学生の学力低下は本当に深刻になってきたなぁ,と今日も講義で感じました.
その学力低下の原因として,
内田樹の研究室で述べておられました.
学生の学力の低下は大学の責任ではなく,国民全員の責任であるとのことです.
折しも今日,全く同じことを職場の同僚と話していましたので非常に頷くところがあります.
煎じ詰めれば,同年代の学力競争において,自分の学力を上げるよりも全体の平均を下げる方が,相対評価社会においては少ない労力で目的を果たせるため,全体の学力低下は必然であるという考えです.もちろんそれがすべてとは思えませんが,主要因のひとつだと思います.
このような現象は何も日本の生徒の学力だけに現れる問題ではないと思います.研究の世界においても同様の傾向が出てくるときがあります.最近の研究業界は非常に競争が激化し,データを捏造してまでも論文を出す例も多く見かけられるほどです.そのような状況において,インパクトファクターの高い雑誌に論文を多く出すことが良い成果と認められる傾向にあります.
投稿論文における,いわゆるアクセプト(掲載可)か否かを決定するのは同分野の研究をしている研究者(レフリー)です.苦労した研究の成果がパブリッシュされるかどうかはそのレフリーの判断一つにかかっています.
しかしそのとき,レフリーは考えます.
「どうもショボショボな論文だ.落としてやろうか.いや,まて.もしここでかなり厳しい判断をすると,次に私が投稿する論文も同じように厳しい判断をされてしまう.ここは多少緩い評価をして,次に投稿する私の論文のハードルも下げておく必要がある.」
このような判断が順次繰り返されると,だんだんその分野の論文の質が下がります.一旦質の低い論文がパブリッシュされると,その後はそのレベルが基準となり,より質の低い論文もパブリッシュされるようになります.
「あの程度の質でもパブリッシュされてるんだから,こんなものでもいいでしょ」ということになります.だんだんレフリーの判断基準も狂ってきますので,結局瞬く間にその研究分野の論文の質が下がっていきます.
実際,私の普段読んでいる雑誌の論文の質も年々下がっているように思えます.雑誌社から査読に回ってくる論文も,めちゃめちゃひどいのがあります.
もちろん研究の質には自分なりの一線を持っていて,そのレベルだけは死守しようとしている研究者の方が圧倒的に多いと思いますが,そのような業界においてでも論文の質の低下が現れています.
況わんや,今の日本の子供の学力においては止めることのできない必然だとしても仕方ありません.
しかし,そうはいっても一つ気になるのは,絶対的に習うべき内容自体は変わらないのでは無いかと思います.
「そんなんも知らんのか!」
と一喝するものです.それを死守すれば,上述しました足の引っ張り合いにおける全体の質の低下をある程度食い止めることができると思うのですが.
「そんなことも知らんのか!」というのものを「そうかぁ理解できないかぁ.じゃぁそれは知らんでええかぁ」ということなっているのでしょうか...