tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「蔵王供正行/第31日 おかげさま、もったいない、ありがたい(OMA 運動)」

2024年04月24日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利点師曰く」は、〈蔵王供正行31日目「O・M・A…感謝」〉(師のブログ 2015.5.31付)である。「O・M・A」とは、「おかげさま、もったいない、ありがたい」。いつも感謝の気持ちを持って日々を生きよう、ということである。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5撮影)

「O・M・A…感謝」
蔵王供正行31日目(5月31日)。晴れのち曇り。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第61座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂 
9時、第62座目蔵王権現供養法修法    於脳天堂
10時10分、本堂法楽・例時作法     於本堂
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、本堂法楽・法華経読誦       於本堂    
参拝者は1名。広島大学の町田先生が御来山。恐縮でした。
助法は愚息が留守で、京都宝生講の垣尾さんに来て頂く。          

****************

「O・M・A…感謝」
世の中、とにかく、感謝が足りないように思う。いや私自身が感謝が足りないことをこの蔵王供修行で身に沁みて感じています。蔵王権現様に感謝、役行者さまに感謝、助法のみなさん、家族、そして支えていただくたくさんの人々にひたすら感謝の日々です。

感謝の足りない人は、ともかく文句ばかりいう。ぷりぷりしている。がさがさしている。側に居て不愉快になる。鼻つまみものである…。でも、それがなかなか気づけない。同じ人間でも、感謝で暮らす顔と、不平不満で暮らす顔ではあきらかに違う。不平不満の顔は自らを不幸にさえする。そこに気づけないのが、業なのか…。

もう随分前から「O・M・A」運動を提唱してきた。大間のマグロではない…大間のマグロ協会もOMAなのであるが…(^_^;)。おかげさま、もったいない、ありがたいのO・M・A。すなわち、感謝の極みである。行三昧の中で、ご本尊に額づきながら、あらためて、OMAをかみしめている。そういえば、今日来山いただいた町田宗鳳(まちだ・そうほう)先生は「ありがとう禅」の提唱者である。今日のご縁にも感謝である。
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「饅頭祭り2024」と「中曽司の挽き茶会」

2024年04月23日 | 奈良にこだわる
4月19日は、饅頭の祖とされる林浄因(りん・じょういん)の命日だ。この日、奈良市の漢國(かんごう)神社境内にある「林(りん)神社」で、饅頭祭りが営まれる。今年も、私はお参りしてきた。当日の様子は毎日新聞奈良版(4/20付)に紹介されていたので、私の写真とともに全文を抜粋しておく。
※トップ写真は、漢國神社境内にある林神社の祠(ほこら)。すべて4/19の撮影


梅木宮司さんの祝詞奏上。この一枚だけは、奈良新聞(4/20付)の記事サイトから拝借した

林神社にまんじゅう奉納 例大祭 限定販売に長蛇の列
南北朝時代、中国から日本にまんじゅう作りを伝えた林浄因(りんじょういん)の命日にちなむ例大祭「饅頭(まんじゅう)祭り」が19日、奈良市の漢国(かんごう)神社内にある林(りん)神社で営まれた。




全国の菓子業者がまんじゅうなどを奉納し、江戸時代の名物の復刻版として限定販売された「奈良饅頭」には祭礼前から長い行列ができた。


全国の菓子業者からお供えされた菓子



林浄因は元王朝時代の中国から渡来し、林神社近くで初めて小豆あんの入ったまんじゅうを作ったとされる。江戸時代にはまんじゅうは奈良名物として全国で知られており、当時の史料にはまんじゅうの中央に赤い点を打った「奈良饅頭」の絵図や記述が残る。


私も1時間並んで、4種類の「復刻版奈良饅頭」(1箱600円)を買い求めた。メーカーは向かって左から、千代乃舎(ちよのや)竹村(奈良市東向南町)、萬春堂(奈良市三条栄町)、吉方庵(桜井市三輪)、千珠庵きく川(五條市五條)。すべて、こし餡の薯蕷(じょうよう)饅頭だ

祭りでは昨年から復刻版奈良饅頭を当日限定で販売しており、この日は県内の和菓子業者4社が製造した計500箱(2個入り600円)が約1時間で売り切れた。


食べ比べてみたが、「少しソフト」「少し甘め」程度の僅差で、すべておいしかった!



「和菓子応援団長」を名乗り、趣味のまんじゅう研究を復刻販売につなげた元教員の太鼓打源五郎=本名・小関吉浩=さん(62)は「林神社でたまたま参拝客からまんじゅうのことを聞かれ、自分で調べ始めたのがきっかけ。和菓子の盛り上がりにつながればうれしい」と話した。祭礼では同神社の梅木春興宮司の発案で作られた「まんじゅう数え歌」の合唱なども奉納された。【稲生陽】


饅頭祭りの日に催された挽き茶会。抹茶、きりこ(あられ)、火打焼がついて@600円

なおこの日は、NPO法人「奈良の食文化研究会」の企画で、特別に「中曽(なかぞし=橿原市)の挽(ひ)き茶会」も開催されていた。昨年(2023.10.29)、挽き茶の体験交流会が同会の主催で行われた。奈良新聞(2023.10.30付)が詳しく報じていたので、以下に全文を紹介しておく。



江戸のお茶文化継承 - 橿原で挽き茶体験交流会
煎茶を石臼で粉末にした「挽(ひ)き茶」の体験交流会が29日、奈良県橿原市中曽司(なかぞし)町の同町本町会館で開かれた。NPO法人奈良の食文化研究会主催。同会会員や地元住民ら約40人が、県内では同町だけに残っており、江戸時代初期から伝わるという挽き茶(抹茶)を入れ、茶の子(お茶うけ)とともに味わう喫茶文化を楽しんだ。




飲み方は、ごはん茶わんよりも少し大きめのわんに自家製の挽き茶を入れ、少量のお湯を注いで茶せんで十分に泡立てる。その後、少しの塩とお湯を足してキリコ(あられ)をお茶が隠れるまで浮かばせて、飲んだり食べたりする。



この日の交流会は同本町自治会が協力。参加者は地元の主婦6人の指導で挽き茶を入れ、インゲンのごま和えやサトイモなどの茶の子とともに味わった。


子どもの頃、ほうじ茶にきりこ(あられ)を浮かべておやつにしたことがあるが、抹茶は珍しい

同会の木村隆志理事長は「廃れつつある県内のお茶文化を残す一助になればとの思いでイベントを企画した。今後とも文化を継続してほしい」とあいさつ。参加した亀田忠彦市長もあいさつし、「橿原市が誇れるお茶の文化を広く伝えていきたい」と話した。


茶の子(茶菓子)は、千代乃舎竹村(奈良市東向南町)の名物・火打焼

体験会ではまた、的場輝佳・奈良女子大学名誉教授による「大和のお茶」と題した講演や、同町の挽き茶の語り部である松嶋好子さん(97)の挽き茶に伝わる話の説明もあった。この後の交流会では生駒亭茶千こと、生駒市の茶せん職人、久保建史さんによる茶せんにちなんだ創作落語の披露などもあった。



同会会員で地域商品プロデュ―スに携わる、大阪府吹田市の原野知有紀さん(45)は「挽き茶は初めて。お茶というよりもおやつという感じ」。大阪市から同町に移住して約40年という主婦の栗本悦子さん(74)は「初めての体験だったが、挽き茶は香ばしくておいしかった」とそれぞれ感想を述べた。

昨年、好評だった「中曽司の挽き茶体験交流会」は、今年も開催が予定されているそうで、私も体験してみたいものだ。



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神武東征ゆかりの古社、富雄川沿いの登弥神社(奈良市石木町)

2024年04月22日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.4.18)掲載されたのは〈神武天皇、大和平定ゆかり/登弥神社(奈良市)〉、執筆されたのは、同会会員で奈良市にお住まいの青木章二さんだった。
※トップ写真は登弥神社本殿=奈良市石木町で

同社の公式HPには〈由緒については皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地に於いて皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源(えんげん)であり​その後、登美連(とみのむらじ)が祖先である天孫饒速日命(にぎはやひのみこと)の住居地であったこの地に命ご夫妻を奉祀したのが当神社の創建であります〉とあり、とんでもなく古い神社であることが分かる。では、全文を紹介する。

神武天皇、大和平定ゆかり/登弥神社(奈良市)
登弥(とみ)神社は富雄川の東側、奈良市と大和郡山市の市境の西ノ京丘陵の森の中に鎮座します。古くは木嶋大明神(このしまだいみょうじん)と称され、今も石灯籠にその名が残ります。

鳥居をくぐり境内に入ると、長いなだらかな登りの石段があり、一番奥の高い所に、本殿と拝殿があります。本殿は一間社(いっけんしゃ=正面の柱間が一つ)春日造(かすがづくり=切り妻屋根で、棟と直角な面に入り口がある様式)で、東本殿と西本殿の二つが横に並んでいます。2020(令和2)年に、国の登録有形文化財となりました。 
 
古来「トミ」と呼ばれた場所は当地から北、富雄川の上流一帯を指します。トミの字は登弥、鳥見、富、登美などと記され、当社は古代の地名を残しています。

由緒については、神武天皇が大和平定の後、この地において皇祖天神(こうそてんじん)を祭ったのが始まりで、その後、天皇の平定に功績のあった登美饒速日命(とみのにぎはやひのみこと)の子孫である登美連(とみのむらじ)が、ゆかりのある当地に祖神と天神地祇(てんじんちぎ)を祭ったのが創始と伝わります。

毎年2月1日に「粥(かゆ)占い(筒粥祭=つつかゆさい)」の神事が行われます。米と小豆を使った粥で農作物の出来具合を占う神事で、古い形態が残され、奈良市の無形民俗文化財に指定されています。(奈良まほろばソムリエの会会員 青木章二)

(祭 神)高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、登美饒速日命、天児屋根命(あめのこやねのみこと)
(住 所)奈良市石木町648の1
(交 通)近鉄九条駅から徒歩約20分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有(無料)
(電 話)0742・45・1117


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田中利典師の「蔵王供正行/第30日 東京行者講」

2024年04月21日 | 田中利典師曰く
蔵王供正行30日目「東京行者講」(師のブログ 2015.5.30 付)である。利典師はお弟子の伊藤さんのご協力を得て、江戸川区平井に「東京行者講」を開設された(のち閉業)。その伊藤さんが、修行中の利典師のお見舞いを兼ねて、綾部にいらっしゃったという。では、全文を以下に紹介する。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5 撮影)。シロヤマザクラ以外にも、いろんな桜が咲く

「東京行者講」
蔵王供正行30日目(5月30日)。晴れのち曇り。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第59座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂
9時、第60座目蔵王権現供養法修法    於脳天堂
10時20分、本堂法楽・例時作法     於本堂
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、本堂法楽・法華経読誦       於本堂    
参拝者は1名。東京行者講の講長伊藤さんが行見舞いをかねて、来山。行明けの計画などを相談する。          

****************

「東京行者講」
私は東京に護摩道場を開設している。弟子の伊藤さんの全面的な協力のもとに、一昨年6月に江戸川区の平井に開いた。私が会長で、伊藤さんが講長。ま、どっちがえらいのかわかりにくいが、二人でやらせていただいている。

今日はその伊藤講長が来山。一緒に護摩行に出ていただき、護摩のあと、今季の富士登山や大山修行などの相談を進めた。東京行者講は東京を拠点に、私自身の場を更に広げたい思いを以てスタートさせたが、あまり宗派にこだわることなく、修験全体の広がりを持った場になればという思いもある。そういう思いで名前をつけた。

今年からは、毎月第4日曜日に上京して、護摩を焚いている。とはいえ、まだまだ活動は小さく、いまの蔵王供修行を終えてからが本番。護摩だけではなく、山の登拝や断食道場、法話会・研修会活動など、本格的に始動させていければと思っている。

5月は参籠中でいけなかったが、6月28日の月例護摩には上京する。また、8月末には年中行事となっている富士登拝修行も行者講として主催していく予定である。
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農村集落の鎮守さま 豊浦八幡神社(大和郡山市豊浦町)

2024年04月20日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。今回は、「村の鎮守さま」を紹介する。大和にはたくさんの古社があるので、つい延喜式内社など有名な神社に目が向くが、古くから住民に愛され守られてきた鎮守さまも数多い。

今日はそんな神社を紹介する。〈二つの社殿を一つ屋根に/豊浦八幡神社(大和郡山市)〉(2024.4.11掲載)である。執筆されたのは奈良まほろばソムリエの会会員で、大和郡山市在住の戸尾知子(とお・ともこ)さんだ。地元には、クロというタヌキを巡る心温まる昔話も残る。では全文を以下に抜粋する。

二つの社殿を一つ屋根に/豊浦八幡神社(大和郡山市)
大和郡山市豊浦(とようら)町は、近鉄橿原線とJR大和路線に挟まれた田園地帯にある約20軒の農村集落で、八幡神社はこの集落の北側に鎮座しています。創建については明らかではありませんが、室町時代後期と伝わります。

県指定文化財の本殿は、二つの社殿を並べ、一つの屋根に収めた特異な造りです。桁行2.67㍍、梁(はり)行0.90㍍と小規模ながら、屋根は本瓦葺(ほんかわらぶ)きで、細部は装飾模様や極彩色に彩られています。拝殿前の鳥居には、かつては赤膚焼(あかはだやき)の瓦が載せられていました。

1945年ごろまで、例祭の宵宮には篝火(かがりび)をたいて、「宮相撲(みやずもう)」と呼ばれる子どもたちの相撲が行われていました。また秋の例祭では、当屋(世話役)の家の屋根にお仮屋(かりや)を載せ、祭神の移し回しをする神事が行われてきました。現在も簡略化された形で、続けられています。

神社の北側は、郡山城に至る街道が通る集落の入り口でした。そこには今も小さな地蔵堂があります。昔々クロというタヌキがいて、村人にかわいがられていました。

周辺で戦が起きたとき、クロは村人たちの日頃の恩に報いるため、命がけで金色の山車(だし)に化けて戦を止めましたが、力を使い果たして死にました。それで村人たちはこの地蔵堂に亡骸(なきがら)を葬った、という話が伝わっています。(奈良まほろばソムリエの会会員 戸尾知子)

(住 所)大和郡山市豊浦町
(祭 神)誉田別命(ほんだわけのみこと) 、三筒男命(みつつおのみこと) 
(文化財)本殿は県指定文化財
(交 通)近鉄郡山駅から徒歩約30分
(拝 観)境内自由
(駐車場)なし
(電 話)なし


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