Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)のご案内 聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2024年05月05日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

【東京】 住所: さいたま市大宮区東町2ー256ー8 林ビル2F

Google マップ: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
※ JR 大宮駅から北東方向に1キロメートルほど歩いたところにある、ベージュ色の3階建のビル、林ビルの2階です。

大宮駅まで: JR 大宮駅へは、JR 宇都宮線・高崎線で東京駅から 31 分、上野駅から 25 分です。
大宮駅から: JR 大宮駅東口から、北東方向に歩いて約 14 分です。(ファイル New Chapel in Omiya-20231009.pdf をご覧ください) 大宮駅から新しい聖堂へ歩いての行き方ファイル:Walking from Omiya Station to the New Chapel

主日ミサは2回捧げられます。(8時30分と10時半です)
ミサの前後で告解の秘蹟を受けることができます。ミサの間にも告解をすることができるように告解のために司祭は待機しております。
08:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
10:30 ミサ聖祭 歌ミサ(YouTube でライブ中継

平日の火曜日、水曜日、木曜日は毎朝7時00分から聖伝のミサが捧げられます。金曜日は午後6時(18:00)から、土曜日は午前11時から聖伝のミサが捧げられます。

聖ピオ十世会では、毎月一回、「亡くなった会員と恩人の方々のため」の意向でミサ(Monthly Requiem Mass for the members and benefactors)」を捧げています。

ミサの詳しい予定表はここをクリックしてください。

【「暁の星の聖母」修道院】
住所:埼玉県さいたま市見沼区大和田町2丁目820番地3
日本聖ピオ十世会:「暁の星の聖母」修道院
T 337-0053

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【大阪 Osaka】【特別の事情により変更される可能性もあります】
4月 21日 SUN ミサ聖祭 18:00
4月 22日 MON ミサ聖祭 6:30
4月 26日 FRI ミサはありません。 <= !!
4月 27日 SAT ミサはありません。 <= !!
4月 28日 SUN ミサ聖祭 18:00 <= !!
5月 5日 SUN ミサ聖祭 18:00
5月 6日 MON ミサ聖祭 6:30
5月 12日 SUN ミサ聖祭 18:00
5月 13日 MON ミサ聖祭 6:30
5月 19日 SUN ミサ聖祭 18:00
5月 20日 MON ミサ聖祭 6:30
5月 24日 FRI ミサ聖祭 18:30
5月 25日 SAT ミサ聖祭 10:30
5月 26日 SUN ミサ聖祭 10:30
5月 31日 FRI ミサ聖祭 18:30
6月 1日 SAT ミサ聖祭 10:30
6月 2日 SUN ミサ聖祭 10:30

【名古屋】名古屋においても毎月最終主日に、聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。予約不要です。

場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
日時:4月29日(月) 09:50 ロザリオ及び告解  10:30(午前10時30分) ミサ聖祭
日時:5月26日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
場所は松屋の入っているビルの6階です。以下は予定です。
05月26日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
06月30日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
07月28日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
08月25日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
09月29日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
10月27日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
11月24日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
12月29日(主日) 15:20 ロザリオ及び告解  16:00(午後04時00分) ミサ聖祭
 
【札幌】「北海道青少年会館 Compass 」にて:聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。予約不要です。
2024年6月1日(主日)午後6時
2024年6月2日(月)午前9時
 
Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

*****Mass times in Tokyo:*****
On all Sundays in October there will be two (2) Masses.
08:30 - Low mass :
10:30 - Sung mass : YouTube live

Mass location: Address: Hayashi Building 2F, 2-256-8, Azuma-chô, Ômiya-ku, Saitama City
Google Map link: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
* The chapel is on the 2nd floor of Hayashi Building, a beige-colored 3-story building, located approx. 1 km north-east of JR Ômiya Station.
To Ômiya Station: JR Ômiya Station is a 31-minute train ride (on JR Utsunomiya Line or JR Takasaki Line) away from JR Tôkyô Station, or a 25-minute ride from JR Ueno Station.

From Ômiya Station: From the East Exit of JR Ômiya Station, walk approximately 14 minutes in the north-eastern direction to reach the chapel. (Please see the file New Chapel in Omiya-20231009.pdf.)

File : Walking instruction from Omiya station to the New Chapel

For the detailed schedule of the Traditional Latin Mass in Omiya, please click here. Thank you.

*****Mass schedule in OSAKA:*****

2024/04/07 Mass 10:30
2024/04/08 Mass 6:30
2024/04/14 Mass 18:00
2024/04/15 Mass 6:30
2024/04/21 Mass 18:00
2024/04/22 Mass 6:30
2024/04/28 Mass 18:00
2024/05/05 Mass 18:00
2024/05/06 Mass 6:30
2024/05/12 Mass 18:00
2024/05/13 Mass 6:30
2024/05/19 Mass 18:00
2024/05/20 Mass 6:30
2024/05/24 Mass 18:30
2024/05/25 Mass 10:30
2024/05/26 Mass 10:30
2024/05/31 Mass 18:30
2024/06/1 Mass 10:30
2024/06/2 Mass 10:30
2024/06/9 Mass 18:00
2024/06/10 Mass 6:30
2024/06/16 Mass 18:00
2024/06/17 Mass 6:30
2024/06/23 Mass 18:00
2024/06/24 Mass 6:30

 *****Stella Matutina Priory*****
Society of Saint Pius X Japan
Stella Matutina Priory
Owada-cho 2-820-3, Minuma-ku, Saitama-City, Saitama,
Japan T 337-0053

*****Mass schedule in NAGOYA: [Last Sunday of the month at 4 PM (16:00) ] *****

[Mass Location] 6F Ishihara Bldg. 1-3-14 Meieki-Minami, Nakamura-ku, Nagoya-shi, Aichi
April 29, 2024 (Mon) 10:30 AM Holy Mass
May 26, 2024 (Sun) 4:00 P.M. Holy Mas

【聖ピオ十世会とは】

聖ピオ十世会、SSPX (the Society of Saint Pius X)とは、1970年11月1日にスイスのフリブール教区においてローマ・カトリック教会の教会法に従って創立されたカトリック教会の修道会の一つです。創立以来、カトリック信者の要請に応える形で、全世界での使徒活動をますます拡大しています。

* 教皇フランシスコは聖ピオ十世会の司祭たちに適法に使徒職を果たす権能をお与えになっています。教皇は書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」で、聖ピオ十世会の司祭たちが世界中ですべての信者のために告白の秘蹟を行う権限を持つと宣言されました。

https://www.vatican.va/content/francesco/en/apost_letters/documents/papa-francesco-lettera-ap_20161120_misericordia-et-misera.html

さらに教皇は聖ピオ十世会の婚姻の秘蹟が有効に執行するように全世界の司教たちに彼らの協力をお求めになられました。

https://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_commissions/ecclsdei/documents/rc_com_ecclsdei_doc_20170327_lettera-presuli_en.html

聖ピオ十世会の司祭は、ラテン語でカトリック聖伝のミサ(Traditional Latin Mass)を捧げています。ミサの典文(Canon)の中では、教皇フランシスコの名前と当地の教区長の名前(浦和司教区でミサを捧げる時はマリオ山野内司教、東京大司教区ではタルチシオ菊地大司教、大阪大司教区ではトマス・アクィナス前田枢機卿、名古屋司教区ではミカエル松浦司教など)を唱えます。教皇ベネディクト十六世は自発教書「スンモールム・ポンティフィクム」の中で、全てのカトリック司祭は聖伝のミサを捧げる権利を有していると宣言されました。何故なら、聖伝のミサは一度も廃止されたことがないからです。

「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」(ベネディクト十六世)

聖ピオ十世会の司祭たちは、伝えられたままの純粋なカトリック教えをそのまま伝えようと全力を尽くしています。カトリック教会が、信じてきた全てのカトリックのドグマと信教(Credo)をそのまま変えずに信じ、信仰宣言しています。また同時にカトリック教会によって排斥された全ての異端に対して反対しています。過去から変わることなく伝えられた正統信仰こそ真理における一致を促進し、分裂を避けさせるものです。

聖ピオ十世会の司祭たちは、カトリック教会がそう信じ続けてきた同じカトリック信仰を信じています。特に御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存を深く信じています。また、カトリック教会以外には霊魂の救いがないと信じます。

教皇庁教理省は「同会の聖職者は、教会法上の制裁から解放されている」(いかなる制裁も受けていない)と認めています。

聖ピオ十世会の司祭は、必要の状況に置かれた信徒たちのために、教会法によって補足された法的身分(裁治権)を有しています。しかし領域的な(司教区)の法的身分(裁治権)も属人的裁治権も有しておりません。ところで、私たちの主イエズス・キリストは霊魂の救いと聖化のためにの通常で主要な手段として秘蹟を制定されました。カトリック教会は、必要とする人々が秘蹟(特に改悛の秘蹟)をいつでも受けることができることを欲しています。何故なら教会の最高の法は霊魂の救い(教会法1752条)だからです。

カトリック教会は、教会法の規定(144条)によって、組織上の当局を通さずに法的身分(裁治権)を補足します。カトリック信者は、いつでも告解を必要とするとき、その判断と助言を信頼することができると思う司祭から改悛の秘蹟を受けることができます。しかもその司祭が通常のやり方で法的身分(裁治権)を有していなくてもそれができます。さらには、しかも教会法(1335条)の言葉によると「いかなる正当な理由でも」信徒がこれを求めるのであれば、聖職停止あるいは破門された司祭であってもこれができます。

【お知らせ】

一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店名:法人第一支店
支店コード106
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ


4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます

2024年04月26日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年の良き牧者の主日にはアジア管区の神学生たちのために
東京では、41900円の特別献金が集まりました。
大阪では、69500円でした。
日本からは、計111400円が集まりました。ありがとうございます。

日本に司祭が常駐し毎日聖伝のミサが捧げられ、東京にも固定の聖堂が与えられたことに感謝して、日本から司祭の召命がたくさんありますよう祈りましょう。毎日ロザリオの祈りと犠牲をお捧げしましょう。

4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます。多くの方々がミサに与かることができますように!

 


旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2014年4月14日 善き牧者の主日の説教 東京および大阪

レネ神父 

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストは善き牧者、善き羊飼いです。さて、この偉大な真理をもっとよく理解するためには、旧約に登場する多くの羊飼いを思い起こすことが有益です。

【旧約に登場する羊飼い】
アベルは羊飼いでした。彼は天主に嘉せられるいけにえを捧げましたが、彼を殺した兄によって、自分自身がいけにえとなりました。ですから、アベルは、ご自身をいけにえとして捧げられる、司祭としてのキリストの像であり、かたどりなのです。

アブラハム、イサク、ヤコブは羊飼いであり、聖なる民の父祖でした。彼らも多くの羊のいけにえを天主に捧げました。

モーゼは羊飼いでした。義父エトロの羊の群れの世話をしていましたが、ヘブライ人をエジプトの奴隷状態から救い出すという使命のために、天主に選ばれました。彼は、羊の群れを率いていたことから、民を率いる者となり、また民を救う者となりました。このように、彼もまた、キリストの像であり、かたどりでした。

ダヴィドがイスラエルの王になるために選ばれたとき、彼もまた羊飼いでした。

さて、これは、まさにその通りのことなのです。ヘブライ語で「王として支配する」という言葉がまさに、「群れの羊飼いとなる」という意味なのですから。それゆえ、詩篇の「天主はわが牧者」は、「天主はわが支配者、わが王」と訳されることもあります。

【羊飼いの役割】
羊飼いは群れに餌を食べさせて養い、群れを良い牧場に導き、狼やその他の敵から群れを守ります。羊飼いは羊を世話し、羊の名前を、羊飼い自身が羊につけた名前を知っています。

【主イエズス・キリストは養う】
私たちの善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストは、その善き教えで私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。最高の教師である私たちの主は、最高の預言者であり、モーゼの預言で約束された預言者です。「主はおまえの民の中から、おまえの兄弟の中から、私のような預言者をおまえたちのために立てられるであろうから、その者の言うことを聞け。…私は彼らの中におまえのような預言者を立て、その口に私の言葉を置く。私がその預言者に命じたことをすべて、彼が語る」(第二法の書18章15、18節)。この預言は、使徒行録で二度引用されています。ペトロによって一度(3章22節)、聖ステファノによって一度(7章37節)。

私たちの主はまた、ご聖体におけるご自身の肉と血で私たちを養ってくださいます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章56-57節)。

【主イエズス・キリストは良い牧場に導き守る】
私たちの主は、まずご自身の模範によって、また新しい法を与えることによって、ご自身の掟の道で導いてくださいます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天国への道で最高の導き手である私たちの主は、王の中の王であり、羊飼いの中の羊飼いなのです。

【主イエズス・キリストは汚れなき小羊といういけにえであり、自分を捧げる】
そして最後に、私たちの主は、ご自身のいけにえを捧げられます。主は、汚れなき小羊といういけにえであると同時に、「将来の恵みの大司祭」(ヘブライ9章11節)として、いけにえを捧げるお方でもあります。

【主イエズス・キリストは司祭であり預言者であり王】
私たちの主イエズス・キリストは、司祭であり預言者であり王です。これら三つの役割は、キリストのかたどりである旧約の偉大な羊飼いたちによって行われていました。注目すべきなのは、これらの三つの役割には、聖香油を注ぐことも必要だったことです。

アロンはモーゼによって、エリゼオはエリアによって、ダヴィド王はサムエルによって油を注がれました。ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語(とラテン語)では「キリスト」という言葉は、聖香油を意味する「クリスマ」に由来します。私たちの主イエズス・キリストは「油を注がれた者」です。物質としての油を注がれたのではなく、ご托身そのものによって、主の神性が人性に完全に浸透していき、唯一無二の方法で聖別されたのです。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだがために、天主は、あなたの天主は、あなたの同胞の誰にもまさって、あなたに喜びの油を注がれた」とメシア詩篇の44篇(8節)は言います。

【三つの霊印の刻印】
さて、三つの秘跡が、司祭、預言者、王としてのキリストと私たちを一致させる霊印を刻印し、このしるしは、その秘跡を執行する際に聖香油を使うことによって示されます。その三つの秘跡とは、洗礼、堅振、司祭職です。洗礼志願者は、洗礼水で洗われる前、最後に「洗礼志願者用の聖油」を塗られることで洗礼の準備をし、洗礼水で洗われた後、司祭は新たな受洗者の頭頂部に聖なるクリスマを塗ります。また堅振の秘跡は、本質的には、司教の言葉とともに聖なるクリスマを塗ることにあります。司祭叙階においては、司教は司祭の両手に「洗礼志願者用の聖油」を塗って、親指と人差し指に特別な方法で聖油を塗ります。また、司教の聖別式では、モーゼがアロンに行ったように、聖別する司教が、司教となる者の頭の上に聖なるクリスマそのものを注ぎます。

洗礼の霊印は、人を、私たちの主イエズス・キリストの賜物を受けることができるようにします。ですから、新たな受洗者は、王たるキリストの導きを受け、その御国の市民となり、キリストの法、すなわち永遠の命へと至る命の法に従うのです。また、新たな受洗者は、聖ヤコブが言う(1章21節)ように、「あなたたちの霊魂を救うことのできる言葉を、(最高の教師であるキリストから)素直に受け」るのです。そして、新たな受洗者は、個人的な犠牲(「毎日の小さき犠牲」)を捧げ、大司祭たるキリストからご聖体を受けることができる能力を受けるのです。

次に、堅振を受けた信者は、堅振の霊印によって、大司祭であり預言者であり王であるキリストから受けたものを守ることができるようになります。この信者は、王たるキリストの兵士となり、最高の預言者たるキリストの真理の証人となり、大司祭たるキリストとともに殉教して自分の命を捧げる用意があるのです。

【主イエズス・キリストは役務者を通して群れの世話をされる】
そして、司祭であり預言者であり王であるキリストと共にあずかる最高のものは、叙階の霊印によって受けるものです。人は、王たるキリストの役務者となり、善き羊飼いであるキリストの御名によって群れの世話をします。人は、預言者たるキリストの真理の教師となります。また、人は、大司祭たるキリストの役務者となり、最高のいけにえを、十字架上の私たちの主イエズス・キリストという天主の小羊のいけにえを捧げます。その段階においては、人は司祭であり預言者であり王であるキリストの賜物を、実際に与えるのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストが、ご自身の群れの世話をされるのは、預言者エゼキエルによれば、特に役務者を通してです。「主なる天主はこう仰せられる。私は自分で群れを心にかけ、世話をしよう。羊飼いがその散っている羊とともにいるとき、群れを心にかけているように、私は自分の羊を世話し、霧と闇のときに散ったところから救い出す。私は、もろもろの民の中から彼らを引き揚げさせ、各地から寄せ集め自分の地に導きかえし、イスラエルの山々の上、水の豊かな谷の中、その国のすべての草原で牧する。私は肥えた牧場(まきば)に彼らを導く。その住まいは、イスラエルの高い山の上となる。彼らはここで、良い檻(おり)の中に住み、イスラエルの山々の上に豊かな牧草を見いだすだろう。私は自分で羊を牧し、彼らを休ませる、と主なる天主は仰せられる。私は失ったものを捜し出し、迷ったものを連れ帰り、傷ついたものを巻き、弱ったものを強め、よく肥えた強いものを守り、よろしく彼らを牧そう。私の群れよ、あなたたちについて、主なる天主はこう仰せられる。見よ、私は羊と羊の間の、雄羊と雄山羊の間のことを裁く」(エゼキエル34章11-17節)。

よき羊飼いであるキリストの使命を継続させるためには、刈り入れの主がご自身の刈り入れに働き人を送ってくださるように、また、聖職者全員が真に善き羊飼いになるように、抜きん出た善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストの役務者になるように、多く祈る必要があります。「私たちをキリストの役務者、天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。この「忠実」という言葉は、聖パウロがキリストの役務者に要求しているすべてのことを要約しています。天主の御子ご自身によって啓示された不変の真理であるキリストの教えに対して忠実であること、キリストの聖性の模範に対して忠実であること、私たちの主イエズス・キリストの道徳に対して忠実であること、キリストの霊に対して忠実であること、一言で言えば、カトリックの聖伝に対して忠実であることです。これこそが、聖ピオ十世会の戦いなのです。皆さん、私たちが忠実であるように、私たちのために祈ってください! これは、自動的に与えられるものではなく、皆さんの祈りと私たちの努力が必要なのです。忠実であるためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が私たち全員に必要であり、それによって私たちは、皆さんが「満ち満ちる天主によって満たされる」(エフェゾ3章19節)ために、皆さんに対する天主の奥義の管理者となるのです。

【善き牧者の御母に祈る】
善き牧者の御母に、特に祈りましょう。キリストの霊を持つ人がいるなら、それは童貞聖マリアです。聖母は大司祭の御母であり、すべてのカトリック司祭の母です。私たちが、良き牧者として、また天主の奥義の忠実な管理者として、御子に忠実であるように、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように。それによって皆さんが、また私たちも皆さんとともに、天国に行くことができますように。アーメン。


復活したキリストの弟子たちへの御出現を黙想する。私たちに対するキリストの憐れみ深い愛、人間としてのキリストを見てキリストの見えない神性を信じたトマス

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

2024年4月7日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月7日、主の御復活の八日目、白衣の主日です。
では、今日は一緒に今日の福音を黙想いたしましょう。特に、キリストの私たちに対する深い愛、そしてそれにイエズス・キリストに対する信仰について、わたしたちにどのような信仰が求められているかということを黙想して、今日の福音から霊的な利益を引き出すことにいたしましょう。

【1:キリストの最初の御出現】
御復活の主日の夕方、キリストは、部屋の扉が閉じられていたにもかかわらず、使徒たちに現れました。使徒トマスは、その時不在でした。戸が閉じられていて夕方だったのにもかかわらず、主が来られたというのは、神秘的な理由として、聖トマス・アクィナスによると、主がこの世の夕暮れに、もう一度栄光あるお姿で来られるということを暗示しているといいます。主がなさった譬えのなかにも、「日暮れになったので、ぶどう畑の主人は、会計係に、"はたらく人を呼んで、あとの人からはじめて、最初の人まで、賃金をはらえ"といいつけた。」(マテオ20:8)ともありますし、また別の譬えには、「夜半に、"さあ、花むこだ。出むかえよ!"と声がかかった。」(マテオ25:)という譬えもあります。主を迎える準備をしていた花嫁たちは、主と「いっしょに宴席にはいり、そして扉は閉ざされ」(マテオ25:10)ました。また、使徒たちに現われて、主が言ったことは、慰めの言葉と憐みの言葉以外の何物でもありませんでした。
「あなたたちに平安!」これを二回も繰り返されます。弟子たちの弱さや逃亡・裏切りなどをなじる言葉は一切ありませんでした。それどころか、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」とおっしゃいながら、罪を赦すという特別の権能さえも委託されます。なんという憐れみでしょうか。

【2:キリストの二回目の御出現】
復活の主日から八日の後、主はまた弟子たちのところに来られます。八日の後、これは聖トマス・アクィナスによると、神秘的な意味で、この世の第八の時代に、つまりこの世の終わりに、死者のうちから人々が復活したその時代に、イエズスが来られるということを暗示しているといいます。
イエズス様が来られる必要があったのは疑っていたトマスでした。しかし主はトマスだけではなく、弟子たち皆に現れました。これは、私たちが愛徳のうちに、一致のうちに生活することを望んでいるということを表しています。また、将来、世の終わりには、一人も不在する者がないように、全ての人々を集めるということを神秘的に暗示しているといいます。主は世の終わりについてこうも言いました。「はげたかは、体のある所に集まってくる。」(マテオ24:28)また世の終わりについてこうもおっしゃいました。「らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集めるだろう。」(マテオ25:31)と。
ですから八日目に弟子たちが集まっているところにイエズス様はもう一度あらわれました。かれらに何とおっしゃったかというと、また「あなたたちに平安!」とおっしゃいます。これだけをおっしゃいます。これは、イエズス様が、将来の、永遠の平和、不死の死ぬことがない平和、また愛徳の一致の平和を約束されたということです。もちろん、信ぜなかった、疑ったトマスに対する嫌味や皮肉などは一切ありませんでした。

【3:トマスの不在と不信】
イエズス様が最初にご出現になったときに、トマスは不在でした。「トマス」というのは、この語源によると、双子【ヘブライ語でトアム】、あるいは深淵【アラマイ語でトマ、ヘブライ語でタオム】つまり深みという意味があります。ディディモというのは、ギリシア語で双子という意味です。トマスというのはつまり、深淵であって、深みですが、この深みや深淵には闇があります。暗闇があります。確かにトマスには、深淵には、深い不信の信じないという暗闇がありました。このトマスに現われたキリストには、さらに深い憐れみの深さがありました。「Abyssus abyssum invocat. (Ps 41:7)」と詩篇にあります。「深淵は深淵を呼び求める」と。キリストの憐れみの深さは、トマスの不信仰の深みに呼びかけて、その深みから、キリストの信仰の深みへと呼び出されようとしたかのようです。
聖グレゴリオによると、トマスの不在は偶然ではありませんでした。主の御摂理によるものであって、憐れみの計画によるものでした。つまり、主の肉体の傷に触れることによって、疑っていた使徒が、私たちの不信仰の傷を癒すことを望んでいたから、だといいます。つまり聖グレゴリオによると、トマスが信じなかったこと、疑ったことは、信じていた弟子たちの信仰よりも、私たちの信仰にとってはもっと利益があったと言っています。ここに主の憐れみの深さが、またあらわれています。主はわたしたちの信仰を強めること、深めること、これをお望みになり、使徒の疑いを許されたのでした。わたしたちの利益のために、主は選ばれた義人であっても、苦しみを経験することをお許しになります。ですから、私たちの利益のために、使徒あるいは預言者あるいは殉教者たちが苦しむことが許されるのです。
聖パウロはこうも言っています。「私たちが患難を受けるとしても、それはあなたたちの慰めと救いのためである。」(コリント後1:6)。ですから時には、私たちの教訓のために、聖なるダヴィド王に起こったように、義人でさえ過失を犯すことをお許しになることさえもあります。それは私たちに、警戒していつも謙遜であるようにと教えるためです。また同時に、わたしたちが不幸にして倒れてしまったとしても、また立ち上がるように努力せよと教えるためです。聖パウロもこう言っています。「立っているとみずからおもう人は、倒れないように注意せよ。」(コリント前10:12)

さて 疑っていたトマスは、二つの条件を要求します。そうしないと信じない、と。まずそれは、主の手の釘の跡を見ること。次に、自分の手を主の脇に入れること。視覚と触覚。この二つでした。イエズス様が二回目に現われたときに、憐れみ深くこの二つの条件を一つ一つ満たされようとされます。「あなたの指をここに出して、私の手を見なさい」、また「あなたの手を出して、私の脇におきなさい」と。確かに復活された栄光体は完成されたからだですから、不具や欠陥などはありえません。ですから、傷がついているという欠陥がありえないはずですけれども、どうして、なぜ、復活したキリストには傷口がついていたのでしょうか?聖アウグスチヌスによると、確かにイエズス様は傷跡を取り除くこともできたけれども、理由があってわざと残しておいた、と。その理由は何かというと、トマスに見せるためだった、といいます。またもうひとつ理由があります。それは、最後の審判の時にこの傷口を見せて、キリストを信じなかった人々、あるいは罪人たちを叱責するためです。「わたしは、おまえたちが十字架に付けた者だ。おまえたちが痛めつけた傷を見よ。おまえたちが罪を犯すことによって、刺し貫かれた脇腹を見よ。おまえたちのために大きく開かれたけど、しかし、おまえたちはここから入ることを拒んだ。わたしを信じることを拒んだ。」と、主がおっしゃるためです。同じように殉教者たちの傷跡も、復活した後の栄光体でも、けっして醜いものではなく、彼らを美しく飾る尊厳として勲章のように燦然と輝き出ることでしょう。

【4:トマスの信仰】
この二つの条件を満たされたトマスは、「私の主、私の天主」と信仰宣言します。これは呼びかけではありません。断定です。文法的な言い方をすると、トマスは、呼格ではなくて、「主よ」と言ったのではなくて、主格で言いました。つまり「わが主なり、わが天主なり」と断定したということです。
トマスが「私の主」と言った時に、キリストがまことの人間であるということを宣言しました。何故かというと、イエズス様は御受難の前にこう言われたからです。「あなたたちは私を、先生または主という。それは正しい。そのとおりである。」(ヨハネ13:13)
またトマスが「私の天主」と言った時、キリストの神性を、天主であるということを、宣言しました。キリストが天主であるということを宣言したのは、トマスの前はペトロだけでした。「あなたはキリスト、生ける天主のみ子です」(マテオ16:16)とペトロは言いました。のちに、使徒聖ヨハネは、キリストについて手紙をこう書いています。「それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)と。
トマスは、確かに肉体を持ったキリストとその傷を見て、復活したお方がまことの天主であると信じました。つまり、信仰というのは、真理を信じることです。真理にかかわることです。しかも、目に見えない真理を信じることです。では、なぜイエズス様は、「あなたは私を見たから信じた」とおっしゃったのでしょうか。なぜならば、それは、人間としてのキリストを見て、キリストの見えない神性を信じた、という意味です。
また、主は続けてあたかも私たちにおっしゃっているかのように、こうもおっしゃいます。「私を見ずに信じる人は幸いである」と。つまり、イエズス様が人間として地上に生きておられるということを見ずに、たしかにイエズス・キリストが、私たちを友として愛してくださっておられる天主である、イエズス様が本当にわたしたちを憐れみ深く愛する天主である、まことの人となったまことの天主であると信じる人は幸いであると、おっしゃるのです。信仰というのは、ただ、算数や幾何学の無機質な真理を信じるということではありません。生ける天主が、人格をお持ちの天主が、私たちを子どもとして、友として、憐れみ深く愛しておられるということを、そういう真理を信じることです。イエズス・キリストを信じることです。またさらに言うならば、この天主なるイエズス・キリストが、わたしたちに対して友としての愛を持ってくださっているというこの真理を信じないところには、またそのようなことなどありえないという希望のないところには、天主に対する本当の愛徳もありえない、ということです。

イエズス様はわたしたちのことを、「私を見ずに、イエズス・キリストを見ずに信じる人は幸いである」とおっしゃっていますが、この理由は、私たちがどれほど大きな天国での至福を受けるか否かのその程度は、どれほどの功徳を積むかによっています。功徳が大きければ大きいほど、わたしたちの受けるべき幸せも大きくなるからです。ですから、見ずに信じるというのは、見て信じる人よりも、大きな信仰の功徳を積むことができる、のです。わたしたちにはより大きな幸せが準備されているということです。
聖ヨハネは今日の書簡で、こうも言っています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれがこの世に勝てるだろうか。」

【5:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。わたしたちの人生の目的、わたしたちが信じる目的、それは何なのでしょうか。聖ヨハネは、今日の福音の最後にこう書いています。「イエズスが天主の子キリストであるということを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるために、この福音を書いた」と。まさに、ここにわたしたちの人生の目的、信仰の目的があります。
旧約・新約の全聖書は、イエズスがまことに天主の子であり、キリストである、救い主であるということを、信じるために、この信仰のために、そしてそれを信じて、生命を得させるという目的のために存在しています。イエズス様はこうもおっしゃいました。「あなたたちは、聖書をさぐりそのなかで永遠の生命を得ようと思っている。その聖書が、私を証明している。」(ヨハネ5:39)福音は、生命を得させるという実りを生み出します。この世では義人として信仰によって生きることによって、正しい生命を生みださせます。また来世では栄光によって至福直感の永遠の生命を生みださせます。そしてこの両者の生命には、キリストの名前によってのみ、存在します。
聖ペトロはこう断言したからです。「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にはあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、今日このミサに与りながら、特にミサの聖変化の時、司祭が聖体を奉挙する時に、トマスのように一緒に言いましょう。「これこそわが主なり、これこそわが天主なり」と。するとイエズス様はわたしたちにこうおっしゃってくださるでしょう。「見ずに信じる者は幸せである」と。

最後にマリア様に祈りましょう。マリア様の御取次によって、イエズス・キリストに対する、復活したキリストに対する信仰、憐れみ深いキリストに対する信仰がますます深まり固まり、そしてこの信仰が、ますます愛で満たされますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


洗礼は、新しい命の始まり、永遠の命への始まり:キリストが贖った命、堅振によって固められ、キリストの御体によって養われる命、悔悛の秘跡によって回復し、終油の秘跡によって準備される至福直観の命

2024年04月24日 | お説教・霊的講話

2024年4月7日 白衣の主日 大阪にて

レネ神父

親愛なる兄弟の皆さん、

この主日は「白衣(びゃくえ)の主日、ドミニカ・イン・アルビス(dominica in albis)」と呼ばれていますが、それは、復活祭に新たに洗礼を受けた人々が、洗礼のときに受けた罪のなさの象徴である白衣を身に着けていたからです。洗礼は、新しい命の始まり、つまり永遠の命へと花開くための始まりなのです。

「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を! 信仰はあなたに何を与えますか? 永遠の命を!」。これは聖伝の洗礼式の最初の言葉です。さて、洗礼を受けるためにやって来た洗礼志願者は、すでに信仰を学んでいます。正確に言えば、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ことを学んでいます。また、洗礼志願者は、私たちの主がこう言われるのを聞きました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。洗礼を受ける前に、洗礼志願者は助力の恩寵による信仰の行いをすることはできますが、永遠の命を得るためには、成聖の恩寵による信仰の徳が必要です。

死は罪の結果です。天主はアダムにこう言われました。「善悪を知る木から、食べてはならぬ。それを食べたら、必ず死なねばならぬからである」(創世記2章17節)。アダムは食べて死にました。悪魔は嘘をついて、「女に言った。いや、そんなことで死にはしない」(創世記3章4節)。アダムとエワは天主ではなく悪魔を信じたのであり、それは非常に重大な罪でした。

しかし、死が罪の結果であるように、キリストが復活祭に死に対して勝利されたのは、御父の命令への完全な従順によって、聖金曜日に罪に対して勝利された結果です。私たちの主が、「(私の命は)私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)と言われたからです。

私たちの主イエズス・キリストの肉体の復活は、将来の私たちの肉体の復活の代表的な原因です。聖パウロが、主は「私たちの卑しい体を、ご自分の栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)と教えているからです。

しかし、私たちには、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があります。私たちの肉体が生きているのは、その肉体が私たちの霊魂と一致しているときであり、私たちの霊魂が生きているのは、その霊魂が私たちの主イエズス・キリストと愛徳によって一致しているときです。聖パウロはコロサイ人に対して、キリストは私たちの命である(コロサイ3章4節)と言っています。さらに彼は、「愛は完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)とも言っています。ですから、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があるのです。自然な肉体の誕生と、洗礼による新しい誕生という、二つの誕生があります。霊魂が離れるときの肉体の死と、私たちを天主から引き離す大罪による霊魂の死という、二つの死があります。誰もが知っている肉体の食べ物と、天主のみ言葉とご聖体という霊魂の食べ物があります。肉体のための治療法と、霊魂のための治療法、特に悔悛の秘跡という治療法があります。

聖書には、この二つの命を示す箇所がたくさんありますが、ここでは一つだけ紹介しておきましょう。「まことにまことに私は言う。死者が天主の子のみ声を聞くときが来る、いやすでに来ている。そのみ声を聞く人は生きる。父が命を左右されるように、子にもそれを左右させ、こうして、父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである。こう聞いて驚いてはならぬ。墓にいる人々がみな、天主の子のみ声を聞くときが来る。善を行った人は命の復活のために、悪を行った人は審判の復活のために現れる」(ヨハネ5章25-29節)。

ですから、ここには二つの時があり、第一の時は今、第二の時は世の終わり(肉体の復活)です。第一の時には、天主の御子のみ声を聞く人、つまり生ける信仰によって信じる人は生きますが、それは「すべての人」ではありません。第二の時には、墓にいるすべての人が墓から出て来ます。第一の時には、結果は一つしかありませんが、すべての人がみ声を聞くわけではありません。第二の時には、すべての人がみ声を聞きますが、二つの結果、すなわち、命の復活と審判の復活があります。もう一つ、注意していただきたいのは、第一の時には、主は「死者」について語っておられますが、第二の時には「墓にいる人」について語っておられることです。

この二つの時は、二つの復活です。霊魂の復活が第一の時であり、肉体の復活が第二の時です。霊魂の命は肉体の命よりもはるかに重要ですから、霊魂の命を失った人は本当に「死者」であり、肉体の命を失った人は「墓にいる人」です。霊的に死んだ人は、生ける信仰により「天主の子のみ声を聞く」ことによって霊魂の命に戻るのであり、彼らは生きる、すなわち真の命に戻ります。肉体の死者はすべてよみがえりますが、義人だけが「命の復活のために」、栄光の命のためによみがえります。最後まで悪い生活を送り、大罪の状態で死んだ人は、最後の審判の終わりに、私たちの主が言われるように「審判の復活のために」、すなわち「永遠の苦しみ」の宣告を受けるために、墓から出て来るのです。そのような苦しみは、「命」と呼ぶにはふさわしくありません。

二つの命があることを理解すれば、重要な方は霊魂の命であることを理解するのは簡単です。これこそ、私たちが大切にし、失わないように細心の注意を払うべきものなのです。私たちの主イエズス・キリストは、何よりもまず、私たちに霊魂の命を与えるために来られました。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。私たちの主ご自身こそが命です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。主は、決してその霊的な命を失うことはおできになりませんでした。このため主は、霊魂と死ぬことのできる肉体を持たれたのです。主の肉体の復活によって、主が保証してくださったのは、天主が私たちの肉体をよみがえらせることがおできになることだけではなく、私たちの霊魂をよみがえらせることもおできになることです。復活祭のときの主の新しい命は、私たちの新しい霊的な命の原型です。そしてその新しい命、私たちはそれを決して失ってはなりません。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがない。キリストに対して、もはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。

私たちの弱さに注意してください。私たちはそれを失うことがあり得ますが、決して失ってはなりません! 洗礼のときに受けた、あるいは悔悛の秘跡で回復した、その新しい命を守り続けることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって可能なのです。多くの聖人たちは、小罪をすべて避けたわけではありませんが、大罪をすべて避けて、洗礼の罪のなさを守りました。このことは聖母の特権であり、このことは聖母の汚れなき御心であり、聖母の無原罪の御宿りの継続なのです。初期のキリスト教徒は、洗礼の恩寵をもっと注意深く守っていたため、今よりも熱心でした。私たちは、自分の洗礼の恩寵を十分に理解しているでしょうか?

聖ペトロはこう言っています。「(キリスト)によって、私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。教会は、成聖の恩寵によるこの霊的な命とは、天主ご自身の命に真にあずかることである、と教えています! イエズスは、御父と聖霊とともに、私たちのうちに住んでおられます。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちは、その人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。聖パウロは、聖霊についてこう言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖霊は愛の霊であり、天主を愛する人の中に住み給うのです。

天主の命とは何でしょうか? 永遠の真理を知り、永遠の善への愛を知るという、観想生活のことです。これこそが実際、最も実り豊かな生活です。天主の御子は知性によって御父から発出し、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これこそが、天主ご自身の永遠の命であり、最高の幸福です。また、聖人たちは、至福直観によってそれにあずかります。そして、この地上での霊的な生活は、信仰と愛徳による永遠の命の始まりなのです! このため、すべての善きカトリック信者の霊的な生活は、祈りという観想的な次元を持つべきなのです。祈りは、声を出す祈りから始まるでしょうが、どんどん観想的な次元を持つようになり、私たちがキリストによって満たされるようになるために、天主のみ声に耳を傾けて永遠の真理を黙想・観想するという沈黙へと至るのです。

これこそ信仰の生活です。聖パウロは三回、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)と言い、預言者ハバクク(2章4節)の言葉を引用しています。信仰は、私たちを啓示された真理に従わせるだけでなく、すべての超自然の徳に動機を与えます。実際、成聖の恩寵によって、私たちには、この注入された超自然の徳の全体が与えられます。それは、馬力のあるポルシェのハンドルを握っているようなものです。このエンジンには馬力がありますが、その恩恵を受けるためには、正しいギアを入れる必要があります。信仰の動機を与えることによって、私たちはこれらの徳のギアを入れるのです。例えば、貧しい人が食べ物を乞い願っているのを見たら、キリストがこう言われるのを聞きましょう。「私が飢えていたときにあなたたちは食べさせてくれた…、まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35、40節)。そのとき、私たちにはその人を助ける勇気があります。あるいは、何か悪いことをしようという誘惑に駆られたとしても、罪のせいで多くの苦しみを受けて十字架につけられたイエズスを目の前にすれば、私たちは誘惑を退けます。主の御苦しみをさらに増やすことが、どうして私たちにできるでしょうか? 信仰の動機は、天主の法を実践し、忠実であり続け、「善を行う」(ティト3章14節)ために、私たちを力づけるのものなのです。

これこそ、キリストが私たちのために買い取ってくださった命、洗礼のときに私たちに与えてくださった命です。これこそ、堅振によって固められた命です。これこそ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものによって養われる命です。それこそ、悔悛の秘跡によって回復し、癒やされる命です。それこそ、終油の秘跡によって、最終的には至福直観のために準備される命です。それこそ、司祭が皆さんに与える命であり、皆さんが司祭を神父と呼ぶ理由です。司祭はその命の源ではなく、天主だけが命の源です。しかし、司祭は、その命を皆さんに伝達しました。それは、皆さんの肉体上の父親が、皆さんの肉体の命を無から作り出したのではなく、ただ自分自身が受けた肉体の命を伝達したように、です。結婚は第一に、肉体の命を伝達するために行われるものですが、子どもたちが天国に住むことができるように、子どもたちに洗礼を受けさせ、善きカトリック教育を受けさせることは、両親の重大な義務です!

私たちの霊魂の命は、その中に住んでおられるイエズスですから、私たちにイエズスを与えてくださったお方、童貞聖マリアは、まさに私たちの母です。洗礼によって、私たちは天主の子、マリアの子となりました。そしてマリアは、すべての母の中の最高の母として、私たちの世話をしてくださいます。イエズスがマリアを愛されたように、私たちも、マリアに対して子どものような優しい愛を持つべきなのですから、私たちは「キリスト・イエズスの心を心とす」べきであり、その結果、イエズスの御母マリアに対する同じ愛を持つべきなのです。

復活された私たちの主が、永遠の命に至るまで、私たちの霊魂のうちに、より一層住んでくださいますように。そして、その途上で、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように!

アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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