フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 4~6月期のテレビドラマ、いわゆる春ドラマがその後も続々と始まっています。今週に続いて、恒例のテレビドラマ批評(勝手な感想)を書いていきたいと思います。今回はプライムタイムのドラマに加えて、深夜枠作品についても、いくつか書いていきます。

『アンチヒーロー』(TBS系、日曜21時)

 伝統の日曜劇場枠は、現在の民放ドラマではもっとも視聴率もとれ、話題にもなる放送枠といえるでしょう。長谷川博己が、裁判に勝つためには手段を選ばない、一種の悪徳弁護士を演じます。深夜に放送される低予算でほのぼのした作りの作品も好きですが、これだけ力の入った作品を見せられれば、それはさすが、という他ありません。キャラが立つという言い方がありますが、これだけ徹底したアンチヒーロー像が描かれれば、そこにひきつけられるものがやはりあります。私って「頭のいい悪い人」が好きなんだなあ、と再認識しました。
 余談ですが、主演の長谷川博己は中央大学文学部の卒業。インタビューで「僕が卒業した大学は法学部が有名な大学で…」って。「中央大学」ってはっきり実名で言ってくれよ!

『アンメット ある脳外科医の日記』(フジテレビ系、月曜22時)

 交通事故で脳に障害を負い、翌日には前日の記憶がなくなってしまうようになった外科医・河内ミヤビ(杉咲花)が主人公。初回を見て、毎日ある訓練をしていけば、記憶がなくなっても技術は向上していく、といった部分が特に印象的でした。つまり、記憶がなくなっても毎日元に戻ってしまうのではなく、日々努力したことは確実にその人の中に残っていく、という初回のテーマは感動的でした。とはいえ、これは娯楽に重点を置くテレビドラマの世界では、とっつきやすいテーマとはいえません。いいことを語ってくれている作品ではありますが、多くの視聴者に受け入れてもらえるのかについては、やや心配になりました。

『9ボーダー』(TBS系、金曜22時)

 39歳(木南晴夏)と29歳(川口春奈)と19歳(畑芽育)の3姉妹。「3姉妹がモヤり、焦りながら、自分の生きる道を模索 金曜日がハッピーになる ヒューマンラブストーリー!」だそうです。
 過去に女性の生き方を模索した群像ドラマが多くありました。鎌田敏夫の『29歳のクリスマス』(1994)、岡田惠和の『彼女たちの時代』(1999)など、名作がたくさんありました。それぞれに時代をとらえているところが見事でした。昨年深夜枠で放送されていた『かしましめし』も思い出します。初回を見る限り「ハッピー」な感じはあまりしないのですが、ここから少しずつハッピーになれるよう模索していくところこそ、この作品の肝心なところなのかもしれません。

『お迎え渋谷くん』(フジテレビ系系、火曜23時)

 彼氏いない歴の長い28歳の真面目な保育士(田辺桃子)と、恋愛経験のない24歳の若手イケメン俳優(京本大我)のうぶキュン物語。恋愛ドラマの歴史を考察してきた立場からいえば、「恋愛苦手な人たちの不器用な恋愛」というのは、現代のトレンドではあります。こんな若手イケメン俳優がいるはずないだろ!といったツッコミはさておき、その不器用さがほほえましく見られます。田辺桃子も京本大我もコメディが似合うとは思えませんが、いかにものコメディアン、コメディエンヌ俳優ではないことのギャップ感は、わるくないとも感じました。私はこの作品からは脱落しないで、最後まで見通せそうです。

『季節のない街』(テレビ東京系、金曜深夜)

 以前と異なり、有料テレビで放送された作品が後から地上波で放送されるようになる、というパターンが出てきました。この作品もそうです。企画・監督・脚本は宮藤官九郎。そして、この作品に豪華キャストが結集しています。通常の深夜ドラマでは不可能な組み合わせでしょう。
 山本周五郎の同名原作小説、黒澤明監督の映画『どですかでん』を引き継ぎながら、12年前の災害「ナニ」の後の仮設住宅の人びとという、独自の世界を描き上げています。「重い(重すぎる)内容をまるで軽い話のように描いていく」のが宮藤官九郎の真骨頂で、それは『あまちゃん』はじめどの作品においても変わりませんでした。この作品でも同様の要素はありますが、ときに(特に第2回は)あまりに重い内容も見られました。クドカンが自分の描き方を貫きつつも、通常の民放ドラマでは扱いにくい世界を、ここでは描こうとする熱意のようなものを感じました。

『約束 ~16年目の真実~』(日本テレビ系、木曜24時)

 16年前に父親が連続殺人犯として逮捕された少女が、その後女性警察官(中村アン)になる、という設定。16年前の時間の舞台となった町にもどってきた女性警察官が、次第に過去の謎に向き合っていく…とう物語のようです。「予測不能×完全オリジナルの”心理サスペンス”」だそうです。笑わない中村アンはわりと好きなのですが、設定としてはかなりありがちな話です。しかも、主人公の叔父の岡部たかしがいかにも犯人っぽい。そう思わせておいて実は違う……、だと思いますが、もし本当に犯人だったら私怒りますよ!

『君が獣になる前に』(テレビ東京系、金曜深夜)

 地下鉄サリン事件をこんなふうに扱うこと、血が流れたり飛び散ったりする映像が多いこと、私はいずれも生理的に受けつけません。ごめんなさい。脱落します。

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 4~6月期のテレビドラマ、いわゆる春ドラマが続々と始まっています。今週から、恒例のテレビドラマ批評(勝手な感想)を書いていきたいと思います。まずはプライムタイムのドラマからです。

『くるり~誰が私と恋をした?』(TBS系、火曜22時)

 24歳のOL緒方まこと(生見愛瑠)が事故で記憶喪失になり、持ち物には男性ものの指輪が…という話。まことの周囲にあらわれる3人の男性との関係をめぐる「ラブコメミステリー」だそうです。あらかじめ知らされていた番組情報から、もっと軽快なコメディ色の作品かと思いきや、実際にはもう少し重いところのある作品でした。記憶を失った人間が自分のことを知っていくごとに、「そんな自分でいいのだろうか」と、自分で自分を批判的に見ていきます。そんなところから、古くからある文学理論「異化」というのを思い出しました。「異化」とは、当たり前のことをあらためて見つめ直してみる、ということです。文学のものの見方にはこの「異化」が用いられていることが多々あります。単なるラブコメではなく、もっと深いことを考えそうになりました。

『366日』(フジテレビ系、月曜21時)

 高校時代に好き同士だった同級生の二人(広瀬アリス、真栄田郷敦)が30歳をすぎて再会し、恋する話。それ自体はありふれた設定ですが、初回最後に水野(真栄田)に大きな事故が起きます。「再会後、悲劇が襲い、意識不明になってしまう」という情報が先に出ていて、私も知っていたのでいいとしても、知らなかったら、あまりの急展開に仰天でしょう。「過酷な試練を乗り越えようとする壮大な愛の物語」という情報も出ているので、今後を見守りたいと思いますが、「過酷な試練を乗り越える」ってどういうことなんでしょうか。そこが気になります。

『Re:リベンジ』(フジテレビ系、木曜22時)

 「巨大病院」「野心」「復讐心」「欲望」「権力争い」…とくれば、誰でも『白い巨塔』を思い出します。韓国ドラマっぽいともいえます。しかし、『白い巨塔』ほどの名作、有名作を誰でも知っているだけに、ここから新たな「巨大病院権力もの」を成功させるのはなかなかたいへんかもしれません。それでもあえて挑んだ制作陣には敬意を表します。初回を見る限り、なんだかすごいものものしい感じはするのですが、まだよくわからないことが多すぎて、面白いのか面白くないのか、判断がつかないという感想でした。本質的なことがわかる前に脱落する人が多く出ないか、老婆心ながら少し心配です。

『Destiny』(テレビ朝日系、火曜21時)

 大学時代の仲良し男女5人に、ある悲劇が起きます。それから12年経ち、検事になったヒロイン(石原さとみ)の前に、かつての友人があらわれ、そこから再び過去に向き合うことになる…という設定です。「石原さとみ3年ぶりのドラマ復帰作」「初の検事役で新たな時代のヒロインへ!」「20年の時をかけるサスペンス&ラブストーリー」といった文言が公式HPに並びます。過去の事件の真相への興味はわいてきますが、正直いって演出に違和感がありすぎでした。12年前の大学生を演じる30代半ば~後半の俳優さんたちに、そんな若者のノリをさせるなんて。さらには12年後になった途端に流れるミュージカル風の音楽(椎名林檎?)がドラマの内容に合っていません。すみませんが、ついていけない感じがして、なんだか引いてしまいました。

『95』(テレビ東京系、月曜23時)

 これはプライムタイム作品ではないのですが、既に見たので書き加えます。
『Re:リベンジ』のものものしさ、『Destiny』の違和感ある演出と対照的に、私はこの『95』に何か言葉にできない期待感を持ちました。「1995年の渋谷をがむしゃらに駆け抜けた高校生たちの熱き青春群像劇」との謳い文句。『Destiny』で違和感あった30代俳優の大学生演技をさらにこえて、中川大志や関口メンディーの高校生役も、この際なので許してしまいましょう。言ってみれば、『太陽にほえろ!』の初回や『池袋ウエストゲートパーク』を見たときのような胸騒ぎを覚え、「青春の彷徨」といった古くさい言葉が頭をよぎるような初回でした。この期待は、今後大はずれに終わるかもしれません。それでも、描かれる若者たちの「がむしゃら」さに、ひさびさにドラマに期待して見てみようか、と思う初回でした。

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 2024年4~6月期のテレビドラマ、いわゆる春ドラマがスタートします。まだ主要な作品が放送されていないので、感想は次回以降に書きますが、今回は放送前に、シリーズもの作品について少しだけコメントしておきたいと思います。
 このブログでは、書く時間と労力に限りがあるため、シリーズものの2作目以降や、続編作品については取り上げていません。ただ、今クールの傾向として(あるいは今クールに限らず近年の傾向として)、シリーズものや続編が多くなっています。今クールにおいても、『特捜9』『花咲舞が黙ってない』『おいハンサム!!』『6秒間の軌跡』『ソロ活女子のススメ』などがそれにあたります。
 一口にシリーズとか続編といっても、内容はさまざまです。前の作品の「登場人物たちのその後」を描くというのがオーソドックスで、古くは『ふぞろいの林檎たち』(1983~1997年)などがありました。最近放送されていた『作りたい女と食べたい女』もそうでした。一方で、続編といっても設定を変えていく作品もあります。古くは『だいこんの花』(1970~1977年)なんていう、向田邦子らが脚本を担当した名作ドラマがありました。これは森繁久彌と竹脇無我の親子が毎シリーズ同じで、竹脇無我演じる息子の結婚相手が各シリーズで替わるというものでした。第1・3シリーズは川口晶、第2シリーズは関根恵子、第4・5シリーズはいしだあゆみだったと記憶しています。私はいしだあゆみのシリーズが一番好きでしたが、残念ながらDVDが発売されておらず、今では見ることができません。前クールに放送されていた『おっさんずラブ』などは、このタイプで、主要登場人物は同じですが、毎回設定が変わっていきます。

 さて、今クールではどんな続編が見られるでしょうか。主人公役が杏から今田美桜に交代する『花咲舞が黙ってない』も見ものですし、ドラマというよりは一人の楽しみ方を紹介してくれる番組『ソロ活女子のススメ』も毎回楽しみに見ています。ただ、それ以上に楽しみにしているのは『6秒間の軌跡』です。橋爪功(幽霊)と高橋一生の花火師親子の家に、突然住み込み弟子として本田翼がやってくるというのが、基本の設定と登場人物です。今回はそれにもう1人の女性(宮本茉由)が加わるそうです。
 私が『6秒間の軌跡』を好きなのは、その雰囲気であって、ストーリーではありません。というより、それほどたいしたストーリーはないともいえます。つまり、「この先どうなるのかが見たい」という気持ちはほとんどなく、この3人のやり取りを「見ている/聞いている」だけでいい、というのが一視聴者としての私の感想です。
 そこから思い出した作品があります。それは今から50年以上前に放送されていた『ボクのしあわせ』(1973年)という作品です。これは小説家・井上ひさしをモデルにした作品で、井上ひさし役を石坂浩二、その妻を子鹿ミキが演じていました。当時15歳で、将来テレビドラマ研究者になるとは思いもしなかった当時の私は、この作品が大好きでした。そして、その「好き」の意味は、「ずっとこの作品が終わらないでいてほしい」「ずっとこのままこの作品を見ていたい」「何も起こらなくていいからこの人たちとずっと一緒にいたい」というものでした。それまでテレビドラマに対してそういう見方をしたことのなかった私は、テレビドラマにはストーリーを見るのとは違う「好き」になりかたがあるのだと知りました。
 『6秒間の軌跡』を見ていると、そんな昔のことを思い出します。この作品はDVDも発売されていません。また続編で、その世界に自分も入りこめると思うと嬉しい気持ちがわいてきます。

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 大谷翔平選手の元通訳である水原一平氏の違法賭博問題が、あれこれ報道されています。大谷翔平選手の会見内容(大谷選手自身は賭博にも送金にもまったくかかわっていないという説明)が真実だとすれば、水原元通訳はどうやって大谷選手の口座から巨額の資金を送金できたのか。今はその点で関心が集まっているようです。ただ、今日書いてみたいのは、賭博やお金の話ではなく、通訳のしかたやその表現方法のことです。
 水原元通訳が解雇され、ウィル・アイアトン氏が大谷選手の新通訳となりました。私が興味深いと感じたのが、水原元通訳とアイアトン新通訳の通訳のしかたの違いです。ごく簡単にいえば、水原元通訳は意訳的な通訳のしかた、アイアトン新通訳は直訳的な通訳のしかた、だという評価があることです。私の英語力は、通訳のしかたを云々できるほど高くはないのですが、その私が聞いていても、たしかにそういう違いを感じることがありました。
 さらに面白かったことは、そういう通訳のしかたの違いの報道に対して、意訳的と直訳的の違いは、通訳者による違いではなく場面による違いではないか、といったコメントもあったことです。つまり、通常の試合後のインタビューなら、言いたいことの気持ちが伝わる意訳の方がよい、違法賭博にかかわるセンシティブなインタビューの場合は、特に慎重に大谷選手の言葉を直訳的に通訳するのだ、といった意見が聞かれました。
 そしてさらに興味深いことに、大谷選手の会見内容に対するアイアトン新通訳の通訳発言は直訳的にあったにもかかわらず(手書きのメモをしながらの通訳であるにもかかわらず)、大谷選手の発言で訳されていない部分があったというコメントも出てきました。私も聞いていて、「あれ、大谷選手の発言の長さに比べると通訳発言が短いなあ。省いたところがあるぞ。」と感じる箇所がいくつかありました。その通訳されなかった部分の有り無しで、ニュアンスが変わってくるという意見もありました。
 このように、今回の水原元通訳の行為を通じて、通訳という仕事への注目が高まりました。私自身は通訳の仕事にかかわることは多くありませんでしたが、たとえば、海外の学会や講演会などを引き受ける際に、私の話す内容を通訳してもらう経験は何度かありました。印象的だったのは、台湾の中央研究院というところでおこなわれた日本研究シンポジウム(2007年3月開催)で研究発表をさせてもらった際のことです。事前に発表原稿を台湾人の通訳者にお渡しし、発表前日にもかなり丁寧な打ち合わせをした上で、当日の発表に臨みました。それでも当日の質疑応答などは、事前打ち合わせのできない、その場での通訳仕事なので、現地の言葉のわからない私でも、当日の通訳者の苦労しているようすがよくわかりました。
 今回の水原元通訳の賭博にかかわる行為は到底容認できませんが、結果として通訳という仕事の重要性や方法論に注目されたことは、今回の大切な教訓だったように思います。大谷翔平選手に限らず、今後も通訳という仕事の重要性に注目しながら、スポーツイベントその他を見ていきたいと思います。

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 メジャーリーグ大谷翔平選手の専属通訳として有名かつ人気だった水原一平氏が、違法スポーツ賭博にかかわっていたという疑惑が報じられました。これについてはまだ詳細が明らかになっていないので、現時点でことの良し悪しを判断するのは厳に慎むべきと思います。
 そんな中で興味深かったことは、水原元通訳の負債を大谷選手が補填していたとしたら、その行為をどう評価するかの文化差でした。「水原元通訳の負債を大谷選手が補填していたとしたら」というのがそもそも仮定の話ですから、それへの私のコメントは保留しますが、もしそうだった場合、「日本では美談だが米国では愚かな行為として評価される」という報道があったことです。つまり、日本では、自分にとって大切な人物を救うために自分の資産を無償で提供する行為として肯定的に評価されるものの、米国では、違法な賭博業者に資金を流す(儲けさせる)といういけない行為だというのです。
 たしかに日本では「犠牲的行為」を賞賛する傾向が強いように思います。そこからいくつかの連想が働きますが、たとえばスポーツの世界では、日本人選手は「他選手のサポートの役割」を進んで引き受けようとする傾向があります。サッカーの分野でいえば、「オレがオレが」の自己主張の強い選手が世界的には多い中で、日本選手が目立ちにくい地味な役割を果たすことが多くあります。かつて日本代表監督を務めたイビチャ・オシムはそれを「チームの中で水を運ぶ選手」と呼んで、たとえば鈴木啓太選手らを尊重し、優先的に起用しました。ただし、欧州移籍をした日本選手の自己主張が足りないために、チームの中で存在感が持てないという場合も少なくありません。ですから、「犠牲的行為」の良し悪しは時と場合によります。
 さらに昔の話ですが、今ではバレーボールの世界で当たり前になっている時間差攻撃というのは、日本で考えられた攻撃方法でした。一人の選手がクイックのタイミングでジャンプし、それをおとりとしてもう一人の選手が後からアタックを決めるという攻撃です。これはかつて松平康隆日本代表監督が考案した攻撃方法ですが、他の選手のおとりになる犠牲的役割の選手がいて、初めて成り立つ攻撃方法でした。こうした攻撃方法は日本的な発想から生まれて、やがて世界に広がっていきました。
 ですので、「日本的美談」「犠牲的精神」はよい方向に作用することもありますが、一方で世界的に通用しないこともあります。今回のことはまだ事実関係が明らかになっていませんが、「世界的に通用しない愚かな日本的行為」だった、という残念な結末にならないことを願っています。

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(3月26日07時57分追記)
大谷翔平選手が会見をおこない、水原元通訳の最初の発言を前面否定しました。つまり、「水原元通訳の負債を大谷選手が補填していた」という話は水原元通訳の嘘だったと、大谷選手は話しました。大谷選手は水原元通訳の返済にまったく同意も関与もしていない、水原元通訳の窃盗と詐欺だったとのことです。もし大谷選手の話が事実とすれば、このブログに書いた話は事実に基づかない仮定の話で、成り立たないことのようです。「仮定の話」と書いてはおいたものの、なんだかかっこわるいブログになってしまいました。





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 先日カラオケの映像について書きました。
 →「カラオケの映像と曲の世界」(2024年2月25日)
 その関連でもう一つ書きたいことがありました。私は中島みゆきファンですが、通常はその曲を聴いたり歌ったりすることを封印しています。聴いたり歌ったりすると、その世界にどっぷりと浸かってしまい、抜け出しにくくなるからです。私は、日常においてはできるだけ実務的な人間であろうとしているので、その自分と中島みゆきに浸る自分が通常は相容れないのです。
 ですが、長時間列車や飛行機に乗るときなどは、その封印を解きます。「今この乗っている間だけは、自分は中島みゆきの世界に浸っていい」…そう自分に許します。それが近年は少しゆるくなって、ときには一定時間「一人カラオケ」をして、中島みゆき封印を解くことがあるようになりました。「人生も残りそう長くないのであれば、ときには思う存分中島みゆきに浸るのもわるくない」…そう思うようになりました。

 話はここで終わればいいのですが、余談を一つ。DAMで中島みゆきを歌っていると、特に暗めの曲ではだいたい同じ女性が映像に出てきます。この女性を見ながら歌いすぎて、もうこのお姉さんがなんだか他人のような気がしなくなってきてしまいました。私の中では、「中島みゆきの歌詞の中の世界=この映像の女性」というイメージになってしまいそうです。いいのかわるいのか、よくわかりませんが。

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 囲碁の一力遼3冠(棋聖・本因坊・天元)が、棋聖位を3連覇しました。

 囲碁の最高位「棋聖戦」一力棋聖がタイトル防衛
 囲碁・一力遼棋聖 最終第7局で3連覇達成

 囲碁には多くのタイトルがありますが、そのうち7つを7大タイトルと呼び、それに序列(順位)がついています。本因坊や名人の方が伝統がありますが、現在は棋聖が序列・賞金額ともに囲碁界最高となっています。
 私は2年前にこのブログで、「一力遼・囲碁新棋聖誕生を祝う」という文章を書きました。  私が一力遼推しであることの所以はそこに書いてありますので、よろしければそちらをご覧ください。
 今回の棋聖戦7番勝負は実に見ごたえがありました。挑戦者は井山裕太2冠(王座・碁聖)。井山は、一力に棋聖位を奪われるまで棋聖9連覇を成し遂げた囲碁界のレジェンドです。私は一力推しですが、井山の闘いぶりも感動的でした。一力は26歳、井山は34歳。世界の囲碁界で、30代で第一線で活躍している棋士はほとんどいません。その井山が囲碁界の最高権威の奪還に向けて、3勝3敗で第7局に突入するという展開は、囲碁ファンにとってはこの上ない最高の対戦となりました。
 かつて一力は何度も井山のタイトルに挑戦しては、その高い壁にはね返されてきました。その当時、一力はまったく井山に勝てませんでした。趙治勲名誉名人は、一力と井山について、「井山の才能や努力が99だとしたら、一力の才能は80くらいかもしれない。それを一力はおそるべき努力ではね返してきた」と評したことがあります。その通り、近年になって一力は、井山から棋聖位と本因坊位を奪取しました。その間の道のりを考えると胸が熱くなる思いがします。
 しかし、井山は依然として高い壁であり続けています。いまだ王座と碁聖の2冠を保持し、昨年の碁聖戦ではその一力の挑戦を3対0のストレートで退けました。今の碁界は、一力・井山に芝野虎丸2冠(名人・十段、24歳)を加えた3つどもえの勢力図になっています。ちなみに、昨年の7大タイトル挑戦手合に出場した棋士のべ14人の内訳を見ると、一力4回、井山4回、芝野3回、許家元1回、関航太郎1回、余正麒1回となっています。一力・井山・芝野以外の棋士はほとんどタイトル戦に出られないのですから、いかに3人の実力が図抜けているかわかります。
 しばらくは3人のタイトル争いが続くでしょう。ただし、日本の碁界のためにはさらに新しい世代にも活躍してもらわなければなりません。一力遼棋聖がより第一人者としての地位を固めていくのかどうか、それも含めて、碁界の今後に注目していきたいと思っています。

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 『不適切にもほどがある!』があちらこちらで話題になっています。今回はそのうちの一つに関連して書きたいと思います。
 そのうちの一つとは『朝日新聞』(2024年2月28日朝刊)掲載の神里達博(千葉大学教授)の記事です。そこでは『不適切にもほどがある!』に言及し、「かなり多くの視聴者が、このドラマの『PC批判』的な方向性に共感している」と分析し、「そもそも令和の日本社会が、『正しさの行き過ぎ』を娯楽として消費できるほどに、差別や人権について十全な対応ができているのだろうか」と疑問を投げかけました(注記。「PC」は「ポリティカル・コレクトネス」のことです)。その考え自体はまっとうなものだと思います。ただし、テレビドラマ研究とは土俵が違っているな、と思いました。それはこういうことです。
 社会にとってあるテレビドラマ作品がどのように作用しているかという観点、もっといえば、社会をより良くしているのかどうかという観点からすれば、上記の意見はその通りだろうと思います。しかしながら、テレビドラマ作品は社会をより良くするために存在するわけではありません。むしろ、社会の問題を浮き彫りにしたり、そこに生きる人びとの心の中にある毒を表面化させたりする作用も持っています。だとすれば、私は『朝日新聞』掲載の意見に逆に問いたいと思います。「社会が十全に対応できるまで、『正しさの行き過ぎ』を娯楽にしてはいけないのでしょうか」と。(神里教授はけっして「いけない」と言っているわけではないと思うのですが、論じる土俵が違うということをここでは言いたいという趣旨です。)
 朝日新聞掲載の意見はまっとうではあるものの、テレビドラマの本質には沿っていないと私は感じます。また、テレビドラマ制作者にもそれ相当の覚悟があるはずです。『不適切にもほどがある!』の脚本家・宮藤官九郎は、さまざまな人間の姿を、笑いを通じて描き出してきました。そのことは、『学びの扉をひらく』(中央大学出版部)に収録された私の文章でも書いたことがあります。人の死(『木更津キャッツアイ』)も東日本大震災(『あまちゃん』)も、深刻になりすぎず、究極的には笑いの要素を捨てずに描き出してきました。今回もそうです。この作品が社会をより良くすることにはつながっていないのかもしれませんが、それでもそれを笑いにして、人びとの気持ちを浮き彫りにしてしまうところにこそ、脚本家としての宮藤の覚悟があると私は考えます。
 「娯楽」には「娯楽」の覚悟がある。「娯楽」に人生や命をかけている制作者たちがいる。私はそう考えてテレビドラマ研究をしています。

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 先週は『不適切にもほどがある』から、昔の歌謡曲の歌詞、そしてカラオケのことを書きました。長年続けているこのブログで(開始2005年2月以来)カラオケについて書いたのは、おそらく先週が初めてのことだと思います。
 私が子どもの頃には、カラオケというものはありませんでした。普及していったのは私の大学生頃(1970年代後半)ですが、それもカラオケボックスではなく、スナックなどのお店にようやく機械が置かれ始めたのでした。つまり、知らないお客さんに自分の歌を聞かれ、知らないお客さんの歌を聞かされるのが、カラオケというものでした。
 その頃から、カラオケの映像には興味を持ってきました。テレビドラマ研究者となった今ではなおさらです。どの曲にどのような映像を組み合わせるのか、これはなかなか面白い課題です。制作費が潤沢とは思えませんので、あまり無理な注文をつけるつもりはありませんが、正直いってよくわからない映像も多いような気がします。

 具体的に書きますと、私はDAMの機械で中島みゆきの曲をかけることが多くあります。映像の意図のわかりにくい作品がよくありますが、その中でも『狼になりたい』の映像の意味がずっと理解できないままでした。複数の男女が映像に登場するのですが、映像内のどの人が歌詞の世界のどこに対応するのか、毎回私は疑問に思ってきました。ところが、ところが…。先日初めて、中島みゆきの『永遠の嘘をついてくれ』を歌ってみたところ、『狼になりたい』とまったく(完全に?ほぼ?だいたい?そこまで丁寧に確認はしませんでしたが)同じ映像だったのです。が~ん!
 『狼になりたい』と『永遠の嘘をついてくれ』では、歌詞の表現する世界がぜんぜん違います。それなのにほぼ同じ映像だなんて、歌詞の世界と合致しているはずがありません。な~んだ。映像制作者の意図を理解しようと努めて、これまで悩んできた私の苦労は何だったんでしょうか。カラオケの映像に歌詞の世界とのそこまでの密接な関係を求める方が、間違っていたのかもしれません。多くの曲に同じ俳優さん、同じ背景映像が使われているので、けっこう映像を使い回しでいるんだろうなあとは思っていましたが、それにしても、これほど世界観の違う作品の映像が同じだったとは驚きました。テレビドラマ研究者として、映像制作の意図を過剰に考えすぎてしまったのかもしれません。
 今後は考えを変えます。もうこれからは歌うことに集中してやるんだ!


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 今クール(1~3月期)のテレビドラマで楽しみにしているのは『アイのない恋人たち』だと、先週のこのブログで書きました。それは確かなのですが、加えて今SNSなどで話題の『不適切にもほどがある!』は、今クール作品の中で抜群に面白いです。この作品についてはいずれ書きたい気持ちがありますが、今週の放送で目についたのは歌詞の時代差です。
 今週放送の第4回では、主人公が生きていた1980年代の歌謡曲の歌詞が2020年代になって取り上げられます。たとえば、島津ゆたか『ホテル』の「手紙を書いたら叱られる 電話もかけてもいけない」という歌詞は、2020年代では、「モラハラ男とストーカー女の不倫ソングじゃん」と全否定されます。また、沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』の「ききわけのない女の頬を 一つ二つはりたおして」という歌詞は、「はいダメー! もうこれパワハラっていうかDVじゃん」と歌の途中で止められてしまいます。私はテレビドラマ研究者ですので、テレビドラマにおいても、過去の作品のシーンで現代では放送できなくなっている箇所など、この手の時代差を痛感することがたびたびあります。
 今日はテレビドラマではなく、歌謡曲の歌詞についてなので、その方向で書くと、過去の歌詞を現代から見ると「う~ん?」と悩んでしまうことが少なくありません。私の好きな中島みゆきの歌詞にも、以前は「男は~、女は~」というフレーズがしばしば登場していました。そういう表現を一概にいけないとは思わないのですが、現代では通用しにくくなっていることは確かです。この中島みゆきの歌詞についても、いずれ研究対象にしてみたいというのが私の野望です。
 それ以外で一つ思い浮かんだ曲は、中西保志『最後の雨』(1992年、作詞:夏目純 作曲:都志見隆 ※現在放送中の『離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―』のエンディング曲))です。これは私のカラオケ得意曲の一つなので、世の中で歌唱禁止になったりすると困るのですが、現代から見ると歌詞にかなり気になる箇所があります。内容としては、去っていこうとする女性とその女性を想い続ける男性とが描かれている歌詞で、その中に次のような表現があります。

 本気で忘れるくらいなら
 泣けるほど愛したりしない
 誰かに盗られるくらいなら
 強く抱いて 君を壊したい

 さよならを言った唇も
 僕のものさ 君を忘れない

 1990年代には情熱的な愛の歌だったのだと思いますが、現代から見ると「誰かに盗られるくらいなら強く抱いて 君を壊したい」にはDVの要素や、(ストーカー行為やリベンジポルノを引き起こしかねない)別れた後の強い執着が連想されてしまいます。また、「さよならを言った唇も僕のものさ」というあたりには、女性の身体をモノ化して所有したいという願望が見えてしまいます。この歌を検索すると、歌詞に込められた情熱を賞賛するコメントがある一方で、「歌詞が怖い」といった意見も出てきます。その意味でも、今日のテーマの時代差が強く感じられる歌詞の一例です。
 とはいえ、先に書いたように、この曲は私のカラオケ得意曲の一つなので、もし私が歌っても、歌詞の時代差に関しては大目に見ていただけるとありがたいです。

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 まずは『セクシー田中さん』問題。先週私は「日本テレビ(と小学館)」にさらなる対応が必要だと書きました。小学館は編集部のコメントを発表しましたが、日本テレビはその後なんの対応もしていません。たいへん残念ですが、そういう状況ですので、今回は別のことを書きます。
 今クールのテレビドラマでまだ感想を書いていない作品も多くありますが、すべて出揃った現時点で、私がもっとも楽しみにしている作品は『アイのない恋人たち』です。この作品については既に感想を書きましたが、今回は脚本家の面から追加のコメントを書こうと思います。
 『アイのない恋人たち』の脚本を担当しているのは遊川和彦です。古くは『GTO』や『家政婦のミタ』など、近年も『となりのチカラ』や『家庭教師のトラコ』などを書いています。私は自分の勤める大学の授業の中で、毎回脚本家を一人ずつ考察していく授業をしたことがあります。そのときに半期10数回の授業の1回に遊川和彦を取り上げました。学生にドラマを見せながら毎回1人の脚本家を講義するので、もちろん脚本家の全作品・全体像を十分に追究することはできません。ただ、遊川和彦脚本の特徴は「愛の自明性を問い直す」ところにあると考えてきました。恋愛、親子愛、家族愛、師弟愛などなど…。そういった愛を一度疑い、当たり前のものではないことを問い直すような設定と展開をするところに、脚本家としての特徴があると思っています。
 どの作品でどのような問い直しをしているかは別の機会に譲りますが、この『アイのない恋人たち』でも、そのような遊川和彦脚本の特徴はいかんなく発揮されているというのが私の印象です。表面にあらわれているのは男女7人の「恋愛感情」「異性愛」ですが、そこに「親子愛」や「友情」の要素もかなり色濃く描き出されています。そのような視点から見てみると、この作品にさらに興味がわいてきますし、今後の「愛の問い直し」がどのように展開するか、より注目して作品を見ていきたいと思います。

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 『セクシー田中さん』の作者・芦原妃名子さんが亡くなったこと、そして、原作漫画とテレビドラマ版の間でいくつかの葛藤があったことが報道されています。私はテレビドラマ研究者として、この問題に無関心ではいられません。とはいえ、報道は断片的で、この間の経緯を詳細に把握できるような情報にはまだなっていません。その段階での意見ですので、そこは慎重にコメントしたいと思っています。まずは今回の経緯を整理します。

★12月24日 脚本家のInstagram

『セクシー田中さん』今夜最終話放送です。
最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。

★12月28日 脚本家のInstagram

『セクシー田中さん』最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
ひとりひとりにお返事できず恐縮ですが、今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。

★1月26日 原作者・芦原妃名子さんのブログ

(前略)
「セクシー田中さん」は連載途中の未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた結果として、僭越ではありましたが、ドラマ化にあたって、
・ドラマ化するなら、「必ず漫画に忠実に」。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正させていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して大変失礼な条件だということは理解していましたので、「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
ところが、毎回、漫画を大きく改変したプロットや脚本が提出されました。
(中略)
9話、10話に関する小学館と日本テレビさんのやりとりを伺い、時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、当初の条件としてお伝えしていた通り、「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、正式に小学館を通じてお願いしました。
結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は9話、10話の脚本には関わらないと伺ったうえで、9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき、脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、という解決策となりました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足を露呈する形となり反省しきりです。
(後略)

★この間、SNS上などで漫画読者やドラマ視聴者からの意見が相次ぐ。

★1月28日 原作者・芦原妃名子さんのX

攻撃したかったわけじゃなくて。
ごめんなさい。

★1月29日 原作者・芦原妃名子さんが遺体で発見される。

★1月29日 日本テレビ『セクシー田中さん』公式サイト

芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして 日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら 脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております。

★1月30日 日本テレビ公式サイト

芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。日本テレビとして、大変重く受け止めております。ドラマ『セクシー田中さん』は、日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう、切にお願い申し上げます。

以上が、ごく簡略にまとめた経緯です。
それに関する私の考え(今回は要点のみ)です。

1.
映像作品(テレビドラマ・映画)と原作(漫画・小説など)はしばしば大きな相違を生じます。異なる媒体であり、映像には時間的制約もあることから、完全に忠実に映像化することはできません。また、受容する読者、視聴者の層や幅にも違いが生じます。原作を尊重しての上ではあるが、映像化にあたっての一定の変更はやむを得ない面があります。
2.
映像制作者の、よい作品を制作したいという意欲を私は評価しています。よい作品を作ろうとするほど、テレビドラマ視聴者に喜んでもらおうとすればするほど、原作通りにはいかない場合も生じます。一方で映像制作者の独断に陥りやすい環境もあります。他局や他番組を含め、テレビ界には編集権の濫用と思えるような現象がときに見られます。それを問題としない風潮に、私は疑問を持っています。
3.
テレビドラマ『セクシー田中さん』脚本家へのバッシングはけっして容認できません。脚本家も今回の騒動の犠牲になった可能性があります。ただし、脚本家のSNS発信は軽率だった面があります。ことの全体像を書かずに(あるいは、全体像を知らずに)、自分の不満だけを一方的に公開してしまったように見える点で、軽率な発信だった面があります。
4.
日本テレビの公式コメントが出ていますが、きわめて不十分です。初動対応が間違っているといわざると得ません。最初の発信が「最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております」とありますが、そこに至る経緯で原作者も脚本家も苦しんでいたことを公表しています。その部分への言及・配慮がない点がまず大きな問題です。さらに次のコメントでは「日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう」とありますが、そこに書かれた自らの「責任」の中身が、何も示されていません。

 さらに詳しく書くべきですが、今回はここまでとさせてください。ただ、今後は日本テレビ(と小学館)の対応を特に注視したいと思います。日本テレビは、「これから詳しい調査をして、番組を見てくださった視聴者の皆様に、誠意を持ってご説明します」くらいのことを、最初から書けなかったのでしょうか。たとえばですが、吉本興業は、松本人志問題の最初の公式コメントを、社内ガバナンス委員会の意見を受けて、後から修正することになりました。初動対応がいかに重要かを示しています。日本テレビの「責任」ある対応が求められています。

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 1月も下旬となり、今クールのドラマが出そろってきました。前回以降に放送され始めた作品を中心に、今回も私の勝手な感想を書いていきます。今週も番組HPなどから、作品のジャンルや謳い文句を最初に紹介します。

『不適切にもほどがある』(TBS系、金曜22時)
「意識低い系タイムスリップコメディ」「時をかけるダメおやじ、参上!」

 昭和のダメおやじが令和にタイムスリップし、かずかずの不適切な言動を繰り広げる話。もちろん不適切ではあるのですが、一方で、「じゃあ今の考え方がそんなにいいのかい」という疑問もわいてくるように作られています。宮藤官九郎脚本・阿部サダヲ主演の名コンビで、私は今クールでこの作品を一番楽しみにしていました。両方の時代を知る私は昭和と令和の落差をおおいに笑って、さらに深く考えさせられます。昭和を知らない若い世代がこのドラマをどう見るか、4月からの授業で取り上げてみたい気がしました。

『アイのない恋人たち』(テレビ朝日系、日曜22時)
「愛がない」「見る目(eye)がない」「自分(I)がない」
「それぞれにアイが欠けている者たちによるラブストーリー」

恋愛ドラマの変遷は私の持ちネタの一つで、授業でもよく取り上げますし、最近新しく書いた論文にもその要素をかなり入れました。近年のドラマでは「恋愛苦手」な若者たちがしばしば描かれます。この作品もその系統ではあるのですが、「愛がない」「eyeがない」「Iがない」の三様が描かれるところに独自性と面白さがあると感じました。見る前はそんなに期待していなかったのですが、見てみるとぶっちゃけ面白かったです。現代版『男女7人◎物語』というところでしょうか。オリジナル『男女7人』は「恋愛まっしぐらの人たち」、現代版『男女7人』の『アイのない恋人たち』は「恋愛下手っぴの人たち」が描かれています。「恋愛下手っぴ」たちの今後が楽しみです。

『厨房のありす』(日本テレビ系、日曜22時半)
「新時代のハートフル・ミステリー」

「料理は化学です」が口癖の料理人・八重森ありす(門脇麦)は自閉スペクトラムの女性。彼女の店のメニューは「おまかせ」のみ。接客はできないが、厨房から客を見て、その客に合った料理を提供します。客本人が食べたい料理とは一致しないものの、ありすが何故その料理を提供するのか、知ってみればもっともだ、ということになります。そこで私が思い出すのは、『マイリトルシェフ』という作品です。2002年という古いドラマですが、『厨房のありす』と同じように、決まったメニューではなく、その客のための料理を提供するドラマでした。ただ、『マイリトルシェフ』は、客の話を聞き、その人が喜ぶ料理を提供していました。『厨房のありす』の方は「料理は化学です」が示すように、フィジカルな要因から料理が考えられていくことが多いように感じます。個人の好みでいえば『マイリトルシェフ』の方が好きでした。西村雅彦演じる父親(ひとり親家庭の父親)に苦みの強い料理を提供する回が特に感動的で、今でも強く印象に残っています。娘のために一緒に甘いカレーを我慢して食べてきた父親に、ニジマス(だったかな)のはらわたを使った大人の料理を提供する回です。そんななつかしいドラマを思い出させてくれました。

 今週いろいろ用やするべきことがあって、『マルス―ゼロの革命』や『Eye Love You』を見ることができていません。ごめんなさい。

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 今回もテレビドラマへの勝手な感想を書いていきます。今回は、前回(1週間前に)書いた後に始まったプライムタイムの作品と、注目される遅めの時間帯作品について書きます。今回は、作品のうたい文句(キャッチコピー)を番組HPなどから最初に引用してみました。なお、放送されている作品数が多いので、このブログでは原則として、続編やシリーズものについては省いています。ほんとはそれも書きたいのですが、そこまで手が回りません。ごめんなさい。

『春になったら』(フジテレビ系、月曜22時)
「ハートフル・ホームドラマ」

余命3か月を宣告されても治療を受けようとしない父親(木梨憲武)と、その決断を受け入れられない娘(奈緒)の話。余命宣告ものは、テレビドラマの世界では『僕の生きる道』(2003年)など多くの成功作品があり、私の授業や著書でも何度か取り上げています。また、「父と娘」というのもしばしば取り上げられる題材で、その二つのテーマを組み合わせているところがこの『春になったら』の特徴のようです。病院での延命治療よりも、残り人生の時間が短くても今まで通りの生活をしたい父親と、父親を失うことを受け入れられない娘の葛藤が初回から十分に描かれていました。「ハートフル・ホームドラマ」というには、かなり重い話です。

『グレイトギフト』(テレビ朝日系、木曜21時)
「ノンストップサバイバル医療ミステリー」

うだつの上がらない病理医(反町隆史)が、新種の球菌を発見したことから連続殺人と熾烈な権力争いに巻き込まれていきます。すごい話だなあ…と思うのですが、反町隆史がどこからどう見ても「うだつの上がらない病理医」に見えません。コミュニケーションが苦手で人と目を合せることもできない、という設定なのですが、突然仮面を脱ぎ捨てて、「今から本当の俺を見せてやる!」とか啖呵を切りそうで、本来のストーリーよりもそちらが気になって仕方ありませんでした。

『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(フジテレビ系、土曜日23時台)
「”昭和のおっさん”のアップデート大作戦」

古い常識・偏見で凝り固まった中年男(原田泰造)が、息子の引きこもりや、会社の部下たちに遠ざけられる体験を経て、自らの価値観を変えていこうとする話。これもよくある題材ではあります。シリアスに作れば、先に引用した『僕の生きる道』の続編『僕と僕の彼女の生きる道』(2004年)などに通じるテーマですし、同じコメディタッチなら、郷ひろみが主人公を演じた近年の単発ドラマ『定年オヤジ改造計画』(2022年)にも通じます。変わろうとする気持ちが生まれてくるような人なら、それまでがこれほどひどくはないだろう、という疑問もわいてきますが、そこはドラマなので不問としましょう。ちなみに、同じテーマをロマンティックに作れば、竹野内豊と麻生久美子が演じた『この声を君に』(2017年)にもなります。私の好みはこちらですね。私、ロマンティックな人間なので、てへ(笑)。

『リビングの松永さん』(フジテレビ系、火曜23時)
「シェアハウスで年の差ドキドキラブコメディ」

”恋に不器用な堅物のアラサー男”(中島健人)と”ピュアで一生懸命な女子高生”(高橋ひかる)がシェアハウスで同居する話。いかにも少女漫画的な話ですが、一方で、少女漫画をこえてよくある設定でもあります。ちなみに、新聞のテレビ欄では、「赤の他人が一つ屋根の下で、という設定自体は「陽あたり良好!」などの頃からポピュラーではあった。」(『朝日新聞』1月9日朝刊)と書かれていました。たしかに一つ屋根の下のアパート設定なら、『めぞん一刻』(1980年~1987年)やそこから影響された『ちゅらさん』(2001年)などがありました。ただし、私は朝日の記者さんよりかなり年上みたいので、ずっとさかのぼれば『雑居時代』(1973年~1974年)なんていうテレビドラマ作品もありました。石立鉄男と大原麗子、なつかしいなあ。韓国ドラマでも頻出。それだけよくある設定なので、どこでオリジナリティを打ち出すかが見ものです。

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 今年もテレビドラマへの勝手な感想を書いていきますので、よろしくお願いします。ただ、毎回字数が長くなって、実はけっこうつらいです。初回はやはりプライムタイムの作品から書いていきますが、今後短めの感想で済ますことがあってもご容赦ください。また、深夜枠作品やこれから放送開始される作品のことは、来週以降に書こうと思います。

『君が心をくれたから』(フジテレビ系、月曜21時)

ラブストーリーによくある要素が満載です。「初恋」「高校生の頃」「出会い」「雨」「地方都市の風景」……。それだけならあまりにもありふれた作品ということになるのですが、ここに異質な要素が一つだけ加わります。「事故にあった彼の命を救うためには、死神?に自分の心(5つの感覚)をすべて差し出す」というのが、その異質な要素です。私はありふれたラブストーリーも、ファンタジーの加わったラブストーリーも好きですが、これはファンタジーというにはあまりにも残酷な設定です。こわいくらいです。こわいもの見たさで、今後もこわがりながら見てしまいそうです。

『さよならマエストロ』(TBS系、日曜21時)

5年前のある事件以降音楽から遠ざかり、家族も去っていった指揮者・夏目俊平(西島秀俊)と音楽を嫌うようになったその娘・響(芦田愛菜)の話。西島秀俊と芦田愛菜の組み合わせ、しかもTBSの看板枠の日曜劇場とくれば、それだけで期待は高まります。ただ、初回を見る限り、父娘のかかわる場面はまだ少なく、むしろ指揮者としての俊平が、つぶれる寸前の地方オーケストラを立て直していく話が主眼のように見えました。これは、言ってみれば、伝統的な学園青春ドラマですね。傑出した指導者が廃部寸前の落ちこぼれ生徒たちの運動部を率いて、エリート校に負けない強い部に育てていく話。そう思えば、これは古くから親しまれた安定の構図です。そこに父娘の和解が組み込まれていくと考えたらいいのではないでしょうか。

余談ですが、妻役の石田ゆり子は、最近飛行客室内へのペット同伴発言で物議を醸しました。石田ゆり子は小学生のような純粋な気持ちで、ただ「ペットと一緒に客室にいられたらいいのになあ」と発言しただけなのでしょう。それに対して大人の立場からは、「では動物アレルギーの客はどうなる?」「緊急時にペットを連れて行こうとして手間取り、他の乗客に迷惑をかけたら?」というような懸念事項が次々に頭に浮かびます。何も考えずにただ純粋に希望を述べた子どものような人と、その功罪、メリットとデメリットを考える大人との違いです。これはもう同じ土俵の上に乗った対立ではなかった、というのが私の感想でした。(石田ゆり子推しの私としては、精一杯の石田ゆり子弁護のつもりです。そういえば私、昔こんな記事にも関係していました。→なぜオヤジたちは「石田ゆり子」にぞっこんなのか-デキる女より、美魔女よりも「マイナスイオン美人」!?

『院内警察』(フジテレビ系、金曜21時)
「病院もの」も「警察・謎解きもの」も多すぎて、もうこれ以上見なくていいんじゃないかと思っていたら、病院内に警察(正確には元警察官を雇った民間の部署)を作ってしまいました。不敵な元警察官(桐谷健太)と天才外科医(瀬戸康史)の組み合わせは面白くなりそうですが、初回だけでは面白さがまだよくわかりませんでした。脱落する視聴者が多くないか、心配です。話はそれますが、桐谷演じる院内交番の人がいつもチュッパチャプスみたいなのを口にくわえてます。でも、子ども相手とはいえ、口に棒を入れてサッカーするのはやめた方がいいですよ。転んで大けがする可能性があるので、見ていてこわいです。

『となりのナースエイド』(日本テレビ系、水曜22時)

「病院もの」が多すぎると書きましたが、この作品では元●●のナースエイド(川栄李奈)と天才外科医(高杉真宙)の組み合わせを持ってきました。たしかに面白そうな組み合わせです。ただ、初回の外科手術の場に、ナースエイドがマスクも帽子も手袋もせずに乗り込んで喋る場面が、ネット上で物議を醸しました。そこだけではなく、嘘っぽい場面が多々あります。私は、フィクションに嘘があっていいという立場ですが、嘘が受け入れられる場合と受け入れられない場合があることは、このブログでも何度か取り上げてきました。嘘自体がいけないわけではないと思っています。その嘘に目をつぶりたくなるだけの余得、嘘を受け入れて得られる楽しみとの差し引きで決まるのではないか、というのが私の意見です。このことはまたいずれ、詳しく書いてみたいと思います。

『ジャンヌの裁き』(テレビ東京系、金曜20時)

検察審査会の委員に選ばれてしまった一般市民の漫画家(玉木宏)が主人公。地味な題材ですが、中身をよく知らない検察審査会のことを知るいい機会になりそうです。検察審査会の最中に新事実(新証言)が出てくるというのは少し都合がよすぎますが、そこはドラマなのでいいとしましょう。『12人の怒れる男たち』を思い出しました。しかし、初回は都合よくまとまりましたが、第2回以降はどうなるんでしょうか。毎回こんないい話でまとまるんでしょうか。


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