s u t e t u s

yamboの数哲的断章

引っ越しました

2007-02-05 14:42:40 | Weblog
http://d.hatena.ne.jp/sutetus/
へ引っ越しました。今後ともよろしくお願いします。(^^)/

引越しする予定

2007-01-16 01:00:36 | Weblog
余り更新できずに2007年になってしまいました。
ところで,ブログの記事に数式が入力できるところを前から探していたんですが,どうも自分でサーバー立てる以外で無料で利用できるところは,"はてな"しかないようですね。そのようなわけで,近いうちに,そちらに"sutetus"を引っ越すつもりにしています。また,引っ越しましたら,この場にてお伝えします。(^^)

法事

2006-11-08 22:25:13 | Weblog
先日,父方の祖父(浄土真宗の僧侶だった)の七回忌の法事のために,一家で香川県観音寺市の光明寺に行ってまいりました。普照山光明寺は浄土真宗興正派の寺院で,現在のご住職は父の又従兄弟にあたる方です。祖父の兄がこの寺の住職,祖父は副住職ということもあり,父も光明寺の境内でよく遊んだそうです。私も小学生のころ本堂の落慶法要の稚児として,また,昨年完成した門徒会館の落慶法要のときには長女が稚児行列に参加させていただいたりして縁の深いお寺であります。

法事の日の朝,始まるまでにいくらか時間があったので,子供たちを連れて寛永通宝の銭型で有名な有明浜に散歩に行きました。海辺に着くと子供たちは大はしゃぎです。雲ひとつない吸い込まれそうな青空の下,海は静かに凪いでいます。私は巨大な水の存在である海のまさに境界である波打ち際を見つめておりました。というのも,小さな一匹の羽蟻が波が寄せる砂の上を歩いていたからです。波が来ればのまれてしまうようなちょうどその境界上の砂の上です。羽蟻の将来がどうなるか,知りたくて見つめていたのです。

当然私は大きな波が羽蟻をのみこんで海に引き込み,小さな羽蟻は見えなくなると思っておりましたし,そのときを待ってもいました。ところが,実際に起こったことは予想に反したことでした。ちょうど海は満ちてきている時刻,少し大きめの波がやってきて,波は羽蟻をその波頭の泡の中に捕まえました。そして,私にはこんな風に見えたのですが,波は羽蟻をそっと砂浜の高いところに置いたのです。羽蟻は何事もなかったかのように再び歩き始め,しばらくすると飛んでどこかへいってしまいました。

そのときに私は波打ち際の砂浜の上に自分の影ができていることに気がつきました。突然,何ともいえない不思議な感じがしてまいりました。そもそも影は太陽がないとできないのですが,その影を作り出している自分という存在も遠くこの海と太陽と砂浜につながっているという感じです。そして目を上げると子供たちが海辺ではしゃいでいます。その光景がどれほど奇跡的な不思議なことであることか,私にはそのように感じられたのです。

波はそれが津波ならば,羽蟻ではなく海辺の家々や車や人々までもを飲み込み陸上のはるか奥地まで連れて行ってしまう。おそらく物理的にはそれと同じ原理で羽蟻も連れて行かれたのでしょう。波にも海にも太陽にも空にも人間的感情などない,無心な存在です。だから「波が羽蟻を助けた」などということはありえない。そうなってよかったとかよくなかったとかいうことでもない。何かそういう見方とはまったく埒外の無心な存在が,間違いなく遠くこの自分につながっていることの不思議,浜辺にうつる自分の影の深淵に突然思い至ったのでした。

お寺に帰り,法事が始まりました。長女と甥っ子は普段から親しんでいる正信偈を大きな声で唱和しています。私は線香の香りが漂いお経の声が響く,明るいこの本堂が大好きです。内陣は近年塗装を新しくしたらしくて,金色に輝いて極楽浄土を思わせます。見上げると本堂の天井画には,普段道端で目にする草花が描かれています。それが本当に,毎朝次女を保育園に連れて行くときに通る田んぼ道に見られる草花であることに気がついたとき,何ともいえぬ安心感のようなものが湧いてきました。

自分だけ正信偈をちゃんと読めなかった5歳の次女は,家に帰るなり一人でお経の本を見ながら練習を始め,何と翌朝からは6時半に起きて正信偈をあげています。
このたびの法事,私にとっても子供たちにとっても心に残るものでありました。

近況

2006-10-18 09:26:24 | Weblog
ずいぶんと間があいてしまいました。近況&情報をいくつか。

林先生・八杉先生の本(岩波文庫ゲーデル著「不完全性定理」)が出ました。昨年度の講義以来,話をされてこられたことが解説にまとめられています。新資料に基づいて新しいヒルベルト像が示されています。売れ行きも好調だそうです。

昨年11月に林先生主催のワークショップで,Goguen先生の話を聴いたことがきっかけで,George Lakoffの諸著作を知りいくつかを読み進んできました。その中で,LakoffやGoguen先生が参考文献に挙げている
Varela, F., E. Thompson, & E. Rosch(1991). The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience. Cambridge: MIT Press.
に興味を持っていました。この本には,日本語訳
『身体化された心――仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』,田中靖夫訳,工作舎,2001
がありましたので,この夏に目を通しました。この中で,西谷啓治のことを知りました。西田幾多郎の弟子にあたる京都学派の哲学者です。そういえば,Goguen先生も講演の中で西谷の思想に言及していたことを思い出しました。今は,西谷啓治の著作(『宗教とは何か』)を少しずつですが読んでいます。

ところで,この西谷啓治の思想も含め,京都学派の哲学は海外でもいろいろと研究されているんですね。Webで調べて知りました。例えば,ヨーロッパの方には,European Forum of Japanese Philosophyがあります。このHPを見たとき,「どうしてトカゲ?」と思ったのですが,西谷啓治のエッセイに「太陽と蜥蜴」(岩波現代文庫『宗教と非宗教の間』所収)という短いけれども珠玉のエッセイがあり,これかなと思っています。でも,日本のトカゲはああいうのではないとは思うのですが・・・。何か他の理由があるのかしら。
森岡さんも生命倫理の方で海外の学会でもはなしをされているようですね。

話は変わりますが,Willian Lawvereと言えば,圏論やトポス理論などで有名な数学者で,集合論の代わりに圏によって数学基礎論をやったことで知られていますが,私もその線で勉強を続けていますから,Lawvereの本や論文にはお世話になっています。このLawvereの経歴についてwikipediaで調べたところ,彼はもとはClifford Truesdellのところの学生だったんですね。途中でTruesdellが,Lawvereは "really more of a mathematician than a physicist" ということでEilenbergのところへ彼を遣ったそうです。以前,れきしかさんが物理学史の文脈で教えてくれたTruesdellとこんなところでつながっていてちょっとはーっと思った次第。

とりとめもなく書いてしまいました。久しぶりに会っての立ち話という感じで。

ご無沙汰お許しを

2006-02-24 10:10:52 | Weblog
I apologize for my long silence.
生きてます。
昨年秋以来ですが,少しですが前に進んではいます。
大略をお話ししますと・・・
昨年は林晋先生の講義を受け大いに刺激を受けました。林先生主催のワークショップが昨年12月にあって,そこでJoseph Goguen先生の講演を聴けたのですが,これがきっかけでGeorge Lakoffの諸著作に出会えました。特に,LakoffとRaphael Nunezの共著の "Where Mathematics Comes From -- How the embodied mind brings mathematics into being" が余りにも私のつぼにはまっております。おそらく,私にとってはGEB以来の衝撃です。
これから暖かくなってきたら,このあたりの事情も含めて,少し文体もあらためて記事の投稿を再開したいと思っています。

追伸:川井博之チェンバロハウスの方にも見に行ってみてください。彼のブログが新しく開設されています。

我を忘れて世界に直面する

2005-08-30 12:17:35 | Weblog
以前,おしょうさんから「何もしないでいるには思想が必要だ」という保坂和志の言葉を聞いて,あぁ自分には思想がない思想がない,本当にしようがないものだと思っていたのですけれど,無い無いと無い物ねだりばかりしていてもばかばかしい,無いなら無いでいいじゃないか,私には思想はないとばかり開き直ってみると,存外気分は落ち着いて,何となく元気になってくる気持ちである。無思想のスッカラカン,がらんどうの脳みそには何でも入るかと思いきや,はて,そうでもなくて,そこには多少の趣味と判断力が残っていることに気がついた。

「何もしないでいることを是とする思想」ではない。案外,こんな読み間違いだったのかもしれない。ふと気がついてみれば,私の場合,数学の文脈で多くの思想に触れていた。ただ,自分の思想がないだけだ。自分の興味を振り返ってみると,世界に対する言語の身分に光を当てた非ユークリッド幾何の発見やヒルベルト・プログラムに対するゲーデルの仕事,意味は生体と環境の両方に根ざしているとするギブソンの思想や状況理論,これらは皆,いわば,「agent-world duality」といったようなことに関係している。

ロシアの数学者アーノルドが「数理解析のパイオニアたち」(シュプリンガー・フェアラーク東京,1999)の「§23.ティティウス-ボーデ則と小惑星」のところで,

1つの小惑星との衝突の効果は人類の活動がもたらした総体と同じ規模のものであって,地球全体の状態に対するほどの脅威ではない。

と書いているのはおもしろい。太陽系の安定性,準結晶,光学など数理解析はまさに "the world" についての神の知を明らかにしてきたのだ。アーノルドはニュートン,ホイヘンス,フックに,よりシンパシーを感じているようだ。言語という側面から "agent" に意識のあった(だろう)ライプニッツには少々冷たい。一見,そうすると数理解析は「agent-world duality」とは関係がないように思えるが,どうやらそうではないらしいから,数学の勉強を続けている。私自身は,もともと物理や化学に興味があったくらいだから,彼が「全数学のシンプレクティック幾何学化」という目標を持っていることも含めて,アーノルドには憧れる。

「agent-world duality」に直接関わっていると思われるのは,やはり数理論理学,形式意味論だ。トポス理論的に "local mathematics" を構築する枠組みを与えたり,証明や推論といったagent側のプロセスに光を当てている。おもしろいのは,私自身が論理学の学習において感じていた困難とそれを越えたときの体験から得られた次のような認識だ。それは「我をagentの側に組み込んではいけない」ということであり,「agentをworldの側に組み込め」ということなのである。つまり,「agent-world duality」を,やはり,"the world" に帰属せしめるということなのである。さすがにこのときの "the world" は,数理解析の "the world" とは違うのだが,違うは違うで,これが変わってきたことがとにかく歴史や現代ということに思いを到らせるのである。

この文章は私について書いているに過ぎない。一人称の無い文章が書けたとき,ようやく世界と直面できているのだろう。

"From absolute to local mathematics"

2005-06-02 11:14:04 | Weblog
更新できずに6月になってしまいました。その後,進展は微々たるものですが,ないわけでありません。

林先生の講義には欠かさず出席しています。以前,講義内容をレポートすると約しましたが,それをblogにアップすることはできないことになりました。というのも,先生に,講義には様々な資料にあたりつつ現在進行中のストーリーであって裏付けが済んでいない意見も含まれているので,講義で話したことを他所で公言するのは今は控えて欲しいと言われたからです。この講義の内容はいずれ本になるそうですから,公式ルートとしては,そちらをお願いします。林先生のHPからもいろいろと知ることができます。

最近,読んでおもしろかった論文は
J. L. Bell, "From absolute to local mathematics", Synthese 69 (1986) 409-426.
です。圏論とトポスについての話ですが,ポイントは次のようなことです:

ZF集合論で,選択公理(AC)や連続体仮設(CH)の独立性が証明されていることは知っていると思います。これは,選択公理や連続体仮設などの無限に対する主張を公理として要請しない数学もあり得るということです。無矛盾性こそが実在の要件であるというHilbertの思想によってこれを数学基礎論的に押し進めることができます。そのための概念装置が圏論・トポスです。

そこで明らかになることは,数学的概念には一義的な絶対的意味はなく,意味も真理(値)もその数学が世界のどの側面(aspect)を写しているかによって,locallyにもしくはrelativeに決まるのだということです。この論文ではそれをEinsteinの相対性理論に対比させてあります。

技術的には,従来の集合論を圏論によって再構築してみると,それまではconstantと見なされていた概念がvariableと見なせるということがわかることです。この弁証法的な過程 "negating constancy" は,model theoryや圏論の発展によって明確になってきた方法論です。

さてそのようにして,数学のframeworkを圏論的な対象であるトポスによって定式化していくと,その上で選択公理や連続体仮設が独立であるような,つまり,AC(CH)を追加しても,AC(CH)の否定を追加しても矛盾しないようなframeworkが定式化できます。おもしろいのは,様々なlocal frameworkの基体となっているこのframeworkにおいて自然に成立しているlogicは直観主義の論理であるということです。なんとこのframeworkにおいてはACと排中律が同値なのです。local mathematicsという捉え方をしたときに,様々なlocal frameworkに対して普遍的な位置に立つものは,直観主義の論理,もう少し正確には constructive reasoning であるというのは私には感動的ですらあります。

この論文の最後の段落は次のようになっています:
So the local interpretation of mathematics implicit in category theory accords closely with the unspoken belief of many mathematicians that their science is ultimately concerned, not with abstract sets, but with the structure of the real world.

Bellによって一番最後に力強く述べられている "the real world" に対して,数学の危機以前のそれと現代のそれとの本質的差異を見極めようとして,方法論的にいったん失った共感を今一度取り戻すことと,見極めた差異を自分の言葉で表現することが私の課題です。

上記の論文について興味を持たれた方は,BellのHPで手に入ります。

近況

2005-05-01 17:30:14 | Weblog
4月に入って余り更新できませんでしたが,なんとかやっていっております。

林先生の講義が不完全性定理についての話なので,これはチャンスと思い,不完全性定理の復習や関連して帰納的関数について読んでいます。不完全性定理の証明では,定めた形式的体系Pの算術化(arithmetization)をして,自然数上の議論が体系Pを反映(reflect)するようにするのだが,証明のその部分は以前から退屈で面白みがないと思っていたんだけど,林先生の講義の中で,その部分は一種のプログラミングをやっているんだ,という話が聴けて一気におもしろくなった。プログラミングについては,SchemeやPerlで少し経験があるからそのときの気分を思い出しながら,ゲーデルの証明を読むと確かにおもしろい。林先生は,冗談ぽく「ゲーデルは最初のプログラマ」と言っていた(これは比喩的な表現なので,バイロンの娘じゃないの?というのは真に受けすぎと思うが)。

それもそのはずで,ゲーデル以降発展した帰納的関数(recursive function)の研究においては,まさに,関数プログラミング(functional programming)そのもので,その流れで,LCF,PCF,MLという言語ができた。いろんなところでキーワードになる「機械でもできる」という言葉の意味を正確に捉えるのは意外と難しく,機械(machine)という面を強調すると確かにTuringの計算可能性(Turing machineによる)がわかりやすいが,定式化はこれ以外にも,帰納的関数によるもの,ラムダ計算可能性などがある。これらがどれも同値になるというのは自然ではあるが驚きでもあり,こういった認識の原点がゲーデルの論文には既に入っていた。これまで自分の中で「有限と無限の問題」という言い方で持っていた問題に具体的に切り込むポイントは,このあたりだろうと思っている。

これは別の話で,ホント私のバカさ加減によるものなんですけど,最近,日本語で書かれた本を読み出して,漸く思考できるようになった。ここ1年くらい,英語で書かれたものばかり読んでいて,それはそれでわかるんだけど,頭の中で「問答」できないんです。相手が英語話す人だから。でも日本語で書かれた本だと,あくまで自問自答ではあるんだけど,「問答」できて,思考できるんですね。何を今さら,というようなことに日々気がついては,でもここからだな,と思い直してやっています。隣の部屋で子供が「ピタゴラスイッチ」の「アルゴリズム体操」やってるのが聞こえてきます。あのお兄さん達も私と同じようなことを思ってあのネーミングなのかしら。

title:106.Complete and incomplete symbols

2005-04-16 11:50:35 | FoMを読む
titleは,106.Complete and incomplete symbols --- sense and denotation of a symbol.
この節は記号的表現の意味についてとても重要な指摘がしてあって,とてもおもしろい。

Fregeは記号表現について,そのsenseとdenotationを区別した。Fregeの例で言うと,「明けの明星」と「宵の明星」とは同じdenotationを持つ,すなわち指し示している対象は同一であるが,それらのsenseは異なる。
「2+2」と「4」についても同様である。どちらの記号表現も数4をdenotationとして持つのであるが,それらのsenseは異なる。

いまの例は対象式についてであったが,文についても同様のことが言え,denotationとsenseの違いがより明瞭になる。変数を含んでいない文のdenotationは,たった2つしかない。つまり,真偽値のTrueか,Falsehoodである。ところが,senseは自然言語の使用における文が担う情報と同じようなものなので,文が違えばsenseは異なるのが普通だ。「2+2=4」も「2*2=4」もdenotationは同じだが,senseは異なる。
プログラミング言語理論ではその文がどのようなoperationを表しているかがsenseに対応する。

変数を含んでいない対象式をFregeはcomplete symbol,含むものをincomplete symbolと呼んでいる。変数を含む対象式や文は,変数への対象の割り当てによりdenotationが確定する,という意味で関数と見なすことができる。文の場合は,True,Falsehoodに値をとる関数になるわけだ。これをsentential functionという。
このようにincompleteな(変数を含む)式を関数と見なすFregeの視点は重要で,外延的に集合として関係を捉えるCantorismとは本質的に異なる。このFregeの発想による算術の基礎の議論は簡単に108節で解説されているので,そのときにまた触れることにする。

私にはFregeの内包に優先権を与える発想は,集合と関数において,関数の方をより実在的とする見方のように思えるので,Chuchのlambda calculusと通ずるところがあるように思うのだが,これは誤解だろうか。このアナロジーでいくと,RussellのparadoxとKleene-Rosserの仕事(1935)とが対応しないだろうか(Aczelの1980年の論文を読んでみたい)。


林先生の講義,聴きに行ってきました

2005-04-11 14:55:39 | Weblog
林晋先生がこの春から京大に来られるという話は以前書いていたと思います。先生は早速,とてもおもしろそうな講義をはじめられました:情報・史料学特殊講義「形式化の問題」

今年度は何とか月曜日の午前中は都合がつくので,私も今日あった第1回の講義を聴きに行ってきました。今後も可能な限り聴きに行こうと思っています。また内容についてもご報告できればと思っています。
それにしても,私らが在学当時この講義があったなら,きっと数哲ゼミメンバーは必修ですね。