大学では法律を専攻したことになっているが、実定法をしこしこ学ぶことに興味が持てず、専らフランス哲学とか構造主義みたいな領域の本ばかり読んでいた。
心理学がこうした学問の重要なモチーフの一つなので、自然とフロイト、ユングの研究なども聞きかじることとなり、僕にとってはずっと関心ある分野だった。
フォーククルセーダーズ「帰ってきた酔っ払い」で270万枚のヒットを持つ作詞家にして精神分析家の北山修先生が僕の母校の教育学部の教授になるのは、僕の卒業と入れ違いだったが、講義を聴いてみたかったなぁ。もしかしたら人生変わってたかも、とも思う。
その北山先生の九州大学での最終講義録。
第三者を意識しない二者間交流でのコミュニケーションが精神分析には重要(これはかつて、友人、親、長老との対話という形でもっと普遍的に存在した)で、世の中は第三者にもわかる三者言語ばかり求めてくるという指摘には膝を打った。
僕はゆっくり酒を飲むときは2人、せいぜい3人までで飲むのが好きで、大人数は心の底では苦手。仕事や社会生活の上で、徹底的に「第三者にも論理的に説明できる」という三者言語が求められる反動からか、素の自分に戻ったときには二者言語を大事にしたいという気持ちが強いのだろう、と自己分析してみたりする。
◆
一緒に見ているものを「面白いね」という話しかけ、それは非言語的に、情緒的に伝えられている。「きれいね」というようなことは、非言語的に身体的に伝わる。これが二者間内交流、この領域を言葉(二者言語)にして取り扱うのが精神分析家、セラピスト。第三者を意識したものは二社間外交流。
人生という旅に出るときは、どこに行ったのかよりも誰と行ったのか、どういう行為をしながら誰と出発したのかのほうが生きている糧になる。だから精神分析家はそういった二者間内の交流を取り扱う。
セラピストになろうとする者には、二者言語が喋れることが大切。
世の中は三者言語ばかり求めてくる。
この九州大学がどれだけ優秀な人材を世界に送り出したのか数で示せと求められる。
学会発表を何本やったのかが求められる。
第三者がはっきりとわかるようなものを示せ。これが第三者言語のありようなんですね。
(p84-88抜粋)
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心理学がこうした学問の重要なモチーフの一つなので、自然とフロイト、ユングの研究なども聞きかじることとなり、僕にとってはずっと関心ある分野だった。
フォーククルセーダーズ「帰ってきた酔っ払い」で270万枚のヒットを持つ作詞家にして精神分析家の北山修先生が僕の母校の教育学部の教授になるのは、僕の卒業と入れ違いだったが、講義を聴いてみたかったなぁ。もしかしたら人生変わってたかも、とも思う。
その北山先生の九州大学での最終講義録。
第三者を意識しない二者間交流でのコミュニケーションが精神分析には重要(これはかつて、友人、親、長老との対話という形でもっと普遍的に存在した)で、世の中は第三者にもわかる三者言語ばかり求めてくるという指摘には膝を打った。
僕はゆっくり酒を飲むときは2人、せいぜい3人までで飲むのが好きで、大人数は心の底では苦手。仕事や社会生活の上で、徹底的に「第三者にも論理的に説明できる」という三者言語が求められる反動からか、素の自分に戻ったときには二者言語を大事にしたいという気持ちが強いのだろう、と自己分析してみたりする。
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一緒に見ているものを「面白いね」という話しかけ、それは非言語的に、情緒的に伝えられている。「きれいね」というようなことは、非言語的に身体的に伝わる。これが二者間内交流、この領域を言葉(二者言語)にして取り扱うのが精神分析家、セラピスト。第三者を意識したものは二社間外交流。
人生という旅に出るときは、どこに行ったのかよりも誰と行ったのか、どういう行為をしながら誰と出発したのかのほうが生きている糧になる。だから精神分析家はそういった二者間内の交流を取り扱う。
セラピストになろうとする者には、二者言語が喋れることが大切。
世の中は三者言語ばかり求めてくる。
この九州大学がどれだけ優秀な人材を世界に送り出したのか数で示せと求められる。
学会発表を何本やったのかが求められる。
第三者がはっきりとわかるようなものを示せ。これが第三者言語のありようなんですね。
(p84-88抜粋)
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