Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

引っ越します

2008-09-23 01:25:09 | よしなしごと
ええーっと、ずっと考えていたのですが、ブログを引っ越したいと思います。
新しい引越し先は、こちら。こちらもよろしくお願いいたします。

ニューヨーク・ニューヨーク

2008-08-26 22:00:03 | よしなしごと
少し暑さも和らいできましたが、皆さんお元気ですか? 大学の先生も夏休み、のはずなんですが、どこに消えたんでしょう? 不思議だ…。

とはいえ、アメリカ社会学会と調査のため、ニューヨーク・ボストンに行ってきました。社会学会は、アメリカ社会についての統計や実証系のものに絞って参加。英語の壁があるのと、日本での社会理論の水準は決して低くないのでわざわざアメリカで聞く価値があるのかということを考えると、アメリカ社会についてのデータはアメリカでしか得られないので、長年の試行錯誤の結果、そういう参加の仕方が一番いいという結論に達しました。ウォールマート戦略とか、出生率とか結婚・同棲とか。アメリカの発表は、どちらかというとあっさりとシンプルなものが多いので、日本の学会発表とは、かなり趣が違うかも。

ボストンに行って思ったのですが、東海岸の英語でも、ボストンのものは、なんて聞きやすいんだ!! それと、みなさんとても礼儀正しいです。びっくり! ニューヨークに戻ったら、いきなりタクシーの運転手に「お前の行きたいところに行くと一通で自分が帰るのが面倒だから、ここで降りろ」とコーナーでいわれ、ああー、ニューヨークだなって思いました…。「タクシーはタクシードライバーの行きたいところではなくて、お客さんの行きたいところに行くものなのですよ」といってやろうと思いましたが、もう気力も失せて、「荷物が重いから、ちゃんと行って頂戴」というのが精一杯。こんなドライバーにチップをやったこと(+ちゃんと「ふざけるな」といわなかったこと)を後々激しく後悔しました。あーあ。闘争モードじゃないとニューヨークではやっていけないのですね…。

あとニューヨークでちょっと高いレストランに行ったとき、teaを頼んだら、what kind of tea?と聞かれ、普通のregular teaといおうと思ったのですが、アメリカ人向けに「Lipton tea」といったら、あとでウエイターが戻ってきて、「リプトンはない」といわれて、びっくりした。えー、アメリカでは、紅茶のことリプトンって呼ぶんじゃなかったんですか? 「つまりは、black teaが欲しいという意味でいったので、それで結構」っていったんですが…。

アメリカ人って、紅茶、リプトンしか飲まないんですよ(きっぱり!)。ボストンに行ったときには、「ボストン茶会事件があったってことは、あの頃はまだ、ちゃんと紅茶を飲んでいたのだなー」としみじみと思うくらい、紅茶に頓着しない。アメリカについたばかりの頃、「近所のハーレムのスーパーマーケットに行ったら、品揃えが本当にひどく、紅茶もリプトンしか置いてない。トワイニングすらなくて、びっくりした。今のアパートは、住む場所としてはどうかと思う」といったら、アメリカ人が皆、微妙な顔をして、無口になったのですよ。あとですぐわかったのですが、彼らはリプトンしか飲まない。レストランに行っても、よく紅茶の変わりにLipton, Herbal tea,という風に書いてあったので、あー、バンドエイドとか、セロファンテープみたいに、紅茶のことをリプトンと呼ぶのねと合点して、アメリカ人に合わせてLiptonといったら、「そんなものは置いてない」と今回は小馬鹿にされたので、何重にも驚きました。これから、ちゃんと「普通の紅茶」と呼ぶことにします。リプトンティーにこだわりがあるわけじゃ、全然ないので…。

でも数人の日本人に「紅茶のことを彼らはリプトンって呼ぶよね?」って聞いたら、賛同してくれるひとがいなくて、ちょっと驚いた。呼ぶと思う人いない? わたしの妄想ですか? 「sodaを中西部はpop、南部は全部cokeというように、NY限定かもね」といわれたんですが、NY以外ではリプトン以外のお茶を飲んでいて、「リプトン=紅茶」だったりはしないんだろうか? 謎だわ。

それはさておき、今回「Feminine Mistake」という本を買って読んでいるのだけど、これがなかなか面白い。ベティフリーダンのFeminine Mistiqueにインスパイアされた著者が、女性と就労についてデータを上げつつ、同様にインタビューして書いているのだけれど、「子どもができて仕事を辞める人は、もともと仕事を辞めたがっていた人」とか、なかなか面白い。2002年以降、経済不況のため、アメリカでは女性が家庭に入る風潮があるらしいのだけど、アメリカの高い離婚率と突然死(死亡による保険補償が日本のようにないこともあると個人的には思う)のリスクを考えると、それはとても合理的な選択とはいい難いと著者はいいたいようだ。アメリカでそんなに家庭回帰の潮流があるというのは、知らなかったので、新鮮でした。日本では、今はむしろ逆のほうの動きだものね。読んでいても遅々とした歩みなので、誰か翻訳してくれると有り難いですが、いませんか? かなり売れた本のようです。

今日、知り合いの訃報を戴きました。ショックです…。ご冥福をお祈りいたします。

社会学理論の効用

2008-07-23 16:03:59 | よしなしごと
テストの採点がやっと終わりました。いろいろ苦し紛れの珍回答などあり、楽しませてもらったのもあり、よく勉強されているのもあり(そうでないのもあり…)。パソコンに入力して、プリントアウトして、何重にかチェックしなおしたら、やはり打ち込み間違いなどがないわけでもなかったです。最終的には、もう大丈夫と思えるところまでやりました。

今年は、社会学理論のような授業をもっておらず、久しぶりに家族社会学の授業をもったので、半年してみるとちょっと淋しいですね。前は基礎科目は、前期はジェンダー論基礎、後期は社会学理論基礎、だったのですが、ジェンダー論基礎はもちろん近代家族のありようをめぐる性別の社会的編制の話とは無縁ではなく、社会学理論は、やはり言語とジェンダーの社会的構成についての理論と無縁ではなく、さまざまなレベルで相互に関連していたのを、今回は家族社会学とジェンダー論として再構成しなおすことになったので、社会学理論部分が切り離されがちになるような感じです。家族社会学といっても、近代的家族の構成を学んだ後、1990年代以降の変化を論じたら、ほとんど「新自由主義とは何か」という格差社会論にならざるを得ず。後期のジェンダーは、(生殖)医療ほかを切り口に今年はやってみようかなぁと思っていますが、ひょっとしたら変わるかも。いずれにせよ、正面からジェンダーなどの概念や理論を教える、もしくは、フェミニズム思想史みたいなものにはならないと思います。それはそれで面白いんだけど、純粋に理論的に面白いと思えるのは、ある程度勉強した上級者のような気がするので。

それはさておき、社会学とは何か、みたいなことを喋ろうと思ったら、なんだか戸惑っている自分に気がついて、うーんという感じです。というのも、パーソンズなどに代表されるオーソドックスな社会学って、何かを分析するときに、ちょっとしたツールになるかもしれないけれど、正面切ってそれだけ話すにはどうも、かなりな何かが「足りない」ですよね。グランドセオリー自体がもう成立しなくなっているし。

90年代以来の日本社会の変容を分析しようとすれば、何らかの理論を使うというよりも、「新自由主義」や「グローバライゼーション」そのものが分析の対象となるわけで、「理論的」にというよりは、それがどのようなものか、統計等を使いながら、明らかにしていくような作業になってくる。結構、普通に「社会学」と聞いて思い浮かべるような、アメリカ的なスタイルになるわけですよ。

じゃあ、社会学って、何? 社会学理論で何がわかるの?といわれると、フーコーひとつとってみても、明らかにしようとしている敵は「近代」であって、そんなに簡単に脱近代は可能ではないし、されてもないのだけれど、でも10年前とは明らかに問題の射程が異なってしまった、としか思えない自分がいます。

社会学が何の役に立つのかって、各論ではいえても、総論ではなかなか難しいのではないか。うーん…。もう少し考えて見ます。


氷室冴子さん

2008-07-08 23:03:30 | よしなしごと
久しぶりに自分のブログに来たら、いつの間にか表示の形式が変わっていて、ログインするのに、しばらく悩んでしまった。がーん…。

今、あわあわしています。というのは、アマゾンのマーケットプレイスをぼーっと眺めていたら、いつの間にか、クリックしてしまったらしく、もっている本を注文してしまった。それだけじゃなくて、その本は、1000円程度の本なのに、なんと4000円以上の値段がついているのです。

わたしも中古で買ったけど、1000円程度だったし、何よりももっている本に余分に4000円も払うのは嫌だ…。と慌ててキャンセルしようとしたけれど、マーケットプレイス(中古)は、クリックと同時にカードから引き落とされてしまうらしい。あとは当事者同士でどうにかしてくださいよーとしか書いてないので、出品者さんが「そそっかしいひとだな~。お金を返してあげよう」と思ってくれるのを待つだけです。お願いします。出品者さん、メールをみたら、ちゃんと返してくださいね(と祈る)。

それはさておき。最近ショックだったのは、今更ですが、氷室冴子さんが亡くなったことです。デビュー作あたりから、リアルタイムで読んでいたので、まだお若いのにと、本当にショック…。とはいえ、最後のほうはずっと筆を取っていらっしゃらなかったのですけどね。なぜ書かれなくなったのかはしらないけど、ファンが「続きを楽しみにしています」といったら、「ごめんなさいね、もう書かないのよ」とすーっと涙を流されたという話をネット上で拾ったことがあったのですが(しかも、わたしの記憶にたよっているので、真偽のほどは、まったくわからないエピソードですが)、いろいろと書く気力をなくされてたのだろうなぁと思ってました。

ファンとしては残念だけど、無理をしてまで書く必要はないので、幸せにすごされていたのだったら、それでよかった。でもやっぱり残念だなー。とくにエッセイも好きだったので、エッセイなら年齢の応じた読み物をお書きになったんじゃないかと思うと淋しいです。わたしたちの世代にとっては、氷室さんって、やっぱり特別な意味をもつ作家さんなんじゃないかなぁと思います(もう少しあとに生まれていたら、かなり楽だったのではないかと。パイオニアって大変ですものね…)。

最近、構内を歩いていると、「せんせー、テストはどんなのでるんですか~?」とよく学生さんに聞かれるのですが、秘密ですv しいていえば、

授業でやったこと

がでます。当たり前ですね。ふふ。

家族

2008-04-28 18:03:06 | よしなしごと
先週の土曜日の家族問題研究会(という名前ですが、学会です)の霊界、じゃなかった例会は、毎年恒例の修士論文を書かれた方の発表でした。

司会をさせていただいたのですが、6人の方たち、どれも熱意のある発表で、とても充実していました。真正面から家族を取り上げるだけではなく、さまざまな事象を切り口として家族という存在に迫っていたのが印象的でした。

今年度は家族社会学の講義や演習をもっているので(あとは格差社会、オペラ、マンガ、ジェンダーなど)、家族社会学についてもう一度復習すると同時に、自分なりに新しいテーマを見つけたいなぁと思っています。最近は、授業をしていて「わたしの大学時代は、…でした」というと、「えっ(ちょっと前はそうだったの?)」から、「ふぅ~ん(大昔はそうだったんだ、爆笑)」という反応に変わってきているのをヒシヒシと感じます。…。思い起こせば、大学入学したときにはベルリンの壁はあったし、あれから倍近く生きてきてしまったんですもんね。冷戦以前と、それ以後のグローバライゼーション下での変化を、驚きをもって較べろというほうが無理なんですよね。

後期のマンガ、「ベルサイユのばら」とか取りあげたいんですが、取りあげてわかるのかしら~?と思うと少々不安になってきました。誓ってもいいですけど、読んだことのある学生さん、1ケタ台だろうな。少々淋しい…。近代家族のロマンティックラブイデオロギーとか、「遠い過去の奇妙な風習」なんでしょうかね?

近況

2008-02-15 01:02:59 | 自己紹介
日記を更新するたびに、いったい誰がみてくれているのだろうなぁと思いますが、きてくださる方もいるので、これからは書いたものなどの報告をします(自分で忘れないように、備忘録にしているだけなんですが)。適当にgooのブログを選んだんですが、最近は他のものに乗り換えたいなぁとしみじみと思ったりして。

それはさておき、「アメリカ社会の中での男姓と女性」について。金子書房の『児童心理』の3月号掲載です。簡単なエッセイですが、題を与えられて書くというのは、けっこう楽しくて好きです。

次回のPP研の『ピープルズ・プラン』の「運動の思想を読む」では、伏見憲明さんの『プライベート・ゲイ・ライフ』について書きました。1991年の本なので、大学時代を思い出して、すご~く懐かしかったです。

来年度からは、ちょっとばかりきちんと仕事をしたいと思っています。と、書いておけば、すると信じたい…。


35歳問題について

2008-02-05 00:39:40 | 社会問題
こうだくみが、「35(歳)以上になると、羊水が腐ってくる」と発言したことをめぐって、ネット上で問題となり、アルバムのプロモーションなどを自粛することが決定したほか、CMなども放映中止になったりして、かなりの騒ぎになっている。騒げればそれでいいのかも知れないけれど、意外です。

35歳のまえに子どもを産んでおいたほうがいいと、自分のマネージャーにいうのも大きなお世話だし、公共の電波での発言には、気をつけたほうがいいのは勿論である。しかし、「羊水が腐るなんて、事実無根のことをいうなんて、ヒドイ!」というみんなの調子をみてると、「う~ん、じゃあ、35歳以上になると、卵子が劣化するから、早く子どもを産んだほうがいい」発言だったら、どうだったんだろうという気持ちを抑えきれない。

だって、日頃から、35歳卵子劣化説、だから女は子どもは早く産んだほうがいい!って、しょっちゅうみんなが堂々といっていることだもの。「正しい」知識に基づいていなかったから悪いのなら、この「科学的」言説だったら、どうだったんだろう?

産婦人科の先生が研究会で、35歳以上の「高齢」出産と20前などの「若年?」出産のリスクはどちらが大きいかという問題がよく話題になるんですが、とさらりとおっしゃっていて、「え~? 若ければ若いほどいいとはいわれるけれど、若すぎるリスクなんていう言説はあんまり巷では聞かないよなぁ」とびっくりしました。周囲の女性が、生殖にかんすることを心配してお医者さんに聞いても、「年齢は関係ないから、焦る必要はないですよ」「いつでも産めますよ」みたいなことしかいってもらえず、具体的に子どもを作ろうとしたり、不妊治療などを始めてから、確率的には自分があまり時間が残されていないグループに入っていると知って愕然とするという話と(野田聖子議員なども、知らなかったといっていましたね)、それなのに公然と「35歳以上はダメ!」といわれているというあまりのギャップに驚きます。

個人のプライバシーに関することについては、口をつぐみ、自己決定のときに必要としている(現時点での)「科学的」知識は淡々と与えるというふうな逆転はされないのかなぁといつも思います。

連載 BLスタディーズ1-8

2007-12-13 11:16:07 | 本を読んだ
注:勝手に連載になったので、これは1から順に新しいほうを下に置いていきます。

しばらく日記の更新を放置していたんですが、それでも来てくれているひと、有難う。さて今日は、久しぶりに真面目に書きます。

ユリイカの12月臨時増刊号『BL(ボーイズラブ)スタディーズ』、この間BL本が出たばかりなのに、第二弾ということは、ニーズがあるということですね。先回の本はなかなかよくできていて、面白かったので、第二弾も楽しみにしていました。今回も面白かったんですが、残念なのは、先ほどの回に較べると、ちょっと寄せ集め的な感じがしなくもないところ。もう少し突っ込んだ作品批評、というか、BLについてのもう少し理論的な考察が読めると嬉しいです。なんでBLという形式が日本社会で発達したのか、という疑問ってわたしにとっては大きなものなんですが。

あと当然ガイド的なものもついているんですが、小説のラインナップは、かなり趣味が違いました。それは「趣味」だから、いろいろ違って、いいんですけどね。わたしだったら榎田尤利さんは『眠る探偵』シリーズよりは、漫画家シリーズを推しますし(どうでもいいけど、榎田さんと鬼塚ツヤコさん、紹介文の印刷が逆です…)、崎谷はるひさんは『ブルーサウンド』シリーズも人気あるのかもしれないですが、個人的に好きじゃないのです(ってそれだけかいっ。まぁ一年間に限っても、崎谷さんは作品数があまりに多いですけど。でもこのひとのは、ぶっ飛んだもののほうが面白い気がする)。あとは鳩村衣杏さんの『ドアをノックするのは誰?』とか、かわい有美子さんの『透過性恋愛装置』とか、砂原糖子さんの『言ノ葉ノ花』や『夜明けには好きと言って』など幾つかのものとか、人気があったし、挑戦的であったのではないかなぁと思います。マンガに関しては、わたしはどちらかというと古め(?)の作家さんが好きなので、やや自分の趣味の渋さが悲しくなっちゃったりしました。まぁ、そういう腐話は置いておいて。

今回ちょっとひっかかったのは、森川嘉一郎さんの『数字で見る腐女子』です。吉川さんは、仕事でご一緒させていただいたこともあり、イケメン(死語御免)なのに佇まいにオタクを実践されていて、すでにそれがパロディにまで昇華されているブリリアントな方ですが(変な文章ですみません)、今回の腐女子と非モテに関してはちょっといただけなかったです。

冒頭で「本稿では『腐女子論』をメインに扱います。男性によって腐女子が分析されることに嫌悪感を抱く方、『放っておいてくれ』という方、興味やご理解のない方は、ここから先の閲覧はご遠慮ください」という注意書きから始まり、「腐女子は縁遠い、などということを統計的に掲げたのは、危険な行為だったかもしれない。腐女子学者も怖いが、腐女子はもっと怖い。怖いので文頭にクレーマー除けを書き加えた上で、筆を置こう」で終わるあたり、かなり批判されることを意識されているようですが、わたしは腐女子と非モテというテーマや結論よりも、論じられている手さばきに、はてさて?という疑問を禁じえなかったです。

ご本人もお書きですが、でもやはり。腐女子の統計として使用するのが、雑誌『ぱふ』のアンケートです。う、うーん。『ぱふ』、年に一回はかならずBL特集をやっていますが、「『ぱふ』の読者=腐女子」という定義には、やっぱりかなりの疑問があります。「『ぱふ』の読者=マンガ好きの子」ではあっても、腐女子とはいえないような。しかもやっぱりアンケートに自ら進んで答える読者のサンプリングの問題があるので、統計的に「遜色がない」といわれても、それはちょっとといわざるを得ない。それをランダムサンプリングの国勢調査(あ、全数調査でしたね)や社保人口研の出生動向基本調査と較べてもなぁ…。でもまぁいいです。ここで突っ込むのはやめます。

『ぱふ』読者が求める恋人のタイプとして、一般人が35%、同類が37%、現実ではいらないが9%、その他が19%なんですが、それと社保人口研調査の「一生結婚するつもりはない」という4%と較べているんですよね。これを元のデータに当たってみると、女性で、

20-24歳 25-29歳の順にパーセンテージを書き込みます(ガタガタしててすみません)

一年以内に結婚したい            8.9  16.1
理想の相手ならしてもよい(結婚年齢重視派) 14.1  16.1
理想の相手ならしてもよい(理想相手追求派) 15.8  28.8
まだ結婚するつもりはない(結婚年齢重視派) 23.2  10.3
まだ結婚するつもりはない(理想相手追求派) 27.0  15.3
一生結婚するつもりはない          3.9   4.2
不詳                    7.1   9.2

森川さんは最後の3.9%と4.2%を足してだいたい4%と見当をつけられたようですが、これって「現実では恋人いらない」よりかなり強い決意じゃないですか? むしろ理想の相手を追究したいのでまだ結婚するつもりのないカテゴリーは20代前半では27%、後半でも15%近くいますが、なぜこれと比較してはいけないのでしょうか?(あ、表を書き写して疲れたので、語気荒くなってきた)。それも「恋人のタイプ? 一般人、は、腐女子との両立は難しいだろうし、同類、は、かえって鬱陶しいし、そういわれちゃうと現実ではいらないなぁ。今はテニミュに夢中だも~ん」なんていうふうに出されただろう数字が9%ですから、これをどうとっていいのか? 「結婚するつもりか」と聞かれるのと、「どんなタイプの恋人がいいか」と聞かれるのは、「いらない」と答える確率は、かなり変わってくるはずです。それを「どんなタイプがいい?」と聞かれて、「いらない」と答えたひとが少なかったので、腐女子は恋愛したいのに、相手がいない、と結論付けるのはちょっと手続きとして乱暴すぎる気がします。

こういう統計のデータの使い方がおかしい!みたいな批判って、まぁあんまり好きじゃないんですが、むしろ問題は、ジェンダーカルスタ論批判と腐女子の多様性をめぐる論考以下、いろいろです。息切れたのでとりあえず途中でアップ。消えちゃっても困るので(あ、ついでにいっておくと、べつにわたしは腐女子学者じゃありません)。

2に続きます。
  ↓

連載 BLスタディーズ2

2007-12-13 11:15:13 | 本を読んだ
なんだか途中まで書いたんだけど、ネット上にチマチマと文章書くのが面倒くさくなってきた。でも乗りかかった船だから完成させることにします。こんなことを書いている暇があるんだったら、論文書いたほうがと思うんですが、まぁいいや。今日も少し書いたら切り上げるので『連載』にしました(笑)。

この前の日記には、些細な意見の違いなんてどうでもいいのにと書いたんですが、やっぱり「些細」じゃないなぁと思うので、続き。

ええっと森川さんは、この間のデータから、腐女子がモテないという結論を引き出されて、やおいやBLの内容との関係を探ろうとするのだけれど、このような追求は、「モテない腐女子像を退けようとする学者たちのやおい論や腐女子論の思潮と、真っ向うから対立する危険性をはらんでいる」といい、その思潮とは、ジェンダー論の傾向で、前回の『腐女子マンガ大系』の学界の書き手による文章には明確にその傾向があったらしい。

うーん、具体的に誰をさしているのか、よくわかんないんですが(金田さんだけは名指しだけど。きっとわたしがこんなところでチョコチョコ書くより、森川さんが仮想敵(?)にされている方が直接反論なり、応答されたほうがいいんだろうなぁ)、「モテない腐女子像を退けようとする学者たち」というのが、どうもいるのかなぁ? わたしの知るかぎりでは、杉浦由美子さんなんかは、かなりその傾向がありましたが、彼女は学者じゃないし…、でもきっと、おっしゃるからには存在するんでしょう。わたしはBLという表現形式には関心があっても、腐女子というカテゴリーはともかく、実態はどうでもいいし、モテ非モテもどうでもいいので(っていったら、終わってしまいますが)、ここの部分は飛ばします。でも正直にいえば、前回の『大系』で、むしろジェンダー分析がされないことにわたしは違和感をもったし(だって男同士が性交渉する作品を女性ばかりが(腐男子もいますが)読んでるんですよ! 変な現象じゃないですか?)、表象の暴力の問題もさらっと流されていて(明らかに当事者じゃないひとたちの領有が起こっているというのに。今回は石田さんが論考を書かれていましたが)、森川さんと印象はまったく逆です(きっと信じている神が違うんだと思います)。

で、こういうやおいを考察する際の、既成の学問分野がカルチュラル・スタディーズと女性学であることが、これらの原因である、と森川さんはおっしゃって、カルスタ(略すの嫌いだけど、長いから略す)と女性学批判を行われている。

カルスタは、人種問題があり宗教問題があり、これらが焦点となる政治風土を背景とした社会での左派の理論武装で、日本は「歴史・人種・宗教風土」を「大きく異にする」という。うーん。わたしの琴線に触れるのは、ここです。こういう批判って、どうなんでしょう?(もう論じつくされている問題でもあり、今さらでもありますけど)。

例えばマルクス主義でもいいですし、構造機能主義(笑)でも、精神分析(これは半分保留)でもいいですけど、まぁそういう大きな理論の枠組みがあるところでは、その理論的枠組みの適用可能性を論じることって、まだ意味があると思うんですよね。大きな物語ってどうなの?でもいいですけど。でもカルスタって、そもそも既存の学問の境界線を壊しましょうというような学問的実践であって、何というか、ポスト構造主義のなか、ミシェル・フーコーが「知の道具箱」呼んだような、たんに分析のための小さなツールに過ぎないんじゃないんですかね? そんな小さなトンカチみたいなものを、「西洋」を実体化してそこに帰属させ、二項対立的な「日本」を作り上げたりするよりは、トンカチのオリジンなんて、どうでもいいじゃないと考えるほうが、現実に即しているように思います。森川さんのいうような批判自体が、「西洋」を実体として作り出しちゃうんじゃないのかしら?

もちろん、ひょっとしたらカルスタ総体を神として信じているひともいるのかも知れませんが。しかし具体的なテクストを分析するときには、ここは「オーディエンス」という概念を核に分析してみようとか、少なくともわたしは、その程度のことしかやらないし、できないです。そんな概念のクレジットに、漢字がついていようと、カタカナがついていようと、それはたいした問題じゃないと、わたしは思います。

うーん。また体力がなくなったので待て次号!
いったいいつ終わるのやら。

連載 BLスタディーズ3

2007-12-13 11:14:15 | 本を読んだ
なんだかちまちま進んでます。わたしは今日読んだ『天使のうた』にショックを受けて、なんだかどうでもよくなってきてしまったんですが、続けます(怖くて次号が読めません)。毎日、1セクションについて書いていると、森川さんのこの論文がすごく好きなような気がしてきました。少なくとも、今、森川さんのこの論文を、日本で一番読み込んでるのは、わたしですよっ(というのは、どうかわかりませんが)。

ええと、森川さんの批判のもうひとつの論点、女性学について。森川さんの懸念は、やおいや腐女子に関する研究が女性学によって植民地化されることのようです。そうなると起こる例として森川さんが挙げられているのは以下のような事態です。

「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が、「ゲイ差別的」で、その時々のフェミニズムの文脈にとって都合が悪いという基準でアカデミズムの高みから「望ましくない」と審査されたり、そうした基準に配慮したかたちでやおいの作品史が編纂されたりしかねなくなるのだ(129ページ)。

森川さーん、まるで杞憂ですから、安心してください。というか、森川さんっていいひとですね。わたしの知る限り一番最初に同性愛の文脈でやおい表現(やおい少女たち?)を問題化して批判したのは、キース・ヴィンセント氏だと思うのですが、むしろフェミニズムはヴィンセント氏のようなゲイ・スタディーズの側から、異性愛中心主義的であると批判される側であって、「ゲイ差別」を自ら告発するような、そんな立派なことはおこなってこなかったと思うのですよ。例としてはほとんど考えられない事態、というより、ジェンダーの視点から(というものがあるとここでは仮定して)テクストを分析することはあっても、そのときに、ゲイ差別の視点が落ちてしまうことのほうがあり得て、むしろこちらの事態のほうが問題だ、という風に思うのです。

しかしこう書くことによって、わたしが森川さんの批判するような「女性学」の学者になっていると思われると心外です。なぜなら、いまどき、表現と表象の問題を考えるときに、こんな単純な理論を取るひとって、いるのかなぁ? 性表現の規制派の代表格とされているキャサリン・マッキノンですら、ここ10年は、表象がパフォーマティヴであるということを理論的支柱に置いていて、こんな単純な批判はしないと思う。

まぁ、悪書追放運動を推進したいひとたちが、こういう理論を取るかもしれませんが、そのときはむしろ「ゲイ差別だから」なんてことをいってくれるよりも、「ゲイのこんな不道徳なシーンが描かれているザマス(なんでこういうことをいうPTAおばさんって、「ざーますふじん」として戯画化されるんでしょうね?)」と片付けられると思いますけどね。

ここでまともな学者がやるべきことは、「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が何を意味しているのか、書き手によってどのように意味づけられ、読み手がどのように受け取っているのか、テクスト総体のなかで、どのような効果を生じさせているのかを分析することであって(それは最終的に「ゲイに対して差別的な効果を生んでいる」という結論かもしれないけれど)、もしも「ゲイ差別的」だと断定して終わりという単純なひとがもしいるとしたら、森川さんは堂々と「こんな分析で満足しているなんて、あんたは学者として三流だ」と、個別に批判されればいいんじゃないでしょうか。と、わたしは思うのです。

さらに森川さんの心配は続きます。「このようなフェミニズムの文脈からの審査に足しして反発でも起きようものなら、植民地的な体質の下では、『それが進歩的な国(ルビ:アメリカ)では常識だ」、「世界の笑いものになる」といった、帝国主義的な原理の召喚へと容易に発展する」(129ページ)。大丈夫です、しないですよ。

むしろ可能性があるとしたら、「ゲイ差別だ」と怒るひとに対して、「ああこれは、アメリカではクィアっていうんですよ」と無化する、というほうが、まだあり得る気がします。森川さんのカルスタやジェンダー研究(女性学)へのイメージはすごくよく伝わったのですが、内実は全然違いますから、ご安心ください。そもそもあるジャンルを簡単に実体化して、統一的な見解を想定するっていうのは、無理があるように思います。カルスタやジェンダー研究も内部は多様ですから。

で、上手く繋がったところで、次回は、森川さんによる「多様性」批判を検討してみます。