「光る君へ」継続してみています。
私、本当は藤原道長も紫式部もそんなに好きじゃない。
道長は特に好きじゃない。
若い頃に「枕草子」現代語訳を読んでからすっかり一条天皇と中宮定子のファンになったので。
でも、この物語は後半は彰子と紫式部のサロンがメインになっていくのだから、それまで見続けられるかなとは思うんです。
今の所、道長は非常に魅力的に描かれており、吉高由里子も回りの演技に支えられて、何とか平安娘になっているなとは思うんですけど。
正直、まひろって貴族の娘にしては素顔をさらしすぎな所、あるじゃないですか?
外をぶんぶん走って歩いてとうとう悲田院まで行ってしまった
どんなに紫式部の味方をしても、藤原一族の彼女がそこまで「庶民」に心を寄せていたとは思わないのですが。
ただ、今週はまひろと道長より、定子と清少納言のやりとりに全て奪われましたね。
華麗なる御所でのサロンと悲田院で泥まみれになっているのと、どっちがって言われるとねえ。
なぜ、一条天皇と定子派なのかと言いますと、このお二人が本当に恋愛関係で結ばれており、尚且つ知識、教養に満ちた「ザ・皇族」そのもののお二人だからです。
清少納言は結構ズケズケいう人ですけど、定子は常に微笑んでそれを許していたし、面白がってもいる。そういう「大人」な所が本当に素敵な女性です。
で、今回の目玉シーン「香炉峰の雪」は「枕草子」でも代表的なシーンで、
原文はこんな感じです。
「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まいりて、炭櫃に火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふたれば、
人々も「さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。
(雪が大変深く降り積もっているのを、いつになく御格子を下ろしたままで、炭櫃に火を起こして、私たち女房が話などをして集まって伺候していると、中宮様が「少納言よ。香炉峰の雪はどんなであろう」と仰せになるので、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、お笑いあそばす。周りの人々も「白楽天のその詩句は知っていて、歌などにまで読み込むのだけれど、中宮様の謎かけとは思いもしなかったわ。(とっさに御簾を上げた少納言のように、)やはり、この宮にお仕えする人としては、そうあるべきなのね」と言う)
確かドラマでは、サロンで色々贈り物などされてにぎやかな中、中宮定子が「何をして遊びましょう」と言って、清少納言に「少納言、香炉峰の雪はどうなの」と聞きます。
すると少納言はさっと立ち上がって御簾を上げるのです。
「香炉峰の雪は御簾を上げてみるですね」と。で、回りの男子達はちょっとちんぷんかんぷん。そこで伊周かな?「白楽天だよ」っていうのです。
その後は楽しい雪遊びシーンになっていくのですが、恐らく本当は女房ももっといたんじゃないかなと思います。
ここで重要なのは中宮が「香炉峰の雪はどうなの」に対して、清少納言がぱっと御簾をを上げる、そのツーといえばカーのやりとり。
無論、白楽天を知らなければ出来ない技。そして漢詩に詳しくないと出来ない技です。
一条天皇と定子は、二人で漢詩を詠み合い、謎かけしたりするのが大好きな教養が深い二人です。
だから一条天皇は定子を愛しているのですが、やがて兄、伊周の失脚で中宮位を追われてしまいます。
それでも一条天皇は定子を愛するのをやめなかった。
私は、「源氏物語」の桐壺帝のモデルはこの一条天皇ではないかと思います。
平安貴族とはいえ、漢詩を詠んだり好きだったりする女性は珍しかったと思います。
女性はかな文字を使い、過去の和歌などの「本歌どり」などを楽しむ事はあっても、漢詩をよくし、謎かけまで出来る女性と言うのはそうそうありません。
定子の母は高階氏で長屋王家に繋がります。
とても教養が深い人だったようで、ゆえに定子も自然と教養が身に着いたのでしょう。
皇族に必要なのは「1に礼節、2に教養」です。
語学が得意とか通訳を通さずに話せたとか言っても、例えば英文学に通じていたり、人と会話する時に、たとえ話が出来るか否かで随分違ってきます。
一条天皇と定子ってカズレーザー並の知識と教養を持ち合わせている人達だったんだろうなと思うんですよ。
で、すごくそれが羨ましくて。
話がそれますけど、最近「クリミナル・マインド」の再放送を見てて、超天才のスペンサーが、顔を見た事のない彼女との会話を「シャーロック・ホームズ」の作品になぞらえてやっているんです。
「ああ、それは○○だね」とか。
本を読みこんでいる人はこうも違うんだよなと。
アメリカのドラマでは今でも平気で「脱税?じゃあ、牢屋に入る?」
「ディケンズじゃないよ」とかいう会話が出てくるんですよ。
要するに当時のイギリスでは「納税義務を果たさなかったためにそれ専用の牢屋があった」って話なんですけど。
で、ディケンズの作品と言えば・・・みたいにたとえ話がすぐに出て来る。
日本人はそういう事をすっかり忘れてしまっているんですね。
ゆえに例え悲恋で終わっても、私は定子推しで決して彰子ではないのです。
若い時は古典を沢山読んで、それを踏まえて現代の小説や論文を読み、そして事あるごとに「ああ、これって・・・」みたいに頭に浮かぶ、そんな生活をするとよいですよ。
って・・・今、あまり本読まないけどね。
中国ドラマを見ていると、あっちこっちで漢詩が出てきて、その度に「名前は知ってるけど・・・」と思い、ああ、漢文ちゃんとやっとけばよかったと後悔です。
日本人がディベートに弱いのは、色々な国の物語を読み、理解しつつ覚えていないからですよね。ゆえに相手を論破出来ない部分が大きいと思います。