yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

久しぶりの研究会~第10回古代馬の研究会~参加の帖

2020-03-22 14:16:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は第10回古代馬の研究会に参加しました。京都府立大学の諫早直人さんの主催されている研究会で、これまでも何回か案内には接していたのですが、重い腰が上がらず行きそびれている内に、もう10回になっていたようです。
 諫早さんとはこれまで全く面識がなかったのですが、昨年、近畿古代牧研究会で韓国の牧の踏査に参加した折、偶然、新羅の王陵を案内されていた諫早さんに遭遇し、その案内について回っている内に、ご案内のすばらしさに感動し、いつかこの研究会にも参加し、その研究成果に触れようと思っていたところでした。今回案内を見ると、以前から少し興味のあった蔀屋北遺跡を題材とした報告があるというので参加することにしました。
 上野-信州の牧踏査から帰ったばかりで少々疲れが残っていたのですが、思い切って参加してみました。しかし、世の中はコロナウイルス騒動で、外出自粛、集会自粛と動きづらい状況、そこで諫早さんは、厳重な研究会開催の管理体制を構築し、マスク着用、座席の間隔確保、教室の換気徹底、休憩の回数確保、懇親会の中止などの条件で開催されました。素晴らしい対応でした。本当に有り難うございました。

 報告は以下の三本が予定されていました。
 ① 「木器生産と周辺環境(仮)」 岡田賢(大阪府教育庁)
 ② 「蔀屋北遺跡で出土した製塩土器の意味」塚本浩司(大阪府立弥生博物館)
 ③ 「河内の馬飼いのウマ」丸山真史(東海大学)・覚張隆史(金沢1大学)

 ③は私には評価できる素養がないので、ただ拝聴するだけでしたが、馬の骨や歯に蓄積した諸元素の分析から見た馬の生産地に関するものでした。予想通りよく理解できませんでした。歯に堆積したストロンチウムや酸素の同位元素の含有量からその産地を同定するというもののようなのですが、そもそも、歯に含有されるストロンチウムがなぜ産地の同定に使用可能なのかという原則をよく理解できていない私には、なかなか理解困難な報告でした。馬がその生息地で飲んできた水に含まれるストロンチウムなどが産地の同定に役立つということのようです。以前からの研究の蓄積の中からの報告で、共同研究者である覚張隆史(金沢1大学)氏の研究の一部を事前に学習していったのですが、やはり難しかった!
 馬に不可欠なものに塩がありますので、塩に含まれる諸元素が生育地の識別に使えないのか、少し気になり質問したのですが、『塩はNACLで元素の違いはないので、地域差を識別することはできない、』といったような回答で、残念でした。これは、馬が摂取する塩分をNACLのみと決めつけることから来る誤解で、最近の我々の研究会の報告では、人間が摂取するのと同じ固形塩や散状塩塩(NACL)をなめることによって塩分を摂取するのではなく、塩分を含んだ鉱泉水や火山地帯を流れる河川の水を摂取することによって塩分を確保することがあると判ってきました。馬は単に水が必要で飲むのではなく、塩分の含まれている水を好んで摂取するということです。つまり、仮に産地の水に含まれるストロンチウムの量が産地の特定に利用できるのだとすると、塩分を含んだ鉱泉などを飲用する馬ほどそうした影響を受けやすいのではないかと思って質問したのですが、理解してもらえませんでした。残念!。

 ①は蔀屋北遺跡出土木器の樹種を各時期毎に分析して、周辺環境を復元するというものでした。発表の意図がよく理解できず、私の脳裏に取り込むことはできませんでした。馬の研究なのだからもう少し、木製馬具の時期毎の樹種の選択方法の違い(があるのなら)などに集中して報告してもらうとよかったのですが、そもそも、木製馬具の出土量が極めて少ないのでそのような分析はできなかったようで、木製品の樹種選択と周辺環境との関係を一般論として述べるに留まりました。もう少しテーマを絞って分析し、その結果を解釈する姿勢が欲しかったですね。

 ②はテーマに興味があり、最も期待した発表でしたが、期待はずれでした。
 塩業史を付け焼き刃的に勉強して、その断片的な知識で、出土「製塩土器」を理解、説明しようとするものですから、何を主張しているのかさっぱり判りませんでした。かつては弥生博にはそうそうたる研究者が集い、先進的な研究成果を発表していましたが、随分質が変わったのですかね。とても残念でした。
 「コップ形」の外面叩きの「製塩土器」を焼き塩用と理解する結論には大いに魅力を感じますが、その論証方法が支離滅裂でした。河内潟の東辺に位置する蔀屋北遺跡に大阪湾から「鹹水」を船で運んで製塩したとの想定ですが、「ホント?」と思わずのけぞってしまいました。もしそのようなことが可能なら、鹹水を運ぶ専用容器が相当量必要ですから、遺跡からも相当量見つかるはずです。そうした考古学的な「証拠」を積み重ねての推測なら説得力もありますが、水運がいいこと、燃料が枯渇したこと(その後も大阪湾では盛んに製塩が行われており燃料が枯渇したとは思えないのですが・・・)など、から想像するのはいかがなものでしょうか。それよりはもう少し丁寧に外面叩きの「製塩土器」の特徴からこれを焼き塩用とした根拠を説明した方がよほど考古学的で説得力があると思いました。
 外面叩きの土器だというのですが、内面には充て具のような痕跡は(あくまで図を見ただけですが)確認できませんでした。古代の焼塩壺には確実に型作りのものがあり(北九州産など)内面には布目痕が認められます。外面は粘土紐を巻き付けた痕跡が明瞭に残り、水分が漏れることを恐れない、焼き塩専用として有用な、そして大量生産可能な土器構造をしています。蔀屋北遺跡のものがなぜ外面叩きを多用し、それが焼き塩用だと主張できるのか、その根拠が余りに曖昧でした。

総じて久しぶりの考古学の研究会は退屈でっした。若手研究者の最新の研究成果に期待しましたが、一〇年一日大して変わらない飛躍の多い、あるいはデータだけの提示に終わる進歩の見られない報告でした。途中の休憩時間に鉄パイプと喧嘩してこぶを作るという「事故」を引き起こし、さんざんな一日でした。

 年寄りは引っ込んでおれといいうことでしょうか。益々足が遠のきそうです。

再開!yaaさんの宮都研究の帖~広瀬さんのエッセイに刺激されて

2020-03-06 23:19:02 | yaasan随想
 昨日先輩の広瀬和雄さんからエッセイ集を頂いた。
 何でも暫く書いていなかったのを再開したという。読んでいくとやはり古墳の話しが多い。
 そうなんだ、やはり人間、得手不得手がある。無理して興味のないことを書くより、興味のあることを日々書けばいいか!そして、やはり物書きは毎日少なくとも1000字は書かないとね。

 というわけで、久しぶりにブログを再開することにした。
 するとどうしたことか、直ぐにgooからメールが来た。「6ヶ月以上書き込みがなかったので、乗っ取られた可能性もあるということで連絡をした」そうだ。いつの監視されているらしい。

 本来なら、歴史学や考古学の最新情報をアップするところ、今日はどうしてもそんな気分じゃないので、エッセイ?にする。また皆さん、時々覗いてみて下さいね。

 今日は大学時代の友人の誕生日。71歳だから僕と同じ。同級生。その彼が3日前に急死した。心筋梗塞だったらしい。

 彼は教育学部心理学科の出身。僕は文学部史学科。彼は北海道の出身で、広島大学。僕と同じ二浪。ま・凡人ですね。いつ知り合ったのかは全く覚えていない。おそらく当時の大学の閉鎖空間なのだろう。教育学部は「理性の府」だから、閉鎖空間がなかった。だから仲間を求めて隣りの文学部へ流れてきたのかも知れない。いつしか、もう1人の文学部の仲間と二浪で意気投合してよく話すようになったように思う。とっても変わった話し方をする奴で、相当変わっている。話し出したらいつまででも続く。別に僕はそんなことが気にならないので、ずっと聞いている。彼の話は哲学的で、僕の苦手な分野だから、相づちを打つだけなのだが、彼はひとしきり話せば気が済むのか、適当に帰って行く。

 その年、1969年はいろいろあったので、途中は割愛する。その年の年末、突然父の死の報せがやってきた。胃潰瘍の手術をするとは聞いていたが、大したことないから心配するな、ということで、大阪まで帰ってきて、親戚の従姉妹の所で雑談していた。そこへ母から電話。母も僕がそこにるとは知らずに電話をかけてきたのだが、僕が出てびっくり。突然電話口で怒られた。
「お父さんが大変なのに何してる!」
その時父は既に息を引き取っていた。手術後の処置のミスと後で聞いた。今なら医療ミスで訴訟で勝てた処置のミスだが、当時はそんな事例もなく、泣き寝入りせざるを得なかった。

 直ぐに葬儀となり、周りのみんなから、山中の男子はお前しかいないのだから、お前が喪主で、会葬の挨拶はお前がしろとなった。そんな葬儀の場に彼がいた。というより、後日彼から、もう1人の二浪組の友人と参列したと聞いた。もう一人の友人の家が、偶然、病院の直ぐ近くだったので、父の亡くなった夜、彼の家で朝まで語り明かしたので、どうも彼から連絡がいったらしい。

 そんな葬儀の場に彼等がいたことを聞いたのは45年後のことだった。
 大学時代の「同窓会」があって、その場に彼も来たので再会を喜び合ったその時だった。
何でも彼は自ら公言するに「アスペルガー」だから特定のことはよく覚えているのだという。確かに、彼の描写する葬儀の光景は僕の記憶を蘇らせ、事実と確認できた。

 その後、何度か会い、家にも来て泊まっていった。そんな折り、彼の口から出て来た今の生活は悲惨なものだった。別に彼がぶらぶらしていたとか、借金を抱えているとかそんな話しではなかった。お子さんの一人が自閉症で、外に出られないから、彼が主夫をして、奥様が働くというパターンを選択したらしい。ところが、その奥様が末期癌とわかり、働けなくなったという。大黒柱を欠き、一気に家計が破綻した。当座の生きる資金がいるとのことで仲間とカンパをした。しかしそれは一時的なもの、あちこちをかけずり回ってやっと何とか生活保護を受けられるようになったと電話してきた。みんなのカンパのお蔭で生き延びられたととても喜んでいた。

 ギリギリの生活であることに代わりはないが、何とか生活のリズズムができたらしく、頻繁に来たメールも来なくなった。
 それが突然の死の報せだった。連絡をくれた娘さんの話では、奥様は昨年夏に亡くなったとのこと。その前後から彼自身の心臓が悪くなったらしい。わずか、半年で、奥さんの後を追って逝ってしまった。彼が一番心配していた一人では生活できない子供さんを残して。

 その葬儀が今日だった。でも私が参列することはできなかった。あれだけ義理堅かった彼の恩義を忘れて。子供達のこれからを相談に乗ってやらないといけないのに。
 どうすればいいのか?心が揺れ動いている。

 再開ブログの最初が、悲しい話題とならざるを得なかった。暫く心の底に重く残るだろうな。

 とにかく、悲しい!もどかしい!情けない!

第12回長岡京歴史よもやま話 ~ 伊豆・駿河から運ばれた須恵器壺の謎~

2019-02-03 02:03:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
第12回長岡京歴史よもやま話のご案内
伊豆・駿河から運ばれた須恵器壺の謎


日時  2月9日(土)13時受付、13時15分~15時30分(途中テイータイム有り)
講師  山中 章(三重大学名誉教授) 
会場  長岡京市中央公民館(阪急長岡天神駅下車徒歩8分)2階講義室 
資料代 実費300円  
事前申し込み不要

 今回は、遠く長岡京へ運ばれてきた頸(クビ)の長い須恵器壺についてお話しします。
 長岡京跡を発掘調査すると、必ずといっていいほど発見される特徴的な壺の破片。いずれも静岡県東部から運ばれてきました。なぜ350kmもの旅をしてきたのでしょう。
 この壺は2タイプ有り、ほっそりして頸長で青色のものが伊豆の三島市花坂島橋窯で、少し胴太で色白のものが藤枝市助宗(すけむね)窯址で作られ、長岡京を中心に、全国の古代遺跡から発見されています。
 何を容れるために作られたのでしょうか?
 伊豆半島沖の太平洋では大量の堅魚(かつお)が水揚げされ、調として鰹節に加工して都に送られました。駿河からは堅魚のアラを煮炊いて煎汁(いろり・出汁の素)を貢納していたことも知られています。そこである研究者は、煎汁を入れた容器だと推定しました。しかし、煎汁は液体ではなく堅魚のアラなどを煮詰めて水分を飛ばして作る固形物であることが実験で証明されています。煮こごりは傷みやすく、古代の遠距離移動には耐えられません。残念ながら、煎汁を容れた容器ではなさそうです。
 形が似ているので仏様がお持ちの花瓶説や熱燗(あつかん)徳利説もあります。腰にぶら下げて用いる水筒説など様々です。まだ結論は出ていません。是非皆さんのユニークな新説
をお待ちしています。

  長岡京歴史散策の会 古川 075-934-1684 
                             




※ 長岡京で発見される須恵器壺・後方左二点が花坂島橋窯の長頸壺-『長岡京市史』より転載-

第6回 長岡京歴史よもやま話・長岡京歴史散歩のご案内

2017-02-10 15:55:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
寒気厳しき折柄、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。年三回ずつ実施しております長岡京歴史よもやま話と長岡京歴史散歩(いずれも第6回)の2016年度最後の行事予定の詳細が決まりましたのでお知らせいたします。
 
お友達などお誘いあわせの上ご参加いただきたくご案内申し上げます。

1 第6回長岡京歴史よもやま話
 桓武天皇と近江~桓武王権の始祖墓天智天皇陵と山科~

 桓武天皇が近江国に対して行った重要な施策の一つは、曾祖父・天智天皇の建てた崇福寺の近くに梵釈寺を建てたこと。もう一つは六度もの行幸をしたこと。その意図は何であったのか。長岡京と伏見~山科~近江の地形と陵墓配置の謎を解きながら、桓武天皇が天智天皇へ寄せた特別な想いを考古学から探ります。

                記

日時 2017年2月18日(土)13:15~15:15
 受付開始13:00~。(途中ティータイム15分)
会場 長岡京市中央公民館2階講座室
講師 山中章(三重大学名誉教授 考古学)
資料代 300円

*中央公民館が工事中のため、暖かくしてお出かけください。


2 第6回長岡京歴史散歩
平安宮中枢部を巡る
~大極殿・内裏跡と京まちやを歩く~

日時 3月18日(土)12:45JR嵯峨野線円町駅集合。
    16:45神泉苑見学後に現地にて解散。(京都市営
    地下鉄二条城前駅利用者とJR二条駅利用者に分かれます。
    帰路阪急電車利用者は、地下鉄利用のうえ四条駅で
    お乗り換えが便利です。)
    *散策途中、「京まちや平安宮」にて休憩予定。


行程 JR嵯峨野線 円町駅を出発して平安宮の中枢部を巡り、左京の神泉苑まで歩きます。
    ・紙屋川:平安京西堀河(右京→平安宮内へ入ります)-藻壁門(平安宮西面中門)・左馬寮跡―京都市平安京創生館(造酒司跡)展示見学-豊楽院跡-千本丸太町交差点案内板-大極殿公園・昭慶門跡-内裏内郭回廊跡-いわゆる内裏十七殿を巡る(清涼殿・弘徽殿・承香殿・温明殿・梅壺・藤壺・桐壺・宜陽殿・紫宸殿跡など)-建春門跡-承明門跡-山中油店・京まちや平安宮(茶菓休憩、スライド説明)-神泉苑(桓武天皇の造営した離宮、9世紀に北は二条~南は三条まで八町を占めた大苑池跡)―現地解散
    
    跡地に立つ案内板や石碑を巡りながら、平安宮で繰り広げられた歴史に思いを馳せましょう。

参加費 1000円(「京まちや平安宮」にて茶菓付)

   案内 山中 章(三重大学名誉教授)・山中恵美子(同志社大学講師)


長岡京歴史散策の会075-934-1684(古川)

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2017年の新年にあたって

2017-01-02 23:24:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
謹賀新年
 昨年1~3月は病気との闘いで始まりました。リュウマチの治療は思ったほどうまくいかず、3種類目の最新治療薬を点滴にて対応して頂いていますが、なかなか思うようにチェック数値(CRP 0.5以下)にまで下がりません。年末の検査でも少しは下がりましたが、まだ1.0あり、かしげたままです。困ったのは、高額な治療費です。安倍政権の老人、病人切り捨て政策はまともに我が家の年金生計を強烈に圧迫しています。「老人、病人、体制に文句を言う奴は死ね!」という明確なメッセージだと実感しています。

 さて昨年度はこんな憂鬱な状態で年が明けましたが、4月から奈良大学の吉川先生と「近畿古代牧研究会」(当初は”牧場の会”)を立ち上げ、5月には吹田市の垂水牧推定地を元吹田市博物館館長の藤原学さんのご案内で巡検しました。地元を知り尽くした方のご案内はとても判りやすく、こちらの初歩的な質問にも倍の内容でお答え頂くなど、とてもとても勉強になりました。巡検の内容は5月の研究会で報告したのですが、皆さんから早く文字にしろ!!とせつかれていますが、ここのところ筆が遅くて・・・・。

 長岡京歴史散策の会は無事一周年を迎えました。課題は人集めです。ここのところ、個人情報の保護が優先されてなかなか住所録を充実させることができていません。年賀状なども利用しながら、少しずつ参加者を募っています。昨年度の「長岡京歴史散歩」では、春に百濟王氏の本拠地、百濟寺周辺を歩き、秋には桓武天皇遊猟の地大原野を歩きました。「長岡京歴史よもやま話」も2回開催し、春には「ポンペイと長岡京の交通」と題して洋の東西の古代都市の交通管理の共通性を紹介し、秋には「桓武天皇と母系」と題して高野新笠を軸に桓武の母系の特質を副代表から話して頂きました。
 今年も、2月18日13時から15時には、長岡京市中央公民館にて「桓武天皇と近江~梵釈寺建立と六度の近江行幸~」と題して第6回よもやま話、3月18日(土曜日)には第6回長岡京歴史散歩を平安京の中枢部をご案内しながら長岡京との比較に思いをはせて頂きます。12:45JR嵯峨野線円町駅(京都駅から3つめの駅)集合で半日歩きます。是非ご参加下さい。
 
 6月には橋本義則さんを研究代表者とする科研「東亜古代都城比較研究第4期の踏査で黄河流域の山西省を回り、黄河を渡る巨大浮橋を支える「鉄牛・鉄人」に出会いました。そのスケールの大きさに目を奪われました。その成果の一部は恒例の年末、大阪府立大手前高等学校での「集中セミナー」で高校生にもお話しし、とても熱心に聞いたいただきました。
 帰国すると、数年前に原稿を出していた小論の載る『変容する聖地・伊勢』(思文閣出版)が刊行され、手元に届きました。伊勢神宮の制度化は考古資料から見ると7世紀の天武朝以後であることを再論したものです。
 8月、には久しぶりに8.6の集会に参加しました。オバマのヒロシマ訪問を地元の方々はどう受け止めたのかを確認したかったのです。8月末には世界考古学会議が同志社大学で開催され、短い報告をしましたが、英語がさっぱりで散々でした。皆さん流ちょうな英語で報告され、感心しました。その過程で得られたことは「日本都城がなぜ外郭を持たなかったのかに確信が得られたことでした。ちゃんと英語の文章を書いてどこかに書けばいいのですが、最早その元気はありまっせん。
 9月、これまた久しぶりに八尾市の現説・弓削寺跡に参加しました。関西の市民の方々の遺跡に関する熱意の強さを久しぶりに体感しました。今回の調査が弓削寺かどうかは別にして、この近くに存在した由義宮の発見に期待がかかります。
 年1回の「大宰府史跡調査指導委員会」では正庁の西の小丘上に所在する蔵司地区から発見された初期の施設跡に見入りました。
 10月には、「近畿古代牧研究会」の第2回の巡検として、柏原市の坂戸牧推定地を同市資料館の安村さんのご案内で歩きました。垂水牧とは全く地形の異なる推定地についても、やはり現地の持つ意味はとても大きく、研究の展望が開けました。3月には畝野牧を巡検します。
 私にはどうでもいいことなのですが、広島カープの優勝に友人達は大いに盛り上がっていました。我がプロ野球への関心は暫く冬の時代です。
 11月、久留倍遺跡の講演会と壬申の乱ウオークを実施しました。今秋で60回(20回と40回)になります。長岡京でのボランテア活動もあり、そろそろ久留倍での活動は一区切り付けようと思っています。秋には総括講演会とウオーキングを考えています。
 12月、今週末の科研での発表準備に大変な時間を割かれました。クリスマスも、正月もありませんでした。
 
 久しぶりのブログ。やはり少しは何か書いておかないと直ぐ忘れるので、時々書くことにしました。ま、ボチボチですが、気が向いたら書きますので時々覗いてやって下さい。

 本園も宜しくお願い申し上げます。年賀状を兼ねて御挨拶申し上げました。

 
 2017年丁酉正月朔日

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第4回長岡京歴史散歩開催の条

2016-05-07 19:15:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
第4回長岡京歴史散歩ご案内
~東宮(第二次内裏)周辺を歩く~
 『続日本紀』延暦八年二月条に「西宮より移って始めて東宮に御す」と記す後期の内裏と離宮等を巡ります。多数のご参加をお待ちいたしております。



日時 2016年5月14日(土)13:00~15:00
集合 阪急西向日駅東口12:45集合・受付

コース
 13:00解説→第一次春宮坊跡→築地跡→第二次内裏正殿・東脇殿跡→後宮・登華殿・弘徽殿→内裏内郭築地回廊→第二次春宮坊跡→休憩旧東院跡→15:00解散、周辺の内膳町や木簡出土地、蓮池跡を遠望しながら、阪急西向日駅あるいはJR向日町駅へ向かう。

参加費資料代300円・雨天決行
【次回行事】第5回長岡京歴史よもやま話
「桓武天皇と母系~百済王氏と土師氏~」
・2016年7月16日(土)13時~15時 
・会場 西向日コミセン〈西向日駅西口徒歩5分予定〉
【次々回】第5回長岡京歴史散歩
 「桓武天皇遊猟~大原野、石作~」
 ・2016年10月22日(土)12:45阪急東向日駅西口集合

   長岡京歴史散策の会075-934-1684(古川)







第3回長岡京歴史散歩~桓武天皇縁の地を歩く-1~開催の段

2016-03-25 15:07:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
第3回長岡京歴史散歩
~桓武天皇縁の地を歩く-1~
ご案内

 桜開花の報せの届く今日この頃ですが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
 第3回散歩は桓武天皇と縁の深い交野の地を巡ります。

 河内国交野郡(現・枚方市)には8世紀後半に建立された国の特別史跡百濟寺跡が所在しています。百濟寺は渡来系氏族の血を受け継ぐ桓武天皇によって厚遇された百濟王氏の氏寺です。薬師寺に似た伽藍配置を採り、金堂の前には東西二塔が配されました。
 百済寺・百済尼寺は、当初、天武朝・聖武朝難波宮の南面大門から真っ直ぐ南に延びる「難波大道」に沿って設けられていました。この地は摂津国百済郡に属し、660年の百済滅亡後、白村江の戦いで復興は果たせなかった同氏が倭国の拠点としたわ?のがこの地でした。近年の発掘調査によって細工谷遺跡の一角に尼寺が、その南東部に僧寺としての道ヶ芝廃寺が確認されています。
 ところが、長岡京遷都に際し、交野郡に移建されたとされています。桓武天皇は遷都の直前にこの地に行幸したことが知られていますが、新京の地を確認した上で、多数の百済王氏に叙位します。その後も10数度にわたって行幸・遊猟しており、交野の地はお気に入りの土地だったようです。特に二度にわたって祀られた「郊祀壇」は極めて中国的な祭事であり、交野の地に対する取り扱いが際立っていたことを教えてくれます。
 今回は、長岡京からはるか離れた地でありながら、その経営に深く関わっていた百済王氏の本拠地を訪ねます。
 多数のご参加をお待ち申しております。

日時 2016年3月26日(土)13:00~15:30(宮之阪駅改札口12:45受け付け開始)
集合 13:00京阪電車交野線宮之阪駅13:10→13:20禁野車塚古墳13:30→13:50百済王神社14:00→14:05特別史跡百済寺跡・トイレ休憩14:30→14:45禁野本町遺跡15:00→15:30京阪電車枚方市駅解散
参加費資料代300円・雨天決行
〈次期行事予告〉 ◇第4回長岡京歴史よもやま話「長岡京と世界の交差点」2016年4月23日(土)13時~15時 会場 長岡京市中央公民館 ◇第4回長岡京歴史散歩「東宮周辺を歩く」 2016年5月14日(土) 12時45分 阪急電車京都線 西向日駅東口集合〈主な予定コース〉 朝堂院東第四堂→築地跡→東宮(後期内裏)→春宮→宮城東大垣→南院→西向日駅
長岡京歴史散策の会075-934-1684(古川方)


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第3回長岡京歴史よもやま話

2016-01-20 06:25:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
第3回 長岡京歴史よもやま話 ご案内



迎春



新春企画第一弾「長岡京木簡の魅力~輿と宮廷工房~」を開催します。



 長岡京跡では、1977年に向日市鶏冠井町から太政官の付属機関に関する木簡が発見されて以来、8世紀末の日本の政治・経済・文化・社会を知る貴重な資料が提供されています。今回は向日市民体育館の南にあたる左京二条二坊九町から出土した天皇が乗る輿の組み立て工房に関する木簡や、近接する東宮町推定地から出土した木簡や琥珀などの様々な遺物を取り上げ、当地一帯に展開した皇室の実生活を支えた工房群・宮外官衙町を通して、長岡京の特質についてご紹介します。ご友人などお誘い合わせの上、多数のご参加をお待ち申しております。



日時 2016年2月6日(土)13:00~15:00
会場 大山崎町歴史資料館(TEL 075-952-6288) 阪急大山崎駅徒歩1分、JR東海道線山崎駅徒歩5分
会場費・資料代 300円
行事案内「第3回長岡京歴史散歩~桓武天皇縁の地を訪ねて」
2016年3月26日(土)12:45京阪電車交野線宮之阪駅集合

     長岡京歴史散策の会075-934-1684

 中山修一先生生誕100周年記念講演会「中山先生と長岡京研究」開催の条

2015-11-17 00:24:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 中山修一先生生誕100周年記念講演会「中山先生と長岡京研究」
開催にあたって

 長岡京は、かつて「幻の都、仮の都」と称され、その痕跡はほとんど遺っていないとされてきました。しかし、これに果敢に挑戦したのが中山修一先生でした。先生の研究を出発点に、長岡京は今や日本古代史研究に欠かせないものになってきています。
 中山先生がお亡くなりになって19年。この間、JR長岡京駅前の整備が進み、東海道線に桂川駅が、阪急電鉄京都線に洛西口駅と西山天王山駅が新設され、乙訓地域は京阪神を結ぶ交通の要所として益々人々の行き交う町へと進化しています。その淵源が、延暦三年(784)の長岡京遷都にあることは誰もが認めるところでしょう。2200回を超える発掘調査によって長岡京の実像は細部についてより鮮明になりつつあります。にもかかわらず、長岡京の全体像はまだ闇に包まれたままです。
 「生誕100年」という節目の年にあたり、今一度、長岡京研究の現状を確認し、将来に向かって課題を明らかにすることは意義深いことと考えます。中山先生が明らかにしたものは何だったのか、今日の研究にどのように活かされているのか、最新の研究成果によってどこまで明らかになったのかを考える場として、本講演会を企画しました。
 特に近年、初期平安京と長岡京との関係について、比較研究が求められており、同志社女子大学の山田邦和先生をお招きしてお考えを伺うことにしました。
 乙訓地域では、最近、向日市で大極殿院の発掘調査が進められ、正確な事実が獲得されました。長岡京市や京都市でも、長岡京右京西端及び郊外に位置する後期古墳から長岡京期の遺物が出土し、長岡京造営と古墳との関係解明に新たな資料が提供されました。果たしてこれをどう解釈するのか、新たな課題の出現でもあります。
 新しい100年に向かって、本講演会が第一歩を踏み出す契機になればと思っております。
   2015年11月22日  
NPO法人長岡京市ふるさとガイドの会・長岡京歴史散策の会




1 日時
 2015年11月22日(日)13時~17時 受付開始 12時30分 資料代300円(実費)

2 会場
 長岡京市中央公民館3階 市民ホール

3 式次第
 13:00~13:10  開会挨拶
 13:10~13:30  家族がみた中山修一の世界  中山忠彦(長岡京市中山修一記念館館長)
 13:30~14:50  長岡京研究の過去・現在・未来  山中 章(三重大学名誉教授)
 14:50~15:00  休憩
 15:00~16:00  長岡京から平安京へ  山田邦和 同志社女子大学教授
 16:00~16:55  ミニ座談会~中山先生と発掘現場
         パネラー 山中 章・山田邦和・中山忠彦・二市一町発掘担当者
 16:55~17:00  閉会の挨拶 別所昭 (長岡京市ボランテアガイドの会代表)

4 主催・共催・後援

 主催 NPO法人長岡京市ふるさとガイドの会 理事長 別所 昭
    長岡京歴史散策の会 代表 山中 章
 後援 長岡京市教育委員会・向日市教育委員会・大山崎町教育委員会・京都新聞・日本経済新聞



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第2回講座長岡京歴史よもやま話「長岡京の風呂と世界の風呂」開催の条

2015-10-26 17:03:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  第1回 講座長岡京歴史よもやま話は「トイ」がテーマでしたが、今回のテーマは「風呂」です。

 風呂もトイレも現代人には欠かせない生活必需施設ですが、その起原や変遷については意外と知られていません。ところが長岡京跡からは現状で日本最古の風呂遺構が発見されているのです。向日市寺戸町に所在する宝菩提院廃寺の発掘調査で発見された遺構です。宝菩提院廃寺は壬申の乱後、山背地域を代表する白鳳寺院として王権によって建設されました。この寺域の東辺部から発見されたのが日本最古の風呂跡です。見事な石敷きを伴う遺構はなぜか史跡に指定されることもなく開発が行われ、の大半は失われてしまいました。某国家機関担当者の無責任な一言「こんなもんどこにでもある」という発言が決め手になり処理されてしまったものです。国私は、長屋王邸の破壊、長岡京東院の破壊と並ぶ日本古代宮都関連遺跡の破壊だと考えています。今でもその悔しさは忘れられません。

 もっとも、その責任は某担当者一人だけにあるのではなく、日本の歴史考古学研究者、担当者の実力の結果だとも思っています。その点についてはいずれ別にお話しするとして、今回の「よもやま話」の概要をご紹介し、31日の講座へのお誘いを申し上げたく思います。

 実は私は、この遺構を見て直ぐに「なんと素敵な風呂が日本古代にあるものだ」と感激した一人です。残念ながらその後の本遺構の分析はなぜか建築史学の研究者に委ねられ、特定の解釈が与えられて今日に至っています。どうして遺跡を検出した考古学の発言がほとんど無いのか、不思議なのですが、ま、そこには私の力の及ばない特殊な事情があるのでしょう。そこでより広い視点から長岡京跡発見の風呂遺構を分析、評価するために諸外国の遺構を収集、分析することに致しました。

 その結果、世界の風呂文化には四種類あり、長岡京のそれは日本独自の「風呂観」に基づく極めて特異な構造、文化に基づくものであることに気づきました。今回の講座の主要テーマはこれです。

 風呂の歴史は、自然に湧く温泉を除くと、今のところ、フェニキア人の手になるケルクアンの風呂が最古の例のようです。フェニキア人の風呂は現代日本の風呂に酷似しています。人一人が入れる浴槽を設け、内部には腰掛け用の段差も設けられていました。おそらくお湯を溜め、浴槽に入って身体を温めたり洗浄したのでしょう。ケルクアンには各家に一基程度この設備が設けられていたようです。集団用のものもあり、それらは家に風呂のない人々が使用シアノかも知れません。なぜこの風呂構造がローマに受け継がれなかったのか、とても興味深いテーマです。

 フェニキア(カルタゴはその一部)を制圧したローマ人も新しいローマ時代のカルタゴに大規模な風呂を造ります。しかしその構造は、首都ローマで開発された「サウナ式」のものでした。密閉された室内に供給された高温の湯から発生する蒸気によって部屋を暖め、発汗させる構造で、現代のサウナ風呂そっくりでした。風呂好きなローマ人は征服した各地の支配拠点にも必ず風呂を建設し給水のための水道施設と共にローマの象徴となりました。近年はヤマザキマリさんの「テルマエロマエ」という漫画が大流行し、その存在は広く知れ渡ることになりました。しかし、日本を良く検討してみると風呂遺構は少なく、奈良・平安時代では宝菩提院廃寺のものが唯一です。その上、遺構を詳細に検討すると、当該風呂は湯を浴びるスタイルのもので、ローマのそれや近世に発展する岩風呂でもありませんでした。極めて独自性の高い風呂文化が宝菩提院廃寺の風呂遺構によって初めて確認でき、世界の風呂と比較することが可能になったのです。
今回の「よもやま話」では、こうした風呂文化を比較し、日本の風呂文化の変遷についてもご紹介します。

 なお、開催場所は、第6向陽小学校へ行く途中に桓武天皇皇后藤原乙牟漏高畠陵がありますが、その東隣に所在する「寿恵更紗ミュージアム」です。添付の地図などを参考においで下さい。


 第2回長岡京歴史よもやま話~長岡京の風呂と世界の風呂~ご案内

 仲秋の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。第2回よもやま話を「風呂」をテーマに開催します。長岡京跡では、現在のところ日本最古の風呂跡が宝菩提院廃寺の一角から発見されています。見事な石敷きの湯浴み場を供えた例を見ない施設です。なぜ宝菩提院廃寺からなのか、風呂好きと言われる日本人ですが、世界の民族の風呂はどんな施設なのか。比較して考えてみたいと思います。修了後宝菩提院廃寺風呂跡の現地を見学します。



日時 2015年10月31日(土)13:00~15:00

集合 寿恵更紗ミュージアム(TEL 075-934-6395 第六向陽小、桓武天皇皇后陵の東) 阪急東向日駅徒歩15分或いは阪急バス東山バス停から徒歩5分.阪急東向日発66系統善峰寺行き12:42→東山12:50着)

【次回行事案内】「中山修一先生生誕100年記念特別講演会」2015年11月22日(日)長岡京市中央公民館3階市民ホール 

  長岡京歴史散策の会075-934-1684



寿恵更紗ミュージアム地図
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94873900&lon=135.69829550&ac=26208&az=&z=13&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E5%90%91%E6%97%A5%E5%B8%82

地図中の「NPO法人日本燦クラブ」=寿恵更紗ミュージアム


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第2回長岡京歴史散歩報告の条

2015-10-07 00:47:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  2015年9月26日(土)晴れ。何とか雨の予報を振り切って暑くもなく、寒くもない絶好の散歩日和となった第2回長岡京歴史散歩。

 見学コースは 西山天王山駅→長岡京右京造酒関係遺跡→恵解山古墳→トイレ休憩(勝竜寺城跡)→長岡京西市・西市町跡→塚本古墳群・開田遺跡→阪急電車長岡天神駅 で実施しました。

 広報が十分ではなく、参加者の数を心配しましたが、前回とほぼ変わらない、41人の参加を得ました。
 
 ここでは見学の様子を写真で報告いたします。その気になって「歩いて」見て下さい。

 阪急電車西山天王山駅改札口集合。事前に下見をしたにもかかわらず、私の思い込みで、改札口が2箇所あることを知らず、何人かの方から御指摘を受けました。申し訳ありませんでした。これも18年ぶりの乙訓と言うことでしょうか。

 

 少しバタバタしましたが、一応予定通り、13時には本日のコース説明を始めることができました。

 

 旧西国街道を北に向かって歩きました。少しこの辺りの説明資料が必要だったかなと反省材料です。

 

 最初の見学地は、現在立命館中・高等学校の敷地となっている長岡京右京八条二坊七町で発見された造酒関係遺構の宅地です。
 説明板が歩道に面して置かれているので、これだけの数だとなかなか説明板の前にはこれません。

  

 予め長岡京市史資料編一から写した資料を配布しましたのでこれを見て頂きながら説明しました。

 


 同校校門付近は西二坊坊間小路が通る計画だったと考えられています。その両側溝の位置が復元的に表示されていました。

 

 たまたま当日は同校の文化祭で一般に公開されていましたので、建物の中に入ることができました。中庭には近世の濠の跡が保存され、その説明が建物内部に記されていました。
 

 

 学校の前の道を数分東へ歩くとJR東海道線を跨ぐ歩道橋があり、ここから次の見学地、恵解山古墳が見渡せます。

 

 後円部の西北からの全景です。

 

 恵解山古墳では、たまたま参加されていた発掘担当者からの生の説明を伺うことができました。前方部西側の造り出しを前に説明です。西造り出しと東造り出しとでは規模も形も埴輪の配置方法や種類も全く異なると言うことでした。

 

 西造りだしはこのように方形で円筒埴輪や朝顔形埴輪が整然と並んでいます。
 

 

 階段を昇って墳頂部へ上がると、そこには武器埋納坑が復元されていました。発見当時何度も見学に訪れましたが、中でもこの写真をお撮りになった京都大学の技官・故高橋猪之介さんの写真の技術には感嘆したものでした。

 

 こうした恵解山古墳が大和王権とどのような関係にあった人物のものなのかという点についても詳しい説明がありました。墳形の相似形から佐紀盾烈古墳群の一つコナベ古墳との関係が検討されているらしい。コナベ古墳は5世紀前半に位置付けられる古墳で恵解山古墳もほぼこの時期に相当Uるのではないかということです。

 

 恵解山古墳は長岡京の造営とも深く関わっている。ほぼ墳丘の中心が七条大路と西一坊大路の交差点に相当するのです。このことを以て長岡京がこの地に及んでいなかったとする見解もあるらしいのですが、古代日本都城内には複数の巨大前方後円墳があることが知られています。また、あるものは宮城の造営に障害があるため破壊されたり(神明野古墳)一部削平され(市庭古墳)ています。長岡京内でも破壊されたものと破壊されなかったものがあり、その基準は明確ではありませんが、それぞれの時期にそれなりの基準があったように思えます。
 恵解山古墳は大路の交差点でありながら破壊されなかったのは、或いは当該こふんについての何らかの「資料」があったのかも知れません。コナベ古墳との相似形はそうした課題を解く鍵になることでしょう。

 
 
 前方部から東側へ回り込み、東造り出しを経て次の目的地へ向かった。

 

 予定では勝竜寺城を少し見学することにしていましたが、時間が逼迫していましたので、トイレ休憩だけして次に向かいました。

 

 大きく西へ方向を変え、西市の可能性を初めて知らせてくれた「自司進・・・」木簡の出土した乙訓高等学校の北側のマンション建設地に回りました。

 

 左頁右下の木簡がそれです。裏に「三年十二」とありますので、延暦三年十二月、即ち遷都直後の木簡である可能性が高いものです。
 

 さらに北へ進んで、西市の周辺に展開した工房の一つ、桜の樺を大量に出土した地点を見学しました。私はこの地点が西市で販売する曲物を大量生産していた官営工房の跡だと考えています。

 

 最後に現在発掘調査中の現場を見学して解散しました。奇跡的に予定した時間通りに終了しました。
 参加の皆様お疲れ様でした。

 
 
 〈次期行事予告〉

 ○ 第2回長岡京歴史よもやま話「長岡京の風呂と世界の風呂~風呂の構造と習慣~」2015年10月31日(土)13時~15時 会場 向日市寺戸町寺山12-1寿恵更紗ミュージアム(TEL  075-934-6395) 

長岡京歴史散策の会075-934-1684
 ○ 中山修一先生生誕100年記念特別講演会 「中山修一先生と長岡京研究」
 2015年11月22日(日) 12:30受け付け開始 17:00終了予定
 長岡京市中央公民館3F市民ホール
 講演 中山忠彦「家族がみた中山修一の世界」
    山中 章「長岡京研究の過去・現在・未来」
    山田邦和「長岡京から平安京へ」

 ○ 第3回長岡京歴史散歩「桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王」
   2016年3月26日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
  〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡


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第2回長岡京歴史散歩開催の条

2015-09-02 14:46:31 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


第2回長岡京歴史散歩~長岡京右京を歩く-1~


    ご案内
 初秋の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。第2回散歩を右京の西市やその周辺に展開する市関連施設、造酒施設跡、七条大路と西一坊大路交差点付近に残る恵解山古墳など、発掘調査によって初めて明らかになった右京の遺跡を巡ります。多数のご参加をお待ち申しております。



日時 2015年9月26日(土)13:00~15:30
集合 阪急電車西山天王山駅改札口12:45

見学コース 西山天王山駅→長岡京右京造酒関係遺跡→恵解山古墳→勝竜寺城跡→長岡京西市・西市町跡→塚本古墳群・開田遺跡→阪急電車長岡天神駅

参加費無料・雨天決行・熱中症対策にご留意下さい。

〈次期行事予告〉
第2回長岡京歴史よもやま話「長岡京の風呂と世界の風呂~風呂の構造と習慣~」2015年10月31日(土)13時~15時 会場 向日市寺戸町寺山12-1寿恵更紗ミュージアム(TEL  075-934-6395) 

長岡京歴史散策の会075-934-1684




多くの方のご参加をお待ち申しています。

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「長岡京歴史よもやま話」 第1回を開講しますの条

2015-08-01 12:31:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
長岡京歴史散策の会では、長岡京歴史よもやま話 を開講します。

 日本古代の王宮・王都の歴史や考古学の最新調査と研究の成果をスライド写真等でわかりやすく解説します。東アジアの王宮・王都との比較、世界の都市文化との比較などについても折に触れて紹介していこうと思っています。最新の発掘調査情報の解説も行っていきます。

 
 第1回よもやま話

 「長岡京と世界のトイレ」

人間社会には不可欠なトイレは、近年生物学からの方法論の提示により、その空間を 特定することが可能になり長岡京内からも発見することができました。世界のトイレ文化を視野にトイレを考古学します。

 ・日時 2015年8月4日(火) 10時~12時 
 ・会場:中山修一記念館(下図参照)
  阪急電車京都線西山天王山駅から東へ徒歩15分


 イギリスヨークのバイキングセンターのトイレ展示。近づくと臭いまでする!!


 イタリアポンペイの道路には下水も流されており、あまり清潔出はなかった。両側の歩道を行き来するためにステップストーンが配置されていた。


 中国洛陽東面に開いていた建春門の跡付近にあった現代のトイレ。


〈今後の予定〉

第2回長岡京散歩 ~長岡京の西市周辺を歩こう~

 2015年9月26日(土)12時45分阪急西山天王山駅東改札口集合
 中山修一記念館-恵解山古墳と長岡京条坊跡-長岡京造酒関係遺跡(現立命館中・高等学校)-西市周辺(「金銀帳」木簡、「自司進」木簡出土地・現乙訓高等学校周辺)-15時30分解散

第2回よもやま話 「長岡京の風呂と世界の風呂習慣」

 現代の日本人家庭にはお風呂があり、毎日のようにお風呂に入る。しかし、こうした習慣が始まったのもつい最近のことであり、わずか半世紀前まで、家庭に風呂はなく、銭湯を使うことが大半であった。日本人の風呂好きはローマ人と比較されることが多いが、歴史資料は意外なことを教えてくれる。
2015年10月17日(土) 13時~15時 
会場:向日市寺戸町寺山 寿恵更紗ミュージアム 参加費100円

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長岡京歴史散策の会 ブログにも同文を公開しました。是非そちらにもアクセス下さい。


中山修一記念館地図


寿恵更紗ミュージアム地図


40年ぶりの歯医者の条

2015-07-05 18:10:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 金曜日に歯医者に行ってきました。40年ぶりの元職場でした。
 すっかり変わっていて、なんと治療台の椅子の前には大きな画面があり、洋画が流れていました。



 私が技工士見習いをしていた頃はもちろんそんな気の利いた診察台なんてありませんでした。上から何本も延びた「ドリル」をみた途端泣き出す子供もいた時代でした。診察室の奥に薄暗い技工室があり、次々と運ばれてくる歯形に石膏を流すのが主な仕事でした。時々レントゲンを写す所作があり、直ぐに現像に回されてきました。仕事に慣れてくると削られた虫歯治療のための穴に蝋を入れ、金歯の原形を造る仕事が回ってきました。原形ができるとこれを耐火材に埋め込み、遠心力を利用して金を溶かし込むと「金歯」のできあがりです。先日は技工室まで覗くことはできなかったのですが、きっと近代化されていることでしょう。次回には是非覗いてみたく思います。

 歯医者に何しに行ったのか?って、そりゃ「治療」ですよ。

 とはいってもはっきりどこかが悪いわけではなく、時々物を思い切り噛むと奥歯がぐらついたような感じになったり、少し痛みを感じたりするので、最新設備に変えたという従兄弟の息子さんのやる歯医者の見学がてら行った次第なのです。私が仕えた叔父はもう他界し、従兄弟も最近完全に息子に譲って引退。果たして息子の腕は??という関心もあって予約を入れた次第なのです。

 住居も全て建て替えたので、どこが入り口かも判らずウロウロ。受付で聞いてやっと従兄弟の住む建物へ。この辺りもすっかり変わって面影はほとんどない。雑談をするうちに予約時間が来て診察室へ。
 息子さんは立派な歯医者になっていて、とても手際いい。その上、とても優しい。これなら患者もようけ来るに違いない。密かにそんなことを思いながら診察台へ。おそるおそる口を開けると診察開始。例の鏡やらを使って歯の状態をチェック。そしてレントゲン。と一通りの手順を踏むと診断。なんと目の前にモニターがあって、今撮ったばかりの口内の写真が提示される。

 少々不安な気持ちで診断結果を聞く。

 「きれいな歯ですね!」
 「これで40年以上は医者に来たことがないとは信じられん!」
 恐る恐る
 「虫歯は?」と聞く。
 「一本もありませんよ。本当にきれいな歯ですね。」
 (内心ホッとする)
 「ただ、少し歯石が溜まっているので、それのチェックと除去の予定を考えましょう」
 ということで次回に本格的な歯石除去の「治療」が始まることに。暫く待っていると、「時間ができたので少し前歯の歯石だけ取っておきましょう」ということになり、最新の機械で今度は若い歯科衛生士のおねえさんに歯石の説明と除去をやって頂く。

 ということで40年ぶりの歯医者での診察結果は①32ほんの歯全てに虫歯無し、②歯周病も問題なし、③前歯6本に歯石が多いが、後は簡単に処置できる、ということで無事終了。

 なんといっても虫歯無し!!はすばらしい。歯医者さんに褒められたのだからこれまた嬉しい。ま、ご存じの方はご存じかも知れませんが、私はこうした経歴もあり、いつもポケットに歯ブラシを入れ、いつでもどこでもすぐ磨く習慣がある。なんといっても学生には有名で、還暦のお祝いはナナナント、歯ブラシ60本だった!!(笑)

 というわけで、このまま歯磨きを励行すれば、火葬場でも焼き上がった骨にはきれいな歯だけが残るかも知れない。(笑)

 皆さんも食べたら磨く、丁寧に磨く、自分の舌で汚れをチェックしながら隅々まで丁寧に磨く。これを怠らないで下さいね。

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 なお、従兄弟の歯医者は長岡京市花山に所在し、直ぐ近くに長岡天神の八条が池が広がるとても閑静な住宅街。お近くで歯に問題が起こればご利用下さい。先生は男前で優しいですよ。










第1回 講座「長岡京歴史よもやま話」開講の条

2015-07-05 13:29:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 長岡京歴史散策の会の事業第二弾として「講座 長岡京歴史よもやま話」が開講されます。
 この講座は、日本古代の王宮・王都の歴史や考古学の最新調査成果及び研究成果をスライド写真等でわかりやすく解説する企画です。
 長年、三重大学にて日本考古学や東アジアの比較考古学を講義してきた山中が、主に1・2年生を対象に行ってきた考古学入門講義を基礎に、長岡京など奈良・平安時代の歴史について写真や図表を中心にお話しする講座です。大学での講義でも時に応じて行ってきた最新の考古学関係ニュースの解説も行っていきます。また、東アジアの王宮・王都との比較、世界の都市文化との比較などについても折に触れて紹介していこうと思っています。

 例えば、5月22日の新聞各紙は奈良文化財研究所の小田裕樹さんの最新の研究成果「奈良時代の盤上遊戯に関する新知見」という発表を大々的に伝えました。そこで、7月1日に三重大学で子なった教養教育での日本考古学Aの授業では公表された資料をパワーポイントにまとめこんな授業をしました。その一部です。 





















以下、現代のユンノリの遊び方の紹介、古代の「カリウチ」と呼ばれた遊びに用いられた用語が『萬葉集』に取り込まれているという小田さんの指摘などを紹介しました。



その上で、正倉院に残されている囲碁、双六、投壺などの遊びに関係する宝物を紹介し、中国の石像からみられる遊び方の紹介なども行いました。また、事などの音楽が魂を振るわせる祭祀行為に始まること、このため、弥生時代の遺跡や前期古墳の副葬品に琴や琴柱が出土することなども確認しました。また、独楽も魂を奮い立たせる祭祀道具が後に子供達の遊びとなる事例なども資料を基に確認しました。
 
 こんな感じの授業の一端をお話しする企画で、第1回はトイレがテーマです。
 最新のトイレ研究の成果を通して日本の古代社会がいかなる状態であったかを解説します。
 なぜいきなりトイレか、て?。それは聞いてのお楽しみにして下さい。

 講座 長岡京歴史よもやま話
 第1回 「長岡京と世界のトイレ」
   人間社会には不可欠なトイレは、近年生物学からの方法論の提示により、その空間を特定することが可能になり長岡京内からも発見することができました。世界のトイレ文化を視野にトイレを考古学します。

 ・日時 2015年8月4日(火) 10時~12時 会場:中山修一記念館(阪急電車西山天王山駅下車徒歩15分)

予告
 第2回 「長岡京の風呂と世界の風呂習慣」
 現代の日本人家庭にはお風呂があり、毎日のようにお風呂に入る。しかし、こうした習慣が始まったのもつい最近のことであり、わずか半世紀前まで、家庭に風呂はなく、銭湯を使うことが大半であった。日本人の風呂好きはローマ人と比較されることが多いが、歴史資料は意外なことを教えてくれる。
 ・日時 2015年10月予定  10時~12時 会場:未定

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