ジャーナリスト髙山正之氏は産経新聞時代、「しがらみを絶ち本音で世間を書くとどうなるか」と編集長からスペースを貰い書き始めたコラムが「異見自在」。その後週刊新潮で書き始めたのが「変見自在」。氏は、米国は先の戦争のはるか前から、日本を故意に誹謗し、非白人で非キリスト教徒の野蛮人の国と言い募ってきた、米国がなぜ日本をそこまで憎むのか、それを探るためにダワーが言う「興隆する時代の日本」の足跡から初めて、先の戦争の様々な現場を訪ねている。そしてそこで日本人が何を考え、何をしたか、対する彼らはどう対応したか、を追いかけている、と以前のブログで触れた。その時の内容は「真珠湾を見た男 世界は腹黒い」で英自治領ビルマの首相ウ・ソーの悲劇だった。今回氏の著書「変見自在 習近平は日本語で脅す」(新潮文庫版)を久しぶりに手にして、「はじめに」書きに、フムそうだと合点した。
「明治の日本に来た白人たちはこの小国に住む人々が高貴な白人しか持ち合わせない優雅さと慈悲と寛容とをどんなに身分が低いものでも持っていることに驚いた。さらに彼らがさりげなく作る工芸品は『我々が美と思い込んできたごてごてと宝石をちりばめた装飾品を一瞬にして色褪せさせた」(フィラデルフィア博でのニューヨーク・タイムズ評)ことに驚嘆した。しかし当の日本人はそれを評価しない。お雇い外国人が日本の美と素晴らしい文化を称賛すると答えは決まっていた。「いえ我々には文化はなかった。今、西欧文化という本当の文化に接し文明人として第一歩を印したばかりです」
日本人はとかく自分たちの業績も文化も極端に低く見る。それはロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦についても同じだ。多くの日本人は東郷平八郎の咄嗟のT字戦法で奇跡的な勝利をつかんだと思っている。しかしギリシャ時代以来、海戦が国家の消長を決めて来た白人国家群は肝を潰した。彼らの観念では海戦は舳先を相手艦の横っ腹に突っ込ませるのが唯一無二の戦法で、だから舳先から喫水線下にかけてアントニオ猪木の下顎のように突き出していた。それを衝角といった。」
《装甲艦の普及により、再び艦載砲の貫通力や命中精度がこれを撃ち抜くのに不足とされ、かつ戦列艦の時代よりも艦載砲の数が減少しているため、衝角戦が再び脚光を浴びた。リッサ海戦(1866年)やイキケ海戦(1879年)がこの例である。もうひとつの理由として、同時期において蒸気機関の実用がなされ、艦船においても蒸気推進が主流となったからである。当然の帰結として衝角戦の実用性、および効果の度合いも高まったと考えられた。さらに、日清戦争の黄海海戦(1894年)時においては、清国北洋水師の「定遠」などが衝角を備え、日本海軍連合艦隊と戦闘を行ったが、軽快艦艇で構成された聯合艦隊は衝角攻撃をかわし、かつ速射砲により多数の砲弾を浴びせる事により、北洋水師艦艇に対し損害を与えている。近代軍艦における衝角は20世紀初頭まで装備された。日露戦争時には両軍の主力艦に装備されていたが、日本海海戦においては、数千メートル離れた距離からの砲撃のみによって戦艦を撃沈できることが明らかになった。その後まもなく衝角は装備されなくなり、ワシントン海軍軍縮会議による旧式主力艦の廃艦で1920年代にほぼ消滅する》 (裏付けとしてウキペディアより引用)
「わが連合艦隊は一度もロシア艦に接触せず、38隻の大艦隊のうち30隻以上を沈めてしまった。彼らが信じて来た海戦の形を日本があっさり書き換えてしまった。観戦武官の報告を受けた英国は日本の戦い方に倣って大口径の主砲を多く搭載した、そして下顎も出ていないドレッドノート型戦艦をデビューさせた。
それ以上の衝撃はロシアがこれで制海権をすべて失ってしまった事だった。 ニューヨーク・タイムズは日本海海戦から3日目の紙面で「日本はペンシルバニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量に注文した。日本陸軍は北上し、ウラジオストクを目指すだろう。制海権を失った今、陥落ははっきりしている。皇帝が停戦を躊躇えば日本は交戦国の権利として大西洋、バルト海に出てロシア商船を拿捕、破壊できる。ロシアに降伏以外の選択肢はない」と書いた。そしてその翌日、セオドア・ルーズベルトは日露の和平仲介を宣言した。ポーツマス条約のことだが、その内容は酷かった。日本はロシアから一銭の賠償金も、寸土の領土割譲もなく、ロシアが清朝から25年契約で租借した旅順・大連などの関東州と南満州鉄道の利権だけが与えられた。 セオドアは奸智に長け、人種意識は強かった。同じ白人仲間の国が劣等人種に負けたなど金輪際認めたくなかった。日本への一方的な差別が条約を貫いている。 ところがこれで日本側の説明になると「もはや日本に戦争継続能力はなかった」「セオドアは時の氏神で、それは金子堅太郎とセオドアの友情があっての仲介だった」となる。
セオドアはこの直後、朝鮮にあった米公館を閉じて「日本が朝鮮を仕切れ」と押し付けて来た。面倒くさい土地は敵対国の負担になるよう押し付けるのは欧米の外交によくある。チャーチルがイラクを取り、面倒くさいレバノン、シリアをフランスに押し付けたのはその好例だ。日本もその後36年間、朝鮮に国費の2割を毎年割いて、感謝どころか、今は百年の恨みを買っている。しかしその朝鮮も日本側では「帝国主義日本が大陸進出の足場に取った」とか、酷いのになると「搾取した」とかいう。世界一遅れた文化も資源もない国から何を搾取したというのか。
日本の生き方について謙遜して、ときには卑下し、他国から非難されれば、それに根拠があろうがなかろうが頭を下げる。逆に外国からの見方に反発するのは無知なナショナリスト風に言われる。日本人の心根はお雇い外国人から文明を教わっていた時代のまま、停滞しているように見える。
実際、それは今にも当てはまる。例えばトランプの対支那政策だ。数次にわたる経済制裁を日本のメディアは彼らの神様ニューヨークタイムズに倣って保護貿易の復活と非難する。知財を盗み進出企業に技術ノウハウの提供を要求する異常な支那は「同情すべき被害者」に仕立てる。日本のメディアもまた右に倣い「まずは日中友好」を言う。
トランプは支那の覇権主義を素直に嫌う。過去の米政権が無関心だった台湾についても支那の金科玉条だった「一つの中国」に一瞥もせずに台湾との外交を事実上復活し、蔡英文も米国の土を踏み、軍事支援も始まった。それだけではない。支那が過去、内政干渉と突っぱねて来たウイグルも問題にし始めた。
漢民族の世界は昔から万里の長城の内側だった。清朝はその漢民族を奴隷化し、モンゴル、ウイグル、チベットなどの周辺国と連邦を形成していた。辛亥革命でその体制が消えた後、1932年、フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出した。意図は目障りな日本を潰すことにあった。満州を生命線とする日本に「満州は支那領土」「日本は支那の領土を侵犯した」と非難するために生み出した嘘だった。
世に言うスティムソン・ドクトリンで、実際、日本は国際連盟を脱退し、米国に支援された支那との戦いに疲弊し、ついには真珠湾の罠に嵌っていった。」
《「現実に存在する中国は、1912年の中華民国建国以来、世界史を大きく変えた国民国家化に向けて努力を続けているが、未だに成功していない。なぜなら中国には同じ言語と同じ歴史を共有する国民というものが存在していない。チベット族やウイグル族などは、漢族とはあまりに言語・宗教といった基本的な文化要素が違い過ぎる。清朝は、中国本土だけでなく、満州、モンゴル、チベット、新疆といった地域を300年近い年月、同時に支配してきた。しかし清朝がこれら五つの地域を統一したという事実はない。実態は、清朝の皇帝が、五つの国のそれぞれの君主を兼任していたに過ぎない。それは清朝皇帝が記す公文書に明確に表れている。皇帝は満州人に対して満州族連合会議の議長、モンゴル人に対してはチンギス・ハーン以来の大ハーンとして振る舞い、チベット人に対してはチベット仏教の保護者を名乗る。新疆の人々に対してはジューンガル帝国の後継者として統治権を行使する。そして、中国人に対しては明朝以来の正統の後継者皇帝を名乗った。だから、清朝時代にも、モンゴルやチベットは決して中国の一部ではなかった。実際、中国の統治に関しては、科挙により役人になった者が行政に参加できたが、それ以外の帝国全体の統治は満州人の仕事であり、中国人は参加できなかった。さらに、清朝時代には、税制も五つの国では全く違うもので、モンゴルでは税金を徴収せず、モンゴルの王侯には、中国で集めた金を分け与えていた。そのため現在も中国政府が必死になって実現させようとしている近代中国の基礎となるものは、1912年の中華民国の建国以前にはまったく存在していない。せいぜい、明朝が支配した領土ぐらいが本来の中国であり、満州、モンゴル、チベットなどを領有する権利はない」(岡田英弘著「この厄介な国、中国」)》
《「日米戦争の序章は満州事変であったことはほぼ定説で、少なくともアメリカではそう理解されている。一つにはこの事変が究極的には対米戦争を含んだ第二次大戦に発展してしまった事によるが、今一つは事変当時のアメリカの認定、その時アメリカ政府(フーバー政権)の国務長官だったスチムソンの考え方が大きな役割を果している。その考え方は、1936年に彼が著した『極東の危機』に詳しく残されている。・・・満州事変に対してのスティムソンの基本認識は、中国への過度の思い入れと、国際平和維持体制の重視にある。このことが彼の対応を、現実の軽視、当時残存していた各国の錯綜した利害関係の無理解に繋げた。・・・リットン報告書もその存在を認めていた、①満州における日支鉄道問題、②1915年の日支条約及び交換公文とそれに関する問題、③満州における兆戦人問題、④万宝山事件と朝鮮における排日暴動の問題、⑤中村大尉事件。「この支那官民の永年に亘る組織的な悔日排日の暴虐に対して日本政府は、日本国民は、常に忍び難きを忍んで只管に支那官民の覚醒を期待してきた。しかし支那官民の無法な暴虐が累積していく時、いつかは終に日本国民の忍辱が激怒に変わるべき日の来るのは必然であった」と、昭和7年金港書籍発行「満州事変外交史」は記している。日本の満州を含む中国での活動が、基本的に種々の条約その他に基づいていた。当時の中国は革命外交の方針の下にそれらを否定しようとしていたが、無効になった訳でもなく、従って、それら条約の下での日本の要求にも正当性があった。そのような日本の立場を軽視したアメリカ国務省の判断は、非見識の誹りを受けてもやむを得ない。実際、その満州事変に至るまでに、日本に対抗するための手段としてボイコットが頻繁に行われた。スティムソンは、ボイコットを外的侵略に対する平和的防衛の武器であると考えている。この事実の認識の欠如、あるいは事実の無視による事件全体の判断は決して公正なものとは言えない。・・・
1932年2月に満州国の独立が発表され、3月1日建国宣言が公布された。スティムソンはこれを日本によって支配されているまったくの傀儡国家と規定した。かれの1月の「不承認宣言」はこのことを念頭に置いたものだった。内容は、パリ不戦条約(1928)に違反するような手段によりもたらされたいかなる事態、条約、協定をも承認しない旨を宣言する、いわゆるスティムソン主義Stimson doctrineである。スティムソンが不承認宣言をイギリスなどと共同で行おうとしたとき、イギリスはそれに同調しなかった。ロンドンのタイムズ紙は「中国の行政的保全を保護するということは、それが理念ではなく実践的になるまでは、イギリスの外務省の仕事ではない。行政的保全を保護するという仕事は1922年には存在しなかったし、今日も存在しない。九カ国条約が署名されて以来、中国の広大な領土の大きさそして多様な地域の上に真の行政的権威が存在したことはなかった。今日中国の命令書が雲南や他の重要な地域に届いていない。満州に対する主権は論争になっていないけれど、南京が中国の首都になって以来それが満州に真の行政を施行したという証拠は無い」と書いた。・・・
アメリカの中国における利益は、究極的には日本に代わってそこに覇権を打ち立てることであった。門戸開放政策も九カ国条約も、そのためのものである。・・・しかしながらスティムソンが一貫して主導したアメリカの政策は、やがて世界の世論を形成し、後に東京裁判まで連なった。そしてそれがあたかも正義の声であるかのごとく受け止められている。」(柴田徳文著紀要論文「スティムソンの満州事変観の検討」)
フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出したと髙山氏いう裏付け文書を探したが、この論文の中には見当たらなかった。しかし、スティムソンの論旨からは、もはや、それを前提とした内容となっている。当時の中華民国の革命外交のなかで、中国自らが主張し、それを追認したのがスティムソンドクトリンなのだろう。》
《革命外交について、髙山正之氏は別にコラムで次のように綴る。孫文は武昌蜂起を米国の新聞で知るとすぐには支那に帰らなかった。逆方向のニューヨークに飛び、そしてロンドンに回り、新しい支那の統帥者と称して資金集めに駆け回った。彼は過去10回蜂起して10回失敗したが、その都度、出資者を探し出しては焼け太っていった。多分、今度も失敗だろうが、カネが集まればそれでいいと孫文は思った。そういう男だと彼をよく知る米人ジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・リーがその著作で書いている。孫文が帰国すると案に相違して革命は成功していた。黎元洪は偉そうにし、袁世凱も出てきた。詐欺師孫文の出る幕はなかった。ただ一つ、支那で辛亥造反と呼んだ武昌蜂起を彼は日本風に「辛亥革命」と改めた。これだけは支那人も倣った。以後、政治的な卓袱台(ちゃぶだい)返しを「革命」と称した。
支那人がこの言葉を不平等条約改正で最初の使った。日本は各国と交渉を重ねてなんとか条約改正を果したが、支那は革命外交と称して全ての不平等条約を何の交渉もなしで一方的に無効とした。日本の満州権益も同じで支那は過去の経緯を消して卓袱台を返した。以後、支那は国際ルールを無視した「革命」外交一本で今までやってきた。南沙は国際法廷でお前に権益はないと判決しても革命的に無視した。50年間は一国二制度の香港も勝手に一制度に切り替え中だ。そして我が尖閣も革命的歴史観で支那の核心的領土にされつつある。のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある。教え諭すより拳骨で叩きのめすときが来たように思うが。と》
「台湾もチベットもウイグルも支那のものという「一つの中国」はクリントン夫妻、オバマらが支那から金を貰って支えてきた。それが今崩れつつある。世の中には新聞が伝えないだけで、結構心躍るいい話がある。そして何より、日本人がどんなに優れた資質を持っているか。卑下と腹黒い世界の中でいかに真摯に生きて来たか」と、2018年初秋に髙山正之氏は記している。
日本人が謙虚で優れた資質を持っていることを、変えることは必要ない。しかしこと海外諸国と対峙する時は、髙山正之氏が言うように、自国の主張をキチンと伝えることは必須である。政府・外交官は無論のこと、日本のメディアも同様である。特にNHKの海外向け報道について、日本の立場を十全に伝えることは、視聴料を税金の如く徴収している組織として当然である。しかし、報道の自由という言葉に隠れて、中国や韓国に配慮した報道が目に余る。YouTubeなどの海外から日本を見る目が、いかに誤解に基ずく誤認が多いか、うんざりするが、これは単に政府間の問題だけでなく、日本のマスメディアの責任も大きい。海外報道を利用して、政府を批判する手法は、まさしく隣邦諸国に材料を提供する、役割を果すことになる。
先ごろ、垂前駐中国大使が「中国が最も恐れる男」として日本のマスメディアに盛んに報道で取り上げられたが、氏は日本の立場を正確に伝えることに腐心された方である。メディアは自分たちで言えないから、垂秀夫氏に言って貰っている構図である。垂氏がここまで持ち上げられることが、ある意味、日本の異常さの表われである。「のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある」という髙山正之氏の言葉には重みがある。
中国がGDPで日本を抜いて久方である。一時はアメリカを抜くとか抜かないとか、議論があった。しかし、トランプが牙を抜いたら、中国の経済はだんだんおかしくなって、いまやチャイニーズ・ランとか言って、海外企業がどんどん抜け出している。中国はやっと事態の重大さを理解しつつあるが、この流れを食い止めることは難しいだろう、中華民国の偉大な復興を掲げる習近平がトップにいる限り。
中国の高度成長を助けてあげたのは日本だったことは前に触れたが、そもそもなぜ中国が世界の工場と言われるようになったかは、誰も語る人はいない。私は密かに日米貿易摩擦、貿易戦争に端を発したと理解している。当時1975~1988、アメリカは貿易赤字に苦しんでいた。日米貿易は圧倒的に日本の貿易黒字だった。日米間の貿易摩擦は1950年代まで遡る。まずは綿製品等の労働集約的品目で日本は外貨を稼いだ。結局日本の輸出自主規制を受け入れ、沖縄返還を実現、「糸で縄を買った」などの憶測を呼んだ。同時期、日本の鉄鋼製品も摩擦の原因になった。その後カラーテレビでも摩擦が発生、対米輸出台数が制限された。続いて第一次石油危機によるガソリン価格高騰で小型輸入車がアメリカ市場で増加、ビックスリーに対して大きな打撃となった。日本の自動車メーカーに対する米国からの現地生産要請を日本側が渋っているうちに、状況は悪化。UAWが日本車についてダンピング提訴、結局日本側の輸出自主規制措置が講じられた。その後日本メーカーの現地生産が開始され、自主規制は撤廃された。また米国の半導体産業は当初特殊な形態(マーチャントとインテグレーティッド)でスタートし、日本は総合電機メーカーでスタート、資金力や人材面で優位に立ち、世界半導体販売ランキングで上位を日本メーカーが占め、米国は安全保障上の観点から日米半導体協定が締結、その後日本メーカーに衰退が始まった。さらに対米貿易黒字の縮小のため日米構造協議が行われて日本側の内需拡大を求められ、そのツケが1990年代の日本のバブル崩壊につながった。その間米国側の言い分は日本の低賃金、ダンピングの疑いを常に持っており、当初は生産をメキシコや東南アジアに移転する方策を取っていた。その先に天安門事件で制裁を受けていた中国に、その制裁が緩和されると改革開放を唱える鄧小平中国に生産拠点を移転する動きが急展開した。日本も低賃金の中国へ、円高の為替環境もあって、日本企業が中国に進出、日本のデフレ化に貢献した。
中国の生産方式は低賃金に加え、日米欧の先端技術を導入して、徹底的な大量生産方式を採用、価格競争で世界シェアを獲得する方式で急成長を遂げた。また日米貿易摩擦を研究して、元の為替はドルリンク。為替操作による競争力低下を未然に防いだ。中国エコノミスト柯隆氏は今年の日本での記者会見で、中国の土地制度は日本の定期借地権を参考に考案されたと述べていた。1990年代末に考案され、瞬く間に中国のGDPの3割を占めるまでに拡大した。ただし、中国のGDP信仰は、最近の情報によると、中国経済の仕組みを崩壊させる要因になっているようだ。改革開放で取り入れた経済の仕組みは、資本の論理(単純化すれば資金繰り)で動かざるを得ず、現在流れてくる情報ではそう言えそうだ。共産主義のロジックと相容れない。ここが中国の最大のウイークポイントである。片方で、海外企業のチャイニーズ・ラン。さらにトランプが追い打ちをかけると、中国の就業者数は悪化を辿る。経済情勢の悪化が社会不安につながる。この情勢を習近平は何処まで正確に掌握できているか、よその国ながら心配である。