Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

仕事始め

2024-04-24 23:10:04 | 農村環境

令和6年4月20日撮影

 

 わたしにとって、先週は仕事始めのようなものだった。平日の木曜日に田を起こし、その続きを土曜日に行った。もう少し早く起こしたかったのだが、毎年、おおむね山菜が出始めると仕事始めである。写真のように、ちょっとセピア色っぽい世界。でも、これは秋色ではない。まぎれもなく春の色。桜が咲いているから当然ではあるが、芽吹きの前の色は、こんな感じなのである。ため池の土手から見る下流域の景色は、今や荒れ放題の田んぼばかり。ここに写る手前の数枚は、今も耕作されるが、その向こう、やはりわたし同様に、この日田を起こしているトラクターの姿までの間は、耕作しなくなってから長い。ということで、手前の田んぼは山裾で、最も山側に位置する田んぼ。したがって獣がやってくるから被害を被る。我が家の田んぼはこの洞の中から一段上がった左手にあるのだが、その田んぼも、耕作しなくなってから長い。しなくなった理由は過去の日記にも触れているが、災害によって土手が崩れて、復旧したものの石だらけ、凸凹だらけ(いずれも工事のせいで)で、さらには水を貯めるとまた土手が崩れそうだったこともあって、躊躇しているうちに時を経てしまったというところ。それ以外にも水利上、周辺関係者といろいろあって、耕作しづらい場所がさらに耕作放棄を助長している。周辺の年寄りがこの世からいなくなったら、また耕作しよう、とも考えている。

 ということで、この周辺には耕作放棄された土地が耕作されている土地より多い。山の中だから仕方ないかもしれないが、理由の最たるところは、未整備のため不正形、そして水利の問題、というわけである。ため池の利用者も減っているが、それでも草刈管理などされているだけましな方である。

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空白に見る「その時」

2024-04-23 23:42:10 | つぶやき

 この1年間の日記を見れば、惨憺たる状態であることは一目瞭然である。長く毎日記していた日記が途絶えるようになって、そして、この1年はほぼ空白だらけ。実はこれってけっこうわたし的には問題を孕む。「日記とはこういうもの」と、あらためて認識させられることに…。

 令和5年度を「この1年」とすれば、このような空白は前年の令和4年にも見られ、「いつからこうなんだろう」と遡ると、令和2年(2020年)の3月末からのことである。当時盛んに訪れていたのは富士見町。その際連載していた「富士見町の道祖神」が、空白の日が現れるころに中途で止まっている。継続して書き残す予定で、書けなかった「道祖神」を空白の日に充てていた。ようは後日書こうとしてあえて空白にしておいて、そのままになって今に至る。長い日記の記録の中で、ここから始まった空白の連続なのである。ようは「後で書こう」と思って空白を作ったら、惰性で空白だらけになって、それが令和5年の1年に繋がった。確かに令和2年は、4月は全ての日が埋まっている。しかし、5月に入ると再び空白が…。全て生業と絡んでいる。結局自宅に帰っても仕事のことが頭から離れず、その上で実際のところ業務が滞って空白が見られる時期は「きつかった」ということが察せられる。ところが令和5年のように空白だらけになると、そうした状況すら察することができない。「いったいこのころは何をしていたのか」と。

 令和2年6月からはしばらく空白はない。再び空白が現れるのは10月。これも何故かわかる。やはり仕事が絡んでいる。11月まで何日か空白が見られ、12月はなんとか空白を出すことはなかった。次に空白が現れるのは令和3年の2月。まだ空白は「点々」と存在するに留まるが、いよいよ空白だらけになるのは3月だ。初めて日記を記した日が半月を下回った。それから8月までは持ち直して空白は「点々」状態だが、秋になると空白が多くなる。その後復活して12月から令和4年の10月までは空白は全くない。ところが例によって仕事が滞るころに空白日が始まる。令和4年の11月である。そしてもはや「死んだのでは」と思うほど空白が続くようになるのが、令和5年7月から。もはや日記を開くこともなくなっている。

 ということで、この1年間、生きていたから残すべく記録はある。ところが検索しても引っかからない。ようは日記とはいえ、日々の記録というより、大きな出来事について何回かに分けて記しているこの日記は、例えば原稿にしようとする時に参照している。ほかにも、本日記を書く際にも過去に訪れた場所のデータを紐解くことも多い。「検索」すればキーワードで紐解けるから、手書きの日記とは違う。「去年あそこに行った」という記憶で検索すれば紐解けたのに、この1年は全くデータがない。これが大きいのである。できれば自分にとって大きな話題は残しておきたい。今からでもなんとかしたいという気持ちはあるが、とりあえず、現在を書き残すのが精いっぱいである。「来年からは」と人には口にしていたが、そうたやすくないことも4月に入ってから実感していて、既に1か月を過ぎようとしている。決めていたことだから4月はここまで空白はないが、せめて令和4年以前のように、空白からもその時のこころもちが察せられるような日記には留めたいものである。

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郷土史誌の悩み

2024-04-22 23:01:46 | 信州・信濃・長野県

 先日『信濃』(信濃史学会)の最新号が届いた。「薄い」というのが手にとっての印象。編集後記の後に編集委員会からの「四月号からの会誌の編集について」という会告が掲載されていた。冒頭「本会は会誌の月刊発行に大きな努力を傾けてきており、それは今後も変更しない方針でいます」という。裏を返せば、財政的に大変で、そうしたなかでは月刊誌を辞めてもよいのでは、という意見があったのかもしれない。以前にも触れてきていることだが、長野県内には月間の郷土史誌研究の雑誌が3団体から発行されている。そもそも全国を見渡しても月刊誌はそのくらい。長く続けられてきた背景にはいろいろあるだろうが、もともとこうした分野は教員が主たる構成員だった。しかし、今の教員にそうした意欲は薄い。わたし的には「忙しい」は理由にならない。そもそも全国的にもそうなのだろうが、こうした分野への興味は薄らいでいるよう。会員減少による財政難は、こと郷土史誌に限らない。多様化した人々のニーズは、分散化して、さらには活字から解放されて、今や印刷物は「不要」という人が多い。若者は一層その傾向にある。したがって、若い会員が増えないのも当たり前である。現在の会員が高齢化して、いつかは廃刊に結び付く、は自然の流れかもしれない。とはいえ、こうした研究分野が消滅して良いのか、と問われる。支えていく方法はないのか、垣根を越えた議論が必要なのだろう。

 研究誌が薄くなる、あるいは発行間隔が長くなる、は既に起きている減少。繰り返すが財政難である。会員が減ればおのずと収支が合わなくなる。合わせるために削る経費は限られている。しかし薄くなる、発行間隔が空く、ということはそもそも発表の場が限られていくことになる。研究意欲が低下するのはもたろんのこと、若い人々は一層発表する場がなくなる。悪循環を繰り返して、消滅するというわけである。

 『伊那路』でも経費節減のために交換団体への雑誌の送付を減らそうとしているという。ほかにもいろいろ節減策がとられることになるだろう。そもそも月刊で、この会員数でよく発行している、と感心する。それでいて会務報告が今までされてこなかったわけだが、収支はどうなんだろう、と心配になる。それほど大きな額ではないのだから、支える方策を他分野に投げかけるのも良いのだろう。そういう面では、『伊那民俗』を発行している柳田國男記念伊那民俗学研究所は恵まれている。多額ではないが、行政から支援を得ている上に、活動の場が確保されているし、そこには蔵書を置き、後悔もできている。手弁当でやっている会に、そのような会は、ふつうはあり得ない。

 『信濃』はこれまで80ページだったが、4月から72ページにしていく。たった8ページ薄くなっただけだが、ずいぶん薄くなったような印象を受けた。論文は3本しか載っていない、内容が薄くなれば、結果的に会員も減っていくのだろう。会告には「会の収入を増やすには、会員増が一番です」とある。とはいえ、一般人には会費年額10,200円は「高い」と受け止められる。まさに専門の学会誌レベル。広告を会誌に載せても、読者が限られていて、一般広告掲載は見込めない。わたし的には10,200円は確かに「高い」方だとは思うが、だからといって、月にすれば1,000円に満たない。娯楽にもっと使っている人たちが、たったこれだけの会費で高いというのなら、その貢献度を認識してほしい。

 『伊那路』でも月刊誌を辞めたら、という意見もあるという。前述した3誌、どこが最初に月刊誌を諦めるのか、そんな時代がやってきている。

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今年のコシアブラ

2024-04-21 23:39:22 | 自然から学ぶ

昨日収穫したコシアブラ

 

高いところに…

 

採るには少し早い

 

 昨日イワツツジについて触れたが、これに併せて今まで触れたきたものにコシアブラがある。ただし、それと気がついたのは「水田からヒノキ山へ」を記した2012年のこと。まだ12年前のことである。山菜好きとしては、そもそもコシアブラなるものは近在には無いと思っていた。ちょっとこの季節に話題に上ることが多くなってきた当時、その姿を人に教えてもらって、裏山に入るとそれらしきものが目に入った。もちろんコシアブラであったわけであるが、裏山を歩いてみるとけっこうたくさん生えていた。ということで以来、この季節にコシアブラを楽しみにするようになったのだが、あっという間に開いてしまう。わたしの場合裏山に入るといっても、土日農業の傍らだから、平日に入ることはない。すると良い時期を逸してしまうのである。今週つぼみ状になっていても、来週は大きく開いている。あっという間のできごと。したがって年によって芽吹きの異なる自然界のことであるから、なかなか採りごろにあわせられずに終わることは多い。

 今年は昨日も触れた通り、例年並みに今が盛ん。ところがタラノメはすでに開いてしまっていて、モノによっても時期が「いつも通り」というわけにはいかない。今年はタラノメはほんの少し口にしただけ。短期間に開いてしまうものは、なかなか難しいのである。いっぽう長い期間楽しめるのはウドだろうか。ウドの場合、幹の部分も葉の部分もある程度開いてきても食べられないことはない。幹の部分はスライスしててんぷらにしてもウドらしい味がしっかりする。葉に至ってはずいぶん開いて大きくなってしまっても、葉先だけ採っててんぷらにできる。したがって前者に比較したら、ずいぶん楽しめる山菜である。そしてそれ以上長く楽しめそうなのはワラビである。次から次へと出てくるから、長い期間採ることができる。もちろん最初のころの方があくがなくて新鮮であることは言うまでもないが、素人には、時を経て食べるワラビも、何ら変わりない。

 さて、ツツジの合間に出てきているコシアブラは、以前にも記したようにかつては下草刈の際に処分していたもの。それでも切り忘れて伸びたコシアブラがツツジの背丈を越えて成長している。コシアブラについては、Wikipediaにも記されているように「樹高は7—15m、ときに20mに達するものもある」という。実は裏山には10メートルほどに伸びたコシアブラが1本ある。直径5センチを越えていることもあって、さすがにこのコシアブラは芽が出ても採れない。あえて採るならば、上の方の細いところに縄でも引っかけて頭をもたげさせればしなって採れるかもしれないが、そこまでして採りはしない。とはいえ、同じように数メートルになったコシアブラは何本もあって、直径にして3センチ以内ならしならせて採ることはできるが、無理をすると折れてしまう。しなりのある木なので、細ければ高いところでも採れるというわけである。写真の空に浮かんだコシアブラも、しならせないと採れないもの。たくさん採取したが、店で売られているものはここまで開いていない(と思っていたが、開いたものも売っている)。が、我が家では芽の状態のものはもったいなくて採っていないのが実態である。

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今年のイワツツジ

2024-04-20 23:26:36 | 自然から学ぶ

令和6年4月20日撮影

 

 近年は開花が早く、わたしが農作業に訪れる前にピークを過ぎていてここに紹介することもなかったイワツツジ。今年はかつての開花時に沿った具合に開花したため、ここに掲載することができた。過去の記事を振り返ってみると、下記のように日記に触れている。

イワツツジの世界(2006-04-23)
イワツツジ満開(2006-05-02)
イワツツジ咲く(2009-04-19)
今年もイワツツジ(2010-04-26)
今年のツツジ咲く(2012-04-29)
イワツツジ咲く(2013-04-20)
今年もイワツツジ(2014-04-23)
イワツツジとコシアブラの最盛期(2016-04-22)
イワツツジ開花(2017-04-22)
すでにイワツツジ開花(2018-04-08)
降霜(2018-04-21)

 こうしてみると、最も古い記事である2006年には、満開になったのは5月に入ってからである。そこへいくと、2018年には4月8日に開花と、ずいぶん早い開花がうかがえる。2006年の4月23日に花が咲き始めていることを思うと、半月ほど早い。そして今年であるが、今満開といったところ。最近は山作業をしていなかったわたしには指摘できないが、わたしが手を出していないがために、ちょっと最近は緑色の木々が目立つ。ようは下草や余計な木々伐採が滞っていて「目立つ」ということである。

 いずれにしても、一覧にしてみると、2006年はともかくとして、その後は4月20日ころから満開になっていたと言えそう。とすると今年はそれに近い満開である。

 

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殿野入春日神社獅子舞

2024-04-19 23:46:02 | 民俗学

 昨日は「囃子舞台」について触れたが、そもそも呼称が適正かどうかは何とも言えない。「囃子と舞台」とした方が良かったかもしれない。舞台のことについて悉皆調査で触れられておらず、また囃子には舞台曳行用のものがあることにも触れられてはいない。もちろん「とりさし」についても一切記載はない。では記載のあった獅子舞について、ここでは触れることにする。

 「とりさし」が午後8時に始まり、10分ほどで終わり「とりさし」が踊られた舞台上で獅子舞となる。最初は頭と幌持ちの二人で舞始めとなる。幌持ちが幌を高く持ち上げで左右に頭を振る。5分ほどの舞である。次いで頭一人になって右手に幣束、左手に鈴を持って舞台を左右に動き払うような所作で舞う、いわゆる悪魔払いである。数分すると『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』の悉皆調査にも記されていた「火吹き」が登場する。ひょっとこの面を付け、両手に短い細い棒を持って滑稽に獅子と相対する。火吹きが獅子と絡むのは1分余のこと。再び幌持ちが獅子頭の後ろに入ると、蚤取りを舞って舞納めとなる。最後の部分が『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』でいう「終舞」なのかもしれないが、区切りはない。15分ほどの獅子舞である。「殿野入春日神社囃子舞台」でも記した通り、時間にすれば午後7時に始まった囃子の方が遥かに長い。舞台に伴う囃子、そして「とりさし」、最後に獅子舞と続くが、果たして過去の姿がどうであったかは定かではないが、舞台曳行と獅子舞は、ここでは別物と捉えられる。その上で「とりさし」の位置づけは、となるが地元でも「とりさし」が獅子舞の付属物とは考えていない。舞を行うための立派な舞台があることからも、かつての芸能祭の一連の中に仕組まれたそれぞれの芸だったと捉えれば、やはり別のものという捉え方で良いのだろう。そう捉えると『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』における悉皆調査には不備があるとも言えそうである。

 

令和6年4月13日撮影

 

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殿野入春日神社囃子舞台

2024-04-18 23:24:57 | 民俗学

 おととい殿野入春日神社「とりさし」について記したが、多くは獅子舞といった芸能の付属といった位置づけがされることに触れた。平成7年に発行された『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』の悉皆調査には、殿野入春日神社の項に次のように記されている。

神楽は雄獅子の一人立ちで幣束と鈴を持って「よいよい千早振る…」の神楽歌で悪魔払いを舞い、ほかに蚤取り・終舞などを舞う。神楽の囃子は、桶胴の太鼓・小太鼓・笛などで囃す。舞には、火吹き男が登場する。

ここからうかがえるのは、獅子舞しかないというもの。実は祭り当日、午後7時から参道入り口にある舞台庫の前で囃子が行われた。囃子は舞台に伴うもので、いわゆる舞台の曳き回しがあり、そのための囃子なのどである。この地域では舞台を曳行するところが多く、とくに松本市内のものはよく知られる。現在旧四賀村は松本市になっているが、こうした松本市周辺地域でも舞台を曳行するところは多かった。著名なものに旧梓川村大宮熱田神社の舞台があるが、ここでも主役は獅子なのかもしれないが、舞台曳行にかかわる部分も比重としては重く、果たしてどちらが主たるものか、と問われるとなかなか答えられない。そしてそれを別々のものとして捉えて良いかも難しいところがある。総じて「風流」と言えなくもないが、獅子舞は民俗芸能の分類では「神楽」にあたる。したがって獅子舞を「風流」として扱うのには抵抗がある。やはり「別々のもの」なのか、ということになる。

 殿野入春日神社の場合、舞台の車輪が傷んでいて、破損すれば大金がかかるとして、舞台の曳行をとり辞めている。舞台庫から数メートル出してお披露目する程度で曳行はないが、囃子は13曲あるという囃子を受け継いでいる。ただし曳行がないということもあって省略されているようだが、これを所要時間で現わせば、獅子舞より囃子の方がだんぜん長い。曳行の姿を見ていないので判然としないが、大宮熱田神社では、曳行に伴って獅子舞も舞われており、同時進行しているが、果たして殿野入がどうであったかは聞いていない。同時進行であったとしても、舞台と獅子舞が一体のものであるのかといえばそうでもないので、前述したように大宮熱田神社の例でも分類しづらい、あるいは別のものと捉えるべきか、という難題にぶつかる。祭りの中の芸能として、見る側には一連であるが、扱いは難しいというわけである。

 というわけで、前掲報告書ではまったく扱われていない舞台と囃子。ここでは今回の祭礼で撮影した写真を紹介しておく。

 なお、大宮熱田神社獅子舞については、2019年に13回に分けて触れたものの、中途で完結していない。それほど内容が濃すぎて、当時まとめきれなかった次第。

 

左側に舞台、境内までは鳥居から旧坂を上る

 

舞台

 

かつては参道入口からこの舞台がある境内まで舞台を引き上げたという

 

囃子を待つ

 

太鼓は舞台の中で、笛はその周囲で吹かれる

 

囃子を終え、舞台を舞台庫へ戻す

令和6年4月13日撮影

 

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あのころの景色⑧

2024-04-17 23:41:05 | つぶやき

あのころの景色⑦より

 前回述べたように、栄村には仕事でよく訪れた。とりわけ頻度の高かったのは極野(にての)から秋山へ向かう道。現在村道長瀬秋山線と呼ばれている道路である。わたしがかかわったのは、中部電力志久見川第一発電所への送水管上部から五宝木までの間である。したがって極野は頻繁に通っていた集落。もう半世紀近く前のことであるから、当然のことであるが、当時は人の気配は高かった。そこにいくと集落内を通っても、無住の家が目立つし、まだ積雪があったせいか、冬期間は里に下りている、というような雰囲気の家も見られた。

 

坪野にて(令和6年3月28日撮影)

 

 志久見川の支流である天代川へ遡ると坪野の集落がある。極野以上に生活感のない家々が点在していた。除雪してない家があるということは、冬期間はここに暮らしていないということ。ここに限ったことではないが、栄村にはそうした家があちこちに見られる。東北の震災翌日に発生した長野県北部地震の影響が大きいのかもしれない。当時のことは「栄村へ・後編」などに記している。もう13年前のこと。

 飯山を離れて以降も、この地域への思い入れはしばらくあった。したがって秋山へは、その後もこの道を利用して何回か入っている。この季節だから、もちろん通れないことはわかっていたが、入り口ですでに雪に阻まれてそれより進めないことを知った。夏期に、今一度訪れてみたい、そう思った。

 ところで4枚目の写真の背景、小高いところに小さな赤い屋根の建物が見える。その後志久見川沿いを下りながらわかったことであるが、どこの集落にもこうした高い位置に小さな建物がある。それらの多くは墓地の周囲にあったりするが、これは「お堂」である。志久見川沿いの集落の典型的構図なのである。このことは別項で触れたいが、それは川を下りながら気づいたことで、坪野を訪れた際にそのことに気づいていたら、このお「お堂」まで上がって行ったのだが、後で気づいたため、実はこの「お堂」は覗いていない。これも後の宿題である。

 

参照「栄村へ・続編」

  「豪雪地飯山の記憶」

  「ドウソジン祭りの準備」

 

終わり

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殿野入春日神社「とりさし」 後編

2024-04-16 23:53:02 | 民俗学

殿野入春日神社「とりさし」 中編より

 午後8時ぴったりに始まった「とりさし」。保存会のみなさんの法被には「鳥指保存会」と「獅子舞保存会」と名入れされている。本来「とりさし」は小中学生の男の子によって踊られたという。派手な着物を着るのは女の姿を現しているもので、たすきを掛け、花笠と竿を持って踊る。「さいとりさし」には共通した持ち物で、殿野入では数人の子ども達によって踊られる。昭和55年ころの写真には、6名の子どもたちが写っている。いつのころからか女の子が加わるようになったが、少子化の影響だったのだろう。平成に入ると踊りは途絶え、今から20年ほど前にいったん復活して3年ほど続いたと言うものの、再び中断していたものを今年復活して上演したもの。今年はかつて演じた年代の子ども2名と、おとなが3名加わって舞う予定であったが、さらに小さな子ども2名も入って、賑やかに踊られた。滑稽なしぐさで舞うのは、よその「さいとりさし」と共通しているとともに、問答の言葉を見ると、少なからず鳥刺しを馬鹿にしたような構成である。この日のために2日ほど練習をしたという。

 

令和6年4月13日午後8時より、約8分ほどの「とりさし」踊り

 

 来年以降実施されるかわからないため、今回は動画撮影をした。動画と写真の2台を用意していなかったため、写真の撮影が叶わなかった。そのため動画からのキャプチャーでここでは紹介する。したがって画像があまり良くないことは勘弁してほしい。なお、地元でまとめられた『四賀の里』に掲載されている語りは以下のようである。久しぶりの「とりさし」では90歳になる方が、脇で語りをされた。本当に貴重な「とりさし」の復活であったと言える。

御梅の岡垣に稲村雀、御梅の間垣に稲村雀、
ああよいよい、互に休めて、やれ面白や、
咲いた咲いた満咲いた 鳥をさしては、みっさいた
七九にかん竹、唐竹をからりんとう取り廻し、いざや小鳥をささんとす
指す鳥行けば、せきそんじ、大天宮に小天宮、もったいないと伏し拝む
(子供)「月はまだ二月」、
 三月も参りましょう、三笠峠の桧のうらに、とまりを鳴いてさえずる様は、
 天気よかれ、お日和よかれ、良かれ、良かれと真向のちょうしにかんまえた
 ああら真向のちょうしにかんまえた
 さそと思って竿先見れば、モチはかれた、かれたるモチを扱いて捨てて、腰に付けたる印龍の
 モチを取出し、口さえ入れてモックリ、シャツクリかんで、かんだるモチをうらの方にしんのって、
 もとの方へ扱いて扱いて、こすりたってやりましょよ
モチはねれたが、鳥りやまだいたか、鳥りゃまだいたか、
 さそと思ったら竿は短し小鳥は高し、これじゃなるまい投竿でやりましょ。(お囃)
さそと思ったら河原におりた、これじゃなるまい笠ぶせでやりましょ。
 ハーアーお笠をひっちょって(お噺)
(子供)「伏せたでだんまれ、伏せたでだんまれ」
    伏せにや伏せたが、起こすが大事だよ(お囃)
(子供)「ああ痛たたたあ」
    どうしたどうした。
(子供)「三年先の切り傷だ」
    どうりで痛くも痒くもなんともない(お噺)
(子供)「チチチチ…」
    どうしたどうした。
(子供)「押さえたと思ったら鳥パッと舞った」
    そりゃ、あっけなかったなあ
 花はお江戸の錦に勝る!、花はお江戸の錦に勝る!
  千秋楽、千秋楽やと舞い納む。

 

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殿野入春日神社「とりさし」 中編

2024-04-15 23:16:09 | 民俗学

殿野入春日神社「とりさし」 前編より

 蘭の「さいとろさし」を紹介している『信州の芸能』(信濃毎日新聞社 1974年)には、三隅治雄氏が「ゆらい」を記している。その中で三隅氏は「この種の芸能は、もともと諸国を巡歴して歩いた旅芸人の手にかかったもので、たとえば、毎年正月に各地の家々を巡回して歩いた万歳芸人のレパートリーの中にも、太夫と才蔵の掛け合いによる「鳥刺し」の曲があった。また、江戸時代の中期以降、東海道、中山道をはじめ諸国の街道を足しげく歩いた代神楽のシシ舞の専業集団も、この曲を重要な演目にして、各地で上演して人気を博した。信州でも、上田市小泉や上伊那郡中川村桑原、飯田市立石などにこの「鳥刺し舞」が伝えられているが、いずれも代神楽のシシ舞に付随したものである。」と述べている。ようは獅子舞に「付属したもの」という「とりさし」である。ここであげられている桑原の獅子舞について平沢一夫氏の「桑原神社の獅子舞」(『伊那』1994年4月)に見ると、「才鳥刺し」があったというものの、「復活できませんでした」とあり、その内容は触れられていない。また立石のものについて村松美喜氏の著した「郷土民俗芸能立石大神楽」(『伊那』1964年6月)には、「才蔵との対話により進められる」とあり、万歳形式だったようである。道化万歳も演じられたようで、獅子舞の一連のものなのかどうか疑問はわく。

 こうした獅子舞とのかかわりでは、『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』の「蘭のさいとろさし」の中で、「この種類に属する芸能は中信地区でも遠く離れた善光寺街道の東筑摩郡麻績村市野川にも見られ、獅子神楽の獅子舞の余興で踊っている」と記している。獅子舞の一連のもの、という例では北信域、とりわけ飯山市から栄村にその事例が見受けられる。飯山市桑名川の名立神社の例祭は、やはり獅子舞がメインではあるが、多様な舞が舞台で舞われる。そのなかに「サイトロメン」というものがある。まさに「さいとろさし」のことを言い、ここでは大人二人で行われ、多分に余興的なものとも。齋藤武雄氏による『奥信濃の祭り考』(信濃毎日新聞社 1982年)において、次のように舞の内容を記している。


 サイトロメンは、まず前奏の囃子に乗って、花笠をかぶり、頬かぶりをしたオカメを背負ったヒョットコが出てくる。袖はたすきでたくし上げ、両腕を出して着流しにしているが、裾が短く足が半分も出ている。二人とも同じ服装で、鳥刺し棒を持っている。名立神社のサイトロメンは、最初から最後まで滑椿である。
 舞台の中ほどに来ると、ヒョットコはオカメを背中から下ろし、抱き合って怪しげな仕草をする。観衆から、「まだまだ」「わらじをどこへ忘れた」などというやじが入る。二人ともわらじは片方しか履いていない。二人はわざと大きなやじの飛んで来た方へ移動してまた始める。オカメ、ヒョットコと観衆の対話によって劇は進行して行くようなところがあって、祭りの本来の姿の一面が残っているような感じである。しばらくこのような動作が繰り返され、次にまた一人のヒョットコの面かぶりが出てくる。オカメとヒョットコはあわてて離れて、やたらに這いつくばって謝るかっこうをする。
 次に二人とも立ち上がって花笠を脱ぎ、別々にその笠で鳥を押える真似をする。二人は、「とったぞ、とったぞ」と叫ぶ。観衆は、「逃げた、逃げた」という。二人はそっと花笠を持ち上げて中をのぞき、がっかりした様子。少し花笠で舞ってから、また笠を伏せる。「とったぞ、とったぞ」と叫ぶと、観衆から、「逃げたぞ、逃げたぞ、飯山の鉄砲町へ逃げたぞ」という声がとぶ。飯山の鉄砲町という所は、以前は歓楽街であった。老人の若かりし頃の思い出でもあるので、こんな時にその町が出るのである。
 何回か繰り返す途中では、後から出てきた面かぶりが、二人がよそ見をしている間に笠を移動させて二人をあわてさせる場面なども入る。最後に、いないことを確認した二人は、今度は鳥さしの棒を持つ。これを担いで舞台を舞いながら回る。いよいよ鳥刺しの場面になる。
 あぐらをかいて、棒の先へもちをつける真似をする。立ち上がって鳥を刺すような舞いをする。棒をおいて、失敗したのでまたモチをつけ替えたりし、また舞う。この時は、鳥刺しの歌を二人で歌う。

 一つひよどり 二つふくろう
 三つみみずく 四つよたか
 五ついじくない 六つむくどり
 七つなぎさぎ 八つ山鳥
 九つ小鳥 十が戸隠山へ逃げた鳥

 最後に、つかまえた鳥を逃がしてやるかっこうをする。
 この鳥刺しの歌は、鳥の名は所によって少し違うが、全国大体同じである。また、最後の場面は、鳥を逃がしてやるという所も多いようである。名立のサイトロメンは、大人二人で面をかぶってやるが、栄村の極野などは、小学生の高学年ぐらいの男の子供が一人でやる。女の派手な振り袖の着物を着て、顔にお白粉を塗り、飾りのついた棒と、花笠でやるが、鳥をとったり刺したりする所作は大体名立の大人のやるものと似ている。
 初めに、両端に紅白などの細かい色紙の房をつけた金色の1.5メートルぐらいの棒を持って舞う。中腰のまま囃子に合わせて棒を前や後ろへ回しながら舞台の周りを舞う。しばらく舞ってから棒を下に置き、棒のもちにくっついた鳥を捕るような動作をする。次に色紙できれいに飾った花笠を、下に置いた棒の上に乗せてその周りを回る。終わりに、その子供が、「いろいろやってみたが、みんな逃げてしまって捕れなかった」というような意味のせりふをひとりごとのように言いながら退場する。
 この子供の方のものは、上田方面で行われているものとほとんど同じである。しかし、木曽の方のものは、大人がやるが、どじょうすくいのような舞い方で、子供には見せたくないような仕草をするという。

 子どもの舞と大人の舞では趣が異なるようで、大人の場合はより性的要素が含まれる例がほとんどである。とはいえ、子どもが担う場合も幾分そうした部分を内包しているようにもうかがえる。いずれにせよ、北信の県境域の例祭では、やはり獅子舞に付属した余興という印象があり、単独に「とりさし」が演じられているわけではない。

続く

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上宮外県神社獅子舞

2024-04-14 22:24:52 | 民俗学

 

 中川村大草北組にある上宮外県(かみのみやとがた)神社で行われる獅子舞を訪れた。コロナ禍が明けていつも通りの例祭が開催されたわけである。春と秋の祭典、いずれにも舞われる獅子舞は、参道入り口から拝殿までの短い道のりで行われるが、7年目毎に行われる御柱祭では、前宮から獅子屋台が曳行される。その際は獅子屋台の先導役として天狗がつき、さらに獅子招きのほか和藤内が獅子の前につくという。和藤内は暴れる獅子を「退治する役」だという。実見していなのでいけないが、これは明らかに「獅子切り」にあたり、聞くところによると「獅子を切る」ような所作があるという。次回の御柱では、ぜひ訪れてみたいと思う。

 さて、午後3時に始まる獅子舞を始める前に、参道入り口の路上で御柱の際に練りで行われる囃子が奏でられた。平澤和雄さんが著した「上宮外県神社の獅子舞」(『伊那』1995年4月号)によると、この囃子には、かつて鉦や三味線が加わっていたともいう。その上で和藤内があったと聞くと、上伊那南部に顕著な獅子舞に似ているようにもうかがえる。三味線については、駒ヶ根市の天竜川右岸の獅子舞によく見られる。ここも同じ右岸であり、関係性がうかがわれるが、詳細はまったくわからないという。神社入り口にある2本の杉の大木の間を舞いながら進み、随身門をくぐり抜け、階段を上って境内に入る。とりわけ2本の杉の大木の間は、幅にして1メートル余。ひとが一人通る程度しかない。したがって例祭では、屋台はなく、幌の中に人が入って胴を長く、大きく見せながら練って境内に入る。頭を操る者一人と、幌の中には8人が入る。

 境内に入ると、左右に大きく身体を振って、解放されたように暴れる獅子が舞われる。例祭ではその先導役も、また退治する役もなく、拝殿にいたると獅子自ら静まり返って舞納めとなる。御柱祭での獅子は、明らかに「悪者」であるいっぽう、例祭の獅子は、けして「悪者」には見えない。この対照的な描き方が、なぜでき上ったのか、興味の湧くところであるが、その語り手はいない。

 舞納めとなると、境内では餅投げか行われ、例祭一切が終了する。餅投げが復活している通り、コロナ禍は「明けた」という印象を受けた。

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殿野入春日神社「とりさし」 前編

2024-04-13 23:24:06 | 民俗学

 旧四賀村錦部の殿野入春日神社で、長年途絶えていた「とりさし」が踊られると聞いて訪れた。いわゆる「さいとりさし」(刺鳥刺)にあたる。「さいとりさし」といえば、全国的に分布のある民俗芸能で滑稽な舞、あるいは踊りが一般的である。「とりさし」についてはWikipediaに「鳥刺し(とりさし)は、鳥黐などを使用して鳥類を捕獲する行為、およびそれを生業とする人。古くから職業として成立しており、イソップ童話やモーツァルトのオペラ『魔笛』などにも登場する。また、狩猟の仕草を踊りや舞にした伝統文化が鳥刺舞、鳥刺し踊りなど各地に存在する。」とある。この「さいとりさし」について、鳥取市指定無形民俗文化財の「覚寺さいとりさし」を紹介した「鳥取伝統芸能アーカイブス」では、各地で威張り散らし、殺生が禁じられる寺社仏閣境内さえも荒らしていたため、近所の住民は根強い反感をもっていた。そんなさいとりさしへのささやかな抵抗として、小鳥を取り逃がすなど、失敗した様子などを身振り手振りで風刺したおどりが「さいとりさし」の始まりといわれている」と解説している。民俗芸能として舞台芸に分類されるものなのだろうが、文化財指定されたものは少なく、そもそも民俗芸能を体系的に述べた刊行物にも解説は少ない。

 長野県内では南木曽的の「蘭のさいとろさし」がよく知られている。町指定の民俗文化財であり、その紹介文には次のように記されている。

 さいとろさしは“さいとりさし”のことで、その名のとおり、竿にトリモチを付けて小鳥を捕まえることを言う。江戸時代、木曽谷には全部で58か所の巣山があり、うち南木曽町には10か所あって、鷹の保護をはかっていた。鷹は、将軍・大名等にとって当時最大の娯楽であった鷹狩に用いられるものであった。
 鷹を飼育するためには餌となる小鳥が必要で、その小鳥を捕まえる仕草を芸能にしたのが“さいとろさし”であった。この芸能は各地にあるが、蘭のさいとろさしは他所の上半身の動きに重点を置く踊りと異なり、腰を中心とした下半身の動作におもむきをおいている。性的要素を多分に含んでいて昔からの姿をそのままに伝える踊りともいえるが、開放的な庶民生活が彷彿とさせる踊りでもある。祝いの席、特に結婚式などによく踊られる踊りである。
 蘭のさいとろさしは、元来は一人踊りであった。昭和48年NHKの「ふるさとの歌祭り」に出演した際、現在の三人踊りに振り付けし直したが、当初の本スジは良く継承されている。

 「とりさし」の踊りは蘭のものにかぎらず、性的要素を多分に含んでいるものが多いようである。動画として公開されているものを見ていただいてもそれはよくわかる。例えば「せきがねさいとりさし(踊りの手引き 歌 歌詞入り)」には歌詞が掲載されている。「へその下へんが もっくりもっくりするわいの」に続いて「開けてみたれば福の神」はそれを想像させるもの。その上で踊りである「せきがねさいとりさし」の動画を見ていただきたい。こうした「さいとりさし」の動画はYouTube上にもいくつか見られる。とりわけ関金町のものは信州善光寺が舞台となっている。「鳥」取県の「鳥」はさいとりさしが縁ともいう説もあるように、「鳥取伝統芸能アーカイブス」には「さいとりさし」が何件も掲載されている。鳥取県三朝町のものは、鳥取県指定無形民俗文化財であり、動画がたくさんネット上に見られる。

 さて、南木曽町蘭のものは、単独の「さいとろさし」踊りとして知られているが、長野県内で単独の舞として民俗芸能一覧に「さいとりさし」が登場することはないと思われる。平成7年に発行された『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』には、悉皆調査の一覧が掲載されているが、「さいとりさし」というものはなく、祭礼の中で「さいとりさし」がほかの民俗芸能と共に踊られているものが見られる程度である。とはいえ、そもそも殿野入春日神社の「とりさし」も悉皆調査一覧の中に記述はまったくなく、この報告書には表れていないものもあると捉えて良いのだろう。

続く

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「郡境域」を実感した日

2024-04-12 23:50:49 | ひとから学ぶ

 先に定年を節目に出版した本へ、上下伊那に関する地域性を扱ったものを掲載した。ふたつの上下の伊那郡を例として、両者の意識差を示そうとした試みで、その中で印象ではなく、特に数値化して地域性を示したものに、雑誌『伊那路』と『伊那』の購読者数を扱ったものがあった。ようは上伊那地域で発行されている『伊那路』と下伊那地域で発行されている『伊那』、その両者を数十年という長きにわたって購読してきた背景には、曖昧な地域に暮らしているから両者を購読なければならない、という意識があったからだ。両者の境界域に生まれ育ったから、片側だけでは自らの立ち位置から察すると「片手落ちである」というもの。双方に視線を向けないと、結果的に周縁部から中央域を眺めるだけになってしまう、それを打開するには(言ってみれば自分の存在を高めようという意識からのものなのかもしれない)両方の意見を聞いて、その中間的立場で物言いをすれば、それぞれの地域から認められるのではないか、という思いである。こういう思いは、周縁部だから育まれるもので、中央部の人たちには育まれない意識と、わたしは勝手に思っている。

 

 今日、友人と飲み屋で飲んでいて、郡境域、とりわけ下伊那と縁の深い中川村について話をしていたところ、隣席で飲んでいた年配の方が「違う」とわたしに怒っているのである。なぜそうなったかといえば、前述したように両誌の購読者の数を例にして、「中川村の人たちは、どちらかというと南を向いてている」というような話をしたうえで、中川から見れば上伊那郡にありながら伊那より飯田が近く、交流圏としても飯田に傾向しているというような話をしていたわけである。もっと極論を言えば、上伊那郡でありながら、下伊那へのまなざしが強い地域であることをわたしは主張していたわけである。それに対して「おまえはどこの者だ、中川は上伊那郡だ」と怒り心頭なのである。飲んだ席での自由な発言にほかならないのだが、よほどわたしの口にしていた意見が気に障ったようだった。もちろん中川村が上伊那郡であることは百も承知であり、その上で行政的区割りを抜きにして「実際のところ住民の意識はどうなんだ」という面で話をしていたわけなのだが、それでも許せなかったようだ。両雑誌の購読者を数値化した際のことは、以前にこの日記でも記したことであるが、実際のところ、上伊那で発行されている雑誌より、下伊那で発行されている雑誌の購読者が6割以上を数える。明らかに住民の意識は下伊那へ傾向していると言えるわけで、もちろん怒り心頭の方たちは残りの3割に入る方たちなのかもしれないが、これは調べた上での事実であったわけである。異論を唱えられた方たちは、きっと「中川の方たちなのだろう」、そう思って反論はしなかったわけである。

 

 ところがである。電車で帰ろうと駅に向かうと、先ほどの年配の方たちが数人固まって上り線ホームへ向かっていく。見つかると厄介と思い、少し距離をとって同じホームに立ち電車を待ったわけである。おそらくわたしの降りる駅の近くまで乗っていくのだろう、そう思ったわけだが、なんのことはない、遥か手前の駒ヶ根駅でみなさん下車していった。まさかここからタクシーで該当の村まで帰るはずもない。おそらく駒ヶ根にお住まいの方たちなのだろう。もしかしたら中川とはまったく無縁の方たちかもしれないし、あるいは中川出身なのかもしれない。とはいえ、後者だとしても今は中川には住んでいない。言ってみればその村を捨てたわけである。出身地を指摘する意見が聞こえたから反論せずにはおられなかった、そんなところなのかもしれない。気持ちはわかるが、現実、今住んでいる人々の代弁はできない。これこそが、境界域の人々の厄介な意識なのである。必ず北を見ている人もいれば、南を見ている人もいる。その上で、自分の暮らしてきた領域はどちらかであり、自ずと思い入れが生じる。だからこそ、境界域は同じ方向を見られない多様さがあるのだ。たまたま飲んだ席で、こんなタイミングの良い事例を垣間見れて、わたしはとてもうれしかったわけである。まさにわたしの意図している意識の体験なのである。

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2024年「桜」後編

2024-04-11 23:23:00 | つぶやき

2024年「桜」前編より

 昨日に引き続き、今日は会社の人たちと高遠の桜の様子を見に行った。いわゆる世間でいう「お花見」にあたる。平日ということもあって、それほど混雑することなく城内の駐車場まで上がったが、桜はピークである。本音のところ「昨日の方が良かった」とは、今日は「花曇り」。背景の中央アルプスの山々は、靄がかかっていたし、空も「青」ではなかった。桜の見ごろに高遠城内へ足を踏み入れるのは、何十年ぶり、というほど昔のこと。コロナ禍のせいだったかどうか記憶は定かではないが、場内での酒の飲酒が止められていたはずだか、今年は露店で酒も販売されていて、昔のような光景が見えた。いっそう平和になったかは定かではないが、暇と金のある人々にとって、今の時代は楽しくて仕方がないのでは、と思わせるほど、働いていない人たちが今は多い。

 

城址公園内

 

高遠閣前で

 

勝間の枝垂れ桜

 

 久しぶりだったためなのか、それとも違う理由があるのかはっきりしないが、城址公園内の桜に、あまり「感動」がなかった。「もっとピンクではなかったか?」という印象を受けた。夜見る桜と、昼間見る桜の違いだけかもしれないが、かつてもあまり経験していなかった午前中の城址公園内の桜は、よその桜並み、という印象を受けた。よその桜を見てから城址公園内へ訪れれば違う印象を持ったのかどうか、果たして…。

 城址公園を訪れた帰路、南側に下ると正面に勝間の桜の木が見えた。ということで勝間の枝垂れ桜にも足を運んでみたが、枝垂れ桜はまだ満開には時を要す感じだった。ここの桜も昔から認識していたが、近年は知られるようになって、ここを訪れる人は多い。勝間の集落は、集落より低い位置に水田。それより高い位置に住宅地。背後に畑があって、その上に墓地が展開する特有な光景。その上は山になる。それほど大きくない集落であるが、コンパクトに機能分けがされていて、集落景観が人々の暮らしと大きくかかわっているようにも見える。ようは調べがいがある地域なのかもしれない。

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2024年「桜」前編

2024-04-10 23:22:19 | つぶやき

藤巻川沿いの桜

 

吉瀬の桜

 

吉瀬の桜の近くでの光景

 

 今年も、現場へ行った際に駒ヶ根市吉瀬の桜を訪れた。そのついでに飯島町田切の道の駅西側の藤巻川周囲に植えられた桜にも立ち寄った。藤巻川周囲の桜は、近ごろ桜の季節に訪れる人が多くなった。比較的新しい木が多かったのだが、ようやく見栄えのする桜になってきた感じで、ネット上にもたくさんの写真が公開されている。国道153号線の道の駅「田切の里」を挟んで東西に約1キロメートル、藤巻川に沿って植えられている。下流域はまだ木が若いが、とりわけ南割集会所の周辺の桜は大きい。中央アルプスの宝剣岳や、南駒ケ岳といった山々が背景に写り込むため、そうした背景の良さもあって人々を誘っている。

 古木の桜は上伊那には少ない。したがって下伊那ほど桜で誘う場所はないが、ひときわ眼を奪わなくとも、桜の咲く光景は里山の中にも点々としていて、今は「賑わいでいる」のは確か。そうした注目にはまったくはまらないが、最近近くを走っていて思うのは、飯島町の高遠原あたりの西山裾である。中央自動車道の背後の山々に、点々というより、緑の中に緑を打ち消すように桜の花が目立っている。伊那谷では里山や段丘の斜面にも点々と桜が目立っていて、桜の木が「多い」という印象を与える。日本中そうなのかもしれないが、何十年も前にこれほど桜が目に入った覚えがない。

続く

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