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共産党共闘問題~みんななかよく~

本ブログと相互リンクをいただいている「非国民通信」というブログがある
そこで興味深い記事を発見
その中に
共産党が独自候補を立てることで民主党の票が食われるという思いこみはありますが、それは民主党を買いかぶりすぎです。
との文言がある
※非国民通信さん申し訳ないです。相互リンクに甘えて勝手に引用しました。順序が前後しますが承諾いただけない場合はお申し付けください。直ちに引用箇所を削除いたします。

確かに単に共産党が独自候補擁立を断念した場合、共産党の票が民主党に流れるとは限らない
でも共闘となれば話は別
共産党に投票=場合によっては民主党候補者に投票ということなのだから
その場合に硬派でなくなった共産党を見限る支持者は少ないと思われる
彼らが他に投票すべき党は見当たらないから
「許せん」とか言って見限る位政治に関心の高い支持者なら棄権の危険性も承知の場合が多いと考えられる
他方共産党にとっては硬派ぶりに嫌気がさす支持者も存在するから党の利益=支持者を増やすことだけと擬制するならば共闘は共産党の利益になる行為だ

もっとも「擬制」と言ったように共産党はそうでないと考えるから共闘に消極的なのであろう
いずれにせよ共産党の共闘問題は党の戦略の問題であって政策の問題ですらないことには注意が必要である
したがって支持者への批判は愚の骨頂
『党』に対し利益でもって誘導する太陽政策を続け、例え奏功しなくともそこは尊重してやるべきじゃないだろうか
ナンパになった彼の参院選後の生き方まで保証してやることはできないのだから

その意味でも共闘の受け皿というか民主党側が共産党が服を脱ぎやすいようにセッティングしてやることが必要であろう…(太陽政策とかけたつもりが何だかイヤラシく聞こえるのはナゼ??)

それから忘れてはならないのは、選挙とは本来的に不信任投票である『と考えておくべき』だということ
選挙に行かないと言う人の多くは「誰を信用してよいかわからない」「全員うさん臭い」などと言う
だけどそれはおそらく自由主義国家における選挙民の心構えとして正しくないような気がする
三権分立も二院制もそうだがこの国の制度は国家への不信に基いている
自由主義国家においては全面的な信頼などありえない
だから国家機関は常に監視を必要とされる
そこにあるのは消極的な信頼と揺るがない不信だ
「人はマチガイを犯す」の原則は常にそこにある
その選挙をする場合に「この人なら大丈夫」あるいは「この党ならば大丈夫」などと言える人間や政党がどれだけいるだろうか
むしろコイツはヤバイこの党はヤバイという考えに基いて「コイツとコイツ・この党とこの党が当選しませんように」といってそれ以外の「それらよりはマシ」な候補者・政党に投票するのが正解であろう
「この人なら大丈夫」などと言われる人・党の存在は自由主義民主主義の機能不全の証左であり、それだけで危険なのである。

選挙の意味を考えれば考えるほど、特定の政党をただその政党であると言うだけで支持することなどドダイ無理がある。
我々はここからスタートすべきではないか
たしかに理想は共闘である
おそらくそれが野党票が最も増え自公票が最も減る状況だから
しかしそれが叶おうと叶わなかろうと、根底にある考えは自公に得票させないこと。
共闘の目的もそこにあり、またそれ以外にはない
たしかに打倒自公の目的を一にしながらそのために力をあわせられない異端の存在は歯がゆいかもしれない
しかし敵の敵は味方…とは思えないのは本来むしろ健全な発想であるといえる

つまりなすぺきは弱小政党の分際でラブコールをフイにしたことへの逆切れでなく本来の敵をこき下ろすことだったのであり、民主党に投票させることではなく、自公に投票させずかつ棄権させないこと。
言い方の違いであるが、力点を間違えないようにすると言う意味で「言い方」は大切である
力点を間違えた最悪の事態が民主党支持者が共産党タタキをして共産党支持者が民主党タタキをする事態である
※上記のことは前回「比例は自公以外。選挙区は民主(理想は共闘)。これしかない」と言ったことと矛盾しない。むしろ同趣旨である。

共闘という理想が叶わなかった結果、
左派の票が共産党と民主党で分裂→民+共>自公であるにもかかわらず自公勝利
となるか
共の獲得票はそのまま民勝利
となるかはわからない
いずれにせよ民共のケンカにより左派票自体の萎縮という事態よりはマシである

そしてそう。
この意味でも選挙は理想でなく「マシ」を選ぶものだ
選挙は不信任投票+自公のアホくささ=自公以外に投票したくなる
はずである
特定の支持政党を持っていようといなかろうと現状に危機感を覚える人間は、これだけを訴えることに専念すべきだ
例え胸の内に共闘の理想を抱いていようとも、恐らく今それを『両党以外』へ口にすることは逆効果となっている気がする
逆効果であるにもかかわらずそれを行うがごときは「自公の回し者」であろう

本来の目的を失念して勝てるほど選挙は甘くない
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憲法改正?

憲法改正というカテゴリーを作りながら(漫然と?)エントリーゼロを貫いてきた私の憲法改正についての初エントリー。
とはいえこのブログをお読みになったことのある方には私がどういう考えを持っているか言うまでもないと思うが…
今回は長いで。覚悟しいや(←岩下志麻風)

一般的には議論を重んじる私だが、この問題については最早議論の余地はない
この辺は核武装論の可否と同じ
人を殺してはいけないのと同じ
言語道断ということ
改憲の是非という論点については結論ありきである
頭ごなしでいい
(びっくりされた方もちょっとガマンして読んでいただけるとありがたい)
これは例えば、単純に憲法は制定から60年たったから古い・時代にそぐわないという「錯覚」、改憲は必ずしも徴兵制へ向かわないという「誤解」、自由ばっかりで義務がないという「悪意に満ちた勘違い」に、日常に追われて政治のことなんか考えられないよという方々が惑わされないために必要であると思う
議論はしたっていい、と私も言いたい
議論で狭義の改憲派(1条改正派等は含まないと言う意味)に負ける気などコレッぽっちもしない
しかし議論で勝つことと選挙で勝つことはイコールではない
私は議論においては必ず真実が勝つと信じ(たいと思っ)ているが、選挙においては全くその逆がめずらしくない
それは選挙民が必ずしも十分な情報と議論を経ていないからである
そして、その状況を今すぐつくることは恐らく不可能
議論すべきは改憲を議論すべきかどうかである。
予想されるのは
議論自体は許されるべきだ。ここは民主国家なんだから
議論を封殺するのは北朝鮮と同じだ
議論議論議論議論…
議論というマジックワードにだまされてはいけない
「議論」と問題提起によって聴衆を導いていくことはカンタンである
そして結論のわかりきったあったりまえのことを「議論」するのには何かワケがある
改憲の議論は改憲肯定を
核武装の議論は核武装肯定を導こうとしている
最近の子供って…という単純な感情へ訴えた教育問題や教育基本法改正の議論が教育基本法改正を導いたように

新憲法のナカミに踏み込んだ議論は「改正するんだ」との結論が決定された場合に『のみ』なされるべきであって、ひょっとしたら憲法を変えなくてもよいかもしれないと『少しでも』思うなら、まずなすべきは改憲の議論ではなく憲法の価値、憲法のもたらす利益、憲法の趣旨、憲法の存在意義の確認である
そしてその確認は、何も憲法という言葉をアタマ出ししなくとも、あらゆる社会問題に憲法の価値基準をあてはめることによって十分可能である
価値と趣旨を『しっかり把握』した上で問題点とされるものを本当に問題なのかどうか考えて、そこではじめてどう改正するべきかがでてくる

したがってその前提を飛躍した改憲の議論はその存在自体誤りであり、ただひたすらに憲法の破壊を目指す有害な行為である

前提をすっとばした「議論」を認めてしまうことの方こそ実は「結論ありきの頭ごなし」なのである
だから、少なくとも現状では憲法改正は議論の余地無く『否』である
でないと日本国は憲法を作っちゃ壊して作っちゃ壊してと極めて非生産的なことで時間と労力をムダに消費するおバカな民族の集団ということになる

以上の頭で改憲論の阻止を考えるとき、問題はどういう議論を展開するかではない
どういうふうに投票に向かわせ、比例に自公以外、選挙区に民主を書かせるかである(当然夏の参院選の話)
もはやイメージ戦略である
戦と言う字はあまり好きではないがこの際使わせていただく
これはもう議論による真実のあぶり出しという次元ではないから
我々の自由を守るためのケンカである
ケンカにルールなどない
勝った者が勝ちである
そのために何をしようと構わない…とすら思う
(もっともこれは我々の価値観からすれば自己矛盾であるし、逆効果リスクを考えれば自ずと否定せざるを得ない)
話を元に戻す

ケンカということは相手がいる
相手から見ればコッチも実は恐怖すべき存在である
そう実は相手はビビっている
ただでさえ総議員の3分の2という足かせ、その上国民投票の過半数という難問を抱えている
真っ向勝負では勝ち目はない
実際60年間全敗である
60年間辛酸ナメ子である。死ぬまでなめつづけろや…いや失礼。
「論憲だけは」「国民投票の法律だけは」「だけは」「だけは」…あの手この手でくることはそれを証明している
だからそう。
とりあえずはあせらない
あわてない
彼らの巧妙なトリックをバッサリやるためにはそれが大切
そしてハラをくくりましょう
もし何かのマチガイで憲法が破壊されたら…
でてけばいいじゃん
そんな日本
日本国が世界平和へ及ぼす影響?
しらねーよ。
こちとらやるだけやったサ…と。
実際そうするかできるかは別にして、死にゃぁしませんて
そうならないために必死になるのはわかりますが、カツカツでは勝てるケンカも負けます
我々は60年前、軍刀と一緒に日の丸と心中する考えを捨てました
最後までぜーったいあきらめない。だけど負けたらしょうがないですよ
そういう心構えで私はいたい
…って話を戻すんだってば!!

えっと。そう…イメージです汗
憲法といえば平和・平和と言えば憲法・憲法=平和 みたいな感じになってますが
うーん それだと…
80点。
憲法の中核は個人主義・個人の尊厳です
自由主義といってもいい。要は人権です。
条文で言うと後段に幸福追求権を定める13条の前段です。
これが中核
平和主義や民主主義はそれを脇から支えているもの
この自由(=個人主義・幸福追求権等)を中核とした平和・民主の3本柱で憲法は成り立っている
この柱のうちの一本、例えば平和主義を削ることは自由と民主の否定につながります
自由と平和と民主主義は三身一体。
平和だけではイカン?
そうですか。じゃあ皆さんの大好きな民主主義もお捨てになるのですね
となる
だって今ある議論の焦点は、誰が見ても結局のところ平和主義の書かれた前文と9条にあるんだから
自民やら読売やらの憲法草案みてくださいな
(注:ちょっとわかりにくいかもしれませんが、こういうことです。
個人の人権を守るために、一つは人権を制約する法律の制定は人権の主体である国民自身が作るんだというふうに、立法権をはじめあらゆる国家作用は人権の主体である国民の下に正当性を有すると言う意味で民主主義となり、もう一つは個人の人権を守るために、人権をもっとも強力に否定する戦争をしないことと、その原因たる武力をもたないことを定めた。
したがって平和主義の否定は本丸である自由主義・人権の否定へつながり、それは自由・人権を守ることを目的として存在する民主主義の否定につながる。)

話を整理すると
憲法への理解なき憲法改正の議論=憲法の改正=平和主義の否定=幸福追求の否定=民主主義の否定
ということ

端的に言って自由民主党は自由と民主主義の敵というわけですな

こんなカンタンな話でもイメージってけっこう変わると思う

それからイメージと言えば「憲法改『悪』」という言葉があります
そうそう。そういうこと。…といいたいところですが、この言葉手垢がつきすぎました
そろそろ「憲法破壊」とかに切り替えましょう
そっちの方が新鮮かつどぎついイメージじゃないですか?

・自由と民主主義を否定する自民党

・自民党にNOと言えるニッポン

・憲法破壊を食い止めよう

・守ろう 自由と平和と民主主義

・じゃまさせない 私の幸せ

・壊させない大事なもの

・議論の封殺じゃない 本当に自由な議論を守るための 憲法破壊の阻止

みたいなキャッチコピーでいかがでしょう(なんか警察署に貼ってありそうですけど笑)



で、前置きが長くなりましたが…(今まで前置きだったんかい!!)
今年の参院「戦」の話です
憲法改正の分水嶺となろうかと思われる戦挙
どこに投票すべきかという話はさっきチラッと言いました
比例は自公以外
選挙区は民主(理想は共闘)
これしかないです
もし共闘なき場合選挙区で共産社民に投票するのは両手で同時にパンチしてそれと同時にキックもするようなもの
ズッコケますって

民主は危険?
百も承知です
でもいいんです
仮に民主が圧勝しちゃったとします
それで彼らがいきなり「改憲」とか言えますか?
民主勝利=自公の敗退=少なくとも今は改憲不可との意思表示 と評価されるはず
少なくとも民主の獲得票の一部は改憲不可と考える票であるということは誰がみても明らかであるわけで、その状態で民主が改憲を叫ぶのは手術で一命をとりとめた人間が直後に自殺するようなもの
負けた自公にも潰されるでしょう(自公民連立なんていうあからさまな政治的詐欺も考えにくい)
とりあえずしばらくは安心です…たぶん
で、本性出して論憲とかほざいた時にまた潰せばよろしい

話を戻しましょう
比例は自公以外と申しました。
はっきり言ってこれは妥協です
私個人の政策軸は(「頑固に平和」とか言ってる割には妙に軟派)社民党か(硬派といえば聞こえはいいが分からず屋)共産党に近いかも知れません。
でも、完全に自公を叩きのめしたいなら比例も民主といきたいところです。
でもでも、その後の民主の暴走を考えても現実的にも社共を潰してしまうわけにはいかないし、比例の性格上社共に比例票が入っても実害は少ない。
したがって比例は自公以外

次に選挙区は民主と申しました
ここで問題となるのは硬派共産党ですね
前回の地方選でも叩かれてましたねぇ
確かに共産党の候補者擁立は断念させるべきだったと思います
特に小選挙区や補欠で1名しか選出しない場合は尚更。
しかし、それが共産党・党員・支持者タタキにつながるのは見るに耐えない
しかも左派(と思われる者)から「自民党の回し者」などと言われている。
一部では脅迫罪を構成する文言を用いているコメントも見かけました
これじゃあ本末転倒。
自民の回し者はどっちだと。
そうなる位ならほっといた方がよい
歯がゆいですけど、そこまで言うなら尊重しましょ
ただし、共産党への「太陽政策」は最後まで続けるべきです
ちなみに、参照記事として挙げた、るもむまんくさんが小選挙区についてですが大変興味深いことをいわれていましたのでご紹介させていただきます。


☆このエントリーは下記のブログに触発されて、当該エントリーへの返事を書き始めたら止まらなくなったので本ブログエントリーとしてアップしてしまったというものである。
途中から返事のワリには説教くさくなっているがそれは山本が暴走したからである
また結局のところ返事になっていないのは山本のアタマが弱ってきたからである

記:Tomorrow is Another Happy

参照記事:るもむまんく
      :秘書課、村野瀬 玲奈です。


☆つけたし
どこに書けばよいかわからなかったことを付け足しという形で書く

憲法尊重擁護義務と改憲論について

憲法改正の議論や新憲法制定の話を政府の人間がすることは99条の憲法尊重擁護義務に反するという意見がある
はっきり言ってその通りである
どういうことかというと…

まずこの考えについて天皇又は摂政及び裁判官その他の公務員についてはおそらく問題はないが、内閣総理大臣や過半数の国務大臣を含めた国会議員については、96条1項前段と矛盾するという反対意見が想定される。(前提として内閣に憲法改正の発案権を認めるか否かの論点はあまり意味がないので割愛。)

そしてこれには以下のように反駁する。
確かに憲法は99条を定めながら他方で96条1項前段で国会に憲法改正の発議を認めているけれども、これはあくまで「改正」の手続きを定めたものにすぎない。
すなわち細部の改正の発議は総議員の3分の2という憲法上最も厳格な要件の下に認めるけれども、それを超えた憲法の本質部分へ踏み込んだ「改正」は改正でなく「新憲法の制定」であるから、憲法の条文が自己を否定するための手続きを定めたと解することは不可能であって、したがって憲法の本質部分へ踏み込んだ例えば民主主義とならんで自由主義を担保する平和主義を否定する憲法草案・改正案等の議論などは96条1項前段に定めた国会の権限として認められたものではない。
よって憲法の本質部分へ踏み込んだ改正の議論や新憲法制定の話を国会議員を含めた政府の人間がすることは99条の憲法尊重擁護義務に反する。

ただ、こんな複雑な話ははっきり言ってほとんど理解されないし、この憲法尊重擁護義務も法的義務ではあるが宣誓(拒むと懲戒)くらいしか具体化されておらず現状では正直言って実益に乏しい。残念なことに。
しかし、宣誓したんだろ?オラ という意味で政治的に追求していくことは可能である。
憲法の本質を重視し、改正限界説から不毛な「議論」自体の封殺に持っていくという点で私の上記見解と似ている。
憲法改正の議論自体を根底から否定してしまうことは効果的だと思うのである。
ケンカでは相手がビックリするような戦法を使うことが効果的な気がする。
今後この義務をさらに広く強いものにしていきたいとも思う。
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あけまして…

アマノジャクな私は正月がなんでメデタイのかがわからなかった。
クリスマスに一人でいると哀れみの目でみられて「ほっとけ」と言いたくなるのと同じ心境だ。
年末になると仕事おさめとかいってやたらあわただしくなるのも意味がわからん。
渋滞とかホントうざってー
単なる連休じゃねーかと。
(のっけから感じ悪くてすいません。そんなことを言いつつクラブのカウントダウンイベントに行こうと企画してたのは自分です。結局忙しくてやめたけど。)

そこでフテ寝正月を送る山本は、おめでとうの意味を考えてみた。
おめでとうとは、365日を無事に過ごせて幸せだ、あたりまえの様に過ごすのではなく現状は自分だけの力でもたらされたものではない「有難いこと」なのだから感謝しよう、という意味なのではないかと。
だから近しい人間に不幸があった人間は自分だけの無事を喜ぶ気分にはならないだろうから喪中となる。
そう考えると今年を無事に過ごせなかった人間はコマンとおられるわけでその方々へ自分が与えた影響を思うと浮かれている場合ではない気もする。
東アジアに唯一残る東西問題、国家同士のケンカという怪獣大戦争に巻き込まれて命を落とす方々、人生を狂わされる方々、そして南北問題。…等々。
我々の日々の生活は誰かの不幸の上に成り立っているのだから。
とはいえ、そうであればこそその有難さをかみしめることは大事なことと思う。

それにリアルでもネット上でも山本と仲良くしてくださる方々への感謝の思いも、普段は表現しきれていない分あらわさねばならないと思う。

山本の存在もこのブログの存在も皆様のおかげです。
世界中の皆様、本当にいつも有難うございます。

そんなわけで皆様おめでとうございます。
…と言いたいところだが、オレばぁちゃん死んじゃって喪中だった汗
いきなりスケールダウンするけれども、毎年正月はばぁちゃんトコに行ってたっけなぁ
ハタチこえたからと言ってお年玉を遠慮したらさみしそーな顔してたっけな(結局もらった)
と喪中らしくしんみりしてみます。

え?だから何だって??
まぁまぁ
こういうどうでもいいことをほり下げて考えてみる正月もオツなもんです。(決してつまらないからヒネているわけではないのであった。)
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フセイン 死刑執行

フセイン元大統領死刑執行 イラク、治安悪化も(共同通信) goo ニュース
2006年12月30日(土)13:18
【バグダッド30日共同】1982年、イラク中部ドジャイルでイスラム教シーア派住民を虐殺した「人道に対する罪」で死刑が確定していたサダム・フセイン元大統領(69)に対して、絞首刑による死刑が30日午前6時(日本時間正午)ごろ執行された。国営テレビが発表した。判決確定からわずか4日。約四半世紀にわたり同国を恐怖で支配し、2003年のイラク戦争で政権の座を追われた独裁者は、犯罪者として生涯を閉じた。
裁判の公正さを疑問視し、死刑に強く反対していた欧州諸国や国際人権団体などから批判が噴出するのは確実。元大統領を支持するスンニ派の武装勢力が、現政府の中枢を占めるシーア派やクルド人への攻撃を活発化させ、さらなる治安悪化につながる可能性がある。
元大統領に厳しく弾圧されたシーア派やクルド人が中枢を占める現在のマリキ政権には、死刑執行でスンニ派への元大統領の影響力を排除、旧政権時代との決別を内外に印象付ける狙いがある。


フセインへの死刑が執行された。
非常に残念である。
別にフセインが好きなわけではない。
死刑制度そのものに反対ということもあるが、彼の死によってアメリカのインチキを暴く手段の一つが失われたということが残念でならない。
フセインの産みの親はアメリカである。
そもそもアメリカが最も敵視していたのは革命後のイランであった。
だからアメリカは敵の敵は味方の論理でこのイランに戦争をしかけたイラクを支援していたわけだが、この支援の仕方がまた凄かった。
生物化学兵器の原料などもアメリカが与えていた。
この生物化学兵器の使用はその後のイラク戦争におけるアメリカの口実とされる。
びっくりするような手のひら返しである。
こういうインチキの具体的な中身を、例えば数年後フセインの獄中手記などにより目にする機会は永遠に失われた。
今のところフセインの発言で私が耳にしているのは「鬼畜米英。イラク国民よ戦え。」的なものばかり。
生かしておくべきだった。
世界が贋物の正義から目覚めるために。
政治犯の死刑はこういう公益をも失わしめる。
まさに死人に口なし。

ところで、

イラクのサダム・フセイン元大統領が、イスラム教の重要祝祭「犠牲祭」入りの30日に処刑されたことに対し、イスラム教スンニ派アラブ諸国が反発を強めている。
同教シーア派主導のイラク政府との間にしこりを残す可能性がある。
サウジアラビアの国営通信は30日、「犠牲祭初日の刑執行に驚きと落胆を感じる」との声明を出した。声明はさらに、「元大統領の裁判は政治的影響を排し、もっと時間をかけ、詳細な審理を行うべきだった」とフセイン裁判自体を異例の厳しい調子で非難した。
またエジプト外務省も30日、犠牲祭初日の執行を「遺憾」とし、「イスラム教徒の感情を考慮に入れなかった」と批判する声明を発表した。イラクでは30日、スンニ派信徒が一斉に「不敬」と反発していた。
(2006年12月31日21時24分 読売新聞)


悪趣味な宗教的祭典日処刑は流行なのか。(死刑執行参照)
フセインが死んでも事態が収拾しないなんてことはわかりきっていたはずなのに、わざわざ反発を受けるような挑発的ともとれるやり方をする意味がわからない。
実際、執行直後、シーア派の聖地の1つクーファなどで自動車爆弾によるテロが発生し、61人が死亡したという。

さて、このエントリーは12月30日に
『ちょっと忙しいのでとりあえず見出しだけ
あとで書き直します。
政治犯の場合の死刑の不利益を死刑制度への批判と絡めて書く予定。
お時間のあるかたは先にコメントでもどうぞ』と書いておいたもので、本日1月1日がその「あとで」なわけだが、その間にコメントを頂戴したTasogareさん、ありがとうございます。
返答が遅くなって申し訳ないです。
結局年越しちゃいました。
というかTasogareさんの当を得たコメントのせいで書くことなくなっちゃいました(笑

また本エントリーの一部は本ブログ内某エントリーよりコピペです。
手抜きでスンマセン。
手抜きついでに東京新聞12月31日朝刊の記事を紹介。
核心というカテゴリー内にあるとおりなかなか面白い。

スピード処刑、米 成果急ぐ
フセイン元大統領 4日後の執行
イラクのフセイン元大統領への死刑が三十日、執行された。判決確定からわずか四日後のスピード処刑の背景には、既に「内戦」ともいわれるイラクの治安情勢から、国民の不満をそらす狙いがある。だが、マリキ首相が掲げる「国民和解」に水を差すのは必至で、短期的には宗派抗争と米軍に対する攻撃の一層の激化が確実視されている。 (カイロ・萩文明)
■道具
「完全にイラクの手で執行された。米国は介入しなかった」。イラクのルバイエ国家安全保障顧問は三十日、地元テレビにそう話し、米国の“圧力”を否定した。
だが、一部閣僚の反対を抑えてマリキ首相が早期執行を決断したのは、米高官側と協議の結果だったとされる。ルバイエ顧問の否定とは裏腹に、今回も米国の影が鮮明に浮かび上がる。
司法手続きに深く関与した米国は、一審判決の前から「刑の確定後は追起訴案件の審理を待たず、すぐに死刑が執行される」との見通しを示してきた。しかも一審判決は、米中間選挙の直前というタイミングで出た。
米国は、歴代政権とフセイン元大統領との蜜月関係を示す新証言が出る恐れを封印したかったとされる。弁護団は「法廷は『犯罪』の真相を解明する場ではなく、米国支配の円滑化を目指す道具だった」と批判する。
イラクで今月の米兵死者数は百九人となり、開戦以来の合計が三千人に達するのは時間の問題。それでも米政権は戦略修正の公表を控え、「民主化」の進展を演出しなければならない事情がある。イスラム教スンニ派の政界筋が話す。「治安改善はもはや無理。米国にとって、目に見える成果として利用価値があるカードは、フセイン処刑ぐらいしかなかった」
■傍流
マリキ首相も早期執行に固執した。国内外から自身に向けられる「無能批判」をかわすには、旧政権の暗黒時代を名実ともに終わらせ、いち早く求心力の回復を図る必要があったからだ。
ルバイエ氏は、共犯の死刑囚の執行を遅らせ、元大統領だけを先に処刑した理由を「特別な日にしたかった」と表現し、政治利用の意図を隠そうとしない。
狙い通り、重要な宗教行事に合わせた処刑に、シーア派聖地では「神の贈り物」と歓声が飛び交った。
だが、法廷の正当性に異議を唱えてきたスンニ派は、自らが傍流に転落した現実をあらためて突き付けられた。米国の影響力の排除に向け、米軍の撤退時期の明示要求を強めるのは必至だ。
首相は旧支配政党・バース党員の公職追放の緩和で懐柔を図るが、スンニ派は、米国の“手先”としか映らない首相への不信感を強めており、和解への道がさらに遠ざかりかねない。
■代償
処刑直後、イラク中部クーファで爆弾テロがあり、三十数人が死亡。処刑が治安に寄与しない現実を早くも露呈させた。
バース党残党の一部は周辺国に逃れ、スンニ派武装勢力を資金面で支える。早期執行には、その野望を打ち砕く現政権の思惑もある。
だが残党勢力は今や、宗派抗争の「一部分」を占めるだけ。しかも闘争の動機は、元大統領の復権という非現実的な希望ではなく、「占領軍」の打倒にある。攻撃の手を緩めるどころか、執行を受けて報復を強化するのは確実で、それにシーア派民兵が反撃する構図に変化の兆しはない。
恣意(しい)的な法解釈が横行し、公正な訴訟を目指した裁判長が辞任に追い込まれたフセイン裁判。政治の思惑と米国の意向に左右された結果、死刑執行という予想通りの形で終幕した。
その代償は、またも治安悪化を加速させるだけ-。イラクから、悲観論以外は聞こえない。
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バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会

前回、「死刑制度は、バーチャルな世界での殺人」てなことを書いた。
記事を水葉さんにご紹介いただきすっかり気分をよくしている私だが、それはさておき。

例によって前田雅英教授率いる「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」がこんなことを

コミックなどの過激描写 業界の自主規制提言 2006年12月26日 東京新聞
有識者でつくる警察庁の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」は二十五日、子どもを性行為の対象とするコミック本や、暴力的シーンのあるゲームに関し、各業界団体に対して自主規制などを求める最終報告書をまとめた。
警察庁は「報告書の内容を基に、業界団体などに働きかける。子どもたちへの弊害について、社会的議論が起きるよう取り組みたい」としている。
報告書は、問題のコミック本の影響が指摘されている性犯罪事件の事例を取り上げ、「条例で有害図書に指定されている本もインターネット上で公然と販売されているが、業界団体は何も対応していない」と指摘。
業界団体の自主審査を求め、描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する取り組みも検討すべきだ、とした。問題のある本は販売サイトから削除することも求めた。
一方、家庭用ゲーム機などについては「映像が高度化して現実感が高まり、暴力的なシーンで子どもの攻撃行動が促進されうる」と懸念。家庭でのルール作りなどを進めるよう関係省庁が啓発に取り組むことを求めた。
業界団体が取り組んでいる自主審査は評価する一方、ネットを介し複数の人が同じゲームを楽しむオンラインゲームに関しては不十分、とした。
このほか、子どもの携帯電話の利用のあり方について、他人に「うざい」と中傷するメールを送りつけるなどいじめの手段に用いられる現状を取り上げ、注意を促した。
研究会は、弁護士や社会心理学の専門家らで構成。ネットの普及など、バーチャル社会の進展が子どもたちにもたらす弊害について論議するため、今年四月に発足した。


当該団体の最終報告書というのを読んだみた。
要は携帯電話ケシカラン、ゲーム有害、エロ漫画発禁
ってな内容
興味のある方はどうぞ
ツッコミどころ満載です。
もっともらしいデータをあげてるところが余計に微笑ましいです。
ま、そういう結論を出すべく警視庁が発足させた団体なのだから当然の結果。
メンバーをみてもなるほどと言う感じ。(委員等名簿

こういう結論の根底にあるのは「最近の子供・若者は…」「昔はそんなことはなかった」であるように思われ、私はそうは考えないのでこの方々や警視庁とは考えが異なる。

他方「子供を性行為等の対象とするコミック等について」も触れており、これは成人も含めた規制。
「描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する」って、「タバコは有害です」と同じでこんなの効果あんのかと言いたい。(※この問題は後日また検討する。たぶん。。。ちなみにコミックなので児童ポルノとは別問題。あしからず。)

それから、引っかかったのが「自主」の文言。
ただでさえ営業許可、業務停止行政処分等の権限をもつのはお上であり、そのうえ警察という捜査機関に「求め」られたら、円滑に商売をやっていきたいと考えるなら、それはもう従わざるを得ない。
そういう現実の中にあって「自主規制」を「求める」というのは胡散臭い。
どこが「自主」かは全くの不明なのである。
行政がその権限でもって勝手な価値判断で問題提起のレベルを超えて、民主的な議論の場を経ずに国民の行動を規制することには懐疑的であるべきだ。
だからそれを「自主」という言葉で粉飾されることには違和感をおぼえる。


さて今回この記事を取り上げたのは「バーチャル」つながりで死刑制度等について思うことがあったから。
「バーチャル」という言葉からもっともネガティブなイメージが連想しやすい暴力ゲームへの規制について思うことがあったから。
言うまでもないが暴力は決してバーチャル世界だけのものでなく、現実の世界にいやというほどあふれている
現実に世界で起き、そしてその多くは日本国も消極的にせよ積極的にせよ加担している戦争。(被害者の死に方の残酷さたるやゲームの比ではない。それも想像を絶する人数である。)
こども達を真っ先に餓死へと追い込む北朝鮮への経済制裁。(経済制裁は武力行使でないにもかかわらず人を殺すという意味で二重のバーチャル殺人だ。暴力ゲームなどかわいいものである。ちなみに私の母親は一時期北朝鮮への経済制裁を求める署名活動をしようとしてました。)
そして絞首刑。
これらは本来バーチャルであってはならないこと。
人を殺すということは本来トラウマになって一生心に傷を負うような苦しみを味わう行為であるにもかかわらず、それを一切感じないから、あるべき躊躇がそこにはない。つまり非常に不自然な判断をしてしまうのである。
都合の悪いところだけバーチャルを許容して、人を殺す痛み苦しみをオブラートにくるんでゴックンさせるのはけしからんです。はい。

よくよく考えてみれば
普段食する肉。
(とさつ)して食している方はほとんどおられない。
これも言うなればバーチャルな殺しである。
貨幣制度によって我々はすでにバーチャルな世界に住んでいる。
無論全てを自分で実行しなくてもよいことは便利である
もし全てを自分で実行しなければならないとしたら不便極まりないどころか我々の生活は破綻する。
しかし便利な道具の弊害はキチンと把握すべきであろう。
その弊害を克服するのは「想像力」
これしかない。
戦争の写真をみても活字をよんでも映像を見てもそれをどのように感じるかは我々の想像力にかかっている。
活字も写真も映像も、例え3Dであっても現実の体験以外は全て想像力を補助するものでしかない。
バーチャルなものの便利さにどっぷりつかって想像力を忘れることこそが問題だ。
私はバーチャルなものを否定しているのではない。
便利なものの出現によって痛みを感じなくなった分だけ養わなければならないはずの想像力が、逆に欠如してしまっていることを嘆いているのである。
問題はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如である。
バーチャル社会のもたらす弊害はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如によってもたらされる。

だから暴力ゲーム規制はホントはちょっと履き違えなわけである。
一回でも見学にいったらよろしい。
かわいがって育てた牛を殺して涙を流して「有難さ」と「旨さ」を同時にかみしめたらよろしい。
「いただきます」を言わないで食事などできなくなるから。
まして意味のない(人間を含めた)生物の殺傷など。

想像力の欠如という問題の本質を履き違えて、媒体を規制すりゃいいと思っているセンセイ方も大丈夫でしょうか。想像力。
どんなにもっともらしいデータをあげても痛々しいだけです。
前田先生。どうかリベラル刑法学者と呼ばれた昔を思い出してください。

想像力の欠如・人の死へ痛みを感じないと言う点では、ゲームで殺人を楽しんで人を殺すことの重みを忘れてしまった子供も、「年末だから」といって死刑執行を急いだ法務大臣はじめ法務省の役人も大して変わらない。
そんな人達の動かす日本国なんです。
やっぱり子供はオトナを写す鏡なんですなぁ。
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死刑執行

東京、大阪、広島の各拘置所で25日午前、殺人罪などで死刑が確定した4人に刑が執行された。死刑執行は2005年9月に1人が執行されて以来。
(2006年12月25日14時17分 読売新聞)

らしい。
死刑制度についての私の見解は既にこのブログで述べているので繰り返さないが、クリスマスに死刑執行とはなんとも悪趣味。
とんだ法務大臣である。
などと思っていたら、朝日でこんな記事。
死刑確定囚100人超え懸念 4人執行の背景 朝日新聞2006年12月26日01時29分
法務省は25日、9年ぶりとなる「一度に4人の死刑執行」に踏み切った。就任3カ月足らずの長勢法相が執行命令書に署名した背景には、執行されていない死刑確定囚の「100人超え」が目前に迫っていた現状と、署名を拒否した杉浦正健前法相の存在があった。
死刑判決は近年多く出ており、死刑確定者は03年ごろまで毎年2~7人程度だったが、06年は20人を超えた。
一方、実際に死刑囚の命を奪うことになる命令書への署名には消極的な法相が多い。最近10人の法相は、約30カ月の在任期間中に5人分の署名をした森山真弓元法相を除けば、最多で3人しか署名していない。結果、03年まで50人台で推移してきた未執行者は24日現在で98人。年明けに100人を超える勢いだった。
「100人超えを許したら制度としておかしくなる。終身刑の議論はあっていいが、段階を踏まないと」。法務省幹部は危機感を募らせていた。
昨年10月から今年9月まで法相だった杉浦氏は命令書への署名を拒否した。死刑執行者数の統計は、年締め。執行ゼロになれば92年以来14年ぶりだった。幹部は「今年をゼロにするのは絶対に避けたいという気持ちはある」と「年内執行」への執着を認める。
別の幹部は「一度に4人というが、(杉浦前法相が拒否した)前回との2回分だから」と話す。
執行は、国会審議に影響を与えにくい閉会中に行うのが通例。19日の閉会後、天皇誕生日の前は避けたいとの配慮も働いたとみられ、限られた選択肢の中から、クリスマスの朝の執行となった。
長勢法相は25日午後、記者団に「法の規定にのっとって適正に、慎重に判断した」と話した。


なぜ天皇誕生日の前は避けなければならず、キリスト教徒の間ではキリストの生誕を祝う日であるクリスマスに執行するのか。
日本はキリスト教の国ではないが、天皇教の国でもないのだが。

「100人超えを許したら制度としておかしくなる。」というのは、果たしてそうかと思う。
制度としておかしいというなら未執行が10件で既におかしい。
考えるべきはなぜ未執行かということ。
なぜ法務大臣はなかなか署名しないのか。
廃止論者からの無用な批判を避けるためという理由はあるとして、法務大臣に死刑執行への立会い義務があったらどうだろう。
なぜ裁判官は特に否認事件で「私はやってない!!」と叫ぶ被告人に死刑を言い渡す時手が震えるのか。(これは自白という証拠の裁判官の心証に与える大きさを表すものとして言われる話。)
なぜ死刑執行人は苦しむのか。

社会の構成員たる我々は実際に生身の人を殺すという苦しみを負わずに死刑囚を殺し続けている。
バーチャルな世界での殺人である。
それは死刑廃止論者も死刑存置論者も裁判官も法務大臣も。
被害者遺族であっても同じである。
裏を返せば死刑制度によって我々はバーチャルな世界での殺人を強要されている。
それを楽しんでいる変態ヤローが「悪人は殺せばいいんだ」的なことを言う人間なわけだが、「年内執行」への執着もそれに近い。
死刑執行は大掃除とは違う。
ゼロの年があったってよいではないか。
統計に残ると一般予防の効果がなどと言うのであろうか。
死刑の「死」ということだけによる一般予防の効果はかなり疑わしいとされているのだが。

さてそんなおり、こんなニュース。
再審開始決定取り消す 名張毒ブドウ酒事件で名古屋高裁 2006年12月26日13時09分朝日新聞
三重県名張市で1961年、ブドウ酒に入れられた農薬で女性5人が死亡した「名張毒ブドウ酒事件」で、名古屋高裁刑事2部(門野博裁判長)は26日、第7次再審請求審(同高裁刑事1部)が認めた奥西勝死刑囚(80)の再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、再審開始決定を取り消す決定をした。決定は、奥西死刑囚の死刑執行の停止を取り消し、第7次再審請求も棄却した。弁護団は1月4日に特別抗告する方針で、結論は最高裁に持ち越される。
異議審は、再審開始の理由とされた、凶器の農薬は奥西死刑囚が自白した「ニッカリンT」ではない▽物証の王冠(四つ足替栓)は形状からして、事件のブドウ酒瓶の王冠ではない▽2度開栓により奥西死刑囚以外の犯行が可能――などとする弁護団の三つの新証拠や、奥西死刑囚の自白の信用性などを検討。
その結果、三つの新証拠については、ニッカリンTが使用された可能性も十分ある▽王冠の形状は、事件のブドウ酒に装着されていたかの判断に影響しない▽2度開栓が行われたことを疑わせるまでの証拠はない――などとして、再審を開始するほどの明白性を否定した。そのうえで「奥西死刑囚以外にブドウ酒に農薬を混入する機会がない」とした。
自白についても「当初から詳細で具体性に富み、信用性が高い」と認定。「妻と愛人を殺害する動機となる状況もあり、事実を総合すると(奥西死刑囚が)犯行を行ったのは明らかだ」とし、「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠があるとして再審を開始し、刑の執行を停止した決定は失当」と結論付けた。
最大の争点は事件で使われた農薬が、奥西死刑囚が自白し、確定判決が凶器と認定したニッカリンTだったかどうか。ブドウ酒の飲み残りからニッカリンTに必ず含まれる成分が検出されなかった理由などが争われた。異議審は今年9月、この問題で弁護団の鑑定をした2教授を証人尋問。そして「ニッカリンTが混入されてもこの成分が検出されないことはあり得る」などとして、検察側の主張を認めた。
昨年4月の再審開始決定は、弁護団の新証拠を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」としたうえで、「(奥西死刑囚の)自白の信用性には重大な疑問がある」と認定していた。異議審で、弁護団は「新証拠が有罪認定を動揺させる証明力、影響力を有することは明白」などと検察側に反論していた。
死刑が確定後、再審が認められたのは、免田、財田川、松山、島田の4事件。いずれも再審を経て無罪が確定している。名張毒ブドウ酒事件は一審の無罪が、二審で死刑に逆転し、最高裁で確定した唯一の事件で、5件目の再審開始決定だったが、名古屋高検の申し立てにより異議審が約1年9カ月にわたって同高裁で続いていた。


冤罪の場合に取り返しがつかないというのは死刑廃止のもっとも大きな理由の一つと思う。
特にこんなニュースを見るとそれを強く感じる。
この事件の被告人が死刑執行されてしまった場合、それは正に真相は闇の中となる。
検察と弁護人という両当事者の主張という「異なる方向からの光」によって「影」のない真実を発見する刑事法廷は二度と開かれることはないのだから。
今回処刑された秋山死刑囚は再審請求中だったそうだ。(←水葉さん情報)
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談合 必要悪

何を血迷ったか立候補のそのまんま東。
さっそくこんな発言。
「談合は必要悪」そのまんま東氏が容認発言 宮崎知事選 朝日新聞2006年12月23日21時45分
官製談合事件に絡む宮崎県の出直し知事選(1月4日告示、21日投開票)に立候補を表明しているタレント、そのまんま東氏(49)は23日、宮崎市で開いた記者会見で「談合というのは善しあしだと思っている」などと、談合を容認するとも受け取れる考え方を示した。官製談合は否定したが、一般的な談合について「全部なくなると、中小零細企業は非常に痛手を被るんじゃないか」とも語った。
談合防止策を問われて答えた。「法律違反を認めるのか」と質問されると、一連の事件で問われた官製談合については、「悪だと思う。官が主導していますから」と明言。しかし業者同士による談合については、「悪いと思うが、社会には必要悪というものがある。現実としてなくしてしまうと中小企業はどうなるんでしょうか」との見解を示した。
中略
事件では3件の談合が立件され、主導したとされる前知事の安藤忠恕(ただひろ)容疑者(65)を含む県幹部7人と業者ら9人の計16人が競売入札妨害容疑で逮捕されている。

んで報道に叩かれちゃったもんだから
談合容認発言「説明不足だった」 そのまんま東氏が釈明
2006年12月24日21時24分 朝日新聞
官製談合事件に絡む宮崎県知事選(1月21日投開票)に立候補を表明しているタレント、そのまんま東氏(49)は24日、前日の会見で「談合容認」とも受け取れる発言をしたことについて釈明会見を開き、「説明不足だった。官製談合も(業者同士の)一般談合もダメだと思っている」と修正した。
東氏は「談合は県民の血税をムダに使い、本来は公正、中立、公平、平等であるべき入札が阻害される。決して許すべきではないと思っている」と強調。
前日、業者同士の談合について「全部なくなると、中小零細企業は非常に痛手を被るんじゃないか」「社会には必要悪がある」と語ったことについて、「必要悪という見解が過去にあったと言いたかった」「十分に説明する時間的余裕がなかった」などと釈明した。

「必要悪という見解が過去にあったと言いたかった」「十分に説明する時間的余裕がなかった」等の釈明(?)は「うるせーよ」と言いたくなるほど苦しい。
釈明というより意見の180度方向転換と言うべき。

そもそも私は「必要悪」と言う言葉に敏感だ。
「悪」であるにもかかわらず「必要」として容認されてしまうからだ。
そしてその「必要」性はつくられたものであることが多い。
「悪」の存続を欲する者によってつくられた出来レースやご都合主義的論法が存在する。
例えば暴力団。
ヤクザといえども全く役に立たないわけではない。
ヤクザの存在により複雑な示談交渉が迅速にまとまることもないわけではない。
「不良の元締め」の存在によりアウトロー社会に一定の秩序が保たれることもある。
紛糾する株主総会がおさまることもある。
しかしそれを上回る害悪の存在がある。
また、上記メリット(?)も暴力団ヤクザ自身によってつくられた出来レースないしマッチポンプであることが多い(というかほとんど)。
示談交渉の対価として彼らは法外な利益を得るが、両当事者側のヤクザが結託してテキトーに話をまとめて両当事者から得た利益を山分けなんてこともよくある。
アウトロー社会に一定の秩序を保って不合理なピラミッドを形成して一番利益を得ているのはその元締めであるし、またその利益や秩序そのものもアウト「ロー」なわけで文字どおり法外だ。
紛糾する株主総会の紛糾の原因も実は彼ら自身で引き起こしていたりする。

考えなければならないのは「必要悪」の「必要」は誰にとって必要なのかである。
「悪」そのものにとってあるいは「悪」の当事者にとって必要であるというのは「必要」に含めて考えてはならない。
「悪」の当事者にとって悪が必要なのはあったりまえの話である。

そのまんま東の談合認容発言はまさにコレ。
談合という悪の当事者である企業のために談合を必要と言っている。
税金を使って中小零細企業を存続させなければならないいわれはないし、存続させなければならないとしても談合などと言う犯罪でなく助成金等でもって適法に行うべきなわけである。
「談合は県民の血税をムダに使い、本来は公正、中立、公平、平等であるべき入札が阻害される。決して許すべきではないと思っている」
というのは正にその通りなわけで、もしこれがわかっていれば官製と業者同士を分けた発言はありえない。
勉強不足というかなんというか…
政治家になろうとする場合、そのインセンティブとしては大きく分けて「理想の実現」と「名誉欲出世欲の発露」という2つがあろう。
そして「理想の実現」を本気で考えるものが勉強不足を露呈することはほとんどない。
なぜなら本気で考える者は24時間理想でアタマがイッパイであり常に社会のあらゆる問題にアンテナをはり深く考察している社会問題等のスペシャリストのはずだからである。(その者の能力はほとんど関係ないであろう。24時間理想でアタマをイッパイにできる時点ですでに十分な能力がある。)
したがって彼を立候補へと突き動かしたものは後者がほとんどであると推測される。
あぁやだやだ。
(ちなみに私に言わせれば「国内法的に戦争犯罪人ではない」等の発言で勉強不足を露呈した安倍もこれに近い。まぁ彼の場合は理想そのものにマチガイがあるとも言えるが、そのマチガイを検証しないできないのは信介じいさんのカオなど名誉欲によるところが大きいと思う。)

ともあれ私は、「必要悪」という社会への理想を放棄し現状を追認して「オメーらケツが青いな」的な顔をする悪い意味で「オトナ」な言葉が大嫌いだ。
私が唯一必要悪として認めるのは国家である。(本来は「悪」であるというところがポイント)
それ以外にはない。
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CSI効果

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CSIというアメリカのTVドラマをご存知だろうか。
日本でも人気のドラマでテレビ東京系列で昼12:30より放映されている。
内容は科学捜査モノ。
興味をもたれた方は検索してみてください。
私がこのシリーズに引き込まれたのはマイアミシリーズ
ホレイショという捜査官の発言。
自ら送検し起訴された被告人が新たな証拠により無罪である可能性がでてきたというシーンで
検察官「我々は同じ側の人間だよな」
ホレイショ「そう思いたい」
検察官「陪審員を選び専門家を呼びすでに何百万ドルという税金を使っている」
ホレイショ「だがまた新たに証拠がでてきた」
検察官「そのために控訴という制度があるんじゃないか。ここまできたら白も黒もない。要は勝つことだ」
ホレイショ「ならオレ達は同じ側じゃない」
そう言って彼は捜査を再開する。
結果的に無罪証拠により審理無効(日本で言う公訴棄却)
しかし引き続く捜査により再び逮捕(恐らく再起訴。平たく言えば結局は犯人でしたということ。)となる。

とかく警察官の長年のカンや密室での弁護人立会い無き自白等による捜査が目立つ日本では、こういった物的証拠で固めた捜査が新鮮だ。
「人はマチガイを犯す」という鉄則のもと、この可能性を極限まで低くする捜査というのはこういうものなのだろうと思う。
ところが、アメリカでは
『こうしたTVドラマの隆盛により、“CSI効果”というマイナスの影響が、実際の法廷の場に現われているという。具体的には、刑事事件の陪審員が、必要以上に科学的な証拠を要求したりして、検察側を当惑させている。』(ベリタ通信)
らしい。
どこの国でもドラマは現実とは違うようで。
『テレビでは、DNA鑑定も数時間のうちに判明するが、実際には、数日から1週間かかる。』
というのは知っていたのだがどうやら日本の鑑識と同様、
『証拠の収集、分析が主で、事件捜査の訓練は受けていない。』らしい。
なんだ。
これじゃ「科捜研の女」の方が現実に近いじゃないか。(見たことないけど)
州によって違いもあったりするのかもしれないが。
(『』内、日刊ベリタより引用)

事件捜査の訓練は受けていないという点はさておき、「必要以上に科学的な証拠を要求」というのは問題である。(本当に「必要以上」であると仮定して述べます。)
刑事司法は人権を守る戦いの場であると同時に犯罪との戦いの場である。
犯罪に敗北し犯罪者を野放しにしてしまう刑事司法は国民の信頼というその存在意義を失い、やがてそれは人権も真実発見の価値も無視した野蛮な魔女狩りへと逆行する。
人権保障と真実発見は一見違うベクトルでありながら両方向への力の均衡により双方の目的を達しようとするものである。
したがってどちらか一方に傾きこのバランスを崩すことは結局双方の目的を失わしめる。
アメリカでは違法収集証拠排除法則を厳格に適用しこのバランスを崩した過去があると聞いたことがある。(※捜査機関による証拠の収集方法が適法でなかったため、証拠が誰の目から見ても存在するにもかかわらず、証拠として認められず結果として「犯罪者」が大手を振って裁判所を後にするという事例が相次いだらしい。この「違法」が軽微なものであっても証拠として認めないのかどうかが問題)
今回も同じようなことが起きているということか。

他方日本ではどうか。
警察により捜査・逮捕等がされたというそれ自体には本来なんの価値もない事実が重く評価される日本においては、多少の「CSI効果」が必要なのではないかと思ったりもする。
つまりアメリカとは逆方向でバランスが崩れている気がするのである。
裁判員となった日本人がワイドショーを騒がせた被告人の裁判に加わる場合、どれだけの人間が乙号証や人証を偏重せず、客観的な証拠だけではかなり疑わしいという場合に無罪評決を出すのか。
確かに刑事司法は犯罪との戦いの場であるけれども、同時に刑事司法は人権を守る戦いの場でもある。
我々は100人中99人は絶対有罪であっても1人でも無罪の可能性がある場合、1人の人権を冤罪によって侵害することよりも99人の犯罪者を社会が受け入れることを選ぶという建前をとる。
はたしてわが国の刑事司法は究極的に最終的にこの建前を貫徹することができるのか。
できないとすればバランスを崩しているということになる。
職業裁判官の能力を絶対視できない私は裁判員制度に反対ではないけれども、冗談みたいなワイドショーに感化された裁判員がいたらと思うとちょっと心配だったりするのです。
午後のワイドショーの前には是非お昼のCSIを(笑
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改正教育基本法成立(怒)

2006年12月15日
改正教育基本法成立
私はこの日を忘れない。
この国が自由と平和を重んじる社会からまた一歩遠のいた日だ。

「最重要法案」などと言っていた安倍はやり遂げたような気になっているのだろうか
冗談じゃない。
これで私は自分の子供をこの国の学校に通わせることを躊躇せねばならなくなった。
やむを得ず通わせたとしても、そのことへの罪悪感を背負わなければならない。
私は彼を心より憎み、そして死ぬまでこの思いは消えることはないだろう。
世襲の好きな彼らの言葉を借りて言えば
「末代まで呪ってやる」
本気でそう思う。

ロクに審議もできない参院なんてホントいらねーよ
やめちまえ
タイムラグを生むだけの単なる政治の道具じゃねーか

公明党創価学会おぼえておけ
池田大作を崇めようが仏壇買おうがどうでもいい
しかし民主主義を無力ならしめることは許さない
これが私が君達に眉をひそめねばならない唯一かつ最大の理由だ
ある意味最も罪深いのは君達だ

などと私が、読む人間が気分を悪くするようなウラミツラミを綴っていても改正はされてしまったことには変わりがない。
ともあれ今日から私は教育基本法改正賛成派となる。(今度こそ本当に改「正」。改正というよりは復旧?修理?補修?)

今日から悪いことは何でも愛国心のせいにしよう。
こどものいじめも国民でなく国を愛する教育をしてるから。
消費者問題も、ゆがんだ、偏った個性を否定され、美しくみんなで国を愛することを教えられて、あるいは公共の精神ばっかり叩きこまれて、自己を自立した個人とすることができていないから。
服装が乱れるのも「国」がはぐくんだ文化だと教えられ「愛国心」と言わされて自発的に心の底から文化に愛着をもてないでいるから。

憲法改正の論点や旧教育基本法改正の時に改正派から聞かれたエキセントリックな論法をのしをつけてお返ししよう。

現在の教育やこどもの姿に問題があるとしてもそれは旧基本法のせいではないことは明らか。
にもかかわらずこれを変えることを「最重要」として問題を余計に混乱させた安倍のバカさ加減は最早犯罪的であるわけだが、変えちまったものはしょうがない。
結果責任を問いましょうや。
んで後悔してもらいましょうや。
安倍の一生をかけて。

参考までに
文科省HP内新旧教育基本法比較(但し法案として記載のPDF)
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いじめ 「価値を教える」 個人主義 朝生

ビール片手に朝生
何かのCMみたいですがテーマはいじめ。

「いじめは悪いことだという価値観をオトナが教えられなくなった。」
「地域社会崩壊による相互監視の欠如が問題だ。」
「昔は「世間の目」があった。」
「明憲下での天皇教のなくなった宗教のない日本でどうやって価値をこどもに語るか。」

なんてことが語られてました。

価値をオトナが教えられなくなったなんていいますけど、出演者は教えられるんですかねぇ
ダメなものはダメ。
悪いものは悪い。
そんな理屈もへったくれもない強権的な押し付けで子供が納得するとお思いなら、それは大きな間違い。


悪いものは悪いんだぁ。へぇ~。
じゃ、なんでオトナの世界にいじめが絶えないの?
「悪いこと」ってのは「みんなに悪いって言われてること、聞かれたら悪いって言わなきゃいけないこと」なんでしょ??
×→「悪いこと」=「してはいけないこと」
○→「悪いこと」=「聞かれたら「してはいけないこと」と言わなければならないこと」
それを「タテマエ」って言うんでしょ?
いじめ?
なくなるわけないじゃん。
いじめる方が悪い?
いじめられる方にも原因があるんじゃない??(って答えとくのが「正解」だと思う)


というニヒリステックな達観にどうやって答えるんでしょ。
みなさん子供ナメてませんか?
ちなみに私は教えられますよ。価値を。
(えらそうで申し訳ないが、酒のせいということで…)

価値ならあるじゃないすか。
60年前から。
個人主義。
憲法っすよ。

権利権利で義務がないなんて田原も言ってたけど、そりゃ違う。
我々は生まれながらにして最高の価値をもっている。
だから尊重されねばならない。
それを
権利=right=正しいこと
と言う。
権利を主張するのに条件なんてない
本来は制約すらない
そのものが正しいことなんだから
だけど権利は常に同じ価値を持ったものとぶつかり合う
同種同等の別の権利。
それを尊重し自己の権利との矛盾を回避しなければ秩序は壊れ、やがて自分の権利(生まれながらにして持った最高の価値)をも失う。
だから他人の権利を尊重することは大事なんだ。
他人のためでもタテマエでも何となくでもなく、自分自身のために他者の権利を尊重しなければならないんだ。
それが「個」なんだ。
それが個人主義なんだ。
それが日本国憲法の中核なんだ。
それが我々の理想とする社会の前提なんだ。
だからいじめと言う他人の権利を不当に侵害することは結局のところ損なことだし許されないことでもあるんだ。

ってな発言が福島氏からさえも聞かれなかったのはとても残念。
あの人もわかってんのかなとすら。
個人主義→いじめは許されないってことは周知の前提でその価値観を担保する手段が失われたっていう風にはどうしても聞こえなかった。
だって担保する手段よりも前にどうやって伝えるか納得させるかの方が大事だし、「個」を否定するような発言も多々聞かれたわけでそれに反論がなかったから。
「オンナらしさ=優しさ、オトコらしさ=(失念)という価値観のある社会では今のようないじめはなかった。」(by八木秀次)とか。

価値を押し付ける植え付けるってんなら個人主義以外にないと思うんですがね。
だって我々は60年前にそう決めちゃったし、その後形式的にせよそれで運用しちゃってきたわけだし、グローバル化の中それはますます重要性を増してきているわけだし…
もっと現実的に多様な価値観の存在を認める価値観を広めなきゃ。
今更集団で共通の価値観道徳を再生しようなんて非現実的。
お花畑夢想主義者には付き合いきれません。
再生ったってマスターテープすら聞いたことがない連中が言ってるんだから。
都合よく編集されるのがオチ。(おっと脱線)

個人主義の方はといえば60年間誤解されっぱなしで、ぜんっぜん理解されてない。
だから「個性の偏重は良くない」なんて冗談では笑いがとれないんでしょうけども。

え?
私ですか?
えぇそりゃもう酔っ払ってますよ。
タイトルみりゃわかるでしょ。
ハイ。もう寝ます。
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警察官 家庭訪問

「全国の警察官を家庭訪問」郵便局強盗で警察庁長官(読売新聞) - goo ニュース
2006年11月16日(木)21:08
 埼玉県警の現職警察官が群馬県での郵便局強盗事件で逮捕されたことについて、警察庁の漆間巌長官は16日の定例会見で、再発防止策として、「全国の警察官への家庭訪問をできるだけ早期にやらせたい」と述べた。
 漆間長官は、今回の事件については、5000万円を超える借財が事件の動機になったとし、「家庭訪問をしていれば、どんなローンを組み、どんな生活をしていたか分かったと思う」と指摘。
 今回の事件がなぜ起こったかを検証したうえで、各警察官に対するきめ細かい生活指導を行う必要性があるとの見解を示した。


家庭訪問ですか…
なんという貧困な発想だろう
独立した内部調査組織を作るとかじゃなくて、強盗が起きてもあくまで「指導」。
何かのマチガイだったというわけですか。
警察の組織的犯罪も指摘されているというのに…

犯罪者の供述鵜呑みにして組織あげて動いちゃうなんて、よっぽど取り調べに自信があるんですなぁ
多重債務者が全員犯罪者なわけでもないでしょうに。
品行方正な警察官がなぜ?
アレもコレも借金のせいですなんてオチ??
多重債務者であろうが警察官であろうが裁判官であろうがフリーターであろうが、法令順守する人はする。
強盗するヤツぁする。
そんなの常識。
人はマチガイを起こすんです。
罪も犯すんです。
だから盲目的な信頼などせず監視が必要なんです。
品行方正な警察官という虚像はさっさと捨てましょう。
ついでに品行方正な警察官という虚像に頼った行政警察活動や捜査も捨てて法の支配をテッテイさせましょう。
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北星女子中への抗議文事件~ネットウヨクといじめの構造~ 

いじめは自分自身には見出せなかったアイデンティティを共通の敵をつくることで集団に見出すことである。
他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをするわけである。
そしてこの構造は社会において普遍的ともいえるわけだが、現代日本社会においては特に顕著というわけ。
いじめ(をしてしまうこと)は社会全体に蔓延する病である。
こどもはオトナのまねをしているだけ。
だから、いじめはむしろオトナの問題である。

さて、最近私のお気に入りの某ブログで、このいじめの構造が顕著に表れる場面にお目にかかった。
いわゆるネットウヨクがゴミを大量に送りつけていたわけである。
別に管理人さんがいじめられていたというわけではない。(恐らくゴミが溜まった位でへこむ様な方でもない。)
ネットウヨクというパソコンをおぼえたサルの思考を分析するに、いじめをしてしまう人間の思考と酷似しているという話である。

いきさつを説明する。
17日北海道新聞が『教育基本法改正に反対 北星女子中3生、首相に意見書』なる報道。
記事によれば、

意見書はA4サイズで四枚。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げた改正案について、「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、おしつけられるものではない」と指摘。安倍首相に「本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか? 返答をください」と求めた。
-中略-
意見書を送ったクラス担任の北野聡子教諭(32)は「子どもたちの行動力に驚いた。考える力が育っている証拠で、担任として誇りに思う」と話している。


この報道が担任の実名を挙げていたことから、「担任は共産党員であることが判明」というウワサが流れる。
このあたり喜んでいるいわゆる左派系ブログ等(実際喜ばしいのであるが)を疎ましく思うサルが一所懸命「ググって」ウワサを流したのは想像に難くない。ちなみにウワサの真相は不明。というかどうでもよろしい。
仮に過去に共産党員であった経歴があったり現に共産党員であったとしても、だから何?ということ。
エテ吉はこの記事を紹介していたそのブログにこのウワサをもってきて「こどもを政治活動に利用」とぬかす。
しかしこの主張は、
こども(中三)の自主性を全く無視している点
共産党員は教育に携わるに際してこどもに自らの政治思想を押し付ける蓋然性があるというムチャを前提としている点
で飛躍がある。
全くとるに足らない世迷言。だからゴミというわけ。

その後、札幌テレビ放送でこんな報道

"愛国心"とは、こんな卑劣な"心"なのでしょうか。「教育基本法」改正案について、札幌の中学生が安倍総理に、「反対の声明文」を送ったところ、「匿名の大人」から「抗議文」が届きました。15歳の"自由な意見"に"脅迫"ともとれる批判でした。
-中略-
(抗議のメール)「阿部首相の送った中学生の意見書は何だ?お前ら、学校で何を教えているんだ」
(教頭)「生徒が自分で関心を持って意見を表明したのは素晴らしい。いろいろな意見を封じ込める残念な反響だ」
この学校では、生徒それぞれが意見を書いたカードを送る準備もしています。生徒たちが自分で考えて「押し付けだ」と感じた教育基本法改正案。「愛国心の強制」どころか、「言論の自由」さえも封殺しようという大人の行為に、15歳の心は深く傷つきました。


この報道についても
「匿名なので大人とは限らない」
「意見書は教師あてであって子供の言論を封殺するものではない」
「教師にこどもを政治活動に利用するなと言うのは当然だ」
という意見(?)が。
ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるお得意のパターンである。
「穴あけ」に使われるのは「でっちあげ説」「取るに足らない小さな事実あるいは虚構」などなど。
いずれも本質部分には「穴」はあけられない。
この場合は「匿名の大人」に自分を重ねた同じく「匿名の大人」であるネットウヨクの逆ギレであろう。
ま、重ねたのはあながち間違いではないのだが、されてもいない批判を想定しての逆ギレ。
それはもうエアセックス。

そのブログに送りつけられたゴミの数はいくつだったか。
10・20でないのはたしか。
反論はそれ自体無意味だし刺激はゴミの数を増やすので閲覧者に過ぎない私は傍観していたわけだが、彼らがなぜ故おかしなことを言い、そしてなぜ彼らは自らを自身の飛躍やご都合主義を客観視できないサルへ退化させねばならなかったのかを考えた。
彼らの導きたい結論は結局のところ単純である。
愛国心万歳。教育基本法改正万歳。
その為の誹謗中傷・揚げ足取りである。
しかし彼らはその主張よりも手段であるはずの誹謗中傷の方にウエイトを置いていると思ってしまうのは私だけだろうか。
他者を攻撃すること自体を目的としていないだろうか。
思うに彼らをして、有限であるはずの時間をゴミの作成送付という無駄な行為に費やさせるものは、他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをしたいという衝動である。
また、その他者不寛容なイデオロギーそのものによっても不幸の穴埋めはされるから、それを奪われる危機感というものもあるだろう。
むしろ彼らの他者不寛容なイデオロギーはそれ自体不幸の穴埋めから出発しているとも思っている。
いずれにせよ、こういう単純かつ下卑た感情・衝動を言論で粉飾しようと思うから、ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるというお得意のパターンとなる。
本質部分には「穴」はあけられないから噛み合った議論ができない。
噛み合った議論はすなわち彼らにとって「不幸」を意味する。
私が彼らとまともな議論をして負ける気がしないのは、どちらが議論に長けているとか彼らがバカだからとかそういう問題ではなく初めから決まっているからであろう。
「キモい、くさい、ウザイ」が「アカ、非国民、売国奴」+αに変わっただけ。
ゴミは3秒で削除が吉なわけであるが3秒といえども不幸の穴埋めに付き合わされる者にとっては迷惑千万。
マトモな反対意見(あるのか?)との振り分けは結構手間である。
アクセス増・検索順位上昇程度ではあまりに不十分な見返りだ。

さて、私が彼らを「サル」と称するもう一つの理由。
それは彼らの行為による彼らの主張することへの逆効果である。
彼らの下卑た行為が彼ら自身のマイナスイメージにつながることはもちろんのこと(それゆえ匿名)彼らの行為はその支持すると思われる政党・擁護する政治家、論客・イデオロギーそのものへのマイナスイメージにつながる。
当初から反対の意見を主張している我々はさておき、そうでない人間が「炎上」をみてどう思うか。
匿名の抗議文メール1通で自分達の意見の自主性を否定されアイデンティティを踏みにじられた中学生は、恐らく一生彼らと同様の意見には耳を貸さないだろう。
集団に依存していない分この中学生の方がはるかに成熟しており、恐らくこの中学生はそのことを悟っただろうから。
そういった自分の行為の及ぼす結果を考えられない知能の低さ。
サル以下である。
あ、不幸の穴埋めだから主張の効果なんてどうでもいいのか。
じゃサルにしてあげる。
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いじめの背景 親の教育65% 読売調査

いじめの背景に親の教育不在あり65%…読売調査
 読売新聞社が11、12日に実施した全国世論調査(面接方式)で、いじめが原因とみられる子供の自殺が相次ぎ、いじめが大きな問題となっている背景を八つの選択肢の中から選んでもらったところ(複数回答)、「親が社会のルールを教えていない」が65%で最も多かった。
 次いで、「他人の痛みを思いやることができない」(55%)「親が子どもの悩みを把握できていない」(52%)の順で、家庭での教育の問題が大きいと考えている人が多かった。
 4、5位は、「教師の指導力や資質に問題がある」(48%)「学校が責任逃れをして問題を隠す」(45%)だった。
 全国の高校で起きた「必修逃れ」の問題で、文部科学省が決めた救済策について、「納得できる」と答えた人は、「どちらかといえば」を合わせて59%に上った。「納得できない」は計36%だった。文科省の救済策では、70時間を上限に本来受けるべき補習授業の時間数を減らすことにしている。
 10月に発足した安倍首相の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)については、「期待している」が計58%で、「期待していない」(計38%)を上回った。
 男女別にみると、「期待している」は、女性(62%)が男性(54%)より多かった。年代別では、30、40歳代の「子育て世代」と70歳以上が、いずれも62%と高かった。
(2006年11月18日19時56分 読売新聞)


御用読売らしい調査でけっこうなことです。
「親が社会のルールを教えていない」には笑った。
子供は親を含めたオトナの実践してる「社会のルール」を反映してるだけなのにね。
真逆じゃないですか。
いじめがなくならないわけだ。
それで教育基本法改正なんつって教育を見直そうみたいなことを語るんだから…
もうなんというか。
痛々しいですな。

ま、こういう調査は選択肢のつくり方に大きく左右されるわけで、65パーセントの回答者の中には「親(を含めたオトナ)が社会の(あるべき姿や)ルールを(身をもって)教え(ることができ)ていない」という趣旨でこの肢を選んだ方もいるかもしれない。
でもそれも読売にかかったら「いじめは最近のダメ親のせい」ってな論調になっちゃいます。
んで、そのダメ親の62%や子育てもままならないダメなオンナの62%は安倍首相の諮問機関「教育再生会議」へ期待と。
ハイ。ヒーローのできあがりです。

それから
「他人の痛みを思いやることができない」
だって。
あぁいましたね。
「ファイティングスピリット(をもって)自分で戦ったらいい。」
とか言ってるオトナ。
こどもがまねしてますよ~
あれ?
もしかしてアイツが子供のまねしてたのかな??
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教育基本法改正案 衆院可決(怒)

ムカつく。
まじハラ立つ。

何が自民党だ。
非民主的なことこの上ないやり方で自由を奪いやがって。

言っておくが多数決は民主的などではない。断じて。
民意の「統合」がなされていない。
「統合」とはつまり多様な民意を、話し合うことで時には双方の妥協により「まとめること」だ。
加えて今回の改正案は民意を「反映」もしていない。
テレビの街頭インタビューでは「とりあえずは何か変えて様子みるべきだからいいんじゃないか」なんていう法案の内容とはおよそ無関係なスッとぼけた意見が聞かれるくらいなのだから。
こういう数の横暴を臆面もなく強行する輩をファシストという。
民主主義を都合よく勘違いしてもらっては困る。

強行採決しといてどこが「審議は尽くされた」(by中川幹事長)かは全くの不明。
というか…
①そもそもこどもはおかしいのか。おかしいとすればこどものどこがおかしいのか。
②教育はおかしいのか。おかしいとすれば教育のどこがおかしいのか。
③こどもがおかしいのは教育がおかしいことが原因であるのか?(因果関係その1)
④おかしい子供の原因たるおかしい教育の原因は「教育基本法」にあるのか。あるとすれば教育基本法の何条が①の原因なのか、あるいはどのような条項が足りないことが①の原因なのか。(因果関係その2)
と言うことに説得的なお答えを頂きたい。(教育基本法改正?参照)
だって「審議は尽くされた」んでしょ?
え?欠席した野党が悪いって??
誰が悪いかを問題にするってことは審議は尽くされていないってことを認めたことになりますが。
「乱闘の末」という文言がつかなくて一番ほっとしてるのは誰だっつうの。

それからついでに公明党。
自民と結託して悪法をバンバン通す「ブレーキ」ですか。
ブレーキとアクセル間違えるくらいなら公衆の安全を考えて運転はしないでいただきたい。
不「公」正なこと「明」白な「党」ですな。

オメーラ全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。

…私がここまでお聞き苦しいであろう言葉を使って批判非難したのは、改正案がそこまで問題な、超重要どころか超重大問題ヤバすぎマジありえないんだけど~法案だから。
愛国心云々はもうほっといて(バカどもはぜんぜん理解しないから。あ、つい本音が。)、国家に教育への介入を広範に認めていること(あるいはそういう方向性を示唆していること)である。
そもそも国家には子供の学習権充足させるべく教育環境を整える義務とそのための「裁量」こそあれ、学習の内容を決する「権限」などない。
国家に主権者たる国民を教育する権限を認めることはすこぶる非民主的だ。
単なる秩序維持マシーン(社会契約論)である国家が主(あるじ)である民を教育しようなどおこがましいにもほどがある。
今回の教基法改正案は民主主義の根幹にかかわるものなのであり、はっきり言って民主主義をきちんと理解し実践しているかの「踏み絵」である。
したがって
今回の教基法改正案に消極的であれ積極的であれ「賛成」という人間は
民主主義って何?オイシイもの??というバカか
非民主的万歳、ファシズム万歳、国家万歳というアホ
いずれかである。
わかんない興味ない関係ないという人間も当然このいずれかであると擬制される。
民主主義とはそういうもの。
主権を担うとはそういうこと。
責任を負わされる。

これまで私はいわゆる権力者への批判こそすれ主権者側への批判は極力避けてきた。
しかしもう我慢ならない。
オメーラ「も」全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。


…と怒っていてもしょうがない。
衆院の次は参院である。
もし「良識の府」たる参院で同じことが行われたのなら、参院なんてホントもういらない。
ここは大仁田や神取の「良識」に期待しよう。

郵政解散の時は「勝手に争点つくるなよ」と言ったけど、今回は「教基法改正案」に賛成か反対かの争点で十分だ。
ぜひ「良識」でもって参院で否決後、首相には衆院解散後総選挙で民意を問うていただきたい。
「超重要法案」なんだから。


以下朝日新聞記事

教育基本法改正案、衆院で可決 野党は採決を欠席(朝日新聞) goo ニュース2006年11月16日(木)13:33
 安倍政権が今臨時国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案は16日午後の衆院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決した。同日中に参院へ送られる。民主、共産、社民、国民新の野党4党は15日の衆院教育基本法特別委員会で与党が単独で採決したことに抗議して16日の本会議を欠席した。一部の参考人質疑を除いてすべての国会審議を拒否しており、与野党が正面から激突したまま舞台は参院に移る。
 国会の会期は12月15日までで、与党は会期延長も視野に入れている。ただ、年末の予算編成を控えて実質的には大幅延長は困難な情勢で、厳しい国会運営を強いられるのは間違いない。
 民主党の高木義明国対委員長ら野党4党の国会対策責任者は16日午前、自民党の二階俊博国対委員長ら与党国対委員長と国会内で会談。高木氏は前日の衆院特別委で与党が単独採決に踏み切ったことについて「巨大与党の数の暴挙だ。教育タウンミーティングの『やらせ』の上に築かれた欠陥基本法で審議も不十分だ」と抗議、16日の衆院本会議開催を取りやめて審議を特別委に差し戻すことを求めた。
 これに対して、二階氏は「そろそろ採決するのは当然だ」と述べ、要求には応じられないとの姿勢を示した。 河野氏は高木氏ら野党4党の国対責任者を国会内の議長室に招き、衆院本会議への出席を促したが、高木氏らは応じなかった。
 野党は16日午前、国民投票法案を審議している衆院憲法調査特別委員会の小委員会と、いじめ問題を審議している衆院青少年問題特別委員会の2委員会だけ出席、参考人質疑を行った。だが、その他の衆参の各委員会では野党が審議を拒否。与党は、教育基本法改正案が衆院本会議で可決された後、防衛庁の省昇格法案を審議する衆院安全保障委員会など各委員会を単独で開く構えだ。
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