Research Topics Blog

研究内容とはあまり関係ないけど研究に関するトピックス

トラブル

2008年06月16日 | Weblog
私の研究の仕事は、森林のなかにいろいろな計測器を置いて気象や生物活動についてのデータをとることが根幹となっています。特殊な計測器を使った特殊な観測は、大抵最初は思い通りには行かず、トラブルが続出します。それに森林の中でいろんな計測器をずっと置きっ放しにして測り続けていると、当然予想されることですが、いろんなものが次々に壊れます。
実は私は、計測システムが言うことをきかなかったり、測器が次々壊れたりするのが、そんなにキライではありません。いや、これはやっぱり語弊があるか。うまくいかなかったり壊れたりするのはそれはまぁいやですが、うまくいってないシステムを工夫して測定可能な状態にしたり、壊れたのをどこが壊れたか究明して対処しあるべき状態に戻したりする作業が、つまりフィールド観測でのトラブルに対処することが、結構(かなり)好きです。
女性ですから、もともと機械に強いほうでもなく、研究をはじめたときには、こういう装置をこれからちゃんと使っていけるのかが、一番の不安で自信がなかったことです。困ったときには誰かの助けを借りなければ絶対にダメだ><と思い込んでいました。けれどもそれも17年前の話。以後何度も何度もいろんなトラブルに直面し、助けてくれる人も誰もいないまま、経験を積んだ今では、自分でいうのもなんですが、踏んだ場数の多さ、トラブルに対する耐久力、トラブルとその対処法をかぎ分ける勘のよさは、同業者のなかでも結構いい線いってるのではないかと思います。
実際、フィールドでもトラブル発生時の緊張感、分析、対処、そしてうまくいったとき達成感とちょっとした快感といったら、大きなトラブルも、小さなトラブルも、アポロ13号のミニ版のようです。そして、研究という仕事の、本来の大目的をも忘れてしまうほど、私にたしかな手ごたえを感じさせてくれます。
そしてそんな私の目は、論文の数ではなく、研究界での知名度でもなく、しゃべりのうまさでもなく、着想のよさでもなく、人をどのようにうまく使うかでもなく、「観測」という現場で百戦錬磨の腕をもつ研究者をこそ、一目置くべき尊敬すべき存在として認識してしまいます。
たぶん、一番苦手に思えたことが、努力により結構苦手でなくなってきたことが、私にこんなことでひみつの喜びを感じさせるのでしょうか。

けど、あんまりトラブルが楽しいなどと仲間に言うのは気が引けるので、普段はだまって楽しんでいる次第です。

カトレア

2008年06月16日 | Weblog
カトレアはCAM植物らしい。CAM植物とはどんなやつなのか、ちょっとお近づきになりたいと思って、最近ミニカトレアを何鉢か研究室で育てている。
CAM植物は夜に気孔を開き、CO2を取り込みC4回路によってCO2を蓄えておき、昼には気孔を閉じてC3光合成を行う植物である。・・・と教科書にはあるが、実際どんな挙動をしているのか、自分で測ってみないことにはやっぱり納得できないし。
とりあえず窓辺においておいたら、葉が赤くなってきた。すわ、これは光阻害回避システムのひとつ、赤色色素への変換では。バルブがしぼんでいる株では葉が赤くなり、元気そうな株では葉は赤変しない。根はりによる吸水能力の違いがありそうな感じ。マレーシアにいってる間窓際に一週間ほっておいたら、帰ってきたら元気だった株もバルブがちょっとしぼんで葉が赤変していた。すごーい。
もうちょっとほっておいたらどうなるか見てみたい気もするけど、早速枯れるのも悲しいので水をあげてみた。
・・・まぁこんなことは仕事にも研究にもならないただの趣味にはちがいないけどね。はやく花茎でてこないかな・・。


ポケモンと多様性

2006年12月18日 | Weblog
しばらく前に、DSliteを手に入れました。DSliteといっても、脳年齢とか漢字検定とか、あまり自分向上のためには使っておりません。遊んでいるソフトは、もっぱら、「ポケモン不思議のダンジョン青の救助隊」です。

厚さ4cmくらいある攻略本に、同じくらいの厚みの「ポケモン図鑑」も手にいれてしまいました。ポケモン図鑑にのっているポケモンの種類は386種類です。すごいです。386種類もいるのですよ、ポケモンが。

このことを知って、まっさきに頭をよぎったのは、「仕事をしているマレーシア熱帯雨林に存在する樹木の種類数が「400種以上」というのと、似てる・・・。」ということです。

ポケモンも熱帯雨林も、なんかいっぱい種類いるな、といってしまえばそれまでですが、多様性というものは、その姿にもうすこし深く触れてみたときに、真髄をあらわすもののように思います。

小学校に400人の生徒がいるとします。外から見ている分にはただの「小学生400人」です。「ガキ400人」とも言えるかもしれません。ごちゃっとうるさいだけの存在です。けれどもひとたび、ひとりづつ知り合う機会を得たとしたら、ひとりとして同じ存在がいない、それぞれかけがいのない、面白い、愛すべき存在であることがわかるでしょう。多様であることの大事さ、かけがえのなさは、そのとき初めて、納得されるはずです。こどもが、ものいわぬ樹木だったとしても、やはり多様であること、その在りようは、同様に大事ではないでしょうか。

ある会議で、「熱帯林の多様性が、なぜ大事なのか説明せよ」というお題で話し合いがもたれたことがあるのですが、なぜ大事か、このことを「薬の資源」とかいろいろ効能について理由をならべなければ一般の人々に理解されないと考える人は、小学生400人も同じような目でしかみたことがないのであろう、と思うのですが、「なぜ大事か」うまく言葉で説明することができず、残念でした。

ちなみに「ポケモン不思議のダンジョン青の救助隊」は途中で一回エンディングがあり、その後は自由にいろんな友達とチームを組んでいろんな場所を探検してまた新しいポケモンを仲間にする、という設定で、ポケモンが386種もあちこちに住んでいるので事実上エンドレスのゲームとなっています。386匹のポケモンと友達になるのが最終目標ですが、私はひとたびあるポケモンと仲良くなると、そいつと一緒にずっと行動することが多く、なかなか同時にたくさんのポケモンと知り合い仲良くするのは難しいです。途中のエンディングでは、ずっと一緒に行動してきたポケモンと別れのシーンになり、なみだがぽろぽろこぼれてしまいました。人間界での暮らしと同じような不器用さを発揮してしまっています。
熱帯雨林も、多様な植物をほんとうにたくさん知ることは難しく、10種くらいガス交換を測ったのが最高記録で、今はほとんど一種に集中しているような状況です。多様性と向き合うのは、なかなか難しいことです。


ある論文その後

2006年12月17日 | Weblog
「ある論文が学会誌に掲載されるまで」という話を6月頃に書きましたが、その後どうなったか、時間がなくてつづきを更新していません。その後どうなっているか、ここにすこし記しておきます。

9月になって、AGFMから、オーソドックスな解析しかなくて意義がわからん、とのことで、大幅に直すようにとの回答。自分としては、この論文の意義は、なにか目新しい解析技でデータを目くらましする前に、一度データをそのままの姿できっちりとみてみようよ、そうすることで、これまでみんな極力目を伏せてきたけれどやっぱり見逃すことのできないある事実が浮かび上がってくるよ、その後のいろいろな解析に進むためにはやっぱりこれになんとか現実的に対処していかないとだめだよ、という意味を持たせたい論文だったので、その旨、反論書を提出しました。それから、やはりもう一本のセットの論文と一緒でないとこの論文の意義は十分理解されないから、そちらとセットでJHに出しなおしたいとも思うので意見をくれ、とのコメントもつけました。
もう一度査読者にまわします、とのこと。それから、10月になっても、返事はきません。11月になっても返事はきません。12月になり、JHのin printで待ってもらっているもう一本の論文の掲載をすすめたいとの旨elseviaより何度目かの打診あり。

12月にはいって、AGFMを取り下げて、もういちどJHに出しなおしました。

もうずいぶん前から、この論文について、どうしたらよいかわからなくなっています。ほかの、もっとよい方法があるのかもしれませんが、自分は、その場その場で自分にできる限りの力と判断で、善処をしてきました。

自分の望み、この2本の論文を自分の思い描く形で完成させて、フラックス界にこの問題を問いたい、という気持ちに、やはりかわりはないと思います。

まぁそのうちどこかには掲載されるでしょうから、その節は、ご一読いただければとてもうれしいです。

クリーン大作戦

2006年12月11日 | Weblog
わが大学の農学研究科には、クリーン作戦なるものが存在します。

枯葉の落ちるシーズン、雑草の増えるシーズンに、構内周辺の草取りや落ち葉掃除をする、掃除イベントのことで、7,8年前から事務の主導のもと、トツジョ始まった行事です。この動員力たるや、徹底したもので、農学研究科のすべての研究室の先生も学生も事務員もすべて動員されて、掃除をします。

アスファルトの上のごみや落ち葉を掃除することには、それなりの意義があろうかとおもいますが、クリーン大作戦は、違います。動員数の8割がたは、中庭や植え込みの土の部分の有機物をひたすら集めてゴミ袋につめる作業をしているのです。

庭の雑草を掃除し落ち葉を片付け公共スペースを掃き清める習慣は、京都ではあまねく一般のひとびとに行き渡っており、クリーン作戦もそのような習慣の上に始まった行事だと思いますが、農学研究科ともあろうものが、土の上の有機物を集めてゴミ袋につめて燃えるごみに出すとは、いかなる了見でしょうか。

だれも、本気でこの行事と闘うのが面倒なのか、なにも疑問を抱かないのか、異を唱える人はいないようです。かくいう私も闘うのはめんどくさいので、その場しのぎでてきとーにアスファルトの上の落ち葉をはいて、さささっと片隅の土の上に寄せてそのままにしてみたり、小声でこそこそ文句をいいながらいいかげんにしか働かなかったりしつつ、7年も8年も過ごしてしまっています。すみません。

そのうち構内の木が栄養不足で弱りだして、枯れたら、京大農学部職員は全員アホ、ということになりますな。アホの仲間入りしたくないので何とかしたいと思いつつも、義理人情が絡み、面倒くさく、なかなか難しい仕儀です。

こんなとき、敢然と異を唱えたりすると、「おこりっぽい変人で社会性ゼロ」のレッテルを貼られるのでしょうね。

クリーン作戦が終わったあと、落ち葉入りのビニール袋が山と詰まれた姿を見ると、農学部全員を数時間動員して協力しあって集めたそのビニール袋が、燃えるごみになってCO2になってお空にのぼっていくのだなぁ、と考えて、とてもとてもやるせない気持になります。どんなに立派な研究をしていても、身の回りでその理念を実現できないとは、環境学者として、やっぱりいかがなものでしょうね。トホホ・・。



金魚水槽その後

2006年12月11日 | Weblog
クロはその後行方不明になってしまいました。うちではネコも飼ってないのに、どうしたことでしょう。ネコのような男の子は一人いますが、無実を主張しています。部屋を空けているときにジャンプで脱走したけれど、庭のどこかで死んだのかもしれません。けれどもそのうち家の中で白骨死体で発見されたら、結構恐怖体験だな・・、とひそかにびくびくしています。
結局、大きいほうのコアカが一匹残りました。いまや育ちすぎたアクアプランツと藻でへどろ沼のようになった、半年以上水を替えていない水槽で、えさなしで、壁に張り付いた藻をうれしそうにぺろぺろ食べながら、健在で、だんだん大きくなっています。そろそろ掃除したほうがいいのかもしれませんが、これはこれで、バランスしているのかもしれません。

人づての話

2006年12月09日 | Weblog
ごく最近、ある学会をサボりました。なぜいかなかったか理由をいえと言われたら、なかなか複雑な心境をどう整理して自分の気持ちとして語ればよいのか、まぁ難しいです。相手によっていろいろな風に語ってしまうかもしれない、どうも整理のつかない気持ちの動きにより、サボりました。

直前にある方より、「参加されないそうですね。いや、事情は(ある人より)きいてます。たいへんですね。」と言われました。私は、いったいどんな事情によりその学会に参加してないことになっているのでしょうか。不安です・・。
とりあえずだれにも、建前であれ本音であれ、不参加の理由や事情を口にした覚えがないのですが。

ずっと以前に、大学院入試を受けたときに、今の研究室を選んだ理由として私が、「この研究室だと早く博士号を取れるからだ」とある人に言ったという話が、世の中に流布していたことがありました。私はそんなことを言った覚えはまったくありませんし、そういうふうな発想も自分のなかにあまりないので気付かずにそれと似たようなことを口にしてもいないと思うのですが・・。なにかのまったく意図の違う発言をその人が取り違えて上記のように理解したのかもしれません。よくわかりません。

私が思うに、これらは、それを語った人々の想像の中の私の姿なんだろうと思います。私はなにも言っていません。ひとはひとのことを想像するとき、どうしても「自分だったらどう思うか」という尺度ではかりがちですから、他人の口から語られる私は、ほんとうの私ではなく、むしろこれを語った人々の思考パターンを表しているに過ぎないようです。


人づての話を、けっしてうのみにしてはいけません。


あずきあらい

2006年12月07日 | Weblog
あずきあらいは小豆を洗う妖怪です。

「ゲゲゲの鬼太郎」では、純粋にあずきを洗うのが好きな妖怪、として登場します。人間の社長がかれをお饅頭やさん?で働くように斡旋します。そのお饅頭やさんは珍しい妖怪を看板にして大繁盛するようになり、もっとどんどん小豆を洗えとこき使われいいように看板にされ見世物にされて、あずきあらいはひどい目にあうのですが、それでもあずきあらいは、小豆を洗うのが好きだから、といって、黙々と働き続けます。けれどもいつしか、あずきを洗うことも楽しくなくなってきます。最後の最後に、「怒れ、あずきあらい!」といわれて、立ち上がり、そして自由をとりもどし、また楽しく小豆を洗えるようになる、という話です。

「おまえはあずきをあらうことだけ考えていればいいんだ。あとはおれがいいようにしてやる。」饅頭屋の社長は言います。

研究者は、あずきあらいです。
あずきあらいがあずきを洗いつづけたように、研究者は研究社会の納得のいかないことにいちいち目くじらをたてたりせず、自分がよい研究をすることを大事に考えて暮らしていくのが正解なのでしょうか。けっきょく、どんなふうにあずきを洗ったかが大事なのだから。

でもあずきあらいは妖怪です。妖怪は、自由で、独立していてこそ、もっとも妖怪らしく在ることができる。研究者も、自由で、独立していてこそ、もっともよい仕事ができて、ほんとうの共同もありえると、私は思います。

研究社会はあずきあらいばっかりで成り立っていてもよさそうなものですが、不思議なことに妖怪あずきあらいだけでなく、ふつうの人間(饅頭屋の社長)もたくさんいます。とくに日本の研究界には多いようです。ものわかりのよいたちのよい饅頭屋の社長もいるし、あずきあらいと意気投合している饅頭屋の社長もいるし、いろいろです。よっぽどであれば、あずきあらいは自由を取り戻す必要があるけれど、よい社長なら、まぁ雇われていても、よいのでしょうか。妖怪の身であずきを調達するのはなかなか大変ですし、饅頭屋には洗えるあずきがいっぱいあるのは事実ですから。
よくわかりません。

妖怪か、妖怪でないかの区別は簡単です。あずきを与えられたら自然とあらいだしてしまうのが、あずきあらいです。あずきを洗わず、饅頭屋を宣伝したりあずきを調達したりあずきあらいを集めて掌握することのほうが好きな人は、もう妖怪ではなく人間です。

私の望みは、あずきあらいでいることです。そしておなじ妖怪の仲間をみつけ一緒にたのしくあずきを洗うことです。
望みは、日々、かなっているともいえます。
きょうも、何人か、べつのあずきあらいが妖怪の姿をかいまみせたのに遭遇しました。

ゴジラ

2006年11月24日 | Weblog
先日、ゴジラ対モスラ&キングギドラというのをみました。

私はゴジラシリーズがけっこうすきです。
とくに別の怪獣(地球内?生物)とたたかうやつが、面白いです。
ゴジラとはなにもので、何を考えて暮らしているのか、モスラとはなにもので、何を考えて暮らしているのか、キングギドラとは、ガメラとは、なにもので、何を考えて暮らしているのかを、知りたいです。ガメラはギャオスが嫌いなだけかとか、ゴジラは結構なにも考えとらんとか、でもやっぱり子供は大事なんだとか、モスラはかなり賢く神に近いとか、いろいろわかってくるのが、けっこう楽しいです。
メカゴジラとか非生物的なやつはあまりこのみではありません。なにを考えているのか、想像できないので。

やつらは基本的に暴れるだけですので、何を考えているというでもないのですが、製作者が、そこになにかの意味を持たせようとする。それも興味深いですし、まぁ自分で勝手に、いろいろ想像するのも、想像が広がって、興味深いです。ゴジラはとても神話的な世界で、生物とはなにか、神とはなにか、そういったことにおもいを至らせるところがあるように思います。

ゴジラやキングギドラが何者かなんて、何の意味もないといえばまぁそうですが、私は興味があります。

ちょっと語弊があるかもしれませんが、自分にとっての研究も、根本的には同じことのような気もします。

ある人からきいた挙動不審な土壌呼吸の日変化の話で、ある場所で土壌呼吸を測ると、夜に大きく昼に小さくなるそうです。普通土壌呼吸はほとんど日変化しないか、あるいは昼に高温になるため若干大きくなるモノですので、これはすごい気になる話です。小動物?アリ?アリが朝になると働きに出かけるのでしょうか?それとももしかして測器の都合(チャンバーのリークとか)かもしれません。アリならどれくらいのアリが何を考えてどのような挙動をしたらそれくらいの日変化を説明できるのでしょうか。自分が仕事をしている熱帯雨林のNEPがいったい何トンかというのもそれは気になりますが、この話もそれと同等クラスです。

学会

2006年11月21日 | Weblog
最近、学会に行っていません。
生態学会を3年目サボろうとしています。林学会を3年目サボろうとしています。水水学会を3年サボりました。緑化工学会を2年サボりました。国際学会のお誘いを3回くらいサボりました。
理由はあります。小さい子がいるので、身動きがとれません。以前連れて行ったことも何度かありましたが、自分の発表の時間を確保するのが精一杯で、ほとんどなにも見聞きできない状態です。
それでも、なんとかしようと思えばなんとかできることは、事実です。自分でも認めるところですが、これはあきらかにサボりです。というか、重度の引きこもりです。

引きこもりの数年で、論文はいくつか完成させることができました。子供にもそれほどさびしい想いをさせずにすんでいる、と思います。野外調査にでる時間だけは最低限確保してきましたが、いつも「最低限」の時間内に目いっぱいのスケジュールで、これに付き合う共同研究者の人たちにはすまないことをしている気がします。

限られた時間、限られた力で、なにかをとるためには、なにかを捨てなければなりません。捨てているものも大きいけれども、まぁ自分はこれでいっぱいいっぱいだし、納得なのだ、と思うときもあり、ほんとうにこれでよいのか、と思うときもあり、日々過ぎていきます。捨てているものの大きさ・ひずみも日々膨らんでいくように思います。コミニュケーション不足で、悲しい気持ちになることも、多いです。

そんなとき、心の支えは、近藤純正先生の言葉です。「きちんと自分の研究をするために、学会は年3回までにしなさい。」と。年2、3回くらいは、行ったほうがいいということかもしれませんけど。

しっかりものは損をするか?

2006年11月21日 | Weblog
よく言うことに、お年寄りとかで、「もう死ぬ、もうだめ」とかいう人にかぎって結構長生きで、黙々とがんばっている人が早死にする、とか。

私のおばあちゃんも、けっこう手のかかるおじいちゃんの世話と気疲れから、癌を患い亡くなってしまいました。おばあちゃんはそんなになっても、よい薬をというので周りが用意した健康食品も元気なおじいちゃんにあげる始末。亡くなる数日前におすしが食べたいというので病院に持っていったお寿司は病室の人たちにほとんどあげてしまっていました。
で、しっかりものは、やっぱり損をするのかなぁ、というのが、最近結構気になるテーマです。
では「損」とはなにをいうのか、「得」とはなにをいうのか、だれが「しっかりもの」でだれは「しっかりものではない」のか、その辺は難しいところで、もしかして世の中では結構たくさんの人が、「自分はしっかりもので、損をしていることが多いような気がする・・。」と、思ってるのかも知れません。こういう風に考えることはあまりよいことではないのかも知れないと思い、自分の中でテーマを変えてみることにしました。
「人は、あることでがんばったときに、がんばらなかったときと比べて、損をするか。」または、「人は、あることで親切心から他人のために(まわりのために)尽力したら、しなかったときと比べて、損をするか。」
損をしたかどうかの答えは、自分の中にしかないのかもしれません。
人は大抵、人に親切にしたり、がんばったりしたとき、感謝されようとか、がんばったことを他人に認められたいと思ってがんばるわけではなく、自然な気持のままに親切心をおこし、またがんばる気持をおこすものではないかと思います。人には、自分に恵まれている力をまわりのために、あるいはなにかよいことのために使おうとする「善の気持ち」がある。そして世のなかには、たぶん「より多く与える」人と「より多く与えられる人」がいる。「与える者」は自分に力の余っているうちは惜しみなく他人に与えて「損をした」という気持ちを生じません。けれども、ぎりぎりまで与えてしまって倒れようとしているときに、誰もそれを助ける人がいない。そういう状況で、陽の気持ちが強ければ強いほど、同じだけの陰の気持ちを生じる。これが「しっかりものは損をする」の構造なのかもしれません。
私がずっとわからないでいることは、しっかりものは、そのようにならないためには、どうするべきだったのか、ということです。ぎりぎりまで力を使うべきではなかったのでしょうか。
線路におちた酔っ払いを、助けようとして亡くなる人がいます。
いじめられている人を助けようとして、自分も集団のなかに居場所を失う人がいます。
遭難した人を助けようとして二次遭難する人がいます。
暴漢から人を助けようとして怪我をする人がいます。
病人の看病に疲れて倒れる人がいます。
どこだったかの土砂崩れの現場で、列車に乗り合わせた母子のドキュメンタリーを見ましたが、おかあさんはあかちゃんのためになにか防寒具を貸してくださいと頼んだけれども、誰も貸してはくれなかったと。そのうち誰かがスーパーのビニール袋を取り出しくれて、それで助かったという話をききましたが、自分も倒れるかもしれないときに、弱いものに防寒具を貸すのか、貸さないのか。誰を弱いと判断し誰を強いと判断するのか。

ぎりぎりのときには、どういう選択をするべきだったのでしょうか。

たぶん一生分からないことかもしれません。
とりあえず、鍛えるとか、体力をつけるとか、そういうことなのかな、と思っています。力さえあれば、線路に落ちた人を助けて自分も助かることができるし、防寒具を人に差し出しても大丈夫。鬼とならず全き自分でいることができます。けれども、小さいころ体力がなく、鉄棒も跳び箱も球技もまったくダメダメで走るのも遅く、よくいるクラスでいちばんへちょい運動おんちの女の子だった自分には、これくらいが限界というラインが、たえずかなり低レベルに存在し、そのことが自分を苦しめます。明るいほうの自分は、経験を積めば、テクニックで体力をカバーすることができるのかも?、とも考えていて、自分のなかでの現実的な突破口はその一点にあります。
もうひとつ思うことは、同じ気持ちの人がそばにいれば、それだけで「ぎりぎり」のラインが遠のき、まだまだがんばれる自分を発見することができる、ということです。線路に落ちた人を助けようとして線路に飛び込んだ。別の人が一緒に飛び込んだ。そのときはふたりで死んだとしても本望かも知れません。

そのほかには、突破口を思いつきません。
やはり、しっかりものはあまり人から大事には思われないように、思います。
まぁ、よいか。


スターウォーズだったんだけど。。。

2006年09月05日 | Weblog
先週末、さるプロジェクトの会議がありました。
大きなプロジェクトで5年間続いたものですが、今年で最終年度になります。最終とりまとめということで、グループでのこれまでの研究の概要を発表させていただきました。このプロジェクトに対して、出来る限りのことはしたいという私なりの思い入れがあり、関連の会議ではいつもいろいろ工夫して力をいれて発表を考えてきました。
今回の発表では、これまで外に対してあまり発表する機会のなかったこと、つまり、どんな風にこの5年間をやってきたか、どんな人々がこのプロジェクトに参加してどのように尽力してくれたかを振り返ってみなさんにも紹介できれば、とおもって、途中アルバム形式の部分を取り入れた発表をしました。

で、プロジェクトでの5年間を概観した部分で、タイトルに、スターウォーズ4,5,6のサブタイトルをもじったタイトルをつけたりしていたのですが。。。

だれも気付いてくれなかったみたい。

ちょっと寂しいです。

研究の仕事って、

私は捨石

2006年08月10日 | Weblog
「ランボー」でそのような台詞がでてくるそうです。
捨石とはどういうことか。例えばパーティで、その人がいてもいなくても誰も気にかけないような、そんな存在、誰からもあまり大事に思われていない存在のことだそうです。
私は捨石。
そのようなことを、考えてはいけないし、ことに口にだすのはいけない事だとはわかっていますが、時にそんな気持ちになってしまうことは、ふつうのひとはあまりないものなのでしょうか。?

私にはひとつわからないでいることがあります。ある人が、ある物が、ある物事が、捨石のようかどうかを決めるのは、他人の扱いでしょうか。それとも自分自身の心の問題なのでしょうか。わからないまま漠然と以下のように思い描いています・・。

他人に捨て石のように扱われることで自分でも捨て石と感じてしまうのが捨て石化の進行メカニズムだとすると、反対に「あなたは(その物は)(その物事は)捨て石でない大事なものである」と誰かが言う、そして自分もそれを信じることができたときに、その人は、その物は、その物事は、捨て石ではなくなる。

こう考えたときに、この罠に不運にもはまってしまった場合、自分ひとりではどんなにがんばっても解決できない、どうしようもなく他人の力を必要としている物事ように私には思われます。
この話を特定の物事に限定するのは気が進まないのですが、この場を一応研究に関連する話をするところと最初にことわったので、研究の話で例えると、ある研究の価値を自分自身が信じるためには、やはり最低一人の、その研究を「善し」とする他人が必要だと思うのです。そしてその「ある他人」の評価にも厳然と軽重がある。ある人が「善し」とすればその評価がものすごく重く高く感じられる「ある人」もいれば、いくら熱心に「善し」として気持ちを傾けてもその評価が軽く扱われる「ある人」もいる。こんなところにも「捨て石」の罠は身を潜めているというわけです。こんな風にして呪のように「捨て石」は別の石を「捨て石」に変えていく。私にはとても恐ろしく強力で救いようのないのろいのように思われます。

先日学童のキャンプで、河原で遊んだ後、みな思い思いの形の石を拾ってそこにアクリル絵の具で絵を描きました。息子はふつうっぽい見かけの平たい石を2個拾い、ひとつには金色の家と空とおひさまと草原を、もうひとつにはクワガタの絵を描きました。途中でうまくいかないと愚痴る息子に「きれいだね」「下のほうに草もかいてみたらどう?」などといくつかの言葉の魔法をかけたのは私です。出来上がった物をみて「すごいいい感じ!」と幾人かの大人も魔法をかけたようです。けれども最初に最大の魔法をかけたのはこの石と石を見つけて筆をとった彼の力です。そしてただの石は、いまや金色の宝物のようになって我が家の玄関に飾られています。

そうすると、先ほどの話も、ちょっと順序が違うのかもしれません。捨て石でなくなるためには、まず自分が自分を(その物を)(その物事を)捨て石ではなく輝く石として扱う、そのなかで「あなたは(その物は)(その物事は)捨て石でない大事なものである」と誰かが言う、そのときに、その人は、その物は、その物事は、捨て石ではなくなる・・。




ある論文が学会誌に掲載されるまで

2006年06月26日 | Weblog
「ある論文が学会誌に掲載されるまで」という連載コーナーを、ホームページに作ってみました。
でも、実はそのある論文は、まだ学会誌に掲載されていません。最初に投稿したのが2004年3月なのに、まだ、なのです。というわけで、掲載されるまで顛末を連載しようかと、思ってます。その論文に関するやり取りがまた最近マイブーム(?)になっている中、ふとこんなコーナーを思いついてしまいました。
ぜひ覗いていってください。こちら↓です。

http://www.bluemoon.kais.kyoto-u.ac.jp/ykosugi/Kflux.htm

このコーナーのなかで、「とある論文」は迷走に迷走をつづけます。このコーナーによって、なにをしようとしているのか、なにを訴えようとしているのか、その趣旨をくれぐれも誤解されたくないのですが、なにかの提言や批判をするつもりは、私にはあまりありません。だって、みんな、いろいろ事情があるのですから!査読者だって人の論文読まされるのしんどいしこっちだって忙しいのだし、編集者だって、あれやったことのある人にしかわからないでしょうけど、頼んでおいた仕事を頼んでおいた期限にやらない人が大量にいるのを見張って催促しすべてを期限どおりに滞りなく進めるのが、×10個もあった日にゃ、ほかの仕事を持っていて片手間にやるのがどれくらい苦痛か・・。まぁそう考えると、どんなことがあっても、私は、これらの人々を非難し糾弾し体制の改革を叫ぶ気持ちにはなれないのです。まぁこのようなことは、しゃあない、運が悪い、それによくあることだよ、といえるのじゃないかと思います。
それにしても、私はここ2年半のあいだ「とある論文」が小骨がのどにひっかかるように心にひっかかり、かなりの気力をこれに投入して消耗しているのは事実で、その被害たるや、まったく、散々たるものです。
こんな人、もしかして、ほかにも、いる??(でもここまでひどい目にあってる人はあんまりいないでしょー)、と思ったら、なんか、これをむしょうにネタにしてみたくなったのです。この話は、もしかしたら興味ある人も多くて面白いのかも・・・と思っちゃったわけです。その趣旨は、もしよそにもこんなようなことで苦労している人がいたら、まぁお互いがんばりましょーね、ということです。

途中、英語でのメールのやりとりを、すべて掲載しています。論文やり取り時の英語メールの書き方、として役にたてていただいてもよいかもしれません。けど、私の書いた分のメールの英語はかなり大胆に間違っていますので、お気をつけてくださいませ。

パペットの晩餐会

2006年06月10日 | Weblog
パペットの晩餐会は地味ながら後味のよい映画で、好きです。
確かその中でだったと思うのですが、
「人生において、なにかを選択する、あるいは選ばない、ということは、やがては無意味となり、どちらでも結局は同じなのだ。」というような意味のことを、言っていました。そのことが、私にはとても印象に残っています。
人生において、どのように選び、また選らばなくとも、結局のところあまりかわりはないそうです。そうかもしれません。
そんなわけなので、人生における選択は、みなさん気楽にどうぞ。
迷ったときは、とりあえず選ばないでじっとしている、というのも、なかなかよい作戦のように思います。