春ドラ見てますか?
とりあえず、今の所「お迎え渋谷くん」が一番かな。
京本大我って本当に大人しい役が似合うっていうか。お父さんがあんなに派手だとこうなるのか?
京本パパは「さんま御殿」に出てジェシーをかなりお気に入りの様子。
確か京本大我も以前、「父は息子より他のメンバーを可愛がる」みたいな事言ってた。
でも、歌唱力や演技力は京本大我がダントツです。
親の教育のたまもの。今年は「モーツァルト」ですから。
「ミュージカル界のプリンス」の座は古川雄大と京本大我にお譲りすべきじゃないかと日々思うのです。
パット見、彼はパパに似てません。
なんせパパは
これだもん。今じゃどこにでもありそうなアルバムジャケットだけど、当時はかなり衝撃的だったんです。でもわくわくしながら買いに行って、当時付き合ってた旦那に自慢してたのを思い出します。
これ、デビューの頃。セリフ棒読み兄さん。山田太一の「男たちの旅路・車輪の一歩」です。
で、今の息子さんと同じ時期がこれ。
仮面ライダーBLACK。仮面ライダーシリーズは好きじゃないけど、昭和最後になったこの作品は本当にストーリーも音楽も素敵でしたね。
で、過去から現在に戻って。
「リベンジ」
これねーーペーペーの赤楚衛二とベテランの錦戸亮では勝負にならず。
ストーリーも今一つピンとこない。
白い巨塔風なのに主人公が医者じゃないってちょっとね。
「アンチヒーロー」
これは長谷川博己に北村匠海が必死についている感じがいいですね。
「アンメット」 私は主役の人の顔が好きじゃない。
杉崎杏も、そばかすとかそのまんまでいいのか?という。
「花咲舞が黙っていない」は完全にボツ。
今時臨店ものは流行らないでしょう。
っていうか、やっぱり杏ちゃんの存在感ってすごかったんだなと思いました。
賢くてテラーにぴったり。今田美桜は勢いだけで頑張ってる感じです。
そして、今回問題の「ブルーモーメント」
作品は好きです。
いわゆる山Pものかなと思うし。
でも、右側の女の子が、中国人とのハーフだそうで日常会話が中国語だったそうです。
それでなのか「興奮すると中国語が出てしまう」キャラ設定。
完全日本人の役なんだけど、何でわざわざ北京語を出す必要性が?
それも決してネイティブに感じない。ご本人は訛りのきつい中国語で育っている為、北京語は緊張するらしい。
だったら無理に喋らせなくても・・・・・
韓国男子との恋を描いた「EYE LOVE YOU」もハングルが飛び交ってましたけど、あれはまあ、許せる。それはヒロインの二階堂ふみがハングルを全く知らない設定だったからね。
でも、今回は完全に不必要ではないかと私は思うのね。
「パリピ孔明」のように必要性があり、尚且つネイティブ発音して字幕がついてくれたら納得するし、勉強にもなるけど。
段々いらだってくるわけ。
って思うのは私だけかな。
キムタクのドラマはためてみているので、感想はもう少しあとで。
早々に「イップス」は挫折しました。
週刊誌では未だ「ヅカへの誹謗中傷」冷めやらず、宙組集合日の5月7日には集団退団があると書かれていたのに、蓋を開けたら104期の二人だけ。
104期って、「さくら」をモチーフにした、とても素敵なロケットだったよね。ここ最近では一番好きなロケットだったんだけどな。
ここまで来たら突き進むしかないのよ。宝塚は。
いい加減宙組のポスターを出して欲しいです。ファンが可哀想じゃないの。
「アンチヒーロー」朝夏まなとが出演していてびっくり。だけどそれ以上に、ちょっとしか写らなかった壮一帆をしっかり認識した私に驚いたわ。
さて。夕方、天皇一家が帰京しました。
主役は内親王殿下なのね。
ところで、天皇陛下はどこ?後ろで幽霊みたいになってる人?
平日っていうか、みんな「仕事したくない」と思いつつ出勤している人多数なのに、逆なでするからのような弾ける笑顔。
「リモートワークなんですの」
「非常勤なんですの」
え?働きすぎてた内親王殿下はどこへ消えた?
毎回、御料牧場到着の映像を見て感じるけど、いや、これは何も御料牧場だけじゃなくて、那須の御用邸もそうだけど、毎年来るたびに「初めて」来たかのような会話が出来るって、ある意味すごいと思いませんか?
だって、毎年1週間滞在して、見慣れた動物、見慣れた景色ですよ。
それを「あそこに馬がいるの、わかる?」とか・・・
私も毎年中禅寺湖へ行ってた事ありますけど、さすがに夫婦で「あ、スペイン大使館だ」なんて言いませんよ。
この方々の記憶っていうのは、恐らく1年経つとリセットされて、全てが初めての経験のようになるのかな。
だから毎年、同じところへ行って一日中遊んでも全然いいんだと。
ま、規制された東北自動車道の方々、お気の毒でした。
愛子内親王をアゲアゲして女帝に・・・という気持ち、全然わからないけど、マスコミ使って「嘘」はよくないよね。
正直、嘘ばかり書かれたら傷つく。
けれど傷つかないのが愛子内親王で、それは賢いからではなく「何を書かれているのかわからない」からじゃないかと思うの。
22歳で母親の言いなりファッション、言いなり就職、ないわ~~と思う。
誰だってそう思いませんか?全く自己主張のない内親王なんておかしいって。
一方17歳の皇位継承者への誹謗中傷も許し難し。
心に傷を負う。眞子様のように。
でも悠仁殿下は気にしない姿勢を撮り続けている。
その理由は何なのか。
どんな誹謗中傷も跳ね返す心の強さがあるんじゃないかな。ご学友にも恵まれているし。何より研究や野菜やコメを育てる事が忙しく、学問と両立させているから、余計な事は考えていられないのでしょう。
昭和天皇も戦争が始まると、顔がひきつる症状が現れ、それはお亡くなりになるまで続いていましたよね。
気の毒な眞子様は、ダイレクトに誹謗中傷にぶつかって、孤独の中に逃げ込まれた。
私には眞子様の配偶者が癒しになっているとは全然思わないんですけど。
自分で気づくしかないんです。
さて、我が家にも春の花が。
名前忘れたけど・・長い間待ったわ。1年かあ。ずっと咲いててくれたらいいのに。
ブログの写真の花はこれ。一応、自分のところに咲いた花を使っています。
ゼラニウム。増えすぎてとんでもないことに・・・
サフィニア。3年目ですね。
夏の花も育てたいけど、ベランダでは限界が。また水やりが大変なので。
で、これです。はい。ポインセチアなんです。
去年の12月に買って、その頃は真っ赤でした。5月になっても枯れないので水をやり続けています。
痛んだ赤い葉を切りつつ。そのうち緑だらけになるのかな。
果たして夏越し出来るかどうか挑戦!!
女系派というか、愛子内親王派はいつも、あらゆるものを皇嗣家にスライドしたり、また重箱の隅をつつくような書き方をして、正統派をかく乱しようとします。
でも、無知すぎてまっとうな答えを出しても理解できず、さらにわけのわからない質問をしてきたりします。真面目に答えるのをやめたらどうかと思うのですが、そうなると、Xなどは「愛子天皇派」に席巻されてしまうので、やっぱり反論は必要です。
悠仁親王成年まで4ヶ月。儀式としては約1年近くあるのですが、恐らく秋頃には進学がお決まりになり、3月の卒業と同時に記者会見と加冠の儀があり、それから伊勢へ行ったり忙しいだろうなと。
馬車行列やって下さいね。宮内庁。
さて、「秋篠宮殿下は暫定の皇嗣なので皇太子ではない」と言う意見が高森何とか始め、多数の女系派から聞かれます。
そもそも平成の天皇退位という事自体が、政府・宮内庁にとって予想外の事で、それに対しては皇室典範違反となるので、本来、止めなくちゃいけなかったわけです。
しかし、マスコミの圧力と、天皇自身がマスコミにリークするなどして報道が先に立ち、引き返せなくなりました。
ゆえに「特例法」で対処する事になったのです。
正直、退位した天皇への尊称は「上皇」でいいとして、皇后には正式名称がありません。恐らくは「○○院」と呼ばれて終わるでしょうけど、美智子様はクリスチャンで仏門に帰依したくなかったんでしょう。
自ら「上皇后」と名乗りました。
で、徳仁親王が天皇になると、弟の秋篠宮殿下は本来「皇太弟」ですが、これまた皇室典範にない。じゃあ、特例法で「皇太弟」にすればよかったじゃないか。
でも、これは徳仁天皇が自身で語ったように「壬申の乱」を想起させるので、使いたくない。
さらに「秋篠宮」という皇室史上最も美しい宮号を残したいという気持ちもあり、正式には「秋篠宮皇嗣殿下」となりました。
「皇嗣殿下」の扱いは「皇太子と同等」と特例法ではされたのですが、それはあくまでオモテ側の事で、国際プロトコルでは「CROWN PRINCE」でよい。
が、オク側では雰囲気で「皇嗣家は内廷じゃない。なぜって秋篠宮だから」になってしまったわけです。
もし、伊藤博文が生きていたら、「内廷にせよ」と大改革を行ったのですが、今の政府って、「皇室に下手に口を出すと身を亡ぼす」と思っているのか、「したいよういどうぞ」って感じ。
ゆえに、「天皇一家と上皇夫妻は内廷。でも秋篠宮家は内廷外」になりました。
内廷=天皇と財布が一緒。御料牧場の食材無料。信号操作できる。御用邸使える。
外廷=他の宮家と同じ。健康保険なし、御用邸使う権利なし
特に御用邸&御料牧場は天皇一家が独り占めです。家族3人で那須・須崎・葉山・ぼ両牧場をいつでも使えます。葉山は時々上皇夫妻が泊まります。
この贅沢感ったらありません。
それは別として。「暫定だ」という理由には「皇嗣」は何人でも置こうと思えば置けるからと言います。
しかし、現在、皇位継承権を持つ男子は二人のみ。
秋篠宮殿下と悠仁殿下です。ゆえに暫定も何もない。確定事項なのです。
もう、誰もがわかっていると思いますけど、日本の「色」には「禁色」があり、格がありますよね。
例えば「紫」は高貴な方しか使えない色とか、浅黄色は新選組のユニフォームで有名ですが安い色です。
さらにそこに文様やらなにやら複雑な事があるのですが、決定的な事は、即位の礼において、
天皇は黄櫨染の袍を着用する。
左側の天皇が着用している袍が「黄櫨染」です。
太陽を意味する色で染めが非常に難しく、応仁の乱で100年もの間途絶え、そこから掘り起こして再現したもので、この「黄櫨染」色が最も格が高い色になります。
そして、
皇太子は黄丹の袍を着用する
これが黄丹の袍です。黄櫨染と同様「絶対禁色」とされ、太陽が昇り始める様を表現し、やがて天皇になる人しか着用がゆるされません。
秋篠宮殿下は即位の礼、立皇嗣の礼共にこの黄丹の袍を着用されました。
これこそが「世継ぎの証」であり皇太子である証明なのです。
紀子様の袴は赤ですが、これは既婚者を表す色です。
秋篠宮両殿下はご結婚の時から素晴らしく装束の似合う方でした。
即位の礼における眞子様・佳子様。濃き色の袴は未婚を表します。
平成の立太子の礼の徳仁親王
天皇派黄櫨染の袍、徳仁親王は黄丹の袍着用。
秋篠宮殿下の結婚の儀。この時は筆頭宮家だったので黒の袍です。
そして皇后にもまた最も格式の高い色があり、それが「白」です。
これを着用できるのは皇后のみと言う事になりますね。
このように、奈良時代ごろから、皇室内の装束の規定が定まって行き、現在もそれが守られているのです。
いくら言葉で「暫定」のなんのと悪口を言っても、外国においても、国内においても秋篠宮家は皇嗣家、つまり東宮家と同等なのです。
さて「東宮」という言葉です。
中国史劇でもよくこの言葉が出てきます。
皇太子の事です。
元々は「東宮」「春宮」と書き、皇太子が住む場所の事を指してたようで、中国では「東宮」はあくまで住む場所、人の事は「太子」と呼んでいました。
古事記にも「厩戸皇子は上宮に住んでいたが、推古天皇によって東宮に移った」つまり皇太子になったと言う事ですね。
東は朝日が昇る、若々しさとか縁起のよさなどを表現しています。
皇太子という呼び方はあくまで近代の呼び名であって、元々は「東宮」です。
天皇がいて、その下に東宮がいる。それを覆そうというのは謀反です。
秋篠宮は「東宮」なのです。
たとえ内廷でなかろうとも、称号がなかろうとも、東宮なのです。
>つゆだくさんへ
現在の宮内庁病院は昭和39年に出来ました。
通常、皇族やその関係者、宮内庁や侍従職など、皇族に関係ある人達が診察をうける場となっています。
郷ひろみの元妻、二谷友里恵が宮内庁で出産したというのは、当時としては驚き。
でも彼女の母、白川由美さんのお家柄がよかった関係かなと思います。
で、宮内庁病院は皇族だけが受診できるわけではありません。
特に平成になってから、天皇皇后は東大を好みますし、今や本当に「かかりつけ医」になっている程度です。だから、購入した薬が必ずしも皇族が使用するとは言えないのです。
そもそも薬は、病院が、と言うより医師が「この薬を使用したい」と選ぶもので、だから薬品会社などは一生懸命ドクターに営業をかけるわけです。
病院が買ったというより、ドクターが「それを」と言って買ったわけですね。
・・・とまあ、このような素朴な質問であれば悪意のないとみなした場合は質問も受け付けるのでコメント欄にどうぞ。
50代も最後の年ですし、いくら75歳まで働かないといけないとはいえ、とにかく体がついていかないです。
でも子供達も手が離れたし、何かしないとなと思っていたら、旦那が珍しく「東京都内の史跡巡りしない?全部歩きだけど」というので、まあ、やってみるかなと。
で、つい先日第一回目に行ってきました。
場所は上野の東照宮から、不忍池を通って岩崎庭園へ。
私、上野は何十回も行ってるけど、東照宮は行った事がなくて、縁日のようになってて感動しました。
で、近くでぼたん祭りをやっていたので入りました。
これはあじさいですよ。あじさい。・・・牡丹よりあじさいに目が行くってねえ。
あ、これも違う。
これですよ。牡丹の花。まるで私のよう・・・・とか言ってみたけど、正直、こんなバカでかい花はあまり好きじゃないのです。
でも、確かに華やか。芍薬に牡丹に百合。
私はこういう系が好きです。
これは侘助ですね。
可愛い。ピンクは着物の柄になりそうで。
こういう色は大好きです。
この柄の服を期待。もう若すぎるけど。
その後、岩崎弥太郎の息子、久弥が建てた洋館があり、それが本当に素敵で、中に入ったら気持ちは大正時代あたりにスリップしてしまって、部屋を回りながら、色々勝手に妄想してました。
洋館ではドレスを着ている風、隣の和邸では着物を着ている風に歩くとか。
ちょうど假屋崎省吾氏がイベントを行っていて、洋館の各部屋に彼が生けた花が飾られていたのですが、百合が沢山ある部屋では、本当に香りがきつくて。
写真を撮ってはいけない所なので、観光用の写真を。
馬車道をずっと登っていくとここが見えます。
戦前は東京ドーム分程の敷地の中に20棟建ってたというので、宿泊施設、パーティ施設として使用されていたんですね。
「ごきげんよう」という言葉が聞こえてきそうな。
どの部屋にも暖炉があり、セントラルヒーティングになっています。
昔の洋館は「寒さ対策」が必要で、炭を入れる使用人も大変でしたね。
その使用人の部屋は地下。地下から3階までこっそり行ける階段とか、ビリヤード場へ行ける地下通路などもあります。
こういう階段大好き。
ここがビリヤード場です。
和館は実際に生活の場として使用されていたようです。
抹茶と練り切りを食べて満足。
実は明治神宮やら、今回やらで歩きすぎたのか、腰を痛めちゃって。
連休明けに仕事に行けるかな。
でも、楽しいです。
老後は美術館巡りしたいとか思ってたけど、それはなかなか無理かなあ。
やっぱり75歳まで待たないとダメなんですかね。
祝!プリンセス・シャーロットが9歳になりました
おめでとうございます
ダイアナそっくりと言われますが私はエリザベス女王にそっくりだと思います。
よき妹、よき姉。将来、アン王女のようになる事は確かで。
今もクモが好きかしら?昆虫の話なら悠仁殿下と合いそうですよね。
本当に可愛い。もう9歳ですか。時が経つのは早いですね。
ウインザー家は男より女性がしっかり者。頑張れ!
宮内庁が大量の潰瘍性大腸炎の薬を買っていた。
インフリキマシブという薬らしい。
購入したのは宮内庁病院ですから、別に問題ないのでは?
大量に購入したからって何で皇族が使うと思うんでしょうね。
今や皇族は宮内庁病院以外、東大病院などで診察を受ける方が多いですから。
で、なぜ紀子様とマスコミは思うのか。
上皇夫妻や天皇家は健康状態を秘密にはしない
でも秋篠宮家は秘密が多い
と、言いたいらしいのですが。
私は天皇家こそあやしいと思います。
なぜなら、「前科」ありです。
天皇が胃にポリープが出来て東大病院で手術した時、きちんと健康診断を受けていなかった事が判明。しかも夫婦そろって何年も。
上皇から注意があったのか、その後、何回かは健診を受けたと見えますが、天皇陛下の顔色の悪さや皇后陛下の太り具合からして、きちんと診察を受けているのか?と思います。
さらに、天皇陛下には「人工肛門装着説」があり、スーツを履いた時に、左側の膝だけおかしな膨らみ方をしている事は事実。
もし、本当に体調の不調があるとすればそれは天皇陛下しかいないと思います。
どこかへ行く度に「お立ちより」がやたら多いのは天皇で、もしかすると宿泊を伴う公務が無理なのは天皇の方じゃないのか?と。
紀子様が仮に潰瘍性大腸炎の薬を飲む程悪かったら、もっと痩せてますって。
あっちこっち公務なんかしてられませんから。
我が家のジュニアも20歳の頃に、潰瘍性大腸炎疑いになった事があります。
結果的には入院して治ったんですけど、本復したのが退院後、1ヶ月。
恐ろしく体重が減りますし、腹痛もひどくて。
紀子様みたいに1回や2回公務を休むぐらいでは済まないんですよ。
年齢と共に胃腸も弱るし、心が苦しいと病状に出る。でもそれ=潰瘍性大腸炎と決めつけるのはおかしい。
むしろ、若い頃からアルコールを飲み続け、健康診断も受けず、完全メタボになっている天皇皇后の方がよほど不健康と言わざるを得ません。
それにしても、誰が「宮内庁が薬を大量購入した」とマスコミに売ったのでしょう?
情報提供者は誰?
いずれにせよ、守秘義務違反では?
平日なのに日赤はお休みなのかな?
天皇一家は御料牧場へ。
どうしても皇后が真ん中。それにしても徳仁さん。髪が白くなって。
そろそろ孫が欲しいんじゃありませんか?
早く愛子内親王に降嫁して頂いて、お孫さんを抱かないとね。
結局、このお三方は服装が違えども、毎年同じ時に同じ場所へ行って同じ笑顔で笑う。常に慣れた行動しか出来ない人達なんですよね。
3人が散策している姿も毎年同じ。
で、「サイクリングも」と愛子内親王が言ってましたけど、毎年サイクリングかあ。
秋篠宮家には絶対に使わせない。御用邸も。
皇嗣家なのだから本来は、どの御用邸も使っていい筈なのに。
本当に意地悪だなあと思う今日このごろ。
そうは言っても、行動に一つも「進化」がない。
ただ毎年1歳歳をとっていくだけなんですよね~~~研究も学習もない。
野菜の収穫、たけのこ取り、牛にミルク、サイクリング・・・・
どんな写真が出て来るやら。
マスコミはこぞって5月1日を祝うけれど、果たして祝う価値があるか?
この5年の「災い」が全て天皇皇后に責任があるとは言えない。
科学的に言えば馬鹿な話です。
しかしながら、あの二人にはそう思わせる雰囲気と行動があると言う事。
平成が始まった時も、天皇皇后が調子に乗って外遊ばかりしたり、舞踏会で踊ったりとブルジョア臭をまき散らし、結果的に美智子皇后に不満を抱いていた宮内庁からの突き上げが怒った。
でも令和は、不満さえ閉じ込める程の「独裁政権」が皇室内で起こっている。
誰の?雅子皇后。いえ、影の天皇・雅子である。
令和元年5月1日。この日から。
皇室の伝統をさらに破壊、左翼の言いなり、愛子天皇を企む、世界から歓迎されない天皇皇后になってしまいました。
令和元年の出来事
京アニ事件
東日本で台風被害
首里城消失
そんな中、
恐ろしい台風の中で行われた即位の礼。
パレードで泣く皇后。さらに化粧直しもばっちり撮影されました。
御所に到着してもなかなか降りずにしゃべくりまくっているので、秋篠宮殿下が先に降りる事に。
何よりも、後の世を感じさせる出来事がありました。
それが「国民祭典」における「謎の天皇陛下万歳」事件
伊吹文明氏が「天皇陛下万歳」を言ったあと、どこからともなく「天の陛下万歳皇后陛下万歳」の声が・・・・最初は応じていた国民が、次第に「怖い」と言い出す。
伊吹氏も全然予定と違う事に驚きを隠せず。
誰が、何のためにこのようなアナウンスを流したのか。延々と。
「万歳」という言葉は中国由来と思われます。
要は「万年も続きますように」という意味で、基本、皇帝にしか使わない言葉です。
日本では天皇にしか使ってはいけない言葉です。
じゃあ、皇后には何と?
それは「千歳」(せんざい)です。皇后はあくまで皇帝より格下ですから、同列に語ってはいけないのです。
しかし、ここで「皇后陛下万歳」とはっきり言ってますね。
由来を知らずに言ってるなら馬鹿というか、どこかの宗教団体かと思うし、由来を知りつつ言ってるのであれば、やっぱりそこにどこかの宗教団体と小和田家が背景に見えるのです。
はっきり言って、本当に不気味でありえないセリフでした。
何というか、個人的に「日本は変わる」と思いました。
翌年から新型コロナが流行。日本人は「スペイン風邪」以来の疫病に取りつかれた。
世界的に。
安倍総理は病気悪化で退陣を余儀なくされ、後に暗殺。
首相が暗殺されるなんて、歴史教科書でしか知らない事。なのに、きちんとした捜査も行われず、国葬には左翼が大騒ぎ。
ジャニーズ事務所には法則発動して今や形が代わり、そこに韓流が占拠している。
いち早く防護服を手作りし、オンラインで公務を始めた秋篠宮家に対し、天皇皇后は赤坂御所に引きこもり、愛子内親王は4年間大学にいかず。
今や、日本は円安が進み過ぎて不況の真っただ中。
日本は中国や韓国よりもひどい国になっている事に多くの日本人は気づいていません。
続々入って来る中国人に土地を取られ、帰化され、留学生が恩恵を受け、日本人は肩身の狭い思いをする日々です。
LGBTなどという思想が声高に言われ、女性達は「女性蔑視」より嫌な思いをする羽目になっています。
この動きは世界的にそうで、未だ日本は平和とか言ってるお花畑さん達はいい加減目を覚まさないと隣の中国人に殺される日が来るかもしれません。
なんせニセコは中国に支配され「日本人お断り」になっている。
GWこそ、観光地である北海道のこの問題を取り上げるべきなのに、全く無視。
無視無視無視です。
とにかく令和になってから、外国勢力による「内側からの侵略」が始まってしまいました。
本当に恐ろしい。こんな時代でも「イギリスへ行く」という天皇皇后を受け入れるわけにはいかないじゃないですか?
天皇とは、国家安泰を祈る存在であるのにその姿勢を全く見る事のない5年間でした。
もうX始め色々なブログで拡散されているので、今更な話題ですが、改めて「ふぶきの部屋」風にお知らせしますね。
2023年6月18日 悠仁親王は山形県の出羽三山をお参りした
この神社の開祖は「蜂子皇子」という人で崇峻天皇の皇子
殿下はご自分で歴史を調べ予定をたて、6月18日(その日は祭礼の日)に恐ろしく困難な山を登り、神社にお参りした
宮司の話「悠仁親王が参拝されると急に雲が現れ、風が吹き雨が降りだした。このような事は70年生きていて初めてのこと。恐らく風神雷神八百万の神々が悠仁親王を歓迎したものと思われる。
宮内庁の日程にはなく、お忍び中のお忍び行動。
崇峻天皇って誰?
天皇になる前の名前は泊瀬部皇子。
この頃、敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇となります。
敏達天皇と推古天皇は夫婦で、二人には竹田皇子がいました。が、蘇我・物部戦争で負傷し死去。
用明天皇は2年程で病気で亡くなりました。長男である聖徳太子はまだ10代。
・天皇にふさわしいと言われる年齢は30歳すぎ
なので聖徳太子では若すぎる。
用明天皇には弟が何人かいましたが、そこで生き残り、蘇我氏を母とする崇峻天皇が擁立されました。
しかし、崇峻天皇と蘇我馬子は対立していきます。
一番それがわかるのは、彼の正式な妃に蘇我氏が入っていない事です。
蘇我馬子は正室との娘を聖徳太子と結婚させ、側室の娘を崇峻に嫁がせました。
で、崇峻が後ろ盾としたのが大伴糠手で蘇我氏でなかった事もわだかまりの原因。
ある日、イノシシが献上され、崇峻は「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と言ってしまい、それが馬子に伝わって「イノシシは自分の事」と思った馬子は崇峻天皇を暗殺したのです。
結局、蘇我腹の有力な皇子がいなかったため、推古天皇を立てて「中継ぎ」としました。
蜂子皇子って誰?
伝承として「崇峻天皇の3男」となってますけど、「日出ずる処の天子」では、初めての子のような扱いでしたね。
大伴小手子から生まれ、ゆくゆくは大伴氏を母に持つ天皇誕生という所で、蘇我氏からすると危機感があったのだと思います。
崇峻天皇暗殺時、聖徳太子がこの蜂子皇子を助け京都から船で日本海を渡って山形まで行き着いた・・という話は、東北出身の私も聞いた事がありません。
聖徳太子は、歴史上「暗殺」された唯一の天皇に対する思いがあったと同時に、蘇我氏への怒りを感じたのでしょうね。
ゆえに従兄弟の蜂子皇子を助けたと思います。
蜂子皇子は山形で出羽三山の開祖となり、人々から信仰を集めました。
顔が怖いのは人々の悩みや苦しみを聞いたのでこのような顔になったと伝承。
いやいや、「処天」に出てきたちょい役皇子が実は東北ゆかりの方とは驚きました。
そういえば、悠仁親王が生まれた時、出羽三山に龍雲が出たと話題になりました。
ですから、ご自分で「蜂子皇子」に興味をお持ちになり、自ら調べその地へ行かれたというのは、まるで導かれたかのように思われます。
悠仁殿下といえば理系を想像しますが、このように歴史も大変造詣が深く、またご自分で探求していこうというお気持ちがある。つまりこれが「帝王学」であるという事ですね。
(死ぬ前に一度行ってみたい)
そして悠仁親王参拝の折の八百万の神々の祝福が心に刺さります。
こういう感覚ってわかる人しかわからないというか。ほんの気づきなんですが。
明治神宮へ行った時に、本殿にさわやかな風が風が吹き渡り「ああ、神様がいる」と私は思いました。また、清正の井戸への道々は人が沢山歩いているのに、なぜか静でそこに自然界の偉大さを感じました。
そういう「天候」を感じたのは昭和天皇の大葬の礼の時です。
あの日は、朝から雪が降ってそれが幻想的で、日本中が悲しみを感じていた。
明治神宮ミュージアムで見た明治天皇大葬の礼の車列の模型。
私は高校の時に図書室にあった「大葬の礼の写真帖」を何度も見ました。
車列が何ページにも渡って写真になってて。正直、その時は退屈でそこは見飛ばし、
大正天皇、貞明皇后や昭憲皇太后の写真ばかり見てたんですけど、日本における天皇の「大葬」もやっぱり伝統行事であり、簡単に「簡略すべきものではない」と私は思っています。
あの模型が目の前で繰り広げられたら、どこの国の人だって「荘厳」としか言いようがないだろうと思うので。ゆえに私は上皇陛下の「大葬の礼はしないで」には反対です。
で、昭和天皇の大葬の時にテレビでそれを見る事が出来、やはり荘厳さを感じました。
ではなぜ悠仁親王は蜂子皇子に興味を持ったのでしょうか。
私は単純に「名前」だと思います。
「蜂子皇子」は「はちのこのおうじ」とも読みます。つまり蜂の幼虫ですね。
何でこんな名前を付けたのだろう。
私も「処天」で変な名前と思った口で。
っていうか、古代の皇族・豪族の名前は現代では理解しがたい名前が多々あります。
よく子供が「小野妹子」は男なのに「子」がついていると言って笑いますが、「子」という文字は中国では非常に身分が高い、あるいは「学識」が高い名前です。
中国では「子」を「ズ」と発音し、名前の上に持って来ます。「子○」って。
馬子も同様ですね。舒明天皇以降、皇子皇女の名は生まれた地名や乳母の氏由来になっていきますが、この時代は恐らくですが
子を入れる
蜂や馬、貴重なものの漢字を入れる
唐とか漢とか、ちょっと外国人っぽい名前をつける
漢字の意味より音を重視する
地名を羅列した名前
があったのかなと思っています。
例えば聖徳太子は「厩戸皇子」ですが、当時の漢字の意味と今の漢字の意味では違っているかもしれないし、もしかすると発音が違うのかもしれないと感じます。
さらに「桜井皇子」「桜井弓張皇子」「星河女王」とか、非常にロマンチックな名前もあります。
また聖徳太子の子の名前で「馬屋古女王」という姫がいますが、これは「古」は「子」に繋がり、「馬屋」は「厩戸」に繋がるのではないかと思います。
要するに末っ子で最も愛された姫だったんじゃないかな。(漫画では恐ろしい姫ですが)
そんな想像をすると楽しいのですが、なんせ学者じゃないので論文にするわけにもいかず。
だから「蜂子皇子」は「蜂」という蜜もとれれば針もある強くて魅力的な昆虫のような強く生きてという願いがあったと。
ちなみに蜂子皇子の妹に「錦代皇女」という方がいて、これこそ皇女にふさわしい名前ですね。小手子と錦代皇女もまた聖徳太子に助けられて福島県まで逃れたのですが、皇女は途中で亡くなり、結果的に母と息子の再会はなかったようです。
悠仁親王のおかげで私達はものすごい歴史を知る事が出来ました。
北関東や東北というのは、なかなかこのような伝承が大げさに語られる事がない土地です。なぜなら「隠れ里」の意味もあり、大っぴらにすれば殺される危険性があったからでしょう。
でも今は21世紀ですから、このような東北と皇族の関りをもっともっと広めてもいいのではないかと思います。