谷沢健一のニューアマチュアリズム

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2008-12-14 | 個人的な話題
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堀内恒夫君の野球殿堂入りを祝う!(その2)

2008-12-14 | プロ野球への独白
 3年目も変わらなかった。夏のある日、巨人戦を控えた移動日、東京に着いて学生時代から馴染みの有楽町の焼き肉屋さんに立ち寄っ支配人の柳さんが迎えてくれて、「今、堀内が来てるぞ。3人でいっしょに食うか」
 それまで、会話を交わしたこともなかったので、互いに言葉少なく、酒と肉を胃に放り込んでいたが、互いに酔いが回り始めたころ、「谷沢!なぁ、おめぇ、おれのドロップをぜーんぜん打てねーよなぁ」と不意に堀内君が、目線のかなり高い口調で言い出した。いかにも悪太郎の表情だった。酔いのせいもあって、一瞬、左手が拳の形になりかけた。
 だが、打っていないのは確かだから、黙して耳を傾けるしかなかった。「それは、谷沢っ、おれのドロップは2種類ある。おれを打てないのは、低めに落ちるのに手を出しているからだ、あれは見逃せばボールよ。顔の高さから変化するのを狙えばいいんだ」私は左の掌の力を抜いた。もちろん、王さんよりの人間が出来ていたからではない。
 「おれのドロップは、一度浮き上がるように見えるだろう。浮き上がって落ちる瞬間を狙えば打てるよ。」ああそうだ、今まではボール球のドロップに手を出していたんだ。顔の高さに来るのがぎりぎりのボール球だと思っていた。こちらが打つポイントの位置をあれこれ試行錯誤していたのだが、そうではなくて、相手の球の位置がポイントだったのだ!落ち際をたたくのだ!堀内君の一言で、まさに目から鱗が落ちた。
 翌日、マウンドには堀内君がいた。私は4度打席に立ち、4度安打を放った。顔の高さに来たドロップを2安打し、ストレートも2安打した。
 悪太郎に見えた堀内君は、昨夜は「塩返し」の甲府の小天狗だったのだ。甲州の名将・武田信玄の想いを知っていたのだろう。
 1567年、武田信玄が今川氏真との同盟に反すると、今川は北条と連携して「塩留め」を行った。海のない武田領の甲斐・信濃では製塩できず、領民たちは苦しんだ。それを憐れんだ上杉謙信は好敵手の信玄に越後から信濃へ塩を送った。歴史好きなら誰でも知っているエピソードである。
 甲州人の体には、それ以来、「塩留め」のお返しの伝統が脈々と流れているのだろう。それにしても、堀内君が読売巨人軍の監督だったとき、他チームに「今謙信(いまけんしん)」はだれもいなかった。それは堀内君でせいでなかったのだろう。

堀内恒夫君の野球殿堂入りを祝う!(その1)

2008-12-14 | プロ野球への独白
 先月27日、東京ドームホテルで、堀内恒夫氏の野球殿堂入りを祝う会が催された。集まったのは約700人、盛大だった。私と同世代の堀内君が、数々の実績と名声を備えた球界の諸先輩の仲間入りしたのは、実に嬉しい。壇上にあがった堀内ご夫妻は、そういう諸先輩たちから、この上ない祝福の言葉を受けた。中でも印象に残ったのは、ウォーリーの時に続いてまた加藤良三コミッショナーだった。
 加藤氏「堀内君は"悪太郎"と呼ばれた、それは何故か。マウンドの堀内君は、投球の度ごとに帽子が斜めに曲がったり脱げたりした。その姿がいかにも腕白小僧のようだった。長嶋さんも空振りをしたときにヘルメットが飛んだ。その姿を、堀内さんは中学時代に見て、迫力があってカッコイイと感じた。で、自分もプロになって帽子が飛ぶほど全力投球がしたいと思ったそうです」と裏話を披露した。彼のダンディイズムを全力投球と結びつけた、巧みなスピーチだった。
 次に渡邊恒雄氏が登壇した。渡邊氏「"恒"という字は私と同じ。現役時代から何とも言えぬ親近感を抱いていた。"甲府の小天狗"と呼ばれ、有頂天になっていたとき、王君に鉄拳を食らったようだが、私はそんな堀内君が好きだった。堀内君が悪太郎なら、私は大悪太郎だよ」と締めくくった。確かに、「巨人軍選手は紳士たれ」という標語で有名なチームが、渡邊恒雄氏によって変えられたのは事実だ。
 高校時代から、私は堀内君と対戦している。その直球はとにかく早かった。そして、その豪速球しか投げなかった。彼に4年遅れてプロ入りをした私は、彼に完全に抑え込まれ、2年間は対戦成績が1割台だった。彼は速球に加えて2種類のドロップをマスターしていた。私の太股の辺りでがくんと落ちるのと、顔の辺りでいったん浮き上がるように見えたとたんに急激に落ちるのと、このドロップに手こずった。対策法が見つからなかった。

クラブチーム活動の「場」(その3)

2008-11-20 | YBC前進
 先日、和歌山市での名球会のイベントを終えて、関空の待合室にいくと、茨城GGを応援する年配のご夫婦から声を掛けられた。茨城GGが日本選手権1回戦で敗退したので帰路に着くという。
 谷沢「北野君が初回に4点取られたのが痛かったですね」
 夫君「2回からは2番手がきっちり抑えただけに残念でした」
ご夫婦は茨城GGの帽子とチームジャンバーを着用していたので、
谷沢「皆さんの応援が力になりますね」
妻君「練習が終わるとご飯を食べに来るんですよ。全国から選手が集まってますから、情が移りますね」
夫君「野良仕事も手伝ってくれるので有難いです。こずかい程度にしかならないのに、一生懸命ですね。お陰で町も明るくなりました」。
チーム協賛企業の応援もあるので、選手には一時金が貢献度を鑑みて支給されるそうだ。いずれにしても、野球ばかりでは地元の人たちも愛着が湧かない。こうした社会貢献は不可欠なのだ。
 「硬式ができる野球広場をつくる」ことは私の大きな目標の一つであるけれども、地元の人たちの理解があってこそ実現できるものである。柏市はあまりにも東京に近いので、地元独自の活動に制約が生まれやすいが、不可能を可能にする粘りを身上に闘っていきたいと思う。
 その一つとして、やはりNPO法人であるオール沼南ベースボールクラブと共同で「谷沢健一杯少年野球大会」が、来年2月(14~15日)に開催されることとなった。遅々としているがそれでも、新たに動き出すものがある。2009年はYBCの事業骨格づくりがテーマである。道はいつも多難であるが。

クラブチーム活動の「場」(その2)

2008-11-20 | YBC前進
 もともと、市を通して県から無償で借りていたのだから、何の文句もつけられない。それどころか、県と市に感謝すらしていた。お陰で今年はPWPで練習試合を17試合もできた。グランドが狭いので、特別ルールを設定しての試合だったが、相手チームの部長や監督は口々に「試合できるグランドがあるだけも羨ましい」と言ってくださった。
 わずか1年という短期間でも、土日に1日中専用できるグランドが存在したことで、明らかに選手たちは成長した。今年のYBCは、高い会費や企業の協賛を受けずに強くなれることを証明できた。その一端はやはりPWPという場があったことである。  
 この3年間の公式戦試合数は3、7、13と倍増を重ねた。4年目も多少メンバーは変わるだろうが、YBCの野球をやりたい若者が(なかには若者を卒業した者も)自ら進んで入団してくると期待している。チームづくりもこの3年間では最高といえるスタッフにも恵まれ、望ましい方向に向かっている。
 今回のグランド喪失の宣告は、「YBCのミッションは何か?」と天が問うているのかもしれない。昨年6月にYBCはNPO法人として認可された。NPOや企業は創業者の抱いた想いをミッションとして、創設されるのではないか。創業者の想いを賛同してくれる人たちの協力を得て具現化・具体化することではないか。私の想いはいくつも心の内に潜んでいる。
 フェニーズを強いチームとしてつくりあげていくことは大きなミッションであるが、それ以外の想いもたくさんある。スポーツ啓蒙活動などを軸にした地域貢献もその大きな一つだ。本当は、これがNPO法人の活動としては真っ先に挙げられなければいけないのである。
 私個人は、講演活動や少年野球教室、ティーボール教室(養護学校へのボランティア活動)、指導者研修会などを行ってきたが、更にこれらをYBCの事業活動と結びつけて、より活発かつ効果的にしなければならない。スタッフや選手たちにも当然、NPO法人のメンバーとしての任務が課せられることになる。フェニーズは単独チームではなく、YBCという法人の一部だという意識を抱いてくれなければいけない。野球以外の活動は無理だと言う者が大半ならば、人材をさらに募らなければならない。

クラブチーム活動の「場」(その1)

2008-11-20 | YBC前進
 第1回関東クラブ選手権の直前、柏市から電話がかかってきた。試合のシミレーション中だったが、それを頭から追い払って電話に出た。11月3日のスポーツフェスタ(柏市主催)にYBCが協力することになったので、その件だろうと思ったからである。しかし、意気消沈する報知だった。
 それは事実上PWPの使用拒絶を意味する知らせだった。PWPは2007年に廃校となった県立柏北高の硬式野球グランドである。それを昨年11月から原則土日に限って使用させてもらっていた。
 電話の声は「千葉県教育委員会から、柏北高のネット、フェンスを撤去する方向であると言ってきました。グランドは売却の予定だが話が具体化しているわけではない。しかし、再利用のために撤去したいというのです。工事は年明けの1月から始めるそうです。それで、グランド使用は12月までで終わらせていただきます。」
 谷沢「えー、ネット・フェンスをどこへ持って行くんですか。それは酷いやり方だね。」
 この1年間、グランドを整備し(具体的に言えば、繁茂の早い草の刈り込み、ネットの修理と新ネットの購入追加、土の掘り起こし、荒れはてて粗大ゴミの山積したブルペンの清掃と改造、外野フェンスの設置、近所の篤志の家にお願いして井戸水の確保及び水タンクの設置、物置の購入設置、打撃用鳥籠の購入設置などなど)管理してきた。県にも市にもまったく迷惑はかけなかったつもりである。あえて言えば、他の団体がYBCの備品を無断借用・盗用するのも黙って見逃してもきた。グランド使用の申し込みは、県の指示通りに2ヶ月前までに行ってきた。そして使用打ち切りの通告も2ヶ月前にやってきた。また「ジプシー」が始まるのかと暗澹たる気分になった。
 関東クラブ選手権の直前なのに、余計なニュースに心が乱された。今年最後の公式戦が準決勝での敗退に終わった日、球場(いくつもある埼玉県営の硬式仕様の球場のひとつ)からの帰り際に、主要スタッフに県の通達事項を伝えた。全員、表情が変わった。
 加藤副部長がつぶやいた、「ああ・・・そんなことなら、2月の確定申告で千葉県に「ふるさと納税」をしようと準備していたけれど、やーめた・・・」

加藤良三コミッショナー

2008-11-15 | プロ野球への独白
 パーティーの冒頭は、だれもがお互いに短い挨拶を交わす。ウォーリーの時も、勿論私は長嶋さん、王さん、新任のコミッショナーら主だった方々にやはり短く挨拶した。団欒もたけなわになった頃、加藤良三コミッショナーが不意に私の所に近づいてこられたのである。駐米大使という外交官のトップに上りつめた方だから、謹厳な口調の人物だろうと勝手に想像していた。
 加藤氏「谷沢さん、CSのプロ野球ニュースはよく見てますよ。解説者の方々のトークを楽しんでます。佐々木信也さん、関根さんと谷沢さんがお出になるときには特に楽しみです。技術的な評論ばかりでなく、様々な観点から深く掘り下げていってくれます」とおっしゃる。嬉しいお言葉であり、「あ、この人はほんとうに野球に惚れているんだ」と直感した。
 さらに「谷沢さんが3割6分9厘を打った時には、どのような心境だったのですか」とおっしゃる。驚いた。細かい数字もご存知だ。私は心の中で襟を正して、長い故障から復帰した年だっただけにいい意味で開き直っていて、投手への読みも大胆で、一打一打に悔いをあまり残さなかった、とお答えした。
 柔らかい表情で時には満面に笑みを浮かべて、興味深そうに聞いてくださる。さすが、世界の最高の政治家、実業家らを相手に外交の修羅場を仕切ってきた方である。すぐにそのお人柄に魅せられてしまった。世辞も追従もまったく苦手の私だから、年功の年長の実力者の歓心を買って、その見返りにおだててもらうことなどは考えられないが、こういう方にはぜひとも褒められたいと思わされてしまった。
 就任早々にWBC監督問題を片付けるなど、前コミッショナーが処理しきれなかった懸案の解決に敏腕を発揮なさっているが、そんなナーバスな立場など微塵もみせず、野球への愛着だけが表出する笑顔だった。
 その日のプロ野球ニュースのゲーム解説は、加藤さんに心をこめてお送りしたメッセージになった。

長嶋、王、杉下、そして…(その3)

2008-11-15 | プロ野球への独白
 司会の吉田慎一郎氏(日本テレビ・元野球中継担当アナ)から私もメッセージをと促されたので、次のような思い出を話した。
 ──試合途中で交代を告げられた。極度のスランプに自分にも腹が立っていた。ぶつけどころもなくベンチ内にあった陶器のコップを激しく叩き割った。それでもおさまらずに、ベンチ裏のボールケースを蹴った。こういう類の行動をする選手は中日には2~3人存在した。そういう時は、ベンチに戻ってから声をよく出していれば、ウォーリーはうなづいて平静に対処してくれた。だが、その日は私は気持ちを戻せず、ベンチにいても声援すらできなかったため、試合後のミーティングでこっ酷く怒られた。
 帰宅して、食事を終えたころ、ウォーリーから電話が入った。たどたどしい日本語で、「ヤザワ!皆の前で激しく怒ってすまなかった。うちのチームは君を叱れば一つに纏まれる。皆がピりッとするんだ。我慢してくれな」という内容だった。私は初めて心底から " Do my best for Wally ! " と誓った。
 その年、広島との試合中、午後9時ころ本田マネが私にある吉報を届けてくれた。延長に入ってもなかなか決着が付かない。15回表を迎え、私が先頭打者。三塁打で出て決勝のホームを踏んだ。勝って常宿の世羅別館に戻るやいなや、マネージャーが全員を大広間に集めた。各テーブルにはビールなどが用意され、ウォーリーが「今夜、ヤザワの家庭に長男が生まれた。ヤザワの一打で勝つこともできた。皆祝ってやってくれ」と乾杯である。
 翌年、ウォーリーの下で中日は20年ぶりのリーグ優勝を勝ち取ったのである。

長嶋、王、杉下、そして…(その2)

2008-11-15 | プロ野球への独白
 中日の監督時代、開幕前には目黒区柿の木坂の自宅にチーム全員を呼んで食事会を開いてくれた。当時の日本人監督では考えられない家族愛に満ちた統率力だった。今日の会場にも奥様、当時15歳だったポール、お嬢さんのエミーのご家族が、皆さんを迎えていた。
 谷沢「ヘイ!ポール、家族も多くなったね」ポール「あの時、選手やスタッフの皆さんと楽しく過ごしたことは忘れません」
エミー「谷沢さん、変わりませんねー。ロスに住んでますので是非いらしてください」懐かしさで1974年(優勝の年)にタイムスリップしてしまった。
 皆さんの祝辞も楽しかった。ウォーリーの来日初打席の投手は杉下さんで、その映像が会場に流された。セフティーバントが見事に決まった瞬間である。杉下氏「フォークで仕留めてやろうと投げたらバントだろう。慌てたね。俺はあまりにも絶妙なので取りに行くのを止めたよ」。
 売り物の激しいスライディングについても、金田氏が「日本の野球を変えたね。観察してたら、リードしながら両手に土を握っているんだ。二塁ベース上で野手に眼つぶしだよ。恐れ入ったね」と、おそらく金さん一流のジョークだろう。
 権藤博氏も「私が年間35勝をした時も、ウォーリーには足でかき回されて、勝ち星をいくつも損をした」と思い出を語った。
 印象的だったのは、巨人時代一番仲の良かった内藤博之氏で、「遠征先でも日曜は教会に行った。私はいつも付き合わされた。あるとき食事会に行くと豪華な御馳走が並んでいた。ウォーリーは御馳走の横に入れ歯を外して置き(フットボーラー時代に総入れ歯にしていた)、黙々と食べた。」その姿はひどく厳しくて、内藤氏以外誰も近寄れなかったそうである。

長嶋、王、杉下、そして…(その1)

2008-11-15 | プロ野球への独白
 白熱した日本シリーズ・第6戦が行われた11月8日、あるパーティに招かれた。所用があったため、定刻の午前11時に5分遅れて、会場の東京アメリカンクラブの扉を開けると、すでに加藤良三NPBコミッショナーの祝辞が始まっていた。
 参集者は100名を超えていたと思うが、中央の壇上には4名の方々が上がっておられた。発起人3人と今日のパーティの主賓である。その4名は、長嶋茂雄・王貞治・杉下茂・与那嶺要の4氏だが、さて主役はどなたか、今これをお読みの皆さんはおわかりだろうか? なお、付け加えれば、もちろん金田正一氏の姿も会場にあったが、主役の盛り上げ役に徹しておられた。
 この暖かな雰囲気に包まれた会は、「Wally Yonamine The Man Changed Japanese Baseball」がこの9月、ネブラフスカ大学出版局から上梓された、その出版記念の会である。
 「思い出の日本野球」の著書もある作家ロバート・K・フィッツ氏が、2003年から3年にわたり取材を重ねて書き上げた著作で、翻訳が待たれている。
 与那嶺要ことWallace Kaname “Wally” Yonamine、通称ウォーリーさんは、ハワイのマウイ島生まれの日系2世で、高卒後アメリカンプロフットボールの名門<SF49ers>に入団した。それは、史上初のアジア系米国籍の選手だった。しかし、何度も負傷したため、野球に転じて、日本のプロ野球に登場した。そのシュアな打撃に加えて(終身打率.311)、NFL仕込みの走塁など、斬新なプレーの数々で日本野球界に旋風を巻き起こした。たとえば、セーフティバントやゲッツー防止のスライディングを日本に持ち込んだのも、与那嶺さんだとされている。
 選手としては巨人、中日、コーチとしては中日、東京(現ロッテ)、巨人、南海(現ソフトバンク)、西武、日本ハム、そして中日監督としては巨人のV10を阻止してリーグ優勝するなど、37年間の長きにわたってユニフォームを着続け、"ウォーリー"の愛称で、多くのファンに愛された。アメリカ人で日本の野球殿堂入りしている唯一の人でもある。