湯船につかり、サウナなんぞにも入って、ほかほかになった湯上りを館内の売店で売っていた缶ビールをグビリ。すっかりほろ酔いのいい気分になって三国港の駅に戻って来ると、帰りの福井行きが待っていた。この時間から三国の宿にでも入るのか、構内踏切を渡って行く観光客の姿の向こうにカニのオブジェ。福井の港町の風景である。最近、旅先での酒量がことのほか増えたような気がするのだが、昔は旅先で昼間っから飲むとかったるくなって行動が億劫になるからあまりしなかったような気がするなあ。最近は、飲めるときは飲んじゃえ、みたいな感覚(笑)。今回は、鉄道旅でしたしね。

三国港から一時間、福井の街に戻った頃には雨が降り出していた。この二月の福井行き、一泊二日の両日とも曇りか雨のよろしくない予報だったのだけど、結局行程に差し障るような雨が降ったのはこの時だけだったですね。雨に濡れる福井駅の展望デッキ、ダイナソーワールドとして恐竜推しな福井県らしい恐竜のオブジェ。このデッキは北陸新幹線の開業CMなんかにも使われていましたね。家族へ向けての土産物なんかを調達しつつ、18:33福井発のサンダーバード35号で金沢へ。福井~金沢は新幹線だと20分ちょっとらしいですね。牛ノ谷峠あたりの曲線区間を除けば、サンダバも結構なかっ飛ばし方をしているんですけど45分くらいかかりますのでねえ。やはり新幹線は別格の速さだなと。

さて、今回の旅のラストランナーは金沢20:20発のはくたか578号東京行き。ちなみに私が使った「北陸応援フリーきっぷ」、行きはかがやき指定が使えるんですけど、帰りに使用出来るのはははくたかの自由席オンリーというレギュレーションのキップだったんですよね。かがやきだとこの後にもう一本東京行きがあるんだけど。どんくらいの混み具合か分からなかったので、一応入線20分前にホームに上がって自由席の乗車位置で待ってたんですが、拍子抜けもいいところのガラガラでした。軽井沢まで各駅停車、通過するのは安中榛名と本庄早稲田と熊谷だけという実質各駅停車ですからね、はくたか。

金沢駅で買ったささやかな打ち上げグッズ。北陸新幹線の敦賀開業から一ヶ月、開業フィーバーとそれに伴う「敦賀乗り換え」問題がクローズアップされておりますが、それは別の方の著に譲る。そして、北陸土産の定番となりつつある「ビーバー」は、白えび味なんかよりあおさ塩味が神的に美味い。これをつまみにすればいくらでも酒が飲めるのではないかという危険なカワキモノである。ガラガラのはくたかの自由席、車窓は夜とトンネルでは、相手となるのはスマホと酒くらいのもの。三列シートをガッツリ占領してチビチビと飲んだくれながら夜の碓氷峠を下ると、東京駅の到着は23時半。またこっからが長いんだよなあ・・・と重いお土産を手に家路につくのでありました。

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便利さと、使いやすさとプラスワン。

2024年04月07日 23時00分00秒 | えちぜん鉄道

(変わる分岐駅@福井口駅)

勝山永平寺線と三国芦原線の分岐駅である福井口の駅。地上時代は、路線別でそれぞれのホームがあり、勝山から三国港方面に向かうには構内踏切を渡って乗り換えなくてはならなかったのを思い出す。現在は三国行きも勝山行きも同じ番線から発着するので、バリアフリーの観点からは便利になった。高架後のホームの構造は島式ホーム1面2線と地上時代に比べて番線は減っているのだが、非常時の折り返し用のためなのか勝山/三国側に切り欠きのホームがある。通常ダイヤでこのホームを使う列車はなく、普段は車庫への出入区線として使われているようです。

三国芦原線は、勝山永平寺線よりもより郊外の住宅地の路線という性格が強い。特に九頭竜川の南側である新田塚駅の辺りまでは、何の変哲もない福井市内の住宅街が続いている。福井鉄道とえちぜん鉄道の相互乗り入れは、九頭竜川を渡って福井市内の一番北にある鷲塚針原の駅までの区間で実施されています。相互乗り入れにより、福井中心部やえち鉄沿線の会社・高校・大学への通勤通学の利便を図り、福井都市圏域の域内流動の活性化への期待を込めた交通政策でしたが、一般的ないわゆる鉄道線車両サイズ感のえちぜん鉄道に対し、低床型車両の福井鉄道をどう乗り入れさせるのか・・・という問題があったんですよね。昔の広島電鉄でも、郊外線の宮島線は、阪急から持ってきた普通の鉄道車両と市内線を走っている路面タイプの車両がごっちゃに走っていて、一つの駅にそれぞれ別のホームを作って停車する位置を変えてたりしていたのだけども。福鉄=えち鉄間の相互乗り入れも、同様に高低のホームを前後別位置に置くことでそのタスクをクリアしておるのですが、ここ新田塚駅だけは島式ホームの外側から二本の低床式ホームが挟み込んでいるという造りが面白い。ようは、鉄道線車両と低床式車両でドアの開閉する方向を反対にして高さ問題をクリアしているのですが、ちょっと考えれば出て来そうなアイデアと思いつつ、意外と「コロンブスの卵」的なデザイン。

えちぜん鉄道が、福井鉄道乗り入れ向けに製造した低床型車両「Ki-bo(キーボ)」。窓位置の高さが、鉄道線のホームの高さになっていて、低床型車両はドア位置と窓位置が鉄道線車両と全然違うのがよく分かります。福鉄の「FUKURAM」やFUKURAMライナーは連接の三連車体ですが、キーボは2連と若干収容能力が落ちる。元々相互乗り入れに関しては低床型車両の新車を順次導入している福井鉄道側に車両運用の優位性があることから、えち鉄側もそこまでKi-boを増備するつもりもないようです。ちなみに、相互乗り入れはえち鉄の鷲塚針原駅から田原町を経由して福鉄のたけふ新駅までの福鉄全線で行われていますが、唯一鷲塚針原~新田塚駅の間にある中角駅だけは低床用ホームが設置されませんでした。利用者が少ないのもありますが、駅自体も九頭竜川の土手にへばりつくようにして建っていて、とても低床型車両用のホームを作るスペースはなさそう。よって、相互乗り入れ車は中角だけ全列車が通過ということになります。

新田塚のお隣の八ツ島駅。ここは高低のホームが直列で前後に設けられたタイプ。相互乗り入れ列車は日中毎時一本、どのくらいの流動があるのかは分かりませんが、福鉄沿線から西福井にある福井大学とか、新田塚のセーレンなんかに行く客には便利なんじゃないかと。逆にえち鉄沿線では、鷲塚針原以南から福井の赤十字病院へ通う人とか、田原町駅での乗り換えを行う必要のないシームレスな移動手段を確保したという意味では、福井の「まちづくり」に一石を投じた意味ある施策だったと言えるかもしれません。ただアレね、福鉄は福井駅前立ち寄り便だと大幅に所要時間が加算してしまうのがネックよね。福井城址大名町で縦列駐車して、全便駅前立ち寄り便から先発の田原町行きに乗り換えられる(ヒゲ線の往復をスキップ)とかダイヤの見直しを図った方がいいのかもしれない。一部の便ではあるみたいですけど。

それにしてもこの「キーボ」のデザイン。工業製品というよりは可愛らしさに振り切っていてなんとも人目を惹く。福井駅前の電停で、折り返し乗車を待っていた子供がそのデザインに「早くあれに乗りたい!」と前のめりに親にせがむ様子などは、見てて微笑ましいものがある。便利であること、使いやすいことにプラスワンの楽しさ。公共交通が末永く市民に支持されるためのなにかを、福井の鉄道たちは教えてくれる気がします。

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趣のある街の駅。

2024年04月03日 22時00分00秒 | えちぜん鉄道

(昔は町の中心駅@松岡駅)

現在はお隣の永平寺町と合併してしまったものの、以前は福井県吉田郡松岡町、五万石の石高を持った越前松岡藩の中心地にある松岡駅。駅の風格やよし、おそらくは越前電気鉄道として開業した当時からの、由緒正しき木造駅舎。永平寺口駅の旧駅舎と同様、車寄せの部分に丸い意匠がデザインされた瀟洒な駅舎である。行きがけの車窓から見て「おっ」と思わせるような雰囲気があった。こういう駅の持つ「街の顔」としての表情の良さ、末長く大事にしてもらいたいもの。

越前松岡藩は、福井藩の藩主であった越前松平氏の一族が治めた城下町でありましたが、その越前松平藩は一枚岩とは言えず・・・度重なるお家騒動の末に、この松岡藩のような小さな藩を小分けに小分けに一族に分け与えるという財産分与のような形で半世紀に亘って迷走を続けましたが、初代松岡藩の当主の三男である松平昌平が福井藩主となり、松岡藩は福井藩に吸収される形で消滅しています。

まだ「松岡町」だった頃の思い出を鏡に映しながら、勝山行きの電車が通り過ぎる。そうそう、松岡町はお隣の上志比村と一緒に永平寺町と合併したんだけど、「永平寺市」とはならず引き続き町制を貫いたんですよね。なんでなんだろう。永平寺からの収入って言ったって、永平寺は宗教法人だろうしなあ。

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比島百景。

2024年04月01日 17時00分00秒 | えちぜん鉄道

(残雪の勝山盆地を行く@比島~発坂間)

前に来た時にも、この辺りの線路際の路地をウロウロと撮り歩いていた記憶がある。その時の比島は夏だったのですが、今回の2月の終わりの訪問だったので、それなりの雪景色を期待していたんですけども、殺風景な冬枯れの風景はサマになっているとは言いがたいものがありますね。とにかく色がない。と言う訳で比島で昼近くまでああでもない、こうでもないとブラつきながらお腹が空くまで比島界隈でシャッターを切る。この日は、結局最後は比島から勝山駅まで歩いてしまった。チンタラ歩いても25分くらいだからどうということはない。普段は「25分も歩く」なんて言われたらウゲェ~ってなってしまうのだけど、とにかく旅先の撮り鉄はよく歩く。いつもの生活でもこのくらい歩けば、体重も今よりだいぶ少なくて済んだだろうになあと思うので、健康と体重のためにも毎日旅に出て「鉄」していればいいのではないだろうか(笑)。

沢水が流れる石造りの小さな橋。比島の耕地に水を届けるのは、九頭竜川に流れ込むこのような小さな沢水だ。集落の周囲の山すそには、金網で出来たイノシシ除けの高い柵が幾重にも張り巡らされていて、里山で農業をすることの苦労が偲ばれる。住んでらっしゃらないのかな、というお宅もちらほらと見え、中山間地の荒廃は推して知るべしだ。ここ勝山市も人口が2万人を切りかけていて、過疎化に拍車がかかっている。それなりに間をおいて訪れる地方の風景は、以前と比べて「廃屋」と「耕作放棄地」と「雑草、灌木の繁茂」がとにかく目立つのだが、時の流れに身を任せるしかないのであろうか。

比島の集落の西側にある「草刈場踏切」。おそらく冬の時期、通常ならば雪に閉ざされているものと思われるが、杉の落ち枝を踏み越えつつも何とか到達が出来た。印象的な森の中を抜けて行くシーン。こんなところを歩いている人間など他にいないのか、車窓から外を眺めていたお客さんが驚いたような顔をしていた。

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