Kaz Laboratory  (KazLab)

Knowing the A to Z of :-)
Kazが読んだ本、考えたこと、日々の記録

最後の授業~心をみる人たちへ

2012-06-10 17:59:17 | 人間・家族・教育
大学では法律を専攻したことになっているが、実定法をしこしこ学ぶことに興味が持てず、専らフランス哲学とか構造主義みたいな領域の本ばかり読んでいた。
心理学がこうした学問の重要なモチーフの一つなので、自然とフロイト、ユングの研究なども聞きかじることとなり、僕にとってはずっと関心ある分野だった。
フォーククルセーダーズ「帰ってきた酔っ払い」で270万枚のヒットを持つ作詞家にして精神分析家の北山修先生が僕の母校の教育学部の教授になるのは、僕の卒業と入れ違いだったが、講義を聴いてみたかったなぁ。もしかしたら人生変わってたかも、とも思う。


その北山先生の九州大学での最終講義録。


第三者を意識しない二者間交流でのコミュニケーションが精神分析には重要(これはかつて、友人、親、長老との対話という形でもっと普遍的に存在した)で、世の中は第三者にもわかる三者言語ばかり求めてくるという指摘には膝を打った。
僕はゆっくり酒を飲むときは2人、せいぜい3人までで飲むのが好きで、大人数は心の底では苦手。仕事や社会生活の上で、徹底的に「第三者にも論理的に説明できる」という三者言語が求められる反動からか、素の自分に戻ったときには二者言語を大事にしたいという気持ちが強いのだろう、と自己分析してみたりする。

                                                       ◆

一緒に見ているものを「面白いね」という話しかけ、それは非言語的に、情緒的に伝えられている。「きれいね」というようなことは、非言語的に身体的に伝わる。これが二者間内交流、この領域を言葉(二者言語)にして取り扱うのが精神分析家、セラピスト。第三者を意識したものは二社間外交流。
人生という旅に出るときは、どこに行ったのかよりも誰と行ったのか、どういう行為をしながら誰と出発したのかのほうが生きている糧になる。だから精神分析家はそういった二者間内の交流を取り扱う。
セラピストになろうとする者には、二者言語が喋れることが大切。
世の中は三者言語ばかり求めてくる。
この九州大学がどれだけ優秀な人材を世界に送り出したのか数で示せと求められる。
学会発表を何本やったのかが求められる。
第三者がはっきりとわかるようなものを示せ。これが第三者言語のありようなんですね。
(p84-88抜粋)



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快感回路

2012-06-10 16:12:59 | 宇宙・地球・環境・生命科学
「脳」本も大流行でピンキリなのであるが、こちらはジョンズ・ホプキンス大学の神経科学の教授の著作でアカデミックな体裁ながらも、目から鱗のエピソードが満載で知的興奮を随所に味わえる。(読書で快感回路が刺激される良い事例だw)


行動ファイナンスで指摘されるところの「株で勝つ1万円と損する1万円は同じ金額だが、損する代償のほうを大きく感じてしまう」非合理性も脳の快感回路に由来する可能性がありそうだし、豊かさを感じるのが絶対量でなく、隣人との比較の概念であることも脳の報酬中枢の活動に強く影響を受けていることもはっきりしているらしい。
本筋とは関係ないが、生殖と関係なく年中セックスをするのは”本能が壊れたサル”であるところの人類だけかと思っていたら、ボノボやイルカも排卵周期とは関係のない娯楽的なセックスや自慰行為をすることも知られているらしい。


なかでも一番魅かれた記述が下記。
最新の脳の研究について書かれているのに、これこそまさに仏教の「色即是空、空即是色」について語っているように思えるのだ。


神経生物学的な快感の一般モデルにはしっかりとした根拠があり、研究が進むにつれその根拠は強まるばかりだ。だとすると、私たちの生活に命を吹き込んでくれているこの快楽(美徳も悪徳も含めて)について、どう考えればよいのだろう。素敵な食事、祈りの中で神とつながっていると感じる至福の感覚、極上の夜の営み、土曜の朝の「ランナーズハイ」、友人と酒場で過ごすほろ酔い気分の愉快な夜、それらが全部、内側前脳回路の活動とドーパミンの増加に還元できるというのだろうか。その答えは、イエスでもあり、ノーでもある。イエスというのは、私たちが何かを快いと感じるとき、ほとんどすべての場合に内側前脳ドーパミン回路に関係する報酬の神経調節器が働いていると思われるからだ。ノーというのは、快感回路が単独で活動しても、色合いも深みもない無味乾燥な快感が生じるだけだからである。快感が私たちにとってこれほど力を持つのは、快感回路と脳の他の部分との相互連携によって、記憶や連想や感情や社会的意味や光景や音や匂いで飾り立てられているからだ。脳の回路レベルでのモデルは、快感を生じさせるのに必要な条件を教えてくれるが、それだけでは十分ではない。快感が持つ非日常的な感覚やその感触は、快感回路と関連する感覚や感情がつながり合った網の目から生じてくる。(P35)



日本人の法意識

2012-05-03 20:55:24 | 法律・経済・政治
日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)
クリエーター情報なし
岩波書店


憲法記念日ということで、日本の法社会学の泰斗の基本書を再読してみた。


西ヨーロッパの先進資本主義国家ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活のあいだには、大きなずれがあった。そのずれは、具体的にどのようなものであったか。そのずれは、その後の日本の近代化ないし資本主義の発展によってどのように変形したか。そうして、第二次世界大戦後の全く新たな政治体制―それは、現在の「日本国憲法」によって象徴される―と、それに連なる経済的・社会的体制のもとで、現在、そのずれはどのように変化し或いは後退し或いは消滅しつつあるのか。
(中略)
「伝統的な社会秩序とは異質的な内容をもつ法律を、外国―特に、先進資本主義社会―から継受した場合に、それらの法律が果たす社会統制の機能は何か。それらの法律と当該の社会との間にどのような相互調整の過程が進行するか」を追求することは、明治維新後100年を経過しようとする今日の時点において、興味ある問題たるを失わない。
(P6)

僕が生まれる前に出版された本だが、日本の製造業が最高峰の技術を持ちながらガラパゴスと化してヘゲモニーを握れないどころか劣勢に回っていること、法令遵守で息がつまりそうなほど閉塞社会になってしまっていることなどを見るにつけ、川島博士の問題意識は相変わらず今日的問題であると思う。

無名の人

2012-03-29 19:45:50 | 歴史・日本・TOKYO
司馬遼太郎の小説といえば、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』のように時代の動乱期に活躍する傑出した人物を描いたものが多い印象がある。
しかし、実際には、主人公を取り囲む家族や仲間や敵役も含めて様々な人物の描写が生きているように鮮やかなことが物語を深くしている。
そうした歴史に登場しない人物まで含めた造形を創るため、歴史小説を書くにあたって司馬さんが膨大な資料を収集することは語り草で、新規の創作にあたるときには神田の古本屋から関連文献が一切なくなるほどだったという。

そういう歴史作家であった司馬さんの短いエッセイに「無名の人」というエッセイがある。
初出は高校の教科書である。
僕はまさに高校の授業でこのエッセイに触れ、深い印象がずっと残っている。

内容は「所郁太郎」という美濃生まれの幕末の志士の話である。
緒方洪庵の適塾出身で医学を修めたこの武士は、憂国の情から長州に身を寄せて倒幕運動に加わっている。
タイトル通り、歴史的には「無名の人」なのだが、この人がいなければおそらく歴史が変わったであろうというエピソードを残している。
若かりし頃の井上馨が賊に切られ、長州藩の御典医も見放す瀕死の重傷を負ったところに、たまたまこの所郁太郎が井上を訪ね、畳針で五十針以上縫合し、命を救ったというものだ。
この後、所氏自身はあっけなく腸チフスで20代のうちにこの世を去るという何とも因果な巡り合わせが結末。

この授業を担当した国語教師が誰だったかすら覚えていないこの話のどこが印象深かったのかというと、国民作家の小説を紡ぐ技法に目を見開かれたわけでも、人生の諸行無常に感じいったわけでもない。
エッセイに刻まれた所郁太郎氏の命日が、僕の誕生日だったのだ。
この年頃の若者というものはスピリチュアルなものへの感受性も強く、何かのきっかけで「自分はこの人の生まれ変わりかも」と思ってしまう。高校生だった僕の場合はこの話がぴたりハマったということだ。なお、後でよくよく考えてみれば、太陰暦で記載された三月の命日は太陽暦に換算すると四月になってしまい、僕のバースデーとはまったく合わない(笑)

このエッセイが文庫に収められているのを知り、20数年ぶりに読み返してみた。
僕も不惑をすぎてこの程度では、歴史に名を残す人にはなりようがないが、所郁太郎氏のように一瞬でも光る何かを残す人生にしたい、そのために日々を懸命に生きようと思う。
ちょうど、氏の命日に発刊される雑誌に寄稿する文章があったので、名前の一部をお借りしてペンネームにさせていただいた。

司馬遼太郎が考えたこと〈8〉エッセイ1974.10~1976.9
クリエーター情報なし
新潮社



心はあなたのもとに

2012-01-18 23:23:51 | エンターテイメント
心はあなたのもとに
クリエーター情報なし
文藝春秋


上質のシングルモルトを楽しむように、数頁ごとに味わいながら読んだ作品。
面白かった。(きっと、読み手は相当選ぶだろうけど。)
どういう話なの、というストーリーを追うより、登場人物に託した著者のメッセージを噛み締めたい。

<以下、文中より>

問題はもっと単純だ。
良い家族関係を維持するほうが家庭を崩壊させるよりもむずかしい。だから家庭を崩壊させてしまう人間は単に良い家族関係を維持する意思や能力がないというだけだ。また、家庭はいろいろな意味で休息の場として機能するので、重要な仕事を抱えている孤独な人間ほど家庭関係を重視する。
トラブルの種として家庭が加わると重大な支障が生じるからだ。だから家庭•家族関係を軽視し、崩壊させてしまう人間は、孤独ではなく、群れるのが好きで、重要な仕事を持っていない場合が多い。(P228)


誰だろうが、その人を支えるのは恋愛なんかじゃなくて、経済だ。それで、ほとんどすべての人にとっての経済とは、生活の糧を得るための仕事だ。十九世紀に市民階級が誕生するまで、恋愛は貴族だけのものだった。貴族が知的階級だったからじゃなくて、恋愛をするための経済的、時間的余裕があったというひどくシンプルな理由でね。もしぼくが、今の仕事を奪われたり支障が出たりすれば、愛人と家庭とどちらを選ぶのかなんてバカなことを考える余裕はなくなる。今盛り上がってるこの会話を支えているのは、このバーの雰囲気とこの偉大なるワインで、どちらもそれなりに経済的余裕が必要だよね。屋台のおでんとかラーメン屋の話題じゃないし、居酒屋で、一杯三百五十円の酎ハイを飲んで二百八十円の肉じゃがを食べながらこんな話をするやつはいないよ。(P234)


あなたはお父さんが道楽者だって言うけど、児童心理学的にいうとね、父親の役目は、子どもたちにね、自分の世界はエクスパンドできるってことを教えることなのよ。自分がいる場所や世界ね、それに人間関係も、閉じられていなくて、拡げることができるって、言葉じゃなくて、行動とか態度で伝えることなんだけど、そのためにはあまり家にいなくて、社会的規範から自由なのが理想なんだよね。もちろん犯罪者じゃだめよ。その辺が微妙だから難しいんだけどさ。楽しくてしょうがないって仕事をもっていることが大事、それで家にずっといて家庭のことに口出しするのは最悪。適当がいいの。適度にふまじめでないとダメなの。社会的規範をしっかり守るのは、息苦しくて、子どもにとっては世界が閉じられたも同然なの。わたしがこんなことを言うのも変だけど、お父さんはあなたに本当に大切なことを教えたのよ。自分の世界は自分で拡げることができるってことを、言葉じゃなくて態度と行動で教えたの。(P526)