卑下する日本と腹黒いアメリカ・中国 でも中身を知れば怖くない

2024年03月23日 | 歴史を尋ねる

 ジャーナリスト髙山正之氏は産経新聞時代、「しがらみを絶ち本音で世間を書くとどうなるか」と編集長からスペースを貰い書き始めたコラムが「異見自在」。その後週刊新潮で書き始めたのが「変見自在」。氏は、米国は先の戦争のはるか前から、日本を故意に誹謗し、非白人で非キリスト教徒の野蛮人の国と言い募ってきた、米国がなぜ日本をそこまで憎むのか、それを探るためにダワーが言う「興隆する時代の日本」の足跡から初めて、先の戦争の様々な現場を訪ねている。そしてそこで日本人が何を考え、何をしたか、対する彼らはどう対応したか、を追いかけている、と以前のブログで触れた。その時の内容は「真珠湾を見た男 世界は腹黒い」で英自治領ビルマの首相ウ・ソーの悲劇だった。今回氏の著書「変見自在 習近平は日本語で脅す」(新潮文庫版)を久しぶりに手にして、「はじめに」書きに、フムそうだと合点した。

 「明治の日本に来た白人たちはこの小国に住む人々が高貴な白人しか持ち合わせない優雅さと慈悲と寛容とをどんなに身分が低いものでも持っていることに驚いた。さらに彼らがさりげなく作る工芸品は『我々が美と思い込んできたごてごてと宝石をちりばめた装飾品を一瞬にして色褪せさせた」(フィラデルフィア博でのニューヨーク・タイムズ評)ことに驚嘆した。しかし当の日本人はそれを評価しない。お雇い外国人が日本の美と素晴らしい文化を称賛すると答えは決まっていた。「いえ我々には文化はなかった。今、西欧文化という本当の文化に接し文明人として第一歩を印したばかりです」
 日本人はとかく自分たちの業績も文化も極端に低く見る。それはロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦についても同じだ。多くの日本人は東郷平八郎の咄嗟のT字戦法で奇跡的な勝利をつかんだと思っている。しかしギリシャ時代以来、海戦が国家の消長を決めて来た白人国家群は肝を潰した。彼らの観念では海戦は舳先を相手艦の横っ腹に突っ込ませるのが唯一無二の戦法で、だから舳先から喫水線下にかけてアントニオ猪木の下顎のように突き出していた。それを衝角といった。」

《装甲艦の普及により、再び艦載砲の貫通力や命中精度がこれを撃ち抜くのに不足とされ、かつ戦列艦の時代よりも艦載砲の数が減少しているため、衝角戦が再び脚光を浴びた。リッサ海戦(1866年)やイキケ海戦(1879年)がこの例である。もうひとつの理由として、同時期において蒸気機関の実用がなされ、艦船においても蒸気推進が主流となったからである。当然の帰結として衝角戦の実用性、および効果の度合いも高まったと考えられた。さらに、日清戦争の黄海海戦(1894年)時においては、清国北洋水師の「定遠」などが衝角を備え、日本海軍連合艦隊と戦闘を行ったが、軽快艦艇で構成された聯合艦隊は衝角攻撃をかわし、かつ速射砲により多数の砲弾を浴びせる事により、北洋水師艦艇に対し損害を与えている。近代軍艦における衝角は20世紀初頭まで装備された。日露戦争時には両軍の主力艦に装備されていたが、日本海海戦においては、数千メートル離れた距離からの砲撃のみによって戦艦を撃沈できることが明らかになった。その後まもなく衝角は装備されなくなり、ワシントン海軍軍縮会議による旧式主力艦の廃艦で1920年代にほぼ消滅する》 (裏付けとしてウキペディアより引用)

 「わが連合艦隊は一度もロシア艦に接触せず、38隻の大艦隊のうち30隻以上を沈めてしまった。彼らが信じて来た海戦の形を日本があっさり書き換えてしまった。観戦武官の報告を受けた英国は日本の戦い方に倣って大口径の主砲を多く搭載した、そして下顎も出ていないドレッドノート型戦艦をデビューさせた。

 それ以上の衝撃はロシアがこれで制海権をすべて失ってしまった事だった。 ニューヨーク・タイムズは日本海海戦から3日目の紙面で「日本はペンシルバニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量に注文した。日本陸軍は北上し、ウラジオストクを目指すだろう。制海権を失った今、陥落ははっきりしている。皇帝が停戦を躊躇えば日本は交戦国の権利として大西洋、バルト海に出てロシア商船を拿捕、破壊できる。ロシアに降伏以外の選択肢はない」と書いた。そしてその翌日、セオドア・ルーズベルトは日露の和平仲介を宣言した。ポーツマス条約のことだが、その内容は酷かった。日本はロシアから一銭の賠償金も、寸土の領土割譲もなく、ロシアが清朝から25年契約で租借した旅順・大連などの関東州と南満州鉄道の利権だけが与えられた。 セオドアは奸智に長け、人種意識は強かった。同じ白人仲間の国が劣等人種に負けたなど金輪際認めたくなかった。日本への一方的な差別が条約を貫いている。 ところがこれで日本側の説明になると「もはや日本に戦争継続能力はなかった」「セオドアは時の氏神で、それは金子堅太郎とセオドアの友情があっての仲介だった」となる。
 セオドアはこの直後、朝鮮にあった米公館を閉じて「日本が朝鮮を仕切れ」と押し付けて来た。面倒くさい土地は敵対国の負担になるよう押し付けるのは欧米の外交によくある。チャーチルがイラクを取り、面倒くさいレバノン、シリアをフランスに押し付けたのはその好例だ。日本もその後36年間、朝鮮に国費の2割を毎年割いて、感謝どころか、今は百年の恨みを買っている。しかしその朝鮮も日本側では「帝国主義日本が大陸進出の足場に取った」とか、酷いのになると「搾取した」とかいう。世界一遅れた文化も資源もない国から何を搾取したというのか。
 日本の生き方について謙遜して、ときには卑下し、他国から非難されれば、それに根拠があろうがなかろうが頭を下げる。逆に外国からの見方に反発するのは無知なナショナリスト風に言われる。日本人の心根はお雇い外国人から文明を教わっていた時代のまま、停滞しているように見える。
 実際、それは今にも当てはまる。例えばトランプの対支那政策だ。数次にわたる経済制裁を日本のメディアは彼らの神様ニューヨークタイムズに倣って保護貿易の復活と非難する。知財を盗み進出企業に技術ノウハウの提供を要求する異常な支那は「同情すべき被害者」に仕立てる。日本のメディアもまた右に倣い「まずは日中友好」を言う。
 トランプは支那の覇権主義を素直に嫌う。過去の米政権が無関心だった台湾についても支那の金科玉条だった「一つの中国」に一瞥もせずに台湾との外交を事実上復活し、蔡英文も米国の土を踏み、軍事支援も始まった。それだけではない。支那が過去、内政干渉と突っぱねて来たウイグルも問題にし始めた。
 漢民族の世界は昔から万里の長城の内側だった。清朝はその漢民族を奴隷化し、モンゴル、ウイグル、チベットなどの周辺国と連邦を形成していた。辛亥革命でその体制が消えた後、1932年、フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出した。意図は目障りな日本を潰すことにあった。満州を生命線とする日本に「満州は支那領土」「日本は支那の領土を侵犯した」と非難するために生み出した嘘だった。
 世に言うスティムソン・ドクトリンで、実際、日本は国際連盟を脱退し、米国に支援された支那との戦いに疲弊し、ついには真珠湾の罠に嵌っていった。」

《「現実に存在する中国は、1912年の中華民国建国以来、世界史を大きく変えた国民国家化に向けて努力を続けているが、未だに成功していない。なぜなら中国には同じ言語と同じ歴史を共有する国民というものが存在していない。チベット族やウイグル族などは、漢族とはあまりに言語・宗教といった基本的な文化要素が違い過ぎる。清朝は、中国本土だけでなく、満州、モンゴル、チベット、新疆といった地域を300年近い年月、同時に支配してきた。しかし清朝がこれら五つの地域を統一したという事実はない。実態は、清朝の皇帝が、五つの国のそれぞれの君主を兼任していたに過ぎない。それは清朝皇帝が記す公文書に明確に表れている。皇帝は満州人に対して満州族連合会議の議長、モンゴル人に対してはチンギス・ハーン以来の大ハーンとして振る舞い、チベット人に対してはチベット仏教の保護者を名乗る。新疆の人々に対してはジューンガル帝国の後継者として統治権を行使する。そして、中国人に対しては明朝以来の正統の後継者皇帝を名乗った。だから、清朝時代にも、モンゴルやチベットは決して中国の一部ではなかった。実際、中国の統治に関しては、科挙により役人になった者が行政に参加できたが、それ以外の帝国全体の統治は満州人の仕事であり、中国人は参加できなかった。さらに、清朝時代には、税制も五つの国では全く違うもので、モンゴルでは税金を徴収せず、モンゴルの王侯には、中国で集めた金を分け与えていた。そのため現在も中国政府が必死になって実現させようとしている近代中国の基礎となるものは、1912年の中華民国の建国以前にはまったく存在していない。せいぜい、明朝が支配した領土ぐらいが本来の中国であり、満州、モンゴル、チベットなどを領有する権利はない」(岡田英弘著「この厄介な国、中国」)》

《「日米戦争の序章は満州事変であったことはほぼ定説で、少なくともアメリカではそう理解されている。一つにはこの事変が究極的には対米戦争を含んだ第二次大戦に発展してしまった事によるが、今一つは事変当時のアメリカの認定、その時アメリカ政府(フーバー政権)の国務長官だったスチムソンの考え方が大きな役割を果している。その考え方は、1936年に彼が著した『極東の危機』に詳しく残されている。・・・満州事変に対してのスティムソンの基本認識は、中国への過度の思い入れと、国際平和維持体制の重視にある。このことが彼の対応を、現実の軽視、当時残存していた各国の錯綜した利害関係の無理解に繋げた。・・・リットン報告書もその存在を認めていた、①満州における日支鉄道問題、②1915年の日支条約及び交換公文とそれに関する問題、③満州における兆戦人問題、④万宝山事件と朝鮮における排日暴動の問題、⑤中村大尉事件。「この支那官民の永年に亘る組織的な悔日排日の暴虐に対して日本政府は、日本国民は、常に忍び難きを忍んで只管に支那官民の覚醒を期待してきた。しかし支那官民の無法な暴虐が累積していく時、いつかは終に日本国民の忍辱が激怒に変わるべき日の来るのは必然であった」と、昭和7年金港書籍発行「満州事変外交史」は記している。日本の満州を含む中国での活動が、基本的に種々の条約その他に基づいていた。当時の中国は革命外交の方針の下にそれらを否定しようとしていたが、無効になった訳でもなく、従って、それら条約の下での日本の要求にも正当性があった。そのような日本の立場を軽視したアメリカ国務省の判断は、非見識の誹りを受けてもやむを得ない。実際、その満州事変に至るまでに、日本に対抗するための手段としてボイコットが頻繁に行われた。スティムソンは、ボイコットを外的侵略に対する平和的防衛の武器であると考えている。この事実の認識の欠如、あるいは事実の無視による事件全体の判断は決して公正なものとは言えない。・・・
 1932年2月に満州国の独立が発表され、3月1日建国宣言が公布された。スティムソンはこれを日本によって支配されているまったくの傀儡国家と規定した。かれの1月の「不承認宣言」はこのことを念頭に置いたものだった。内容は、パリ不戦条約(1928)に違反するような手段によりもたらされたいかなる事態、条約、協定をも承認しない旨を宣言する、いわゆるスティムソン主義Stimson doctrineである。スティムソンが不承認宣言をイギリスなどと共同で行おうとしたとき、イギリスはそれに同調しなかった。ロンドンのタイムズ紙は「中国の行政的保全を保護するということは、それが理念ではなく実践的になるまでは、イギリスの外務省の仕事ではない。行政的保全を保護するという仕事は1922年には存在しなかったし、今日も存在しない。九カ国条約が署名されて以来、中国の広大な領土の大きさそして多様な地域の上に真の行政的権威が存在したことはなかった。今日中国の命令書が雲南や他の重要な地域に届いていない。満州に対する主権は論争になっていないけれど、南京が中国の首都になって以来それが満州に真の行政を施行したという証拠は無い」と書いた。・・・
 アメリカの中国における利益は、究極的には日本に代わってそこに覇権を打ち立てることであった。門戸開放政策も九カ国条約も、そのためのものである。・・・しかしながらスティムソンが一貫して主導したアメリカの政策は、やがて世界の世論を形成し、後に東京裁判まで連なった。そしてそれがあたかも正義の声であるかのごとく受け止められている。」(柴田徳文著紀要論文「スティムソンの満州事変観の検討」)
 フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出したと髙山氏いう裏付け文書を探したが、この論文の中には見当たらなかった。しかし、スティムソンの論旨からは、もはや、それを前提とした内容となっている。当時の中華民国の革命外交のなかで、中国自らが主張し、それを追認したのがスティムソンドクトリンなのだろう。》

《革命外交について、髙山正之氏は別にコラムで次のように綴る。孫文は武昌蜂起を米国の新聞で知るとすぐには支那に帰らなかった。逆方向のニューヨークに飛び、そしてロンドンに回り、新しい支那の統帥者と称して資金集めに駆け回った。彼は過去10回蜂起して10回失敗したが、その都度、出資者を探し出しては焼け太っていった。多分、今度も失敗だろうが、カネが集まればそれでいいと孫文は思った。そういう男だと彼をよく知る米人ジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・リーがその著作で書いている。孫文が帰国すると案に相違して革命は成功していた。黎元洪は偉そうにし、袁世凱も出てきた。詐欺師孫文の出る幕はなかった。ただ一つ、支那で辛亥造反と呼んだ武昌蜂起を彼は日本風に「辛亥革命」と改めた。これだけは支那人も倣った。以後、政治的な卓袱台(ちゃぶだい)返しを「革命」と称した。
 支那人がこの言葉を不平等条約改正で最初の使った。日本は各国と交渉を重ねてなんとか条約改正を果したが、支那は革命外交と称して全ての不平等条約を何の交渉もなしで一方的に無効とした。日本の満州権益も同じで支那は過去の経緯を消して卓袱台を返した。以後、支那は国際ルールを無視した「革命」外交一本で今までやってきた。南沙は国際法廷でお前に権益はないと判決しても革命的に無視した。50年間は一国二制度の香港も勝手に一制度に切り替え中だ。そして我が尖閣も革命的歴史観で支那の核心的領土にされつつある。のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある。教え諭すより拳骨で叩きのめすときが来たように思うが。と》

「台湾もチベットもウイグルも支那のものという「一つの中国」はクリントン夫妻、オバマらが支那から金を貰って支えてきた。それが今崩れつつある。世の中には新聞が伝えないだけで、結構心躍るいい話がある。そして何より、日本人がどんなに優れた資質を持っているか。卑下と腹黒い世界の中でいかに真摯に生きて来たか」と、2018年初秋に髙山正之氏は記している。

 日本人が謙虚で優れた資質を持っていることを、変えることは必要ない。しかしこと海外諸国と対峙する時は、髙山正之氏が言うように、自国の主張をキチンと伝えることは必須である。政府・外交官は無論のこと、日本のメディアも同様である。特にNHKの海外向け報道について、日本の立場を十全に伝えることは、視聴料を税金の如く徴収している組織として当然である。しかし、報道の自由という言葉に隠れて、中国や韓国に配慮した報道が目に余る。YouTubeなどの海外から日本を見る目が、いかに誤解に基ずく誤認が多いか、うんざりするが、これは単に政府間の問題だけでなく、日本のマスメディアの責任も大きい。海外報道を利用して、政府を批判する手法は、まさしく隣邦諸国に材料を提供する、役割を果すことになる。
 先ごろ、垂前駐中国大使が「中国が最も恐れる男」として日本のマスメディアに盛んに報道で取り上げられたが、氏は日本の立場を正確に伝えることに腐心された方である。メディアは自分たちで言えないから、垂秀夫氏に言って貰っている構図である。垂氏がここまで持ち上げられることが、ある意味、日本の異常さの表われである。「のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある」という髙山正之氏の言葉には重みがある。

 中国がGDPで日本を抜いて久方である。一時はアメリカを抜くとか抜かないとか、議論があった。しかし、トランプが牙を抜いたら、中国の経済はだんだんおかしくなって、いまやチャイニーズ・ランとか言って、海外企業がどんどん抜け出している。中国はやっと事態の重大さを理解しつつあるが、この流れを食い止めることは難しいだろう、中華民国の偉大な復興を掲げる習近平がトップにいる限り。
 中国の高度成長を助けてあげたのは日本だったことは前に触れたが、そもそもなぜ中国が世界の工場と言われるようになったかは、誰も語る人はいない。私は密かに日米貿易摩擦、貿易戦争に端を発したと理解している。当時1975~1988、アメリカは貿易赤字に苦しんでいた。日米貿易は圧倒的に日本の貿易黒字だった。日米間の貿易摩擦は1950年代まで遡る。まずは綿製品等の労働集約的品目で日本は外貨を稼いだ。結局日本の輸出自主規制を受け入れ、沖縄返還を実現、「糸で縄を買った」などの憶測を呼んだ。同時期、日本の鉄鋼製品も摩擦の原因になった。その後カラーテレビでも摩擦が発生、対米輸出台数が制限された。続いて第一次石油危機によるガソリン価格高騰で小型輸入車がアメリカ市場で増加、ビックスリーに対して大きな打撃となった。日本の自動車メーカーに対する米国からの現地生産要請を日本側が渋っているうちに、状況は悪化。UAWが日本車についてダンピング提訴、結局日本側の輸出自主規制措置が講じられた。その後日本メーカーの現地生産が開始され、自主規制は撤廃された。また米国の半導体産業は当初特殊な形態(マーチャントとインテグレーティッド)でスタートし、日本は総合電機メーカーでスタート、資金力や人材面で優位に立ち、世界半導体販売ランキングで上位を日本メーカーが占め、米国は安全保障上の観点から日米半導体協定が締結、その後日本メーカーに衰退が始まった。さらに対米貿易黒字の縮小のため日米構造協議が行われて日本側の内需拡大を求められ、そのツケが1990年代の日本のバブル崩壊につながった。その間米国側の言い分は日本の低賃金、ダンピングの疑いを常に持っており、当初は生産をメキシコや東南アジアに移転する方策を取っていた。その先に天安門事件で制裁を受けていた中国に、その制裁が緩和されると改革開放を唱える鄧小平中国に生産拠点を移転する動きが急展開した。日本も低賃金の中国へ、円高の為替環境もあって、日本企業が中国に進出、日本のデフレ化に貢献した。

 中国の生産方式は低賃金に加え、日米欧の先端技術を導入して、徹底的な大量生産方式を採用、価格競争で世界シェアを獲得する方式で急成長を遂げた。また日米貿易摩擦を研究して、元の為替はドルリンク。為替操作による競争力低下を未然に防いだ。中国エコノミスト柯隆氏は今年の日本での記者会見で、中国の土地制度は日本の定期借地権を参考に考案されたと述べていた。1990年代末に考案され、瞬く間に中国のGDPの3割を占めるまでに拡大した。ただし、中国のGDP信仰は、最近の情報によると、中国経済の仕組みを崩壊させる要因になっているようだ。改革開放で取り入れた経済の仕組みは、資本の論理(単純化すれば資金繰り)で動かざるを得ず、現在流れてくる情報ではそう言えそうだ。共産主義のロジックと相容れない。ここが中国の最大のウイークポイントである。片方で、海外企業のチャイニーズ・ラン。さらにトランプが追い打ちをかけると、中国の就業者数は悪化を辿る。経済情勢の悪化が社会不安につながる。この情勢を習近平は何処まで正確に掌握できているか、よその国ながら心配である。

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日本人をカモにした中国の対日外交と反日に系譜

2024年03月10日 | 歴史を尋ねる

 石平氏は中国の民主化運動に傾倒。北京大学卒業後、88年に来日、神戸大学院博士課程を卒業後、民間研究機関勤務後、執筆活動に入り、日本国籍を取得。山本七平賞も受賞。現在はユーチューブで活躍、その論説は明快。タイトルは氏の著書から借用した。このブログでもすでに、彼の主張を取り上げた。石平氏の鬱屈した主張をまず聞こう。二度目の引用となるかもしれないが、詫びずれずに、「1989年、留学のために日本の大学院に入り、中国近代史が日本でどのように書かれているか、興味を持った私は、日本の権威ある大手出版社から刊行された関連書籍を大学図書館から借りて色々と読んでみた。読後の感想はひとこと、『なんと気持ち悪い!』、そして唖然としてしまった。その理由は簡単だ。日本の一流知識人たちが書いた中国近代史のほとんどは、まさに中国共産党の『革命史観』に沿って書かれた、中国共産党への賛美そのものだったからである」「中国共産党シンパの日本の知識人が書いた、『中共史観の中国近代史』が広く読まれた結果として、今なお日本では、中国共産党に親近感や甘い幻想を持つ財界人や政治家が数多くいるように思う。私は、中国共産党を賛美する偽の『中国近代史』が日本国内で氾濫していることを、これ以上看過できない。嘘と偽りで成り立つ『中国共産党革命史観』を、この国から一掃しなければならない。そのために、自らの手で中国共産党史をまとめて、世に問うべきではないかと思ったのだ」と。 石平氏の主張に対して、正面から論争を持ち掛けた日本の中国近代史家は聞いていない、ただやり過ごしているのだろう。

 石平著「中国共産党暗黒の百年史」の中国近代史は次のように始まる。「中国共産党という政党が創建されたのは1921年7月1日のこと、この日こそ、中国史上と世界史に悪名を残すサタン誕生の日である。この中共という名のサタンを中国の地で生み落としたのはロシア人のソ連共産党、厳密にいえば、ソ連共産党が創設したコミンテルンである。コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務であった。こうして1921年、コミンテルン極東書記局の主導により、コミンテルンからの100%の資金援助で、陳独秀という共産主義に傾倒する知識人を中心に、上海に集まった13人のメンバーが、中国共産党を結党した。その時、現場にいて彼らの血統を指導・監督したのはコミンテルンから派遣された、ニコルスキーとマーリンという二人のロシア人である。中共は創立直後から、コミンテルンの方針に従い、煽動とテロによる暴力革命の実現を中国各地で試みたが、失敗の連続に終わり、勢力拡大も思惑通りいかなかった。当時の中国では、1911年の辛亥革命で樹立された中華民国が軍閥勢力を打倒すべく奔走していた。従って中国国内の革命勢力は、孫文と彼の作った国民党を中心に結集していたため、どこの馬の骨か分からない暴力集団の中国共産党は、本物の革命派から見向きをされなかった。
 中国共産党の不人気と無能に痺れを切らしたコミンテルンはやがて方針を転換し、孫文率いる国民党勢力を取り込むため、支援することにした。その目的は、民主主義共和国の建設を目指す孫文の革命を、ソ連流の共産主義革命に変質させ、中国革命そのものを乗っ取る事である」と。「その乗っ取り工作の先兵となるのが中国共産党であった。コミンテルンは国民党への財政支援や武器提供の見返りとして、孫文に一つの要求を突き付けた。中国共産党の幹部たちが共産党員のまま国民党に入り、国民党幹部として革命に参画することを受け入れよ、という要求だった。近代的な政党政治の原則からすれば、そんな要求は全くナンセンスで、あり得ない話だが、孫文はコミンテルンの支援をどうしても欲しかったため、このとんでもない条件を飲んでしまった。今から見れば、孫文が下したこの姑息な決断が、中国と世界にとっての大きな災いの始まりであり、国民党にとっては破壊への序曲となった。
 中国史上第一次国共合作と呼ばれるこの出来事は、1924年に起きたが、その内実は、コミンテルンに使嗾された中国共産党による、国民党への浸透工作、中国革命の乗っ取り工作である」と。

 中国の歴史書を綴る場合、紀伝体と編年体と分かれたが、石平氏の記述方式は中国共産党を一個の人間に例えた紀伝体記述方式である。歴史を深く理解する為にはこの方式の方がベターである。編年体方式は歴史の表面に表れた事象の羅列に留まることが多く、歴史の裏面を知るには難しい。更に、ここでは中国共産党の歴史を知るのではなく、日本との関りについて、タイトルの内実に迫りたいと思う。石平氏は次のように記述する。
 中共の思惑にのった「国交正常化」
 「中国共産党政権が成立した1949年から1972年の23年間、共産党統治下の中国は、隣国の日本と、ほぼ無交渉の状態であった。その時代、日本は共産党中国を国家として認めておらず、国庫を結んでいたのは台湾の中華民国の方であった。そして、東西対立の冷戦時代において、日本はアメリカの同盟国として西側陣営に属し、共産主義陣営の中国とは対立関係にあった。共産主義国家・中国と国交断絶していた状態は、日本にとって決して悪くはなく、むしろ幸いだった。日米同盟に守られる形で日本は長期間の平和を享受でき、戦後復興と驚異の高度成長を成し遂げ、世界屈指の経済大国・技術大国となった。そして今振り返って銘記しておくべきは、日本の戦後復興も高度成長も、中国市場とは何の関係もなく、中国と経済的に断絶したまま達成できたことである。
 日本が共産党政権下の中国と初めて正式に関係を持ったのは1972年、中国政府は当時の田中首相を北京に招き、一気に国交正常化にこぎつけた。中共政権は一体なぜ、日本との国交樹立を急いだのか。その背景にあったのはもちろん、当時の中国とソ連との深刻な対立関係である。1949年に中共政権が成立すると、外交関係では直ちにソ連と同盟関係を結び、共産主義国家陣営に文字通り一辺倒の状態となった。1950年代を通じて、中国は一貫してソ連との同盟関係を基軸に、反米・反自由主義世界の外交政策を進め、共産国陣営の主要メンバーとして西側と厳しく対立した。だが1960年代に入ってから、状況は次第に変わっていった。
 共産主義国家陣営内の主導権争いで、毛沢東政権はソ連共産党とケンカを開始し、対立が徐々に深まった。60年代半ばになると、中共政権とソ連共産党政権は完全に決裂して、互いのことを共産主義の裏切者と罵り合うようになった。そして1969年、中ソの間で国境を挟んだ軍事衝突まで起きた(珍宝島事件)。両国はこれで、不倶戴天の敵対関係となったが、ソ連と敵対関係になった中国はソ連を盟主とする共産主義国家陣営からも当然破門となり、追い出された。同時に、中国は共産主義国家として冷戦中の西側陣営とも対立していた。まさに世界の孤児となり、史上空前の四面楚歌の孤立状態に陥った。しかも軍事大国だったソ連は、中国との長い国境線に100万人規模の大軍を配置して、いつでも中国側に攻め込む態勢をとっていた。これは外交面でも安全保障面でも、中共政権にとって政権樹立以来の最大の危機であり、政権崩壊につながりかねない。この危機的な状況を打開するため、1972年2月、中共政権は水面下での工作を周到に行った上で、当時のニクソン米大統領を北京に招き、米中対立の劇的な緩和を図った。
 一方のアメリカにも、中国に接近して強敵のソ連を牽制しようとする戦略的意図があったから、双方の思惑が一致して両国間関係は改善された。これで一気に、米ソ両大国と敵対する危険な状況から脱出したが、アメリカとの国交樹立までには至っていない。アメリカは民主主義陣営の盟主として、共産主義国家・中国との国交樹立までは、さすがに躊躇していた。そこで中国は、日米同盟の矛先をかわし、ソ連の脅威から自国の安全を守るために、日本との国交樹立に動き出した。ニクソン訪中から7か月後の1972年9月、中国は時の田中角栄首相を北京に招き、わずか数日間の交渉で一気に国交樹立を実現させた。そのために中国政府は「日本に対する戦争賠償の放棄」と「日米安保条約の容認」という二つの好条件を揃えて日本側に差し出した。自らの国際的孤立を打破して強敵のソ連と対抗するため、当時の共産党政権はそれほど日本との国交樹立を熱望していた。
 しかしこの国交正常化は日本にとってどんなメリットがあったのか。前述のように、1972年までに二十数年間、日本は中国との関係を断絶したまま、長い平和と安定を享受できたし、中国市場と無関係に戦後復興と高度成長を見事に成し遂げていた。しかも、当時の日本は中国のように国際的に孤立していたわけでもなく、ソ連を含む世界の主要国のほとんどと国交を結び、概ね良好な関係にあった。ならば日本は何のために、共産党政権の中国と国交を結ばねばならなかったのか。この問題について、当時の日本の政治家も、後世の専門家も、誰一人として明確な答えを出していない。田中角栄を含む当時の日本の政治家や外交官僚はただ日中友好のムードに流されて、なんとなく、中国と国交正常化して良かったと思っていただけだろう」と石平氏はきびしい。確かに当時はあの支那事変の負の遺産を清算したいという気分はあった。共産党中国というよりは、中国と。しかしその中国は台湾の中華民国が引き継いでいた。その中華民国を切り捨てて、共産政権と国交を開いた。率直に言えば、共産党中国をそれほど恐れて居なかった、それより巨大な人口を持つ国家を認知した方が、地政学的に安全だと、時の政府は考えたのかな。その後の両国の経緯を見て、石平氏は言う。
 「今から見れば、1972年の日中国交正常化の正体は、まさに中共政権による、中共政権のための国交正常化であった。その時から約半世紀にわたる、中国共産党による日本の利用と、日本叩きの始まりに過ぎなかった」と。

 日中友好の甘言で資金と技術を騙し取った鄧小平
 「田中訪中の1972年当時、中国は文化大革命の最中であった。中国は完全な鎖国政策を取っていたため、国交が樹立されてからもしばらく、日中間で目立った往来や交流はなかった。やがて1976年に毛沢東が死去すると、数年間の権力闘争を経て中共政権の実権を握ったのは共産党古参幹部の鄧小平であった。現実主義者の彼は最高実力者の座に就くと、毛沢東時代晩期に崩壊寸前だった中国経済の立て直しを何よりの急務とし、中国経済を成長路線に乗せることを至上命題とした。そのために開発開放路線を唱え、強力なリーダーシップで推進していった。
 改革とは要するに、毛沢東時代に出来上がった計画経済のシステムに改革のメスを入れ、資本主義的競争の論理、市場の論理を導入することである。それによって、中国経済の活力を取り戻そうとした。
 開放とは、毛沢東時代の鎖国政策に終止符を打ち、中国を世界に開放することだ。その最大の狙いは、外国の資金・技術を中国の導入することだ。経済を成長させるには技術・資金・労働力の三つの要素の投入が必要である。当時の中国には労働力はいくらでもあったが、肝心の技術と資金がない。そこで鄧小平は、開放路線の実施によって先進諸国から技術と資金を導入する方法を考え出し、実行に移した。その時、鄧小平たちが技術と資金を導入する国としてまず目をつけたのは、近隣の経済大国・日本である。
 日本は今でも世界有数の経済大国・技術大国であるが、1970年末の時点では世界での存在感は今よりもっと大きかった。日本には、鄧小平が喉から手が出るほど欲しい技術と資金がいくらでもあった。それを中国に引っ張ってくるために、鄧小平たちは日中友好という心にもないスローガンを持ち出して、日本の政界と財界、そして日本国民を篭絡する戦略をとった」と。 籠絡(ろうらく)する: 巧みに手なずけて、自分の思いどおりに操ること。「甘い言葉で—する」  石平氏がなぜここで籠絡する戦略と言い切っているのか。
 「中国はまず、1978年8月に「日中平和友好条約」の締結にこぎつけた。その上で、この年の10月22日から29日までの8日間、鄧小平は事実上の中国最高指導者として初めて、日本を正式訪問した。8日間にわたる長旅の日本訪問で、鄧小平は尖閣問題の棚上げを表明した。歴史問題にもいっさい触れないことにした。彼は極力、日本のマスコミと国民の好感を買うよう努めた。その一方で鄧小平は、あらゆる場面で日本の産業技術への興味を示し、日本の政界と財界に対して、中国の近代化への支援を求めた。訪問の期間中、鄧小平は日本の産業を代表する新日鉄・日産・松下の3社を見学したが、新日鉄の君津製作所を見学した際、工場の設備や技術について詳しく尋ね、その場で日本側に対し、中国人労働者の受け入れと中国に投資して同じような工場を建設するよう要請した。中国側にとって、鄧小平訪日は想定以上の目的を達成し、大成功に終わった。石平氏の手元には、人民日報運営の「人民網日本語版」が2008年12月3日に、鄧小平訪日30周年記念に掲載した回顧記事があるが、次のように総括している。『鄧小平氏の訪日後、中国では日本ブームが沸き起こった。多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれた。中日政府による会議も相次いで行われた。官民の各分野・各レベルの交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展した」 このブログでも取り上げた清朝末期での中国人留学生が大勢日本に押しかけたときのことを想起させる。現在はすっかり忘れられた日中間の交流は繰り返し起こっている出来事だ。しかもどれも中国側からの要請で起きている。しかし石平氏の引用した新聞記事は日本語版である。中国版ではどうなっているのか。中国版で触れられていなければ、籠絡する戦略の裏付けの一つになる。
 「人民日報記事に言う両国の協力は急速に発展したとは、日本が朝野にあげて資金と技術を中国に注ぎ込んでいったことを意味する。実際、鄧小平訪日翌年の1979年から、中国に対する政府開発援助(ODA)が日本政府によって開始され、経済成長を促すインフラ整備のため、大量の資金が中国に流れた。さらに、鄧小平自らが訪問した新日鉄や松下電器をはじめ、多くの日本企業が競って中国進出を進め、中国国内で投資を始めた。投資すれば当然、資金と技術を持っていくことのなる。
 結局、当時の日本政府と日本人は、日中友好という世紀の甘言と歴史問題や尖閣問題を巡る鄧小平の善隣友好姿勢にまんまと騙されて、中国が喉から手が出るほど欲しがっている資金と技術を鄧小平の懐へ注ぎ込んだ。中国はそれを利用して産業の近代化を図り、ボロボロの経済を立て直して成長の軌道に乗せることが出来た。しかし鄧小平は日本からの資金と技術の提供に、本心から感謝したか。もちろんしない。鄧小平は本当に歴史問題も尖閣問題も忘れたかといえば、もちろん忘れていない。1982年6月、日本の文部省の歴史教科書検定で華北侵略が華北進出に改訂されたとの報道が出ると、中国政府は早速外交問題にして日本政府に圧力をかけた。そして日本の歴史教科書の記述が近隣国に配慮しなければならないという近隣諸国条項を事実上、日本に強いた。
 1985年、戦後政治の総決算を掲げた当時の首相、中曽根康弘が8月15日に靖国神社への公式参拝を行うと、中国政府はまたもや、日本の内政問題であるこの一件を政治問題化して、あらゆる手段を使って日本側への圧力を強めた。その結果、中曾根康弘は翌年からの公式参拝を取り止め、自ら掲げる戦後政治の総決算は最初から頓挫することとなった。
 日本を利用すべき時は思う存分利用し、叩くべき時は思い切って叩く。鄧小平はによって開発されたこの老獪にして横暴な日本対処法はその後、中共政権の対日外交の常套手段となった。」 巧みに手なづけて、自分の思うどうり操ること。ここまでの経緯を紐解くと、確かに籠絡するという言葉が残念ながら当てはまる。

「1989年6月に中国では天安門事件が発生、中共政権は戦車部隊まで動員し、民主化を求める学生や市民に対し、大規模な虐殺を断行した。これで中国は世界中から激しい批判の嵐に晒され、国際的に完全に孤立した。アメリカを中心とする西側諸国は中国への制裁を実施し、海外からの投資が完全にストップした。89年、90年の経済成長率はそれぞれ4%台まで落ち込み、実質的なマイナス成長となった。このままでは、中国は国際社会から孤立したまま、経済崩壊という最悪の結末を迎えることになりかねない。人権抑圧に反発する西側諸国は、経済面だけでなく、首脳らの訪中も取りやめるなど制裁の幅を広げていた。当時の中国指導部にとって、こうした対中制裁網を突破するため、どこかに風穴を開けることが緊急の課題となっていて、まさに生き残りをかけた最優先任務だった。彼らが目をつけたのは、西側先進国の中で中国の外交工作にもっとも弱く、中国にもっとも利用されやすい日本である。
 外交的孤立の突破口を開けるため、中共政権は盛んに対日外交工作を行った。天安門事件翌年の1990年11月、外交担当の副首相だった呉学謙は天皇陛下の即位の礼への参列のため日本を訪問し、与党自民党と野党の要人たちと続々と会談を行った。外交工作の結果、呉学謙訪日の直後に、日本政府は天安門事件後に凍結していた第三次円借款の再開を決め、西側諸国野中で最も早く、率先して中国への経済制裁を解除した。そして1992年4月、今度は共産党総書記の江沢民が日本を訪れた。彼の訪日の最大にして唯一の目的は、当時の宮澤喜一内閣を相手に、天皇訪中を実現する工作の大詰め作業であった。江沢民と中共政権はこの工作の成功に国運のすべてをかけていたが、結果的に彼らの必死の工作が功を奏し、1992年10月、日中関係史上初の天皇訪中が実現した。
 江沢民と中共政権は、この外交上の成功から何を得たのか。時の中国外相の銭其琛が2003年に出版した回顧録の中で、『日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線のなかで弱い部分であり、自ずから中国が西側の制裁を破る、もっとも適切な突破口となった』『天皇訪中が実現すれば西側各国が中国との高レベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させられるようになる』『この時期の天皇訪中は、西側の対中制裁を打破する上で積極的効果があり、その意義は明らかに中日両国関係の範囲を超えていた。この結果、欧州共同体が制裁解除を始めた』
 そのために、中共政権は国を挙げて天皇訪中を熱烈歓迎した。党総書記の江沢民自身が先頭に立って日本中の親中政治家やチャイナスクールの外交官を動かし、対日工作を必至に展開した。工作によって実現した天皇訪中は、最初から最後まで中共政権の党利の画策されたもので、まさに中共による中共のための政治的イベントに過ぎなかった。その結果はすべて、中共政権の望む通りの展開となった。天皇訪中以来、中国は日本を突破口にして西側の制裁網を打ち破り、国際社会への復帰をみごとに果たした。状況が安定してからは、中国への諸外国からの投資は以前よりも格段に増え、ふたたび、中国経済の高度成長の起爆剤となった。そして、天皇訪中の1992年から2021年までの30年間、中国は史上最大にして最長期間の高度成長を成し遂げ、日本を抜き去って世界第二位の経済大国となった。高度経済成長の上に成り立つ中国の軍事力と外交力の増強は、日本の安全保障を脅かす、現実の脅威となっている」

 「天皇訪中から6年も経った当時、中国は天安門事件以来の疲弊した国内経済の立て直しにある程度成功し、当時のアメリカのクリントン政権ともよい関係を構築して、国際的立場はかなり強くなった。日本に対する立場がすでに優位になったと思った江沢民は、日本訪問中、いたるところで歴史問題を持ち出し、激しい日本批判を行った。中国を大いに助けたこの日本の地において、彼は終始一貫、威圧的・横暴な態度を貫いた。恩を仇で返すという言葉を地でいく、あるまじき言動であったが、日本人としてもっとも許し難いのは、天皇陛下主催の宮中晩餐会での江沢民の無礼千万の振る舞いであった。宮中晩餐会の礼儀に沿って、ホスト役の天皇陛下をはじめ、男性の出席者全員がブラック・タイの礼服を着用していた。ところが、江沢民一人だけが黒い人民服を身に着けて厳しい表情で臨席し、天皇陛下に対する非礼の態度を露わにした。そして晩餐会でのスピーチで江沢民は、日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ云々と、天皇陛下の前で公然と日本批判を行い、日本国と天皇陛下の両方を侮辱した」「日本人にとって大きな屈辱だったこの光景こそ、1972年の国交樹立から始まった日中関係の基本的性格を象徴的に表したものである。約半世紀もの間、日本という国は、いつも中共政権に利用されて中国を助けた後、噛みつかれて深い傷を負う羽目になった」と石平氏は日本人以上に憤っている。日本人をカモにしたというタイトルも納得いく経緯である。いったいこれは何に起因しているのだろうか、これは我々自身への課題でもある。

 石平氏は言う。石平氏が記述した衝撃的な真実から再度、中国共産党の邪悪な本質を認識していただきたい、そして日本が今後、中国共産党が支配する中国とどう向き合っていくべきか、真剣に考えて頂きたいと結んでいる。では日本の現状はどうなのか、中国共産党にきちんと日本側の考えを正確に伝えることで評価の高かった、中国がもっとも恐れる男と異名を持った元駐中国大使、垂秀夫氏の見解を東洋経済オンラインでのインタビュー記事で聞こう。
 1、日中関係の課題は?
 「日中関係の基礎は経済交流と人的往来だ。とくに私は人的往来、なかでも中国から日本への人の流れに注目している。いま中国人が日本に大勢来ているが、私はこれを近代史で3回目の「日本ブーム」ととらえている。アリババ創業者のジャック・マー(馬雲)氏などの有名人も日本に生活拠点を持っていることが知られている。この現象を、歴史を踏まえて観察することが必要だ。国の将来を悲観して、多くの中国人が海外に渡っている。行き先としてはアメリカ、カナダ、オーストラリア、シンガポールなどが候補になってきたが、いまは日本が一番ホットになっている。
 2、習近平の統制を嫌っている人たちは、日本をどう思っているのか?
 1989年の天安門事件の際に、日本はまっさきに制裁を解除した。そのことが共産党に塩を送ったという印象があるので、体制に距離を置く知識人は日本に関心を失っていた。
 私は2002年に胡錦濤政権が成立したころから、中国の先行きを考えるうえで「民主主義」と「法の支配」が決定的に重要になると思っていた。そこで私は継続的に知識人を日本に招いて、現実の日本社会を見てもらうようにした。そのなかには、国会議員の選挙を視察した人もいた。与党と野党それぞれの候補の演説風景を見たり、選挙カーやポスターをめぐるルールなどを知ることで、「民主主義」がどのように運営されているかを理解したようだ。当時の安倍晋三首相が応援演説している際に握手した人は、大いに感動していた。「アジアに民主主義と法の支配がここまで定着している国があった」ということで、彼らにとっては「日本を再発見した」という思いだったろう。東日本大震災の際の日本社会の秩序ある対応に感動している人も少なくなかった。
 3、日本を知ってもらう事で中国の変化を期待するという事か?
 中国をどう変えるかは、あくまで中国人が決めることだ。しかし中国が「民主主義」と「法の支配」を尊重する方向に変わっていくなら、それは日本にとってもいいことだ。そうした変化の担い手とのつながりをもっておくのは大事だろう。いま日本に富裕層が多く来ているというのは大きなポイントで、彼らは今後中国が変化していくうえで重要な役割を担う可能性がある。現在の台湾の与党である民主進歩党はもともと体制外の活動家の集まりだったが、台湾の企業家たちがスポンサーになったことで政党として成長した。

 中国の変化を待つ、これが従前から共産中国に対して取って来た日本のスタンスではなかったか、その結果が石平氏の各種指摘であり、習近平政権の日中戦争にまつわる三つの国家記念日、7月7日の「抗日戦争勃発記念日」、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」、そして12月13日の「南京大虐殺犠牲者追悼日」を2014年2月の全人代で法案を採択した。中国の変化を待つという消極的な政策はお蔵入りだ。その間、国が動いた。日本が前面に立つようで立たないでいられる、対中国包囲政策が安倍政権の時に実行された。「TPP」結成であり、「自由で開かれたインド太平洋戦略」であり、自由や民主主義、法の支配といった基本的価値を共有する日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みのクアッドなどである。背後にはトランプ政権の時に始まった対中貿易政策もある。巨視的な見方は次回に回そう。

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日本が中国大陸に築いた近代化のインフラ

2024年02月11日 | 歴史を尋ねる

1、なぜ日満支ブロック経済圏構想が生まれたか 
  中原とは黄河文明誕生の地であり、中華文明の中心地として数千年にわたって栄枯盛衰を繰り返してきた。帝国は典型的な農業帝国であり、二千~三千年前から黄河流域で栄えた後、時代とともに南下したが、それは自然との共生というより自然の食いつぶしという営みだった。過剰開発で生態系が崩壊しつつある社会だから、近代になって社会の「一窮二白」(窮は貧困、白は白紙状態=文物の低水準状態)がいっそう昂進した。
 満州は清王朝発祥の地としてずっと支那人、朝鮮人の入植を禁止した。20世紀に入って封禁が解かれると人口が急増し、瞬く間に中国化、軍閥が跋扈し伝染病が蔓延することとなった。1900年の北清事変で全域をロシアに占領され、鉄道が敷かれ、都市が建設され、投資と技術移転が行われた。日露戦争後、代わって日本が南満州の近代化建設を行った。1932年満州国が成立し、その時点から近代化が急ピッチで進み、わずか十数年で、自動車、飛行機まで作る一大近代産業国家へと急変貌した。台湾、朝鮮、満州まで押し寄せた日本からの文明開化の波は、日中戦争の勃発とともに中国にまで及んだ。だが、周知の通り、それから8年ほどで日本の勢力は敗戦により中国大陸から撤退した。華北、華中、華南において第二、第三の満州国が再現され、人々が近代文明の恩恵に浴することが出来なかったことは、東亜の文明史から見て一大挫折だったと、黄文雄氏は嘆く。
 それまで中国の国民経済は、特に欧米列強の経済に依存し、搾取の対象になっていた。半植民地と言われる所以でもある。その原因としては、この列強の経済進出だけでなく、中国の民族資本が貧弱だったことが挙げられる、と黄文雄氏。中国は元来農業国であって、鉱工業はまだ初期資本主義のの段階を脱していなかった。対外貿易を行うにも資本と技術不足で、鉱工業、貿易の多くは外国資本の支配下に入った、と。列国中、日本は対中投資額の面で英国と一位、二位を争っていた。1931年の外国投資総額に対する割合では、英国36.7%、日本35.1%、以下ソ連、米国、フランス、ドイツ。それが34年になると、日本53%、英国24%となった。だが、日本の投資の大部分は主に軽工業に向けられ、土着資本と正面衝突を演じたため、反日機運を高める一方、土着資本を欧米依存へと走らせた。英国は投資の7割を交通、運輸、銀行、金融機関に向けられ、表面上、土着資本の脅威にならなかったばかりか、中国経済の近代化を支援するものと評価さえされた。結局、中国の民族資本は英国に、労農階級はソ連に奪われる形で、日本は中国で経綸を行う足場を築けなかった。
 世界恐慌後、英・仏は排他的な経済的自給自足を図るブロック経済を採用し、日本の工業製品は世界で締め出しを受けた。そこで外国貿易に依存していた日本では、自国防衛にため満州、さらに華北を対象としたブロック経済圏の建設構想が生まれた。

 1932年の満州国建国で、日満の政治、経済の提携が密接になると、満州と国境を接する華北の政情や経済などの不安と動揺は直接満州国に影響を及ぼすだけでなく、軍事的には中国側の反日反満の軍事的策源地となり、北京などはソ連の赤化工作の拠点だったため、華北は満州、ひいては日本にとって大きな脅威に映った。それと同時に華北は、日満の不足資源を補い得る経済的パートナーとして期待された。重工業、軽工業、化学工業が進んでいた日本と、石炭、鉄鋼などの鉱山資源が豊富にあった華北とは、摩擦、衝突を起すことなく互助関係を確立できるものと考えられた。また消費財の多くを自給出来ない中国にとり、廉価な日本製品を輸入することは得策であった。華北において35年に蒋介石の国民政府から独立した冀東、冀察両親日政権が成立した後、満鉄は子会社の興中公司を設立し、華北の鉱山資源の開発と対日輸出、鉄道の敷設に乗り出した。華北の資源は量、質ともに優良で、興中公司は眠れる資源を高度技術で開発し、生産を増大して日満の国防・経済に支柱にすることを目指した。それは日満支共栄圏構想にもとづいたものであり、中国民衆の生活向上を目的の一つにしていた。日本が求めていたものは中国の反植民地状態の解消だった。

2、雄大だった占領地近代化構想
 日本軍は支那事変勃発翌年の1938年10月に武漢を攻略し、大規模な軍事行動はここで終了させ、以降は日満支共栄圏を打ち立てるため、占領地の経済建設に乗り出すことになった。日本政府が11月3日に発表した「重大声明」は、「帝国の冀求する所は東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり、今次征戦究極の目的また此れに存す。この新秩序の建設は日、満、支三国相携え政治、経済、文化など各般にわたり互助連環の関係を樹立するをもって根幹とし、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり」。当時川越茂駐中国大使は新中国の建設問題に関し、「経済力が先行して政治機構が自然発生的に生まれ出ることは支那式で、この方法が支那には適している」と述べている。
 日本軍の占領地は、中国本土の人口の約4割、耕地面積の54%で、米麦の39%、雑穀の69%、豆類の43%、小麦粉の98%、さらには石炭、鉄鉱石のほとんどを算出していたほか、綿糸、綿布、セメント、マッチなどの工業製品のほとんども生産していた。しかし当時の中国経済は殆どが封建的で、資本主義的な産業組織が存在しなかった。近代資本と言っても商業的な利潤追求を主眼とした官僚資本、買弁資本として発達したもので、大資本による長期的投資などは望むべくもなかった。だから蒋介石の国民政府がいくら鉄道や鉱工業の発展方針を打ち出しても、事業は遅々として進まず、結局は列国の借款に頼らざるを得ない状況だった。
 且つ、少なからざる産業施設は戦火で破壊された。日本軍の砲爆撃もあったが、それ以上に中国軍の焦土作戦による被害が深刻だった。中国軍は伝統的な兵法として、日本軍の補給を断つために、退却のたびに「清野作戦」(焼き尽くし、奪い尽くす)を行っていた。工場、鉄道、その他の近代施設から堤防、あるいは町を丸ごと破壊しまくった。
 そうした中、日本による占領地の経済建設は「長期建設」が謳われた。中国を近代国家に押し上げるというもので、従来中国人自身がなし得なかった、雄大な構想だったと黄文雄氏。それは思い付きでも冒険的行為でもなく、また侵略の野心の糊塗などでもない。台湾、朝鮮で近代化に成功し、満州でも着々と近代的産業が生まれていたので判る。アジア人によるアジア史は、ダイナミックな流れを見せていた。しかし結果的には、その途上で日本が敗戦を迎えて頓挫、この史実は日本の過去否定と相俟ってあまり語られていない、と黄氏。

 1937年12月24日の閣議で事変対処要項を決定し、「日満支提携共栄実現の基礎を確立する」ことを同地域の開発目標とし、そのため中国の現地資本と日本の資本、技術を結合させ、経済各部門を開発整備し、秩序の維持、民衆生活の安定を図るという華北の経済開発方針を確定した。ここでは、華北経済の開発と統制のため、国策会社の設立も謳われた。それが北支那開発株式会社(北支開発)である。それは興中公司の事業を継承、拡大するため、日本経済の総力を結集したものだった。事業としては、主要交通運輸と港湾事業、主要通信事業、」主要発送電事業、主要鉱産事業、塩業と塩利用事業などへの投資と融資及び統合調整が掲げられた。日本政府の統計によると、38年から終戦の45年までの日本の対中国投資の累計は47億円に達し、地域別では蒙彊を含む華北が33億円、華中が11億円、華南が3億円。その華北での最大の投資先は北支開発。産業拡大を図るため、まずはインフラ建設、経済の動脈である交通運輸事業、鉄道、水運、自動車輸送網を華北全域に廻らせた。港湾施設は、塘沽新港建設、青島港増強、四運河・五河川の改修築。更に電気通信事業、日中合弁で電信電話事業、配電事業。
 中国の石炭埋蔵量は当時世界第五位、その大部分が華北と蒙彊に集中していた。太平洋戦争開戦後は日本への大量輸送は困難となり、資源の現地製品化が促進された。もともと中国の工業は基礎が確立されておらず、鉄鋼業技術も原始的なものだった。この時期、日本は華北で小型溶鉱炉を建設、年間100万トンの銑鉄生産目標を進めた。またアルミナ製造工場の拡充新設、セメント、カーバイド、火薬、木材、耐火煉瓦の急増産も行われた。また機械工業も拡充され、この頃には鉱山、交通関連の機械製造や兵器製造の現地自給も可能となった。具体的には華北車両、華北自動車、久保田鉄工、天津造船、華北電気、華北電線、華北湯浅電池、東芝通信、北平鍛造、小糸重機、今村製作所、華北機械、東亜重工などの工場が驚異的ペースで新設された。このように華北経済建設が、対米開戦後のインフレの激化、抗日ゲリラによる交通破壊など治安攪乱活動の日常化の中で、ほとんど破綻することなく着々と進展し続けたことは驚くべきことだと、黄文雄氏は解説する。日系事業の経営者や技術者は、中国人に大規模経営、機械化、厳正な経理会計などを教えた。
 蒙彊は広大な面積を擁する辺境の地、もともとは蒙古人の土地だったものの、清時代以来の漢人植民政策により、支那事変当時は全人口七百万のうち、蒙古人は約一割に過ぎない状況、漢人に圧迫された蒙古人は、モンゴル族の王公の一人、徳王を中心に内蒙古自治運動を展開し、36年には蒙中両軍は交戦もしている。だから日蒙は当初から利害が一致した。純朴な蒙古人は中国人よりはるかに日本人と相性が良く、対日感情は良好で、両者の提携関係は順調に進んだ。そして「ミニ満州国」の様相を呈しつつ、日満支ブロックにおける防共国防国家体制の確立を目指した。ただ、汪兆銘の南京政府が成立すると、蒙古連合自治政府はその傘下に入った。

 華北開発と同時に華中でも、国策会社の中支那振興株式会社が上海に設立され、北支開発と同内容の事業を行った。しかし華北が開発を必要としていたのに対し、華中は経済復興を必要としていた。上海を中心とした華中は交通が発達し、産業資源も豊富で、中国経済の心臓部と言えた。ここも経済的機能の大半は戦禍で破壊され、自力での復興は不可能だった。それを日本の資本と技術を投入して成し遂げたのが、この中支那振興だった。この会社の下に、華中鉱業股份有限公司、華中水電股份有限公司、上海内河輸船股份有限公司、華中電気通信股份有限公司、中華蚕糸股份有限公司、このほか華中鉄道、上海恒産、上海都市交通、大上海瓦斯、淮南煤鉱、中華輪船、華中火柴、中央科学工業、柳泉炭鉱、華中水産、華中運輸などで華中産業の復興、近代化を推し進め、大きな成果を挙げた。
 1945年の終戦により、日本の在中国資産は全て重慶の国民政府によって「敵産」として接収された。終戦で日本人の事業はどのような状況にあったか。製鉄事業などは交通機関の破壊によって原料の確保が難しく操業停止を余儀なくされたが、その他の重要産業である交通、電気、通信、炭鉱などの事業は、おおむねは接収の時まで、社会秩序の崩壊を横目にしながら、極力現状維持に努めていた。これが中国に進出した日本人の姿勢であった。もし彼らが中国人の言うように日本の利益だけを考え、略奪を事業目的にしていたのであれば、終戦の時点で職場を放棄し、中国側に手渡す前に、会社財産の奪い合いを演じていたに違いない。しかし公の精神に徹していた当時の日本人はそれをしなかった。最後の最後まで中国の発展のために働き続けていた。接収に際しては財産目録を詳細かつ正確に作り上げ、中国側に引き渡している。せっかく手にした宝である日系の産業設備を、中国側は活用したかった。そこで日本人技術者を留用する規定を公布し、各地、各業種で多数ぼ日本人を残留させた。北京だけで47年1月の時点で、30の企業で留用日本人は勤務していた。それだからこそ、心血を注いで打ち立てた中国の新経済体制が国共内戦によって破壊されたことは、残念であった。資本と技術不足の中国は、社会主義社会の建設に失敗した後で、改革開放へ路線転換して以後の、死に物狂いの外資導入の現状からみれば、日本の満州国建設や日中戦争後の雄大な占領地近代化建設構想を、冷静な目で再評価すべきではないだろうか、黄文雄氏はこの様に提起している。

3、「略奪」はウソ、代わって中国農民を救済した日本
 1937年1月も衆議院で、社大党書記長麻生久が「北支経済工作に関しては農民大衆の福祉を招来するが如き方策を講ずることが、この目的達成のため緊要である」と強調したのに対し、近衛文麿首相は「今後は支那民衆の心を把握することでなければ東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携は出来ない。支那は農業国であるから支那農民と結び、農業の発展をわが国が手伝うことは極めて必要だ」と答えている。このように日本では、貴族宰相でも無産階級の指導者でも、農民対策が中国占領政策のカギであると認識していた。それほど中国の農業は悲惨な状況にあった。支那事変前、農村は平時においても農産物の生産高が低いため完全な自給が出来ず、絶えず食糧不足に喘いでいた。労働人口は過剰だったが、生産技術が原始的なまま停滞していたため、農業は根幹産業でありながら、少なからざる食料を日本や香港など、外国からの輸入に頼っていた。自作農45%、半自作農23%、小作農32%の割合で、55%が地主への高率の地代にあえいでいた。地代は収穫物の半分、7~8割に達する地方もあった。また作物の流通においても農民は、手数料、保管料、前貸しといった仲介業者による高利貸的な搾取を受けていた。また市場の不統一、度量衡の不統一、穀物取引の秘密性や価格の非公開などの伝統的社会状況も農村の発展を妨げていた。更に農村に対する重税の賦課も深刻だった。地租は地方財政上最も重要で、地方における付加税は地租を基準に課せられた。
 そして最大の敵は洪水、旱魃、虫害といった自然災害の頻発だった。例えば、1927年:華中で水害、900万人が罹災。1928年:大旱魃が華北八省を襲い、罹災民は3000万人。1929年:陝西省を中心とする西北大飢饉で餓死者は1000万人との公式記録。華中の水害で5400万人が罹災。 1931年:揚子江、淮河及び大運河の流域十六省が大水害で5000万人が罹災。 1932年:全国水害被害十五省、旱魃被害八省、蝗害被害十省。1934年:水害十四省、旱魃十一省。1935年:黄河と揚子江で大洪水。四省だけでも1400万人が罹災。このような状況下で各地の農業はしばしば壊滅し、一家離散に悲劇だけでなく、深刻な飢餓に見舞われた。このような悲惨な状態から中国農民を救出しない限り、近衛首相が言った如く「日支両国の提携」は出来る筈がなかった。

 華北は八千万人の人口を抱えた農業地帯で、耕地面積の90%は小麦、大麦、粟、稗、コーリャン、トウモロコシ、大豆など食糧作物に充てられたが、生産性の低さから食料の不足状況は深刻で、輸入、移入に依存していた。37年の支那事変は、耕地を荒らし、主に中国軍によって灌漑施設が大きく破壊され、労働力や家畜も徴用され、農村が受けた打撃は大きかった。そして洪水や干ばつ、水害が相次いで発生、これに匪賊の跋扈も深刻だった。日本は華北における増産計画を立てて、生産の指導、支援、治安維持を行い、食糧の需給秩序の回復を努めたが抗日ゲリラの勢力下にあった農村は、需給秩序の攪乱に狂奔した。日本は北京、天津の食糧不足を解決すべく、食糧供給源であった蒙彊地方の農業振興を指導した。この農業振興政策は生産機構を組織化し、生産力の向上をもたらすことに成功した。また鉄道の復旧を行い、途絶えていた華中から華北への食糧供給を再開させた。
 華中の農村は全中国の水稲作付け面積の七割を擁し、小麦の約四割を生産する食糧供給源だった。戦争で経済の中心地だった上海が大打撃を受け、農産物の出回りは交通の途絶、市場の閉鎖等で不可能に陥った。更に日本軍の占領後も、ゲリラの跋扈で都市への食料の出回りは困難に陥った。ここでも日本は農業の再建と発展に取り組んだ。また1940年に成立した汪兆銘の南京政府にとっても、米価の安定や出回り促進は最重要課題だった。戦禍の影響をこうむった生産自体は、それでも1940年頃には、復興作業に伴い、戦前レベルにまで回復したが、インフレーションの進行などもあり、悪戦苦闘の連続だった。
 生産量の早急な回復は、戦争や戦時経済が続く限り難しかったが、それでも日本は恒久的な視野に立ち、依然前近代的な自給自足的色彩を帯びる農村経済の近代化のため、並々ならぬ心血を注いだ。その一つに合作社運動がある。合作社運動は、日本の農協と産業組合を併せたような機能を持っていた。それを通じ、村落間の抗争の仲裁から教育、技術指導、文化活動、公共事業への寄付も含め、無秩序な農村を経済的に組織化することを図った。当時の農村は合作社の意味を解するほど教育レベルが高くなく、さしたる効果が得られないまま終戦を迎えたが、もしその後も継続されたなら、台湾、朝鮮、満州同様、農民の文化レベルは向上し、食糧問題の解決にも大きく貢献した筈と、黄文雄氏は言う。このような農村社会、秩序の停滞を打破しようとする試みは、満州国を除いては中国史上類令のないものだった、と。

 凶作が続いた日本占領地域に対し、蒋介石の重慶国民政府地区においては豊作が続いていた。しかし40年以降、米価をはじめとする食料品の急騰が続いた。これは自然的要因というより、人的、社会的要因によるものだった。各地の地主、大商人、官僚、軍人などが、権力と財力を使って食料を投機目的で買いだめしたのが最大の要因だった。このため重慶側住民は深刻な食糧恐慌に陥った。支配階層による買いだめは、彼らが政権への不信や社会不安を感得した結果だが、このような民衆の生活や生命を無視した権力者の姿勢こそ、中国の伝統社会の一大特徴である。それは焦土作戦についても同じことが言える。重慶の国民政府は対日戦の間は米国の支援によって何とか持ちこたえたものの、結局はそうした同胞への冷血的な姿勢により、戦後は国民に見放され、共産党に天下を奪われることとなる、と黄文雄氏は分析する。
 これに対し略奪、虐殺をもっぱらにしたとされる日本の占領軍は、実は全く逆だった、と。日本人がひたすら占領地住民の福祉の向上に努めていたことは、戦争、占領の合理的な遂行のためにも、そして早期の平和の招来とその後の日中両国の提携を通じた自国の発展と安定のためにも、最も有効な手段である、と理解していた。日中戦争中、略奪を行ったのは重慶側だった。蒋介石軍は前線将兵に、食糧不足に悩む農民から食料の徴発を平然と命じていたし、黄河を決壊させて十一の都市と四千の村を水没させ、農業に大打撃を与えたこともあった。破壊=戦争を事とする中国人と、建設=平和を好む日本人の民族性の違いを、ありありと示したのがこの時代だった、と黄氏。

4、植林は中国再生を考えた遠大な計画だった。
 華北には禿山が見渡す限り広がっているが、古代には大森林もあった。中国最古の地理書「山海経」で、かって鬱蒼たる森林があったことが窺える。孟子は、禿山の原因は乱伐で植林を行わず、放牧を行ったからだ、と言っている。日本人の感覚からすれば、華北の禿山を放置すること自体許さない。日本人の指導の下で、華北の親日政権は林業対策に乗り出したが、日系炭鉱会社も植林活動に参加した。造林という大規模にして長期間にわたる大事業は国家事業であって、極端な個人主義、利己主義の中国国民にはなかなかできない。しかし閻錫山指導下の山西省だけは違った。国民党からも共産党からも評価されていない閻錫山だったが、彼は中国史に残る名君だった、と黄氏。中国でも日本人は常識として植林に努めたものの、終戦後中国人は植林思想という目に見えない文化遺産を継承しなかった。その結果が現在の砂漠化であり、水害大国化である、と。

5、医療衛生に対する多大の貢献
 中国は古来、不潔極まりない国として有名。戦前の日本人も、この国を東亜の病夫などと呼んでいた。だからこの国の人間は、水旱、内戦、そして疫病を人命を襲う三大脅威として恐れられていた。それらに襲われるごとに百万人、千万人単位の餓死者、虐殺死者、疫病死者が出る事は珍しくなかった。この悪循環から自然破壊と社会崩壊が繰り返され、文化生活の環境は殆ど改善される事がなかった。二十世紀に入ってからも、この国では上下水道も建設されず、たとえ北京で水道が敷かれても、水幇に襲撃され、破壊される有様だった。だから市民への給水は武力による警護下で行われていた。日清戦争後、東亜情勢の平和と安定を図ろうという声が朝野で高まり、中国及びアジア諸地域に対して医療事業を展開することが広く提唱され、1901年、東亜同文医会が発足、翌年、北里柴三郎らの主導で同仁会を成立させた。同仁会は病院開設、最新医療の提供、医学校設置と医療人材の育成、医療衛生の調査や留学生の勧誘、医学、薬学に関する図書の発行を主要事業とした。1914年北京に日華同仁会病院を開設、その後済南、青島、漢口にも設置した。
 悪魔の細菌部隊として悪名高い731部隊が、実はあくまでも防疫給水を主任務にした部隊であり、細菌開発については中ソ軍の開発に対抗して小規模に着手した程度だったと、黄文雄氏は解明している。そのような部隊が必要とされたほど日本軍が悩まされたのが伝染病であり、その脅威は中国軍の攻撃以上だった。同仁会は支那事変以降、各地に施療防疫班を設置するなど、防疫事業にも大々的に取り組んだ。

6、孫文の夢を代わって実現した鉄道網の大建設
 文化的に中国は「南船北馬」といわれ、南方の東西交通は殆ど河川に頼った。しかし中国人は道路建設をしている余裕がなかったし、根本的な理由は社会の不安定さと経済の遅れだった。鉄道にしても風水の問題から、しばしば破壊活動の対象となった。中国は文化的には匪賊国家であり、山林や湖沢は全て匪賊によって支配され、匪賊による鉄道襲撃は日常茶飯事であった。だから戦前の列車は武装警備隊の配備、夜間運航の中止など特別配備をしなければ運行できなかった。中国の鉄道経営の困難さや人流、物流の未発達の原因はここにもあった。鉄道は実業の母、鉄道は中国を救うと唱えたのは孫文だった。1938年に英国で出版された「シナ大陸の真相」で、鉄道建設が立ち遅れた理由は軍閥の搾取だけでなく、鉄道経営自体が腐敗堕落していた、と。行政官の汚職、冗員が高給を食み、一般職員も遵法精神に欠けた。戦前の台湾の鉄道は、運営も設備も人員も世界トップレベルだった。ところが終戦後の中華民国政府の接収を受け、たちまちマヒ状態に陥った、と。
 戦争で占領地の鉄道は日本軍が管理し、施設の応急復旧や軍事輸送を行った。その後治安は回復に向かい、日本は中国自治政府(中華民国臨時政府 北京)の要望も斟酌し、1939年4月、半官半民の華北交通株式会社を設立、華北の鉄道経営を行うことになった。営業線は五千六百キロ、その後千キロを伸延した。また華中にも中華民国維新政府(南京)と協定して華中鉄道株式会社を設立、営業線は千百キロだったが、華北鉄道と直結させ、両地域の物資交換体制が築かれた。日本の建設事業に言えることだが、つねに民需、住民の福利を念頭に置いたもので、華北交通にしても華中鉄道にしても、民生を重要視し、低廉な運賃設定、公正なサービスに務めた。
 さらに日本軍は、大東亜縦貫鉄道建設計画に基づき、45年には中国中央部を南北に走る、北京から京漢線を通って武漢に至り、粤漢線を通って衡陽に至る縦貫線が開通した。終戦で南方への連絡は実現していない。

7、中国近代化への貢献を文明史の中で考えよ
 日本が行った占領地の経済建設は日本、満州、中国の共栄圏構想にもとづいたものだった。大東亜戦争前年の1940年10月に日本政府が決定した「日満支経済建設要綱」は、この点に関する明確な指針を打ち出している。日、満、華北、蒙彊及びその前進拠点である南支沿岸の島嶼を有機的に一体である自存圏として、華中、華南、東南アジア及び南方諸地域を包含して大東亜共栄圏を確立するというものだった。この構想は、当時快進撃中だった日本軍の大勝利を前提としたものであって、今日の人からは単なる夢想にしか見えないだろうが、中国には「豊富なる労働資源、地下資源並びに農業資源供給国として国防上の要請に即応すると共に日満支の民衆生活必需物資の確保自給を図る」ことが期待されていたことが分かる。そのため華北には資源開発に伴う重軽工業、華中には南方物資を持ってする軽工業と中国の工業建設が重要視された。日本による中国の経済建設を、単に日本軍の作戦上の都合で行われたものとする見方だけでは、当時の歴史の大きなうねりを説明できない。東亜新秩序(日満支の共栄圏)にしても、その拡大延長線上にあった大東亜共栄圏にしても、あくまで西洋列強支配の世界秩序に対する挑戦であり、アンチテーゼだった。これは十九世紀以来、西力東漸の脅威にさらされてきた日本の反撃であり、それに伴い、自力では亡国的な半植民地的状態から脱局出来ないでいた中国も、ようやくそこから引き揚げられようとしていたというのが、当時の歴史の進行状況だった。黄文雄氏は当時の時代をこの様な文明史として見ている。そして敗れはしたが、日本の築きつつあった新秩序の遺産は今でも息づいている、中国、満州に残る近代産業のインフラなどはまさしくそれだ、と。

 戦後、日本がアジア諸国を侵略したという歴史認識が近隣諸国から強要されている。また東京裁判の判決やGHQの歴史観強要も影響してか、大日本帝国が八十年間、東アジアで果たした役割、貢献を文明史的観点から冷静、客観的に見直そうという作業はほとんど行われていない。日本は侵略国家ではないと言うだけで非難ごうごうである。「大日本帝国興亡史」には様々な見方があり、その評価を巡って様々な論争があることは知っているが、と前置きして、黄文雄氏は、そこにはマイナス面よりプラス面の方が多い、しかもそれが人類史にもたらした意義の大きさには驚きを禁じ得ない、と見解を表明する。全体的、総括的に言えば、東亜五千年の歴史の中で、進歩発展と民衆の解放という事に関して最も大きく貢献したのが大日本帝国であり、この点に関してはいくら評価してもし過ぎることはない、と。少なくとも東亜民衆の覚醒、さらに今日に至るまでの資本と技術の移転でもたらした精神的、物質的文明生活の質的向上という成果について、記述してきた。非西欧文明諸国の中で、日本は他に先駆けて近代化に成功した国だが、その近代化がアジアの国々に、直接あるいは間接的に及ぼした影響は巨大なものだ。多くの日本人学者あるいは東洋史研究者は台湾、朝鮮、満州の近代化を考える上で、「侵略・搾取」という視点を捨てようとしない。しかしそのような非科学的見方を取る限り、それらの地域に近代産業社会の成長を促したもの、大日本帝国の精神的、物質的影響というものは分からない。良識ある学者は、このような史実に目を向けだしてよい、と黄氏は日本人を鼓舞する。
 日本人の鋭い感性は近代化を「文明開化」としてとらえた。そしてその時代感覚から「脱亜入欧」を進め、積極的に西欧文明を受容して国家を成長、隆盛させると共に、怒涛の如くアジアに影響力を伸張していった。第二、第三の文明開化の波が台湾、朝鮮、満州、そして中国へと押し寄せ、社会を変え、文明までも変えていった。日中戦争とはむしろ、日本が中国の内戦のブラックホールに吸い込まれたというのが実相であって、日本はむしろ中国内戦の被害者であると黄文雄氏は断言する。文明史から見れば、日清戦争以降百余年來の日中関係の本質は、戦争というより、むしろアジアにおける第二の「文明開化」の波を、中国が日本から受けていたという事実にある。当時の歴史の主流に照らしてみると、そのような見方が確かだ、と。

 こうした史観に立てば、黄文雄氏が言う「日本人は中国に対し反省や謝罪をする必要は一切なく、むしろ中国の方こそ日本に感謝すべきだ」という主張も首肯できる。近代中国をつくったのは日本人であり、少なくとも日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった、この考えで、日本は現在の中国と対峙すればいい、と最近思っている。

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近代日本の思想的二面性、文明開化路線と維新精神継承路線

2024年01月28日 | 歴史を尋ねる

 中国の実態をもっともっと知りたい、その上で中国脅威論を緩和させたい(知らないが上の虚像をおそれるという漠然とした脅威論の解消)というのが、最近の項目のテーマであるが、先日ユーチューブ(ゆっくりさよならC国)を見ながら、トランプを通した習近平の言動に驚いた。トランプが安倍さんにこう言った、という。「『世界で一番残虐なのは日本兵だ』とナチスドイツの軍人が言っていたそうだ。その日本に100年も支配されていたのだから、中国人が反日感情を持つのは無理はないだろう」と。そこで安倍さんは、誰からそんなことを聞いたのかと尋ねたそうだ。すると、トランプ氏は「先日、習近平が言っていた」と答えた。だから安倍さんは、中国からの脅威が如何に深刻かを説いた。それでトランプ氏の対中政策は決まったという、と。安倍さんが働きかけるまえは、欧米各国が不自然に中国を評価していたのも、例によって中国のプロパガンダが功を奏していたと言ってもいい。彼らは日本の歴史を捻じ曲げて各国首脳に広げていた。それがバレたのはトランプ大統領が正直に語ってくれたからだった。このエピソードは何を意味するのか。習近平は日米離間策の為にこのようなプロパガンダをトランプに言ったのか、はたまた、習近平自身も歴史をそのように理解していて、言葉にしたのか。習近平がプロパガンダで言ったとしたら、まだいい。しかし後者であるなら、ことは深刻だ。習近平が中国共産党の中で学んだ歴史は、後者ではある可能性が高い。プロパガンダの情報しかないのだから。そこから出てくる政治的判断は恐ろしいものとなる。
 もう一つ、垂前駐中国大使のプライムニュースでの発言は興味深い。垂 秀夫氏の今の中国を理解する視点は三つあるという。①共産党のレジティマシー(正当性)、②習近平体制の統治、③国家戦略目標の変化。このブログで特に注目するのは、①である。レジティマシー(正統性(せいとうせい、英: legitimacy))とは、ある政治権力が支配者として確立し、権威化されることの正当性をいう、という。垂氏が言うには、「民主主義、選挙に対応していない中国にとって中国がなぜ共産党が統治しなければならないのか、なぜ共産党なのか、を常に答えなければいけない、ならない、人民に対して。それには、その時代、時代の指導者が答えなければいけない。例えば毛沢東は抗日戦争の勝利、あるいはフトウチ、あるいは建国したという答えを持っていた。その後の文革を経て毛沢東の考えについていけなくなった時、鄧小平は改革開放、近代化をいい、共産党に付いてくればみんなが豊かになれる、昨日より今日、今日より明日が豊かになれるというのが共産党のレジティマシーになった。鄧小平がなくなった後もしばらくはこの答えが続いてが、習近平になって経済成長も陰りが出てきて、社会のひづみが沢山出て来た。例えば腐敗汚職、あるいは経済格差、公害問題等が出て来た。鄧小平時代と同じ答えではだめだ。そこで習近平が提起したのは、強い中国、中華民国の偉大な復興という答えを出した。そして更に③の国家戦略目標を経済建設から国家の安全に重点を移した、と。レジティマシーの為に、中華民国の偉大な復興というテーマを掲げる。周辺国から見れば迷惑な話だ。そのためにいろいろな課題を突き付ける。中国では外交よりも内政問題が優先される、と言われる。国際協調路線は中々難しい国だ。

 ここでのテーマは歴史を紐解いて、中国の実態に迫ろうというものだ。前回からの引続きとなる。中国革命を支援した日本の民間志士たちは一般に、「支那浪人」「大陸浪人」などと呼ばれた。その中心的存在だった玄洋社、黒龍会などの大アジア主義グループは、戦後日本では単に国家主義団体、右翼団体などと位置付けられたことで、その功績は無視された。黒龍会などは、終戦直後、アメリカ占領軍から「ブラック・ドラゴン」などと呼ばれ、マフィアのような扱いを受け、侵略主義の暴力団といったイメージが定着している。しかし本来は「黒龍」とは満露国境の大河、黒竜江から取ったもので、ロシアの侵略から東亜の平和を守るという崇高な使命感に裏打ちされたものであった。 また、今日の中国でも、日本浪人はテレビドラマでもおなじみで、「日本軍国主義の手先」といったマイナスイメージが定着している。だから中国の学者は、辛亥革命における日本人志士の友情、つまり「侵略主義者」たちの協力という史実をどう評価すべきか悩み続けてきた、と。
 1961年、中国で辛亥革命五十周年記念の学術討論会が開かれ、日本人志士は日本政府と密接な関係があり、侵略活動に関与したとして、偽りの友人であるという意見が多数を占めたが、ある学者は孫文の側近何香凝の『辛亥革命回顧録』で、宮崎滔天、犬養毅、萱野長知、寺尾亨を記録しているものを基準に評価すべきだと主張した。最近では、とくに宮崎滔天については、孫文の忠実な部下として、しばしば好意的に扱われている。しかし内田良平などは相変わらず、革命派を利用して侵略を企んだ極悪人である。利用したとはいかにも中国人的発想である。「孫中山は日本人をりようしていたのだ」という孫文弁護論がしばしば見られるが、「他人は利用するもの、騙すもの」と信じて疑わないこの民族に、「打算を越えた友情」を何より尊ぶ日本人の性格はなかなか理解できない。内田は南北妥協後、確かに反革命に回っているが、それは、これまで日本が中国に期待しながらとった「支那保全主義」や革命支援といったことに対し、中国の民族性はその好意を解さないどころか、かえって増長し、一層亡国の度合いを深めている、ならば今後は列国並みに強圧的に中国を指導しなければならない。さもなくば「徒に衰亡腐朽の隣国に対して情死的犠牲となる、と。
 中国の革命運動に馳せ参じた多くの日本の人たちは、情熱、勇気そして能力があっただけでなく、国民国家建設の経験や知識も兼ね備え、さらに武士道精神にも富んでいた。彼らが発揮した力は、中国の革命党人の及ぶところではなかった、と黄文雄氏は高く評価する。当時の日本人の生き様には敬服する。彼らは中国やアジア各国での革命や独立運動の支援活動は、多くは打算抜きの純粋な道義心から行っている。彼らの「義を見て為さざるは勇なきなり」を地でいった、生命をも顧みないあっけらかんとした冒険心は、今の若い日本人には理解することは難しいかもしれない、と。この時代にはまだ、明治維新の精神や情熱が息づいていたと言っていいのではないか、当時の日本人が持っていた「時代の精神」から、もう少し掘り下げたいと、黄文雄氏は、以下の分析をする。(国民国家を太字にしたが、後日その訳を紹介する)

 日本人は明治維新以降、積極的に海外に進出し、中国だけでなく各国における革命、独立運動を支援している。それも朝鮮、フィリピンといったアジア各地の運動だけでなく、遠くラテンアメリカでの独立戦争も含まれる。それはなぜか、と黄氏。明治日本の富国強兵という国家的大目標はもともと、幕末以来の尊王攘夷の精神から発している、と。一般には明治維新後、日本政府は「攘夷から開国に転じた」との言い方がされているが、その開国政策自体、富国強兵のためのものであり、国家防衛=攘夷の為の一手段だった。明治維新における尊王攘夷の指導者たちの思想を見ていると、中国や朝鮮で見られた単なる夜郎自大(自分の力量を知らない人間が、仲間の中で大きな顔をしていい気になっていること)の排外主義ではなく、むしろ西洋文明が弱肉強食の競争原理に基づいたものであることを見抜き、その功利を重んじる非道義性への批判を根底に置いていた。例えば西郷隆盛は「真に文明ならば、未開の国に対しては、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、しからずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりというべし」という有名な言葉を吐いている。折角の機会なので、西郷南洲遺訓で詳細を見ておきたい。

一一 文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛(さん)称(しょう)せる言にして、宮室の荘(そう)厳(ごん)、衣服の美麗、外観の浮(ふ)華(か)を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分からぬぞ。予(よ)、甞(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否(い)な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左(さ)は無くして未開蒙(もう)昧(まい)の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其の人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。 
(訳)文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえていう言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることをいうのではない。
世の中の人のいうところを聞いていると、何が文明なのか、何が野(や)蛮(ばん)(文化の開けないこと)なのか少しもわからない。
自分はかつてある人と議論したことがある。自分が西洋はやばんだと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。
いや、やばんだとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでにやばんだと申されるのかと力をこめていうので、もし西洋がほんとうに文明であったら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説きさとし、もっと文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対するほどむごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは明らかにやばんであると申したところ、その人もさすがに口をつぐんで返答できなかったよと笑って話された。 

 葦津珍彦(あしづうずひこ)は『明治維新と東洋の開放』の中で、日本政府が西洋諸国の反対を撥ね付け、横浜に停泊中のペルー船籍の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、同船に監禁されていた中国人苦力230名を解放した1872年のマリア・ルーズ号事件を引き合いに出し、「事件は明治維新の外交精神を端的に示している。それはアジアを植民地化し、奴隷化しようとする白人の勢力に反発して、東洋の独立と開放を求める精神である。尊攘の精神の発展である。東洋の独立と解放のためには、まず日本の国権を強くせねばならない。日本の国権を強化し、拡張することは、そのまま東洋の解放に通じると考えられた。日本の国権の拡張こそが、日本人民の民権確立の基礎であり前提であると信ぜられたのである。維新時代の日本人が、そのように考えたのは当然であって少しも怪しむに足らない」 
 日本の攘夷の思想とは、太平の世、人の和を尊ぶ日本人の民族性にもとづいた平和防衛の思想である。それを無知蒙昧な排外主義とあざ笑う向きもあるが、それは文明開化以降に定着した、西洋至上主義(科学主義、功利主義)から来る偏見に過ぎない。日本人にはもともと自ら戦いを求めるような好戦性はない。しかも中華思想から来る中国人のような排外思想も持っていない。むしろ外国の文物を好み、尊ぶという大らかさが民族性だ。ただ日本人には、日本(あるいはアジア)の静謐を奪おうとする外国勢力に対しては、命をかけて立ち向かうという民族的特性が見られる。それが攘夷の精神だ。明治以降の日本軍人の世界に冠たる勇敢さも、その精神の発露と見なくては説明がつかない。特攻隊が攘夷精神の権化であることは彼らの遺書を見れば分かる、と。
 明治以降、官界、学会など国家指導者層に西洋至上主義が蔓延する中、そのような維新の精神を地下で継承していたのが、西郷隆盛の道統を継ぐ頭山満、内田良平など、在野民間の志士たちである。頭山や内田は、西郷の征韓論さながら、対露防衛のためシベリア、満州、朝鮮を睨んだ。頭山、犬養、内田は朝鮮独立運動にも深く関わっている。宮崎滔天は自由民権運動に参加した後、アジア各地を飛び回っている。彼らが中国革命の支援に乗り出したのも自然の流れだった。中国を立て直して列強の侵略から救出し、日中提携による強力なアジアを建設しようとしたのが、彼らの道義心であり、愛国心だった。ふーむ、黄文雄氏の見解は、戦後の史家にこうした見方はあまりないが、慧眼かもしれない。
 戦後の史家には、征韓論を朝鮮侵略論と堂々とすり替える人(ウキペディアを書いた人)もいるが、その人に聞いてみたいものだ。当時日本が朝鮮を侵略してその先どうしようとしていたのか、その見解を言うことが出来るだろうか。 参考までに、東洋経済オンラインで、常井宏平氏は征韓論について一文を掲載している。「西郷が明治政府の名目上の首班である太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」 西郷が乱暴な手段を好まず、外交によって朝鮮との関係を構築しようとしたのは、上記の意見書の要約を見れば明らかだ」と。 ここで罪を問うべきとは何か? もちろん武力に訴えることは想定していたかもしれない。それが即侵略に結びつかないのが、当時の感覚ではないか。侵略に結びつけるのは戦後の史家の感覚である。確かに三韓征伐という言葉もあるが、侵略ではなかった。むしろ懲らしめると言った用法ではなかったか。西洋諸国のアジア進出に対して、共に立ち上がることを諭すことにあった。それが西郷南洲遺訓の精神である。その考えを踏まえて、黄文雄氏は『頭山や内田は、西郷の征韓論さながら、対露防衛のためシベリア、満州、朝鮮を睨んだ』と記している。黄文雄氏の方が、戦後の史家より、当時の日本人を正確に理解している。更に黄文雄氏は言う。戦前の民間右翼の本流だった玄洋社、黒龍会を「日本帝国主義の手先」「中国侵略の尖兵」などとするのは大きな間違い。この誤った認識は、戦後の右翼=アジアの敵という思潮のなかでうまれたものであって、もちろん戦前には見られなかった。実際彼らは国家権力をもっても御し得ない、反体制の草莽サムライ集団だった、と。

 明治維新以降、日本には二つの対立する大きな思想的流れがあったと見ることが出来る、と黄氏。それを葦津珍彦の言葉を借りながら言えば、一つは政府高官の「日本を『欧州的一新帝国』とすることを目標とし、そのためには『幕末的攘夷思想=日本的土着文明』を清算せねばならない」とする文明開化路線。もう一つは民権党の在野政客や志士浪人の「日本の国権は、列強に対する抵抗を通じてのみ確保され伸張されるという信念」にもとづいた、維新精神継承路線。前者は国策の主流で、後者は官憲の取り締まりの対象であり、主流ではなかった。玄洋社も黒龍社も後者に属する。彼ら大アジア主義の一統は、一貫して政府の国際協調(アジア侵略勢力との提携)的な対列強消極外交を攻撃すると共に、アジア防衛のため中国や朝鮮に覚醒と提携を訴えた。しかし、これら夜郎自大の国々を覚醒させるためには日本勢力の扶植が必要である。そのため日本政府の「手先」どころか政府に圧力をかけ、政府が困惑するほど強硬な主張を展開し、または実践行動に打って出た。その強硬姿勢が、戦後彼らに押された烙印、「侵略主義」というものの真相である、と。確かに戦後はレッテル張りで、彼らの實相を伝えるメディアは少なかったし、戦後のGHQの報道規制も厳しいものがあった。しかし彼らの主張は優れて道義的なものだった、功利打算を拝した、大義の為なら身を鴻毛の軽きに致す純粋な姿勢のため、政府・軍部から疎まれ、恐れられた、と黄文雄氏は評価する。

 近代日本の思想的二面性、文明開化路線と維新精神継承路線を混同しては、当時の日本及び日本国民のアジア進出の歴史は正確には分からない。孫文は1924年に神戸で、「日本民族はすでに欧米の覇道文化を手に入れている上に、アジアの王道文化の本質も持っている。今後世界文化に対して、結局西方覇道の手先になるか、東方王道の牙城になるかは日本人が慎重に選ぶべきことだ」と講演しているが、それはこの二つの思潮の併存を指摘したものと言える、と。富国強兵と国権拡張こそ明治維新以降、列強に支配される国際社会に参入した日本の挙国的な大目標だった。そのため日本は富国強兵の手段として技術から制度、思想に至る西洋文明を導入し、「文明開化」と呼ばれる西洋化改革を推進した。ところが、それら西洋の文化自体に西郷隆盛の言う「野蛮」性=帝国主義が内包されていた。アジアの弱小国に過ぎなかった日本を、世界に伍し得る強大国に押し上げようと急いだ明治の当事者に、その野蛮性を批判、排除するゆとりなどなかった。確かに日本人は西洋の侵略行為を憎み、日本とアジアの平和を願っていたが、平和を確保するため、自らも西洋列強の非平和的手段を模倣せざるを得ないという矛盾した状況に陥った。孫文が「日本は欧米の覇道文化を手に入れた」と指摘したのもこの事であった。
 満州事変後の「王道楽土」や「五族協和」、支那事変後の「東亜新秩序」、大東亜戦争における「アジア開放」などの理念も、単なるご都合主義のスローガンというより、攘夷=反列強支配秩序という道義的感覚に立脚したものだった。だから当時の日本人が「聖戦」を信じていたのも、そのような自然的感覚があったからだろう、と黄氏は推測する。もしそうでなければ、諸民族の独立や自治のため、日本人はあれほど見事に戦うことはなかっただろう。今日の日本人には当時を悪し様に非難するものが多いが、少なくともあの頃は、日本民族の国家的な道義心や使命感が光り輝いていた時代だった、と。

 

 

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「同文同種」幻想に陶酔する日本人の危うさ

2024年01月04日 | 歴史を尋ねる

 「髪を金髪にして鼻を高くしても、日本人はヨーロッパやアメリカと同じ人種にはなれない。自分たちのルーツがどこにあるのか知るべきだ」 これは山東省青島で行われた国際フォーラムでの中国の外交部門の総帥、王毅氏の日本に向けた発言。日本もアジアの一員として西洋勢力に対抗できるよう、中国と力を合わせるべきだとの趣旨の発言だった。歴史とは不思議なもので、約100年前には、言葉は違うが、日本人が同様の趣旨の言葉を中国人に発し、共に西洋列強に対抗するために日支提携を実現しようと行動した人が沢山いた。王毅氏は長く駐日中国大使を務め、日本を知り尽くしている。これは中華思想に立った発言ではなく、現在日米蘭半導体サプライチェーン構築に向けての規制の動きを封じたいとの牽制が込められた発言と受け取れる。日本の実力を承知した上での、日本人に対するアピールだろう。王毅氏の苦しい屈折した発言である。言葉をそのまま受け取る必要はない。
 後日、中国の公共放送は、中国の学生が海外の学生と討論する番組を企画、世界における中国の力を国民と世界にアピールするため、国内最高の名門・北京大学の学生が海外の名門大学の学生を論破しようとする内容だった。中国の学生が突然立ち上がり、「アジアは力を失っている。かって西洋諸国がアフリカ大陸を植民地化したように、アジアも西洋諸国の実質的な植民地へと堕落する可能性がある。日本・韓国・シンガポールなどのアジア諸国は中国に依存しながら急速に成長してきたが、彼らは恩を返すどころか、世界征服の野望を持つアメリカと手を握り、中国をないがしろにしている。アジア諸国は再び中国と力を合わせ、欧州連合のような新たな連合体を形成し、西洋勢力に対抗すべきだ」と。出席していた学生は事前にはアジア諸国の人権問題がテーマと聞かされていたので、どう発言すればいいか混乱したが、スタンフォード大学のアメリカ人学生キャシーが静かに立ち上がり「アジアが力を失っているという発言は半分間違っている。中国の半導体企業や不動産企業の多くが倒産の危機にあり、失業率も高い状況だが、それは中国だけの話だ。中国が力を失っているからアジアが力を失っているというのは間違いだ。私の父は日本人で、私自身も日本で10年以上生活し、現在も頻繁に日本を訪れているので、日本の現状を知っている。アジアの危機ではなく、中国が危機的状況なのだろう。」「多くの国が中国との積極的外交を避ける理由は、中国の行動を考えれば自然なことだ。中国は自らの望む結果を得るために、政府が貿易を武器にして振りかざしている。これは中国が他の国より上だという傲慢な態度による外交の結果で、更に中国は海外企業の著作権と特許を無断で使用し、中国のものだと主張している。長年このような外交をして来た中国に対し、諸外国が中国依存度を下げようとしているだけだ」と。これに対して中国人学生は立上り、「小国は大国と対等にはなれない。大国である中国がアジア諸国に与えた影響は計り知れないが、中国は寛大な姿勢で周辺国と共に成長するために援助を提供している。中国が危機的状況であることは確かだが、こういう時アジア諸国が力を合わせれば、世界の中心を再びアジアに戻すことが出来る」と。するとキャシーは、「貿易や外交は基本的には相互依存である。アジア諸国が経済的に中国に依存して成長したように、中国もアジア諸国に依存したからこそ成長した。大国中国は優れた中国人のお蔭ではなく、アジア諸国のお蔭だった。特に日本が1960年代に高度経済成長を経験し、大きな恩恵を受けた国はまさに中国だ。日本との主要な貿易パートナーとして位置づけられ今の中国が生まれた。それなのに中国は数多くの日本製品の輸入規制や尖閣諸島やビザ問題などの外交摩擦を引き起こし、恩を返していないではないか」と事実関係を淡々と述べ、最後に王毅氏の発言を取り上げ「髪を染めなくても、中国人になりたい人はいない」と。討論会は結局中国政府の思惑と裏腹に、中国人学生らが論破される形で強制終了された。 以上は4か月前の「日本の出来事」ユーチューブ版の文字起しだが、中国脅威論が蔓延する日本人の中で、これだけのことを淡々と言葉に出来る人はどれだけいるのか。中国に対する事実に即した正しい理解をするのは難しい、一つは中国政府が発するプロパガンダの見極め、もう一つは他国の報道機関にまで及ぶ報道規制、自国に報道の自由に対する厳しい要求をする日本のジャーナリストも中国には形無し、中国のプロパガンダを丁寧に報道する姿勢は、日本人をビビらせる。その影響を受けていないのがキャシーなのか。そうした矛盾を歴史的に指摘したのは、黄文雄著「近代中国は日本がつくった」。その取っ掛かりに、加藤徹氏の「日中二千年 漢字のつきあい」を選んだ。

1、中国革命の根拠地は日本だった
 腐敗した清国を転覆し、三百年近くにわたる中国統治に終止符を打たせたのが1911年の辛亥革命、それを推進した革命思想は日本で醸成され、発展し、そして中国へ発信された。その担い手が、若き清国の留学生たちだった。日清戦争後、「日本に学べ」を合言葉に日本に渡って来た留学生は、もともと祖国の改革と富強を志す者が多かった。日本に来てみた富国強兵の現実、そこで接した近代的な新知識は、彼らの若い情熱を一層刺激した。アヘン戦争後の洋務運動も清仏・日清戦争の結果で運動の失敗が証明され、その後の戊戌維新も挫折した。この失敗で日本に亡命した康有為、梁啓超のグループによる啓蒙活動が、留学生に影響を及ぼした。梁啓超のが1902年に東京で創刊した『新民叢報』は多くの留学生を立憲思想に目覚めさせ、「中国には家族の倫理はあっても社会倫理はない」という指摘は中国の倫理の本質を暴くものであった。胡適も梁啓超の文章を読んで血を沸かせない者はなかったと回想したし、郭沫若も毛沢東も『新民叢報』の熱心な愛読者だった。
 また、日本人の強烈な民族意識の影響を受け、漢民族思想に目覚めて反清(反満州族)革命まで傾くものも多かった。華興会や光復会といった革命秘密結社の主力が日本に拠点を移すと、留学生に間で「革命を言わなければ時代遅れだ」とされるまでになった。また日露戦争に於ける日本の勇戦ぶりに励まされ、留学生たちの愛国主義、民主主義、その延長線上にある革命思想は尖鋭化するばかりだった。北一輝などは辛亥革命後、日本人の支那革命に対する貢献は、物的援助などより「日本の興隆と思想が与えた国家民族主義に存する」と言っている。中国人の民族意識の高まりは、アジア防衛の観点から日本人が期待したものであった。しかしそれがやがて反日・排日・悔日運動につながっていくのだから、日本にとって皮肉な話である、と黄文雄氏。
 中国では昔から好い鉄は釘にせず、好男子は兵にならないといわれ、軍隊はたいてい匪賊のゴロツキ集団と決まっており、良家の子弟が入るようなものでなかった。そうした見方の根底には、「文」を重視するあまり「武」を軽視、軽蔑するこの国の伝統文化がある。かって武士が官僚であり知識人だった日本では、「文武両道」は最も理想的とされたが、中国は違った。今日中国人が思い描く戦前の日本軍がつねにゴロツキ集団であるのも、こうした伝統思想によるものだ、と。従って、日本軍が、虐殺、略奪は当たり前、という見方である。尚武の精神があるかないかが日中国賊の違いだと見た梁啓超は「尚武精神は立国第一の基礎である。今日、軍国民主義を取らない国は天地の間に立つことは出来ない」として、日本に学べと訴えている。中国人は生まれ変わった。辛亥革命の時、上海の前線で元留学生が率いる決死隊が、空銃を持って弾薬を奪いに敵陣に躍り込むという光景を目撃した北一輝は、「日本教育が排満興漢の原点であることは革命軍幹部を見れば分かる。彼らは日本思想を持っているから顔まで日本人そのものだ」と言っていた、日清戦争以来、支那人は臆病というのが固定観念だったからだ。現代の中国が批判してやまない戦前日本の軍国主義思想が、実は中国の近代国家建設を推進したとは、何とも皮肉な話だと、黄文雄氏。

2、日本なくして孫文も辛亥革命もあり得ず
 孫文は今日でも中国共産党からは「中国革命の父」、中国国民党(台湾)からは「国父」と称えられ、華僑を含む全世界の中国人から尊敬されているが、彼と日本との関係は極めて深く、その革命家生活四十年のうち、およそ三分の一は日本を活動拠点としていた。15歳でハワイに渡り、その後マカオで秘密結社「興中会」(幇会=チャイナ・マフィア)に加入、幇会は伝統的に「反清復明」「滅満興漢」という漢民族主義の結社で、その影響で孫文は革命へと傾いていく。そして無学の無頼漢集団の中で、知識人の彼は指導者となった。実際の生涯は、孤独な革命浪人で、十回蜂起して十回失敗し、三度政府を作って三度失敗した。辛亥革命も彼は一切関与していなかった。ただ他に有名人がいないとの理由だけで、三か月ほど中華民国臨時大総統に就任していたに過ぎない。1995年10月、日清戦争後の混乱に乗じ、孫文率いる興中会が広州で武装蜂起を計画、とはいっても、兵力は幇会と俄かに募られた市井の無頼漢の数百人という無茶なもので、たちまち発覚して弾圧された。そこで孫文は日本に逃れ、そこから米国、欧州へと革命宣伝の旅に出て、帰国途中、日本に立ち寄ると、日本には中国革命への同情者が多かった。そして民間志士から庇護と援助を受けることが出来たため、彼は日本という革命拠点を得た。彼は日本人同士を心から信頼した。再び広東での蜂起を計画して以来、辛亥革命、第二、第三革命に至るまで、資金も参謀も持たない彼は、それらを主に日本人に依存した。
 孫文が日本をモデルにして来た自分の眼に狂いはないと確信したのは、日露戦争での日本の勝利を目の当たりにした時だった。滞在先の欧州から直ちに日本に戻った。ここで彼はアジアの勃興を期待し、そのリーダーとして日中が提携することを夢みた。孫文の革命思想は、腐敗した清朝を打倒し、西洋侵略勢力の中国からの駆逐を目指すものであった。そのためにも日中が連合すべきことを常に強調していた。中国革命同盟会の綱領にも、特に「中日の国民連合を主張する」の一条が掲げられている。孫文が日本を同文同種の兄弟国と信じ、日本人をアジアの先進民族と尊敬し、彼を支援する日本人志士の友情に感謝していた。
 そのような孫文の親日感情を現代の中国人は事実と認めない。孫文の側近も務めた汪兆銘は、支那事変の時に日本と和平を結んだかどで、「民族の裏切者」「漢奸」として千古の罪人になっている。ところが、孫文は汪兆銘以上に「親日」で、日本政府の「二十一か条要求」を呑んだ袁世凱は中国では国賊扱いにされたが、同時期に孫文は、それと近い内容の「日中盟約」案なるものを、自ら進んで日本の外務省に提示し、日中提携を求めている。日本と組んで満州皇帝になった溥儀は「偽皇帝」として戦犯となったが、孫文は日本人に、満州の日本への譲渡を約束したこともある。もちろん、こうした事実を中国人はあまり語らないし、黙殺する。

3,なぜ中国人以上に革命を支援したか
 宮崎㴞天は中国革命に最も貢献した日本人として、今日でも共産党からも国民党からも、中国人には高く評価されている人物だ。平山周は、東洋平和の確立には日支の提携が必要、そのためには清朝を覆滅しようと誓い合った宮崎の早くからの志士で、1931年、蒋介石の国民政府から陸海空軍総司令部顧問に招聘されている。二人は孫文に日本滞在を勧め、支援者として犬養毅を紹介した。当時小村寿太郎外務次官は、日清戦争直後の日清関係修復に不利だから孫文の滞留に反対したが、犬養は大隈重信外相に孫文の庇護を訴え、認めさせた。孫文は東京、横浜で居を構え、玄洋社の平岡幸太郎が生活費の援助をしている。また犬養の紹介で、玄洋社の頭山満という強力な支援者を得ている。
 1898年秋、孫文は革命支援を願い出たのが内田良平だった。浪人界の巨頭とされた内田は、叔父平岡浩太郎の感化を受け、21歳で朝鮮での東学党の乱が起こるや直ちに呼応し、天祐俠というグループを組織して朝鮮各地を転戦、その目的は日清戦争を誘発し、清国の勢力を朝鮮から駆逐することにあった。日清戦争後、三国干渉で遼東半島をロシアに取られると、単身シベリアを横断してロシアの国情をつぶさに調査し、対露戦争の勝利を確信して、開戦を唱えた。内田は「支那の革命は必要だが、まずは日露戦争を待つべきだ。そうでなければロシアが革命の混乱に乗じて支那の領土を侵略する恐れがある」と諫めた。だが孫文は「黄河以北をロシアに取られても大したことはない。日支が提携すればシベリアまでも取り返すことが出来る」「革命の目的は満人王朝打倒であり、実現したら満州は日本に譲り渡す」と。これは内田の対露防衛構想と全く合致するものだった。内田の心は動いた。内田は孫文の申出に協力を約束、以降内田は孫文の最も戦闘的な同志として、日本人志士を指導しながら中国革命を支援していく。
 1905年、中国革命同盟会が東京で発足したが、この在日革命派グループの大同団結にも日本人志士たちが深く関わった。この年孫文と黄興を引き合わせ、団結を促したのが宮崎滔天と末永節だった。末永は内田良平と沿海州でロシア帝国の転覆工作に従事していた志士で、内田と共に孫文を支援していた。

4、辛亥革命を推進した日本人志士たち
 1911年10月10日、長江中流の武昌に駐屯していた清朝の最精鋭部隊、新軍(新建陸軍)の革命運動を支持する将校の反乱に始まる辛亥革命は、大勢の日本人志士が欣喜雀躍して参加している。日本人で革命一番乗りは大連から駆け付けた末永節で、その直後に現地入りした黄興と共に戦闘に加わり、また革命軍のため外交問題の処理に当っている。黄興は萱野長知に打電、日本人志士の来援を要請、日本人志士が漢陽の前線に加わった。陸軍中佐大原武慶も武昌蜂起時、革命軍の黒幕になって滞在しており、挙兵が起こると幕僚となって作戦の立案に参加。湖北陸軍の顧問として現地にいた寺西秀武中佐も革命軍を指揮した。このように革命戦最初の戦闘では、大勢の日本人が主導的役割を果たし、ドイツ軍艦が清政府軍を支援したことから、漢口の外国人は「これでは日独戦争だ」などと評した。
 内田良平の黒龍会の壮士、豪傑たちも、辛亥革命で大活躍した。内田は黒龍会から先ず北一輝を上海に送った。更に黒龍会から壮士が送り込まれ、東京に残った内田は、日本政府の革命への干渉を排除することだった。日本における反中国革命の先鋒は元老山縣有朋で、軍の出兵も計画していた。革命による共和革命の思想が日本に流入することを懸念、当時の西園寺内閣も静観を装っていたが、革命は歓迎していなかった。そこで内田は革命支援(妨害中止)の説得工作を開始した。内田は政府、軍部に遊説活動を行っている。要路に示した主張は「支那改造論」によって明らか。①日本は列国を指導して支那の共和政治建設に協力させ、支那分裂を回避する。②清の皇帝に、世論を鑑みて政権を支那に返還させ、共和政治建設に同意させる。③日本は清の皇帝と革命党との間の調停者となり、すみやかに戦闘を停止させる。清の皇帝は奉天に退き、永遠の尊厳を伴う待遇を受けさせる。
 内田の構想は滅満興漢の革命を認めながらも、満州の地において清朝の潜在的な主権を認めて日本の保護下に置き、そこに日満蒙鮮支の五族協和圏を打ち立てようとするものだった。黒龍会が革命を支援して中国の新生を願ったのは、列強に対抗するために日支提携を実現するという東亜戦略があった。なお「支那改造論」は日本では多くの識者の支持を得た。そして上海で翻訳され、全中国の革命党員に配布され、内田良平の名は瞬く間に広まったものの、後年日中関係が悪化してからは、満蒙侵略の急先鋒として憎まれることになる。
 このほか、武器弾薬の不足に悩む革命軍は特使を内田の下に送った。内田は革命支援を決めていた三井と借款交渉を行い、内田対三井の名義で三十万円の借款を成立させ、これで陸軍払下げの大砲、小銃、弾薬を購入した。こうした経緯から、中華民国臨時政府が樹立された直後、内田は新政府の「外交顧問」を委嘱された。
 漢陽が陥落する二日前、萱野長知は二通の電報を打った。一通は「早く帰って事態の収拾を。黄興、黎元洪だけではだめだ」と、米国滞在中の孫文に帰国を求めたもの。もう一通は「革命が成功しても人物がいないので、誰か来てほしい」とする、日本の頭山満、犬養毅に宛てた来援要請だった。孫文は自分の出る幕がなかったので、面子が立てられるよう、米国から欧州へと資金集めの旅をつづけた。これに対し、頭山、犬養らは上海に渡り、革命支援本部を設けた。「玄洋社の頭山満」といえば、政財界に対して隠然たる影響力を持ち、伊藤博文でさえ怖がったいたほどの人物、戦後玄洋社は右翼的国家主義的な団体などと簡単に片づけられているが、明治から昭和にかけ、国会開設要求運動、不平等条約反対運動、対清・対露戦争の推進といった歴史に名を残す活動を展開、また大アジア主義によるアジア各国の独立支援といった興亜運動でも知られる。頭山は後々まで、アジア各国の独立運動指導者から尊敬を受け、「アジアの巨人」とも呼ばれた。中国革命に対しては「日本と支那は夫婦同然」との信念の下、日支提携を核としたアジア建設という構想から支援を惜しまなかった。その彼が上海に入ったというだけで、日本政府の反革命的動きに対する大きな牽制になった。
 当時大元帥になっていた黄興は、このアジアの巨人の来訪を心から喜び、日本政府の動向について三時間に及ぶ協議を行った。その後帰国した孫文も、頭山、犬養の手を取って、感激のあまり泣き出したという。
 革命政府=中華民国臨時政府の樹立後、頭山と犬養は中国を代表する政治家で、当時北の袁世凱、南の岑春煊とも称された前四川総督岑春煊(しんしゅんけん)と面会し、孫文との提携を求めている。それは孫文、黄興、宋教仁らだけで新政権を担うのはあまりにもにも無理があるとの判断からだった。岑春煊は承諾したものの、孫文の方が清の元大官との協力を拒絶したため実現しなかった。この大局をわきまえない孫文の姿勢に、頭山と犬養は大きく失望したという。なお岑春煊は「犬養は見識が高邁で、言論は一つ一つ要点を押さえた真の政治家である。頭山は気象雄大で、これを豪傑の士というのだろう」と、大いに二人を称賛していた。
 1912年元旦、南京における中華民国臨時政府樹立の前後から、資金が欠乏していた革命派側には、革命の大敵である北京の袁世凱と和解、合流し、新政権を延命させようとの空気が蔓延していた。そのような妥協的な雰囲気の中、日本人志士たちは相変わらず、ある意味では中国人以上に革命戦争に熱中していた。この頃、袁世凱軍の増派を警戒する黄興は、その阻止を日本人同志に要請した。そこで金子克己、岩田愛之助ら七人は、いっそ袁世凱を暗殺してしまおうと考え、清国政府のお膝元である天津へ嬉々として向かった。岩田愛之助はその後右翼の大物となる人物で、彼の作った愛国社から浜口雄幸首相を狙撃した佐郷谷留雄を出している。この当時岩田は漢陽の戦闘で負傷し入院中だったが、この決死行を耳にするや、爆弾を携えて駆け付けた。七人が天津に到着すると、彼らの計画はすでに敵側の知るところとなり、袁世凱は手荒なことを中止させよと日本公使に泣きついている。

5、打ち破られた「中国覚醒」の幻想
 南京の革命政府と袁世凱の北京政府とが合体し、袁世凱に臨時大総統の座を譲り渡すという妥協が伝わると、頭山満、犬養毅、内田良平らは一様に反対し、北伐を主張した。内田ら大アジア主義者が孫文の革命を支援したのは、列強の侵略になす術を持たない腐敗堕落した清国政府を打倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強を図ろうという孫文の主張に共鳴したからだった。しかし彼らの目には、袁世凱はそのような理念をとても解せる人物に映らなかった。しかも袁世凱は、日本は満州を奪おうとしているとして、革命派の反日ナショナリズムをたきつけるなど、日本人から離反させようともしていた。当時、内田は宋教仁と桂太郎との会見をセッテイング、山縣有朋を通じて日本政府を動かし、袁世凱に圧力をかけて革命派を間接的に支援する手筈だった。しかし宋教仁は渡日に延期を重ねるうち袁世凱側によって暗殺された。これで内田の計画は沙汰やみになった。
 こうして政権は北京へと奪い去られ、内田は激怒した。「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と何ら変わらない。アジア開放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を抱きつづけたことは誤りだった」として、長年の革命支援を打ち切ることにし、多くの日本人志士たちもこれにならった。しかし、反袁世凱の武装蜂起となった第二革命(1913年)の戦いが起こるや、ふたたび大勢の日本人が孫文を支援するため中国に渡って活躍した。再び敗れて日本へ落ち延びた孫文や黄興の生活や活動に対しても多大な援助を行っている。

6、「同種同文」幻想に陶酔する日本人の危うさ : 黄文雄氏の分析
 日本人志士たちは、孫文の満州譲渡の公約を信じ、あるいは新中国樹立による日中提携とアジア防衛に期待を寄せ、中国の革命支援に心血を注いだが、そのような国家戦略的な動機だけでは、彼らの行動は説明しきれない。なぜなら彼らは、あたかも我がことのように活動に従事し、挺身していたからだ、と黄氏。日本人志士たちが中国の亡国的惨状に心から同情していたのは事実である。頭山満にしても内田良平にしても、彼らの中国人への同情心や連帯感の根底には、同じアジア人としての、特に「同文同種」の親近感があった。そこで燃え上がったのが、苦境に陥った兄弟を助けるという義侠心だった。それに加え、士族出身である彼らの「義を見て為さざるは勇なきなり」「弱きを助け強きを挫く」「身を鴻毛の軽きに致す」といった武士道精神が大きく作用していた、と分析する。そして言う。黄氏の見たところ日本人は同文同種という言葉の響きに陶酔しがちな気がする、と。戦前だけに限らず、戦後の日本人にしてもそれは言える。そのような言葉に酔って、中国という国に対し無批判にロマンを感じたり、憧れたりする傾向がみられる。だが果たして、日中は本当に同文同種と言えるのだろうか、と。両国は同じアジアの国、漢字文化圏、儒教文化圏に属しているとよく言われる。しかしじっさいには、日中の文化や民族性には驚くほど隔たりがあり、同種と括るにはほど遠いものがある。つまり、幻想である、と黄文雄氏は言う。実際あの国へ行き、あの国の人々と深く交わるまではなかなか抜け出す事の出来ない、日本人の根の深い幻想なのだ、と。確かに、戦後の日中国交正常化以降、日本では異常な日中友好フィーバーが巻き起こったが、その後の経緯は皆が知るところで、最近の世論調査では中国に親しみを感じない人々が大多数である。これは同文同種の幻想から解き放たれたという。その通りだろう。しかしこの欄では、中国脅威論も払拭したいと考えている。もっともっと中国の実像を見ていきたいのだ。

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日本に学んだ清朝末期「黄金の十年」:「支那の覚醒」とは当時人口に膾炙した

2023年12月11日 | 歴史を尋ねる

 中国と同様、西洋列国に迫られて開国を余儀なくされながら西洋の先進文化を摂取して近代化を成し遂げ、わずか三、四十年で清国、ロシアを打ち破った日本は、中国の官僚、知識人の目を見張らせた。東海の一小国として見下していた日本だったが、彼らの日本に対する思いは尊敬に変わり、日本を手本に近代改革に乗り出した。実に、二千数百年来の中華帝国君主独裁体制の抜本的な大変革の動きといってよい、黄文雄氏の眼には、そう見える。一般の史書にはなぜかあまり触れられていないが、日清戦争の終結から清朝崩壊まで、1895年から1912年までの十数年間は、当時世界からも「中国の日本化」と称される時代だった、と。米国学者ダグラス・レイノルズは、1898年から1907年までの十年を、日中関係が調和と提携に満ちた「黄金の十年」だと評価している。+
 このような見方に対し、中国ではお決まりの「日本陰謀史観」から、「友好」の仮面をかぶり、留学生を招いて日本の傀儡を作り、あるいは改革に協力することで中国で指導的地位を確保しようとした、との見方が得られる。日本がやることなす事すべてが侵略のための陰謀だったとなる。もちろん日本の改革支援は基本的には国益に基づいてのものだった。だがそれを友好の仮面と断じるには、日本の官民には「ボランティア精神」なり「思いやり」や「義侠心」なりがあまりに旺盛だった、あまりにも献身的で自己犠牲的だった、と。

 「清国保全論」とは当時の日本の政策であり、世論だった。西洋列強の中国進出はと領土の分割は、隣国日本にとっても脅威であり、日中は提携して西洋の東亜侵略勢力に対抗しなければならないという考え、そのためには何としてでも中国を目覚めさせ、日本同様に近代化を押し進めさせ、日中の強力な同盟関係を築きたかった。「支那の覚醒」とは当時人口に膾炙した、中国に対する期待を込めた言葉だ。これは明治維新から大東亜戦争終結までの間、中国が「日本が中国の征服を企み、侵略を遂行した」と言ってやまない時代に、一貫して用いられた言葉でもあると、黄文雄氏の分析は鋭く正鵠を得ている。日本の史家がこうした分析が出来ないのは、なぜなのか。あまりにも、相手の言分に押されて、予断が入りすぎているのかな。
 中国に対する期待は西力東漸の脅威に直面する同じアジア人としての同情心、親近感、愛情に裏付けられたものだった。ことに「黄金の十年」においては、「日中はもともと兄弟の国である。たまたま朝鮮問題を巡って憎しみあっただけだ」といった認識が普遍的だった、と。日本人の中国人に対する「義侠心」とは、幕末からの攘夷精神の延長であり、拡大だった。それは侵略者に対する武士道的な正義感の発露だった。そのような「運命共同体」意識の下で多くの日本人は、勇気と英知を発揮しつつ、時には身命を賭してまで、この国の進歩のために働いた。そして多くの中国人官僚、知識人は、その友情に感謝し、そして応えた。清末思想界のリーダーの一人梁啓超は当時、「他日、日中が合邦して黄色人種の独立を守り、欧州勢力の東漸を途絶えさせる」とまで言っていた。
 黄文雄氏はこうも言う。当時の日本人のこうした打算をも超越するような民族的な誠意やまごころは、現代の人々には理解されにくいかもしれない。何事も「打算」「陰謀」「偽善」という角度からしか物事を見ようとしない中国人には、なお信じ難いところだろう、と。もう少し言えば、まごころとか義侠心、同情心や親近感などの言葉がなかった国の人には、理解を求めても難しい。

 朝野をあげた日本視察の奔流
 戊戌政変後、西太后は再び政権を握り、維新事業をすべて廃止し、旧来の政策へと逆行した。そこで発生したのが義和団の排外騒動、事態は北清事変に発展したが、事変に対する失策の責任を回避するため、1901年1月、逃亡先の西安で皇帝名義の上諭を発し、中国及び西洋諸国の政治を参考に、群臣に意見を求めた。この新政、光緒新政という新たな近代化の動きが開始された。近代化政策の方針として、人材育成、科挙の廃止、学校設立、各産業の振興、軍備の整理、法律の改正、警察・裁判制度の確立等が訴えられた。そして欧米諸国をあまねく視察するのが好ましいが、まずは日本の視察を急務とすべき、と。かくして海外視察は国論となった。1903年頃から視察はブームになり、中央、地方による半ば強制的な視察派遣であった。「近代中国官民の日本視察」の統計から、十年間のジャンル別の視察者数は、教育516名、政治247名、軍事189名、実業188名、警察・監獄146名、地方自治134名、法律・裁判52名。日清戦争後、「商務はわが国の富強の基」であるとして商業視察を命じられた劉学洵一行は、東京では三井、三菱、日本銀行、正金銀行などを含む財界、工商界首脳による盛大な歓迎会に出席、商工会議所渋沢栄一より、励まされた。「日本は国土が狭く物産も少ない。しかし維新以降、君臣上下が一体となり、商業の振興が富国の基礎であるとの認識で、その経営に務め、ようやく今日の進歩を見るに至った」「貴国は広大で人口も多く、商人も労苦に耐えることを知っている。もし今後進歩を求めようとするなら、世界中の商業もかなうことは出来ないだろう」と。劉学洵は日本で多数の会社や工場を視察し、商工業の近代化の成功が日本の富強の原動力であることを確信した。一連の見学は彼に大きな感慨をもたらした。王子製紙で紙の製造の全工程を見て、中国は最も早く紙をつくったが、現在は遥かに遅れている。日本の製紙技術には欧州も及ばないだろう。恵比寿麦酒の工場では、日本のビールが西洋のビールの輸入にも耐え、中国沿岸部や南洋諸島にまで輸出されていることを聞き、競争力とは不断に技術を改良し、製品の質の向上を行ってこそのものである、と知ったという。
 1902年に農業視察に訪れた直隷省の農務局長黄璟(こうれい)は日本の近代化を心底絶賛してやまなかった。「日本国内は田畑が図画のように整備され、男女問わず勤勉だった。学校は林の如く、鉄道は織(ぬの)の如しだ。学ばない人はおらず、精通しない学問もない。およそ商業、工芸、軍備、警察、開墾、鉱産発掘などの諸事業には力を注ぎ、行われている。四十年足らずで西洋と肩を並べるに至ったのは、僥倖だという事ではない」 この時黄璟は、「中国を改良進歩し、友邦と共にアジアでそばたとう」と日記に残している。
 四川省が派遣した丁鴻臣の観察記録によると、案内役の福島安正陸軍少将は、「ロシアに対抗するため、日本は中国が軍事制度を整備し、全力を挙げて日本と提携することを心から期待している。シベリア鉄道が完成したら取り返しがつかないことになる」として相互援助を訴えた。また青木周藏外相も、「学校と新軍建設は急務だが、学校の効用は遅いから、軍の建設に全力をかけるべきだ」と進言した上で、「最近のロシアの大連、旅順進出は東洋の恥であるから大いに争わなくてはならない。中国が強くなければ日本は独りで争うことになるから、中国からの要望があれば、日本は全力で援助することが出来る」と語ったという。丁鴻臣は帰国後、中国は日清戦争での怨みを捨てて建軍を行い、日本を援助してロシアに対抗すべきだという提言を行っている。
 海国以来、日本人の間で広く唱えられていた日中提携によるアジア防衛といった軍事戦略構想は、たえず中国側の無理解、日本に対する誤解、あるいはその時々の情勢によって実現できなかった。しかし日中の信頼関係が醸成されていた「黄金の十年」のこの時期、その構想は確かに実を結ぼうとした、と黄文雄氏。

 明治憲法がモデルの立憲改革
 清国が開国後数十年を経ても憲法を制定せず、専制体制を守ってこられたのは、専制国ロシアの発展を口実に立憲論議を抑えていた。しかし日露戦争でロシアが敗れると、朝廷も立憲という抜本的な国家改革の乗り出さざるを得なかった。清国政府が立憲制度の導入に反対したのは、憲法が制定されると皇帝の権力が制限されるからだった。そうなれば、その権力下で保障されていた官僚たちの権益も大きく損なわれる。官僚というものは改革を嫌うものであり、特に眼中に国家存在のない中国官僚の場合は、昔からそうだった。中国の歴史上、改革という改革がほとんど失敗しているのは、官僚が反対するからだ、と。ところが、視察者たちの日本の憲法に関する報告を西太后一派を動かした。彼らの報告は、「国の内政、軍備、財政、議会の操縦について、君主は統治権を有する。君権は完全厳密である」といって、君権は安泰という事ばかりが強調され、臣民の権利や国民の民主的機能に関する条項について、あまり語られなかった。こうして西太后は、1906年、立憲政治の準備を命じ、予備立憲、官制改革の乗り出すことになった。
 西太后に憲法改革を同意させた政治視察大臣載沢(光緒帝の従兄弟)は、最初に日本を訪問、大歓迎を受け、首相、外相、陸相と会見、天皇にも拝謁した。憲法講義を担当したのは、伊藤博文、金子憲太郎、東京帝国大学穂積八束であった。憲法導入で国体は変わらないのかとの質問に、穂積は「国体は歴史発展の産物。日本は憲法と国会を設けたが、固有の君主国体の妨げにはなっていない」と説いて一行の懸念を説いている。また伊藤は、「憲政には君主立憲国と民主立憲国の二種類がある。貴国は数千年来の君主国であって日本と同じだから、日本の政体を参考にしたらよいのではないか」「君主立憲と専制の最も大きい違いは、立憲国の法律は必ず議会の協賛が必要だということ。法律は全国で統一しなければならない」と。載沢は日本での視察を終えた時点で早くも、日本をモデルに、と考えた。英国等を経由して帰国した載沢らの上奏によって清国の予備立憲が決定されると、憲法調査のため達寿、続いて李家駒が日本憲法視察大臣として派遣された。清国政府は総理大臣桂太郎と伊藤博文に直接支援を依頼し、明治天皇も伊藤に十分世話をせよと命じた。一年間に亙り講義を受けた李家駒はすっかり日本に心酔し、中国が大日本帝国憲法と同様、欽定憲法の制定を主張するようになった。
 「日本の憲法が有効に実施されたのは、事前に二回も官制の大改革を行ったからだ」という日本視察者端方の意見により、1906年9月、清国政府は立憲の手始めに官制改革に着手した。端方が提示した改革案は、①中央行政統一のために責任内閣制を導入、②全国の機関運営を円滑にするため、中央・地方の権限配分を確定、③中央各官庁の整理・統廃合、④地方行政制度の改革、⑤官吏体制の改革などで、どれも主に日本を参考にしたものだった。当初は保守派から激しい反対意見が続出したが、日本で研究を重ねた視察組が中心となり、着実に進められた。李家駒などは日本を例に、宦官の排除を含む皇室制度の改革まで提言した。立憲のタイムスケジュールでは、準備期間九年を経て憲法を発布するとされた。この期間内に中央・地方行政、司法・立法機関の制度的整備確立や各種法律の改正、また国民の啓蒙教育を行う事だった。第九年目には憲法のほか、皇室大典、議員法、上下議院の議員選挙法の公布、予算決算の決定、新たな中央・地方官制の完全実施、国民の識字率の5%までの引き上げも行われるとされた。「日本並み」を目指す、近代国家プランであった。
 1911年7月、李家駒は憲法協同編纂大臣に任命され、汪栄宝とともに八十六か条百十六項目からなる中国初の憲法草案を完成させた。しかしこの年10月に勃発した辛亥革命によって、この草案は永遠に葬られた。
 革命の勃発に狼狽した清国政府は康有為や梁啓超の指導を受け、11月3日に立憲制への移行を明言した「憲法信条十九条」を発布している。もはや大日本帝国憲法より現行の日本国憲法に近い内容だった。国会が法律を制定し、内閣が行政を担当すれば共和政治と実質的に同じだから、革命派も納得できるだろうという考えからだが、皮肉にも清朝廷の実権は、この新憲法で内閣総理になった袁世凱に簒奪され、間もなく清国は滅びた。

 懲罰主義から日本式裁判・監獄制度へ
 清末に確立された司法・裁判制度は日本を模倣したものである、と黄氏。裁判や監獄制度だけでなく、近代中国の法制度は決定的に日本の影響を受けることになった。当時出版されていた法律書の多くが日本視察・留学経験者の手になる日本書の翻訳だったことも、その大きな原因である、と。

 日本で学んだ「時間の観念」という思想大革命
 中国では時刻を公布するのは皇帝の大権とされていたものの、実際は様々な地方時間、自然時間、社会時間が存在していた。だから中国に渡った西洋の宣教師などは、正確な時間が分からないことを生活上の最大の悩みとしていたという。西洋から時計が紹介されたのは明末、二十世紀初頭には、香港、マカオなどの通商港の商店には軒並み時計が掛けられていたが、時間が正確かどうか誰もわかっていなかった。中国では時計は、官僚、商人など裕福層のアクセサリーにすぎなかった。その中国に「時間の観念」を広く紹介したのが、日本から帰った視察者、留学生たちだった。西太后の新政以降の日本への視察者たちは、まず日本へ向かう船の中で、出発から食事、点灯、消灯、下船まで、あらゆる作為が時計の時間に照らして行われることを知る。到着後の行動は、すべて時間にのっとってたことは言うまでもない。おそらく彼らは、まず何よりも時間の支配というものを通じて、近代社会という別世界の味を味わったことだろう。彼らの視察記録の多くには、洋式の日付、時間が書き記されていた。江蘇省の民族資本家で立憲運動の中心的指導者であった張謇(ちょうけん)もそうした一人であったが、彼は帰国後もその習慣を守り続けた。張謇の建白によって清国政府は、産業、通商などを司る商部の設置に合わせて、「1903年3月、鉄道、通信、関税などの政府事業にグリニッジ標準時を採用した。
 中国にもたらされた時間の観念は、政治、社会、産業の近代化を促進する上で大きな力となっただけでなく、知識人に対しても文化的な大変革をもたらした。この点について黄文雄氏は、フランスの学者マリアンヌ・ブルギエールの論文「時間の解釈と日本の影響」の言葉を引用しながら解説する。  中国人はそもそも一般に、時間を周期的時間と直線的時間の組み合わせとして考えていた。だから実質的内容はどうあれ、発展とは古代の理想を実現することと認識されており、それを未来に結び付ける感覚はなかったし、歴史は鑑(かがみ)であって、そこでは現在が規範とすべき理想を過去のできごとが再現していると理解していた。だから歴史の観念は確かに過去と現在を包摂していたが、未来を表すはっきりした言葉はなく、それはときに前古に対する前途、前世に対する来世として表現されていたにすぎなかった。ところが中国人が日本で経験した標準化された時間のなかでは、あらゆる瞬間は均質で一律に測定されるものであった。現在と比較して過去の特別の優越性があるわけではない。時間は使うものであり、現在の各瞬間においてもっともよく使うことが出来るので、事実上、現在が過去より重要になった。こうした時間意識の精神的変革は、若い知識人たちの中国の過去に対する考えのなかに忍び込んでいった。これにより、彼らは自分たちの歴史から距離をおいて考えることが出来るようになった、と。
 中国人にとって最高の文化とは中国尚古文化であり、唯一絶対の信仰対象ですらあった。進歩という思想の採用は、その信仰を放棄することに等しく、まさしく思想革命の名に値する、と黄文雄氏は分析する。日本人は外来思想の摂取に比較的柔軟だが、中国人はその逆である。その分、日本人にとっての文明開化以上の思想大革命だったと言えるだろう、と。当時多くの日本書が翻訳されたが、そのなかには西洋各国や日本の歴史に関するものが多かった。それらは文明の進歩を記述する西洋の歴史学の基づいたものである。そして時間の観念は、中国の過去の歴史、文化を謙虚に見つめ、分析する契機を与えた。

 国民国家をめざした日本型教育システムの導入
 明治維新後の日本政府は、教育の普及発展こそ近代国家発展の最も有効な手段と考え、明治4年(1871)に早くも文部省を設立し、翌5年には小学校から大学に至る近代教育体系(学制)を決定した。その後の学校令で小、中学校と大学の系統が整備され、別系統として師範学校、そして実業学校、専門学校が設置された。清国において日本の教育の目覚ましい発展ぶりに着眼したのが、康有為ら変法自強運動に人々だった。彼らは近代国家が強大なのは機械や兵器が優れているからだけではなく、根底に研究や教育の普及があるからだと確信し、変法と共に興学を主張し、日本をモデルとした教育改革、つまり洋務運動時代の人材教育から国民教育への転換を訴えた。彼らの運動は戊戌維新とともに挫折したが、その人材育成の教育理念は、西太后の新政後に受け継がれ、結実していく。
 1904年、張之洞や管学大臣張百煕が「奏定学堂章程」を提出し、中国最初の学制として施行された。これは近代中学の教育システムの原形だが、学校の編成といい、修学期間といい、内容のほとんどが日本の学制の模倣であり、違うと言えば名刺の違いぐらいだった。この学制はその後改訂が加えられながらも、基本的には中華民国や今日の中華人民共和国にまで引き継がれている。「奏定学堂章程」には、「村に不学の戸なく、家に不学の人なし」とする日本の義務教育施行の理念がそのまま盛り込まれている。これは中国の文化史、社会史上特筆すべきことだと言ってよい。この国における学問とは、あくまで「四書五経」に代表される儒教イデオロギーを中心とした支配階級(官吏)の為の特権であり、立身出世、一門栄華の道具であり、大多数の民衆とは無縁のものだったからだ。むしろ支配階級の都合(愚民政策)から、民衆が学問することは危険視されていた。「祖法」に固執し、「改革」を嫌う中国において、これは革命的なことだった。1907年には、「強迫教育(義務教育)施行令」が公布され、学齢児童を就学させない父兄の罰則規定も設けられた。当時の小中学校では、日本式に図画、体操、音楽などの教科も取り入れられ、生徒たちの世界を大きく広げた。ほとんどの教科についてはもちろん教育に当たる人材がいなかったため、日本留学帰りの者や日本人教員が教える場合が多かった。日本を模倣し、中国に近代的な教育制度を根付かせた大功労者は厳修。厳修は科挙出身ながら革新精神に富み、日清戦争の敗北で世界の趨勢に対処し得る近代的教育制度の必要性を痛感し、科挙の科目に「経済」を加えるよう上奏し、それが原因で一度は免官されたが、自費で日本を訪れ、幼稚園から大学に至るまで、幅広い視察を行っている。帰国後、日本で得た知識を生かし、袁世凱総督の指揮の下で、直隷省で教育行政を指導し、数多くの各種学校の設立に関わった。1906年の統計では、同省では北洋大学堂以下、医学堂、農学堂、師範学堂、そして各地の小学堂に至るまで、総計四千三百余校の新式学校があったが、その大半は厳修の在任中に開設された。厳修の導入した日本式の教育行政は大きく進展し、やがて全国的なモデルとなった。また自ら再度日本を視察しただけでなく、積極的に日本への視察、留学を奨励した。
 また、中国では教育の最高行政機関として「学部」が設置された。それから間もない1906年1月、直隷省での実績が認められた厳修が学部の事務次官に抜擢された。彼は文部大臣栄慶の尻を叩きながら、彼が中心となって新教育制度の確立を行った。更に日本を模倣しなければならないと考えた厳修は、日本における教育の指針「教育勅語」に注目し、1906年3月、その中国版である「教育宗旨」を起草して皇帝に上奏し、全国に公布した。「教育宗旨」は忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実の五項目からなっていた。尚公とは省と省、州と州、県と県、ひいては郷、里、家、族同士の間に境や縄張りが存在しているが、それを克服して全国民を団結させ、公徳や団体の効果を教えて、国民一人ひとりが他人を自分のように扱い、国を自分の家のように愛するように教育を行わなければならないというものだ。これは教育勅語の「兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし」である。今日の日本人は前近代的、封建的と見る向きもあるが、厳修は当時中国人の前近代的な民族性を的確に見抜き、このような形で抜本的に改めようとした。黄文雄氏は厳修のこの慧眼に敬意を送っている。

 川島浪速によって生まれた近代警察組織
 北清事変中、北京で日本軍は軍事警務衙門を設置し、治安の維持に功績があった。その顧問として柴五郎中佐の下で任務にあたり、市民の尊敬を集めていたのは川島浪速という人物である。川島は副島種臣や榎本武揚が明治13年(1880)に組織した「興亜会」に入会、その後アジアの復興と西洋侵略勢力の駆逐という志を立て、同郷の福島安正少将の紹介で中国に渡り、活動をした。日清戦争の時には陸軍通訳官となり、乃木希典将軍率いる第二師団の台湾征討に従い、豪胆な交渉で強力な六堆義軍を帰順させるなど勲功を立てている。また北清事変で、独軍に紫禁城の砲撃を中止させる役目を買って出た日本人が、この川島だった。これによって清軍はようやく降伏した。福島少将は川島に日本軍と清国軍二百を与えて、紫禁城を中心とする北京市内の警備を任せた。そして軍事警備衙門が発足すると、その顧問になった。
 清朝時代、兵力として当初は八旗軍と緑営があり、その後新興の郷勇や新軍があったものの、近代警察に相当する治安、公安組織はなかった。川島は、今後中国国内の混乱を国際紛争に発展させないようにするため、中国人自身の手による警察制度の確立を発案した。ちょうど中国の朝野も日本の警察制度を賞賛しており、時期としてよかった。1901年4月、清軍の旧兵舎を利用して北京警務学堂という警察学校を設立した。川島は総監督に就任し、日本の文武官の中から中国語が出来る警察官や法律の人材を選んで講師にした。清国の陸軍から三百人余を選抜させ、軍事警務衙門勤務として講習を受けさせた。これが中国における近代警察の嚆矢であった。ところが日本軍が占領地区の民政権、警察権も返還、慶親王と李鴻章はこれを惜しみ、川島の留用を申出て、破格の待遇で、指揮監督の権限が与えられた。川島は警務学堂の制度の拡充を図り、5年間の卒業生は三千名近くに及び、入学希望者も逐年増加し、1906年には6千名を超えた。
 ある日、粛親王は川島宅を訪ね、川島と日清の提携について語り合った後、突然国と国が提携する前に、まず我々が兄弟の義を結ぼうと言い出し、義を結んだあと、子供のいない川島を気の毒に思い、第十四王女を川島の養女とした。これが後に「東洋のマタハリ」「男装の麗人」として有名になる川島芳子である。辛亥革命当時、川島と粛親王は満蒙独立運動を指導した。清朝崩壊後は王家も離散し、粛親王の死後、親王家の面倒を見たのは川島だった。

 近代教育を根付かせたのは日本人教員だった
 中国の近代改革における日本人の教育的貢献は、学校設立だけにとどまらない。新式学校における日本人教員の活躍は、規模という面ではさらに大きな貢献をしている。東文学堂の中島裁之は李鴻章に対し、日本人教員の招聘の必要性を説いたとき、李鴻章は即座に二千人を招聘するとの意向を示し、使者を日本に派遣した。文相菊池大麓は清国のため、優れた人材を送ると約束し、師範学校関係者を募集した。日本人の教員が大量に招聘されるようになったのは、1905年からである。日本人教員の任期は二、三年だった。多くは才能と品行が認められて選抜された教育者であり、また中国人学生も好学の気風が旺盛だったため、教育の成果は良好だったという。中国における新学の萌芽を育んだ日本人の功績は計り知れない。中でも特筆に値する貢献は、師範学校における新たな教育者の養成だった。新しい教育制度を打ち立てるに当たり、全国各省に多数の師範学校を設立した。そして多くの日本人教員がそれらの学校に赴任していった。
 日本では明治時代にはお雇い外国人教師がおり、教育の発展に多大の貢献をしたが、清末の日本人教員の貢献は、初等から高等教育に至るといった規模においても、全く無から着手したという意味において、それ以上に大きいものだったと言える。しかしこのような日本人による貢献も。、わずか十年ほどで下火になる。確かに辛亥革命による清国の崩壊が大量帰国のキッカケとはなったが、実はそれ以前から日本人教員は減少していた。その理由として、日本留学生が大量に帰国して日本人に代わり、日露戦争後の中国国民の間に起こった列国からの利権回収運動で、日本人が握っていた教育権も回収の対象になった。そしてもう一つは列国による妨害である。欧米諸国からすれば、中国の教育界を握る日本が煙たくて、「中国の日本化」は何としても阻止したい。これらの国が執ったのが、中日分離策、日本人排斥策だった。中国への勢力扶植に出遅れた米国は、二十世紀初頭以来、教育援助の形で中国進出に力を入れた。それだけに米国人のやり方は露骨だった。米国紙上で、日本人教員の排斥とそれに代わる外国人の任用、ミッション系の学校の開設を訴えた。教会からの潤沢な資金と治外法権に守られながら、中国の高等教育を牛耳っていく。
 米国政府は1907年、中国人留学生の無償受け入れ協定を清国政府と結んだり、翌年には北清事変の賠償金を一部返還して、留学生の経費に充てることを決定した。現在の精華大学は、返還された賠償金で建てられた米国留学予備校「清華園」の後進である。この時、外交的老獪さに欠ける日本政府は、こうした米国の動きに有効な対応策を講じることが出来なかった。後の中国での親米反日派が台頭したのは、このような争奪戦で、日本が米国に敗れた結果である、と黄文雄氏。確かに、ここまで中国の近代化に貢献しながら、反日になっていく過程は、日本人でなくとも、歯がゆいだろう。

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日本からの近代文化輸入が中国の文明開化をもたらす

2023年12月03日 | 歴史を尋ねる

 隋と唐から伝えられた制度、文物、典籍(仏教・儒教の経典)が日本人に与えた衝撃の大きさは計り知れないものがあり、それは明治の文明開化期における「西洋の衝撃」に匹敵するほどだったと言える。だから日本人の多くは明治以降、西洋の文化や価値観をあらゆる事柄の基準、尺度に用いようとしながら、その一方で中国文化を崇拝する抜きがたい心理が昔から強い、と黄文雄氏。そのような大きなスケールを伴う日中間の文化交流は明治時代、中国で言えば清末、中国が日本の文化的恩恵を大々的に受けた。中国は日本から近代文化(主に西洋文化、中国では当時これを「新学」とも呼んだ)を輸入し、中国に文明開化をもたらした。。
 文化交流はまず文献の交流から。中国の研究者によれば、清代の中国で最も早い時期に紹介された日本の書物としては、漢文で書かれた寺門静軒の「江戸繁盛記」と頼山陽の「日本外史」。この時期の中国の知識人の日本に対する関心は、近代化にはさほど向いていなかった。しかし日清戦争の敗戦で、自国が弱体であり、自らが世界の趨勢の取り残された「井の中の蛙」だったかを思い知らされ、日本経由で海外事情に関する書物が次々と翻訳、出版されるようになった。「西学を考究するには翻訳が第一義である。訳書を百万の学徒に供し、国家に貢献させる」とは、西洋文明の摂取を急ぐ中国の開明派知識人の共通認識だった。外国文化・近代思想を学ぶには、まずは外国の本の翻訳である。
 日本に渡って来た清国留学生の多くが、上陸先の長崎で受ける最初の衝撃は、そこかしこに見られる学童の姿だったらしい。「日本の学校の多さは、我が国のアヘン館の如し。その学生の多さは我が国のアヘン吸飲者の如し」と記録しているが、教育の普及が日本の進歩、発展の淵源であることを彼らは見て取った。そして新聞や刊行物の普及、どこにでもある書店、民衆の読書習慣なども、非識字者だらけの国からきた彼らには、強いショックを与えた、と黄氏。彼らを駆り立てたのは、日本で受けた文化的なショックであり、祖国の近代化建設や啓蒙への情熱だった、と前の項でも述べた。
 この頃、彼らが日本語版を翻訳し、中国人に紹介した西洋の思想的大家にはモンテスキュー、ルソーなど多数だ。ダーウィンの種の起源も翻訳され、進化論が初めて紹介された。その他にもアリストテレス、アダム・スミス、バクーニンなどの著書も紹介された。日本人では福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、中江兆民、幸徳秋水、などの著作の翻訳が歓迎された。 中国人の関心は、日本人がいかにして西洋文化を取り入れたか、である。福沢諭吉の著作は何点か翻訳出版されたが、もっぱら旧弊の打破を訴えた彼の啓蒙思想が注目された。加藤弘之の著作も多く出版されたが、社会進化論は魯迅はじめ、多くの中国青年に多大な影響を及ぼしている。政治学、哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学の本など広範にわたって翻訳された。王暁秋著「近代中日文化交流史」によると1850年~99年の50年間に刊行された翻訳洋書は英国人の著作が最多(51%)だったが、1902年~04年のわずか3年間で533点に上り、そのうち日本人の作品が(60%)と最も多く、第2位の英国人は11%、英米独仏併せても、25%だった。 譚汝謙編「中国訳日本書籍総合目録」の統計では、1896年~1911年にかけて翻訳された日本の著作は958点、その内訳:科学249点、技術243点、歴史・地理238点、政治・法律194点、語学133点、教育76点、軍事45点、経済44点、哲学32点・・・と続いている、と。このような文化運動がなければ、清末の改革運動や辛亥革命後の民国建国といった近代化の動きはあり得なかった、と黄文雄氏は説く。ウーム、その運動や革命に携わった中国人のバックボーンをこの文化運動がつくったという意味だろう。
 製紙術と印刷術は中国人が発明したと言われるが、中国で近代出版業が勃興したのは日本書の翻訳が盛んになってからだ。上海の商務印書館は1897年の設立時から日本の印刷機や活字を導入し、品質の高さで定評があったが、のちに日本の金港堂と提携し、事業の近代化を推し進めた。この出版社は、編集顧問として日本人を雇うと共に、十数人の日本人印刷技師を招いて印刷技術を学び、印刷量が中国一の大出版社となった。
 留学生によって翻訳された日本の出版物として注目されるものに学校の教科書があった。中国では1905年の科挙制度廃止と日本の学制を模した新式の学堂(学校)教育の導入で、多くの日本留学経験者が教壇に立つことになった。そして新しく採用された教科書の多くも日本のものだった。教科書訳洲輯社を設立し、日本の中学校の教科書を中心に翻訳して、本国の新式学校に広めている。同社が出版したものには「物理易解」「初等幾何」「平面三角形」「中等物理学」「中等科学」「中等動物学」など様々だった。後に中国革命同盟会で孫文に次ぐナンバー2になった黄興も、湖南編訳社を創設し、各レベルの教科書や参考書を翻訳して全国に広めている。
 中国での自然科学の知識は、これら学校教科書を通じて広められた。それまで中国では自然科学というものがほとんど発達していなかった。樊炳清が翻訳した日本の教科書で、「近世博物教科書」「普通物理学」「新編小学物理学」「近世科学教科書」は20世紀初頭の中国で」普遍的に採用されていた。笵迪吉は他の留学生たちと上海で会社を設立、そこで理系の教科書や大学生レベルの参考書を中心に百点近くの翻訳を行っている。
 日本スタイルの教科書が、科挙制度廃止後の中国の教育の近代化に大きく貢献した。清末の全国の学堂(学校)で普遍的に使われた後、辛亥革命後にも多くは継続採用された。ことに内容に政治的要素のない自然科学系の教科書は、表紙に共和国教科書との文字が入れられ、大部分は使用が続いた。日本の教科書を通じて中国の人々にもたらされたものは知識だけではない。日本人の文化的感性や思想的影響も計り知れないほど大きいものだったに違いないと、黄文雄氏は言う。

 1898年戊戌政変で中国を脱出した梁啓超は、軍艦大島で亡命先の日本に向った。その時艦長から見舞いとして政治小説「佳人之奇遇」を渡された。明治期の大ベストセラー、西洋から東洋を防衛するとの、大アジア主義を吐露した小説で、各国の独立運動家や亡命者もぞろぞろ登場する。内容は漢文調だから、梁啓超は難なく読めたようだ。すっかりこの作品、あるいは政治小説というものに魅せられ、さっそく翻訳に取り組んでいる。日本の政治小説は自由民権運動と共に登場して盛んになり、運動の衰亡と共に姿を消した。梁啓超は政治小説の著者が大政治家で登場人物に自分の政見を語らせている点に注目し、中国の国民の頭に入れさせる手段としては最も効果的だと考え、「佳人之奇遇」をはじめ日本の政治小説を翻訳出版し、中国の知識人の関心を集めた。
 中国語に翻訳された日本文学が広く読まれるようになるのは1920~30年代、魯迅や郭沫若、郁達夫らが日本の文学作品や文学理論を大量に翻訳してから。当時の代表的文学団体も、みな「日本留学帰り」が主流だった。「中国の文壇の大半は日本留学生が築いたものだ」と郭沫若。 魯迅は1902年から留学生活は7年に及ぶ。仙台医学専門学校に通っていたが、そこの授業で見た日露戦争の場面で、ロシアに通じた中国人が日本軍に処刑される場面で、同胞の処刑を無表情に眺めている中国人群衆の姿に衝撃を受けた。この時彼は「医学を学んで中国人の病気を治療したいと思っていたが、一つの国家の民族は、いかに健康であっても思想上の覚醒がなければだめだ。民族を覚醒させ、国民思想を改造するためには文芸で啓発しなければならない」と思うに至り、医学を捨てて文学を取ることを決意した。東京に戻った魯迅は独逸学協会学校に入るとともに、創作や外国作品の中国訳に取り組んだ。更に弟と共に英・独語作品を大量に翻訳し本国に輸出した。また魯迅が翻訳した日本の小説、詩歌、論文も60編を超えた。
 郭沫若も九州帝国大学医学部を卒業したが、彼も「医者は少数の患者を治すだけだ。祖国を覚醒させるには新文学を創造するしかない」と考え、医者ではなく文学者となった。帰国後、彼は北伐軍の政治部副主任になり、その後南昌蜂起に加わったため、蒋介石に追われて1928年、日本に亡命。約十年間千葉で著作活動に打ち込んだ。支那事変で抗日戦線に参加し、戦後は全人代常務委員会副委員長、中国科学院長、中日友好協会名誉会長などを歴任している。
 翻訳された日本の書物が中国の青年たちのもたらしたものは、西洋思想、または日本的西洋思想だった。それには啓蒙思想や近代哲学、自由民権思想だけでなく、社会主義思想も含まれた。中国で最初に翻訳された『共産党宣言』は、幸徳秋水と堺利彦の共訳の日本語訳を基にしたものだった。この日本語訳や、幸徳秋水などの社会主義者との接触から社会主義に目覚めた清国留学生は多い。中国における初期の社会主義は、当時の日本人の学説を抜きにしては語れないものだった。中国語訳された幸徳秋水の著作としては、「廿世紀之怪物帝国主義」「社会主義広長舌」「社会主義真髄」「基督抹殺論」などがある。ことに1901年に著した「廿世紀之怪物帝国主義」は中国で初めて紹介された反帝国主義の理論書であり、それが中国人に与えた思想的影響は大きかったと言われる。訳者は自立軍蜂起に参加した趙必振。彼が翻訳した福井准造著「近世社会主義」と幸徳の「社会主義真髄」は、清末の時代では社会主義学説のバイブルのようなものだった、と黄氏。

 中国で社会主義思想が本格的に広まっていくのは、1918年のロシアの十月革命以降だ。1921年7月にはコミンテルンの指導で中国共産党も創設される。創設当時の党代表12人中、陳独秀、李大釗、李達、董必武、李漢俊、周仏海の6人は日本留学組。李大釗は中国最初のマルキストと言われるが、彼は1913年に渡日し、早稲田大学で政治経済を学んだ。靖国神社の遊就館で、山のように積み上げられた日清戦争での鹵獲品を見てショックを受け、中華民族の開放を志すようになった。吉野作造や美濃部達吉などの影響で民主主義思想を研究する一方、幸徳秋水の著作や安部磯雄(社会民主党の創立者)の講義からも強い影響を受け、結局は共産主義への道を進んだ。1915年「二十一か条条約」問題で日本帝国主義や袁世凱政権に反対する運動を巻き起こし、帰国した。
 同じく政治経済学科には近代農民運動の先駆的存在である澎湃も、1918年から学んでいた。この年、留学生の間で起こった「日中陸軍共同防敵軍事協定」の反対運動に熱心に取り組んだ。また浅沼稲次郎らが学内で作った建設者同盟や堺利彦の宇宙社などにも参加し、社会主義者として日本の警察のブラックリストに載るまでになった。その後、京都大学教授の河上肇と会って以降、彼は河上に傾倒する。帰国後の1924年、共産党に入党、南昌蜂起などで活躍した。
 周恩来も日本で共産主義に目覚めた一人だ。救国の念に燃えて日本へ来た彼は、在学中に十月革命の報に触発され、京都帝国大学の河上の講義を聴講に行き、ついでに学長に入学の願書まで提出している。帰国は19年。彼のかばんには河上の著書が埋まっていた、と。

 日本は中国古典籍の宝庫だった。明治維新後に日清間の往来が始まると、その事が再び中国人に知られることとなり、失われた典籍の逆輸入が行われ、それらは中国における学術研究の空白を大きく埋めることになった。日本が中国から輸入した仏典籍やその他の書籍の多くは寺院で保存された。戦乱の際でも多くの寺院は破壊から免れ、また寺院も蔵書を大事に管理した。紙質を選んだり、土蔵で火災から守るなど、保存方法には細心の注意を払った。文化というものに対する信仰心や愛惜の念が、中国の古典を守り続けた。
 本国で失われた書籍を探し求め、清国の学者が大挙日本に押し寄せたのは1880~90年代である。清国初代の駐日公使黄遵憲は日本人が典籍だけでなく中国では貴重な経巻、書画なども多数所蔵していたことに驚喜すると共に、千五百年前の墨跡が鮮やかなままであるなど、保存状態の良さにも驚嘆している。二代目公使黎庶昌も、中国では見られなくなった典籍の多くが日本で残されていたことを喜び、楊守敬と共に2年間をかけてそれらを選び、「古逸叢書」として日本で出版した。そこには26種、計二百余巻が収められている。日本に滞在した楊守敬は、中国で散逸した典籍の調査、収集にあたり、日本の蔵書家たちの協力を得ながら最初の一年足らずで三万巻以上を購入している。これらは本国の学術研究に大きく貢献した。なお、明末の種族主義的色彩が濃厚なため、清朝では発禁にされていた著書などは、清国留学生にとって反満革命の入門書となった。彼らは日本の図書館で写し取り、本国で広め、漢民族主義の啓蒙に大きく役立った。

 現代中国語は日本製の漢語で成り立っていると、黄文雄氏。これは前々回の項『漢字と日本人』の趣旨と似ているが、ニュアンスは違う。加藤徹氏の言う『中国人は、19世紀末から、猛烈な勢いで日本漢語を吸収した。これは、中国人の都合だ。日本人の方が中国人より優れていた、という訳ではない。言うまでもなく、中国語に入った日本漢語は、すでに立派な中国漢語だ、もはや日本語ではない』ことは、その通りかもしれない。しかし、前回と今回の項で見て来た、歴史的経緯が背景にあったことも事実である。加藤氏は文化交流を否定的に捉えているが、大きな括りで言えば、留学生が翻訳をする過程で、日本漢語を使わざるを得なかった。漢字で構成された複合詞であり、使い勝手が良かったからであろう。中国人の都合と言い切るのは、余りにもプロセスを省略し過ぎているし、漢字が表意文字という点を考慮すれば、日本人と中国人の間で、考え方を共有する部分がうまれる可能性があると、もっと積極的に考えるべきではないか。ただ、現時点でその点にスポットライトが当たらないのは、国家体制の仕組みが違って、歩み寄れない部分があるからではないか。筆者は表意文字の漢字の持つ力について、年齢を重ねてみると、そう感じている。残念ながら、中国が共産主義体制下では無理かな。
 黄文雄氏は言う。1911年の「普通百科新大詞典」の凡例に「わが国の新詞(新造語)の大半は日本から輸入されたものだ」と書かれているが、実際今日の中国語も、日常の生活用語から政治、制度、経済、法律、自然科学、医学、教育、文化の用語に至るまで、日本語からの「借り物」の単語で満ち溢れている。中国人の近代的生活は日本語の上に成り立ち、営まれていると言っていい、と言い切る。まあ、借り物というのは、共通の漢字を使っているから、言い過ぎだが、共通の漢字を使っているのだから、こんなことがあっても不思議でない。それが表意文字の優れたところだと思う。以下、黄氏の言説を聞きたい。
 新名詞(新造語)は、複合詞の他に、中国式の「式」、優越感の「感」、新型の「型」、必要性の「性」、出発点の「点」、人生観の「観」、文学界の「界」、生産力の「力」、使用率の「率」等々、そうした言葉が付く多くの単語も、もとは日本語であり、その数は限りない。数詞の屯、糎、粍、哩なども用いられている。更に訓読の単語「入口」「出口」「市場」「広場」「取消」「手続」「場合」「見習」「大型」なども取り入れているという。また外来語の当て字「倶楽部」「瓦斯」「浪漫」をそのまま取り入れた例もある。また「関于」(~に関して)、「由于」(~によって)、「認為」(~と認める)、「視為」(~と見なす)などは日本語を翻訳する過程で便宜的に生み出され、定着した。日本単語の導入で複合詞が大幅に増加し、硬直性の強い中国語の表現の豊かさ、緻密がもたらされたことは、中国古典の文章と現代中国語を比較すればすぐにわかるという。日本語的な語感が中国語に加わった。中国では日本語の訳本が市場に充満して学校でも用いられ、学術界でも一世を風靡した。中国の文体は少しづつ変化し、それが新しい文体として文壇や知識青年に重んじられ、この国に根付いた。この新文体を積極的に推奨していたのが梁啓超で、だから新文体は「啓超体」と呼ばれた。

 清末の日本視察団がしばしば感心したのが、平仮名、片仮名であった。初代駐日公使黄遵憲などは、「天下の農工、商人、婦女子が、みな文字に通じるようにした」と、日本人の仮名の発明を絶賛し、中国にも文字改革が必要だと主張した。実際、日本の仮名を参考に漢語の「拼音(ほうおん)」(表音文字)を作り出したのが王照であった。王照は戊戌維新で皇帝の海外行幸を上奏するなど、急進的な姿勢で名を挙げ、維新挫折後は梁啓超と日本に逃れた。東京で王照を保護したのは、日本の代表的言論人、陸羯南であった。1900年に帰国した後は西太后から赦免され、日本の仮名の研究に打ち込み、そこで開発したのが「官話合成(拼音)字母(文字)」である。今日中国で使われている拼音はローマ字だが、王照の「官話合成字母」は、みな漢字の一部分を使ったもので、六十二の字母で構成された。この言文一致の拼音は、全国の言語の統一、共通語の制定にも重要だった。「もっぱら読書の力がなく、読書の暇がない者のために作った」とされる拼音には、教育改革の指導者的存在だった呉汝綸が賛意を示した。彼も日本の教育視察中、仮名の効用に着眼した一人だった。また、官話合成字母を発表した時に序文で、王照は、外国は言文一致により教育を普及させているのに対して、中国では文人と大衆が別の世界に住んでおり、後世の文人は保守的で文字を言語と共に変化させていない、などと批判している。

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中国の近代化は日本文化の受容に始まる

2023年11月21日 | 歴史を尋ねる

 タイトルは仰々しいが、これは黄文雄氏の著書「近代中国は日本がつくった」からの引用である。戦後の日本人でここまで言える人はいない。氏は1938年台湾生まれ。64年に来日して早稲田大学、明治大学大学院を卒業して、旺盛な執筆・評論活動を展開、筆者は日本だけでなく中国の造詣も深く、氏の評論には首肯する所が多い。「日本にあれほどの中国専門家がいながらも、誰一人として、文化大革命や林彪事件の発生を予告したものはいなかった」。林彪事件の直後、そう批判し、自己批判したのは、当時東大教授の衛藤瀋吉氏であった。中国を知る事の難しさを述懐された至言である、と。氏は続ける。もっと魔訶不思議なのは、遡って江戸時代の朱子学者は中国を「聖人の国」「道徳の国」とたたえ、中華人民共和国建国初期に中国を「蚊も蠅も泥棒もいない地上の楽園」と流布したのは戦後の日本文化人だ。いずれも中国が最も悲惨な時代であった、と。日中間の近現代史を百年戦争史とする見方が、中国側だけではなく、日本人の間でも相当定着している。明治以降、日本は一貫して中国侵略の陰謀を推進してきたという歴史観があるが、日清戦争は数か月、満州事変は数日、日中戦争(支那事変)でも一年余で、実質的な戦闘は終息している。その間に若干の小競り合いがあったとしても、その熾烈さや犠牲者はとても中国百年内戦の比ではない、と。
 中国の近現代史は、十八世紀末以降一世紀半にわたって内戦、内乱、内訌で彩られていた。一方、対外的には西力東來を受け、黄人VS.白人という文明史的な流れがあり、それが中華文明の歴史の終焉をもたらしている。日中戦争というものも、そうした中華文明衰亡史の一環にすぎなかった、と黄文雄氏。ふーむ、大局的には、そうした見方も成り立つ。2005年3月から4月にかけて起こった「反日愛国」デモについて、中国政府に言わせると、その責任は日本にある。中国人は永遠に無謬であり、悪いのはすべて日本人。だから日本は繰り返し反省と謝罪をしなければならない。黄文雄氏に言わせると、戦後日本が反省と謝罪を繰り返してきたのは、やはり自業自得である。あまりにも中国を知らなすぎるからだ。1995年、終戦五十周年の総決算として「国会不戦決議」を可決したが、これは国会議員の思惑とは全く逆に、中国政府にとっては反日の好材料を作ってしまった。中国はその国会決議を「不反省の決議」「過去の侵略をごまかそうとする犯罪」「平和の決議ではなく平和の破壊である」「軍国主義復活決定の表明」「不謝罪決議」と言い、「中国に対する公然たる挑戦だ」「皇国史観の証明書」などと罵詈雑言、日本は逆に集中砲火を浴びせられた。本来なら、日中の過去はすでにサンフランシスコ講和条約、そして日華平和条約、足りなければ日中平和友好条約の締結で終わっている。それなのに「国会不戦決議」を採決。これで中国の歓心を買うことが出来なかったばかりか、罵詈詬辱(ばりこうじょく)される。
 黄文雄氏は以前から繰り返して、「日本人は中国に対し反省や謝罪をする必要は一切なく、むしろ中国の方こそ日本に感謝すべきだ」と主張してきたが、それはあくまでも日本の近現代史、日中関係史の真実を見つめた上でのことである。日本は日清戦争以降、中国を侵略したというより、むしろ中国の再生を願い、政治、経済、文化、そして文明そのものの再構築に驚くほど貢献している。近代中国をつくったのは日本人であり、少なくとも日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった、と黄文雄氏。耳を傾けるべきである。

 『日本に感謝』で思い出すのが、遠藤誉氏のエピソード紹介から。1956年8月、中南海に日本の遠藤三郎(元陸軍中将) ら元軍人訪中団一行が訪ねてくると、毛沢東は待ち構えており一人一人と握手した。毛沢東は開口一番語った。「日本の軍閥が中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ、北京に到達していない。過去にあなたたちと私たちは戦ったが、ふたたび中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人をわれわれは歓迎する」(遠藤氏注:毛沢東は侵略はおろか、侵攻という言葉さえ使わず、進攻という文字を選んだ)「あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければならない。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することが出来、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることだできた」 また、『廖承志と日本』のなかで廖承志はこう記述している。さらに同行した元陸軍中将の堀毛一磨は、毛沢東及び政府要人たちが、ともかく過去を忘れ、将来について語ろうではないかという事ばかり強調していたのが印象深かったと手記で述べている。当時口封じのために投獄逮捕された潘漢年はまだ牢獄にいた。これは毛沢東が他界するまで「南京大虐殺」に関して触れなかったのと同じ心理が働いていると考えるべきと、遠藤氏。蒋介石が率いる国民党軍が第一線で戦ったような過去の話に触れてほしくないし、訪中するものが次々と過去を謝罪することにうんざりしていた、と。1964年7月、日本社会党の佐々木更三や黒田寿男ら社会党系の訪中代表団と会った時の会話が『毛沢東思想万歳(下)』(東京大学近代中国史研究会訳、三一書房、1975年)に載っているのを遠藤氏は読んで、毛沢東自身は主として進攻あるいは占領という言葉を使っているのに対して、日本語翻訳では、それらを侵略で統一していることを見つけている。つまり日本側の方が侵略という概念の贖罪意識があり、毛沢東は侵という文字を一貫して避けている、と。しかし、佐々木らも謝罪し続けるので、毛沢東はついに中華ソヴィエト区から延安まで逃げる長征の時に触れ、「残った軍隊はどれだけだったでしょうか。30万から2万5千人に減ってしまいました。われわれはなぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのか。それは日本の皇軍がやってきて、われわれが日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作するようになったからです。2万5千人の軍隊は、8年戦って、120万の軍隊となり、人口1億の根拠地を持つようになった。感謝しなくてよいと思いますか」とまで吐露した。これ以上言ってくれるな、言わせるなという毛沢東の心情が目に浮かぶ、と遠藤氏。以上は他の項目で以前紹介済みだが、毛沢東の口から感謝という言葉が度々出てくる。単なる外交辞令ではない。毛沢東の言う感謝は、黄文雄氏の言う感謝と意味合いが違うが、大きく括れば、日本の存在が現在の中国を誕生させている。今の中国はなかったという意味では、黄文雄氏の言う『日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった』と言ってもいいかもしれない。中国の近現代史で、日本はそれほど関わっていたのは間違いない。

1、日清戦争が中国と日本の命運を分けた
 日本にとっての日清戦争は、国家の存亡をかけた大戦争、天皇から庶民に至るまでの総力を挙げての大戦争だった。一方、清国にとっての日清戦争は、国内的には挙国どころか西太后派と光緒帝派の権力闘争という様相を呈していた。開戦後、日本軍が北京に迫り、清国側は講和せざるを得ない状況になったが、両派はここでも和戦を巡って対立した。西太后派は講和を主張し、李鴻章を全権代表として日本に送り、日清講和条約「下関条約」に調印した。皇帝派による条約反対の訴えは、全国規模の反対運動を巻き起こし、光緒帝は西太后派の巨頭に説得され条約の批准に同意したが、全国の巡撫や総督も運動に同調し、この動きが戊戌維新以降の清末の近代改革運動へと発展していった。しかし講和反対論者は、自ら戦地に赴こうとする抗戦論者ではなく、列強の支援に期待した他力本願的な強硬論だった。
 下関条約締結から6日目、露独仏三国は日本政府に対し、「日本の遼東半島所有は清国を脅かすだけでなく、朝鮮の独立をも有名無実にするものであり、東洋平和の障害になる。露国は日本政府に誠実なる友誼を表明するため、領有の放棄を勧告する」とあり、他の二国も同一の趣旨だった。この三国干渉は日本に言い知れぬ屈辱を与えたが、これをバネに団結し、十年後の日露戦争では宿敵ロシアを打ち破り、大国への道を驀進した。これに対し清は日本との戦局を有利に運ぶため、列強中でもロシアの介入を期待していた。談判の具体的内容を外部に漏らし、列国の干渉を誘発しようとした。眠れる獅子と目されていた清が日本に敗れ、列強が分け前を要求し始めた。翌年ロシアは露清密約を結び、シベリア鉄道と連結した東清鉄道の敷設が決定、鉄道所有地にはロシアの排他的行政権が認められた。密約を締結したのは李鴻章だった。ロシアと同盟して日本に対抗しようとした。親露感情は清国の官僚の間でも広く持たれていた。しかし、間もなくそのロシアが遼東を奪い取った。ドイツは山東省でドイツ宣教師の殺害事件が起こると、軍艦を派遣して杭州湾を占領した。英国もこれに対抗して九龍半島と威海衛の租借権を獲得、フランスは杭州湾の租借権を獲得した。もはや清国は領土的要求を断る力がなくなって、英国は揚子江沿岸、フランスは海南島と広西、雲南両省の不割譲を清に約束させ、自らの勢力範囲と設定した。日本も福建省の不割譲を清国に受諾させ、米国は国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放宣言」を発し、出遅れた米国による中国蚕食競争への参加宣言を行った。当初清が天祐とばかり喜んだ三国干渉は、実はこの国の分割という亡国の危機を招来しただけでなく、その後の東アジア争乱の禍根となっていった。
 黄文雄氏は、なぜ中国は日本とは逆のコース、亡国のコースを進んだのか、疑問を発する。指導者が国際情勢に暗かったというだけではなく、国家意識が欠如していた、私利私欲に走ったからだ、と。更に洋務運動の旗手、近代化運動の指導者、張之洞ほどの人物でさえ、日本に対する憎悪の余り、「三国に援助を請うなら領土を割譲すべきだ」「ロシアと英国が日本を脅して講和条約を破棄させたら、ロシアには新疆を、英国にはチベットを与えたらいい」と皇帝に上奏した、と。ここには英知が微塵も感じられない、と黄氏は断ずる。

2、北清事変で際立った日本軍の良心
 「意気盛んな義和団愛国運動は帝国主義の仇敵視と恐慌を引き起こした。八つの帝国主義国は連合して、中国侵略を発動した」 中国の歴史教科書が教える義和団事件、北清事変である。中国だけでなく、日本の進歩的学者も基本的に持っている、つまみ食い史観の典型だと、黄氏。義和団とは白蓮教の流れを汲む迷信的宗教結社で、孫悟空などを神として祀り、義和拳を習得すれば刀剣も銃弾も跳ね返すと考えていた。ドイツの山東半島進出後、外国人宣教師や中国人信者との間に摩擦が生じると、「扶清滅洋」のスローガンを掲げ、華北一帯に波及し、二百人以上の白人宣教師やその子供、そして二万人の中国人キリスト教徒が殺害された。北京にいた十一カ国の公使は清国政府に鎮圧を要請したが、何ら手をうたず、各国部隊は居留民保護のため北京に駆け付けた。清国は各国公使館に「中国の全国民は激高しているから、政府としては居留民を保護しきれない。24時間以内に天津に退去せよ」という要求を突然突き付けた。清国政府の万国に対する宣戦布告であった。清国軍は北京で義和団が蜂起したのを受け、それを機に義和団と合体し、天津の外国人居留地への攻撃を開始、清国政府は開戦の上諭を発布。これに対し天津の連合軍はわずかであった。各国は英インド兵、仏ベトナム兵などアジアの植民地軍を派遣、日本からは臨時派遣隊が到着、まず天津で義和団と清国軍を粉砕、さらに北京に進軍してこれも粉砕、63日間、孤立無援で苦闘していた列国の公使館員、居留民、兵士は、ようやく敵の重囲から解放された。
 西洋こそが文明と考えられていた時代に、アジアの一新興国である日本は、西洋諸国からは未だ必ずしも文明国の一員とは認められていなかった。国際法を遵守してこそ文明国という観念が、文明開化後の日本人に強かった。だから日本軍はこの事変において、あくまで国際法を遵守し、軍紀を厳粛にして、日本が既に欧米先進国並みの文明を有していることを頑なまでに示そうとした、と黄氏。そうした姿勢を全軍が示し得たのは、皇軍としての誇りである、と。ロンドンタイムズは社説で「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界が感謝している。列国が外交団の虐殺や国旗凌辱を免れたのは、ひとえに日本のお蔭だ。日本は欧米列強の伴侶たるに相応しい」と論評、1902年に英国が名誉ある孤立の伝統を捨て、日本と日英同盟を結んだのも、日本軍のこの時の武勇と文明ぶりを見たからだった。因みに、この事変での日本軍の死亡者は、戦死244、戦傷死86、病死675、計1005人。連合軍中最多であった。しかし、日中関係史を考えるうえで、象徴的な逸話がある、と。
 穏やかな占領が続いた日本軍占領地では、やがて日本人の排斥を訴えるビラが中国人によって街中に貼られるようになった。これは血の弾圧が行われた他国の占領地区には見られなかった現象だった。黄氏の見立てでは、中国人には、残酷な統治者には従順だが、優しい統治者には増長して歯向かうという性格がある。異民族統治に慣れた西洋人は早くからこれを見抜き、排外運動には容赦ない武力弾圧を加えて中国人を屈服させている。そして彼らに畏敬の念さえ植え付けることに成功している。ところが情の民族であり、何事にも「話せばわかる」「以心伝心」と考えてしまう日本人にはそれが出来なかった。日本人の大陸政策最大の失敗は、東洋の道義というものに惑わされ、中国人への名状のないやさしさが禍し、自ら墓穴を掘ったことだ。だから中国人の排外運動の対象は、侮るべき優しい日本人へと絞られ、やがて日中全面戦争へと突入していく、と。現代の中国人がことさら日本の「過去」を責め立て、それに比べて西洋人のそれには手心を加えているのは、恐らくこの頃植え付けられた畏怖、畏敬の審理が根強く残っているからだろうと、黄氏は分析する。更に言えば、敗戦国、戦勝国意識が強く働いているのだろう。
 北京で、連合国と清国は北清事変に関する議定書を調印した。この北京議定書によって列国の軍隊は北京から山海関に至る鉄道の要所での駐兵権が認められ、沿線での演習も出来るとされた。日本軍は1901年、この条約にもとづいて清国駐屯軍を発足させ、天津に司令部を置いた。1937年7月の盧溝橋事件における日本軍の駐屯と演習も、この条約にもとづいたものだった。犯人が誰にせよ、日本軍があそこにいたのが悪かったという言論がよく聞かれるが、それはあくまで条約で認められていた。平和維持上の駐兵だった。一世紀以上にわたって内戦が絶えなかった中国には、列強の駐兵が必要だった。

3、近代化のノウハウは日本に学べ
 最初に日本に清国留学生が派遣されたのは日清戦争直後の1896年、張之洞は1898年に著した『勧学編』において、「日本は小国であるが勃興が早かった。伊藤博文、山県有朋、榎本武揚、陸奥宗光らはみな二十年前、留学生だった。西洋の脅威に憤る百四人を率いて独、仏、英に渡って政治、工業、商業、軍事を学び、帰国して宰相になった。そして政事は一変し、強国になった」と言って日本留学政策を提唱した。かくして清国留学生は日本列島に押し寄せ、あらゆるジャンルにおける近代的知識を吸収し、帰国後は政治改革や近代文化の振興、あるいは革命をリードするなど国家の主導的役割を果たしている。熊建雲の『近代中国官民の日本視察』によると、日本留学生は次の通り。 ①1911年12月に行われた中華民国南京臨時政府を樹立するための会議における十七省の代表45名のうち、その大半。 ②翌年1月に就任した中華民国南京臨時政府の内閣メンバー18名のうち、50%を占める9名。 ③北洋政府時代(1912~28年)に閣僚に任命された1447名のうち、556名。 ④国民党政権のなかでは、広州国民政府の委員24名のうち、14名。武漢国民政府の委員24名のうち、11名。南京国民政府の委員81名のうち、40人。重慶国民政府の委員66名のうち、37名。 ⑤共産党創立大会(1921年)に出席した正式代表12名のうち、陳独秀、李大釗、李達、董必武、李漢俊、周仏海の6人。 ⑥国共合作の下で開催された国民党一中全会のため選出された主席団員5名全員。第一回中央執行委員24名のうち17名。 ⑦軍部は日本留学出身者が牛耳っていた。 以上を見ると、中華民国は元日本留学生が建国した国と言っても過言ではない、と黄文雄氏。
 1896年の最初の日本留学生13名は、清国駐日公使館の募集に応じたもので、駐日公使裕庚が文部大臣西園寺公望に教育を委託し、西園寺は東京高等師範学校(後の筑波大)の学長嘉納治五郎に彼らを託した。この年以降、毎年百人前後の留学生が日本に渡った。北清事変後の1901年、西太后の新政により清政府が留学生派遣政策を本格的に進めてからは年々増加し、1905年には八千人を超え、ピーク時の1906年には一万人前後ともされ、あるいは二、三万人に達したとの資料もある、と。1905年を境に留学生が急増を見せたのは、この年に科挙制度が廃止されたこと、もう一つは日露戦争に於ける日本の勝利を見、近代化のモデルとしての日本に対する信頼が強まったことであった。しかし1911年に辛亥革命が勃発すると、留学生の多くは急遽帰国し、結局千人ぐらいに減った。これら留学生の多くは、日本の近代化の進展に触発され、祖国の改革、反清革命を志した。また西洋思想、近代日本の興隆を支える啓蒙思想、哲学、社会思想を懸命に学び、それらを本国に発信し、あるいは持ち帰っていった。
 一方清国の留学生に対し、日本の朝野は熱烈歓迎の姿勢を取った。日本が清に望んでいたことは、国家の近代化。ことに官民有識者の間では、三国干渉以降の西力東來による危機感の高まりから、清国が速やかに弱体・腐敗体質を改めて近代改革に着手し、日本との提携関係を構築することが切実に望まれた。これに対し北京のロシア公使などは清国高官に「日本は憲政国家だから留学生がその気風に感染して民権思想にそまる可能性がある。我が国は貴国と同じ専制国だから、子弟を遊学させても問題はない」と説いて回り、日中提携の牽制に懸命だった。ロシアの盟邦ドイツでは日中教育交流の増進を、黄禍だとする指摘も登場した。
 貴族院議長で東亜同文館(1898年から1946年にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる)会長も務めるた近衛篤麿は、日清提携の礎を築きたいという主張を持つ代表的人物で、清国を訪問して張百熙、劉坤一、張之洞、袁世凱に日本への留学生の派遣を説いていた。国内では清国留学生教育を国家的事業にするべきだという声を上がっていた。日本は中国の目覚めに期待した。
 富国強兵や新教育制度の確立を急ぐ清国政府は、確かに留学生の派遣に力を入れてはいたものの、「中体西用」の発想から依然抜け出しておらず、技術の手っ取り早い習得ばかりを重視して、長期的な教育自体にはあまり関心を持っていなかった。だから日本に派遣する留学生の四分の三は三、四ヵ月の速成科で学び、早々と帰国する有様だった。留学生派遣に誰よりも熱心だった張之洞にしても、「西洋の書は甚だ煩雑だが、西学のうち重要でない部分は日本人が既に削除、酌改している。中日は風俗が近く、日本は模倣しやすい」「経を日本に取ることは労少なく効果は大きい」といった安易な考えだった。利益を獲得するに当たり、獲得をやたら急ごうとするのは中国人の民族性でもある、と黄氏。

 日中の文化交流と言えば、遣隋使や遣唐使の時代を思い浮かべるが、そのようなスケールを伴う日中間の文化交流は明治時代、中国で言えば清末に行われた。かっての交流とは逆に、中国が日本の文化的恩恵を受け取る形だ。文化交流はまず文献から。西洋文明の摂取を急ぐ中国の開明派知識人が着目したのは日本の洋書だった。当時の日本では様々な学術書が発行され、世界の名著の翻訳も盛んだった。それに漢字を使っていることから、中国人には翻訳もし易かった。中国人は「欧米が三百年かけた政体の構築を、日本は欧米を模倣して三十年で成し遂げた」(康有為)ことの秘訣を探りたかった。日本書の翻訳作業は維新派の康有為や梁啓超、そして洋務派の張之洞らの鼓吹によって積極的に進められた。日本書の翻訳の担い手となったのが、日本への清国留学生である。留学生たちは新思想に飢えていた。日本に到着するや書店を探して飛び込んだ。日本人の著書や西洋の訳書をむさぼるように読んだ。それだけではなく、それらを中国語に訳して本国に紹介する作業に着手した。彼らを駆り立てたのは、日本で受けた文化的なショックであり、祖国の近代化建設や啓蒙への情熱だった。日本で出来ることは中国にも出来る、日本は留学生にとり、まさしく希望の星となった。
 彼らが最初に用いた手段が、本国向けの定期刊行物の発行を通じて、翻訳文の紹介であった。つぎつぎと創刊され、1900年~1911年までに六十数種類、1907年には21種類に及んだ。留学生が翻訳した作品は、中国では大歓迎を受け、国民に広く読まれ、行政の参考書や学校の教材にも用いられた。日本で一冊新刊が出されると、あっという間に何種類もの翻訳が出現すると言った状況だった。このようにして大量の思想書が、彼らを通じて中国に流れ込むようになった。それまでの中国では、洋書の翻訳は西洋人の宣教師が中心となって行ってきた。その役割を今度は、千人単位の留学生の若者が担うようになった。そしてそれまでの中国での近代化運動の「中体西用」、つまり西洋文化のソフト面を無視してハード面だけを導入しようとの基本姿勢から来ていた限界も、ようやく乗り越えられるようになった。このような文化運動がなければ、清末の改革運動や辛亥革命後の民国建国といった近代化の動きはあり得なかった、と黄文雄氏は考える。

 

 

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漢字と日本人

2023年11月09日 | 歴史を尋ねる

 最終稿を終えたのに、どうしても記録に残しておきたいと思い、少しだが、再度投稿することとした。キッカケは、2007年4月のNHK教育テレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」で「加藤徹氏の「日中二千年 漢字のつきあい」を読み返した時であった。
 加藤氏は言う。・日本人は漢字を使うまでに600年もかかった。 ・日本の学校では、国語の授業で、古文や漢文を教える。現代の英米人が読める一番古い英語は、400年前のシェークスピアの戯曲とか欽定訳聖書などだ。日本の中学や高校では2500年前の論語の漢文さえ、漢文訓読によって、国語として教える。 ・落語「饅頭こわい」のルーツは漢文笑話「畏饅頭」。 ・中国社会科学院の李兆忠氏は「現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は日本語から来たものだという統計がある」と。 以上を少し掘り下げてみたい。

 まずはウキペディアで文字とは。 世界にはさまざまな文字があり、またさまざまな分類法がある。基本的な分類として、「音」だけを示している「表音文字」と、基本的に「意味」を示している「表意文字」がある。世界全体を見ると、主に表音文字ばかりが使われている地域と、主に表意文字ばかりが使われている地域と、基本的に両者を混合して使っている地域がある。たとえばヨーロッパの英語やドイツ語やフランス語のアルファベットは表音文字であり、一文字一文字は音素(音の要素。音の一部分。特定の、舌の動き・唇の動き・口の形などで生じる音)を表しており、アルファベットが2〜3文字まとまることで音節(発音の小単位)を示している。表音文字の一文字一文字は、あくまで音を表すためのものであり、原則として、意味が全く無い。それに対して中国で使われるようになった感じは表意文字であり、表意文字はひとつひとつの文字だけでも何らかの意味を表していることが多い。たとえば「明暗」という語は、2つの漢字「明」と「暗」からなるが、「明」一字だけでも意味がある。また「暗」一字だけでも意味がある。そして二文字を組み合わせて「明暗」という一語(ひと単語)になっている。中国では主に漢字ばかりが使われる。一方、日本語で使われる文字は、(中国から伝来した)漢字と(漢字から表音文字を作るために部分を抽出し、形を独自に変形させた)ひらがなやカタカナがあり、漢字のほうは中国語同様に原則的に表意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「表音文字」であり、つまり現代日本語のありふれた文書に使われる文字は、表音文字と表意文字の両方を並行して使っている。以上を押さえておいて、漢字に対する日本人の関りを見ていきたい。

 1、日本人は漢字を使うまでに600年もかかった
 中国に伝わる伝説によると、蒼頡(そうけつ)という人物が、最初に文字を作ったとされる。“昔者、蒼頡、書を作る。天は粟を雨ふらせ、鬼は夜哭す” 「蒼頡が初めて文字を発明した時、二つの奇跡が起きた。天は穀物の雨を降らせた。幽霊は夜、声をあげて泣いた」と。文字という偉大な発明は、人類の文明に明るい面だけではなく、暗黒をもたらした、文字に魔性があるという、寓意である。漢字で書いた漢文は、何千年も前に死んだ人の言葉を、生き生きと伝えることが出来る。昔の人は、漢字にはそれぞれ霊力が宿っているから、そんなことが可能だと考えた、と、加藤 徹氏はこのように推察する。漢字は、昔の中国人にとって、単なる文字以上の神聖な存在だった。二十世紀の前半まで、中国の町には「惜字炉」という炉が普通に在り、漢字には霊魂が宿っていると考えられたため、漢字を書いた紙はゴミとして捨ててはならず、専用の炉にくべて火葬にしなければならなかった、と加藤氏。
 漢字が生まれたのは、三千数百年も前の中国古代の時代、漢字の字源には、野蛮で血なまぐさいものがある。古代の戦争では、敵を捕まえると、首をはねたり、戦利品として奴隷にした。首という漢字を上下ひっくり返すと、県となる。懸という漢字は、県と糸を含む。懸はもともと、切断した人間の首を、上下逆さまにしてひもでぶら下げる、という意味の文字だった。現代日本語の懸賞という言葉が不気味に思えてくる。古代の戦争では、首の代わりに殺した敵兵の耳をそぎ落として、これを手柄の証拠にすることもあった。たくさんの耳を糸でじゅず繋ぎにした様子を示した感じが聯で、連なるという意味。今日も聯合という言葉で使われている。このように、残酷な字源の例は、枚挙にいとまがない。という事は、漢字には三千年以上に及ぶ人間の歴史に影が、刻印されている。

 古代ヤマト民族は、八百万(やおよろず)の神を信じていた。言葉にも言霊(ことだま)という霊力があると考えていた。ヤマト民族の固有語である大和言葉では、「事」と「言」を区別せず、「コト」の一語で表した。「死ぬ」という不吉な「言」を口にすると、本当に「死ぬ」という「事」が起きる。このような迷信を、言霊思想という。古代ヤマト民族の言霊思想によれば、「事挙げ」(ことあげ)すなわちことさら言葉に出して言い立てることは、タブーだった。漢字には、死んだ人の名前や言葉を記録する能力がある。目の前にない遠くの事物についても、正しく伝えることが出来る。古代ヤマト民族の目には、漢字は、言霊を封じ込めて保存する異国の魔法のように見えたのではないか、と加藤氏。日本人の祖先は、墓に死者の名前を書くことを嫌った。応神天皇の時代に、日本に漢字が伝わったとされている。しかし奈良時代より前の古墳で、被葬者の名前を明記した墓碑や墓誌を持つものがない、と。日本人の祖先は漢字を拒絶したのではないか、と加藤氏は推察する。
 日本人が自国の歴史を文字(漢字)で書いた最初の本は、聖徳太子と蘇我馬子が620年に編纂した「天皇記」「国記」である。聖徳太子も蘇我馬子も仏教徒、経典を読む必要もあった。彼らが日本初の歴史書を書くことが出来た理由は、古代ヤマト民族の信仰(「神ながら言挙げせぬ国」)から、自由だったからかもしれないと、加藤氏はこの様に分析する。
 加藤氏の分析は一見納得しやすいが、どうも歴史的事実と照らすと、そこまでではなかったのではないか、日本人なりに文物の吸収は努力していたのではないか。遅くとも二千年前には、漢字を書いた文物が、日本に入って来た。例えば後漢の光武帝が西暦57年に倭の奴国の使者に与えた「漢委奴国王」の金印や新の王莽が鋳造させたコイン「貨泉」などがある。魏志倭人伝では、3世紀前半、卑弥呼の使者が通訳を連れて、魏の皇帝に挨拶に行っている。5世紀、倭の五王の時代、長文の上表文を中国の皇帝に差し出している。当時の日本なりに、漢字の習得も努力していたのではないか。日本書紀に、

『 十五年の秋八月六日に、百済王くだらおうは、阿直岐あちきを遣わして良馬二匹を奉った。そのままかる坂上さかのうえうまやで飼わせた。それを阿直岐あちきに管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂うまやさかという。阿直岐あちきはまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子うじのわきいらつこは学問の師とされた。天皇は、阿直岐あちきに尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁わにという者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君かみつけのきみの祖の荒田別あらたわけ巫別かんなきわけを百済に遣わして、王仁わにを呼び寄せなさっ
た。その阿直岐あちきは、阿直岐史あちきのふひとの始祖である。十六年の春二月に、王仁わにが来て、すぐに太子・菟道稚郎子うじのわきいらつこが師とされ、多くの典籍を王仁わにに習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁わに書首ふみのおびとらの始祖である。— 『日本書紀』、巻第十、応神紀』

 皇太子が多くの典籍を王仁に習った、とある。これまで、漢字ないし漢文を体系的に習う機会がなかった。それを王仁が作ってくれた、と日本書紀では読み取れる。伝承では、百済に渡来した漢人であるとの説もある。こうした積み重ねが、聖徳太子の時代に花開いたと解釈するのが自然である。ただ言えることは、確かに時間がかかった。この辺は、加藤氏の指摘する所かもしれない。

 2、日本の中学や高校では2500年前の論語の漢文さえ、漢文訓読によって、国語として教える。
 日本の漢字は、複数の読音を持っている。「明」という漢字の訓読みは「あけ」「あか」など、音読みは「めい」「みょう」「みん」など。単語によって「明」の字は読み分けられる。日本以外の国では、中国でも朝鮮でも越南(ベトナム)でも、一字一音が原則。漢字に自民族の固有語を当てはめて読むという訓読みは、日本だけ。「訓」の訓読みは「よむ」であり、詳しくは「ときほぐしてよむ」こと、つまり漢字の意味を優しく解説したり言い換えたりすることを意味する。日本ではもっぱら漢字を日本語に固有の大和言葉(和語)に翻訳することを意味した。漢字の訓読みを発明した日本人の祖先は、漢文訓読も発明した。訓読とは、外国語である漢文(古典中国語)を日本語文として読むという、定型的訳読法。漢文訓読の起源について不明だが、和化漢文の存在から推定すると、六世紀頃ではないか、と加藤徹氏。現在確認されている限り、訓点は八世紀頃から断片的なものが現れた、と。「日本人は外国から輸入した文物を学び、これを改良して使う能力にたけている」という説を加藤徹氏は眉唾と否定しているが、漢文訓読もまさしくそれに該当するのではないか。自国の言葉に直す(翻訳)という事は、自民族の考え方に沿って解釈(咀嚼)し直す、という事ではないか。これで初めて、生活実感として他国の言語が理解できる、日本人の要求水準がそこまで高い水準だった、と言えるのではないか。そういえば、下田に居を構えたハリスの所に、地域の住民が押し寄せ珍しいものを知りたがった、欲しがったという歴史的事実を思い出したが、その背景には、日本人の好奇心の強さが、ここまでの行動を起こさせているのではないか、と思えてくる。
 16世紀までの日本で、漢文の読み書きができたのは、公家や僧侶、役人など、一部の知識階層だけだった。訓読の方法も、長い間、それぞれの学者の家の秘伝とされた。武田信玄が大江家と源氏の秘伝とされていた漢文の古典「孫子」を学び、「風林火山」の旗指物を使ったことは、よく知られている。戦国大名は、天下取りレースに勝ち残るため、漢文の読み書きができる僧侶や知識人を、ブレーンとして活用した。徳川家康も儒学者の林羅山や禅僧の金知院崇伝などを抱えていた。1607年、家康は漢文の書籍を印刷して大名や武士に配布するため「駿河版銅製活字」を作らせた。家康は、豊臣家を滅ぼしたあと、元号を『元和(げんな)』に変え、幕府の許しを得ない死闘や戦争を禁じた。これを元和偃武(げんなえんぶ)という。元和は平和の世の始まり、偃武は武器を伏せて戦争をやめること。出典は『書経』の句「偃武修文」だった。幕府は武士が儒学を学ぶことを奨励し、漢文訓読も一般に公開された。従来の「ヲコト点」ではなく、「一・二点」や「レ点」、カタカナによる送り仮名など、初心者でも簡単に習得できる訓点が、世の中に広まった。
 五代将軍綱吉は、漢文の学問が大好きで、みずから『易経』を講義したり、孔子廟(湯島聖堂9を建設した。水戸光圀も、潘の事業として漢文による歴史書「大日本史」の編纂を始めた。こうして江戸時代中期以降、武士や町人のあいだでも、漢文に学習がブームとなり、漢文の素養が日本人の血肉となっていった。江戸時代の日本人は、正統派の漢文だけでなく、『白話』(中国語の口語体)を交えた文芸作品までも、訳本が出た。三国志演義や水滸伝などは訳本を通じて、庶民の間で人気を博し、落語の「饅頭こわい」という噺も、中国の笑話集のある原話を、ほぼそのまま使っている、と加藤氏。
 1840年のアヘン戦争でイギリスと戦った林則徐は、西洋の脅威に危機感を持った。そのブレーンだった魏源は「海国図志」という本を著し、欧米の事情を紹介すると共に、「外国の技術を学ぶことで外国に対抗する」という方策を提唱した。しかし詰め込み教育で頭がいっぱいであった中国の士大夫は海外事情に興味を持たなかった。魏源の本は、すぐに日本に輸入された。これを読んだ幕末の日本人は、西洋文明の実力を認識し、植民地にされるという深刻な危機意識を懐いた、と加藤氏は「海国図志」の影響を伝えている。

 3、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は日本語から来たものだという統計がある
 英語を母語とする英米人は、世界のどこに行っても、現地の人が何を話題にしているかくらいはわかる。現地語の会話の中に「デモクラシー」とか「エコノミー」という単語が混じれば、民主主義とか経済のことを話しているのだな、と察せられる。ところが日本を含む東アジアの漢字語圏では、ミンシュシュギとかケーザイとか、英語の言語と全くかけ離れた発音の語を使う。それは、英米人の耳にはショックを与えるそうだ。日本では、幼稚園から大学院まで、すべての教育を日本語で受けられる。この事実も、欧米人を驚かせる。アジア・アフリカには、高等教育は現地語ではなく英語やフランス語で行う、という国が、いまも珍しくない。日常生活を送るには現地語だけで間に合うが、現地語には科学や西洋近代哲学の概念を表す単語がないため西洋語で授業をせざるを得ない、という国は案外多い、と加藤氏。日本も明治の初めころまでは、日本語で高等教育は出来なかった。欧米から多数のお雇い外国人を招聘して、西洋の学問や科学技術を学んだ。明治の初めの陸軍では、日本人の上官が、フランス語で号令をかけて教練を行うという光景も見られた。明治政府の初代文部大臣となった森有礼は、日本語だけでは近代的な高等教育を行うのは無理があると考え、英語を日本の公用語とする英語国語化論を提唱した。しかし、日本は英語を公用語にせずに済んだ。明治の後期には、日本の大学では、日本人の教授が日本語で大学生に講義をする光景が、当たり前になった。日本は、日本語だけで文明生活を営める国となった。その秘密は新漢語に在った。

 漢語の多くは中国から伝来したが、中には日本人が造った日本漢語がある。加藤氏は次のように分類している。和製漢語:日本人の歴史や生活の中から生まれた漢語。大半は明治以前からある。例えば大根、心中、家来など。 新漢語:西洋近代の学問を翻訳する過程で考案された漢語。例えば、科学、技術、哲学、自由、権利、義務、宗教、進化、経済、人民、共和国など。日本人が最初に西洋文明に触れたのは、十六世紀、ポルトガル人が種子島に火縄銃を伝えたとされる頃、キリシタン文献には、すでに自由という漢語が見られた。江戸時代中期、杉田玄白らは翻訳の過程で、神経などの新漢語を考案した。新漢語が爆発的に増えるのは、幕末の黒船来航以降。多数の啓蒙家が、西洋の思想や学術を紹介するため新漢語を考案した。なかでも西周と福沢諭吉は、西洋の学術用語を体系的に翻訳し、日本に紹介した。日本人が造った新漢語には、もともと漢文に存在した古い漢語を新しい意味に転用したものと、全くの新語としてゼロから造ったものの、二つがある、と。例えば自由という新漢語は、前者の例で、中国の古典漢語にも出てくるが、意味がまったく逆で悪い意味でつかわれた。西洋語のフリーダムやリバティに敢えて自由という訳語を当てたのは江戸幕府通訳の森山多吉郎だった。最初は違和感があったようだが、他に適切な訳語もなく、自由の新漢語が定訳となった。日本人が考案した自由という新漢語は、中国本土や朝鮮半島にも輸出された。
 十九世紀末の中国(清)では、康有為や梁啓超らが中国も日本の明治維新の成功にならって政治を改革すべきだと主張し、自由、権利、義務、国会、憲法、司法、立法、行政などの日本漢語を、そのまま文章の中で使った。なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利した後、大量の中国人留学生が日本に渡って勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも理由の一つ。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語には、センスが優れたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられたからだと、加藤徹氏は言う。西洋の知の根幹をなすフィロソフィーという学問を日本人は哲学と訳した。中国の学者で書家としても有名な兪樾(ゆえつ)に会った日本人が論文に載せると、「近頃の世の中では、誰もが哲学という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流に疎く、哲学とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った」という漢詩を作っている。中国革命の父孫文にも、同じような逸話がある、と。1895年、清朝打倒を目指して活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、日本に逃げて来た。上陸して日本の新聞を見ると、「支那革命党孫文日本に来る」という見出しが飛び込んできた。「革命」という日本漢語を見て、孫文は衝撃を受けた。もともと中国の漢文では易姓革命の意で、王朝の交替を指す言葉に過ぎない。しかし日本漢語の革命はレボリューションの訳語だった。社会体制を根底から変えるという新しい意味。孫文は興奮して同志に語った。「日本人はわが党を称して革命党という。意義は甚だ良い。わが党は以後、革命党と言おう」と。
 日本漢語が近代中国に与えた影響について、中国社会科学院の李兆忠は次のように語っている。「漢字文化圏に属する多くの国家や民族を見回して見ると、漢字をこのように創造的にすり替え、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ恩返ししているのは日本だけだ。例えば、西洋の科学に関する著作を翻訳する際、中国の学者は「中学為体、西学為用」(中国の学問を体とし、西洋の学問を用とする)という文化的な信念を堅持し、中国の古典を引用して西洋科学の概念を既存の語彙に置き換えようとした。例えば現在の経済学を、計学あるいは資生学と翻訳したり、社会学を群学と訳したりし、結局どうにもならなくなった。しかし日本の学者は、実用的で柔軟なやり方で、文字本位制の制限を受けず、意訳の方法によって、数多くの多音節の語彙を作り出し、見事に西洋の概念を置き換えることに成功した。これによって、日本が西洋に学び、近代化の道を歩んでいくうえで、言語の面で道路が舗装された」と。漢字の交流は、今日も続いている、漫画やインターネットなどの媒体を通じて、新しい形の漢字の付き合いが始まっている、と加藤徹氏は15年前に語っている。

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歴史を訪ねる 最終稿

2023年07月15日 | 歴史を尋ねる

 このブログは、「歴史的事実の現場に立って向き合うと、本を読んだときと違ったいろいろな思いを想起させ、当時が生き生きと思い描けるから不思議だ」だという思いから、幕末以降の日本の歴史現場(いけないときは現場に近い書籍で)を訪ね歩いた。出来るだけ現場に近いところから、歴史を自分なりに振り返ることにして、このブログを書き続けた。そして、約千篇近く。そこには日本人の英知が積み重なっていることが分かる。そして、戦後通説となっていた歴史観がひっくり返るような感覚にも襲われた。 それは、京都大学教授中西輝政氏の言う「私(中西)は、歴史家として「現代史」という学問的なジャンルを認めないことにしている。もちろん時事問題の一応の整理という意味はある。とりわけ戦争に関わる国際政治の歴史というものは、五十年やそこらで歴史の真実をたとえ一応としてでも、確立し得るとは到底思えないからである。歴史の正当性というものが余り問題にならず、気軽に秘密文書を公開した十八世紀や十九世紀のヨーロッパ外交史を長く研究してきた者として私は、歴史上本当に重要で決定的な史料というものは、表向きどんな文書公開のルールを定めていようとも、結局、その出来事から少なく見て二世代(最低60年)を経なければ決して世に出てくることはない、と確信している。二世代前、それは到底、現代とは言えない。二十世紀は、歴史の正当性が最大限に重視され、プロパガンダを歴史として長期にわたって押し付けることが定着してきた世紀であった。どの国も、自国の当面の政策や対外戦略にとって有利な歴史を作り出し、それを維持することが、かってのどの時代よりも重視されるアコギなる世紀、それが二十世紀であった」 「第一次大戦の開戦原因や戦争責任をめぐる論争はいまだに続いているし、ロシア革命や干渉戦争に関する客観的な研究はこの十年やっと緒に就いたばかりだ。辛亥革命や内戦の歴史は、いまだプロパガンダとしての現代史でしかあり得ない。とすれば、歴史の正当性が一層深く絡みついている第二次大戦、特にその一部を成すと考えられてきた昭和の大戦について、本当の意味の歴史研究が、いま二世代経ったところでようやく緒に就こうとしているのも、いわば順当な展開なのである」に近いかもしれないし、その時々の歴史はのちの世の歴史からも、俯瞰され、評価され、批判される。従って、歴史を一本道として見ようとして見る歴史観は、過去の事実を誤認し、現在進行形の時代観を誤る恐れがある。歴史を重層的にみる見方が、プロパガンダまがいの言説が飛び交う現代の歴史には、特に必要となってきている。特にアメリカとの接触は、政権が代わると大きく政策が変更され、振り回されることにもなりかねない。大戦前の民主党ルーズベルト政権の政策と大戦後の冷戦構造の共和党アイゼンハワー政権の政策は共産国ソ連に対して180度の変化である。

 近年、歴史は国家間の戦略ツールとしても使用され出した。いわゆる歴史戦という。ウイキペディアは言う「朝日新聞による慰安婦報道が、海外における性奴隷としての認識に影響、クマラスワミ報告や中国、韓国、国外の歴史認識を歪め、日本が強制連行を認めたという国際認識をつくりだした河野談話を批判、性奴隷、強制連行、20万人という認識の拡散の原点であるとして厳しく糾弾するとともに、捏造はどのような構造でどのように行われてきたかを分析、朝日新聞の報道を「反日」であると展開、また、中国は謀略の国、国連は「反日」に利用されているとし、慰安婦の捏造が広まっている現代における「戦い」であると強調、朝日新聞、中国、韓国とどう戦うかについて論説を繰り広げた」 この言葉は産経新聞、2014年の特集記事から始まっているというのが、ウキペディアの用語解説ではあるが、まだまだ解説の範囲が産経新聞の取り上げた内容に限られている。しかし歴史戦と言わないまでも、東京裁判を端緒にした日本人を貶める誤った歴史認識が世界に広まっている。 「アジアの開放、本当は日本軍のお蔭だった!」の著者、髙山正之氏は言う、「ラザヤード・キプリングは、日本人について”白人キリスト教徒より慈悲と礼節を知る民”というが、その日本人を日本問題専門家というジョン・ダワーは、その後突然狂いだし、残忍になって自滅した、と。立派な日本人がある日狂いだして性格も残忍になったが、その理由もワケも一切書いていない。例えば南京で6週間にわたって無辜の民二十万人を殺したと見てきたようにいう。米人宣教師が死屍累々と言った南京の大通りを同じ日に日本軍が堂々入城した写真がある。周りはきれいなものだ。ダワーはその食い違いは語らないで、日本軍は赤ん坊を投げ上げて銃剣で刺した、病院を襲って医師も患者も殺し、看護婦を犯したという米紙報道を取り上げる。そっくり同じことを第一次大戦時、ドイツ兵の残虐行為として米紙が報じた。戦後、それを検証したらみんな嘘だった。曰くつきの話だ、当然検証するのかと思ったダワーは、第一次大戦で流布された噂を想起させるが、日本軍についての報道には嘘はないで済ませている。なんで断定できるのか、ダワーはその根拠も示さない。しかしそう規定した彼の著作『敗北を抱きしめて』は、権威あるピューリッツァー賞を受賞し、さらに歴史資料の価値を認めるバンクロフト賞から全米図書賞まで受賞した。実際、ダワーのピューリッツァー賞受賞で今ニューヨークタイムズ紙やフォーリン・アフェアズ誌はダワーの規定に沿って、南京大虐殺も慰安婦も七三一部隊もみな真実と扱い、日本攻撃を続ける」とまえがきで語る。従って、日本人の歴史は、あの東京裁判で検察側が取り上げた、証人として出廷していない宣誓口述書を含む口述書がすべて事実と認定され、弁護側の多くの宣誓口述書が退けられた事実からも戦わなければならない。
 尚、日本政府は、東京裁判判決以降、どう対応したのか。講和条約発効と同時に、服役中の同胞釈放運動が起こり、講和条約の規定を守って関係各国と交渉し、昭和33年までに全員が釈放された。これと並行して戦争裁判の刑死者など遺族に対する恩給、年金支給の運動が起こり、当時の左右社会党を含む全会一致で可決された。そして、その恩給、年金の対象者リストを参考にして、政府は靖国神社への合祀予定者を選考し、これに従って戦争裁判受刑者は逐次合祀され、ここに戦争裁判犠牲者の御霊は終の安住の地を得た。

 岡崎久彦氏の著書によると、ブッシュ米大統領は2000年の選挙戦、基調演説で「われわれは日本を打ち破った国である。その後食料を配り、憲法を起草し、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受けたものは、彼らが恐れていた報復ではなく慈悲だった」と述べている。戦勝国の史観はこういうもので、日本の場合、国民一般の歴史観まで占領史観で歪められた、と。 実際はそうではなかったことを、岡崎は解説する。東久邇宮内閣を継いだ幣原喜重郎は、昭和20年10月9日、親任式直後の閣議で、当面の政策を決定した。その第二項目以下は、食糧、戦災復興、外地引き揚げ等、緊急に処置しなければならない事項ですが、それに優先した第一項目は、ポツダム宣言を受諾した日本の公約である民主主義の復活、強化だった。一般の人の記憶は短く、日本の過去と言えば、軍国主義時代のイメージしかないが、歴史家はその前に日本が帰るべき原点がある事、つまり明治維新以来築き上げた近代化の到達点である大正デモクラシーを復活させればよいことを知っていた。そしてその閣議では、東久邇内閣が指示した婦人参政権を含む選挙法の改正を決定した。その日の午後、最初の幣原・マッカーサー会談が行われた。マッカーサーはあらかじめ準備したペーパーを読み上げて、初めて具体的に民主化を要求した上で、決して無理は言わない、苛酷なものがあれば言ってほしい、と付け加えた。GHQはその後、本国の指令で次々に苛酷な要求を出すが、この時点では、幣原に対してジェントルマンとして対応した。マッカーサーは、幣原から閣議の説明を聞いて、エクセレントだ、その通り実行してほしいと言い、民主化について、幣原が、自分が閣僚であった十二、三年前には、日本にもその潮流があったと言うと、貴方が閣僚だった時代については自分を同じ話を聞いている、と述べている。幣原は破れたりといえども大国という矜持を以て次々に改革を進めてきたが、その最後が、天皇のいわゆる「人間宣言」だった。昭和天皇のご同意を得て、幣原が案文を作ると、天皇は結構であるが、五か条のご誓文の引用を希望された。「人間宣言」よりも民主化はすでに明治維新以来の大原則だと宣言する事の方を詔書の主目的とするのが、天皇のご意向だった。マッカーサーも詔書の原文を見て、明治天皇の業績を讃えたという。
 年末で人気のない暖炉のない官邸で作業していた幣原は急性肺炎で倒れた。新年早々病床の幣原の下に突然届いたのは、GHQの公職追放令だった。幣原はマックの奴、理不尽だ と激高し、総理を続ける気がなくなった。吉田茂外相がマッカーサーの伝言として、あれは自分の発意ではなく、ワシントンの指令だから仕方がない。これ以上無理を言わないから現内閣で執行してくれ、と伝えても幣原は納得しなかった。閣僚たちが病床に赴いて自分たちはどうなってもいい、国のため、と説得すると長い沈黙の後ハラハラと涙を流し、留任を決意した。この時から幣原も変わり、日本も変わった。日本の過去の伝統も、改革への情熱も、何を言っても空しい。大国としての矜持も紳士としての意地も皆棄てねばならない、必要なのは、敗戦という運命を受諾する諦念と忍従だけとなってしまった、こう岡崎は解説する。
 平成元年、江藤淳氏は、自分たちが住んでいる言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているもどかしさを感じ、そのルーツを探って辿り着いたのが、占領時代の言論統制だった。江藤氏が感じたのは日本人のアイデンティティと歴史への信頼を崩壊させようという意図だ、と。日本を根こそぎ変えるというGHQケーディス次長などの意図が言論統制政策に反映されたと考えれば、江藤氏の指摘は正確だった、と岡崎氏は言う。占領軍の検閲は大作業だった。一か月に扱った資料は、新聞、通信三万、ラジオ・テキスト二万三千、雑誌四千、その他の出版物七千に上り、四年間で三億三千万の信書を開封検閲し、八十万の電話を盗聴した。そのためには、高度の教育のある日本人五千名を雇用した。給与は、当時、どんな日本人の金持ちでも預金が封鎖され月に五百円しか引き出せなかったのに、九百円ないし千二百円の高級が支給された。そういう人たちの過去はかくされていた。戦前、戦中の日本の検閲は、××の伏字になっており、前後の文脈からおおよそ推測できたが、占領下の検閲はでは、文章の基本的構想、その背後の発想まで変える必要があった。それを拒否すれが文筆を業とする者は生活の糧を失う。それを毎回するという事は思想の改造を強いられる。先のジョン・ダワーは、「日本人は、すぐにその新しいタブーに従って自ら検閲することを覚えた。誰も最高権力に勝てないことを知っていて、敢えて挑戦しようとしなかった」「勝者は、民主主義と言いながら、考え方が一つの方向に統一されるよう工作した。あまりにもうまくそれに成功してしまったため、アメリカ人などは、それが日本人の特性であると考えるに至った」という。
 検閲の対象は広範囲で、占領政策批判、東京裁判批判、新憲法制定の経緯などはもとより、米英ソ中朝鮮について、戦前からの全ての行動の批判、戦後の日本の悲惨な世相、占領軍の放恣な行動批判等々にとどまらず、冷戦等外部世界への言及も禁止された。ダワーは「日本人は、米ソ同盟はすでに崩壊したこと、中国が国共に分裂したこと、アジアで反植民地闘争が再び起こっていることなど知らない空間に閉じ込められ、第二次大戦の勝者のプロパガンダを繰り返し聞かされるだけだった」と書いているという。それが七年続いた後、アメリカ自身は占領初期の未熟な左翼的な考え方を捨て去っていた。ところが、今度は日本の左翼の言論、教育界により、それが維持、増幅されたため、未だに占領初期の政策に迎合することが戦後日本思潮の底流となっている、と岡崎氏は言う。確かに、日本のマスメディアや日本学術会議は今もなお、戦後のGHQの検閲が幅を利かせた時代の左翼思想に染まった人たちやその影響下にある人たちでいっぱいである。

 元朝日新聞記者長谷川熙氏の「崩壊朝日新聞」には、日本の歴史づくりに関わる大新聞社の、普段見聞きする事の出来ない内幕が詳細に語られている。1946年、読売新聞社長の正力松太郎が社の民主化などを求めた論説委員会幹事の鈴木東民ら五人に退職を命じたことに端を発し、組合側が会社を占拠、組合委員長の鈴木東民は編集局長も兼ねて、紙面は突如共産主義礼賛となり、販売部数は急減した。会社側は鈴木東民らに退職を促し、生産現場は会社側に取り戻されたが、鈴木らは空襲で焼け残ったビルに立てこもった。これに対して日本共産党系で聴涛委員長の日本新聞通信放送労働組合が報道各社のゼネスト決行を決め、新聞単一労組の体制はストライキ支援に傾いた。東京朝日新聞の支部では賛否両論の激論となり、ゼネスト前日の組合投票で、ゼネスト反対743、賛成428でゼネスト反対となった。こうして朝日新聞社は共産主義へ向かう革命路線か否かを戦後初めて決断する瞬間を、共産主義革命への直行の否定とGHQの介入を阻止した。一部の地方紙を除くと他社もおおむね同様で聴涛(元朝日新聞東京本社論説委員)の革命企図は失敗した。後日、ゼネスト反対の論陣を張って後に社長に就任した広岡知男はインタビューで「このストは組合管理の新聞を作っていた鈴木東民らのグループが社を追われて孤立しているのを救うというのが大義名分だったが、指導していた共産党ー産別ラインの真の狙いは、新聞ストを打ち、国民に一切の情報が入らないよう目隠しして、電力、鉄道、炭鉱といった基幹産業を次々ストに入らせ、事実上の大ゼネスト状態を起す、つまり、人民政府樹立のための混乱を作り出そうとしたものだ」「社会の歪みの多くが資本主義の欠陥から生じていることは明らかで、その点では共産主義理論にも正しいところがある。その理論にどんな名が冠されていようと、正しいものは正しいとするのが新聞記者というものだ」と長谷川は記述する。さらに長谷川は慰安婦虚報事件の新聞社の対応や、戦後の社風を形成した人たちのソ連派、中国派の葛藤、大阪本社社会部の歪みやNHKの番組改編非難報道の顛末など、丁寧に取材し事実関係を公開しているが、筆者が注目するのは、ゼネスト賛成者が428人(37%)もいた事、広岡の理論の正しものは正しいとする姿勢である。革命賛成派(そこまで考えていなくとも革命になびいた人たち)が37%もいたという新聞社構成員の意志は、戦後のGHQ統制時代の空気を反映していることを考慮しても、問題である。 が、もっと問題なのは「理論の正しいものは正しいとするのが新聞記者」というくだりである。この辺が報道関係者の限界である。日本国民の生活を守らなければならない吉田首相は在任中次のように語っている。『世の中には共産主義の問題を、単純な政治的信条の問題と見たり、甚だしきは思想の自由、結社の自由に帰着する問題の如く見做すものが多く、共産党に対する弾圧的措置を、基本的人権の侵害の如く見做すものがあるが、このようなことは、故意に現実に目を覆うものでなければ、思慮の至らざるものか、眼はあれども節穴同様と言わねばならぬ。私たちが占領中から独立後に至るまで、共産主義者を絶対に容認することが出来ないのは、その思想や信条を問題にしたからではない。問題は常にその行動にある。特にその破壊活動にあった』と。破壊活動とは革命のことである。つまり、理論(思想)が正しくても、その実践(国民生活を守る)が伴わなければ、政治はその理論を採用できない。広岡の言葉にはそこまで突き詰めた思索がない。この点で、朝日新聞の限界があったのではないか、反対のための反対、と。

 以上、幕末から講和条約締結までの日本の歴史を辿って振り返ると、日本人の歴史は、世界的な視野で重層的な見地に立ってみる必要があるということ、プロパガンダによる歴史の歪曲には決然と対峙すること、GHQの思想統制・東京裁判での検察側からの攻撃に対して日本人は精神的に卒業する必要があることなどが課題である。最近ユーチューブでは海外からの日本訪問記がたくさんアップされ、日本の良さが高く評価されている。親切である、町がきれいである、治安が良い、食べ物がおいしい、とどれもべた褒めである。また企業評価面では、日本の高い技術力が再評価されている。そんな中で、日本はなぜ植民地にされなかったか、との話題もアップされている。世界の人から見れば、日本という国は非常に興味深い国なんだろう。行ってみたい国のランキングで最近はいつも上位である。こうした評価は、戦中の日本人の評価と段違いである。ジョン・ダワーではないが、突然狂いだし、残忍だった日本人が、また突然変身したという事か。日本人に自覚症状がないので、そんな筈はない。現在の評価が良ければそれでいい、との意見もあるだろうが、やはり正すべき内容は正すべきだろう。それは過去の時代、日本から海外に移民した日系アメリカ人はじめ、ブラジル等の日系の人たちへの偏見にも、日本国が広い視野でサポートすべきと思う。単に日本国内にいる日本人の問題だけではない。
 ちょっと話は逸れるが、安倍晋三回顧録の中で、トランプが天皇陛下の即位はスーパーボウルと比べてどのくらい大事な行事なのかと聞いたので、スーパーボウルは毎年やっている、即位は日本の歴史上、126代の陛下だ、と答えた。英国の王室とどちらが長いかと聞かれ、遥かに長い。日本は万世一系、ワンブラッドだと言ったら、トランプは驚いて、天皇が初めて会見する外国元首となった、というエピソードを披露している。筆者も英国の学生をショートステイさせた時、英国の歴史は1000年しかない、その前はケルト人の歴史だ、と言っていた。トランプだから驚いたという訳でもない。オバマだって同様だと思っている。
 話が逸れたついでに、安倍とオバマのやり取りは筆者にとって、非常に興味深かった。2014年初め、ウクライナの政変で親露派政権が失脚した混乱に乗じてロシアがクリミア半島に軍事介入した。これに反発した欧米の主要国が、ロシアのソチから場所を変更し、ブリュッセルでサミットが開かれた。ロシアに対して厳しかったオバマが、対ロシア制裁を何項目か考えて、制裁一覧表を自ら配った。メルケル首相が日本はロシア制裁どうするのと聞いたので、日本も領土交渉を抱えているから制裁は無理だ、現状変更への批判という形で文書をまとめればいいのではないか、と答えると、その方向で話がまとまった。結局制裁が見送れらた。イタリア首相が安倍にハイタッチを求めて来たのでオバマに失礼かと思ったが、オバマもその後安倍にハグして来た。そしてオバマは急いで制裁の紙を回収した、という。この件は、安倍の役割を言いたい訳ではなく、オバマの干渉主義を言いたかった。米国は第一次大戦後ヨーロッパ問題について、フーバーを筆頭に不干渉主義(モンロー主義に端を発した)が国民の大勢だった。それをルーズベルトは巧みに戦争に持ち込み、ヨーロッパ問題に関与した。その結果、共産ソ連を利することとなり、その批判として干渉主義(歴史修正主義から)という言葉が出て来た。しかし、冷戦がはじまり、北大西洋条約機構(NATO)が締結され、再度ヨーロッパと集団防衛組織を結ぶ関係(原加盟国12カ国、現在31カ国)となった。不干渉主義はその後孤立主義と呼ばれるようになっている。ブッシュやトランプの共和党政権がその例である。ところが民主党オバマはヨーロッパ諸国よりウクライナに対する関与が積極的で、なぜかその理由を知りたくなる。そして現在のウクライナ戦争である。戦っているのはウクライナであるが、中身は米ソの戦いに見える。アメリカは兵士を送らずに、戦っている。これらから台湾有事の米国のシナリオが見えてくる。だが、こうしたシナリオがみえるのは、これまでの歴史を辿った成果だろう。

 これまで日本の歴史について詳しく知らなかったので、新聞やテレビ、世の有識者らが云う事に対して、腑に落ちないながらも、聞いていたストレスが、大分解消されたように思う。自信をもって日本のことを語れることが出来そう。そして世界と向き合うことが出来る。

 

 

 

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本判決 ・・・ パル判決と対比しつつ 冨士信夫氏の分析 2

2023年06月26日 | 歴史を尋ねる

 講談社は、昭和58年、創立七十周年記念事業の一つとして長編記録映画「東京裁判」を企画・制作し、上映一週間前に池袋のサンシャインシティで国際シンポジウムを開催した。このシンポジウムは一橋大学名誉教授細谷千博氏、神戸大学教授安藤仁介氏、東京大学助教授大沼保昭氏の三人が交代で議長役を務め、日本、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、西ドイツ、中国、韓国およびビルマの学者、歴史家、評論家等19人が東京裁判について意見を述べ質問に答えた。二日目の午後、東京教育大学名誉教授家永三郎氏は、東京裁判史観に立つ一人の日本人学者として、次のように見解を表明した。「弁護側立証開始時の清瀬一郎弁護士の冒頭陳述は、現代の大東亜戦争肯定論と基本的に同じ考えに立つものであって到底賛同することは出来ない。パル判事の少数意見は日本の中国侵略を弁護する論旨であり、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて、東京裁判の不法性の有力な論証として利用されている危険性を声を大にして訴えなければならない。パル少数意見は東京裁判不法論、大東亜戦争肯定論に連なり、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されているのは看過できず、日本人自身の手で、日本が遂行した侵略戦争遂行過程で発生した残虐行為に対する責任追及をなし得なかった事情を考える時、東京裁判の持つ積極的意義を無視してその瑕疵のみ論じ、これを全面的に否定する事の危険な効果を心配しないではいられない」と。  日本には「東京裁判史観」なる歴史観があると言われているが、それは日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した「侵略戦争」であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、悪であった、とする歴史観。本判決が「侵略戦争」と判定したのだから日本が行った戦争は侵略戦争であり、「南京大虐殺」があったと判定したから南京大虐殺はあったのだと信じ、あるいはなんらかの思惑なり意図があって単に口先だけでそう言っているだけかもしれない、と冨士信夫氏は言う。
 歴史とは不思議なもので、その時の経過と共に、パル判事が言うように「正義の女神がその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変える事を要求する時が来る」と、自ずとその判定をしてくれる。例えば、家永氏のいう「パル少数意見は、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されている」という事実はあったのか、その後の事実ではなかったことが分かる。また、その後の日本では、パル判決は闇に消されたではないか、つまり影響力はなかった。家永氏はいう「パル判事の少数意見は、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて」という。こういういい方は、政治的言説、アジテーターに近い。むしろ家永氏が社会変革を目指す共産主義者ないし社会主義者であることを反面で言っているようにも受け取れる。冨士氏が「なんらかの思惑なり意図があって単に口先だけでそう言っている」と記述するのも、こうした憶測かもしれない。

 東京裁判の目的は何だったのか。裁判終了直後の1948年11月、全弁護団を代表してブレイクニー弁護士がマッカーサー元帥に提出した覚書には、「侵略は犯罪であり重刑を以て支払わねばならぬということを法律として確立すること、および、法律を尊重し法律を支持するために行動しているのであり、これらの敵にまでも司法手続きによる公正な裁判を許していることを敗戦国および世界に印象付けることであった」と記述している。そしてブレイクニー弁護士は、今回の判定はそのいずれの目的をも達することに失敗した、と述べている。
 清瀬一郎主任弁護士は後日、「この事件の中心になった法律問題は、侵略戦争を準備し、またはこれを遂行するということは、太平洋戦争当時犯罪であったか、犯罪であったとして、その当時の指導者個人を処罰し得たのであろうかの2点であった。この2点について、パール判事は徹底的に研究された。国際法学の権威であるイギリスのハンキー卿は、その著書で裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを私は全然疑わないと保証しておられる」と。
 更に清瀬一郎弁護士の冒頭陳述では、「検察官は日本政府が、1928年すなわち昭和3年より、1945年すなわち昭和20年の間に、日本政府の採用した軍事措置が、国際公法から見てそれ自体犯罪行為である、と。更に検察官は、日本の政策が犯罪であると論ずるのみならず、もし国家が侵略的戦争または条約違反の戦争を起した場合に、たまたまその局に当り、戦争遂行の決定に参加した個人は犯罪者としての責任を免れぬ、と。言い換えれば、被告を含む日本国家が、検察官の指摘する十七カ年の全期間にわたって国際法的の犯罪を続行していたということが、検察側の根本の主張である。被告はまずこれを極力否定するものである。また弁護人の方では、主権ある国家が、主権の作用としてなした行為に関して、ある者が当時国家の機関たりしとの故を以て個人的に責任を負うというが如きは、国際法の原理としては、1928年においては無論のこと、その後においても成立していなかったことを上申する」と。

 すでに前にも触れたが、清瀬一郎弁護士は冒頭陳述の中で侵略について次のように触れている。「検察官は、侵略戦争は古き以前から国際犯罪を構成したと主張し、侵略の定義を与えている。これを支持するために多数の国際条約または協定も引用している。元来侵略が何であるかということを定義するすることは、かってジョン・バゼット・モーア氏が「理性への訴え」という一文で指摘したように、実に不可能である。今は法律上の議論をするものではない。むしろ検察官が引用された事実に、脱落があることを指摘したい。検察官がまず1907年のハーグ条約第一を挙げているが、この条約では周旋または調停を絶対義務としていない。当事国はなるべく又は事情の許す限り問題を周旋または調停することが期待されているだけである。検察官は次に1924年の第四回国際連盟総会に付議された相互援助条約案を引用している。しかしこの案は第五回総会で廃棄された。また検察官はジュネーブ議定書を引用されている。しかしながらイギリスの批准拒絶により他の国もこれに倣って批准を与えていない。ついに条約としては成立しなかった。条約として成立しなかったことは、侵略戦争を国際法上の犯罪なりとすることが当時未熟であり、これを定義することがあまりに困難であるということの証拠として引用され得ると思う。1928年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)もまた侵略戦争を犯罪なりと規定はしていない。(アメリカは条約締結に当たり、重大な条件を付帯させた。それは、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残したことである。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかった  : ウキペディアの解説)」  清瀬一郎弁護士は以上のような論旨で、検察側の主張の杜撰さを指摘している。尚、この件についての裁判所判断とパール判事の判断は前段で詳しく触れた。

 ちょっと横道に逸れたが、また最初の「東京裁判とは一体なにだったのか」を理解する為のテーマに戻る。
3,共同謀議に関する事実論
 起訴状の訴因第一は「全被告は昭和三年一月一日から昭和二十年九月二日までの期間に、日本が東アジア、太平洋、インド洋ならびにこれらの地域およびこれに隣接するすべての国家、島嶼の軍事・経済・政治的支配の獲得を目的とする共同謀議の立案または実行に指導者、教唆者または共犯者として参画し、この目的達成のため、他国を誘致または強制的にこの共同謀議に加入させ、この目的に反対する国々に対し、宣戦を布告しあるいは布告しないで侵略戦争ならびに国際法、条約、協定および保証に違背した戦争を遂行した」という内容で、全被告を訴追している。 本判決は、弁護側提出証拠の大部分を証拠価値のないものとして斥けているので、この事実論の内容の大部分が検察側最終論告内容と同じで、すべての事が「大東亜各地の支配を獲得しようとする共同謀議達成のための侵略戦争の遂行」という、検察側の主張そのもので綴られていた。これに対してパル判決は、これらの出来事、事件等は共同謀議という概念に結び付けなくとも、証拠により、一つの事実上の事柄として立証できる。もし立証できるとすれば、敢えて共同謀議なるものに結び付けて考える必要はないのではないか、という立場でこの事実論を説き進めた。
 本判決の事実論は、満州事変、支那事変を含む対中国関係、張鼓峰・ノモンハン両事件を含む対ソ連関係、米英蘭諸国との関係にそれぞれ詳述しているが、その前の「軍部による日本の支配と戦争準備」の中で、日本が近隣諸国の領土を相次いで侵略した違法行為に対する個人責任を判定するに当たって、その当時の日本国内の政治的発展、当時の国内史を考察する必要がある旨述べた後、皇道と八紘一宇の原理に始まり三国同盟締結に際しての日本の指導者の意図に終わる、日本国内で起こった各種出来事等を取りあげている。例を挙げると、①「国策の基準」について、②「満州事変」の勃発を巡る諸問題について、③「陸海軍大臣現役武官制」の制定ついて、④ソ連に対する日本の侵略について、⑤太平洋戦争について、以上紹介した諸点を含めて、12月8日の開戦までの各種出来事、事件等について述べて来た本判決は、その纏めとして「結論」の項を設け、「日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イギリスとアメリカに対する攻撃は正当な自衛の措置であったという、彼らのために申し立てられた主張を検討することが残っている。これら諸国が日本の経済を制限する措置を執ったために、戦争をする以外に、日本はその国民の福利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から日本を離れさせようとして講じられたもので、全く正当な試みである。(アメリカの日米通商航海条約廃棄通告をした理由が、日本の満州・中国の占拠に対する対抗措置であったことを述べた後)日本向け物資の輸出に対して、次々に輸出禁止が課せられたが、これは日本が諸国の領土と権益を攻撃する事を決意したことが、たまたま明白になったからである。また諸国が、自国に対する戦争を遂行するための物資を、これ以上日本に供給しないようにするためであった。
 弁護側の主張とは反対に、フランスに対する侵略行為、イギリス、アメリカおよびオランダに対する攻撃の動機は、日本の侵略に対して闘争している中国に与えられる援助をすべて奪い去り、南方における日本の隣接諸国の領土を日本の手に入手しようとする欲望であったことは、証拠が明らかに立証するところである」と述べて弁護側の主張を斥け、更に1940年、41年に行われた日本の北部・南部仏印進駐と終戦直前の仏印全土における日本軍によるフランス軍の武装解除、警察権の掌握等について、当時の日本の行動は、フランス共和国に対する侵略戦争の遂行を構成するものだったと、裁判所は認定した。この後、米・英・蘭に対する日本の行動は侵略戦争だったとの、裁判所の見解を明らかにした。
 本判決に対してパル判事は次のように述べている。アメリカが経済上、軍事上の援助を中国に与えていた事を指摘し、引続き、日米通商航海条約の破棄をはじめ、米国の採った対日禁輸措置が日本に対してどのような影響を与えたか、について次のような見解を述べている。「経済圧迫に困惑の余り、日本は蘭印に対して、ことに石油に関し新規の交渉を開始するために一層の努力を傾けた。蘭印との交渉は、1941年6月17日まで継続された。その間、アメリカは更に輸出禁止令を発表し、それによって経済圧迫を一段と強化するに至った。7月21日、ルーズベルト大統領は日本大使に「米国がこれまで日本に対して石油の輸出を許可していたのは、そうしなければ、日本政府は蘭印にまで手を延ばすと思われたからである」と。7月25日同大統領はラジオを通じて「日本に対し石油を送っている目的は、米国の利益及び英国の防衛、更に海上の自由を慮り、南太平洋水域における戦争の勃発を避けようとするにある」と。かような対日経済制裁こそ、日本をして、後に事実採用するに至ったような措置に出る事を余儀なくさせるであろうとは、米国の政治家、政治学者、ならびに陸海軍当局すべてが意見を等しくしていたところだ。かような措置の中に、検察が主張するような種類の企図ないし共同謀議を読み取れない」と。

 パル判事は、「検察側によって主張されたような共同謀議に関連して検討さるべき主要事項は、真珠湾攻撃に先立って日本が、日米交渉に関してどのような態度を執ったかという点である」ということから始まっている。まず検察側の主張が、米国との会談の期間中に、かって一歩でも譲歩しようという意志が共同謀議者側に見られなかった、日本はその出来心に任せて、占領または征服する権利の承認を米国から得ようと志したか、または米国ならびに英国をして安全感を持つよう持ち掛け、その間に自国は秘密裏に準備し、さらに、侵略的行動を執るのに最も有利な時期を決定しようとした、米英両国は、重要問題は単に現在の諸規定全部を遵守する事によって解決され得るものとの立場に在ったが、一方日本は、条約に基づく権利を遥かに超える権利を主張し、条約の課す義務を認める事を全く拒絶した、というものであった事を指摘した上で、検察側の最終論告を26項目に分けて要約した。そしてこの交渉における東京の当局者は、ワシントン駐在大使に対して、日本の態度を米国当局者に明確にするよう繰り返し訓令し、大使もこの訓令に慎重に従った事が明らかである。日本が米国に対してなした諸提案は、陰険回避的なものはなかった。少なくともこれらの提案には曖昧な点が一つもなかった。交渉は決裂した。決裂したことは遺憾であるが、少なくとも日本側において、すべての事は誠意をもって為されたものであり、本官はそのいずれの所においても欺瞞の形跡を発見することが出来ない、と。この後パル判事は、日米交渉開始の当初、ハル長官から野村大使に提示された日米私人により国務省に提示された草案を初めとして、爾後の日米交渉の間に両国から提示された各種修正案の内容を引用しながら、日米双方の交渉態度等について分析し、その見解を述べている。その中から、ここではハル・ノートを取り上げる。パルはハル・ノートの内容を要約説明した後、「日本政府はこれを以て、八か月間の交渉による、了解に対する発展を無視するものであると見た」と述べ、ハル・ノートの内容は6月21日の米側提案乗内容より厳しいものであった事、具体的条項を引用・比較しながら、ハル・ノートがどのような性格のものであったかを、歴史家の言葉を引用しながら、「現代の歴史家でさえも、『今次戦争について言えば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも、合衆国に対して戈を執って立ち上がったであろう」 現代の米国歴史家は「日本の歴史、制度と日本人の心理について何ら深い知識を持たなくとも、1941年11月26日の覚書について、二つの結論を下すことが出来た。第一に日本の内閣は、たとえ自由主義的な内閣であろうと、また、反動的なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒す事なしには、その覚書の規定する所を交渉妥結の基礎として受諾する事は、出来なかったであろう。第二に米国国務省の高官、特に極東問題担当の高官はすべて、日本政府がこの覚書をとうてい受諾しない事を感知していたに違いない。同時にまた、ルーズベルト大統領とハル国務長官が、東京はこの覚書を受諾するだろうとか、この文書を日本政府に交付することが戦争の序幕になる事はあるまいと考えるほど、日本の実情に疎かったとは、到底考えられない」と述べている。ルーズベルト大統領とハル国務長官は、覚書に含まれた提案を日本側が受諾しないものと思ったので、日本側の回答を待つことなく、日本の代表に手交された翌日、米国の前哨地帯の諸指揮官に対して、戦争の警報を発する事を認可したのである、パルは述べている。
 ここでパル判決は一転し、1936年末に中国では国共合作が行われ、1937年7月に起こった日中戦争(支那事変)を誘発したのはこの国共合作であった事を指摘した後、アメリカがあらゆる方法で国民党を援助して来た事を述べ、アメリカが支那事変に関連して執った行動は、もし支那事変を戦争と見る場合は、アメリカの行為は国際法上は交戦行為とみなすことが出来るとの見解を明らかにした。また、先に弁護側立証段階で証人となった嶋田被告の宣誓口述書を引用した上で、検察側の共同謀議説を批判し、最後に、日本と交戦状態に在った中国を連合国が援助してきた事実に再び言及した後、日本の執った行動が何ら侵略的なものではなく、また日本側に背信はなっかった、との見解を示し、「当時中国と交戦していた日本に対して連合国が執った措置は、紛争に直接参加するに等しい行為であった。彼らの行動は中立の理論を無視し、また国際法が今なお非交戦国に課している根本的な義務を、棄てて顧みないものである。連合国がこのような諸行為を執ることによって、すでに紛争に参加していたのである事、そして、それから後に日本が連合国に対して執った敵対行為は、どれも侵略的なものとはならない」と。いずれにせよ、これらの事実は、起訴状の中で主張されたような種類の共同謀議の存在を包含することなしに、真珠湾攻撃に至るまでの事態の進展を十分説明している。日本はアメリカとの衝突は一切これを避けようと全力を尽くしたけれども、次第に展開した事態のために、万止むを得ず、ついにその運命の措置を執るに至ったという事は、証拠に照らして本官の確信する所である、と。
 日本人でないパル判事の、ここまで事実関係を究明したその努力に頭が下がる。それにつけても、冒頭の家永三郎氏の言説は、事実の究明に汗を流さない表面的な言辞で、実に残念である。

 4,通例の戦争犯罪(残虐行為)
 被告の個人責任(省略)の項で本判決が、捕虜および一般人抑留者に対する戦争法規違反についての被告の責任を論じたが、検察側がその立証中に提出した厖大な証拠を基に、本判決はこの通例の戦争犯罪の項を説き進めた。「本裁判所に提出された残虐行為およびその他通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から、1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦およびその他の非人道的な野蛮な性質の残虐行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われた事を立証している。数か月の期間に亙って、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証言は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域で全く共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏および軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかという事である」 ふーむ、随分乱暴な論の進め方だ。本判決が検察側の立証(証人として出廷していない宣誓口述書を含む)はすべて事実であるとの見解の上に立ってこの部門の判決を綴っているのに対し、パル判決は、訴因第37~43(宣戦布告なしの攻撃による殺人の共同謀議および、真珠湾、コタバル、香港、上海およびダバオでの不法殺人)を検察側は、条約に違反して開始された、日本には交戦権がなかった、その結果敵対行為で行われた殺害は、普通の殺人になる事を主張するが、敵対行為の開始に手落ちがあったがやはり戦争を構成するものであり、交戦に付帯する法律上の権利・義務が伴っているとし、コミンズカー検事が侵略戦争は不法なものであるから、不法な攻撃・殺害を命ずる事の関与した被告は、この犯罪的殺人行為を正当化する事は出来ないと問うたのに対し、パルはどのような殺害でも、同行為が戦争中に行われたものである事を立証すればそれで充分で、その戦争自体を正当化しなければならない理由はない、と。訴因第45~50(南京、広東、漢口、長沙、衝陽、桂林、柳州における殺害)の起訴事実は、日本の軍隊の攻撃に伴って必然的に起こった殺害、住民の殺害を不法に命令し、その結果、不法に行った殺害としているが、パルは国際法に違反して住民を殺害する事を命令し、授権し、許可した事を示すような証拠は絶無だったので、これらの訴因を考察から外した。訴因第51、52(ノモンハン事件、張鼓峰事件)パルはこれら二訴因が本裁判の管轄外であると簡単に片づけた。また、訴因第44および第53(戦時中の俘虜および一般人の殺害に関する共同謀議)について、パルは共同謀議の訴追の、どのような部分を立証されていないとして除外した。結局、訴因37~53のすべての訴因を考察の対象から外した。この後、訴因第54(日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因)は、軍隊を指揮した土肥原、橋本、畑、板垣、木村、武藤、佐藤、梅津の郭被告について彼らが指揮下の軍隊に残虐行為の実行を命令し、許可したとする証拠は皆無である事を指摘し、一般市民に対する起訴事実は成立しないとし、第55(俘虜に関する訴因)は、当時の日本における情勢に鑑みて、これらの遺憾な処刑を阻止する事を怠った事について、被告が刑事的責任を有するものとは認めない、との見解を表明した。
 検察側が最も力を入れて立証した戦争法規違反の証拠をすべてそのまま事実と認定し、それらの犯罪の類似性から、これらの犯罪は日本政府の政策に由来するものとして被告の責任を問うた本判決と、純粋に国際法学者としての立場に立ち、多くの戦争法規違反行為があった事実を認めつつも、それらの不法行為に対する刑事責任を被告に結び付けるものは何もないとして、検察側の主張を一つ一つ覆していったパル判事の見解で綴られたパル判決。

 冨士信夫著「私の見た東京裁判」を読了して、筆者が感じ取った「東京裁判とは一体なにだったのか」の実態が以上である。それを簡潔に言い表すとパル判事が言っている言葉の引用が適切である。『法律的外貌をまとっているが、本質的には政治的である目的を達成するために本裁判所は設置されたに過ぎない』『戦争国は敗戦国に対して、憐憫から復讐までどんな物でも施し得る。しかし戦勝国が敗戦国に与えることが出来ない一つの物は正義である』『正義とは実に強者の利益に外ならない』『現在、国際世界が過ごしつつあるような艱難辛苦の時代において、あらゆる弊害の源泉として虚偽の原因を指摘し、それによって、その弊害をすべてこれらの原因に帰すると説得する事によって人心を誤らせる事の極めて容易である事は、実に、誰しも経験している。このようにして人心を支配しようと欲する者にとっては、今こそ、絶好の時期である。復讐の手段に、それ以外に解決はないという外貌を与えて、この復讐の手段を大衆の前にささやくには、現在ほど適当な時は他にない』『感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、教育的というより、むしろ興行的なものであった。恐らく敗戦国の指導者だけが責任があったのではないという可能性を、本裁判所は、全然無視してはならない。指導者の罪は、単に、恐らく、妄想に基づいた彼らの誤解に過ぎなかったかもしれない』『時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう』
 パル判事の言葉は反語的ですぐにはのみ込みにくい。これは連合国判事の総意に反する見解だから、正論として強く表現できなかったせいだろう。しかし真摯な・断固とした心を読み取ることが出来る。

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本判決 ・・・ パル判決と対比しつつ 冨士信夫氏の分析

2023年06月09日 | 歴史を尋ねる

 冨士氏は言う。「東京裁判とは一体なにだったのか」を理解する為には、裁判所の本判決の内容と共にこのパル判決の内容も併せて知る事がぜひ必要である、と。両判決共厖大な量になるので冨士氏はピックアップして解説する、と。ここでの取り上げは更にコンパクト化し、「なにだったか」に答えられるようにしたい。

1,証拠の採用状況について   検察側立証段階では、反対尋問できない事を理由とする弁護側の異議申し立てを却下して、証人としては出廷しない多数の者の証言が宣誓口述書の形で証拠として受理される一方、弁護側提出の多くの文書が「重要性なし」「関連性なし」として却下された。その関連で本判決では証拠価値について「弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された。それは主として証拠能力がほとんどないか、全くなかったからであり、または、全く関連性がないか、非常に希薄な関連性しかないために、裁判所の助けにならなかったからであり、さらには、すでに受理された種類の証拠を不必要に集積するものであったからである。・・・弁護側の証人の大部分は、彼らの困難に敢然と直面しようとしなかった。彼らは冗長なごまかしや、言い逃れを以てその困難に対処したが、それは彼らに不信用を招くに過ぎない。弁護側の最終弁論の大部分は、弁護のために提出された証拠を裁判所が信頼できるものとして取り上げるだろうとの仮定に基づいたものであった。これらの弁論の大部分は失敗に終わっている。というのは、証人として率直さを欠くために、裁判所では信頼できるものと認める心算のない人々の証言に、彼らの弁論の基礎が置かれていたからである」と。
 裁判をずっと傍聴していた冨士氏には次のように見えた。「私には、本判決中のこの主張から窺える裁判所の基本的な態度というものは、起訴状中に訴追されている犯罪項目については、被告たちには何としても有罪の判決を下さなければならない、そのためには被告者に有利に作用する証拠は、よくよくの場合以外は取り上げてはならず、従って、被告たちに有利に作用する弁護側提出証拠却下の理由をもっともらしく述べなければならない、との考慮が働いた結果によったもののように思える」と。
 パル判事はどう見たか。まず「証拠の価値を判断するに当たって、証拠の大部分にまつわる明白な不確実さについて一言する」と前置きして、通例ならば法廷に証拠としては受理されない性質の文書、すなわち、法廷に不出廷者の宣誓口述書を、裁判所が多数証拠として受理した事を批判して、「(法廷に不出廷者の宣誓口述書中に述べられている事)は、言明者の知識がどれほど広かろうとも、同人が法廷に召喚されて、証言台から証言しない以上、信を置かれ、また証拠として受理さるべきでない。法廷はこの規則を守らなかった。・・・本審理中に提出された証拠の大部分は、この種の伝聞から成るものである。これらの証拠は、反対尋問するために法廷に現れなかった人からとった陳述である。この種の証拠価値を判断するに当たっては、深甚な注意を払わなければならない」と。ちなみに、検察側立証段階で証拠として受理された宣誓口述書・陳述書・手記・日記等合計約980通中、証人が出廷せず文書だけが証拠として受理されたものは、約710通に上った。

2,法律論 ①裁判所の管轄権  裁判所条例の法的性格
 裁判所開廷当日、弁護側は本裁判所の管轄権に関する七つの動議を提出、三日間に亙って法律論争が繰り返されたが、裁判所はこれ等動議を全部却下し、却下の理由について後日発表すると宣言した。その後日とは判決公判開始の日だった。裁判所の見解は、弁護側動議中の(1)~(4)はニュルンベルグ裁判所の判決文から引用し、成立しないと述べた。(5)ポツダム宣言に言う戦争犯罪とは通例の戦争法規違反だけであるという動議について、侵略戦争はポツダム宣言の当時よりずっと以前から国際法上の犯罪であって、弁護側が裁判所条例に与えようと試みている限定された解釈をする根拠はない、と述べた。(6)交戦中の殺害行為は、戦争の法規慣例違反を除いて、通常の行為で殺人ではないという動議については、本裁判所が取扱う権限を持つものは平和に対する罪に関する共同謀議だけであり、起訴状訴因37および38の殺人に関する共同謀議という起訴事実を取扱う権限はないので、この起訴事実を受け付けない事とし、(6)の間接的回答としている。(7)被告のうち数人は捕虜であるから、軍法会議で裁判することは出来るが、本裁判所で裁くことは出来ないとの動議について、山下奉文陸軍大将に対する裁判での判決文を引用して、その結論に本裁判所は同意すると述べて、この動議に対する回答とし、この後「本裁判所の管轄権を争う事は、全く成立しない」と述べて、裁判所の管轄権問題に終止符を打っている。
 冨士氏はいう。裁判所条例及び起訴状中の特定の言葉および表現が、日本を対象として書かれたものとしては余りにも日本の実情から遊離しており、これはニュルンベルグ裁判のものの焼き直しではないかという事は、冨士氏の調査部勤務者の間で話し合われていたが、審理途中での法律論争等の場合、裁判長がニュルンベルグ裁判では、と引き合いに出す発言が度々あり、東京裁判がニュルンベルク裁判に右へ倣えをしているように思えた、と。さらに、裁判所が弁護側動議を却下した時点では裁判所条例を金科玉条とする見解以外は確定しておらず、理由はあとで考えることにしてとにかく動議は却下して置き、後のニュルンベルク判決を見て、渡りに船とこの判決に便乗し賛成する形でその見解を述べたものだ、と。
 パル判決は、条例によって設置された裁判所と雖も国際法の上に設置され得るものではなく、戦勝国は、国際法の下においては戦争犯罪人の裁判のために裁判所を設置する権限は有していても、国際法に関して立法する権限はなく、もし戦争国が国際制度上の一般に認められている規則の下でその権限を越えて立法する事を意図するとしたならば、その立法は越権になる事があり得る、と見解を示し、パルは次のように結論付けた。①本裁判所条例は、問題の犯罪を提議していない。②いかなる犯罪でも、これらを提議する事は条例の作成者の権限内にはなかった。③その条例の権威に疑義を挟む事は我々の権限内にある。④本件に適用され得る法律は、我々が国際法であるとして判定すべき法律である。 つまり日本がポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印した当時有効に機能していた国際法こそ、本裁判に適用されるべき唯一の法律であることを、パル判事は述べている。

 ②侵略戦争という命題に関して
 裁判所が侵略戦争について触れているところは、管轄権に関する動議に対する回答で「侵略戦争はポツダム宣言の当時よりずっと前から、国際法上の犯罪であって・・・」、共同謀議に関する事実論の中で「本裁判所の意見では、日本が1941年12月7日に開始したイギリス、アメリカ合衆国およびオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。これらは挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれら諸国の領土を占拠しようとする欲望であった。侵略戦争の完全な定義を述べる事がいかに難しいものであるにせよ、右の動機で行われた攻撃は、侵略戦争と名付けない訳にはいかない」、なお、大東亜戦争開戦当日日本はオランダを攻撃せず、逆にオランダが翌9日対日宣戦布告をした事実は、日本が米・英・蘭攻撃をしたとの判決文の内容と矛盾するが、この点について本判決は①日本の対蘭経済交渉において、オランダ側が日本の要求に屈しなかったため、日本がオランダ(蘭印)侵入を計画・準備した事実、②機密連合艦隊命令中に予想される敵国としてオランダが含まれていた事実、③大本営命令と連合艦隊命令により南方作戦が開始されたが、南方部隊が蘭印地区の命令の内容を変更・撤回はなかった事実等で、「オランダに対する日本の侵略戦争の遂行を命ずる命令は、12月7日の朝早くから有効であった。オランダは攻撃が差し迫っている事実から、自衛のために、12月8日に日本に対して宣戦を布告した。この事実によって、この戦争を日本側からする侵略戦争でなくし、なにか違ったものとすることは出来ない」と。

 以上から冨士氏はいう。本判決の中で明らかにされた裁判所の考え方は、侵略戦争はポツダム宣言発出以前から国際法上の犯罪であったという前提に立ち、日本が行った各種事変、戦争は総て侵略戦争であった、ゆえに犯罪であると受け取ることが出来る。侵略戦争とは何か、侵略戦争がいつから、どのようにして国際法上の犯罪になったのかという点については、何の見解も述べられていない。本判決の言葉から感じ取れるものは、被告達を侵略戦争遂行者として、何が何でも戦争犯罪人として仕立て上げようとする裁判所の強引な姿勢であって、そこから侵略戦争という命題に対する裁判所の確固たる信念を読み取ることが出来ない、と。私たちは常日頃中国、韓国から侵略戦争だったと言われ続けているし、教科書でも侵略戦争と教えられているのではないか。その根拠となっている東京裁判の判決内容が、冨士氏の指摘するようなものであったとは、ほとんどの人が知らないのではないか。公判中の記事にはGHQの検閲があり、判決記事に対して抑制的な記事を書いたともとれるが、今はGHQの検閲はない。報道の自由を謳歌している現在のメディアが当時の記事を見直したとの話も聞いたことがない。

 強引な姿勢の本判決について、パル判決は、「侵略戦争は犯罪であるか」「侵略戦争とは何か」という二項目に分けて、侵略戦争という命題に真剣に取り組み、色々な角度からこの命題に対するパル判事の見解を述べ、最終的には「第二次世界大戦終了までの期間においては、いかなる戦争も国際法上の犯罪ではなかった」「第二次世界大戦終了までの期間においては、国際法の分野には侵略戦争という概念はなかった」との見解を述べている、と。この侵略戦争という命題について真剣に考究し、検討することは、東京裁判本判決を元とする「東京裁判史観」を払拭する上で極めて大事なテーマなので、パル判事はどう判断したのか、煩雑になるが、概括してみたい。
 先ず犯罪であったかどうか。①1914年の第一次世界大戦までの期間、②第一次大戦から1928年のパリ不戦条約調印までに期間、③パリ条約調印から第二次世界大戦開始の日までの期間、④第二次大戦以降の期間、に分けて考察。①~②の期間については、国際法学者の学説を引用した後、最初の二期間においては、いかなる戦争も犯罪とはならなかった事は明白。次いでパリ不戦条約。提案者の一人であったアメリカのケロッグ国務長官が、批准前米上院外交委員会で行った言明、「自衛権は関係国の主権下に在る領土の防衛だけに限られていない。本条約の下においては、自衛権がどんな行為を含むかについては、各国自ら判断する特権を有する。かつ、自衛権を行使した場合は、その自国の判断が世界の他の諸国によって是認されないかもしれないという危険を冒すものである。・・・合衆国は自ら判断しなければならない。それが正当な防衛ではない場合には、米国は世界の世論に対して責任を負う者である。単にそれだけである」と。そこでパルは、自衛権を各国自ら判断し決定すべき問題として残している事実は、同条約を法の範疇から除外している、との見解を示し、国策遂行の手段として行われた戦争は国際法上不法であり、この戦争を計画し遂行することは、それにより犯罪を行いつつある事になるというニュルンベルク裁判の判決中に述べられた見解に全面的に賛成する、と述べた本判決の見解とはハッキリ対立した見解である、と冨士氏。
 さらにパルはいう。「もしも今適用されつつあるものが真に法であるならば、戦勝国民であってもかような裁判に付せられるべきである。もしそれが法であったとするならば、戦勝国民はいずれも何らの法を犯した事がなく、かつかような人間の行為について彼らを詰問する事を誰も考えつかないほど世界が堕落していると信ずる事は、本官の拒否するところである。」「本官の判断では、本審理の対象である今次大戦が開始された時には、どのような戦争も国際生活上犯罪とはなっていなかった。戦争の正・不正の区別は、すべて依然として国際法学者の理論の中だけ存在していた」「パリ条約は戦争の性格に影響を与えなかったのであり、どのような種類の戦争に関しても、何らの刑事上の責任をも国際生活に導入する事に成功しなかった。戦争そのものは従来どうり法の領域外に止まって、単に戦争遂行の方法だけが法的規律の下に置かれたに過ぎない」と。裁判所条例が事後に発展したものの助けを借りて「平和に対する罪」なるものを制定し、これにより被告達を裁こうとする連合国の姿勢に真っ向から批判する見解を述べて、この命題の見解表明を終えている。  
 次いで侵略戦争とは何を意味するのか。 「侵略という言葉ほど弾力性のある解釈、または利害関係に左右された解釈の出来る言葉はない。現在国際社会において、どの種類の戦争が侵略的であるとして不法化されるべきかを決定するにあたっては、単に一般的観念だけを基にしてその定義づけを行うのでは不十分である。ある特定の集団が懐いている一般的観念と、国際団体に存する真の一般的観念とを混同してはならない。国際社会には、他国の支配下にある国家が依然と存在しているが、その事から侵略的という言葉は、果たして支配国の利害とは区別された被支配国の利害に関連があるのか、または現状に関するものであるのか、という問題が当然生じてくる。仮に一般的という言葉が広義に解釈され、被支配国民をも包含するものとするならば、一般的観念については、意見の不一致がある事は明白である」「法の最も本質的な属性の一つは、その断定力である。法に依らない正義よりも、法に依る正義を選ぶのは断定力があるから。法に依る正義が優れている点は、裁判官がいかに善良であり、いかに賢明であっても、彼らの個人的好みや、その特有の気質にのみ基づて判決を下す自由を持たないという事実にある。戦争の侵略的性格の決定を、人類の通念とか、一般的価値観とかに委ねる事は、法からその断定力を奪う事に等しい」
 ここでいう被支配国とは何を指しているのか、冨士氏は特にコメントしていないが、インドを含む東南アジアの植民地国家を指しているのだろう。判決文を読んで違和感があるのは、シンガポールを攻撃すれば英国に侵略したことを指し、インドネシアに上陸すればオランダを占領したことと判決文は述べている。東京裁判当時の裁判官には、戦前の植民地の性格を見事に表現している。シンガポールは英国であり、インドネシアはオランダである。この点を婉曲的にパルは突いている。侵略した国はどこ、日本?。だったら英国はセーフ? 植民地時代の侵略とは何かをインド出身のパルは突きつけているように読み取れる。それは次の段でさらに明確になる。
 ニュルンベルク裁判でアメリカのジャクソン検察官が取り上げた侵略者の定義について、パルの見解が説き進められる。ジャクソン検察官の侵略者の定義、①他国に宣戦を布告する事、②宣戦布告の有無にかかわらず、その軍隊により他国の領土に侵入する事、③その陸海空軍をもって他国の領土、船舶、航空機を攻撃する事、④他国の領土内で結成された武装軍隊に支援を与える事、またはこの武装軍隊に対する助力を断つため被侵略国から要請されたのに、これを拒否する事。「我々の立場は、ある国家がどれほど不幸を持っていようとも、また現状がどれほどその国にとって不都合なものであろうとも、侵略戦争はかかる不幸を解決し、またはこれらの状況を改善する手段としては違法である」と現状維持を好都合とする大国の論理と受とる事が出来る主張を捉え、ハル判決は「今日の現状における被支配国民を、単に平和の名においてのみ永久に支配に服させる事は出来ない。従来は主として戦争によって達成された人類の政治的・歴史的発展を法の範囲内にもたらそうとする問題に対して、国際法は正面から取り組む用意が無ければならない」「ジャクソン検察官が示唆したような定義を国際法から無理に引き出す事になれば、国際法は国際的分野の既得権益に仮面を被せ、この権益防御の第一線とする事を意図した観念的仮装以外の何物でもなくなる」と。 欧米列強が過去において東亜その他の地の領土を奪い、その他の国民を支配下に置きながら、この現状を変更しようとして過去において列強が行ったと類似の行為を行おうとする者に対し、平和の美名の下侵略者なる烙印を押し、戦争犯罪人として裁判しようとする事に対する痛烈な批判だ、と冨士氏。
 次いでパル判決はソ連およびオランダの対日宣戦布告について解明する。「ソ連に関する限り、対日宣戦布告当時の状態が、防衛の考慮から必要になった戦争であるとして、これを正当化しようとするような事態ではなかった。また、日本がソ連邦に対して侵略的意図を示す証拠が審理中に提出されたが、開戦の決定に際し、ソ連邦がこのような考慮をした形跡はない」「オランダの行動については、ジャクソン検察官の示した侵略判定基準を受け入れない限り、自衛と言える」
 この後パル判決は、侵略者、侵略、侵略的という言葉の意義に関する諸学者の学説に触れ、結局侵略の判定の基準は正当性の欠如という事になる事を指摘した上で、自衛という事は戦争の正当化の理由であるとの見解を示し、引き続き、この自衛という問題の論述に移っていく。
 先ず、検察側がパリ条約に関連して、自衛の問題については各当事国がそれぞれ自主的に判断する事になっている事を認めながらも、「それは侵略者の意のままに事実を全く無視して、ただ一つの弁護として自衛を主張できるものではない。いやしくも国際法が実施されるとすれば、自衛権の主張の下に為された行為が、実際に侵略的であったか防御的であったかは、結局調査と審判を受けなければならない」と主張しているが、パルは先のケロッグ米国務長官の言明した事を指摘して、検察側の主張を批判した。
 次いで、ローガン弁護人が最終弁論の中で、自衛権は列強による経済封鎖と称し得るものまで及ぶとして、「一国からその国民の生存に必要な物資を剥奪する事は、確かに爆薬や武力を用い、強硬手段に訴えて人命を奪うのと何ら変わるところのない戦争方法である。・・・緩慢なる餓死という手段でおもむろに全国民の士気と福祉とを消耗する事を目的とするものであるから、物理的な力によって人命を爆破し去る方法よりも一層激烈な性質のものであると言う事さえできる」と主張したことについて、パルはこの主張の正当性を認める見解を示している。
 自衛について検察側は、①主張されている諸事実が、自衛という言葉の意味において自衛の場合に当たるかどうか、②被告は本心から、かような事実の存在を信じたか、あるいは単なる口実だったのか、③かように信じなければならない合理的理由があったかどうか、の三点について、その条件が肯定的に満たされた時に、初めて各国は自衛という事について独自に判断する事が出来る旨主張している。パルはここでソ連の日本に対する戦争の場合は、条件のどれも満たしていないと指摘し、侵略者は単に敗北した側の指導者たちを意味するだけのものかもしれない、と。パルは特に東條英機被告の宣誓口述書について触れていないが、当ブログ主から見ると検察側の挙げる自衛条件を、すべてクリアしている。東條自身、自衛戦争だと言い切っているところが、検察側の思惑を先取りしている。パルも揺さぶられるところがあったのではないか。しかし、パルはもう少し深いところで、思索を重ねている。

 戦勝国側の指導者たちでも、もし被告と同じ立場に立ったならば、恐らく被告達が執ったと同じ行動を執ったであろうその行動を、敗戦国の指導者が執った行動であるが故に侵略とし、その行動を執った指導者たちに侵略者の烙印を押し、戦争犯罪人として裁判に付した連合国の不公正な措置を批判している。さらに検察側の主張する諸点について否定する見解を示した後、最後に『東半球におけるいわゆる西洋諸国の権益は、おおむねこれら西洋人が過去において軍事的暴力を変じて商業的利潤と為すに成功した事の上に築かれたものである』と。もちろんかかる不公正は彼らの責任ではなく、この目的のために剣に訴えた彼らの父祖達のした事である。しかし『暴力を用いる者がその暴力を真心から後悔して、それと同時に、この暴力によって永久に利益を得るという事は出来ない』と述べる事は、恐らく正しいものと思う、と。
 冨士氏はいう。私には、パル判決全体の中で、この侵略戦争という命題にパル判事は最も精魂を傾けて取り組まれたように思える。私はこの部分を読んだ時、〈これは、白色人種に対する有色人種の雄たけびだ!〉との感を持った、と。

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大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書から見えてくる

2023年05月30日 | 歴史を尋ねる

 『東條英機 宣誓供述書』は数奇な運命を辿って、戦後60年の節目に当たる平成17年8月、ワック株式会社から編者東條由布子『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』として発行された。編者まえがきで東條由布子氏は言う。この本をお届けできるのは、さまざまな出会いのお蔭だ、と。このブログでは、従来より当事者に語らせるのが歴史を語るうえで一番大事だ、としてきた。歴史家と言われる人に語らせると、手あかがついて見えるものも見えなくなる、と考えているからだ。筆者がこの本を手にできた のも、この様々な出会いのお蔭だったと聞かされると、戦後日本のゆがみが改めて見えてくる。ゆがみの実像を見てみよう。
 由布子氏はいつものように神田の古書店街に東京裁判関連の本を探しに行くと、平成10年1月ある書店で戦記物などがうずたかく積まれた中に、薄い一冊が挟まっていた。そこには「天皇に責任なし 責任は我にあり」と書かれ、傍らに「東條英機 宣誓供述書」とあった。この本の奧付を見ると、昭和23年1月20日、洋洋社発行とあった。この本がどういういきさつで洋洋社から出版されることになったかは不明、ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和20年9月から敷かれた報道管制の一環として、この「東條英機 宣誓供述書」は発禁第一号に指定され、長い間日の目を見ることがなかった。その本を手に入れた由布子氏は友人藤川義生氏に会う機会があった。この話をすると、義生氏はすぐに複写して全文を手作りで製本し、五十冊を全国の識者に送った。その一冊が長野県に住んでいた瀧澤宗太氏に渡り、恩給をはたいて復刊に尽力してくれた。そして全国の有志に呼び掛け、日本中の図書館、大学、出版社のうち、七割のところに届けることが出来た。その後の経緯については詳しく触れていないが、7年後にワック社から復活した。渡部昇一氏も述べている通り、近現代史の超一級の資料の一つである。ところが言論の自由と声高に言うところが長年黙って避けている。不思議な現象である。この供述書が占領下の日本で発禁文書であったこと事も確かだし、パル判決もそうであった。だが、これらの文書をGHQが公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、連合国側こそ大戦の原因になっている事、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想である事が白日の下にさらされることを、占領国側が恐れたからであるに違いないと渡部氏。その渡部氏が残念がるのは、供述書に書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見た事がない、東條英機悪人説があまりに蔓延って、参照するに足らずという空気があるのではないか、だとしたら、それはとんでもない間違いである、と指摘する。従って、この供述書から、大変興味のある個所について、引用させていただく。

 まずは、対米英開戦を意思決定した9月の御前会議前後に関して

 「第三次近衛内閣と日米交渉  9月6日御前会議以前
 第二次近衛内閣の日米交渉は停頓しついに該内閣の倒壊となった。第二次近衛内閣の辞職の表面の理由はかって御手洗証人の朗読した声明書の通りであり、辞職の経緯の一部は木戸候日記にも記載してあるが、私の観察によればこの政変は日米交渉を急速にかつ良好に解決するために松岡外相の退場を求めた事だった。同氏に辞職を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を選んだ。そのことは7月16日、目白が近衛公別邸にて首相ならびに連絡会議関係の閣僚、すなわち平沼、鈴木、及川の諸氏および私が集まって協議した趣旨によっても明らかだ。そこで総辞職の決行を決議しその日の夕方総辞職になった。すなわち第二次近衛内閣は外務大臣を取りかえても日米交渉は成立せしめようと図った。この経過によっても、次にできた第三次近衛内閣の性格と使命が明らかだ。
 しかるにアメリカ側では南部仏印進駐を以て日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解した。これによって太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打切りを口にし、また資産凍結を実行するに至りました。日本政府においてはなお平和的解決の望みを捨てずその後といえども日米交渉の促進に苦慮した。大統領の提案はわが国が仏印進駐の意図を中止するかまたは進駐措置が既に開始せられたるときは撤兵を為すべしというのであった。これを条件として次の二つのことを主張している。その一つは、日、米、英、蘭、支により仏印中立化の共同保障である。その二つは仏印における物資獲得につき、日本に対する保障をなすというのであった。他方日本としては8月4日に連絡会議を経てこれに対する対策を定めた。日本の回答の重点は四つ。 一、日本は仏印以上には進駐せぬ。しかし仏印より支那事変解決後には撤退すること。 二、日本政府は比島の中立を保障する。 三、米国は南西太平洋の軍事的脅威を除去すること、そして英、蘭両政府に対して同様なる措置を勧告すること。 四、米国は南西太平洋、ことに蘭印における日本の物資獲得に協力すること、また日本と米国との正常関係の復帰のために必要な手段を取ること。
 元来、日本の南部仏印進駐は前に述べたような理由で行われたので、これを必要とした原因が除去せられるか、または緩和の保障が現実に認められるにあらざれば仏印撤退に応ずることは出来ない。国家の生死の問題に対しては一方的の強圧があったというだけで、これに応ずるということは出来ない。日本は進出の限度および撤兵時期も明示している。この場合にでき得るだけの譲歩はした。しかるに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れていない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇した。
 近衛首相はこの危険を打破するの途はただ一つ。この際日米の首脳部が直接会見し、互いに誠意を披歴して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るのほかはないと考えた。そこで1941年8月7日に野村大使に訓電を発し首相と大統領との会見を申出た。同年8月28日には近衛首相よりルーズベルト大統領に対するメッセージを送った。米国では趣旨においては異存はないけれども、主要なる事項、ことに三国同盟条約上の義務の解釈ならびにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、まず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば首脳者会談に応ずることを得ずという態度であった。そこでこの会談は更に暗礁に乗り上げた。」

 「昭和16年9月6日 御前会議
 米英蘭の1941年7月26日の対日資産凍結を巡り日本は国防上死活の重大事態に当面した。この新情勢に鑑みわが国の今後採るべき方途を定める必要に迫られた。ここにおいて1941年9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」と題する方策が決定された。この案はこれより一両日前の連絡会議で内容が定められ、更に御前会議で決定されたのであって、統帥部の要求に端を発し、その提案にかかる。私は陸軍大臣としてこれに関与した。
 この帝国国策遂行要領の要旨は窮迫せる情勢に鑑み、従来決定された南方施策を次のような要領により遂行するというのであった。 一、10月上旬頃までを目途として日米交渉の最後の妥協に務める。これがためわが国の最小限の要求事項ならびにわが国の約諾し得る限度を定め極力外交によってその貫徹を図ること。 二、他面10月下旬を目途として自存自衛を全うするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。 三、外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。 四、その他の施策は従前の決定による、 というのだった。この要領を決定するに当って存在したりと認めた窮迫せる情勢およびこれを必要とした事情は概ね次に七項目である。

 a 米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の実施  米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来た。これらの国は1941年7月26日既に資産凍結冷を発した。また比島高等弁務官は同時にこれを比島に適用する手続きを取った。イギリスは同日、日英日印、日緬各通商航海条約の破棄を通告し、同日日本の資産を凍結した。蘭印政府もまた7月26日日本の資産を凍結した。右の如く同じ日にアメリカ、イギリス、オランダが対日資産凍結をなした事実より見てこれらの政府の間に緊密なる連絡が取られていたことは明白なりと観察された。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊されんとした

 b 米英蘭による対日包囲体制の間断なき強化、米英軍備の間断なき増強等    当時わが統帥部の観察によれば米国の海軍主力艦隊は1940年5月以来ハワイに進出しますます増強されており、ことに航空的に増強されていると判断された。1941年7月には米大統領は太平洋に散在の諸島の防備強化の費用として三億ドルの支出を米国議会に求めた。当時日米の関係は甚だしき緊迫の状態を示して来ていた。これと対応して米国海軍の大拡張が計画された。1941年7月には米国上院は海軍長官に国家非常事態宣言中、海軍勤務年限延長の権限を賦与する法案を可決した。同月同大統領は海軍費ならびに海軍委員会費33億2300万ドルの追加予算の支出を議会に要求した。1941年9月3日には米国海軍省は同年1月ないし8月までの完成ないし就航戦艦2隻、潜水艦9隻、駆逐艦12隻その他を含め合計80隻なる旨を発表した。同年7月26日にはフィリピンに極東米陸軍司令部を創設しこれをマッカーサー将軍の麾下に置く旨を発表した。同年7月30日には米国下院陸軍委員会は徴集兵、護国軍および予備兵の在営期間延長の権限を大統領に付与する決議案を採択している。1941年8月米陸軍予備兵3万人を招集し、9月1日より米国極東軍マッカーサー総司令官の麾下に編入する旨ケソン比島大統領が命令を発した。1941年7月25日には米国の国防生産管理局は1940年7月以降一カ年間に議会の承認する国防充実および援英予算は507億8000万ドル、そのうち飛行機費107億9000万ドルなる旨を発表していた。1941年7月10日にはルーズベルト大統領は議会に対し150億ドルの国防費および武器貸与予算、うち陸軍強化費47億4000万ドルの支出を求めている。
 これらの情報によっても1941年7月以降においても米国側は軍備拡張に狂奔せることが窺われる。また以下の情報により米英蘭の間に緊密なる連携あることもうかがわれた。すなわち1941年7月24日に米国海事委員会は南ア、ターバン、カルカッタ、シンガポール、マニラ、ホノルル、紅海方面に海事連絡員の派遣を発表している。同年8月26日にはニュージーランドの首相フレイザー氏はニュージーランドの基地の米、豪、蘭印の共同使用に同意する旨を表明した。1941年7月4日重慶の郭外交部長は米、英、支、結束の必要を放送した。同年8月末にはマクルータ准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨ルーズベルト大統領が言明している。なお次に米側高官は威嚇的言動を発表したという報道がわが方に達しました。これらの報道の二、三を挙げれば、ノックス海軍長官はボストンで開催中の各州長官会議において、今こそは米国海軍を用いるべき時である旨演説した。ルーズベルト大統領は議会に特別教書を送り議会が国家非常時状態の存在を承認せんことを要求した。1941年7月23日にはノックス海軍長官は海軍が米国の極東政策遂行上必要なる措置を敢行する旨言明した。同年8月14日には有名な米英の共同宣言(注:米国大統領F. ローズベルトと英国首相チャーチルにより発せられた共同宣言。 領土不拡大,民族自決,通商・資源の均等解放,安全保障など,第2次大戦および戦後処理の指導原則を明らかにした)が発表された。8月19日にはケソン比島大統領とウォーレス米国副大統領とは交換放送を行い米国参戦の暁にはフィリピンはこれに加担する旨言明した。以上の如くこの当時においては米国側の威嚇的言動の情報が引き続いて入って来た。なお同年6月にはシンガポールにおいて英、蒋軍事会議が開かれ両者の間に軍事同盟が出来たとの情報が入っていた。

 c  日本の国防上に与えられたる致命的打撃   米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力および満州、支那、仏印、泰に依存する物資によるのほかなく、その他は閉鎖せられある種の特に重要な物資は貯蔵したものの消費によるのほかはなく、ことに石油はすべて貯蔵によらなければならぬ有様であった。この現状で推移すればわが国力の弾発性は日一日と弱化しその結果日本の海軍は二年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規制を施すも一年を出ずして麻痺状態となることが明らかにされた。ここに国防上の致命的打撃を受けるの状態になった。

 ⅾ  日米交渉の難航と最後の打開策の決定   以上の如き逼迫状態に伴い、政府としては松岡外務大臣の退陣までも求めて、成立した第三次近衛内閣は極力交渉打開の策を講じたが、ついに毫もその効果はなく、更に近衛首相は事態の窮境を打開するため日米首脳者の会談を企てたが、米側においてこれに応ずる色もないという情況だった。しかし、日本としては前諸項の米英蘭の政治的、軍事的、経済的圧迫により日本の生産は極度の脅威を受けるけれども戦争を避ける一縷の望みを日米交渉に懸けその成立を図らんとした。これがため従来の好ましからざる結果にも鑑み新たなる観点に立ちて交渉の基礎を求めねばならぬと考えた。

 e  支那事変解決の困難さの増大   重慶はその後更に米英の緊密なる支援を受けて抗戦を継続し、日本は各種の方法を以て解決を図ったが、その目的を達成しないために、南方の状態はますます急迫し日本としては支那の問題との両者の間に苦慮するに至った。

 f  作戦上の要求に基ずく万一の場合における対米英蘭戦争の応急準備   前諸項の原因で日本は国防上の危機に追い詰められて来たが、それでも日本は極力平和的手段により危機の打開に尽力した。しかし、他面日米交渉の決裂も予想しておかねばならない。この決裂を幾分でも予想する以上は統帥部はその責任上これに応じる準備を具えねばならない。その準備は兵力の動員、船舶の徴用、船舶の艤装、海上輸送等広汎に亙った。外交上の関係は別とするもこの準備は統帥部だけではできない。まずは国家意思の確乎たる決定を前提とする。

 g  外交と戦略との関係   外交により局面がどうしても打開できぬとなれば、日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならない。しかるときは問題は外交より統帥に移る。上陸作戦の都合と戦略物資の状況により武力を以てする包囲陣脱出のためには重大なる時期的制約を受ける。すなわち統帥部の意見によれば上陸作戦の都合は十一月上旬を以て最好期とし、十二月は不利なるもなお不可能に非ず、一月以降は至難、春以降となればソ連の動向、雨季の関係上包囲陣脱出の時期は著しく遷延することになる。この間戦争物資は消耗しわが方の立場は更に困難に立ち至るというにあった。また武力行使のためには統帥部として国家意思決定後最小限一か月の余裕が必要であるとのことだった。 

 以上主として国防用兵の関係により日米交渉に十月上旬なる時期的制限を要した。各種の情勢が9月6日の国策要綱を必要とした理由である。万一太平洋戦争開戦となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから容易に勝算のあり得ないことは当然である。そこで日本としては太平洋およびインド洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張りぬく以外に方法はないと考えた」  

 続いて、ハルノート発出前後について

 「東條内閣における日米交渉    東條内閣における日米交渉はもっぱら外務省がこれを扱った。私が承知しているのは、その大綱のみだ。10月2日のアメリカより提出されたハルノートを巡り、日米交渉に関連して第三次近衛内閣が崩壊したことは前に述べた通り。東條内閣の成立と共に政府と統帥部は白紙還元の趣旨に基づき、とりあえず10月21日、日米交渉継続の意思を外務大臣より野村駐米大使に伝達した。その趣意は同月24日若杉公使よりウエルズ国務次官にこれを通じている。日本政府は前述の1941年11月5日の御前会議において決定された対米交渉要綱により外務省指導の下に、甲、乙両案を以て日米交渉に臨みその打開につとめた。(中略)
 日米交渉は甲案より始めたものだが、同時に乙案をも在米大使に送付している。交渉は意のごとく進攻せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那進駐にあることも明らかになり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き主要かつ緊急なるもののみに限定して交渉を進めるためにあらかじめ送ってあった。乙案によって妥協を図らしめた。この間の消息は既に当法廷において山本熊一証人の発言せる如くである。
 1941年11月17日私は総理大臣として当時開会の第七十七議会において施政方針を説明する演説をした。これにより日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにした。けだし、日米交渉開始以来既に六か月を経過し、両国の主張は明瞭となり、残る問題は両国の互譲による太平洋の平和維持に対する努力をなしうるや否やのみにかかっている。これがため日本としては現状において忍びうる限度を世界に明かにする必要を認めた。日本政府の期するところは日本はその独立と権威とを擁護するため(1)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること、 (2)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去および平常関係の復帰、  (3)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであった。右に引き続き東郷外相は日米交渉におけるわが方の態度につき二つのことを明らかにした。その一つは今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つはわが方は交渉の成立を望むけれども大国として権威を損なうことはこれを排除する、というのであった。首相および外相の演説は即日世界に放送せられ中外に明かにされた。
 米国の新聞紙にも右演説の全文が掲載されたと報告を得た。それゆえ米国政府当局においても十分これを承知しているものと思われた。右政府の態度に対して11月18日貴衆両院は何れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致これを可決した。ことに衆議院の決議案説明に当たり島田代議士のなした演説は当時のわが国内の情勢を反映したものと判断した。
 これより先、米英豪蘭の政情および軍備増強はますます緊張し、また首脳者の言動は著しく挑発的となってきた。これがわが国朝野を刺激しまた前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものであった。例えば1941年11月10日にはチャーチル英首相はロンドン市長就任午餐会においてアメリカが日本と開戦の暁にはイギリスは一時間以内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられた。引続き、その翌々日イギリスのジョージ六世陛下は議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられた。ルーズベルト大統領はその前日である休戦記念日において米国は自由維持のためには永久に戦わんと述べ前記英国首相並びに国王の言葉と相呼応している。ノックス海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時到と演説をした。かくの如くわが第七十七議会の前における米英首脳者の言動はすこぶる露骨且つ挑発的であった。
 ルーズベルト大統領は11月7日には在支陸戦隊引揚を考慮中なる旨を言明し、14日には右引揚に決定した旨を発表した。英国の勢力下にあったイラクは11月16日対日外交を断絶した。一方11月中旬にはカナダ軍のゼー・ローソン准将麾下の香港防衛カナダ軍が香港に着いた。なお、11月24日には米国政府は蘭領ギアナへ陸軍派兵に決した旨を発表した。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずにはおられない。11月21日にはイギリスんぽアレキサンダー海相はイギリス極東軍増強を言明した。これより先、11月初めには米国海軍省は両洋艦隊建艦状況は1月ないし10月に主力艦就役二、進水二、航空母艦就役一、巡洋艦進水五、駆逐艦就役十三、同進水十五、潜水艦就役九、同進水十二なる旨発表した。11月25日には比島駐在の米陸軍当局はマニラ湾口要塞に十二月中に機雷を敷設する旨発表した。
 これと相呼応して英国海峡植民地当局もまたシンガポール東口に機雷を敷設する旨発表した。11月下旬ノックス海軍長官は米の海軍募兵率は一カ月一万一千名なる旨を言明した。在天津の米人百名は11月下旬に引揚を行った。以上の如く米英側の情勢は日本を対象とする開戦前夜の感を与えた。

 かくのごとき緊張裏に米国政府は1941年11月26日に駐米野村、来栖両大使にたいし、11月20日の日本の提案については慎重に考究を加え関係国とも協議したが、これには同意し難しと申し来り今後の交渉の基礎としての覚書を提出した。これがかの11月26日のハルノートである。この覚書は従来の米国側の主張を依然固辞するばかりでなく更にこれに付加するに当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかになっていた次の如き難問を含めたものであった。(一)日本陸海軍はいうに及ばず支那全土(満州も含む)および仏印より無条件に撤兵すること (二)満州政府の否認、(三)南京国民政府の否認、(四)三国同盟条約の死文化  であった。(中略)

 11月27日午後連絡会議を開き各情報を持ち寄り審議に入ったが、一同は米国案の過酷なる内容には唖然たるものがあった。その審議の結果到達した結論の要旨は次の如く記憶する。(一)11月26日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。(二)この覚書はわが国としては受諾することは出来ない。かつ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上になされている。(三)以上のことより推断しまた最近の情勢、ことに日本に対する措置言動並びにこれにより生ずる推論よりして米国側においてはすでに対日戦争の決意をなして居るものの如くである。それ故にいつ米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本においては十分戒心を要するとのこと。
 この連絡会議においては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って11月5日の御前会議の決定の基づき行動するを要する。しかし、これによる決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経てこれを決定しよう。そして御前会議の日取りは十二月一日と予定し、その御前会議には政府から閣僚全部が出席しようとした。この連絡会議と御前会議予定日との間に相当日を置いたのは、天皇陛下がこの事態につき深く御軫稔あらせられ一応重臣の意見を聞きたいとの御考えをお持ちになっておられることを承知していたので、御前会議を直ちに開かず数日間遅らせた。(中略)
 次の事柄は私が戦後知り得た事柄であって、当時はこれを知らなかった。(一)米国政府は早くわが国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知していたこと  (二)わが国の1941年11月20日の提案は日本としては最終提案なることを米国国務省では承知していたこと  (三)米国側では11月26日のハルノートに先立ち、なお交渉の余地ある仮取極め案をルーズベルト大統領の考案に基づきて作成し、これにより対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極め案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、いずれにするも仮取極めはイギリスおよび重慶政府の強き反対に会いこれを取り止めて、この提案に及んだこと、並びに日本がこれを受諾せざるべきことを了知しいたること  (四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国側に分かっていたこと  (五)米国は1941年11月末すでに英国と共に対日戦争を決意していたばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることがある。11月末のこの重大なる数日の間において、かくのごとき事が存在していようとは夢想だにしなかった。」(中略)

 「敗戦の責任は我にあり   私は世界史上最も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあったか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者達が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を立てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位にご諒解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べた。かくの如くすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとした。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国にとって無効かつ惨害を齎したところの1941年12月8日発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するために連合国側の挑発に原因し我が国に関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信する。なお東亜に重大なる利害を有する国々が何故戦争を欲したかの理由はほかにも多々存在する。これは私の供述の中に含まれている。ただわが国の開戦は最終的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げる。満州事変、支那事変および太平洋戦争の各場面を通じて、その根底に潜む不断の侵略戦争ありたりとする主張に対しては私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれに反証せんと試みた。わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち少数者が、長期にわたり、数多くの内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議をなしたなどという事は理性ある者の到底思考し得ざる事なることが直ちに御了解下さるでしょう。私は何故に検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむものである。
 日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため本法廷に多数の証拠が提出された。これに対し私の証言はこの合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じる」
 「終わりに臨み、日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもない。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手段に従いこれを処理してきたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着した。当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった。われわれは国家の運命を賭した。しかして敗れました。眼前に見るが如き事態を惹起した。
 戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかってわが国が本戦争を為したことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追され、また敗戦国の適法な官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられたとは考えた事はない。
 第二の問題、敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望する」

 

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被告の個人立証 : 東條英機被告

2023年05月11日 | 歴史を尋ねる

 東京裁判の最重要被告であり、日本国内は勿論、連合国側もその証言に注目していた東條英機被告の個人弁護の立証は、八日間に亙って行われた。この間証人として立ったのは東條英機唯一人であった。東條被告の場合は初めから自分以外の証人は一人も用意せず、また他人の宣誓口述書も提出せず、自分の宣誓口述書以外に提出した三十数通の文書は、いずれも口述宣誓書の内容に関連する日本政府の公文書であり、他の被告の立証と際立った相違を見せていた。立証は、東條被告担当の清瀬弁護士の冒頭陳述で開始された。清瀬弁護士はその冒頭で、東條が立証しようとする事柄は二つに大別でき、一つは一般的性質を持つ事柄でしかも未だ立証されていないものを、東條がその関係者として自己の見聞により立証資料を追加しようとするものであり、他の一つは、すでに外形的には一応立証された公の決定、又は実施された措置について、この国家重大の時機に際会してこれを決定するに至った動機、目的、その決定及び措置の重点を解示する事である、と前置きした後、東條が1940年7月近衛内閣の陸相就任以来、その職務内で行った事や発生した事件についての政治的・行政的責任はいささかも回避するものではない事を述べている。
 東條の証言は極めて広範な事実を取り扱っていて相当多岐に亙るが、その重要事項は、①日本はあらかじめ米英蘭に対する戦争を計画し、準備したものではない ②対米英蘭戦争はこれらの国々の挑発に原因し、わが国としては自存自衛の為の真にやむを得ず開始したものである ③日本政府は、合法的開戦通告を攻撃開始前に米国に交付するため、周到な注意を払って手順を整えた ④大東亜政策の真意義 ⑤いわゆる「軍閥」の不存在 ⑥統帥部の独立と連絡会議及び御前会議の運用 ⑦東條が行った軍政の特徴(紀律と統制。非人道的行為等は命令、許容せず)   の七項目に要約できるとして各項目ごとにその内容を説明し、冒頭陳述を終えた。
 その後、ブルーエット弁護人が証言台にいる東條被告を前に、東條被告の英文宣誓口述書を二日間に亙り朗読した。口述書は昭和15年7月第二次近衛内閣の陸相に就任してから、それに続く第三次近衛内閣の陸相、さらには東條内閣の首相として在任中に発生し、あるいは関係した事柄や出来事の内容、これらに対する自己の判断・措置等をおおむね時の経過に従って詳述し、最後に「摘要」として、それまで述べて来た事の総纏めを行っている。この摘要部分を要約して、引用する。
 「 本供述書は、事柄の性質が複雑かつ重大なため、期せずして相当長文となったが、私は、世界史上最も重大な時期に、日本国家がいかなる立場に在ったか、またその行政司掌の地位に選ばれた者達が日本の栄誉を保持せんがために、真摯にその権限内でいかなる政策を立てかつこれを実現するために努めたかを、この国際的規模の法廷の裁判官各位にご諒解を願うために、各種の困難を克服しつつ陳べたのである。
 かくする事により、私は、太平洋戦争勃発の理由および原因を描写しようとした。私はこれらの事実を徹底的に知る一人として、わが国にとり無効かつ惨害を齎した昭和16年12月8日に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、我が国としては、自衛戦として回避する事が出来なかった戦争であると確信する。なお東亜に重大な利害を持つ国々(中国をも含めて)が、なぜ戦争を欲したかの理由は他にもあるが、我が国の開戦は最後の手段として、かつ最緊迫の必要から決定されたのである。
 満州事変、支那事変および太平洋戦争の各場面には、その根底に不断の侵略計画が潜んでいたとの主張に対して、私はその荒唐無稽な事を立証するため、最も簡略な方法でその反証を試みた。我が国の行政組織において、少数者が長期に亙って多くの内閣を通じて一定不変の目的を持つ共同謀議を為し得た等という事が、理性ある者の到底考えられない事は直ちに了解できたであろう。私は何故検察側がこのような空想に近い訴追をするのか、理解に苦しむ。
 日本の主張した東亜政策は侵略的性格を持ち、これが太平洋戦争開始の計画に追加され、かつ、この政策は白人を東亜の地から駆逐する計画であった事等を立証するため、本法廷に多数の証拠が提出された。これに対し私の証言は、その合理的かつ自然に発生した導因の本質を、白日の如く明瞭にしたと信ずる。
 私はまた、国際法と太平洋戦争開始の問題とに触れ、日本における政府と統帥との関係  特に国事に関する天皇の地位に言及した。私の説明が、私及び同僚の有罪か無罪かを判断する上に資するところがあれば幸いである。
 終りに臨み   恐らくは、これが当法廷で許される最後の機会であろうが  重ねて申し上げる。日本帝国の国策、あるいは合法的にその地位に在った官吏の採った方針は侵略でもなく、搾取でもなかった。適法に選ばれた歴代内閣は、憲法および法律に定められた手続きに沿って事を処理して行ったが、ついにわが国は冷厳な現実に逢着した。当時国家の運命を商量較計する責任を負った我々にとって、国家自衛の為に起つという事が、唯一の残された途であった。我々は国家の運命を賭し、而して敗れた。そして、眼前に見るような事態を挽き起こした。戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別できる二つの異なった問題である。
 第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認されている国際法に違反しない戦争であると主張する。私は未だかって、我が国がこの戦争をした事を以て国際犯罪であるとして勝者から訴追され、また敗戦国の適法な官吏であった者が個人的に国際法上の犯罪人となり、また条約の違反者として糾弾されるとは、考えた事がない。
 第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく衷心より進んでこれを負う事を希望する 」

 口述書朗読の後、五人の被告担当弁護人からの尋問を経て、キーナン検察官と東條被告の攻防があった。そのうち主要なものを取り出したい。
(1)支那駐兵問題に関連して:キーナン  支那事変発生以来の中国人の死傷者数その他を書証から引用して、中国で日本軍により二百万人以上の民衆が殺害された事から見て、中国側が日本に対して反感を懐くのは当然ではないか、と中国での排日、悔日感情は、日本軍が中国民衆を多数殺害した事によるものであった事を匂わす質問を発し、支那事変の拡大は中国側の排日・悔日に原因があったとする東條口述書を反駁しようとした。  東條 中国人が日本人に反感を懐く理由については理解できるが、一国を主宰する政治家としては、また別の観点を持つべきである、自分としてはこの戦争が日中両国にとり不幸なことは充分承知しており、支那事変を一刻も早く終結させようとする事が事変発生以来歴代内閣の一貫した方針であった、民衆というものは彼我双方共戦争には直接関係ないが、一国を指導する政治家としては、排日・悔日・排貨・日本人居留民の虐殺等、中国側が戦争指導を誤った事が戦争の大きな原因だったと思う、と支那事変の原因を強調した。


(2)三国同盟条約の締結に関連して:検察側は、日独伊三国同盟条約の締結を三国による世界制覇のための共同謀議である訴追したが、東條証人の口述書では 「 同盟締結の目的は、これによって日本の国際的地位を向上せしめ、以て支那事変の解決に資し、併せて欧州戦の東亜に波及する事を防止せんとするにあった。三国同盟の議が進められた時からその締結に至るまで、これによって世界を分割するとか、世界を制覇するとかという事は夢にも考えられていなかった。ただ『持てる国』の制覇に対抗して、この世界情勢に処してわが国が生きて行くための防衛的手段として、この同盟を考えた。大東亜の新秩序というのも関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものであり、その後のわが国と東亜各国との条約においても、いずれも領土及び主権の尊重を規定している 」  キーナン 三国同盟に米国が関係あるのか   東條 大いにある。1939年7月の米国による日米通商航海条約の廃棄が、日本経済に大きな圧迫を加えた事、1940年5月以降米国艦隊がハワイに集結待機した事が、日本にとり大きな脅威になった事を指摘した後、この問題に関連する裁判長の発言に促されて、日本が感じた軍事的脅威について 「 比島、ビルマ、マレー、蘭印等に対する連合国側の兵力増強はこの頃から逐次行われ、これら地区に対する飛行場設備も強化された。また、南方とはほとんど無関係に、しかも日本を包囲する態勢に、アラスカ方面にも飛行場設置の企図があった。また、当時日本は支那との間に実質的戦闘を展開していたが、米英その他の国々の対重慶援助は日本に対する重慶政権の抵抗を強化させ、日本を消耗させようとするものであると考えられた」
 キーナン  証人は、米国がハワイ基地の軍備を強化し、艦隊を集結した行動等は、日本にとっては米国を攻撃するに足る理由だといいながら、支那奥地に数十万の日本軍隊を送る事は、自衛的措置だと主張しようとするのか   東條  検察官の質問は全く異なる二つの事柄に関するものである。先刻の自分の証言は、米国がその領土に兵力等を増強させたのが日本に脅威を感じさせた事を述べたものであり、中国における実質上の戦争の問題は、自ずから別個の事柄である。中国における戦争の因ってくるところは既に立証されている通り、日本の居留民保護等の自衛から出発したものであり、爾後戦争が拡大したのは戦争の本質によるものである、と。


(3)東條内閣成立事情について 昭和16年10月12日、東京・荻窪の近衛公の私邸で、近衛首相、東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁が同席して、今後の日米交渉をいかに進めるべきかについて会談が行われた。この会談で近衛・豊田両相は交渉の継続を、東條陸相は交渉成立の見込みなしとして交渉打ち切りを主張、及川海相は「和戦の決は総理に一任する」との態度を執って、四相間の意見は一致しないまま会談は終り、二日後の閣議の席上再び東條・豊田両相の意見が対立し、この事が結局近衛内閣総辞職の理由となった。 この間の東條の口述書は、「 中国からの撤兵問題は日米交渉の初めから、我が国は全面撤兵の原則の承認および撤兵は日華基本条約による事で話が進められており、外相の態度もこれと異ならない。しかし米国の狙いは無条件撤兵である事が、交渉の進展に従って明らかに成ってきた。すなわち、名実ともに即時かつ完全撤兵を要求しているのであって、両大臣のいう名を捨てて実を取るというような案で妥協が出来るとは考えられない。仮に米国の要求を鵜吞みにして完全撤兵するとすれば、四年有半に亙った支那事変を通じての日本の努力と犠牲は空となるのみならず、米国の強圧による中国からの無条件退却は中国人の悔日思想をますます増長させ、共産党の徹底抗日と相俟って、日華関係はますます悪化するであろう。
 日本のこの威信の失墜は満州、朝鮮にも及ぶであろう。なお、日米交渉の難点は駐兵・撤兵問題に限らず、米国の四原則の承認、三国同盟条約の解釈、通商無差別問題等幾多の難関があり、最早日米交渉の妥協は困難と思う。しかし外相が成功の見込みがあるとの確信があるなら、さらに一考しよう。また和戦の決定は統帥部に重大な関係があるので、総理だけの決定に一任するわけにはいかない。以上が私の主張である。及川海相の意見は、外交による成功の目処の有無は総理に一任する。ただ、日本は今や和戦の関頭に立っており、戦争するならば今が好機である、もし開戦するなら今決定されたい、開戦を決めずに外交妥結の見込みありとして二、三か月経ち、その後の開戦というのでは海軍は困る、外交で行くのなら徹底的に外交に徹すべきである、というのであった。
 以上のように意見が一致せず、私の提案で、①駐兵並びにこれを中心とする諸政策は変更しない、②支那事変の成果に動揺を与えない、③以上を前提として外交の成功を収める、しかも統帥部の庶幾する時期までに成功の確信を得る事、この決心で進む間は作戦の準備を止める、外相はこれが出来るかどうか研究する事、という申し合わせを作った。10月14日閣議の朝、閣議前に近衛首相と会見したが、二日前の会談と同様な事で終わった。閣議開催後、豊田外相は外交妥結の見込みについて同じ意見を述べ、私も当時と同趣旨の説明をした。この閣議では近衛・及川両相も他の閣僚も、何の発言もしなかった。かくて外相と陸相との意見衝突により、万事窮した。」と。
 ブラウン弁護士  及川が交渉継続を強く主張していた事を知っていただろう、  東條   もちろん知っている。のみならず、私の印象では、露骨に言えば、責任回避と考える、と。   東條証言の「責任回避と考える」とは、海軍は戦争する気があるのかないのかを自らの責任において明言せず、総理に一任した態度に不満を表明したものと考えるが、もし及川海相が交渉継続を主張した場合、東條陸相はどのような態度を執ったであろうか、と冨士信夫氏は考察する。その手がかりに、法廷に提出された二つの証拠から推理する。一つは、嶋田海相の前任海相であった及川古志郎大将は宣誓口述書を中で、次のように述べている。「十月中旬日米交渉が予期の進展を見なかった時、交渉を継続するか否かの決定を近衛首相に一任したのは、もし海軍が対米戦に自信なしと公式表明を行えば、国論の分裂、陸海軍の対立を起し、由々しい国内問題に発展する恐れがあると思えた事と、首相と海軍と全く同意見であった事及び、この問題は日本全体の国力にも重大な関係があり、海軍だけの立場で断定すべき問題ではないと考えたからである。岡が富田内閣書記官長に、海軍としては戦争がきないとは言えないと述べたのは、海相としての自分の意志を伝えたのである」と。  もう一つの証拠としては、岡被告の宣誓口述書に、次のように述べている。「 同夜富田書記官長が余を訪問し、内閣が総辞職する決意である旨告げ、且つ、武藤軍務局長から、もし海軍が戦争は出来ないと明言すれば陸軍も納まるから、海軍の意向を聞いて貰いたいと依頼されたが、このような事を海軍が言明するのは困難だろうと答えておいた、といったので、余はこれに同意を表明した」と。以上から冨士氏は、武藤軍務局長の言葉は陸軍の責任回避であるとの見方も生じてくる、という。しかし、太平洋戦争の実情を振り返れば、海軍のボロ負けである。陸軍はその対処方法がなかった。こういうのは後知恵かもしれないが、しかし対米戦争のあり様が戦前の陸軍にも分からない筈がない。従って、海軍の米海軍に対する真の力を正直に知りたかったのではないか。むしろ海軍は真珠湾攻撃の秘策を練っていた。もしや、或る程度やれるのではないか、と内心思っていたのではないか。その狭間にあって、海軍の面子から、曖昧な判断を下したのではないか。富田書記官長が『このような事を海軍が言明するのは困難だろう』と述べたのは、明らかに戦術上の言葉ではない。海軍の面子に配慮した言葉である。富田書記官長が自己の判断で武藤軍務局長の要請を握りつぶしたのは、不思議だ。駆引きする局面ではないだろう。

 この問題を考えるための一つの資料として、新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録ー太平洋戦争開戦の経緯」という本を、冨士氏は紹介する。   井上成美大将が荻外荘会談で及川海相が執った態度を鋭く非難し、『陸海軍相争っても、全陸海軍を失うよりよい。なぜ男らしく処置しなかったのか。いかにも残念である』と発言、これに対して及川大将が「私の全責任である」といった後、「海軍は戦えない」と言わなかった理由を説明した上で、『陸軍を抑えるには総理が陣頭に立ち、閣内一緒になって行わなければ駄目だと近衛首相に行ったのだ。すなわち、海軍としては近衛に一任したのではなく、近衛を陣頭に立てようとしたのである』と述べたが、井上大将はその説明の納得せず、『近衛がやるべきだったので、やらなかったのか、近衛はやる気があったのか、またできると思ったのか』と及川大将を追求し、及川大将が『首相が押さえられないものを、海軍が抑えられるか』と発言したのに対して、『内閣を引けばよい、伝家の宝刀である。また作戦計画と戦争計画は別だ。なお駄目なら、軍令部総長を替えればよい』と主張して、及川海相が執った「総理一任」の態度を鋭く非難したことが記録されている、と。
 東條内閣の成立と「白紙還元」  第三次近衛内閣後継に何故東條陸相が推薦されたか、木戸証言の時詳しく説明されたが、当の東条被告はこれをどう受け止めたか、口述書には次のように述べている。 「 侍従長から、陛下の思召しにより直ちに参内するようにとの通知を受けた。総辞職について私の所信を質されるものと直感し、奉答準備の書類を持って参内、直ちに拝謁を仰せつかり、組閣の大命を拝した。暫時のご猶予を願って御前を退下し、宮中控室にいる間に、続いて及川海相がお召しにより参内し「陸軍と協力せよ」との御錠を拝した旨、控室で海相と面談した際承知した。間もなく木戸内府がその部屋に来て、次のような御沙汰を私と及川海相両名に伝達した。(これは木戸証言で説明済み)  田中隆吉が佐藤賢了が阿部、林両重臣を訪問して「東條を総理にしなければ陸軍は統制がとれぬ」と証言したが、佐藤は、近衛内閣の後は東久邇内閣でなければ時局の収拾は困難であるとの私の意見を伝達しただけで、両重臣は私の意見を聞いただけで彼らの意見は述べなかった旨、報告があった。従って、田中隆吉証言は事実に反する。
 私は後継内閣の首相の大命を受ける事、ないしは陸相として留任する事を不適当と考え、また、そのような事が起ころうとは夢想だにしなかった。故に、「白紙還元」の御錠を拝さなければ、組閣の大命を受けられなかったかも知れない。私も「白紙還元」必要ありと思い、必ずそうしなければならないと決心した。組閣については、この際神慮に依る外ないと考え、明治神宮、東郷神社、靖国神社に参拝し、組閣の構想が浮かんだ。海相は海軍に一任、その他は人物本位で選ぶ。海相推挙の返事がなかなか来なかったが、翌朝及川海相から嶋田氏を推挙するとあり、次いで嶋田氏来邸、対米問題は外交交渉で行くのかという点と、国内の急激な変化は避けられたいとの質問と希望があり、私は白紙還元の説明をし、国内の急激な変化はやらない旨答え、嶋田氏はこれを聞いて、海相たる事を承認した 」と。

(4)「甲案」「乙案」および「ハル・ノート」を巡って  昭和16年11月5日の御前会議で日本の対米交渉最終案の甲・乙両案が決まり、東郷外相は野村駐米大使に両案を電報し、まず甲案で米国政府と交渉し、甲案で交渉成立の目途が立たない場合は乙案で交渉する事、野村大使応援のため来栖大使を派遣する事、この甲・乙両案は日本が米国側に譲歩し得る最終案であり、11月25日までには妥結に持ち込むよう努力する事等を訓電したが、これらの訓令電は総て米国側に傍受解読されていた。この事を含みを持って、キーナン  もし乙案が米国によって同意されていたら、真珠湾攻撃は起こらなかったか  東條  乙案がそのまま受諾されればもちろんの事、その半分でも米側が受諾し大平洋の平和を真に望んでいたならば、真珠湾攻撃は起こらなかった   キーナン   乙案中どの部分を受諾すれば、真珠湾攻撃は起こらなかったか   東條   どこ項でもよい、もし米国が真に太平洋の平和を希望し、譲歩的態度を以て交渉に臨んで来れば、互譲的精神によって事態は解決されると考えた   キーナン  (これ以上譲歩の余地なしとした東郷外相の訓令電を持ち出し) 証言と食い違うではないか   東條   東郷は外相であり、自分は首相である、外交には駆引きというものがあるが、一方、首相には肚というものがある、東郷は御前会議の決定に基づき、外相の責任において外交上の事務手続きを行ったのだが、外交には相手があり、日本としてはこれにより米国側の出方を見る必要があり、それから先は肚の問題である   キーナン   しからば東郷が、米国側が日本案を受諾しなければ交渉は決裂の外ないと訓令したのは間違っていたのか    東郷   それは誤りではなく正しい措置である、しかし一国が戦争に突入するかあるいはこれを切り抜けていくかというような重要事項は、そんなに簡単に説明できるものではない、外相としては一応そのような処置を執るが、首相としては一国の興亡に関してまた別の肚を持つ、仮に米国で作成されていた暫定協定案(ハル・ノートに先立ち、ルーズベルト大統領の考案に基づいて、なお交渉の余地を残す案が、英・支両国政府の強い反対により取り止めになった)が提示されていたら、事態はよほど変わっていただろう、暫定案の内容は乙案とは相当異なっていたが、そこは肚の問題であって、一度決定したからとてそれに固執し、無理やり戦争に持っていくような事は、一国を主宰する総理としては考えられないところである
 キーナン・東條の攻防はハル・ノートに移った。書証として提出されているハル・ノートを東條証人に見せながら、 キーナン  証人はこれを見たことがあるか  東條  これはもう一生涯忘れません  キーナン この文書は、非常に威厳のある遣り方で国務長官から両大使に手渡したものではなかったか   東條  形においては然り。内容においては少しも互譲の精神のないものである   キーナン  その中に「米国政府および日本政府は太平洋の平和を熱望し、その政策は太平洋全域の恒久的平和に向けられ」云々、そして「確信し」とある。これに異議があるか。  東條  異議があるどころじゃない。これは日本が最も希望したところだ。  キーナン   「領土的企図なく」とあるが、これに対し何か異議を申立てるべき筋合いがあるか    東條   異議を申立てるべき筋合いはない キーナン   「他国を脅威する意なくまた隣国に対し攻撃的兵力を用いる意なき事を確信し」とあるが、これに異議を申立てるべき筋合いがあるか    東條   文句そのものには異存はない。しかし事態は全然違う。米国は一方において軍事的、経済的、政治的の脅威を大きく与えている。この事実と文句とは違う    キーナン   当時の総理として、貴方は両国宣言案の言葉として、この文句に何か異議があったのか    東條   今言ったように、文句そのものには異議はない。しかしながら、総理としては実行の伴わない文句は意味がない。総理として最も大事なのは実際の情況である。それが緩和されるか否かが最も重大な関心事であった。   キーナン   私が貴方に聞いているのは、両国間も政策の一つの発表形式として、当時の総理として、この声明に異議があるかどうかである。米国政府代表者の誠意、正直について何か批判したようだが、そのような事には興味がない   東條   しかしこういう大事な事を話すのに、当時の状況を全然空にして云っても意味がないから、私は云っているのだ   キーナン   私が貴方に聞いているのは次の事だから、その質問に答えて貰いたい。貴方は当時の日本の首相として、このように発表された政策に対して異議があったのか。   東條    実行を伴えば異議はない。実行が伴わなければ異議がある。   この後もなおキーナン検察官は、ハル・ノートは一つの政策として公正なものであったか否かという点に限定して東條証人の証言を得ようと、同趣旨の質問を繰り返した。これに対し東條証人は「再三お答えした通り、文句そのものには異存はないが、政治というものはそのようなものではない。国家は生きている。日本としては死活の上に立っていたのである」とあくまで現実論に立脚した答弁を行い、その後、九か国条約に関連した質問・応答へと攻防が展開し、ハル・ノートに関連する東條証人の証言は終わった。

 その後のテーマは、・対米通告手交時期に関連して  ・ルーズベルト親電に関連して   ・対オランダ開戦問題    ・天皇の戦争責任問題に関連して  正味四日間に及んだキーナン・東條の一騎打ちは終わった。

 東條証言については、口述書が朗読開始された日の翌日から証言が終わった後の数日間に亙って、連日各新聞には口述書の内容や法廷での審理過程が報道されると共に、社説や記者の論評が掲載された。社説、論評の大部分は、東條証言を酷評していたと冨士信夫氏。そして冨士氏は朝日新聞の社説全文を取り上げているので、このブログも記録としてその一部を残しておきたい。「・・長文の口述書を貫く根本の思想は、太平洋戦争がやむを得ぬ自衛戦争であったという主張である。『万一太平洋戦争開始となる場合、容易に勝算のあり得ない事は当然であった』にもかかららず、『ここに至っては自衛上開戦も止むを得ない』として、『日本にとって無効かつ惨害をもたらした』戦争に突入したのは、当時の指導者である彼が、わが国の自存自衛のためにはこれ以外に手段がないと信じたからだというのである。
 われわれ国民はこの『自衛権の発動』という言葉を、満州事変勃発当時に遡って思い起こす。当時リットン報告書はこの自衛権の発動という思想を否定した。国際連盟理事会は13対1、同総会は53対1の圧倒的多数を以て、この主張を否認した。にもかかわらず、軍部は全世界の世論を無視してこの主張を貫き、その後幾度か自衛戦争の名において、帝国主義的侵略戦争を正当化しようとした。そしてこの主張が東條口述書においても臆面もなく繰り替えされているのである。ことに対米交渉において、外交と武力の二本立てでゆくと言いながら、相手のある外交交渉に一定の時期を画し、その後は戦争の手段に訴えるという事では、すでに戦争を行うという根本的な国是が確立されていて、外交は開戦の準備までの単なる手段に過ぎなかったとしか受け取れない。そこには世界平和への熱意など毛頭窺われない。戦争に訴えないで平和の裡に難局を収取するという考えなど全く影を潜めているのである・・・」
 朝日新聞は、いまでもこの主張を貫いているのか。キーナンと東條の論戦の、キーナンの主張を聞いているようだ。当時の日本の置かれた状況、その苦しみ抜いている状況を全く素通りしている。しかも裁判の争点である侵略戦争という言葉にすでに朝日が判決を下している。なんで自分だけいい子になりたがるのだろう。これは決してGHQの検閲が行われていた性ではない、と思う。朝日新聞の記者の体質そのものだ。

 

 

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被告の個人立証:「重臣会議議事録摘要」と「嶋田口述書」

2023年05月04日 | 歴史を尋ねる

 検察側立証と弁護側立証とを比較すると、際立って目立つ相違点は、検察側立証は一般立証に重点を置き、被告個々の責任追及立証は、添え物という感じで進められたのに対し、弁護側立証では被告の個人立証が、極めて大きなウエイトを占めた。検察側は日本国家の政策、行為あるいは日本軍の行動そのものを犯罪であると主張する「侵略戦争遂行の共同謀議」という網を全被告の上に被せ、それには被告たちが触れれば傷つくような鋭い棘が数多く付けてあり、「共同謀議」を具体的に裏付ける立証を行えば、各被告はその時々の日本政府あるいは日本軍の中の特定の地位にあった事で、責任を追及されるように仕組まれ、検察側の主張はそのような姿勢で一貫していた。これに対して弁護側は一般弁護方針である「国家弁護」という主張はするものの、被告相互間には立場を異にすし、利害の反する者があり、国家弁護だけでは共同謀議の網を破ることが出来ず、勢い個人弁護という切れ味の良い刀で検察側の棘を砕き、網を斬り裂かねばならなかった。しかし16人の被告は証人席に座ったが、土肥原、畑、星野、平沼、廣田、木村、重光、梅津の9被告は証人としても証言せず、その個人弁護の立証は、被告以外の証人の証言および書証で行われた。
 冨士氏はいう、私はこの九被告が証人にならなかったことを、心から残念に思っている、と。九被告は検察側が訴追した時期に、日本政府あるいは日本軍の中にあって枢要な地位にあった人物で、起訴事実の認否に当たって、無罪を主張し、申立てている。自らの主張を貫くべく、証人席から検察側の訴追を反駁する自らの信念、あるいは日本の立場を堂々と述べてほしかった、と。もっとも残念に思うのは廣田被告で、二・二六事件後に成立した廣田内閣が、昭和11年8月7日に五相会議で決定した「国策の基準」を検察側は極めて重視している。この国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎になったものであるとして、検察側はこの国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎となったものであるとし、裁判所もこの基準が東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意の表明であると厳しい判決を下している。 従って、この国策を決定した五相会議の最高責任者であった当の廣田被告の口から、この国策決定に至った経緯と、この国策が検察側が主張するような日本が大東亜侵略するための国策ではなかった事を、述べて貰いたかった、冨士氏はしみじみ言う。
 作家城山三郎著「落日燃ゆ」の中には、裁判の進行中からすでに死を覚悟し、他人を傷つけ、他人と争う証言を行うようなことは好まず、この「国策の基準」は佐藤賢了被告が草案を作成して廣田首相に提出したものであり、この「国策の基準」がクーデターの再発を恐れ、革命気分鎮静の為のジェスチャーとして陸軍が起草したもので明らかにする様、佐藤被告が廣田被告に進言したが、廣田被告は、起草者が誰であろうと、全責任は総理大臣としてあの国策を決定した自分にあるとして佐藤被告の進言を斥け、なおも佐藤被告が、法廷で廣田被告の真実の気持ちを述べて貰いたい旨訴えたのに対して、廣田被告は返事をしなかった、と書かれている。その廣田被告の心情は分かるととしても、尚廣田被告の口から、その後の日本の侵略の基礎となった国策であるとの、日本にとり、誠に不名誉な烙印を押されたこの基準が、なぜこの時期に、どのような経過を辿って決定されたか、聞きたかった、と。首相になることは、歴史に立ち向かうことだ、との覚悟の声を聞いたことがある。廣田被告には、私情を捨て、日本の歴史の審判に立ち向かって欲しかったという想いは、冨士氏だけではない、と思う。

 木戸幸一被告:東条被告と共に本裁判の最重要被告と目され、起訴状中の五十五訴因中五十四訴因に訴追されている元内大臣木戸幸一被告の個人立証は、正味八日間に亙ったが、その立証のほとんどは木戸被告の証言に終始した。中でも最大の訴追は、内大臣として天皇の常時輔弼に関する責任、就中、第三次近衛内閣総辞職後、総辞職の原因を作った東条陸相を後継内閣首班として天皇に奏請した事に対する責任である。また、東条首相決定に関連する木戸口述書の内容は、大東亜戦争開始に関連する昭和の歴史を研究する上で、極めて貴重な資料、後世の史家がこの点を冷徹な眼で見つめ、事の真相を見誤ることがないよう研究を進めることを、切に望むと冨士氏。
 キーナン首席検察官の主要な尋問は、①東条ほど好戦的な人物はいない、②当時、もし海相が反対したならば日米開戦にならなかった、③従って、陛下が及川海相を次の首相に任命すれば、陛下および内閣にとっては、平和維持の可能性が強かったはずである、等の前提で証人が口述書で述べている、陛下のお言葉があれば東条がその好戦的な考えを変えて日米交渉を真剣に考えると思った、と言っているには真実ではなく、事実は、戦争への決定のもっていくために、好戦的な東条にその決定を任せようと意図して彼を首相に推薦したに違いない、というロジックで尋問を進めた。
 これに対して木戸証人は、①東条を好戦的人物と批判するのは当たらない、②当時の最大の問題は9月6日の御前会議決定であり、また陸軍の統制問題であった、③9月6日の御前会議が行われた事は世間に公表されていないので、その実情を知らない人物が首相になっても、御前会議決定を動かすことは困難である、④御前会議の実情を知り、その決定を動かす事が出来る人物としては東条を及川という事になるが、そこに陸軍の統制問題が絡んでくる、⑤陸軍の統制を誤れば結局戦争になる、⑥重臣会議の席上、自分は論理的には及川が政局を担当するのも一案であると意見を述べたが、岡田・米内両海軍大将から海軍から首相を出す事に強い反対が出、結局東条を選ぶ以外に方法がなかった、と。
 旧大日本帝国憲法の條章を引用してのキーナン検察官の質問に対して、旧憲法には政治は総て国務大臣の輔弼によって行われるとの条項があり、天皇としては、一つの事が決定する前には色々と注意や戒告を与えたりする事があっても、一度政府が決定してきた事は、これを拒否されないのが明治以来の日本の天皇の態度であり、これが日本の憲法の実際の運用上から成立した慣習法である、と証言した。さらにキーナンは内閣と統帥部が決定したことに対して何故天皇は拒否できないのか、それを阻止するような何かがあったのかとしつこく追及してきたが、日露戦争の時も明治天皇は御前会議の決定について躊躇しておられたが、政府と統帥部の進言により初めて裁可された。今回の場合、天皇の当時のご意思を時の総理に伝えた事によって9月6日の御前会議の決定が再検討される事になり、御前会議の決定は白紙還元されたのであって、このような措置は明治時代にはなかった最も進んだものだった、しかし、その後政府が自存自衛上開戦已む無しと決定してきたので、天皇としては、これを拒否することは出来なかった、と証言。
 以上が論戦のメインであるが、木戸口述書の中から、侍従職内記部保管のファイルの中の「重臣会議議事録摘要」から一部引用したい。
岡田(海軍大将) 今回の政変の経緯から見て陸軍が倒したと見るべきで、その陸軍を代表する陸相に大命降下というのは如何であろうか。
木戸 今回の政変は、米内内閣の時の畑陸相が取った態度とは異なり、事の真相を見れば、必ずしも陸軍のみに責任ありとは言えないように思う。
岡田 とにかく陸軍は強硬意見である。内大臣は、従来陸軍は後ろから鉄砲を撃つといわれているが、それが大砲にならなければよいが・・・
米内(海軍大将) 近衛総理は海軍が判然としない、頼りない、というので投出したのではないか。
木戸 そうハッキリととも言えないが、要は陸海軍の一致と、御前会議決定の再検討を基礎にすべきであると思う。従って陸相に担当させるについて疑問があれば、自重論の海相に担当させるのも、また一案である。
岡田 海軍がこの際出る事は、絶対にいけないと思う。
米内 同意見である。
岡田 この際軍がおさまれば、宇垣大将もよいと思う。
若槻(元首相) 東条陸相という事になれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響もよほど悪いと思わねばならない。
原(枢密院議長) 内大臣の云われるようにするのであれば、大命降下の際、方針を明らかにするお示しになる必要があると思う。
廣田(元首相) 内大臣の案は、総理に陸相を兼任させる積りか。
木戸 然り。
廣田 それならば結構である。
阿部(陸軍大将) 内大臣の案に賛成である。
木戸 若槻氏は宇垣大将を推薦されたが、岡田氏も宇垣大将を推薦するのか。
岡田 宇垣大将というのではない。ただ、内大臣の案にも心配の点があると思う。
原 内大臣の案は余り満足ともいえないが、別段案がないから、先ずその案で行くほかない。
木戸 大体の意向は判ったので、奏上の上、ご允裁を得る積りである。

 重臣会議後、木戸内府はその一部始終を陛下に奏上して東条陸相を次期首相に推薦したが、その際大命を下すだけでは政局の収拾は明らかに困難であったので、陸海軍の提携を一層密にする事を望まれる陛下の思召しと9月6日の御前会議決定を無視すべき事を明瞭にするため、東条首相に対し、また及川海相に対し、陛下が特別のご命令を与えられるよう奏請した、と口述書。
陛下の東条陸相に対するお言葉は
 東条陸軍大臣へ
 卿に内閣組織を命ずる
 憲法の條規を遵守するよう
 時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思う
 この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ
 後刻海軍大臣を召しこの旨を話す積りである

陛下の及川陸相に対するお言葉は
 及川海軍大臣へ
 東条陸軍大臣を召して組閣を命じた。なおその際、極めて重大なる事態に直面せるものと思う故、この際陸海軍はその協力を一層密にする事に留意せよと言って置いたから、卿においても、朕の意のある所を体し、協力せよ

 以上で旧憲法下の「天皇制」が負うべき責任の実体は、制度上あるいはその運営の面から、具体的に立証された。ただ、キーナン検察官からは特に指摘が無かったが、何故木戸は陸海軍の提携を一層密にすることを殊更要請するのか、このブログでも見て来たように、日米戦争は海軍の戦争である。海軍が確信を持たなければ対米戦争は出来ないと東条も行っていると木戸も述べている。海軍の開戦に対する考えが重要と言っておきながら、陸海軍の協力を述べている。さらに言えば、重臣会議における岡田・米内海軍大将の意見もどうも納得がいかない。当事者意識がまったく窺われない。結局当時の状況についての打開策を一番真剣に考えていたのは東条だと言わんばかりである。その辺の海軍側の懊悩について、次の嶋田海相の口述書で確かめたい。

嶋田繁太郎被告:永野修身被告すでに亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引き受けた嶋田被告の個人立証は正味三日間に亙って行われ、5人の海軍軍人の証言が終わった後、最後の証言台に座った。検察側の訴追の論理は、①御前会議で決定された、戦争か否かを決定すべき十月中旬が近づいた時および及川海相は開戦に関する決定的意見を述べず、開戦か否かの決を近衛首相に一任する旨発言し、外交交渉成立の見込みなく戦争は不可避であると主張する東条陸相を支持しなかった。②木戸内府の尽力によって東条陸相に組閣の大命降下を見た際、木戸内府は東条陸相、及川海相に対して、陸海軍相互に協調を図るようにとの天皇の御言葉を伝えた。新首相に東条が選ばれたのであるからそこから引き出せる唯一の結論は、新海相は東条と意見を一にする者を選ぶべきであると言う事になる。③嶋田が海相になったのであるから、彼は東条政策の積極的支持者であったという事になる、と。これに対して口述書はこう記す。
「未だ連絡会議が一度も開かれてない10月23日、東条から電話で定刻より電話で定刻より十分ほど早く来るようあり、その通り出かけると、彼は当日から連絡会議を開き、すべてを白紙に還元して対米交渉に関する討議を開始し、戦争を避けるために日本は米国に対して最大限どこまで譲歩し得るのかを深く研究する心算である、と固い決意を繰り返し述べた。故に余は、民衆を苛烈悲惨な争闘に突き落とすような戦争内閣に入閣するとは思わず、むしろその有する軍部の実力、統制力並びに方針に依って、この重大な国際紛争の平和的解決のため、あらゆる手段を尽くすべき内閣の閣員になることを信じた。連絡会議は10月23日から始まり、出席者はいずれも外交交渉によって事態を収拾できるとの確信を披歴し、心から平和を念願したが、問題は、いかにしてその平和を確保するのかにあった。当時の重要問題は余の創り出したものではなく、それらの問題の生起に何の役割も演じたこともなかったが、すでに問題が生起した以上、余はただ海相としての新地位において、その解決を図る以外に途はなかった。かくして余の生涯中、最大責任を負わされた試練の日々が続いた。連絡会議と御前会議との間次の二点に集中した。①いかにすれば、よく在外部隊を撤収する困難な問題を緩和し得るか、この事実と大本営陸軍部の見解とを調和できるか。②米国と了解を達するために、日本の為し得る譲歩の最大限は如何なるものであるべきか。 最大の問題は中国および仏印からの撤兵問題であり、余は海軍部内の見解を確かめ、他の閣僚の意向を知悉し、当時の世論の趨向を充分見極めた。海軍はかって三国同盟に反対し、常にこれに重点を置かないようして来たので、他の問題について了解に到達できれば、三国同盟は解決不可能の問題とは考えなかった。それゆえ最良の解決策は、米英と互譲妥協を図ることであった。かく事態が発生した以上、中国からわが軍を全面撤兵する事は事実上不可能であって、日本国民を驚かせ精神的打撃が極めて大であろうとの強硬意見が支配的であった。もしこのようにすれば、中国が日本に対して勝利を得たに等しく、これによって東亜での米英の威信と地位は昂騰するが、これに反して日本の経済生活および国際的地位は低下し、これら両国に従属するの余儀なきに至るだろうと論ぜられた。故に当時における余の考えは、もし反対論をかかる措置に同調せしめ得るならば、中国本土からわが軍を漸次戦略的撤退をさせ、仏印からは即時撤退を行い、以て妥協に到達することが望ましいという事のあった。これは第三次近衛内閣当時には成し得なかった大譲歩を行おうとするものであった。
 11月5日の御前会議において、外交手段により平和的解決に対する最善の努力を着実に継続すると同時に、他方戦争に対する準備にも着手する事が決定された。当時における日本の苦境を思えば、これは矛盾した考えではなかった。連合国が行った対日経済包囲の効果は、実に想像以上に深刻だった。我々は、米国の刻々の軍備の増強を驚愕の眼を以て見守ったが、いかにしても、単なる対独戦のみを考えての軍事的措置とは考えられなかった。
 米国太平洋艦隊は、遥か以前からハワイに移動して日本に脅威を与えていた。米国の対日政策は冷酷で、その要求を容赦なく強制する決意を示していた。米軍の軍事的経済的対支援助は、痛く日本国民の感情を害していた。連合国は、明らかに日本を対象として軍事的会談を実施していた。窮地に陥っていかんともならない、というのが当時における日本の切迫感であった。
 すでに当法廷で明らかにされたこれらの事実を考慮すれば、日本にはただ二つの解決策が残されていた。一つは日米相互の『ギブ・アンド・テイク』の政策に依る問題解決の目的を以て、外交手段により全局面を匡救する事であり、他の一つは、自力を以て連合国の包囲態勢により急迫した現実の窮境を打開する事であった。この第二の手段に出る事は全く防衛的のものであって、最後の手段としてのみ採用されるべきものと考えた。
 いかなる国家と雖も自存のための行動をなし得る権利を持ち、またいかなる事態の発生によりその権利を行使できるに至るかを自ら決定し得る主権を持つ事は、余はいささかも疑わなかった。政府は統帥部と連携して真剣に考究したが、政府統帥部中誰一人として米英との戦争を欲した者はなかった。日本が四ヵ年に亙って継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で手一杯である事は、軍人は知りすぎるほど承知していた。従って、自ら好んでさらになお米英のような強国相手の戦争を我より求めたとするが如きは、信じる事が出来ないほど幼稚な軍事的判断の責を、強いて我々に帰せようとするものである。
 統帥部は、政府の平和的交渉が失敗に帰した場合には、その要求により自己の職責を遂行しなければならないという問題に直面していた。統帥部の立場は簡単直截なものであった。すなわち、海軍の手持ち石油は約二年半で、それ以上は入手の見込みなく、民需用は六か月以上は続かなかった。十二月に入れば、北東信風が台湾海峡、比島、マレー地域に強烈になって作戦行動を困難にし、翌春迄待てば、日本海軍は手持石油漸減のため、たとえ政府の要請を受けても海戦を賭す事は不可能に陥るであろう。統帥部が11月5日の御前会議において、もし外交交渉が失敗に帰し行動開始に移るべき要請を受けるような事があれば、初冬までになんらかの手を打たなければ行動不能に陥る惧れがあると論じたのは、この考慮に基づくものであった。かくて政府をして、なお外交交渉に依る平和の望みを捨てず、その可能性を信じつつも戦争に対する措置を講じさせるに至ったのは、以上を述べたような事実が齎した、絶対絶命の情勢によるものであった。
 政府の案件を平和的に妥協させようとする決意は、難関の急速解決に寄与させようとして来栖大使を米国に派遣した事により、一層明白に表示された。彼の渡米にはなんの欺瞞も奸策もなかった。それは時間的要素を克服し、戦争に追い込まれる前に外交交渉に成功しようとする我々の努力の倍加であった。その点が明瞭に理解信用されない場合、大きな不公平な結果が招来されるだろう。爾来余は、外交措置により平和はついに来るであろうと、大きな希望を抱いていた。余が事態の容易でない事を深く認識するに至ったのは、実にこの当時の事であった。かかる紛糾の情勢は痛く余の心を重くした。余は毎日神社に参拝し、陛下の平和愛好のご熱願に添い奉るよう、神明の加護を祈願した。余は政治家ではない。また外交官でもない。しかし、ただ余の持つ全知全能を傾けて問題の解決に努めた。11月26日の『ハル・ノート』は、実にこのような疑念・希望・心痛・苦心の錯綜した雰囲気の裡に接受したものだった。
 これは青天の霹靂であった。米国が、日本の為した譲歩がその如何なるものにせよ、これを戦争回避のための真摯な努力と解し、米国もこれに対し歩み寄りを示し、以て全局が収拾される事を余は祈っていた。しかるに米国の回答は頑強・不屈にして冷酷なものであった。それは我々の示した交渉への真摯な努力をいささかも認めていなかった。
 『ハル・ノート』の受諾を主張した者は、政府部内にも統帥部首脳部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、本通告はわが国の存立を脅かす一種の最後通告であると解された。右通告の条件を受諾する事は、日本の敗北に等しいというのが全体の意見であった。
 いかなる国と雖も、なお方途あるにかかわらず第二流国に転落するもののない事は明らかである。すべての重要国は、常にその権益、地位および尊厳の保持を求め、この目的のため常に自国の最も有利と信ずる政策を採用する事は、歴史の証明するところである。祖国を愛する一日本人として、余は米国の要求を容れ、なおも世界における日本の地歩を保持し得るかどうか、という問題に直面した。わが国の最大利益に反する措置を執るのを支持する事は、反逆行為になったであろう。かかるが故に、昭和16年12月1日の御前会議において最終的決定が行われた時、余をして平和の境界線を踏ませたものは実に米国のこの回答であった。もし米国が日本の交渉妥結に対する真摯な努力を認識していたならば、この平和の黄昏においてすら、なお戦争を防止する余裕はあったであろう。11月末には、ほとんど平和に対する望みを失い、戦争の避け難い事を感じた。和戦の分かれるところは、一に米国の態度如何に懸かっていた。
 『ハル・ノート』より判断し、余自身事態の好転を期し得ない事を感じた。海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。永野大将は軍令部総長としてしばしばこの意見を表明した。従って永野大将と余とは11月30日、海軍は相当な準備が出来ている旨陛下に奉答した。拝謁の際問題となったのは戦争の終局に対して自信があるか否かではなくて、海軍の行った準備につき自信があるか否か、という点だけであった」

 丸刈りの頭髪は天辺はやや薄く、大きな耳、濃い太い眉毛、卵形の顔を発言台の方にしっかり向け、背筋をピンと伸ばした軍人らしい姿勢を取り、静かながら明瞭な音声で弁護人、検察官、裁判長の質問に対して明確な答弁を行う嶋田証人の証言ぶりは誠に堂々としており、永野被告亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引受け、弁護側がその基本方針とする「国家弁護」の線に沿い、国務大臣としての日本政府の立場と、海軍大臣としての日本海軍の立場を充分に証言し、検察側の訴追に真っ向から立ち向かった観があった、と冨士信夫氏。
 12月8日の東京新聞「週間法廷手帳」の中で笠井記者は、「未だどの被告も口にしなかった『自衛権』を正面に持ちだし『余は勝利のために努力した』と嶋田被告は証言した。他の被告に比較すれば極めて異例で、簡明な口述書と共に廷内の話題となったのは当然であろう」と解説。
 さらに、印度代表パル判事が見解を述べる項で、当時の日本人の脳裡にどんな事が起こりつつあったかを示す記事に、嶋田口述書の大部分を引用している、という。また、対米戦は海軍の戦いであるが、『海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。』と言っている。これが正直な当時の判断だったのだろう。

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