夜明けまで3時間

よしなしごとの記録と備忘

「ドラえもん」最終話の悲劇

2009-07-27 20:14:51 | 日記
 Wikipediaによると正式な「ドラえもん」最終回には三つのバージョンがあり、一つを除いて単行本には収録されていなかったそうだ。私が小学4年のころリアルタイムで読んだのは、その未収録のうちの一つだった。

 つい先日(2009年7月24日)の朝刊全面広告には、藤子・F・不二雄大全集の刊行が始まり、単行本未収録だった最終回が再録されるとあった。忘れられずにいた最終回の最後の1ページが、子どものころの記憶のまま、下の方に小さく載っていた。様々に思いがめぐる。この幻の回が復活する一方、二次創作であるがゆえに表舞台から葬り去られたもう一つの最終回のことを考えずにはいられない。以下の文章は、この「ドラえもん」二つの最終回について、mixi日記で範囲限定公開していた文章に手を加えてまとめ直したものです。


 藤子不二雄を「F」とか「A」とかに分けて考えるのに慣れていない。

 「オバケのQ太郎」「パーマン」「ウメ星デンカ」「怪物くん」「忍者ハットリくん」などなど、全部リアルタイムの連載読者、またはテレビシリーズ視聴世代である。作品に初めて触れるとき、つまり最も強烈な印象を刻まれるとき、「F」と「A」になんか分かれていなかったから、私にとってはどれも未だに「藤子不二雄」の作品だ。

 「ドラえもん」も当然、リアルタイムである。当時は小学館の学習雑誌「小学4年生」を中心に連載されていた。ほぼ学年限定だから3月号(学年の終わる号)で最終回を迎える。私が読んだのはこんな話だ--

 鼻歌交じりで家に帰ってきたのび太が、「ドラえもん、また困ったことが起きたんだ」とニコニコしながら呼びかける場面から始まったと記憶している。

 のび太が脳天気に帰ってきたとき、セワシ君とドラえもんは、この時代を引き払って未来に帰ろうと相談していた。のび太が何から何までドラえもんに頼るようになってしまい、ますますダメ人間になるのではないかと心配していたからだ。2人はドラえもんが大気汚染の影響で壊れかけていると装い、未来に戻ろうとする。人のいいのび太は身も世もなく心配し、その姿にほだされたドラえもんは「こわれたっていうのはウソだ」と告白してしまう。

 当然のび太は怒るが、2人は「きみのためなんだ」と必死に真意を伝える。のび太は結局その説得を受け入れて、ドラえもんなしで生きていくことを決意する。全面広告に小さく掲載されていたのが、その最終の1ページだ。掲載は「小学4年生」1972年3月号。

 さて、この最終回から30年以上たった2005年、新しい「ドラえもん最終話」が不幸な形で話題になった。オリジナルのドラえもんのキャラクターや設定を基に、田嶋・T・安恵という別の作者が作った同人誌が異例の売り上げを記録したが、著作権侵害として在庫の廃棄などを求められ、この同人誌は表舞台から姿を消した。

 田嶋のストーリーは、インターネット上を流れる作者不詳の「ドラえもん幻の最終回」をベースにしている。元の筋書きはかなりおおざっぱで、これをドラえもん世界の枠組みに固定したのは、田嶋の力量といっていいだろう。こんな内容だ。

 ある日、のび太が家に帰ったらドラえもんが動かなくなっている。電池が切れてしまったらしい。未来にいるドラミちゃんと通信すると、とんでもないことが分かる。設計上の問題から、ドラえもんは電池を交換すると記憶が消去される。つまりのび太と過ごした思い出も忘れてしまう。大変な事態だが、頼みのドラミちゃんは何かの妨害にあってタイムトリップできない。しかもドラえもんの設計に関する情報は、すべて厳重に秘匿されている。頼れる相手が誰もいないことを知ったのび太は、ドラえもんを復活させるための超人的な努力を、たった1人で開始する。2人の思い出をよみがえらせるために。

 ……田嶋のこの作品は、何より藤子不二雄オリジナル最終回の鮮やかな返歌になっている。生前の藤子不二雄が放った問いに、30年以上たって真正面から答えたのが田嶋版と言ってよい(田島がそれを意識していたかどうかは大した問題ではない)。

 もともとドラえもんはダメ少年ののび太をマシな大人にするため送り込まれた。だが のび太は逆にますます依存心の強い子どもになってしまう。それを解決するために、ドラえもんは未来に去るというのが72年版の最終回だ。だがこれだと、結局ドラえもんは来ない方がよかったのではないか、あるいは来ても来なくても同じだったのではないかという疑問は消えない。いったい何のために未来からやってきたのかわからない。ドラえもんのジレンマである。

 「ドラえもん」は、アジア圏などで大変人気が高いが、アメリカ人の評価は低いという話を何かで読んだことがある。問題を自分で解決させず、何でもかんでも肩代わりしてやるドラえもんは、まるで過保護な親のように子どもをスポイルしているというのが批判の趣旨で、いかにもアメリカ人らしい見方だ。実際「ドラえもん」は、その卓越したファンタジー性の裏側に、この種の矛盾を抱え続けた作品だった。藤子不二雄自身による最終回には、作者のそうした悩みが込められていたとさえ思う。

 こうした矛盾の一切合切を、田嶋版は全部受け止めた上で、全く新しい次元に昇華させ、解決する。

 そう、ドラえもんは絶対にのび太のもとへ来なければならなかったのだ。かけがえのない時間をのび太と共に過ごし、そして停止するために。そうして、無二の友を救うという神聖な目的に生涯をかける人間へと、のび太を成長させるために。

 作者さえ悩ませたであろう設定上のジレンマこそ、ドラえもんが存在する最も崇高な理由だった。田嶋が示して見せたのは、そういう解である。「ドラえもん」という作品に対して、これ以上の「返歌」は想像できない。

 これほどの作品が"違法著作物"として扱われていることについて、ここではくだくだしく述べない。許諾を得ていない二次創作は、すぐれていればいるほど、その行く末はしばしば不幸になる。著作権制度とはそういうもので、ここでその批判はしない。だがこの作品は消え去りはしないだろう。制度のジレンマを出し抜いて、それが解決されるときまで、生命をつないでいくと思っている。いやむしろ、それを心から願っている。


 ※上記の考察には、いくつか裏付けが足りない面があります。藤子・F・不二雄さんが描き継いだ「ドラえもん」の作品数は膨大で、私が読んでいるのは一部に過ぎません。従って、上に書いたようなジレンマについて、原作者が何らかの解決を見出していて、それを私が見落としている可能性は十分残ります。

 ただ、初期の「ドラえもん」を連載読者として知っており、とりわけ長く「幻」だった「小学4年生」1972年3月号「最終回」をリアルタイムで体験した者として、「ドラえもん」に関する膨大な議論の上に、上述の点を付け加えておくことは無駄ではないと考えています。幸い、大全集ではこの「幻の最終回」も収録されるので、今日の読者の目からも検討することが可能になるでしょう。本当は、大全集を購入して、自分に記憶違いがないかどうかなどを確認してからこの文章を公開しようと思っていたのですが、さすがというべきか、書店を回っても売り切れのようで、とりあえずアップします。間違いなどがあったら、適宜修正するつもりです。また
著作権制度に関するもろもろは、Twitterでつぶやいていると思います。

 私見では、とりわけ長編もので顕著なように、藤子・F・不二雄さんはドラえもんの能力すら超える冒険をのび太たちに課し、その困難を克服する過程で、のび太たちの成長を描こうという方向に作品づくりをシフトさせていたように思えます。そのことはしかし、田嶋版の価値を低下させるものではありません。

 もし藤子・F・不二雄さんが田島版最終回を読んだとしたら、どんな反応を示したでしょうか。魅力的な問いかけですが、当然答えはありません。多少ともそれを想像する材料になるのは、以下のようなご本人の言葉でしょうか。もちろんこれだけでは、キャラクターを借りた二次創作に対する考え方はわかりません。個々の読者が判断する以外ないでしょう。

「まんがをかく」という作業は、情報やアイディアをいろいろと取り入れ、そしてはき出すということのくりかえしといってよいでしょう。つまり、この世の中に、純粋の創作というものはあり得ないのです。

 けっきょく、まんがをかくということは、一言でいえば「再生産」ということになります。

 かつてあった文化遺産の再生産を、まんがという形でおこなっているのが「まんが家」なのです。どんどん取りこんで、どんどんはき出していくという、視野を広く持ち、柔軟な考え方をしなければなりません。

(「藤子・F・不二雄のまんが技法」小学館文庫197ページ)


原型としての欧州18世紀 (1)ライブとレコードの源流

2009-07-19 00:18:57 | 日記
 これも、以前Twitterでポストしたものをまとめたものです。これの続編、というか関連するポストを書こうかなどうしようかなと思っているところで、書くためには以前の投稿を参照できた方がいいので、まとめることにしました。続編は、すぐ書くかもしれないし、放置してしまうかもしれません。そのへんはテキトーなので、自分でもわからなかったり。

 西洋音楽古典派の時代は、音楽というコンテンツが「産業」として成立するための大きな曲がり角でもあった。芸術音楽の庇護者が、王侯貴族や教会といったパトロンから、一般市民階級へと移り変わる時代。それを仕組みとして支えたのが、公開演奏会の成立と楽譜の出版だった。その二つの恩恵を最初に受けたのがヨーゼフ・ハイドンで、長く仕えたエステルハージ家を離れて2度渡英し、ロンドンで開いた交響曲の連続演奏会で大成功を収める。バックには辣腕の興行師ヨハン・ザロモンがいた。

 貴族のお抱え楽士など、仮に楽長であっても所詮は召使いにすぎない。ハイドンもかなり薄給だったといわれる。モーツァルトの父レオポルトは最初の作品のトリオソナタを捧げる献辞で、パトロンの伯爵を「父なる太陽」とまで呼んでへりくだっている。  

 こういう地位に甘んじてきた音楽家が「主役」になるには、大衆に支持されて、経済的に自立できる時代を待つ必要があった。そしてそのためには、市民階級が以前よりもずっと強い経済力を持たなければならなかった。そういう時代の市民階級は自分たちでも楽器を弾いたから、弦楽四重奏曲の楽譜を出版すると、それも大きなビジネスになった。

 つまり公開演奏会と楽譜出版が音楽家の自立を促す仕組みになっており、その二つで先行したのはイギリスだった。それは当時この国が、産業革命によっていち早く大きな経済成長を遂げていたためだと言える。ハイドンは「交響曲の父」であり「弦楽四重奏曲の父」だが、これはそのまま公開演奏会と楽譜出版の両輪のビジネスの象徴で、彼が近代的音楽産業における最初の成功者であることと符合している。

  故郷ザルツブルクのパトロンだった大司教と大げんかしてウィーンに飛び出したモーツァルトの生計を支えたのも、予約演奏会という公開演奏会制度だった。ウィーン初期のモーツァルトはセルフプロデュース能力にも長け、たちまちスターになった。とはいえ彼は皇帝ヨーゼフ2世の庇護なしで活動するのは困難だった。ハイドンとの違いは、イギリスと神聖ローマ帝国(オーストリア)の経済力の差だったのだろう。

 公開演奏会と楽譜出版は、「ライブ」(実演)と「レコード」(複製)と言い換えてもよく、まさに今日の音楽産業のスタイルといえる。つまり大衆の支持を基盤として音楽家が自立する今日の経済モデルの原型は、約200年前に生まれた。(ハイドンがいわゆるザロモンセット=ロンドンセットを作曲したのは18世紀末)

 ただ、大衆の支持という基盤は、一方でもろい。モーツァルトが、その個性を本当に開花させた作品(「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」、20番以降のピアノ協奏曲など)は、聴衆の支持を失わせる結果となった。大先輩であるハイドンは、モーツァルトの天才を見抜き、「私が知る最も偉大な音楽家」と語ったし、モーツァルトの生活基盤を保証する都市や人物が現れることを強く願っていた。ハイドンの懸念は悪い形で当たり、ウィーンでのモーツァルトの人気は衰えていく。

 貴族がパトロンだった時代でも、気に入られる作品を書かなければ終わりといえばその通りだったが、大衆相手の賭けのような暮らしもそれはそれで厳しかっただろう。モーツァルトは、ベートーヴェンらによって支持された一部の作品(短調のピアノ協奏曲など)を除いて、ほとんど忘れられた作曲家になってしまう。

 モーツァルトが真の意味で「復活」を遂げるのは、LPレコードの登場後だというのが石井宏さんの説で、これは本当に面白い。「コシ・ファン・トゥッテ」などはベートーヴェンの酷評もあってほとんど上演されなかったが、1956年の生誕200周年あたりからLP化され始め、聞かれる機会が一気に増えた。同様に、ヴィヴァルディの「四季」なども、LPによって再発見された。LPによって音楽が安価で、扱いやすくなり、真に大衆のものになった結果、教条主義的なクラシック信仰から、素直に美しい音楽が好まれるようになったというのが石井説。このように、一部で何か超越的な芸術のように思われているクラシック音楽も、産業や経済、テクノロジー、社会情勢と密接に絡み合いながら今日に至っている。間違いなく普通の人間の営みということだ。

 ただ、音楽にとって今が大きな節目かもしれないと思うのは、ライブと複製という200年前に確立された二つの柱のうち、後者が今後も音楽家に収益をもたらす柱たり得るのかが問われている点にある。

 以上、出典・参考文献は岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)、メイナード・ソロモン「モーツァルト」(新書館)、石井宏「反音楽史」(新潮社)。この3冊はどれも大変な名著だけれど、中でも「西洋音楽史」は、歴史を読み解くことで今日の社会と文化のあり方までも照射する深さと、コンパクトな読みやすさとで、超がつくおすすめ。この一連の投稿の最初の方はほとんどこの本の受け売りですw

若年層の政治参加

2009-07-01 00:21:16 | 日記
 以前、Twitterに投稿したpostに、ほんのちょっと手を入れてまとめたものです。読みにくいと思いますが、読みやすいように手を入れると、たぶんこのエントリー自体をあきらめることになりかねないので、このまま投稿します。

 2007年7月参議院議員通常選挙での年代別有権者数と投票率を、全国142の選挙区をサンプルにして集計し、各年代別の数字を比較した統計がある。(「明るい選挙推進協会」)

 サンプル調査なので数値は全体の一部にすぎない。この142の選挙区の合計は、有権者数が28万8525人、投票者数が17万3547人、投票率60.15%になる。ちなみに国全体の実数は全有権者1億371万35人、投票者6080万6582人、投票率58.63%。(総務省第21回参議院議員通常選挙結果)(エクセルファイルが開きます)

 まず年代別の投票率をざっと確認する。20代前半は32.82%、20代後半は38.93%と、ほぼ3分の1しか投票していない。30代前半は46.02%、30代後半は52.06%でほぼ半数。60代は実に4分の3が投票している。70代もそれに近く、50代も7割近くが投票している。

 次に絶対数の比較。ざっと探した範囲では、全国の年齢別有権者数の統計が見つからなかったので、全有権者数÷サンプル調査の有権者数≒359を補正値として、これをサンプルの各実数にかけて比較する。要は暫定的な数字です。

 そのようにして算出した各年代の「投票者数」対「棄権者数」を列挙すると、以下のようになる(いずれも概数)。

20-24歳=220万 対 450万
25-29歳=290万 対 454万
30-34歳=404万 対 474万
35-39歳=460万 対 424万
40-44歳=459万 対 331万
45-49歳=502万 対 291万
50-54歳=569万 対 269万
55-59歳=751万 対 315万
60-64歳=615万 対 209万
65-69歳=601万 対 172万
70-74歳=541万 対 174万
75-79歳=434万 対 174万
80歳以上=393万 対 395万

 つまり20代と30代が棄権している票数の合計は約1803万票、60代と70代が棄権している票数の合計は約729万票。純粋な有権者数では、20代と30代の全票数は3177万票、60代と70代の全票数は2920万票。本当は20~30代の方が持っている票数自体は多いんだよ。

 80代以上は790万票持っている。たしかに若年層対高齢者層でみると、後者の年齢分布がずっと広いので不利だが、80代以上は投票率が顕著に落ちる(が、それでも20代よりずっと高い)。

 20代と30代が棄てている約1800万票は、全有権者数の17%に当たる。普通に一つの勢力を形成できる数だ。また、20代の親は40~50代であり、30代の親は50~60代。自分の子の世代を顧みない親は決して多くない。親世代を味方につける問題設定を考えることが正しい方向性で、そうすれば多数派を取ることさえ不可能ではないはず。単純な世代間闘争という枠組みは、あまり生産的とは思えない。

 顰蹙を買うのを承知でいうが、選挙権という当然の権利の行使すらしない(できない)人たちが、それ以外の何か画期的な(革命的な?)手段で世の中を変えるなんてことは、ほとんど夢想ないし妄想だと思う。

https://twitter.com/Tristan_Tristan/status/1775700511からの一連のポスト)

※注=上記はあくまでも全体的な傾向を見るための概数です。例えば公的な報告書のような厳密なことをいうには、別の角度からとった統計などと照らし合わせる必要があると思いますが、このエントリーではそこまでの正確性を追及してはいません。