Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

清水のカゼノカミサマ 後編

2024-03-21 23:28:12 | 民俗学

清水のカゼノカミサマ 前編より

 実は今回34年ぶりに訪れるにあたり、前回訪れた平成2年のカゼノカミサマの写真を印刷して見ていただこうとした。おそらくその写真に写っていた方もおられるだろうという期待もあった。年配の方はともかくとして、子どもたちが写っていたから、その際の子どもたちは40代くらいだろうと想像できた。参集された方たちに見ていただくと、もつろん「懐かしい」という言葉とともに、「これ俺だ」という言葉も聞くことができ、写真を持参したことが良かったとつくづく思った次第。

 

以下平成2年3月21日のカゼノカミサマ

 

 当時のモノクロ写真から想定すると、集会施設に集まっていたのは20人ほど。大人と子どもと半々くらいだっただろうか。ところが今回の写真に納まっている人たちは、午前の人形つくりと午後の百万遍念仏に参加された総数では30人近かった。とはいえ、清水地区の人口が増えたというわけではない。住民票を置いている世帯はすでに10戸を下回っており、減少傾向に変わりない。そもそも当時の印象からすれば、山間の30年後である。廃村になっていても不思議ではないほど時間は経過している。にもかかわらず、昨日掲載した写真のように、集会施設の部屋には大勢の輪ができた。聞くところによると、清水からすでによそに住民票を置いている人でも、自治会費を支払って付き合いを継続している家が何軒かあるという。したがって行事には人が集まるのである。午後の百万遍念仏に集まった人たちの口々から、あらためて過去の写真を見て歓声が上がっのは言うまでもない。

 よそへ出ていく人たちもいれば、平成2年以降によそから住み着いた人たちもいる。何より数年前より県宝の薬師堂を利用してヨガ教室が始められたといい、若い世代の人々によって他地区の人々を呼び込む催しが開かれるようになったという。この日も他地区から訪れてカゼノカミサマに参加される方がいた。子どもたちが何人も加わったのはそのせいもある。考えてみれば、人形を作って疫病神を送る、楽しいひと時に違いない。隣の谷の柏尾では、住民はほどんどいなくなったのに、同じ彼岸の中日の神送り行事に大勢の人が集まる。行われる行事は、疫病神を送るという、言ってみれば誰でも頼りたくなる行事。とりわけコロナ禍ですがるところがなかった時を経験した人々には、親しみのある行為に違いない。新たに始まっても不思議ではない行事である。もともとこの地域ではどこでもやっていたと思われる節もあり、今だからこそみなで神送りをすることへ意識は高まるのではないだろうか。

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清水のカゼノカミサマ 前編

2024-03-20 23:56:31 | 民俗学

 こと八日に行われる念仏については何度となく触れてきていて、さらに春の彼岸に行われる念仏も伊那谷はもちろん、東筑摩に分布するものについても触れた。妻の実家のある喬木村富田で行われる「こと念仏」は、かつて当番の家に村人が寄り、ふだんある部屋を区切る戸がはずされ、大きく放たれた部屋で念仏が行われた。そこには「奉唱大念佛百万遍」と大きく墨書きされた垂れ幕が下がっていた。この「百万遍」と冠する行事が、東筑摩一帯に現在も行われているが、旧明科町清水で行われる彼岸に行われる行事は、一般にはそのまま「百万遍」と称されているものと思い、ここでも紹介してきたわけだが、地元では「カゼノカミサマ」と言っているということを今になって知った次第である。

 平成2年の3月21日に訪れて以来、34年を経て清水の「カゼノカミサマ」を訪れた。行事の呼称を確認したところ、「百万遍」ではなく地元では「カゼノカミサマ」と呼んでいることを確認した。午前9時に光久寺に隣接した清水の集会施設に地域の人々が集まった。午前中は「人形作り」と聞いて、その作業を見たいと思いうかがった。もともとは集会施設ではなく、当番の家にそれぞれの家で作った藁人形を持ち寄って念仏が唱えられていたといい、現在の集会施設ができてから、集会施設に集まるようになったという。平成2年の際には、すでに集会施設で行っていたことから、そのころから当番の家に集まるのは辞めたようだ。その後もそれぞれの家で人形を作って持ち寄っていたようだが、昨年から集会施設で作るようになったという。もちろん全員ではなく、今まで通り家で作って持ち寄る人もいる。午前9時にうかがうと、既に部屋の中には1体の人形があり、地区の長老が作られたもののようで、人形作りも長老の意見を聞きながらという流れだった。

長老の作られた人形

 

一握りほどの藁を持って胴体を作る

 

上に出した藁はちょんまげにする

 

裃をつける

 

胴体が出来上がると、押し切りで足元を切って揃える

 

刀をつけ、腕を組ませる

 

顔を描く

 

出来上がった人形さまざま

 

藁の数珠を作る

 

人形を真ん中に置き、百万遍念仏

 

ムラ境へ

 

ムラ境に立つお地蔵さん、その向こうが人形を捨てる崖

 

みな声を掛けるわけでもなく、揃ってがけ下の様子をうかがう

 

人形を一斉に投げ捨てる

 

送られた人形

 

 人形そのものは家によって、あるいは人によって作り方は異なっていて、長老の作られた人形は胴体の下に脚が2本ついているスタイルで、背丈も高いものだった。いっぽうこの日作られた人形は、すべて足はつかず、胴体だけのものだった。平成2年の写真を見ても、脚のついているものもあれば、胴体だけのものもあり、当時から家ごとに異なる人形であったことがわかる。脚をつけると人形が立てづらいということもあり、単純で簡単なものとなれば、胴体だけのスタイルになるのだろう。長老の作られた立派な脚のついた人形は高さ69センチあり、いっぽう最も小さなものは高さ39センチほどのものだった。当然のことで、長老の作られたものは、脚だけで長さ32センチあった。その人形をどうやって立たせるかというと、必ずつけられる刀を三本目の脚として利用しており、ようは三脚風にして立たせているというわけで、この立て方は、会田川を少し遡った旧四賀村の倉掛法音寺と同様である。

 脚をつけなければ作りは単純で、慣れれば1体つくるにもそれほど時間はかからない。腕は縄を綯って胴体に通して前で手を繋ぐように輪にするが、男性は縄を綯い、女性や子どもたちは縄を三つ編みに編んでいた。どのように作らなければいけないという決まりがあるわけではなく、自由に作られるが、必ず侍を意図してちょんまげが付けられ、裃を藁で着せるように作られる。また前述したように刀も必ず付く。かつてなら桑棒を使って刀としたのだろうが、今はまっすぐなそれに代わる木が使われている。そして刀には大根で鍔が着く。かつては米を人形に持たしたというが、今はつけられない。最後に障子紙を切って頭の部分に巻き、顔が描かれる。それこそ子どもたちは自由気ままな顔を描いており、子どもたちにとっては最も楽しい時のようにもうかがえた。

 こうして午前中に人形が作られると、午後1時から念仏を唱えるための数珠を藁で綯い、百万遍となる。午前中にくらべると倍ほどに集まる人は多く、大勢で数珠を綯うからあっという間に藁の数珠は出来上がる。8畳間二部屋にわたる長い輪となった数珠を囲い、みなで左回しに念仏を唱えながら3周回すが、床の間のある側に大きく藁を房のように丸くした目印が来るようにして百万遍が始まる。藁の数珠はつなぎ目が多く、念仏が始まっても度々念仏が途絶える。ようはつなぎ目がほどけてしまうため、その度につなぐ際に中断するのである。とはいえ、3周回すのもあっと言うまで、百万遍もすぐに終わる。

 終わるとみなで集落境まで人形を抱えて行き、お地蔵さんのある場所の崖で会田川に向かって投げ捨てるのである。午後1時からの基本的な流れは、平成2年とまったく変わらない。帰ると集会施設で直会となる。

続く

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道祖神祭祀場所と自然石道祖神を結びつける

2024-03-13 23:36:05 | 民俗学

 先日「自然石道祖神数とサイノカミ」を記した。同様に自然石道祖神数と重ね合わせる図を探しているが、そもそも原典の違いが意図通りに表現できないということがわかってきた。それでも何とかしたい、というのが今の心持ちであるが、試行錯誤していくしかない。

図1 道祖神祭祀場所

 

 まず、自然石道祖神と、道祖神の祭祀場所に関連性はないか、と試みた。そこで『長野県史』の基礎データから道祖神の祭祀場所を分布図にしてみた。図1は記号をいろいろ選択しながら、どのような記号が表現上傾向が見えやすいかと試みたのだが、なかなかうまい具合にはいかず、このあたりがせいぜいだった。ようは分布に傾向が見えづらいデータということなのだろう。以前にも書いたことだが、長野県は高山があるためまんべんなく調査地点が分布するわけではない。どうしても谷の中、ようは川沿いに集落が分布する。したがって地図上には当たり前に空白地帯が現れてしまう。線引きしづらい地域と言っても良いのだろう。したがってその上で分布に明快な違いが現れるということは、それだけ地域性が表現された例と言えるわけだ。「自然石道祖神の祭祀場所」ではないため、自然石道祖神との関連性が示しづらいのは当たり前なのかもしれない。とりあえず、図2はその自然石道祖神の分布数の色分けをしたものを載せてみた。そこから特徴を見いだすのは難しいかもしれないが、あえていえば、ムラ境とかムラの入口といったところに道祖神が祀られている地域は、自然石道祖神が「多い地域」と無理やり当てはめることはできるのかもしれないが、「自然石道祖神数とサイノカミ」で触れたように、まだまだ修正が必要かもしれない。

図2 自然石道祖神数と道祖神祭祀場所

 

 繰り返すが原典が異なるため、次回は同じ『長野県史』の基礎データの中に示された自然石道祖神を図1と重ね合わせた試みをしてみようと思う。

続く

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新たな4月へ向けて

2024-03-12 23:17:31 | つぶやき

 先日「拭えないこの後の時代を憂い 前編」において「まさかの怒涛の3月を迎えた」と記した。確かに会計検査が入ったこともその理由だが、わたしにとっての最後の人事は、付録もついて初めてハローワークへ求人というモノを出した次第。

 長らく出先採用で働いていただいていた女性が、家庭の事情で辞められるという。本音はまだ働きたいと言うのだが、ご主人の依頼でご主人の仕事を手伝わなくてはならないという。今の部署に来てからわたしの事務部分を支えていただいたから、直接的には7年という付き合いだった。そもそもここへきて7年、それも長いのだか…。ちょうどわたしの定年に合わせるように辞められるから、「良かった」のかもしれない。新しいわたしの後任が、新しい人とともに始める、やりやすいかもしれない。

 今年の人事ではわたしのいる部署はわたしが代わるだけでほぼ出入りはない。あえて言えば、再雇用職員が昨年4月初めと比べると二人減って二人増えるから、そこだけである「変化」は。そのうちの一人がわたしだから、そしてもう一人も一昨年まで再雇用で働かれていたから、顔ぶれは変わらない。とは言うものの、怒涛の3月の背景には再雇用職員の入れ替えや、前述した出先採用の女性職員の求人といった、いつもはなかった心労(?)があった。この7年、ずっと悩まされ続けたのは再雇用職員の存在。人はそれほどいがみ合うという関係はない。ところが7年前から同じ部署に同い年の再雇用職員が配属された。再雇用職員は、基本的に地元に配属される。それでいて前歴は管理職。かつてならやりづらいという印象はあっただろうが、再雇用職員がこれほど当たり前となった今は、たとえ前歴が管理職であっても、お互いわきまえている部分もある。したがってわたしも「やりづらさ」は、当初はまったくなかった。ところがその二人が犬猿の仲、それも年を重ねるほどに、両者は口も利かなければ挨拶もしない。それだけなら良いが、性格がまったく正反対だから、それを理由に態度を露にしたりする。それほど人数が多い出先ではないので、周囲の人たちがやりづらいのは言うまでもない。それぞれに聞けば、それぞれが「悪い」という。この関係を解消するには、二人とも辞めてもらうしかないと考えていた。早期退職という看板があったため、65才までは仕方がなかったが、その年に達したのを契機に、翌年以降の採用は「しない」と引導を渡した。

 1か月ほど前の来年度人事(人員配置)が公表された際、「おまえのところは首を切ったのに、こっちには使えないやつが採用になって回された」という苦言をいただいた。ようはけして仕事ができなくて辞めていただくわけではないのに、いっぽう別の部署には天下りの再雇用が押し付けられて「まったく仕事ができない」という。人手不足だというのに、「なぜ首を切るんだ」と言うのである。とはいえ、わが社は再雇用であっても人員配置の際の勘定に入る。再雇用ばかり雇うと、若い人を外へ出さなくてはならなくなる。できれば地元出身の若者を地元で育てたいという思いが、わたしにはある。以前にも記してきたことだが、今は維持管理の時代。したがってお客さんの事情を理解するには、その地域で経験を積んだ方がお客さんのニーズに整合する。確かによその地域を知ることも必要だが、「地元」を意識してほしいと思う。そのためには、年寄りがその経験を摘んではならないし、そもそも年寄りはその知識を若い人たちに伝えていかなくてはならない。ということは、再雇用職員もその地元に精通した者でなくてはならない。人事理由で地元に長くおられなかった人もいるが、そうした人には遠慮してもらうしかない、と思う。

 この7年間、犬猿の仲の二人をどう扱うかで悩まされ、その間にはあえて再雇用職員を異動させるという策も講じたが、より一層わたしの悩みは増幅させられた。わたしがしなくてはならなかったことをわたしの在任中にできたことが、最後の大仕事だったと思う。故に怒涛の3月への誘いだったというわけであり、付録に女性求人という仕事が加わった。顔ぶれは変わらないが、穏やかな船出が4月から始められそうである。

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繰り返すが、「無法地帯」

2024-03-11 23:01:45 | ひとから学ぶ

 2022年1月に「無法地帯」を記した。現在もそ際に触れた小黒川パーキングを、朝毎日利用している。朝方はこのスマートインターを利用して降車する車が多い。県内のスマートインターの中でも、利用頻度の高いスマートインターといえる。その際に利用した図を、あらためてここで再利用する。

 「無法地帯」では、通常誘導通りに進めば青色ラインでインター出口に向かうなかで、利用頻度が高いため、インターで降りようとする車が繋がっていると、「停止線」で停止するため緑色ラインから来た車に道を譲ることになり、結果的に後続車が青色ラインから入ってきた車の前に出ることになることについて触れた。おそらく毎朝緑色ラインで通過して、そこで記した行為を行っている車がいるだろうことは、躊躇なくここから誘導ラインではなく、そのまま進んで緑色ラインで売店前を通過している車が見られることからも確実である。「事故に遭えば良いのに」とは言い過ぎかもしれないが、平気でこれをやる人がいるのには勘弁ならないところ。繰り返すが、青色ラインに車が繋がっていなくとも、「いつも通り」のように緑色ラインに入り、売店前を通過してインターゲートへ左折する車がいる。明らかに毎日、このルートで走っている証拠でもある。

 先日も、小黒川パーキングへ本線から分岐してパーキングにゆっくりと減速していくと、後ろから勢い接近してきた車がいた。ふつうに青色ラインに入ってゲートに向かうのなら、前に車がいるから急接近する必要などないが、すっと緑色ラインに進む。明らかにわたしの前を狙っていることがわかったので、「お先に行けば」と青色ライン上で急ぐこともなく停止線まで進んだ。もちろん停止線の前を緑色ラインから左折して、先にゲートへ入って行った。またまた繰り返すが、わたしの前に車はいなかったから、わたしが青色ラインでそれほど減速せずにいって、停止線で徐行せずに突っ切ればわたしの方が早かっただろうが、そこまでする人の前に、無理に出ようとすれば「何をされるかわからない」ので、そんな愚行には出なかった。停止線は「一旦停止」と路上にペイントされてはいるが、「止まれ」はないので、違反ではない。したがって「無法地帯」のパーキングやサービスエリア内では、高速道路本線上同様に、先行し者が優占とも言える。ようは青色ラインの方が距離は短いから、緑色ラインに入った方が、「必ず早い」というわけではない。こうした愚かな行為を日々実践している人たちに、「何と申しましょうか…」。

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自然石道祖神数とサイノカミ

2024-03-10 23:32:18 | 民俗学

 2月3日の長野県民俗の会第139回例会において、〝「道祖神の獅子舞」から見えてきたもの〟と題して民俗地図を利用して発表を行った(本日記にはアップしてないが、後日掲載予定)。発表の主旨は、正月を中心にして行われる獅子舞が、ほぼ道祖神とかかわりがあることに触れ、その分布域が山梨県から長野県の東信と南信の諏訪と上伊那、とりわけ伊那市地域にあることを示した上で、「道祖神の獅子舞限界線」を分布図に記載して、その分布域との関係性を自然石道祖神の分布域とトレースしながら示したものだった。

 当日の発表において、長野市戸隠でも道祖神の獅子舞が行われているという指摘を受け、さらにデータを地図上に加え、修正する必要性があることを認識したわけであるが、その修正作業はともかくとして、ここに別の図を示して、自然石道祖神の分布域を様々な視点で捉えてみようと思う。

 

 ここに示した図は、例会後に自然石道祖神の数を示す地図を作成し、その上に他の情報を載せる試みを行ったものである。もともと自然石道祖神の分布状況については、以前本日記でも掲載した例がある。その図は現在試みているQGISとは異なるエクセルバージョンであったが、今回はQGIS上で作成したため、重ね合わせが容易となる。長野県民俗の会第139回例会において示したサイノカミ祭祀場所を示した地図を自然石道祖神の分布域に重ね合わせた図が、今回示したものである。さらにここには未修正の道祖神の獅子舞限界線を載せてみたわけであるが、例会で指摘された長野市戸隠あたりにもサイノカミの自然石があること、またサイノカミの祭祀例が見られることは注目されることで、道祖神の獅子舞限界線を修正することで、自然石道祖神と道祖神の獅子舞分布域がかなり重なる姿が予想される。ただし、いっぽう道祖神の獅子舞が盛んな東信地域に自然石道祖神の分布が重ならないのは、そもそも道祖神数の原典である『長野県道祖神碑一覧』を作成する際に、東信地域のデータが網羅できなかったところに起因する。ようは東信地域には公刊の石造文化財報告書が乏しかったところにある。それらも含めて修正を加えれば、より一層分布域は重複してくるはず。

 その上でこの図を見て指摘しなければならないのは、サイノカミ祭祀例が地図に示されながら自然石道祖神が少ないエリア、ようは下伊那や木曽の存在である。この地域には自然石の代替となる祭祀物があったのか、それとも自然石道祖神の存在が忘れられてしまったのか、それらを解かないと、たとえこの図で自然石とサイノカミ、そして道祖神の獅子舞という異なった例を合わせ解いたとしても、主張は弱いものとなっしまうだろう。いずれにしても、この自然石道祖神の分布状況と異なった事例との重ね合わせから、何か読み取ろうという試みは、始まったばかりである。

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無形民俗文化財の違和感

2024-03-09 23:25:49 | 民俗学

 例えば松本市の場合を見てみよう。公益財団法人八十二文化財団の文化財検索より、無形民俗文化財の市指定物件の上位からいくつか紐解いてみる。

 「内田のササラ踊り」「奈川獅子」「古宿の祇園囃子」の三つは、どう見ても「芸能」である。そして「島立堀米の裸祭り」や「ぼんぼんと青山様」は明らかに「年中行事」であって、「内田のおんべ祭り」や「花見の御柱」「上波田の御柱」「横沢の御柱とスースー」といったオンバシラに関するものは、「信仰」とも「年中行事」とも言えるものだが、松本市では「年中行事」に統一されている。また、「年中行事」でも不思議ではないが、「神送り」と冠していることもあってコトヨウカあたりに行われる神送り行事は「信仰」として括られている。そして明らかに「信仰」とも言える「御柱祭」に関するものは、もちろん「信仰」に分別されている。「信仰」なのか「年中行事」なのか、というあたりの判別は難しい選択であり、どちらもあり、という印象は拭えず、その分別はけして間違いではないといえる。

 ところがここで例とした松本市以外の市町村単位の無形民俗文化財の指定物件を紐解いてみよう。例えば伊那市である。「諏訪形の御柱祭と騎馬行列」は、そもそも混在した名称であるとすぐにわかる。御柱祭は松本市でも示した通り、どうみても「信仰」である。ところが「騎馬行列」は信仰ではない。両者を括って指定するため分別しづらくなるわけで、実際は「信仰」としている。しかし後者は明らかに「芸能」にあたる。また「青島の千社参り」は年中行事に分別されているが、主旨から捉えると「信仰」だろう。そもそも指定物件が少ないので、伊那市においてはこの程度とするが、市町村指定物件には、このように違和感のある分別が目立つ。例えば駒ヶ根市のそれを見ると「大御食神社獅子練り」「大宮五十鈴神社獅子練り」といった獅子練りがいずれも「信仰」とされている。迷うことなく「芸能」である。さらに「大宮五十鈴神社三国一煙火」が「信仰」とされており、同じように「信仰」と分別されているものに清内路(阿智村)の「清内路村の手造り花火」があるが、これは県指定である。花火は「信仰」なのかと問われると、やはり納得できるものではない。信仰色がないわけではないが、「娯楽」性が強い。

 実は市町村ごとにばらつきが見られるが、県にも国にも?が付きそうな分別は見られる。例えば「安曇平のお船祭り」として国の選択無形民俗文化財に選択されているものも「年中行事」らしい。風流の祭りとして捉えれば「芸能」であり、「信仰」色も見られる。したがって「年中行事」には違和感がある。

 あくまでも公益財団法人八十二文化財団の文化財検索に示されている分野別から捉えたもので、実際の指定がどのような内容なのか詳細に調べたわけではない。とはいえ、市町村単位となると、それぞれによって指定要件が異なるとともに、こうした指定は指定時の関係者の思惑に偏る傾向があるのは否めない。加えてどれほど有識者と言われる人々にその知識があるか、が問われる。

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拭えないこの後の時代を憂い 後編

2024-03-08 23:05:23 | ひとから学ぶ

拭えないこの後の時代を憂い 前編より

 それにしても、わが社の会計検査へのかかわり方は、わたしが生業に着いた半世紀近く前と何も変わっていない。お客さんとの関係から、どれほど手間をかけても、これに対する報酬はない。前編でも記したように、約2週間ほど、出先の要員の半数以上がこれに終始した。したがって通常の業務は止まったままだから、当然のことこの年度末の忙しさがさらに忙しくなる。民間の意識であれば、赤字になることに時間をかけるはずもない。

 かつてなら該当物件にかかわった皆が物件に間違いがないように見直し、そして掃除をしたり、周辺整備をするというのは当たり前だった。ところが今はコンプライアンスがものを言う。発注側と受注側が対等であるならば、できあがったものへの発注側への検査に、受注側が関わることはあり得ない。ようは昔のような関係者全員での準備は過去の話なのである。ところがいまだにわが社のかかわり方に変化はない。いったいわが社とは「何者なのか」と、知らない人々には映るだろう。今回も竣工書類に関してデータを依頼したところ、受注者側の社長は「なぜ必要なのか」と担当者に注意したという。既に受注側が納めた物件に対して「会計検査だから」といって手を貸す必要など「ない」というわけだ。受注側は、発注側の意図通りにモノを納め、検査して納めたもの。いまさらそこに手間(費用)を要す必要が無いのは、ごく当たり前な意見だろう。ようはかつてのような役所と業者の関係はそこにない。これもまた当たり前のことと言えるが、それほど世の中は変わっている。かつての慣れあいのようなものはまったくなく、対等といえばその通りで、文句のつけようもない。しかし、それほど割り切られた社会で、地方の自治は成りたつのか、と問われると、わたしは疑問である。

 今や勤務時間に対しての統制も厳しい。たとえ建設会社であっても、残業がたやすくできる時代ではなくなった。正当なルールに沿って雇用関係が築かれる。おそらくわたしにはまだ見えていないが、農業の分野でもいわゆる法人のような空間ではそれが当たり前になっているのかもしれない。個人農家が、いまだに農作業時間に制限が無いのとは、まったく異なるのである。したがって会社組織においては、環境は様変わりしてきている。いっぽうでわが社はどうかといえば、確かにかつてに比べれば改善されてきているが、世間のしわ寄せが「ここにきている」と言っても差し支えないほど、昔と変わらない。結局すべてのコンプライアンスが正統化されれば、この社会は動作不能となる。なぜならば、カバーできない世界が必ずあるし、人手不足は一層それを顕在化させる。伸縮性のない社会、あるいは応用力のない社会へと進み、それを受け止める人々がいなくなった時、社会の崩壊、あるいは破裂が見えてくるのではないかと危惧するのがわたしのひとり言であって欲しいと、願うだけである。

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拭えないこの後の時代を憂い 前編

2024-03-07 23:48:27 | ひとから学ぶ

 空白は長らく続いた。そうこうしているうちに、わたしも生業の一線を退く日が近づいた。定年ともなれば、その末期はゆっくりと生業の一生を振り返る時間が欲しいところだが、まったくそのような余裕がなかった。これまでにも何度か記してきたが、年々余裕がなくなり、まさかの怒涛の3月を迎えた。まだ3月も半月以上あるが、昔のような定年の迎え方は、わたしには少なくともない。とはいえ、ここに記すことができるようになっただけ、ほんの少しではあるがかすかな隙間が見えてきたということになるだろうか。

 今週はこれまでにも度々キーワードとして登場した「会計検査」があった。このキーワードで検索すると、この日記にも何度となく記事が現れる。そして改めて過去に記した記事を読んでみると、つくづく「なるほど」と思わせるものを書いていたことを知り、かつての自分の捉え方に感嘆したりする。例えば2017年に記した「希にみるピンチ」である。会計検査を迎えるにあたってのこころの揺れが見て取れる。その上で、

いまだ実際に会計検査を迎えるにあたって、当時と同じような課題は残る。それは一過性の出来ごとであることにも起因する。台風のようなもので過ぎてしまえば忘れてしまう。しかし、あらためて過去のものを紐解いたとき、自ら担当したものならいざしらず、人の携わったものは理解するのに時間がかかる。だからこそ伝達すべきことは文書で残す必要があるし、記憶に留める必要がある。ところが我が社は多くの人材を人員整理で失った。今もってその余波はあって、すでに社にいない者の手がけたものが該当すると、もはや目も当てられない。教訓を目覚めさせてくれる機会でもあるのだから、それに学ばない手はない。

と記した。今もってその流れは変わらず、「嫌なもの」だから過ぎてしまえば「忘れたい」とみな思う。検査そのものは月曜日から金曜日まであるが、実質的には木曜日までの4日間が勝負。その間1日済むごとに解放される人々がいる。当日を迎えるまではピリピリと情報を得ようとするのに、終わった途端にすべて捨てる。情報すら他部署に流さない。いってみれば「自分さえ良ければ」という雰囲気はあからさまだ。そして今回ほど部署間の情報共有がなかった検査はなかった。理由は様々だが、統率すべき本社の対応のまずさは特筆できる。とりわけ今回の検査では、わが社の関わる物件が数多かった。例えばわたしの管轄エリアでは、8割以上がわが社が関わったもの。これほどの確率で該当する例は今までなかったと記憶するほど。そういえば「繰り返し、「疑問に思う」」に「思い出すのは10年以上前のこと、…」と記した会計検査の際も、わが社の関係物件が多かった記憶に残る検査だったかもしれない。いずれにしても、一人複数地区を担わなくてはならないほどの物件数で、該当地区の発表以後約2週間、ほかの仕事はストップしてそのための準備に当たった。「問題を発しない」が合言葉であり、無事に何事もなく終えられることを描く。そのためには準備に完璧は無いから、無限大の準備が続けられる。そしてその対応は、これまで日記に記してきた通り。例えば「やられたら「やり返す」」に記したように。

続く

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「Uターンto農」

2024-02-24 23:36:26 | 民俗学

 長野県民俗の会総会があった。これまで11月に実施されていた総会が、今年から2月へ実施時期をずらした。理由はわたしが事務局をしていた際に会計年度をそれまで1月から12月だったものを、3か月ずらして4月から3月に変更したことに起因する。それから5年ほど、総会では前年度の決算と、当年度の中間報告のような形で報告していて、とても分かりづらい会計報告が続いていた。そもそも収支はどうなのか、と捉えようとしても「よくわからない」というのが正直なところで、報告する方も報告を聞いている方も紛らわしくて仕方なかったというわけだ。したがって会計報告を総会時に間違えることも多く、なんとも無駄な時間を要していたようにも思う。ということで、今年から総会を年度末にして、さらに会計年度と事業年度を2か月ずらした形で今後は進めていくことが了承された。これによって、当年度の決算だけ報告するというスタイルになって、来年度からは、わかりやすくなると予定だ。

 さて、今年の総会での講演では、МGプレスの記者をされている村上研志さんの話をうかがった。МGプレスは、信濃毎日新聞松本本社が発行するフリーペーパーを発行している会社。毎週火曜日から土曜日まで毎日、週5回同紙に折り込まれるという。したがって南信に住んでいるわたしにはなじみもなく、記事に接することもなかった。2018年に創刊したものというから、創刊して6年ほどの新聞。村上さんは2021年にそれまで勤めていた全国紙の記者を辞めて、Uターンして自家の農業を継ぎながら記者をされている。ようは兼業農家というわけである。40代半でUターンした理由は、父から教われるうちに帰って農業を、というよりは家を継ぐという意志があったからという。我が家の周囲でその年齢で生家に帰って家を継ぐという例をほとんど聞かない。それでも専業農家がいくらか残る地帯なので、同年代にまったくいないことはない。とはいえ、今の農業を取り巻く環境は年々変化していて、わたしより10歳以上若い世代には珍しい話。何より「農業」というよりは「家」を継ごうとしてUターンされたというから、もともとそういう意志があったということなのだろう。とはいえ、耕作されている面積は1ヘクタール余という。水田より畑が多いと言われ、野菜が出荷額を占めているよう。しかし、専業で生計が立つレベルではない。したがって兼業となるわけであるが、住まわれている塩尻市片丘という環境がどのような立地なのか、というあたりが関わってくるようにもうかがった。村上さんが言うには、周囲にはそういう農家が多く、それでも兼業で農業を担われている家が多いよう。

 「家」を継ぐつもりでUターンしたわけだが、もちろん「農業」を継がれている。そうしたUターンをして、農業をして気がついたことを中心にМGプレスに連載されている「Uターンto農」の記事から話をされた。それまで全国紙の、それもスポーツ系の記事を担当されて20年ほどと言われるから、長野県出身言っても、まったく違った世界で活動されていた。もちろん帰省すれば農業を手伝うことはあったというが、終の棲家として生家を継いでからの体験は、それまでとはまったく異なっただろう。そうし中で捉えた「農」の世界の話題が書かれている。そうした記事の中からいくつ紹介されたわけであるが、最も気になったのは「Uターンto農」の初回である。記事はすでに120回を越えているわけであるが、この初回の記事は、その後の村上さんの根底にあるように思えてならない。冒頭は「少し怖じ気づいている」と始まるその冒頭に書かれている内容は、ようは農業をする、そして長野県に住む、そうした覚悟はありますか、と度々問われることへのある意味「Uターン」なのだ。おそらく村上さんの場合はUターンだから問われるのも優しいかもしれないが、Iターンのような人になら、もっとその問いはきついに違いない。そもそも「農業をしよう、継ごう」と思っているひとに対して、こういう問いが当たり前にあるとしたら、農業者が増えるはずもない。もちろん仕事とは簡単なものではなく、起業するすべての人たちに共通する問かもしれないが、とりわけ農業に対して、周囲が厳しい質問をするのが、村上さんの記事からうかがえる。県の新規就農を支援する公式サイトに「「長野県で農業を始めてみませんか」と誘いつつ、冷静な自己判断も促す。それがやけに現実を突きつける口ぶりなのだ」という。結局誘いはするものの、現実に立ち返ると続かない人が多いということなのだろう。「「記者兼農家」の率直な思いを毎週、伝えていきたい」と連載は始まった。もともと新聞記者をされていたから、眼のつけどころは多様で、それでいて自らの農業を問いながら記事が構成されているようにもうかがえる。

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今年も“ホンヤリ”

2024-01-07 23:40:24 | つぶやき

出来上がった“オンベ”

 

点火は厄年の人が

 

燃え上がるホンヤリ

 

 今年も公民館の役員だったことから、どんど焼き、いわゆるこの辺りでは「ホンヤリ」という松焼き行事にかかわった。ここに住み始めたころは、子どもたちの親、ようはPTĄが主体になって行事の詳細を決めて、実行していた。子どもたちの減少というどこでも当たり前に起きている現象によって、子どものいる家庭が減少して「人手不足」というわけで、公民館が手伝うようになった。人によっては「なぜ公民館が」と疑問を呈す人もいて、事実今回行った公民館活動のアンケートにも同様の疑問を書き込む方たちがいた。とはいえ、PTĄが「やーめた」と言えば、結局担うのは公民館か自治会しかない。有志で、という方法もあるが、形として受ける団体があれば、確実に毎年実施してくれる。さもなければ「今年はあるのか」と不安にもなるわけで、やはり、確実に実施してくれる団体があるから、安心して松飾りもできるだろえう。松を降ろしたあとに松焼の行事が「あるのか、ないのか」状態では、正月も迎えづらいというもの。もちろんかつてのような立派な松飾りをしなくなった現代においては、そう困る人もいないのかもしれないが、そうはいっても安心感が異なる。そういう意味でも、実施してくれる団体があることの前提は大きいというわけである。どんど焼きは、いわゆる神送りの行事でもある。迎えた神をおくるためには、不可欠な行事である以上、誰かが担っていく必要性がある行事でもある。繰り返すがその担い手がはっきりしていることが行事の前提でもあると、わたしに限らず人々は考えていないだろうか。正月飾りが消滅しない限り、求められる行為だと思う。

 

 さて、このあたりではずいぶん以前から小正月より1週間も早いころにこの松焼き行事が行われるようになった。なぜなのか正確なところは知らないが、子どもたちの「学校が休みのうちに」という意識があったのかもしれない。しかし、この流れは他地域にも広がり、小正月に松を焼くという時間的意識は薄らいでしまった。もちろんその最たる要因は、小正月の行事の衰退でもあり、成人式が1月15日ではなくなったというところにも理由はある。「暦の上で」という言葉をよく聞くわけだが、毎年祭日が移動するような行事は、「暦の上で」という言い回しはできず、結果的に祝日の意図を失わせていく。まぎれもない事実である。

 

 さて、コロナ禍を経て、4年ぶりに公開のホンヤリとなった。コロナ禍は役員だけで実施するから、ほかの方たちには自粛であった。焼いてもらいたい松飾りは、それぞれが持ち寄るというスタイルで、役員は集まった飾りだけで円錐状に盛り上げて火をつけた。ところが今年は増量材をヤマから持ち出し、心棒に最初に寄せ集めた。したがってその周囲に松飾りを寄せていったので、コロナ禍より太いホンヤリになったと思う。この盛り上げた櫓のことを主催したPTĄの代表は、「オンベ」と称した。ということは櫓がホンヤリというわけではない。そもそもホンヤリの語源はどこにあるのか、となる。

 

 午前8時に始めた準備は1時間もかからずに形になった。そして1時間後の午前10時にホンヤリへの点火となった。火をつけるのは厄年の人たち。厄を祓うという意図もホンヤリにはある。昨年同様に快晴のもとホンヤリは実施された。しだいに風が強くなったが、増量材のせいか、燃え尽きるのが早かった。みな持ち寄った餅を焼いて、自宅へもって帰って行った。もちろんこの餅は無病息災の意図がある。

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昭和の「甲子」塔建立の事例 後編

2024-01-05 23:57:48 | 民俗学

昭和の「甲子」塔建立の事例 前編より

 実は『伊那路』(上伊那郷土研究会)の昭和59年6月号へ、長瀬康明氏が「甲子塔建立盛んな高遠町」と題した報告をしている。その冒頭は、まさに山室新井の甲子塔建立に関する記述である。

 さあ―新井衆のみな様方よ、おねがいだ―。ヨイショ―、力強く年男の掛けるきやりに合わせて、新井地区全住民が引く甲子塔。二月五日は、三義新井地区の大黒天を祭る甲子祭りである。
 今年は厳寒のうえ雪も多く、役員は前日から沿道の雪をかき、凍らないようにと藁をひきつめ総出で準備万端整える苦労があって、甲子塔は全地区を引かれて行く。途中ところどころ酒を飲み気合を入れては引いて行く、まさに六十年に一度の甲子大祭日である。
 この日に備え新井地区では昨年より一戸平均三千円を月掛けし、約三十万円の費用を貯えた。時の総代北原日出古氏は、子供の頃、大正十三年甲子塔建立祭を体験しており、六十年前を忍び是が非でも前回と同じような祭りにしたいものと企画し、全地区民もこれに賛同し、全地区上げて甲子塔祭りとなったのである。
 大正十三年には原誠総代が宮沢川から適当な石材を採集しており今回も同様に山室川の支流である宮沢川から是非採集しようと、北原総代は豪雨災害で荒れた河原を飛びまわり、やっと前回より、やや大き目の石材を見つけた。集会所に据え三義山室遠照寺住職の墨痕鮮かな〝甲子〟を、美篶大島石材に依頼し彫りつけ高さ一二〇センチメートル、幅八五センチメートル土台付きと、前回よりやや大き目の自然石塔に仕上げた。
 実行委員長は塔を引く修羅材を三義中さがし求め、個人所有の欅の二又枝を快よくゆづり受けることに成功した。委員は二又の枝を切り先にワイヤの輪を取り付け、胴部となる枝に三本のわたしを打ち付け修羅を作った。この修羅に甲子塔をのせ引きだしたわけである。甲子塔を引く子供らもまた六十年後には同じように甲子塔祭りを挙行するであろう。高遠三義地区には七地区あるが、各地区とも同じような甲子塔を建立し祭りを挙行している。

というものである。このあと、高遠町他地区の建立の様子を綴っている。ここに記されているように、記録簿の2月2日に「甲子塔台石の雪かき及台石の穴の氷をお湯でとかす。」と記されている。2日後の建立前日である2月4日には、委員の奥さんたちが寄って「紅白餅」を搗いている。建立当日の記録には、正午集合の後、

出発 12時20分
到着  1時20分
建立終了 1時40分
お経(除幕式) 1時50分~2時
記念写真撮影 2時30分終了
祝賀会 於集会所

と記されている。当日付けの決算書によれば、収入は各戸2千円ずつ32戸を7か月積んでおり、預金利息と合わせると45万円ほどとなる。翌日片づけを行い、1か月後の3月7日に最後の建設委員会が開催され、決算を行って一切を終了している。

 昭和59年6月の『伊那路』は、「甲子特集」であった。郡内各地の甲子塔建立が報告されている。当時会長であった荻原貞利氏は、郡内の昭和59年甲子年に建立された石塔の概要をまとめており、総数は121基にのぼる。長瀬氏のタイトルにもあるように、確かに高遠町の建立数は多く、その内23基を占める。伊那南部には造塔数は少なく、高遠町から旧伊那市、いわゆる上伊那中部に造塔が盛んであったことがわかる。

 長瀬氏が記しているような「甲子塔を引く子供らもまた六十年後には同じように甲子塔祭りを挙行するであろう」となるのかどうか、2044年といえば、ちょうど20年後。わたしにはそれを確認できないかもしれないが、もし生存していたら注目したい。

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昭和の「甲子」塔建立の事例 前編

2024-01-04 23:08:53 | 民俗学

 獅子舞に訪れた山室新井において、集会施設の鴨居にノートが挟んであったので、見せていただいた。横に額に入れて飾られていた「甲子塔」の建立経過を記した「記録簿」である。ノートの表紙には「昭和59年3月5日建立」と記されている。いわゆる甲子年に合わせて行われた建碑の記録である。上伊那郡内ではおびただしく「庚申」塔が建てられたことはよく知られている。1980年である昭和55年がその年であったわけで、60年後は2040年に当たり、そう遠くないうちにその年を迎えることになり、次の「庚申」年ではどのようになるのか、興味深い点であることは、この日記でも触れてきたところ。その4年後がここでいう「甲子」年である。庚申塔の建立がおびただしかったこともあり、上伊那郡内では庚申塔ほどではないが、同様に甲子塔も多く建立された。

 山室を訪れて気がつくのは、「甲子」と刻まれた石碑が目立つことだ。とくに川辺集落の道端に5基ほどの石碑が並んでいて。すべて「甲子」であったのには驚いた。庚申塔が混ざったりすることはよく見かけるが、並んでいるすべての石碑が甲子塔という例はなかなかのもの。新井で昭和59年に建てられた「甲子」は遠照寺駐車場の前の道端にいくつもの石碑とともに立っている。新井と久保の集落境にあたる。

 まず―記録簿の一行目には「甲子塔建設委員会記録」と記され、昭和58年6月19日から始まる。この日は新井組の集会があって、そこで建設委員が選出されている。当時は組内に五つの班があったようで、それぞれから委員1名が選出され、その中から委員長や会計といった役が互選されている。また予算としてこの集会で256千円ほどを予定し、そのために各戸積立を行うことも決定されている。その予算計画によると、当時は32戸組内にあったと推定される。現在はその半分まで戸数は減少している。石材については地元で産出される石を利用するとしており、建設委員会において候補の石材を見定めに行くことを決めている。

 同年11月27日の新井組集会に提出された「甲子塔建設について(案)」によると、12月に台石を据えるとともに遠照寺に揮毫を依頼、年を明けて石碑を曳きまわす「そり」材の採取と製作を予定している。そして予算書とともに組内での承認をもらっている。

 昭和59年1月31日付けで甲子塔建設委員会から発せられた「新井組各位」への知らせには次のように記されている。

 

新井組 甲子塔建設について

 組集会にて、ご決議いただいたので、ご承知のことと思いますが、甲子塔建設について、下記要領により実施致しますので、お年寄りの方、成人の方、子供の方、男も女も 新居組中の方々が全員集まっていただき60年に1回の大事業を盛大に挙行できますようご協力ください。

1.日  時  2月5日(日)正午
⒉.集合場所  新井組集会所
3.実施要項  
     ⑴ 引き出し始め 12時20分
     ⑵ 建設場所    1時30分
     ⑶ 塔建設完了   2時
     ⑷ 除幕式     2時より
     ⑸ 祝賀式     3時より 於集会所

 

続く

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高遠町山室宮原の獅子舞

2024-01-03 23:47:52 | 民俗学

宮原の獅子舞

 

宮原組の家々

 

 元旦に舞われた山室の獅子舞のもう一つ、宮原の獅子舞について触れる。

 午後2時から行われた獅子舞は、やはり宮原の集会施設で行われた。ここでは舞は集会施設のみである。新井へ移住された方の原点でもあったという宮原は、移住者の受け入れをされている方がいらっしゃる。里親の活動をされている方もいて、この日もそうした活動をされている方たちが獅子舞の継承を支援されている。これまでの2か所は移住者も一緒に、という形であったが、宮原は獅子舞そのものを移住された方たちが担っているというケース。途絶えていた獅子舞を復活されたのも移住された方たち。過去の映像と、お年寄りに意見を聞きながら再興したもので、「昔の本当の姿なのかはわからない」というのが本音のよう。何より元旦に見た獅子舞は、頭だけは男性が担われたが、幌持ちはもちろん、笛や太鼓も、すべて女性である。こういう継承の姿があるのだと、教えられた。これほど女性中心という獅子舞は、なかなか例を見ないだろう。

 採譜されており、これも移住された方たちが起こされたもののよう。そこには4つの舞とされている。まず、「序舞」と記されているが、獅子は何も持たずに左回りするものを言うのか。次いで「本番の舞」である。

身は三尺のおのさーも-て-
悪魔をお祓う それからやれ-
太平楽よ-と 新たま-るね-

これわいね-
お家 ご繁盛の神楽を舞いますとね-
弁当箱憎いが 中の身は可愛と-ね-

伊勢の国でえ-は-
神楽を舞いますとね-
牛の角へ蜂が刺しても
痛くも痒くもなんともないと-ね-

といった語りが入る。

 次は「さらばァ-の舞」と記されている。

さらば- さらば-の
暇乞いね-

「お先はなんと」
「猩々、悪魔っぱらい」
「中は、なかっぱらい」
「後は親父の借金払い」

この最後の問答は新井のものとよく似ている。

最後に「テレンコ」という曲があるが、どこからなのか確認できなかった。改めて後日確認したい。

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高遠町山室新井の獅子舞

2024-01-02 23:12:09 | 民俗学

山室神社拝殿の舞

 

戸ごと舞

 

「新井組獅子舞」の法被

 

 伊那市高遠町山室に伝わっている獅子舞について触れているが、昨日は那木沢の北隣の宮原にも足を運んだ。宮原については明日触れることとし、今日は那木沢の南、久保集落の南隣になる新井の獅子舞について触れる。新井は現在15戸ほどと、那木沢とほぼ同じ戸数。しかし、家屋の数は明らかに那木沢より多いから、無住の家があるということになる。新井には道祖神が2体あり、一つは集会施設の脇に建てられたもの、もう一つは同じ県道沿いで、久保との境に近い所に建てられている。しかし、新井では道祖神と獅子舞との関係は現在の姿からは全く見られない。戸ごとに獅子舞が舞われているが、その際に道祖神のところで舞うということもなかったようだ。もちろんその関係性をうかがうコメントも現在は聞かれない。

 午前9時に山室神社で舞ってから戸ごとの舞になると言うので、山室神社に向かった。神社で最初に舞うことから、道具が神社に納めてあるかと思ったらそうではなく、道具は集会施設に納められているという。関係者が集まるまで神社の庭では焚火がされ、そこでお神酒をいただいてから獅子舞となる。拝殿の中で舞われる獅子舞は、厳かな雰囲気があるものの、関係者以外のいわゆる見学者はほぼいない。ここでも移住されて10年ほどの方が舞のあと持ちをされていて、継承に力を添えておられる。さらにその方の奥様は笛も吹かれる。那木沢同様に移住者の存在は大きい。コロナ禍前は戸ごと舞われていたというが、今年は依頼された家のみ回るということで、民家2戸とお寺さんの3軒だった。なお、お寺さんは新井ではなく久保集落にある。那木沢でも聞いた話であるが、かつて戸ごと舞をされていた際には、お寺にも行ったと聞いた。繰り返すが那木沢から新井までの集落はそう遠くなく、かつては久保には店もあったため、そうしたところにも舞に行ったという。

 今年は普段着で舞われていたが、本来は法被を着用するという。その法被を最後に舞う集会施設で見せていただいた。「新井組獅子舞」と染められており、背には「新井」の文字が入る。舞は三段組になっていて、それぞれに舞の名があるか聞いたが「教わっていない」という。『高遠町誌』にこのことについて触れられており、始まりを「無縫の舞」と言うらしく、正面を向いて何も持たずに一舞(腕を広げ左、右、左と振る)、三歩前進して一舞、左に曲がって一舞、さらに左に曲がって前進し一舞、また左に曲がって正面を向いて一舞、と四節から構成される。次いで、「剣の舞」となり、後持ちより左手に刀が渡され、「身は三尺の剣を抜いて悪魔を祓うとね-」という語りが始まると、語り通り刀を鞘から抜いて、右手に持って広げた後、立てたまま刀を左右に3回動かし、笛が吹かれると同時に刀を横にして左手で添えて左右に動かしながら上下に3回揺らす。この際「氏子繁昌と舞いまする」と語りがあると、前進し同じように左右に動かしながら上下に3回揺らす。また「神もなぐさむ ひとやすみ」の語りがあると前進し、繰り返す。そして「ところ繁昌と舞いまする」の語りで、刀を立てて振りながら元の位置に後ずさりして戻る。そして刀を立てたままくるくると回して刀を右へ祓うと、前進しながら同じように刀を祓いこれを「無縫の舞」同様に四節舞うと刀を降ろす。次いで、「祓いの舞」である。後持ちが幌を高く上げて広げるのだが、一人では大きく広げられないため、幌の中に人が数人加わる。加わる人は戸ごと舞では、訪れた家の者も参加する。あたかもこうして参加することでご利益があるいう意図がうかがえる。この舞では頭をカタカタと音を立てながら激しく左右に振るもので、その際問答がある。

問「お先は何と」
答「勿体なくも伊勢神宮」(最初のところは早口でよく聞こえないが『高遠町誌』には「勿体なくも」とある)
問「中は」
答「中富祓い」
問「後は」
答「ショージョウ 悪魔祓い」

 三段組の舞一舞で5分ほどのもの。とりわけ最後の「祓いの舞」に、子どもたちが加わって賑やかに舞うのが、新井の特徴である。

 

 なお、この日の獅子舞の様子もYouTubeで公開されている。遠照寺でのものである。

R60102新井獅子舞い

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