30代留学生ブログ卒業

2008年01月01日 | 自己紹介
前々から考えていたのですが、そろそろこのブログを卒業しようかと思います。まだ移民になりかけ状態ではありますが、私はもう留学生ではありませんし、やっと合法に働けるようになったことをきっかけに、この「留学生ブログ」も卒業しようかなと・・・。とりあえず、永住権がらみの記事はグリーンカードゲットまで引き続きこのブログに書いていきます。

それでは、頑張って仕事ゲットします~★★★



2007年9月

NOVAの本と・・・

2007年09月14日 | 教育関連話
大学から借りてきた本、The Impact of Globalization on Education. これはNOVAが発行した本で、NOVAと聞いてとっさに思いつくのはサイエンス。たとえば科学や生物学は人間の目には見えない部分を学ぶので、ビデオなど目に見えるかたちに描写されたものを通して教わることがよくあると思うのですが(特にコミカレとかの中高レベルの科目)、カレッジの図書館でバイトをしていたとき、そこの教授がNOVAのビデオをクラス用に借りていたことも思い出しました。ちなみにNOVAのビデオ(DVD)は、元々PBSで放送されたプログラム(のはず)なので、TVで視聴することもできまっせ。(←ということで、たまに見ている)

さて、この本の巻頭部分を開いてさっそく目に止まったのがコレ▼

He who neglect learning in youth, loses the past and is dead for the future.
Euripides

き、き、きっつぅ~・・・・・。

でも自分自身Euripidesの言う若い頃に勉強を(文字通り)無視した若者だったので、その言葉の意味を、自分なりの解釈であるにしろ、身を持って理解できます。私は10代の学生の頃勉強を一切しなかったせいか、その後の10代、20代の自分には過去も未来もありませんでした。自分がわずかに気付くことができる狭い世界のことだけ、その一瞬のことだけを考えて生きてきて、ただただ時間が流れて行くだけの空っぽ人生を送ってきたわけで、再び文字通り、過去を失い未来はなし状態。(学校の勉強に限らず、私には物事を見る力や考える力を養う機会がなかったせいもあると思う。)涙 学ぶべきことをきちんと学んで大人になった人たちにはこの”空っぽさ”はきっとわからないと思いますが(想像も不可能だと思う)、Euripidesの言う体験を自らしてきただなんてほんと恐ろしいです。ぷるぷる・・・ そして現在若い世代にいる人たちにもEuripidesの言葉の意味はピンとこないとは思いますが、まずはせっかく親や国から与えられた教育の機会は決して無駄にしないようにね。“lose the past and dead for the future”なんていやでしょ?!

で、そう言う30代のわたくしは、まるで発展途上国の教育を満足に得られなかった人かのごとく、文字をはじめて読めるようになった人かのごとく、ここアメリカでようやく学びの楽しさ、ありがたさを味わっています。こう言ってしまうと、実際に政治的理由、文化的理由、そのほか経済的理由などで教育の機会が得られない人たちに対し、申し訳ない気持ちにもなるんですけどね・・・。だって私はそういった発展途上国に生まれたわけでも、学ぶことを完全否定される環境の元に生まれたわけでもないのですから。
(なんとなく反省)






Political Foundations・・・・

2007年09月12日 | 教育関連話


↑まずタイトルのPoliticalの部分につられて手に取ったテキスト。これは読み系本ではなく、ご丁寧な説明つきのテキストブックです。Terminologyの一覧がテキストの最後に掲載されている、イントロ向けテキストブック。こういったテキストはEducationビギナーな私には本当に助かります。こういうものが借りれる環境に住む自分は恵まれているなぁ。ま、それは卒業生として大学の本を借りることができるからなのですが、たとえ母校の近くに住んでいなくとも、たとえば近所の大学にある読みたい本をチェックし、それをパブリック・ライブラリーに注文し借りることができます。(←Interlibrary Loanと呼ぶ)このように母校以外の大学からでも、パブリックライブラリーを通じて借りる手があるので、大学の本が読みたい♪という方は是非どうぞ。

で、テキストのタイトルどおり、これは将来教師になりたい人向けのテキストなのですが、教師になるならないは別にして、いっちょ教師の立場というものを覗いてみようと思い借りました。そして一番興味深かったチャプターは「Educational Philosophies in Conflict」。これは教育哲学について色々語られていて、しかもPhilosophy(哲学)とは何か?という基礎解説も載っていて、Philosophyビギナーへの気配りに感謝です。さすがイントロコース用テキストだ・・・(←勝手に)たとえ数ページでも哲学ってのはこういうものなのだよ。という説明を先にしてもらうと、より教育哲学へのアプローチがしやすくなるようで、本当に助かります。(再び)

それから、教師になろうとしている人、既になっている人たちは、皆それなりの教育に対する哲学を持っているものなんだそうで(たとえ無意識にでも)、そのそれぞれの哲学はだいたい5つのカテゴリーに分けられるそう。「Teacher-Centered」と「Student-Centered」にあたるものがそれぞれ相反する哲学となり、その他の3つは、微妙にTeacher-Centered寄り、またはStudent-Centered寄りといった感じです。が、それぞれの哲学の説明を読むと、どれもこれもいいところを付いた、よい教育のあり方を言っているような気がするから困ったものです。ふっ でも哲学って面白いな~と。ま、今回イントロテキストで面白いな~と思えても、たとえば政治学で習ったときのように、哲学者たちが執筆した本を読むことになったら、「まったくわけわかりませ~ん」となりそうですけどね。(汗)



日本の教育分野にもこのような大学で教わる「教育哲学」があるのでしょうか?アメリカのテキストには西洋の哲学者しか出て来ないので、日本の場合アジアの哲学者が登場するとか?気になりますねぇ。


Education Deniedを読んで。

2007年09月08日 | 政治学
8月はずっと遊びほうけておりまして、9月に入ってようやく再び読書を始めました。読んでいるものは相変わらず大学から借りてきた、アカデミックな本たちです。その中の1冊が「Education Denied」で(←個人的に怖いタイトル)、懐かしの国際関係分野のものでした。著者紹介文によると、これはUNスペシャル・リポーターでもある教授が書いた本なので、尚更国際関係色強くなるのかもしれませんが、そのおかげか内容がとても読みやすく感じました。学生時代に少しでも触れた経験って、ほんと馬鹿にできませんですよ☆

その本のトピックは教育に関るHuman Rightsだったのですが、世界レベルのHuman Rights問題に取り組むと、つい頭を抱えてしまうようなことが必ずあります。そして本日は、この本に書かれてあったHuman Rightsがらみのとてもわかりやすい難問を一つ・・・。
アフリカのある地域では、女性は10代に入ったばかりのかなり若いうちからお嫁に行くらしく、若ければ若いほど持参金のようなもの(牛とか)が、少なくて済むらしいです。でももし女の子たちに教育の機会を与え、卒業を待ってからお嫁行きになった場合、その頃には持参金がはるかに高くなり(嫁としての価値が下がるからでしょうか・・・)、その準備をする親としてはかなりの負担になるらしいのです。しかも、子供が学校に行っている間は家の手伝いはしてもらえないわけで、人手不足状態で将来の持参金作りに苦労する親は、理不尽な気持ちにならざるを得ないそうです・・・。問題は持参金アップだけではありません。女の子が義務教育レベルの教育を得たからと言って、それが仕事に繋がるわけでもなし、結局これと言った教養の見返りがないことから、子のためを思って小学校に行かせたものの、一体なんのために・・・という状態だそう。そんなことになってしまうのは、まずその国(地域)の文化が西洋文化にフィットしないからなのですが、国際機関などの力でたとえ子供たちに教育の機会を与えても、この例のように文化によってはそれがあだになったり、うまく活用されなかったりするんですよね。10代早いうちから結婚しなくてもいいようになるとか、女の子でも教養を活用して仕事ができる社会が生まれるとか、そんな風に国社会文化全体に動きがあればいいですが、ずっと受け継がれてきたそのアフリカの文化が、西洋向きに変わることはなかなか難しいはずです。でも女の子だって教養は欲しいだろうし・・・・ねぇ。

文化が壁になるトピックは難しいです。なのでこういった問題に対応する場合、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。一歩自分が住む世界から飛び出し、そして全くの異文化が絡んでくると、私でなくたって手がけるのは本当に難しいはずです。部外者として何かしら手をかけるには、その異文化をとことん理解したうえで対応しないといけないだろうし、そしてその異文化を理解するには、私個人の考えではまず現地の言葉は絶対にわかるべきだし、歴史、経済、政治状況だって無視できません。2個目の大学で履修したクラスで、KOSOVO問題のリサーチをしたときのことです。そのクラスの教授は(以前もブログに書きましたが)KOSOVO内戦のあった頃、長期UN現地勤務経験のある、旧ユーゴスラビア言語ができる人でした。そしてひょんな理由でリサーチトピックに(わざわざ)KOSOVOを選んだ私でしたが、自分はその教授と違い、旧ユーゴの歴史も現在の姿もほとんど知らない状態であり、当然その地域の言語は全くできません。それが単なるクラスの課題だったとは言え、そんな自分がどこまでKOSOVOの人たちのことが考えられるのか、その地域の立て直しに関しどこまでよい対策案が出せ、力になれるのかを考えたとき、自分は全くの役立たずに思え(いや、本当にそうなんですが)、まさに国際問題に対応する難しさを実感したのです。

そんな風に思ってしまったあと、そこまで自分から遠い世界に携わろうとしなくても(いや、どうやっても私には無理ですが)、もう少し身近な海外で自信を持って近づける分野に行きたいと、いつからか考えるようになった気がします。たとえばアメリカ。ネイティブのようにはいかなくとも、私にはアメリカで使われている言語の英語力があります。そのささやかな英語力のおかげで、現地の言葉で現地の文化・社会を理解する(理解に努める)ことができます。しかも自分はその国でわずかながらもその国の教育を受けました。これらは自分にとっての外国:アメリカに関る上で有利なことのはず・・。

大学で国際関係を学んできて、上に書いたようにその都度ちょこちょこ考えることもあり、そして日本人で既に30代の素人ではその世界に入り込むことは難しいと感じることもあり、将来的に国際関係分野に(無理矢理)進むことは完全諦めた私ですが、私にとってアメリカは今もこれからも外国に変わりなく、今後アメリカで何かができるだけでも、憧れていたインターナショナルな世界に携われるとも言えます。せっかくアメリカで合法に働ける立場になれることだし、この国アメリカでアメリカ社会のために自分ができることをやって行けたらいいなと。




国際関係学を捨てるまで(完)

2007年09月06日 | 留学色々
編入当時、IR:国際関係学のUpper Courseを履修するには、あまりにも自分は準備不足だったと強く思うんですが、そのUpper Courseの一つ、「American Foreign Policy」で受けたEssay Exam(Multiple Choice付き)で、なんと恐怖のFを取ってしまいました。これはEssayがショボすぎたわけではなく、設問に対し全く書くことができなかった結果なのですが(←これでも自分フォロー)、これにより自分の力不足をひしひしと感じ、「もしや専攻を変えるべきなのではないか?」という少しばかり諦めモードになりかけていました・・・。

が、ところがどっこい、長期的に落ち込むことを知らないわたくしですから、立ち直りは非常に早かったです。

徐々にその大学(カレッジ)に慣れつつあるころ、「国際関係っておもしろいかも・・・」「やれるだけやってみる価値があるかも・・・」と思えるようになってきました。四大のIR専門教授たちから教わるInternational Relationsを通じ、海外旅行をしていただけの頃には見えなかった異文化の様子や、諸外国の関係・歴史などをもっと知りたくなり、とにもかくも、政治を通して日本の外の世界を見るというアプローチ方法に感動すら覚え、国際関係学に対する興味が再び強く湧き始めてきたのです。

更にそんなとき、他の大学への編入計画が上がったことにより、自分は陸の孤島から脱出し、金銭的不安が(多少)和らぎ、車に関する心配もなくなるかも・・・と思っただけで、その後のアメリカ留学生活に希望が見え出し、将来的に自分に何ができるかわからないけれど、政治学を学びながら、これからゆっくり探していけばいいのではないか?と無理矢理考えられるようにもなりました。(いいのか、わるいのか・・・)汗

ちなみに「American Foreign Policy」はほんとキツかったです。アメリカ政府や歴史を良く知るアメリカ人にはそうでもなかったかもしれませんが、担当教授はIR学部の中でダントツ厳しいとされる教授だったので、政治学準備不足の自分が、編入していきなりこの人のUpper Courseを取ったのは、ちょ~っと無理があったかったな~と思います。たとえば、Upper Courseでも特定の分野に集中したUpper Courseとしてのイントロコースは多くありますが(ほんとに)、私にとってのAmerican Foreign Policyは違いました。あれはUpper Courseの中のUpper Course。でしたよ~。(涙)日本人には辛いっすよ~。(大泣)


というわけで、まずは単なる憧れだけであった、本格的IRに進学先で触れたことにより、このまま諦めてたまるかという無駄な意地と、まだまだ見知らぬ世界への期待も湧き上がり、たとえ自分に将来性のない専攻であっても、新たな大学で、気合を入れなおして、その分野を(恐る恐る)学び続けることにしたのです。まぁ、卒業後の仕事のことを考えた場合、専攻は無難なもの(ビジネスとかに)変更したほうがよかったのかもしれませんが、当時専攻の変更はちょっと難しい段階ということもあり、無理に変更はしませんでした。(卒業が延びてもいいのであれば可)でも専攻の変更ができる状態でなくてよかったと思っています。政治学を諦めてしまうことにならず、本当によかったと思っています。なぜならば、私は高校で一切勉強せず社会人になった今や30代のオバハンですから、今回若い頃に得られたはずの教養を4年間かけてアメリカのカレッジでようやく得たようなもので、そして政治学を中心に学んだものは、自分がずっと欠如していて、無意識に求めていた教養だと卒業した今でも思うからです。(大人になってこんなことをしなくても済むよう、みなさんは高校でしっかり勉強しましょうねー)(もちろん大学でもねー)そう考えると、International Relationsという専攻を初めて知ったとき、そこに自分の学びたいことがあるような気がしたというのは、まぐれにせよ決して間違いではなかったと思います。
進学前あ~んなにこだわっていた”国際関係学専攻”は、見事にあっさり捨てちゃいましたけどね。


恥曝しシリーズはとりあえず、