tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

閉店

2017年09月13日 12時59分24秒 | おはなし
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・


2017年9月10日、イトーヨーカドー奈良店が閉店した。
開店から14年。

2003年7月10日、イトーヨーカドー奈良店が開店した。
長引く不況と30歳近くのはじめての就職こともあって、私は最初の就職に苦労した。
1年ほどかけて、ようやく仕事を見つけたが、それは体力仕事で儲からず、やたらと気を使う書店業だった。本当はやりたくなかったが、仕方ない。

それが本当にそうだったのかという判定は、かなりの時間を経てからできるものである。
数年後、私が足を運んだハローワークの担当者から、失業率が最も高かった時期に、よく就職できましたねと言われた。

実際、その時の私も、採用側もそんな状況など知るはずもない。

本屋は本当に向かなかった。値引きができない業種だから、接客を売るのだと。
体力をすり減らし、感情まですり減らす仕事だ。

天王寺の支店で研修をしたが、奈良新店の図面を見た店長が発した言葉は、
「アホやな」 と。
そりゃあそうだ。320坪だったか、とにかく今までどの支店も持たなかったような広さの店。

開店初日に啓林堂の社長が密かに見に来て驚いていたと人づてに聞いた。
大阪や京都の大都市だけで実現していた大型書店が、奈良にできたわけだから、驚くのも無理はない。

一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・


一枚の紙とは、奈良新店の図面だ。でも、店が開いてレイアウトが確定したその時点で、不要になったものだ。

イトーヨーカドー奈良店は、そごう奈良店だったところだ。建物はそのまま受け継いで使われる。そこここに、そごうの関連設備があった。金色の浮御堂も残っていた。すぐにこれは撤去され、売り場になった。

一番イヤだったのは、そごうの支店でよく見られた、カラクリ時計が覆われたときだ。あれは3時とかに、壁がひっくり返って、人形が出てくるものだった。その上を覆って、ロッククライミングみたいな事ができるような施設になった。

バブルと高級とそごうが否定され、不況と廉価とヨーカドーで満たされていく店内。

オープン前、正面のカラス張りに白人の子どもの写真が貼ってあった。悪くないなと思ったが、マネージャーに言わせれば、中が見えたら客が入るという判断からすぐに撤去された。
あれから14年も経つと、そんな意図が継がれるわけでもなく、そのガラスの上に、告知やら新刊書のタイトルがベタベタ貼られるようになった。

2003年は、書店のポイントカード発行/使用が始まったばかりだったが、危機感も広がっていた。もとより売り上げの少ないところから、さらに持ち出すのかと。

2003年、ダイエーはとうの昔に衰退して、イトーヨーカドーやイオンの勢いが出てきていた。
この2頭の競争の行方がわかるのは、まだ先だ。

東京の銀座にあった店が閉店になって、そこにあった本が運び込まれた。言ってしまえば、「ゲンの悪い品」
出版社から期限付きで借りた本があって、元からある分と場所を占領して、新刊を3日で返品しなければどうにもならない状況。
「ウチはストッカーを持たないのですよ」とは聞こえがいいが、売れない本を他に保管できる場所もなく、ただ、店先の本棚に「飾っている」状態。バックヤードに持っていけと店長がキレだすが、そこだって一杯の状態。

やたらと、ネオコンという言葉が眼についた時期だった。

東京からやってきた店長と副店長は、杓子定規で物事を進めるひとで、パート・バイトの反感を買い、平社員には序列ができて、一番できない(つまり私)社員にやたらと風当たりがきつい。

あるパートは言った。
「店長も難しいひとですね」と。

客で混む時間に会議なんかするから、バイトの指揮ができない、接客対応ができないというアホな状態になった。

どんな発注をしているのか、ジャンプが一回で50冊も入ってくる。
取次が制御する雑誌の割り当ては、簡単に変えられない。
だが、わざわざ駐車場に車や自転車を停めて、店の3階まで雑誌を買いにくる客がどれほどいるのか。
広い店、売れない商品。

精神的に追いつめられた私は、結局新店開店の2ヶ月後の8月末に退職した。
売り場の片隅で、泣きながらマネージャーに申し出た。
不思議にも私はすぐに次が決まった。小売業じゃないし、それは別の物語だ。

出会ってそれほど時間の経っていない私の送別会を、パート・バイトさんたちがやってくれた。
かれらのまえで私は言う。「夏休みが終わったんですよ」

一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・


私はとっとと本棚が取り払われるときが訪れないかと思うようになった。

この14年の間に、便利な言葉ができていた。
「爆発しろ」
「日本死ね」
あれは、ただの感情ではなく、本当に訴えたいところからきた言葉だ。

何年も、私は、心理的に奈良県内で本を買うことができなくなっていた。
唯一買えたのは、子どもの頃から行っていた田舎町の小さな本屋。320坪なんてない。
その店も3年前に閉店した。

私が辞めたあと、堰を切ったようにパート・アルバイトが次々辞めた。
12月には、新卒で採用した社員でさえ辞めたらしい。
毎週のように求人広告が出た。
作家を呼んだり、風船を配ったりの「人寄せパンダ」があった時は良かったが、パンダもいなくなると、客入りが悪くなる。
売り上げの伸びない店に、社長は怒りだし、あらゆる資源供給はカットされ、求人広告から本屋の名前が消えた。東京から来たメンバーは異動と称して早々に引き上げられたらしい。どんな待遇が待っていたのか。

近くに比較的広い大きな書店があった。そこで、バイトでありながら、売り上げ実績をのばした人を入れた。
本当だったら、パートに昇格して大事に扱うはずが、学歴やら性格やらに難癖をつけて、バイトのまま採用。ただ、売れ筋を見る目は確かで、この人の言うままに動けば、コミックだけでも売り上げを伸ばせると思った。

だが、店長はこれを拒否。

彼はやる気を失って辞めていった。
もといた本屋から引きはがし、冷遇した上で、辞めて行く。
ひとをつぶすような流れさえあった。

彼がもといた店も、1年前に閉店した。

あの店に、アカの他人という顔をして入れるようになるまで5年。
7年目になると、ポイントカードも発行していた。
広い通路、本屋なのに本が詰め込まれていない空いた棚。
肝心のイトーヨーカドー奈良店は、5年も経つと、土日でも上階は閑古鳥が鳴いている状態。

一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・


あれから14年。
棚が撤去されたときに、ホコリまみれになったあの図面が見つかるかもしれない。

ひとつの実銃/エアーガン雑誌の休刊におもうこと

2015年03月08日 13時39分06秒 | エアーガン/実銃
先日,本屋でGun Professsional(以下“GP”)を買い求めた際,Gun Magazine(以下“GM”)がないことに気づいた。そして,この日が来たかとも思った。もとい,私はこれまで本屋の棚の前でGMをパラパラめくって内容を少し見るだけで,GMの創刊以来一度も購入したことがない。それゆえ,この雑誌について語ることはできないと思う。しかし,一方でGPはこれまで欠かさず買い続けている。そして,GMやGPの前身雑誌ともいえる月刊Gunもまたよほどのことが起こらないかぎり,買い続けてきた。つまり,月刊GunとGPのつながりという点では,すこしばかり語ることができるのかも知れない。

1 私と雑誌購入
かつて本が売れなくても,雑誌は売れるという通説であった。それが通じなくなってきたのは,2000年代初めからという話だ。
じっさい,雑誌を買い続けるというのは,結構な負担である。毎月決まった日に本屋に出向く必要がある。定期購読という方法もあるが,選んで買う癖がついているから,基本的に本屋に出向かなければならない。
私は安月給にも関わらず,2004年頃,最大で3誌を購入していた。その内訳は,

月刊 Gun(1962年12月号創刊 2011年11月号で休刊)
DTPWORLD (創刊年不明 2009年5月号で休刊)
ガンダムエース(2001年6月創刊 発行継続中)

といった具合である。毎月,2700円くらいを消費していたと思う。「DTPWORLD」は仕事上の知識を得るというものだったし,「ガンダムエース」の存在を知ったのは,なんと朝日新聞の文化欄で取り上げられたことであった。いったいこの3誌を買い続けるというのがいつまで続いたのかよくわからないけど,2年くらいはあったと思う。「DTPWORLD」は,面白い特集を組んだ時だけ買うという方針に変え,「ガンダムエース」はたしか,ジオンのジャブロー攻撃の直前だったと思う。ひと月に買う雑誌の数が3誌になると,マジメに読まなくなる。買ってきて関心のある所だけを読むようになる。そんな付き合い方に変化してきたと思う。
長くなるだけなので,「月刊Gun」だけに限ろう。
私が「月刊Gun」を買いはじめたのは1987年である。当時は7か800円位だったと思う。今にして思えば,中学生だった私にしても,当時は結構な負担だった。消費税増税などの影響を受けてジワジワと上がってきたけど,いまの1200円くらいの値段が,当時から示されていれば,おそらくこの雑誌とは永遠に付き合うことはなかったと思う。92,3,4年くらいも買っていなかった。大学進学の時期に当たったからだ。それ以降はずっと毎月買い続けている。

2 月刊Gunの休刊と2誌の創刊
バブルがはじけ,業界は倒産や事業撤退で縮小し,ユーザは高齢化で先細くなる一方。自分の中で残した「月刊Gun」だけが,これから先も永遠とは考えられなかった。いつかなくなるかも知れないとも考えていた。それが起こったのは,2011年11月号だった。
しかし,起こってみればそれほどの衝撃とも思えなかった。確かに1980年代や1990年代の初めは,こうした雑誌が,エアーガンの発売予定や性能を知る上での重要なソースであったが,少なくとも前者に置いては,ある時期からネットの方が早いと知った。そのころから「ニューモデル」の情報は,重視しなくなって,掲載されても「もう知ってるよ」という反応だったし,業界も縮小して情報も取りやすくなったというのがある。
この,2011年から12年初頭にかけて,「月刊Gun」の復刊がライターの間で必死になって行われ,海外リポータの多くは,ホビージャパンに移籍する形で集まっていた。
当時の私にしてみれば,国内の(ひどい状態にある)業界の縮小をみると,エアーガンの記事はそれほど重要なものでもなくなり,実銃記事に価値を見出していた。そのため,実銃を中心とするGPの当初の編集方針は,わりとあっていた。たしかに簡単なエアーガンの商品紹介はあった方が良かったし,実際この方面でも時間が経つにつれて充実してきた。
GPは2012年4月号で「創刊」,GMはそれに遅れること2012年9月号で「復刊」。後者に関心がなかったのは,同じようなスタイルの雑誌を2誌も買う必要がなかったというのもある。でも,「月刊Gun」の連載でGMに引き継がれたものは,ある程度魅力的なものもあった。
一時期,GPとGMで取り上げるモデルが,同じ月にも関わらず,重なることもあった。レポータで何らかの情報交換があったのかもしれないし,あっても別段かまわないのだが,それならば,なおさらGP一誌を買い続ける理由が成立する。

3 GPとGMの置かれた状況
しかし,見方を変えれば,GPとGMの置かれた状況はかなり異なって見える。
むしろ,前者は後者に比べて,かなり不利な状況にあったと私は考える。
そう考えるのは,広告収入の差である。ただし,各誌の台所事情など詳しく知らないし,私自身の基本的認識も間違っているかも知れないので,これはあくまで「話のひとつ」として読んでほしい。
そもそも,雑誌の収入の大半は「広告収入」と聞かされたことがある。つまり,書店で私のような読者が出した購入金はたしかに収入の一つであるが,それは多くを占めず,結局のところ,雑誌に掲載される広告による収入が多くを占めるというのである。
なんども言うが,私はGPをすべて持っているのに対し,GMは一冊も持っていない。持っているひとは,目次などを見て,広告が掲載されたページの目次を比べてほしい。おそらく,GPよりもGMの方が多いはずである。たしかにあちらの方がWAやKSC,マルイなどの広告で賑わっている印象がある。一方GPは広告がほとんど存在しない。これが,不利な点である。たしかに,GPの母体は,ホビージャパンという結構大手の組織で,資金的バックボーンもしっかりしていると考えがちだが,「アームズマガジン」や「ホビージャパン」の収入を,GPに転用し続けられるほど,企業の考えも甘くないと思う。つまり,広告収入が少ない雑誌をこの先も残しておくとは考えられないし,アームズとGPを合併することも模索されるのかもしれない。でも,それはもっと前に行われていてもおかしくなかった。

4 おわりに
ひとつの事実として,GMが休刊したということである。
ここ数日,大阪や京都の大手の書店へ行くが,そういった場所の雑誌コーナーでは,明らかにGPの在庫が払底しているように見える。そもそも,その本屋へ何冊配本されたのかは不明だが,私の狭く中途半端な市場状況の把握でも,読者が確実に移動し,GPを購入していったのだろう。

改正銃刀法とは何であったのか(4)

2012年02月28日 19時45分29秒 | エアーガン/実銃
3)この際だから、売っぱらえ

メーカに改修させるのが面倒だし、かといって手元に置くわけにも行かない。そこで多くの人が行ったのがネットオークションへの出品である。たしかに、この時期、出品物が増えたような気がする。ただし、それは全体の値動きが芳しくないということもあった。

私も東京マルイのPSG-1とタナカのM29を出品した。パワーの問題もあったけど、前者は長過ぎて、後者はダブルアクションが重くなる傾向が見られて、使わない傾向が出始めていたことである。しかしPSG-1は出品直前で動きがおかしくなり、ジャンク品として出品した。正常ならばもう少しいい値段がついていたかもしれない。

大阪のショットショーでも、知り合いが出していたことを覚えている。

ただし、需要と供給の問題で、売る人間があれば買う人間がいるということである。ということは、一歩間違えば、銃刀法の完全施行後、場合によっては違法なものをつかんだ人もいたということである。

ネットオークションで知り合った人で、盛んに旧来のバルブ式ガスフルオートを購入していた人がいた。彼に言わせれば、完全な新品美品のJAC M16を3丁も持っていたとか。しかしその人は今ではネットオークションに籍を持っていないみたいだ。あの多くのコレクションを持ったままどうしたんだろうと思う。

改正銃刀法とは何であったのか(3)

2012年02月25日 22時34分16秒 | エアーガン/実銃
2)JACやアサヒファイアーアームズの製品は警察へ任意提出

メーカがまた存在しているならば良かったが、2006年の時点で廃業/倒産したエアーガンメーカも多かった。このなかで最も厄介だったのが2)JACやアサヒファイアーアームズの製品である。これはもう、1Jを兵器で超えていたからだ。

このメーカに限らないけど、ヤバいから警察に持ち込むかという意見もあった。ただし、それは受け取ってくれるかどうかという問題がある。市中にやたら出回り、普通に使っている分には何の問題もないオモチャの回収窓口になるほど警察もヒマではない。実際持ち込んだ人もいたみたいだが、門前払いに近い状態だったみたいだ。

私もJACのFALを持っていたが、さすがに内部ユニットの存在が怖くて分解した。FALは好きな銃だったが、出た当時は高くて手に入れられなかった。中古で買ったが、数回撃って遊んだだけで、ホコリをかぶってたそがれていた。もうその時点で使い勝手のいいものとも思えず、それほどためらいはなくなっていた。分解して原型をとどめなくなるともうどうでも良かった。結局オークションで売り払った。

改正銃刀法とは何であったのか(2)

2012年02月24日 22時29分35秒 | エアーガン/実銃
1)規制値を超えるエアーガンは改修するか廃棄

一年の期限で規制値を超えるエアーガンをどうするかが迫られたのがこの法律の成立時の特徴。業界の自主規制値はとうの昔に有名無実になっていた。この時点でエアーガンメーカーがあれば、文句の一つも言えた。

実際、メーカの多くは改修を行うことを公表。メーカに送れば、改修費用は向こう持ちだった。私の場合、数社の製品が対象になったので、送ったが、こちらから送るときの送料は負担した。しかし返送時の送料はメーカ持ちだった。しかし、中には腹を立てて、着払いかなんかで送った人がいてもおかしくない。その結果、しっかり改修されて帰ってきたので、何も言うことは無い。

しかし考えてみれば、これもメーカの体力を下げる原因にはなったと思う。

ただ、規制値は科学的とはいえ、エアーガンメーカの無いところで作られた数値である。実際、根拠はこの数値を超えると人体に被害を及ぼすというもの。

だが、このときの改正銃刀法によって、大量のコレクションを売りにくる客がいると、あるショップの店員が答えていた。そりゃあそうだろう。買ったときは違法になるとは考えられなかったし、善良な市民なら手放したくもなるはずだ。

この時、一定量のファンを失ったことは想像に難くない。

改正銃刀法とは何であったのか(1)

2012年02月23日 22時02分36秒 | エアーガン/実銃
2006年8月26日、改正銃刀法が施行された。

それまで業界の自主規制値のみが存在したエアーガンのパワー上限を0.98Jとした法律である。

しかし、それ以前においても自主規制値が有名無実というのは、みんなが知っていることだった。とにかくエアーガンのパワーの上限が定められたわけで、法律として守ることはいうまでもなく、当初はユーザーから文句が出ていたが、もう5年も経つと「まあこういうもんだろう」という風に考えられている。いや、考えるしかない。

法律に対する異議申し立てはまったくもってない。ただ、今にして思えば、あの当時いくつかのゴシップが流通してユーザーが混乱したことがあった。実は、こっちの方が問題だったのじゃないかと、いまでも思う。

当時は書けなかったことだし、かといって今書けるかと言うとそうでもない。あまり愉快なネタでもないわけだ。

しかし10年経ったら書けるかと言うと、もっと難しいと思う。だから断片的にでも書いとくのがいいんじゃないかと思った。それでなくとも、国内のエアーガンメーカーは新製品を作らなくなる傾向だし、魅力的なのは中国や台湾やらの製品だし、まして月刊Gun誌はなくなってしまうわけで、もうあと5年もすれば、エアーガンを前にして何かを書くなんてことはできなくなってしまうような気もする。

話を戻そう。

2006年当時にあったゴシップは、私個人の持ちネタで以下の7つだ。7つもあることに驚いている。

1)規制値を超えるエアーガンは改修するか廃棄
2)JACやアサヒファイアーアームズの製品は警察へ任意提出
3)この際だから、売っぱらえ
4)警察はサバイバルゲームをとりしまる
5)警察は軍事色の強いものを警戒する
6)エアーガンで遊ぶにはスポーツの方向がいい
7)スポーツシューティングを目指せ

結論)説明変数としての改正銃刀法

まあ、こんなところだ。

日本製エアーガンの末期か? (1)

2011年04月09日 12時06分40秒 | エアーガン/実銃
個人的に2011年4月1日から、第4次整備計画を発動した。これは、この時期にどのエアーガンを購入し、売却処分するのかを重点的に行うことである。

しかし、今回の整備計画を策定するにあたって、国内のエアーガンメーカを精査すると、現在、開発能力を有する企業が極めて少ないことが判明した。それは、ある小売店が出した次のようなメールに代表される。

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2011.04.08 更新
マルシン製品の発売時期について

マルシン工業製品の、新製品発売時期および再販品入荷時期ですが、メーカーの商品案内に示されていた時期を表記しております。
しかしながら、予告の無い延期が小売店・問屋などへの連絡なしに行われ、数ヶ月から半年、それ以上遅れて発売となる事が当然の事の様になっております。

発売時期を確認しても、明確な回答が無い、回答があってもその時期に出荷されないといった事が多くございます。
また、発売の中止も特に連絡が無い場合があります。

ご予約をいただいておりますお客様にはご迷惑をおかけいたしますが、マルシン製品に関しましては、気長にお待ちいただけます様お願いいたします。
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マルシンも意欲的なメーカであった。「あった」という過去形になってしまう。一時期は新規開発によってたくさんのモデルが並んだ。ガスブローバックエンジンの開発が遅れた同社は、マキシシリーズと呼ばれる固定スライド式のガスガンを中心に据え、8ミリという独自のBB弾の規格を提唱した。そしてまた、ブローバックエンジンを開発すると、単なるスライドの後退のみを行うのではなく、カートも飛ばすモデルを開発し販売した。

しかし、同社は商品の煮詰めが少し甘い部分もあった。確かに器はよくできていたが、マガジンの材質や設計が理念に疑問を感じる部分が多く、もう少し見直せば弾数が稼げるとか、もう少し材質と重量を見直せば不自然な重さのマガジンを持つモデルではなくなるはずといった課題を多く抱えていた。

同社の最近の開発の中心はリメークである。あるいは過去のモデルを再販売することが増えている。M1ガーランド、カービンを6ミリになおして販売することが最近行われた。しかし、こうした販売方法は確実に売れるということが前提になければならない。私が知る限りでは、M1カービンのマウントベースを再販売する予定が伝えられ、問屋を通じて小売店の受注を取ったが、注文数があまりに少なく再生産中止になったそうだ。既に多くの消費者の手元にわたっており、あらためて販売しても売れないほど、過去の資産の市場における「飽和化」が進んでいる。

しかし、これはマルシンだけでない。KSCも盛んにリメークを行い、再生産/再販売を行っている。KSCの新製品も一年に一回出るかどうかというペースになってきている。

ウェスタンアームズのリメークを既に10年以上になる。似たようなガバメントがどんどん出され、小売店の在庫もかなりだぶついている。後は材質の変更を行うくらいか。

タナカのリメークは表面仕上げに終始してきている。しかし、同社の方針はエアーガンをモデルガンへコンバートすることが盛んなようだ。これはエアーガンの新規開発を意味するのではない。特にエアーガンのショットガンは市場で失敗したと見ることもできる。ノンカートのボルトアクションライフルがもう少し安ければ、市場の受けも良いのかもしれない。おそらく同社のマグナライセンスのガスブローバックはもう出されないと考えられる。


ウェスタンアームズはベレッタ商標独占使用権を持っていないのでは?

2010年12月29日 13時34分19秒 | エアーガン/実銃
ボヤーッとGun誌の表4(裏表紙)の広告を見ていて気がついた。あれほど主張していたベレッタの商標権独占使用の告知と、本体のフレーム側に入れるべき注意書きが無いことにおとつい気がついた。独占使用権は既に切れたのでは?という疑問が生じた。

Wikipediaには、この商標権の争いについて以下のような記述がある。

また、ベレッタ社の商標使用権を独占した事を契機に、同社と共同で意匠権侵害の訴訟をライバルメーカーに対して起こすが、玩具・模型での商標模倣はベレッタ社の製品販売に損害を与えるものでは無いとして敗訴している。 ベレッタ社の商標使用権を得る以前に同社の商標を無断使用していた事、良好な関係にあるメーカーに対しては訴訟を起こさなかった事が判決に影響したという指摘もある。(2006年4月現在)

そういえば、最近KSCは同社のM93Rに実物刻印を入れて限定販売することがあった。おそらく水面下で取引して販売数や出荷期間をしぼることで比較的安価にライセンス使用権を得たのだろうと考えていたが、これではそうも考えられなくなる。KSCはベレッタに対してライセンス許諾を得ればいいだけである。ただ、若干使用料が高いのかも知れないし、あれだけ大騒ぎした事件だから、もうベレッタの商標など何処も使いたくないのはやまやまなのかもしれない。

独占使用でとばっちりを受けたのは消費者である。あの結果、どこのメーカもベレッタ製品のモデルアップをしたがらなくなった。マルイのPx4は出るべくして出たのだが、表面のマークなどはオリジナルだ。あまり目立たないが。本来、独占使用など決め込むのならば、ウェスタンアームズはベレッタ製品を「責任」もってモデルアップすべきであった。M92Fシリーズとクーガーだけでもう15年近く。その機構は少しも変更していないし、いまだにスライドノッジプレートも入れていない。材質と表面処理を変えた中途半端な製品をだらだらと出し続けたが、その間に消費者側の市場はすっかり疲弊した。

ウェスタンアームズもベレッタにいくら払ったのか知らないが、それにつぎ込むくらいなら・・・とも思う。今のウェスタンアームズに払える余裕はないと考えるし、払い続けてまで独占する理由もないからだ。自社から出さずに独占することは他社牽制以外に何の効果もない。それで10年以上やったのだが。

カセットのウォークマンが生産終了

2010年10月30日 12時42分18秒 | ニュース
レアアースなかりせばのカセットウォークマンにあちこちで訃報がが話題提供元。

もうカセットのウォークマンなんて生産終了しただろうと思ったけど、まだ続いていたんだと改めて実感した。日本では生産終了。アジアや一部欧米では生産を続けるとか。そもそもカセットウォークマンは1979年から発売開始。当時はかなり大きかったはずだ。これが、我が家にやってくるのは、10年はかかったはずである。実家で一番最初に買ったのは父親だった。かなり上位機種であったらしく、音楽を聴くという本来の機能のほかに、ラジオや集音型の録音装置を持っていた。ただし、結構壊れやすく、しょっちゅう修理に出していたように思う。

私は何かの景品で、ただ再生を行うだけのウォークマンをもらったことがある。高校に入ったくらいか。確か機能は再生と早送りだけ。繰り返し聞かなければならない時は、テープを取り出して鉛筆で巻き戻しを行ったいた。すでに周囲はそれなりのウォークマンを持っていたので、そんなものを見せたとたん、大笑いされた。

そんな父親の姿を見ていたというのもあるけど、私が本格的なウォークマンを欲しがったときに示した機種は、ワイヤレスタイプのウォークマンだった。(写真は「とあるソニー好きなエンジニアの日記」さんから)


あまり酷使しなかったというのもあるけど、結構耐久性があった。たしか故障してサービスセンターに持ち込んだのは、一回だけ。これを学校の行き帰りに聞いていたと思う。友人にも見せたが、「大きいね」と言われた。もうすでに、それなりの小型化(といっても今のiPodとは大違いだが)がウォークマンの中でも始まっていたが、その大きさは一回り以上大きかった。しかし、レシーバーと本体は分離していたので、そんなことはこの際関係ない。レシーバーを友人に貸して聞かせていることを忘れて、本体の鞄を持ってうろうろした時は、友人が怒りだした時がある。

それでも本体接続型のウォークマンは大きかった。もちろんだ。カセットテープよりも小さく作れないからだ。それでも結構聞いていたと思う。高校を卒業して二年浪人したが、その時も持ち歩いていた。当時、S台予備校に通っていたが、大阪南校は南の堀江にあったが、心斎橋筋の西側、さらにアメリカ村の西側にあって、今日でこそそれなりのブティックなどが建ち並んだおしゃれな街になっているが、当時はただの倉庫街だった。さらに言うとバブルがはじけた後だったから、なおさらうらぶれた感があった。

それでもかなり工事は遅れていたみたいだが、周辺の再開発が進んでいて、空き地ばっかりでもあって、都市が行き着くとこまでいったという印象があった。夕闇がおりたその風景を、永井真理子のChangeを聞きながら眺めるのが好きだった。

なんとか大学に入ったあとは、普通音楽との付き合いが深くなるはずなのに、逆に疎遠になっていった。家では痴呆の進んだ祖父が大変なことになっていたが、ラジカセをつけると決まって、ウロウロするのである。どれだけ音をしぼっても、ウロウロしだすのである。これが結構なストレスに転じた。そのために音楽を聴くことがなくなっていったのだと思う。

その他にも、レンタルで借りてきたCDをラジカセ経由でカセットに録音する。ただし、テープの時間は決まっていて、どこで切れるかはわからないので、一曲一曲計算しなければならない、録音してもタイトルの情報が残らないので、いちいち書き写さなければならない。下手したら、レンタルショップで歌詞カードすら貸してくれないこともある。

実は、こうした煩わしさをいっぺんに解消したのがインターネットとiTuneであった。今じゃインターネットでググればタイトルも歌詞も簡単に出すことが出来るし、iTuneにCDを取り込めば、たいていCDの情報をどこからか引っ張ってくるのだ。まして店先で聞いた曲の一部を検索サイトに入れれば、だいたいそれを見つけることができる。ただ、それはかなり後の話。

レンタルのショップも遠いわで、そりゃあかなり疎遠になっていく。バブルの頃にレンタルショプが流行ったのは、既にお金を出してCDを買うという行為が忌避されだしていたことを示している。たしかに今でこそ、CDを買うひとがいるし、当時もやたら持っている友人はいたけど、あのカネ余りの時代にしてみても、3000円少しのCDにカネを投じるのは、それなりに勇気がいったのだ。

学部2回のとき、電車の中でとなりに座った国文科の友人が、CDウォークマンを持っていた。しかし、私はこれがそれほど魅力的に写らなかった。というのも、既にカセットのウォークマンでそれなりに「大きすぎる」と感じていたところへ、あのCDの大きさである。もちろんワイヤレスではなく、本体とつないだコードがある。当時はカセット式のウォークマンでも携帯して音楽を聴くのには、それなりの工夫が必要だった。みんなは鞄からコードを出していたり、上着やズボンのポケットに放り込んでいたが、落としそうで、壊しそうでと言った具合だった。中には小さな巾着にいれてズボンのベルトにつけていたのもみたが、お義理にもカッコいいとは良いがたい。

結局、音楽をどんな形におさめてあるかで、大きさが変化してくる。そうこうしているうちにMDが出てきた。これがいったいいつ頃登場したのかさっぱりわからないので今回調べてみることにした。

・・・とはいっても、早いとこ書き終えて、部屋を掃除して勉強しなければならないのだが。

結果、またまた「ソニー」の名前を拝む結果になった。ウィキペディアの結果を編集してみよう。

ミニディスク (MiniDisc) とはソニーが1992年に発表したデジタルオーディオ記録用の光学ディスク媒体およびその規格である。略称はMD(エムディー)。アナログコンパクトカセットを代替するという目標が開発の背景にあった。しかしコンパクトカセットについては2010年現在でも根強い需要があり、市場では完全な代替には至らずコンパクトカセットとMDの両方を搭載したラジカセやミニコンポなどが販売されている。
CDが世界に広く普及したのに対し、MDは日本市場のみに普及した。事実上、MDは日本独自のメディアフォーマットであるといえる。
当初ソニーが日本国外向けにウォークマンのみならず据置型デッキ・ミニコンポ・カーオーディオ機器を開発・発売し、オーバーシーズモデルのカタログにも掲載されその中には完全な日本国外専用モデルも存在したが、ソニー以外の他メーカーの参入はほとんどなく現在はHi-MDウォークマン・MZ-M200が販売されているのみである。
その結果、現在販売されている日本国外向けオーディオ機器はCDとコンパクトカセットが主流である。
2010年現在、iPodやメモリータイプのウォークマンなどのデジタルオーディオプレーヤーの普及によりMD市場は衰退の一途をたどっている。特にポータブルMDプレーヤーに関しては2007年3月以降パナソニックを皮切りに各メーカーが次々と生産、販売から撤退し、ソニー製の録音・再生対応Hi-MDウォークマン、MZ-RH1が唯一現行機種としてカタログに残っているが、2009年10月頃に、一部の販売店では取り寄せ不可になった(SONYの直販サイト、ソニースタイルでは購入できる)。


実家でMDコンポを導入したのは妹だった。2000年頃だったと思う。それで彼女はいろいろレンタルで借りてきたCDをダビングしていたが、私自身は使いにくさを感じた。音楽は取り込めても、タイトルなどの周辺情報まではどうしても取り込めない。ましてMDの編集が効くから、こうした周辺情報はなおさら重要になるからだ。就職した年の2003年、私はMDウォークマンを買うことも考えたし、周囲は結構持っていたけど、結局買わなかった。

すでにiPodが登場していたが、当時はかなり高価に思えた。これを手に入れるのは少し先の話である。

長くして再発見

2010年10月17日 18時40分48秒 | エアーガン/実銃
かなり前になるが、KSCのHK33Kを手に入れた。2007年4月の話だ。この入手はショップではなく、ネットオークションである。本体のほかにバッテリーと予備のマガジン2本がついてきた。かなり良い買い物だった。おそらくこれまでオークションで手にした商品の中で一番良い買いものだったんじゃないかと思う。ただ、ショートバージョンのHK33Kであったたため、とりあえず手に入れたという感じだった。サブマシンガンなら銃身の短いものでも受け入れるが、ライフルはバレルがそこそこ長いものという考えがあったからだ。HK33Kはハンドガードから先はフラッシュハイダーという構成だ。ここらが私自身のわがままだ。

だが、いまだにネットオークションで出品されるHK33をみていると最も銃身の短いKであることが多い。Kであることの利点は取り回しの良さだ。ただし、取り回しが良いから、重量も軽いというものではない。事実、KSC HK33Kはかなり重い。ただ、同じ重いのなら、銃身は長い方が良いと言うのがある。

実は、私の悪い癖は入手したにも関わらず、ほとんど撃たないまましまい込むことである。所有することが目的になりつつある。その結果、ろくに魅力もわからないまま、手放すというのもある。「お座敷シューター」という言葉があるが、あれはあれで、室内でも撃つからそれなりに責任を果たしているのである。しかし、全く撃たないというものではない。最初の一回程度は撃つのである、それで満足するかどうか。例によって、HK33Kを外に持ち出して撃ったことがある。前評判どおり、最初の一発が出てこない。操作感はマルイの電動とは異なるが、やはり軽快さで言うとマルイの方が上である。トリガーを引いてからギアがまわり、ピストンを動かす構造ではなく、あらかじめ後座したピストンが保持された位置からの前進であるため、トリガーのキレは良いはずだが、それでもかなりの重さを感じる。なんと言うか、マルイの電動とはかなり異なるのである。

「まあこんなものか」と思った。で、しまいこむのだが、いつの間にやら「使えない銃」という印象を持つようになってしまった。ちまたで聞くこの銃の性能はあまり芳しく無い。サードパーティーのパーツも少なく、なおかつゲームで一日使えない(具合が悪くなる、故障する)というものである。

ただ、外観だけでもロングバレルにできんかね という考えが私にはあった。内部のインナーバレルの交換になると大仕事だが、外部のアウターバレルなら付け替えるだけだった。連絡を取ったり、パーツリスト取り寄せたりで間に行う仕事が多かったが、わずかなパーツを取り替えるだけですんだ。

その結果、ロングバレルとスライドストックのHK33A3になった。
メーカの写真だけだとわからないが、かなりカッコよくなった。ただ、ストックの形状は旧型で肩へのなじみはすごく悪い。固定ストックに変えるかどうかは思案中だ。