log for logs

Blogといったネット上メディアについて
日常の話題に沿って発信します。

ブログを書く為の戯言

2006-02-18 04:15:27 | Weblog(雑文)
このブログのような長ったらしい文章を載せる際にもっとも障壁になってくるのは「時間」だろう。長くて、引用もちゃんとして、整合性のある文章を書くとなると非常に時間がかかる(もちろん私の能力の低さもあるのだろうが・・・)。そして時間をかけて文章を書くと何かしら他に利用するはずの時間を削ることになる。例えば読書の時間であったり、睡眠時間であったりするのだが、これを惜しいと思ってしまうと更新ができなくなってくるのだ(そして自分のように半年以上休止したりする)。このため数日おきでも更新を続けているブロガーの方々には感服してしまう限りだ。
ではどうすれば良いか。ここでは3つの方法を思いついた。
1つ目は「時間を惜しまない」という根本的部分から考え方を変えることである。これは素晴らしい発想の転換であるがが現実はそんなに甘くは無い。
2つ目は「簡潔な文章にする」ということである。これも素晴らしい方法であるが、問題としてはそのような文章表現能力を持つまでモチベーションを保てるかという事だ。結局忍耐力の勝負という事になる。
3つ目は、「今まで書けなかった暇な時間を利用する」という事だ。非常に分かり難いが、通勤(通学)時間にネタを書き留めておくというという例が一番分かりやすいだろうか。時間の有効利用と呼ばれる策である。しかし、問題としては他のブログの参照・引用ができないという事や私がインターフェースが変わると書けないといったことが挙げられる。
3番目を採用し、ノートPCで書くというのが最も効率的なのかもしれない。参照・引用やインターフェースの問題を解決しつつ時間を有効活用する。一挙両得である。
もしかすると(長文を短いスパンで書き続けるタイプの)ブログを続けている人とどうやってブログを書くかに関係があったりすると面白いのだが、調べる余裕も技術も無いのでこれぐらいにしておこう。

雑感1:gooブログにいつの間にか追加されたジャンルという代物に気付いたが、酷い偏り方で苦笑がこぼれる。韓流スターが個人名毎に分かれている部分が特に驚いたのだが、韓流ブームが過ぎ去ったときのことを考えているとは思えない。ブログの蓄積性(詳しくは昔のエントリーを参照)を考えたときにこれはどう考えても軽率であるといえるだろう。

雑感2:現在梅田氏の『ウェブ進化論』を読んでいる。読了次第何らかの意見・感想をブログに載せられればと思う。
コメント (20)
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blogに対する分析と意味性の考察(転載)

2006-02-16 06:55:54 | Weblog(雑文)
半年前に書いた文章を載せてみる。
長い間放置されていたが、内なる表現の欲望が復活したので、とりあえず手始めに。
短時間で製作しているレポートなので問題があるのは確かだが、ご了承いただきたい。
参考URLは表記していないが、このblogのエントリーで引用したものが中心である。
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Blogに対する考え方

前期はWeblog(以降blog)をテーマに絞って、blogをつけて発表をしたので、その流れの通りblogが内包している可能性と問題点について述べて生きたいと思う。普通にblogをテーマにして述べる場合その歴史について述べるべきなのかもしれないが、その点はすでに多くの書籍あるいはインターネット上の情報を元に基本的な部分は押さえられるので、それほど深くは言及しない。ただし、これから述べる事は、実体験も含めた「日本」の「ブログ」についてであるので、その点で、歴史経過も含めて前提として押さえておくべき点がいくつかあるので、まずそれを述べたいと思う。
Blogの歴史を考えても、多くの言及があるようにBlogとはどこまでがBlogであるのかという問題性がある。アメリカの場合は9.11や大統領選で話題となった、MovableTypeを利用した個人ジャーナリズムとしてのメディアという捉え方が一般であるが、この捉え方は日本では必ずも当てはまらない。もともと日本のインターネットの中にあった様々な流れに、アメリカから輸入されたWeblogという話題性を持った媒体がかみ合ったことによって現在の(もうそろそろ表面上の話題性は下火かもしれないが)ブログブームたるものが生まれたのである。その点でアメリカのWeblogとは別の代物とも言えるかもしれない。この場合様々な流れの代表的なものが「Web日記」もしくは「テキストサイト」という流れである。『ウェブログの心理学』ではこのような流れの全てをウェブログと総称しているように、これらのWebサイトはblogと非常に近い、例えば時系列に沿ったテキスト・画像などの記事が並んでいることや、普通のホームページと呼ばれる静的なWebサイトよりも更新量が多く、Privateな内容が多いなどの特徴がある。これまたWeb日記・テキストサイトとは何かという点で堂々巡りになってしまうものかもしれないが、このような特徴をもつサイト群の流れが、日本のblogの中には潜んでいると考えられる。
このため安易にblogについて説明しようとすると非常に難しい。フジテレビ系列のブログタイプという番組で「Web上の日記」という表現をされたように、一般的な捉え方でも日記という捉え方をされる場合も多いし、逆に捉え損ねて何も考えずにblogを書き始めて、すぐに掛けなくなってしまう場合も多い。
こうしてみると、blogを分析する際に気をつけなければならない事が見えてくるように思える。少なくともblogが歴史的にも構造的にも多層的なものであるという考えを持たなくてはならないのではないか。歴史的には「Web日記」と「テキストサイト」の側面をそのまま引継ぎ、更にその上からblogにほぼ特有に見られるRSSといった情報発信の技術やPHPによるデータベース的な側面が付随している。さらに構造的にはblogが内包している問題点について、blog < インターネット < 現実世界(社会的側面・心理的側面)といった層がなされれいるように思える。このような縦と横との2つのベクトルの層を考慮しつつblogに対する分析をしなければならないだろう。
さて、これから自分のblog上で書いてきた内容を元にいくつかのテーマに沿って述べるが、そのどれもにおいてここに挙げたblogの多層性が反映されている。その点を意識しつつテーマが含んでいる意味を考えられればよいと思う。

Blogの視点~テーマ・Private・Public

Blogを書くのは普段は現実世界で様々な活動をしている人間である。その点でblogの中でかかれる内容も、各blog主のblogに対するスタンスや考え方が反映されているといえる。元々は内容的に様々な話題をエントリーごとに使い分けて書く場合が多かったが、現在ではある特定のテーマに関して比較的的を絞って書いている場合も見られる。このようなテーマごとにある程度のblogのコミュニティ圏を見ることができるが、基本的にはそのようなblog達は比較的緩やかなトラックバックなどを通じたネットワークでつながっている場合もあるが、そこまで均一的に圏を作り出しているわけでは無いと言える。
このようなある程度のテーマ性をもつものとして捉えられるblogを分類しようとする志向性はよくあるものである。『ユリイカ』のブログ特集では10個のテーマごとにそれぞれ10のblogを紹介するという目論見をしているし、他にもテーマ・スタンスなどから分類をしようとする本は存在する。またウェブ上でもウェブログ図書館のような比較的広汎的に分類をしようとするサイトや、また特定のテーマについて「まとめ」たり、定期的にプロットしてゆくblogも存在する。
このようなテーマ性が比較的明確に見出せるblogが一定数以上存在し、分類できることは興味深いが、あくまでそれはどちらかというとハブとなるblog達であって、多くのblogはこのような分類が非常にし難いように思える。最後のテーマである余剰生産の考え方ともかかわってくるのだが、基本的に一般的なbloggerは同一テーマでひたすら書き続けるための、専門的な知識や文才、情報源へのアプローチ方法やエントリーを書くための時間を持っていないのが実状ではないかと思える。そのような多くの書き手がblogを利用しきれていない状況において、blogを書いて読んでいく中で比較的分けることが出来そうだと感じたのが、書き手のスタンスとしての情報源(ソース)のありかたである。
テーマ性の有無に限らずblogを見る上で、そのスタンスとしてプライベートな側面とパブリックな側面が存在するように思える。パブリックな側面のエントリにおいては、その情報源は主にマスメディアなどからもたらされるニュースなどのジャーナリズム的な情報、もしくは特定の分野に関する最新の話題の情報となる。また読者として広く一般に向けて、そうでなくともある程度の公共の対象に向けてののエントリーとなっていることが多いように感じる。これはある意味、以前の「テキストサイト」の傾向を受けているものであるだろう。逆にプライベートな側面としては、情報源としてblog主自らの体験が用いられる。この場合読者としてはある程度現実世界の関係性に即している対象を意図していることが多いだろう。これは、「Web日記」の流れ、特に日記的な心情・近況の描写という流れを受けているのではないか。
ただし、このような二つの側面がblog全体に対してもエントリーに対しても排他的に存在しているというわけではない。日記のような形式のblogでも公的なニュースに対しての意思表明をすることはありえるし、逆もそうである。さらにはエントリーにおいても公的なニュースを体験したという事もありえるだろう。こうした面を考えると、Blogという全体を見た時には、分類というよりも公的要素と私的要素の割合の問題なのかもしれない。しかしこのようなプライベートとパブリックという概念を適応することでブログ界で起こる事象について普通に見た以上の示唆が与えられることは多い。
例えばblogにおける無名(一般的には匿名だが、blog上では匿名は2chで言う固定ハンドルのような使われ方をされるのでこちらにしておいた)と実名の問題はよく話題に出てくるが、これに関してもこの二つの概念を当てはめることができるのではないか。プライベート的なblogというのは内的には実名、外的には無名であるのが一番よいだろう。Webという外的な他人が存在する空間においては現実の姿を晒すのは危険が付きまとう。しかし、全くの現実の痕跡が無ければそもそもWebという空間上に文章を書く意味がそがれてしまう。ペルソナというわけではないが、見知った仲の人間においては実名であるのがこのようなblogの条件である。これは更に発展するとアクセスコントロールなどの話になるように思える。アクセスコントロールとはさらに外的な要因からblogを隠蔽するのではなく遮断するという発想である。私としてはblogにおいてはプライベートとパブリックが混在するという考え方なのでアクセスコントロールについてはあまり良いとは思っていないが、そのような需要があるのは確かである。
逆にパブリック的なblogにおいては、外的には実名、内的には無名であるのがよいのではないか。外的には自らの意見主張が実質性をもつ声となる為の実名性が必要である(これは文字通りの実名というより、アイデンティティを持った名称といったほうが良いかもしれない)、しかしそれが現実に対する干渉性を持つのは、(個人的にではあるが)あまり良くないように思える。
結局、無名と実名の考え方はインターネット空間というバーチャルの部分と現実世界との関わりあいの問題であるが、それに対してプライベートとバブリックというスタンスが関連したものであることは確かである。

エントリーの成長と繋がり~トラックバック

blogの特徴の一つとしてトラックバックが挙げられる。トラックバックはなんとも説明しがたい機能であるのだが、相手のblogに自分のblogに対するリンクとエントリーの抜粋を残すというのが簡単な説明であろうか。トラックバックについてはトラックバックスパムやトラックバックの他者依存などの問題はあるが、ここではトラックバックとそのイメージからつくり出されるコミュニティとは違ったネットワークについて述べたい。
Blogがただの意見表明のためのツールであるのならば、普通のホームページでもHTMLの知識さえあればあまり変わりは無いだろう。またblogにはコメントの機能もついていることが多いが、これとも違った意味性をトラックバックが作り出しているのではないだろうか。Blogにおいてはエントリーを書いた時点では一つの書き込みだったものが、テーマによってはそれが他のblogに波及してゆくという現象が良くある。これを支えている機能がトラックバックだが、このように波及してゆくテーマのネットワークが掲示板システムによるコミュニティとは違ったものではないかと考えられる。まず意見表明が自身のblogという場によって行われ、その中で言及したblogからリンクで辿ってこれるようにするという機能がその原因だろう。よくWebの掲示板を公園に例えるが、公園においてはその場に対してアクセスする人間の立ち位置はある程度譲歩しなければならない、これこそ公共性である。しかしblogの主張する場はそのような共同の場ではない。blogとは他人の画廊に自分の画廊のチラシを置いておいてそこから自分の画廊に人間を呼び寄せるという例えが出来るかもしれないようなものだ。その点で掲示板のような場に流される衆愚的なものではない、自らの意見主張が出来るネットワークが作れるのかもしれない。しかしながら逆に言うと、自分の画廊であるからして、公園の様に警察官のような存在が居るわけではなく、あくまで自己責任という風潮も生み出してしまっている。このような自分の場という点においては、個人のWebサイトと比較的共通する部分も多い。現に個人のWebサイトはblogよって下火になる現象が起こっているという話もある。もちろんCMSなどを使ったデザイン作成の簡易さもその原因であるだろうが、私としてはそのような安易な簡単さに囚われてblogへと流れるのではなく、blogに特有のものとしてのトラックバックという機能に注目してほしいものである。
トラックバックなどの機能によりblogにはそれ自身に言及しやすいという特徴があることがわかる。この特徴から「メタ・ブログ」と呼ばれる独特のblogが存在している。この種のblogは他のblogの記事内容やblogそれ自身を情報源としている、いわばblog間の媒介をしているといえる存在である。もちろんメタ・ブログ的なエントリーに向く記事はそれなりにblogの根本的な部分に言及していたりする必要があり、また相当数のblogを読んでいなくてはならないという難しさもあるが、純粋な形で意見に対して論じるという点でメタ・ブログ的なblogはblogの特徴が顕著に現れている例ではないだろうか。

Blogを書く事~余剰生産・BlogersGroup

Blogを書いていて分かることが、Blogを書くにはかなりの時間がかかるという事だ。もちろん日記やエッセイ風の体裁を取れば、そこまで時間はかからないが、ある程度のテーマ性をもったblogを書くとなるとその情報を生み出す為に労力と時間が必要となる。多くの人がテーマ性を持つblogを書くという状態にならないのにはこの部分に最も原因があるように思える。このような中で書き続けるためには、blogを書く事に対する自己の意味が必要となってくるのではないだろうか。
blogを書く理由は様々である。ある者は自分の意見を世に主張したいからという理由があるかもしれないし、他には宣伝などの為だったり、仲間との情報交換だったりする。ただ漠然とblogを書いているということもあるだろう。しかし、このような理由は全て確信のない盲目的な信念に依存していることは確かだ。とくに不特定多数の読者を想定したパブリックなblogではなおさらである。アクセス解析などでPV数・IP数などの情報は得られたとしても、それがこのような理由を満たすものであるかどうかは分からない。
このような状況でエントリーを書き続けるというのは大変なものだ。しかし、見えない不特定多数への定期的な情報の送信とそこからの対話的な交流が、新たな情報の創発につながるのではないかとも考えられるのではないか。
コミュニケーションの中で現在では見られにくい状況としてのAnti-Code型コミュニケーションがblogにおいてなされているとも考えられる。トラックバックやRSSなどの規格化がプログラム的な側面で行われている一方で、心理的には相手が全く見えないという日企画的なコミュニケーションが生成されているのだ。その部分においてblog主は自分なりの考え(属性)を元にエントリーを書き出す。当に知識における贈与的な行為が行われていると考えられるのである。贈与とは物質的な余剰生産の提供のように考えられるが、この場合は情報的な知識の余剰生産の提供といえる。インターネット全般に言えることなのかも知れないが、blogにおいては更にこの発話行為が比較的短いスパンで定期的に行われているためこの絶えず贈与的な行為を行うというコミュニケーションの形がよく表れているのではないだろうか。ここでM.バフチンの「対話の原理」がこのような構造について上手く当てはめられるように思える。個人の属性に基づく具体的な発話と、そのような対話によってA→A’、B→B’と変化する創発という図式である。トラックバックについてでも述べたようにblogにおいては自己の場がある程度侵食されずに守られる。その点で自己が崩れないまま創発されるというコミュニケーション部分が上手く現れているのではないだろうか。
ここではコミュニケーションに言及したが、重要なのは情報を発し、受け取ることで自己の中で情報が創発されてゆくことである。スマートモブズと呼ばれるような情報社会における新しい人間のあり方が提示されているが、そのような社会集団においてこのような自己の創発が行われているとすれば面白いことであると思う。Blogは一つの意見主張などの為のフォーマットであって、それ自体が未来永劫続くわけではないだろう。しかし、blogを書くことによって自らの情報的な能力が高まった、BloggersGroupと呼べるような集団が形成されるとすれば、その部分においてだけでもblogの意味性はあるのかもしれない。

参考文献

山下清美他、『ウェブログの心理学』、NTT出版2005
公文俊平、『情報社会学序説』、NTT出版、2004
GEODESIC、『ブログを続ける力』、九天社、2005
ばるぼら、『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』、翔泳社、2005
『ユリイカ4月号~特集*ブログ作法』、青土社、2005
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トラックバックと言及リンク

2005-07-06 13:03:20 | Weblog(雑文)
トラックバックは言うならばあちら側からこちら側へのアクセスの流入を求めるものであり、言及リンク(エントリの中に言及したblogのリンクを張ること)はこちら側からあちら側へのアクセスの流入を求めるものであると考えられる。
blogではメタブログ的なエントリは数多くあるが、最近トラックバックをする時に言及があるべきかどうかという議論があるようである。
もともとトラックバックは相手方に自分の存在を知らせるような部分があり、その目的において自らが言及をしているかどうかにかかわらず、宣伝目的(アクセスの流入を求める目的)でトラックバックを張ることができるという問題がある。そのため一般的にはトラックバックをした際にはそのblogに対する言及をしておかなければいけないといった慣習といったものが見受けられる。
この考え方は一見正しいように思える。普通に考えると見知らぬ相手からトラックバックが張ってあって、しかも言及がないとすると非常に気味が悪い。
しかし視点を変えると言及が無い方が良いという考え方もできるようだ。言及リンク有りのトラックバックの何がいけないか。@真性引き篭もりのエントリを見ていて思ったのだが、平和なコミュニティの中では言及があった方がいいとしても、アクセス数が極端に大きい場合においてはリンクを張ることによって相手方に負担を負わせる事が可能になる。Web上の議論においては誤読(時間的制限がもたらす読みの薄さの方からの勘違いが多い気がするが)が多いものである。blogを閉ざされた空間とみなすとき、その空間が内包できるキャパシティ(それはblog主の力量や所持時間、またはblogのシステムに依存する)を超えるアクセスは攻撃性しかもたないと考えられる。
攻撃性を持たせないと議論が発展しないという考え方もあるかもしれないが、ネットワーク化の際にすべての人が、自分と相手に対しそれを望むかどうかを一考した上での行為かどうかはわからない。
トラックバックは自ら望んでアクセスの流入をもたらすが、言及リンクは自ら望まなくてもアクセスの流入をもたらしてしまうことがある。その点で前回のエントリではないがバトンについてと同様に自分と相手をつなげるというネットワーク化の際には、一度自分と相手のprivateな意識への影響を考える必要があるのかもしれない。
このblogはアクセス数も少ないので言及リンクを多く張っているが、どのような状況でもこの意識のままでよいかは別なようだと、少し考えてみるのもいいかもしれないと少し考えてみた。
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訂正とblogネットワークの即時性について

2005-06-29 02:02:32 | Weblog(雑文)
訂正です。前回のエントリで一部の"Public"と書くべき部分が"Publlic"となっていました。エントリ自体は修正しましたが、他のblogにおいてトラックバックでの見出しや、引用していただいた部分にその痕跡が残っています。自分も引用された箇所を読んで気づきましたわけで、全くお粗末な限りで、お目汚しすみませんでした。

今回のスペルミスの件でも思ったのですが、一見するとblogと言うものは日々情報が更新されていくので即時性の高いシステムのように感じるようで、実際のところ特に横方向のトラックバック・引用・リンク等のblog間のネットワークについて言えば、即時性はあまり高くない思えます。
例えば、トラックバックを送った後からエントリ自体を修正したときにはその修正はトラックバックの見出しには修正されません。そこでもう一度Pingを打つと二重トラックバックになってしまいます。これを防ぐ為にちゃんと考えてエントリを組み立てた上でアップするという方法を取るというのも一理ありますが、私としてはやはりwebブラウザ上から直接書き込みをするという、軽率さがblogの利点のように思っているくらいなので、完璧さを前提としたような文章は重苦しすぎて書きにくい。思いつきでもいい思考の集積をblogに求めたときに、現在のblogシステムの即時性の低さは書くことへの障害となりかねません。
とりあえず同じ送信元から2回トラックバックが送られてきた時に新しいpingのみが反映されるようなシステムになったらなぁ…とか思ってしまいます(実際に既にありそうな気もしますが、調べようとして挫折しました)。
コメント (1)
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バトン/Private性について考える

2005-06-27 23:20:53 | 考察視点
タイトルでPivate性と言っているが、とりあえずバトン(MusicalBaton/VIDEOGAME Baton)に対する考察の続きが主となっている。
バトンに関することは前回のエントリーで大方の説明はしてある。もちろんこの現象は時間的にも空間的にも局所的なものに過ぎないとは思えるが、そこからでも何らかの示唆が得られたので記述したいと思う。
とりあえずバトンについての考察をしているblogをある程度調べてみることにした。といってもこれが半端ではなく、検索ワードでは回答だか考察だかが全く判別できない。幾らかのエントリーにめぐり合えたのでそれを参照しつつ、ここではバトンネットワークとPrivateの概念について考えをめぐらせてみた。
以前から書いているが、私としてはblogには大まかに分けるとPublic側面とPrivate側面が存在しており、両側面のバランスによってそのblogのポジションが決まっていると考えている。
今回のバトンの件だがPrivate側面のネットワークを上手く利用しているように感じている。私自身がPrivate側面が強いもう一つのblogにこのバトンが回ってきたように、このバトンは基本的にPublic側面が強いblogには回ってこない。よく考えると当然のことであり、ネット上で論議しかしていないblogに対してこのようなPrivateな趣味/情報を聞くようなバトンが回ってくる可能性は低い。もちろん普段論議しているようなブログ主に対してPrivate的側面を聞いてみたいという期待感はあるかもしれないが、バトンの特性として他のblogを名指しで指名しなければならないというこのような期待感をかなえるには大きすぎるリスクが存在するからだ。
しかしながら、リスク性を抜きにしたとしても、受け取る側がPrivateであるとしてもこのようなバトンに対してきてもらっては困るというblogも存在するようである。BlogPeople内のテーマに沿ったトラックバックを受け付けるシステムにこのようなものまであるようである。

 Anti-Baton(アンチバトン)ピープル ( 06月27日 19時04分 更新)
Music Baton (Musical Baton)、またはこれに類する「バトン系」企画について「うざい!」「迷惑だ!」「回すな!」という皆さん。あなたの「バトンお断り」宣言をこちらにトラックバックしてください。「バトン」そのものに対する様々な意見、考察などについての記事もOKです。

このピープル(呼び名の正式名称が分からないので仮にこう呼ばしてもらうことにする)を作った作者の方のblogには次のようなコメントがなされている。

「バトン」を楽しみたい人とそうじゃない人が
互いに迷惑をかけずに共存できるようになってほしいと、私は考えています。
言い換えるなら、「バトン撲滅!」を声高に主張するわけではないけど、
「嫌バトン権」ぐらいは主張させてほしいと思います。

この主張に関しては、正しい限りである。好き好んでバトンを受け取るわけではなく半ば強制的にバトンが手渡される。その強制感に嫌だと感じることは同意できる。しかしその次のエントリでのまとめバトン改良案(?) ~「ネズミ講」から「いいとも」へ(???)と同時に見ていると、どうも結局のところPrivateの深度によってこのアンチの考え方は生まれているように思える。
Privateとは言い換えるならば自分との密着性の高さである。望まない相手から回されるのは迷惑とは自らと密着性の低いものからの無意味な押し付けの忌避であり、望む相手からのバトンならば大方の人は大丈夫であろう。また、関係ない記事へトラックバック(TBスパム)されるのは迷惑とは自らの密着性の高い(完結した)ブログからの逸脱への忌避であると言える。
1人が5人に回すのはチェーンメールと同じ危険性・迷惑性のもととなると言う意見は同意はできるが、結局のところトラックバックやメールのような自分の意識外の行為・同意のない一方性のながりへ忌避といえるように思える。チェーンは断ち切ればいいのだ。つまり、blogというPrivateとPublicが揺れ動く間の中でのPrivate性をもとめる意識としてこのようなアンチの考え方が生まれるように思える。

ここまでの意見はどちらかと言うとトラックバックを利用した際の意識であるという事をMusical Baton雑感@むだづかいにっき♂というblogのまとめエントリで見つけた。この指摘は概ね的を得ているし、結局「書きたい奴が書け」という意見に収めている点で納得できる。
しかし、このようなトラックバックを介さないつながりを考えることで、バトンについて結局はPrivateのネットワークを露呈するだけにしか思えなくなってくるのだ。しかも生産性は全く無い。
人間の心理としてバトンを見ず知らずのblogに渡すことなどできない、相手そして周囲の反応が怖いからだ。これはトラックバックを打つ時の心理とも重なっているのだが、トラックバックはどちらかと言うとPubllicな議論の為のシステムであると考えれば(現にトラックバックを日記スタイルのblogで使う割合は低い)この行為の自分との関連性を切り離せるため、まだやりやすい。そう考えるとトラックバックを無しにすればPrivateなコミュニティの中でバトンを回すことになるというのは当然のことである。「六次の隔たり」ではないがPrivateなネットワークでも問題なくバトンが回っていく。何か面白いことがあるようには思えないのが実感である。

ただし、面白いとはいえないと言っていても私自身回答していたりするのでその辺りは人それぞれであるとは思うが…。それが義務感からなのか、面白いと思ったからなのか、条件反射であったのかはそれぞれのblogによって違うと思われる。
ネットは目的のものを見つけるところ?@~大ブロ式~のエントリ中にバトン関係の話から発展して無駄なものの必要性についての書かれていたので引用しておこうと思う。

だけどそもそもネットというのは「目的のものが見つかるところ」なのだろうか?
オレにはそこに本質があるようには見えない。オレの考えているネットの面白さとは出会うはずのないものと出会い、語り合うはずのないものが語り合い、関係のないはずのものが関連付くそういうところでありここに最も大きな意義を感じている。そしてここには初めから分かっている目的、などというものはないんじゃないかと思う。

バトン自体が面白いか面白くないかは別として、このような出会いは面白い。私については少なくともバトンについて結構なエントリを書いているわけだし、先ほど引用したblogやその他にもバトンについて言及しているblogはあると思う。その点で、バトンは無駄なものとはいえないぐらいの効用をもたらしたのだと感じる。

最後に私の考えを簡単にまとめて今回のエントリを締めたいと思う。
blogとバトンを考えたとき、私はアンチバトンという意識は持たないにせよ、このバトンのシステム自体がどちらかと言うとPrivate寄りに完結しているシステム・コミュニティ、例えばSNSのようなものに向いているように思えたのだ。そもそもPublic的なblogには回ってこないわけで、その点でもバトンはあまりblogには適していないように思える。
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