八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

人間について(修正1・初投稿 H27.12.12)

2015-12-12 04:50:27 | Weblog
聖書の教えに
 「神はわれらの避けどころまた力である。悩める時のいと近き助けである」(詩編46.1)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46.1)
ということばがあるということです。

また、仏教の教えに
  「煩悩障眼雖不見・大悲不倦常照我」
(ボンノウショウゲンスイフケン・ダイヒフケンジョウショウガ)(浄土三部経)という教えがあります。
この意味は、煩悩のために遮られている眼には見えないが、仏様は飽きもせず常に私を照らしてくださっている、ということです。
つまり、私たちは日々煩悩に覆われているために、正しい生き方や難問の解決方法が
なかなか考えだせないものである、しかし、仏様はそれでも飽きもせずいつも私たちを
見守って一緒になって考えて下さる。
難問については、チャンスをとらえて私たちに導きの手を差し延べてくださるというとことです。ありがたいことです。

ここで私は思うのです。

人間には「顕在意識」と「潜在意識」があり普段の日常生活では、主に「顕在意識」が働き、深く真剣に思索をするときには「潜在意識」が働くのであると思うのです。そして、煩悩」とは顕在意識であり、「大悲」とか聖書でいう「神」とは潜在意識の働きであると思うのです。

そこで、私はこれら聖書の言葉も仏教の言葉も同じ根拠に基づいていると思うのです。

つまり、

人類は700万年から600万年前に誕生して以来、先祖の遺伝子を受け継いで今日の「私」が生きております。最近の研究結果によると親の遺伝子の0.2%がコピーされて子供に受け継がれるそうです。
人間の体内には60兆個の細胞があり、その一つ一つの細胞の中には20万個の遺伝子があるとのことです。
私たちの心も体もこの遺伝子の働きによって活動しているのです。
つまり、私たちは先祖代々受け継いできた遺伝子の働きによって活動していることになります。
人間の潜在意識の働きとは、これら無数の先祖様方から受け継いできた遺伝子の働きによるものである、
と思うのです。
 
つまり、私たちの頭脳の中には無数の先祖さま方が一緒におられる、と思うのです。

だから、私たちが大きな問題に遭遇した時は、潜在意識の中におられる先祖様方とか「神」が働いて解決してくださると考えて間違いではないと確信します。
つまり、日常生活では希望をも持ちつつ、決して「取りこし苦労」はしないで、自分が今やるべき仕事とか生活に集中し続けることが大切な事である。
特に難問題の解決策については、基本的には、「自分」と一緒に「自分」の体内におられる「神様」とか無数の先祖さま方が総合力を発揮されて、私達を導き、よい考えを示してくださると思われます。
だから、私たちは「自分」がこうしたいという希望することを祈ったり願ったりしていわばおれば、それでもよいのだと思います。この辺の事情については、現実的にも、わたしたちはしばしば、体験することであります。つまり難問で解決できないことも翌日とかまたは何日もたってからふっと「ひらめきで解決の糸口が考えだされるということがあります。

これは、「潜在意識」つまり、先祖さま方とか「神」の働きであると思うのです。つまり、無数の先祖様や神様はすべての体験をされているために難問に対しての解決策を示して下ると考えられます。ここで、私たちには時間をかけて教えて下るのは、この方々の思いやり、つまり私たちにその受け入れ態勢がと整えられる時期を待っておられるのだと思うのです。

また、聖書には「神はいつも私と一緒」という教えがあるということです。




投稿

2013-12-31 04:57:05 | Weblog
来年には、投稿しようと思います。

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2013-11-03 13:51:55 | Weblog
確認のため投稿してみました。

私の唱え言葉 (8/29日修正)

2011-08-27 11:26:22 | Weblog
約二十か月振りの投稿です。最近、パソコンを新替えし、メモリーが8GBになりました。
まだ慣熟訓練中ですが、パソコン作業が早くなりました。1969年に、初めて使用した電子計算機(中型機)の記憶容量は230KBでした。データーの分類作業は自分でプログラムを組んで、記録容量が1MBの磁気テープ装置 (高さ1.8m、幅・奥行き60cm) 三台を稼働させて実行させたものです。感無量です。


 私は35年ほど前から、気に入った言葉を唱えています。

 毎日、同じ言葉を唱えるということは、その言霊を潜在意識の中に根付かせるという効果があ ると、思うのです。
 更に、このことはまた、中村天風師がいう、いわゆる「観念要素の更改」にも役立っていると 思っています。

 私はこれまで、年齢や社会環境の変化に応じて唱える言葉を変えてきました。

 東日本大震災の後、現在は次の言葉を唱えています。

その1 (早朝、体操の直前に唱える)

 ・136億年前に宇宙が誕生し、
 ・46億年前に地球が誕生し、
 ・5億年前に脊椎動物が誕生し、
 ・7000万年から200万年前に日本列島が形成され、
 ・700万年から600万年前に人類が誕生し、
 ・100万年から7000年前に文明社会が生まれ、
 ・2500年から2000年前にお釈迦様やキリストが誕生した。
 ・310年前に○○○(私が今住んでいる所、古文書による)が誕生した。
 ・私、○○(名前)は、先祖代々からの遺伝子を受け継いで、300兆分の1の確率でこの世に生れ出て来たのであります。
 ・私は環境にも恵まれ、歴史に残る立派な社会的貢献を成し遂げて(注)、今、
  「無事澄然・有事斬然」の心構えで生活させていただいております。

(無事澄然:事がない場合には、静かな湖面のように澄み切っている。こころが澄み切っているから融通無碍に動くことができる。
 有事斬然:いったん事が起きればぐずぐずしないで、一気呵成にやる。
  (安岡正篤師の著書による。中国の六然訓の言葉))
 
 ・ありがとうございます。

  
 注:あえて、このように断言口調で自分に言い聞かせております。
  

その2 (朝食後に静かな時間を設定して唱える)

・私、○○○○(名前)は先祖代々からの遺伝子を受け継いで、300兆分の1の確率で、
 この世に生れ出てきました。環境にも恵まれ、歴史に残る社会的貢献を成し遂げ(上記注)、
 今、「無事澄然・有事斬然」)の心構えで生活しています。

・無生法忍の生活をしています。
 無生法忍: ものは生じないという真理を受容する生活、
 つまり、あらゆるものは因縁の働きによって生じるのであり、因縁の働きがなければ、
 すべての物事は生じないのであります。

 大空の下、大自然に囲まれた生活の中で、適切な因縁を働かせることによって、心は
 何時でも「無事澄然・有事斬然」の働きをさせることができるのであります。
 
 例えば、深い海底に生息している巨大な魚の挙動を想像することによって、心は
何時でも、「無事澄然・有事斬然」の働きをさせることができるのであります。

 あるいはまた、別の因縁を働かせることによって、心は、陰徳を積み「黙養・不戯論」に徹し、「冷静・沈着・謙虚」に働かかせることができるのであります。
(「黙養」とは、しゃべりすぎないように気をつけること。
 「不戯論」とは、余計な議論をしないこと)

 例えば、「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」(中村天風師の言葉)を想像するとか、
 あるいは又、広大な海岸を見渡すことができる岩場の近くに立って、
 「波の絶えず砕ける岩頭の如くあれ。岩は立っている。その周囲に水のうねりは、しずかにやすらう」(「自省録」マルクス・アウトレーリウス著・神谷美恵子訳、岩波文庫P59より)という場面を想像することによって、
 心は、陰徳を積み「黙養・不戯論」に徹し、「冷静・沈着・謙虚」に働かかせることができる のであります。

・「縁尋機妙・多逢聖因」
 大空の下、大宇宙の中にあって、私は先祖代々からの遺伝子を受け継いで300兆分の1の確率で この世に生れ出てきました。
 しかし「私は一人でいるのではありません。神さまが私と一緒におられるのです」(聖書の言葉)。
 
 ですから、私はいつも先祖と神様に感謝しながら、お祈りをしています。
 「神様、どうか私に、陰徳を積み、黙養・不戯論に徹し、無事澄然・有事斬然の心構えで、
 積極的な前向きの力を与えてください」とお祈りをしています。
 
 その上で私は最善を期待して八正道(物事を正しく見る・正見、正しく考える・正思、正しい言葉をつかう・正語、正しい行いをする・正業、正しい生活をする・正命、正しい修行をす  る・正精進、正しく念ずる・正念、正しく心を整える・正定)を歩くように心掛けています。
 
 ですから私の人生街道は、「縁尋機妙・多逢聖因」の営みが為されているのであります。
 
 つまり、良い縁が更に良い縁を尋ねて行く機会に巡り合えるというふうに、実に旨く、営まれているのであります。その中で、いろいろな出会いがあって、その一つ一つが私を成長させてくれているのであります。

・「煩悩障眼雖不見・大悲無倦常照我」ボンノウショウゲンスイフケン・ダイヒムケンジョウショウガ (親鸞聖人の言  葉) 。
 煩悩で覆われた目には見えずと雖も、仏は飽きもせず常に我を照らしてくださる。
 
 つまり、私たちは常に煩悩に覆われているため、物事の真実の姿が見えないのであります。
 しかし、仏様は飽きもせず、常に私たちを見守って下さっているので、私たちが求めれば、いつでも助けて下さるという教えです。
 難問に遭遇したとき、私たちは時間をかけることによって、その難問解決を達成することがありますが、これもいわゆる仏様の力なのだと思うのです。
 つまり、難問が発生した場合、正しい思考と行動で、その解決にあたっておれば、私たちの心の中で潜在意識の力が働いて、あるとき突然、解決の道が開けるのだと思うのです。
これは私たちの心の中には常に、仏様(あるいは神様) がおられるからである、と私は解釈しております。



「みこと」さまへ

2010-01-23 04:46:49 | Weblog
 昨日は、ご親切なコメントを頂きまして真にありがとうございました。
早速、gooヘルプへ問い合わせをしました。メールで回答をいただけるようです。
 「みこと」さまのブログ拝読しました。とても勉強になります。
これからは毎朝拝読させていただきます。
 虚空蔵菩薩は私たち寅年の守り本尊でもあります。私もまた、仏教を学ぶのであれば毎日精進しなさいという点で、この記事に出ている僧侶の方と同じように教えられているような気がし、反省しました。ありがとうございます。
 今後とも何卒よろしくお願いします。

コメントの返事ができなくなりました(何故?)

2010-01-22 03:53:14 | Weblog
 これまでは、コメントがあれば、gooサービスの欄に「新着メールがあります」とのメッセージで知らされていました。
ところが最近、何時も、これが「新着メールはありません」でしたので、コメントを見逃していました。
 このため「海山人」さんと「孫のH.N」君からのコメントへご返事ができませんでした。 真に申し訳ございません。お許しください。

 また、普通どおりにブログ記事欄からコメントの返事もできません。4桁数字を入力して、投稿ボタンを押しても、同じことを繰り返すだけで、投稿が成されません。

 何故なのか、私にはわかりません。どなたか解決方法を教えてください。
 今、問い合わせ先の電話番号が分かりませんので、関係先へメールで問い合わせ中ですが、その返事もなく、困っています。

私が仏教から学んだこと - その三(空海の言葉)

2009-12-24 03:30:39 | Weblog
はじめに

 私は、今年もまた、仏教から良い言葉を学びました。
毎年、このような感動する言葉に出遭います。ありがたいことです。
(このような出遭いは、どのような分野においても有り得ることだと思います。
 また、前向きになって陰徳を積み重ねながら、努力すれば必ず「道は開かれる」ものです)
 それは、空海の言葉です。秩父大師玉泉院住職・塩崎正峰著の本、「生きる勇気が湧いてくる まことの言葉・開運のおしえ」(現代書林発行)の中で紹介されています。

 「六大無碍にして常に瑜伽なり
  四種曼荼各々離れず
  三密加持すれば速疾に顕わる
  重々帝網なるを即身と名づく」
     (『即身成仏義』より)

○ 意訳

 著者は、この言葉をつぎのように訳しておられます。(p87)
「この世はすべてがつながっている。身・口・意の三密で自分やまわりの人を大切にしていれば、神仏のあたたかな加護を受けて願いは叶っていく。
 キラキラと輝く宇宙のエネルギーの中で明るく生きていける。さあ頑張りなさい」と。

○ 用語の意味

用語の意味は、同書によりますと、次のとおりです。(p81~p85)
「六大」とは、宇宙に存在するものすべてを構成している六つの要素。
 「地・水・火・風・空」の五つの要素(五大)と、「識」(人間の心、仏の心、宇宙のエネルギーなど)」を加えて「六大」という。
「無碍 ムゲ 」とは、さえぎるものがない、邪魔するものがない、という意味。
「瑜伽 ユゲ 」とは、「宇宙の真理と一体となる」という意味の梵語。
「曼荼 マンダ 」とは、曼荼羅のこと。曼荼羅は、密教の根本仏である大日如来を中心に、数多くの仏さまたちを細密に描き、密教の世界観、宇宙の真理を視覚的に伝えようとするもの。曼荼羅は大きく分けて四種類ある。
 (投稿者注・この四種類については詳しく紹介されていますが、省略しました)
「三密 サンミツ 」とは「身・口・意」の三つのこと。手で印を結び(身)、真言を唱え(口)、心で神仏を観想(意)すること。
「加持 カジ 」とは、真言行者が仏さまのエネルギーをかりて人々の願いを叶えていくこと。
「速疾 ソクシツ に顕わる」とは、加持を受ける人がどこにいても、どんなに遠くにいても、たちどころに効果があらわれるという意味。
「重々帝網 ジュウジュウ タイモウ 」とは、仏法の守護神とされる帝釈天が住む宮殿を飾る
キラキラと輝く網が宇宙全体に広がっているとイメージする。広大無辺な虚空に広がる透明な網。その網目の結び目一つひとつが、私たち一人ひとりである。
「即身 ソクシン 」とは、どんなに遠く離れた人にも想いが届き、願望が叶っていくことをいう。

○ 私の解釈

 私はこの言葉を次のように解釈しながら、唱えています。
 心と宇宙要素のすべてとの間には何も遮るものはなく、一体である。(「六大無礙にして常に瑜伽なり」による)
 つまり、自分の心は六大だけではなく、更に広大な六次元の世界 -宇宙全体- を包む巨大で透明な網の目で密接に繋がっている。(「重々帝網なるを即身と名づく」による)
 なお、私がここで解釈する六次元の世界とは、空間や大自然や動植物等を含む三次元の世界と先祖や子孫に及ぶ 過去・現在・未来の世界を含むものとします。
 私が、このような巨大な網の目を想像できるのは、次のような根拠があるからです。
 ”生物学者によりますと、人のDNAはそれらを全て結び合わせて一本の糸にすれば、なんと地球と太陽の間を八往復する長さになる”とのことです。
 このことを思えば、私たちの心は私が想像する六次元の世界のような巨大な網の目で、結ばれているという考え方も成り立つと思うのです。

○ 私の活用の仕方

 私は、このような六次元の世界が網の目で繋がっていることを想像しながら、この空海の言葉を唱えた後、次のような考えを巡らせて、最後に感謝の言葉を唱えて、笑うことにしています。
 先ず、「光輝く大空の下で、光と空気と水分と大自然に包まれて、全身に光を浴びながら生活できる幸せ」を強くハッキリと意識します。
 次に、「幸せだなあ 嬉しいなあ 有り難いなあ 楽しいなあ 愉快だなあ 気持いいなあ ついてるなあ」とつぶやきます。
 そして最後に、昭和の哲人・中村天風師の教えによる、
 「喜びだ 感謝だ 笑いだ 雀躍 (コオドリ)だ」と言って、
 ワッハッハッハっーと笑うのです。
これを毎日、三回以上実践することとしています。

○ 私が期待する効果

 私は、このような実践を毎日続けることにより心身の健康が維持され、充実した生活ができると信じています。特に、笑うということは、たとえそれが作り笑いでも、体内の副交感神経を活性化させ、免疫性を高め、血液をサラサラにする効果があると医学的に証明されているそうです。
 しかし、病気は過去の生活体験が原因となって発生するとのことですから、何時かは必ず病気になります。ところがたとえ、病気になったとしても、上記のような実践を続けることにより、血液がサラサラになり、免疫性が高まり、病気を治す力を発揮することができる、と私は信じています。

   

      *** 年末のご挨拶 ***

 皆さまのご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。

 私のブログを訪ねてくださった方々には心から感謝します。
 真に、ありがとうございました。

 来年も、また時々投稿する予定ですので、何卒よろしくお願い申し上げます。

 皆さまが、よいお年をお迎えくださいますようにと心からお祈り申し上げます。


  

台風18号

2009-10-08 04:26:37 | Weblog
 台風18号は予感どおり最悪のコースを通過したようです。
8日0045頃強風の音で目が覚め、03時ごろまで時々二階の寝室に揺れを感じ眠れませんでした。我が家は骨組みが鉄骨製の二階建てです。
 かって現職の頃には、直径3.2メートルのパラボラアンテナ3基を搭載可能な高さ50メートルの鉄塔の強度計算から設計、積算から建築監督まで一人で行った経験があります。ボルト使用の建造物が風で揺れることは当然のことと理解はしていますし、我が家は100年間締め増しをしなくとも安全であるという最新式のボルトナットを使用しています。それでも、我が家となるとまた違うようです。
 これまでに体験したこともない強風と我が家の揺れには少し不気味さを感じました。

 今、中村天風の箴言集「真理のひびき」を読んでいますが、「精神状態が神経系統に影響反映し健康を害するから、精神状態は常に落ち着くように日頃から気をつけていなければならない」というようなことをメモしたことを思い出し、この体験を修練の場と考え、いろいろと試みたりしました。
 様々な不安などの煩悩を取り除くために、不動明王真言「のうまくさまんだあ ぱーさらだん せんだあー まーかろしゃーだー そわたや うん たらたかんまん」
を100回唱えたりしました。
 
 「ありがとう」と「ついてる」を1000回唱えました。

 いろいろなことを試みているうちに、大自然の偉大さを思い知り、同時に、強風で揺れる我が家には部材まで含めると何十万人以上もの方々の苦労が結集されている、ということに思い到りました。つまり、我が家には何十万人以上の人々の、いわば、霊性が注ぎ込まれているのです。ありがたいことです。このまま我が家と共に倒壊しても、だれも恨んではいけないのだということに気が付き、気分もいくらか楽になりました。

 不安で眠れないよりは良い経験、修練をしたのではないかと思っています。

 今、午前5時ですが、また吹き返しで強風が吹き始めました。
 
 私の睡眠時間は昨夜の9時から0050分までと、03時頃から03時50分までの約5時間ですから、睡眠不足ではありません。

 常日頃から、私たちは生活を通じて大自然には感謝しなければなりません。

追記
 0445の台風情報
  鳥羽市の南南東約40キロ、速さ50キロ、中心の気圧 955ヘクトパスカル
  中心付近の最大風速55メートル とのことです。

 我が家からは50km位の南南東を通過したようです。

私が仏教から学んだこと - その二 (執着からの解放) 

2009-09-02 03:59:54 | Weblog

  「八千頌般若経」によりますと、ある菩薩大士が知恵の完成が説かれているのを聞きながら多くの精神集中(62項目)の門戸が現前したとあり、その中の一つに

(53)「あらゆる執着から解放されたという精神集中(三昧)」というのがあります。 (『八千頌般若経Ⅱ』( 丹治昭義訳・大乗仏典3・中央公論新社 p326)

  執着から解放されるということは、つまり、心の中から煩悩を取り払うということであり、私たち凡人としてもできることなら是非体験したい境地です。

  私たちの心の中には、常に、何らかの煩悩が内在しています。 特に、人間は何もしなでいると、不安なことが思い出され、心が消極的となり、不安感を増大させてしまう傾向があるといわれます。要するに、私たちの心は煩悩に覆われやすいということです。

  私たちの不安や苦しみの全ては物事に執着することによる煩悩が原因となっています。 また、心が煩悩に覆われてしまうと、身心の健康まで損なわれることもあります。

  そこで、私たちは不安や苦しみを取り除くために、積極的に元気力ともいうべきものを奮い起こして、心を覆っている煩悩の雲を吹き飛ばしてしまうことを考えるべきです。

 その手法として、私は次のようにイメージすることが効果的であると考え実行しています。 (このとき、私はイメージングの補助手段として、4、5 匹のイルカが海岸の岩場で元気よく、ジャンプしながら泳ぎ回っている様子を想像することとしています)

  先ず、心の中から煩悩の雲を吹き飛ばしてしまえば、心は本来の働きをするということ。

 次に、心の本来の働きとは、 「無邪気に元気ハツラツとして、 明るく楽しく朗らかに、強く正しく逞しく、 積極的に勇ましく、 冷静沈着・謙虚に働く」ということをイメージするのです。

  更に、不安や苦しみを取り除く効果を上げるために、私は、併せて、次のようなことを行っています。

 ① 前回 (その一) と重複しますが再掲します。

 現実の私自身を意識しながら 「両目があって幸せ。 両耳があって幸せ。鼻があって幸せ。 口があって幸せ。 丹田があって幸せ。 両脚があって幸せ。 両手があって幸せ。 頭脳があって幸せ。 五臓六腑があって幸せ。 身心諸器官の機能維持のために自律神経が働いてくれて幸せ。 この大宇宙の中で、空気を吸いながら、大地の上で生活できて幸せ。」 と唱える。 (続いて、「ありがとう」と「ついてる」を、夫々、少なくとも500回(できれば1000回)くらい唱えるとなお良い)

  ② 腹式呼吸をする。 (中村天風師が提唱されている方法が一番良い。  つまり、  丹田に意識を集中し、肩の力を抜いて、肛門を締めて、お腹をへこませながら息を長ぁく吐き出し(10秒間)、つぎにお腹を膨らませながら短く息を吸う(3秒間)、ここで、息を少し止める(5秒間)。 これらの動作は肛門を締めながら行うこと。これを一度に3回、一日に何度か行う。)

  ③ 「爪もみ療法」を一日三回くらい行う。 (阿保徹・福田稔博士が推奨しておられる。ネット上でも紹介されている。「爪の生え際の角を、反対側の親指と人差し指で、両側からつまみ、そのまま痛いくらいの強さで押しもみする。両手の親指、人差し指、中指は10秒、小指は20秒ずつギュッと強めにつまんで刺激する。薬指は刺激しない。なお、この「爪もみ療法」は一日に二~三回が適当であり、それ以上は行わない方が良いとのことです。

 (『奇跡が起こる爪もみ療法』阿保徹・福田稔監修 (株)マキノ出版刊 p118) 」  

  ④ 中村天風師による誓いの言葉を唱える。

     「今日一日

   怒らず 恐れず 悲しまず

    正直 親切 愉快に

    力と 勇気と 信念とをもって

    自己の人生に対する責務を果たし

   恒(ツネ) に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを

    厳 (オゴソカ) に誓います」

   (『成功の実現』 中村天風述  付録より ・日本経営合理化協会出版局刊 )  

   以上の手法をとることによって、私は煩悩を吹き飛ばし、不安や苦しみを取り除くことと しています。


私が仏教から学んだこと - その一

2009-08-08 04:01:37 | Weblog

 皆様、お久しぶりです。しばらく「数学」にはまっておりました。

数学者の遠山啓先生によりますと、「数学は単純な学問で、急所を徹底的にわからせることができたら、どんな人にもわかるように できている」ということです。

一つの基本的な練習問題を何度も何度も解いておれば、やがては難解な応用問題も解けるようになるということです。

どこかキリスト教や仏教の教えに似たところがあります。

 本論に入ります。長くなってしまいましたが、5分ほどお時間をいただければ嬉しく思います。

「無我」と「空」について

  『三昧王経』に次のような教えがあります。

 「心身の諸要素の無我なることをよく体得した人は、罵られても、非難されても、 平然としている。彼は、煩悩という悪魔に征服されることはない。 心身の諸要素の空なることを理解する人は、けっして心が乱れることはない。  [四十一] 」 (『三昧王経Ⅰ』 田村智淳訳・中公文庫・大乗仏典10 p163 ) 

 この教えについて、私は次のように解釈しています。

 1, 「無我」について

  まず、心身の諸要素とは、この経典によりますと五蘊(色・受・想・行・識)のことです。五蘊とは私たちの身体、感受作用、思念作用、意志作用、認識作用の全てのことです。

 ところで、私たちの「自我」というものは、過去から現在までの長い年月にわたる体験の蓄積によって形成されたものです。ですから「自我」は非常に強固であるため、これを取り払い、「無我」の境地に達することなど不可能なことです。

 そこで、私は相対的に、「無我」と同等の境地を作りだし、色・受・想・行・識のそれぞれが「無我」であることを体得できるのではないかと考えています。

 そのことについて次に説明します。 古代から言われているように、私たちの心とは非常に大きな包容力を持っています。つまり、私たちは心の中に、極微の細胞の世界から果てもない大宇宙の世界まで、広い分野を包み込むことができるのです。これを、私は「巨大な精神」と呼ぶこととします。

 その根拠として『自助論』の著者サミュエル・スマイルズの言葉を次に示します。 「広い分野を包み込む大きな精神によって、・・・・・・ 独力で活路を切り拓く・・・・・」というのです。 (『自助論』 サミュエル・スマイルズ著・竹内均訳、三笠書房 P53)

 一方、私たちが出会う全ての事柄は、苦しみも不安も病気なども含めて、この巨大な精神から見れば極く部分的な小さな出来事にしか過ぎないものです。

 たとえば、私たちが病気を患った場合について考えれば、たとえそれが生死に関わるような大病であったとしても、病気を患った部分の細胞の数は、身体内の総細胞数約60兆個から見れば、極く僅かなものです。初期の頃は、おそらく数百万分の一にもならないと思います。つまり、数百万倍もの正常な細胞群が正常、且つ、活発に働いているのです。しかもこれら正常な細胞群は総力を結集して、病気に対する拒絶体制を構築して頑張っているものと考えられます。

 ところが、私たちは本能的に極度の不安感によってその正常な細胞群の働きを 弱めてしまっているように思うのです。つまり、私たちは五蘊(色・受・想・行・識)のすべてを間違った方向へ働かせてしまう傾向があるということです。

 しかし、私たちは心の中に存在する「巨大な精神」を働かせることにより、この傾向を修正することができると思います。ここでいう「巨大な精神」とは、前述のとおり身体内の総細胞数約60兆個の働きや宇宙の働きを包み込んでいる精神のことです。

 一方、病を患った箇所は、五蘊でいう一要素の内の一小部分です。しかも、初期の頃は、他の四つの要素に対する関係は極く僅かであります。たとえば、病のために五蘊のいずれかが影響を受けたとしても、それは「巨大な精神」の働きから見れば、無視できる程に小さなものである、と思うのです。

 ですから、私たちは思念力を働かせて、病のことを無視することができると考えます。つまり、相対的とはいえ、五蘊の全てが無我であることを体得できるような気がするのです。

 ここで、古代スカンジナビアの古老が語ったと伝えられている有名な言葉を紹介します。

 「わしは神も悪魔も信じない。 自らの肉体と魂の力にのみ、全幅の信頼を置く」(前記『自助論』 P86)というのです。

  この古老のことばは、私に、大きな力を与えてくれます。そこで私は、例えば病などによる大きな不安を感じるような場面に出会った時の事前対策として、毎日一回、次のように唱えることとしています。

 先ず、私は宇宙(太陽と地球等)の働きや、自分の身体各器官の働きに対し、全幅の信頼を置き、次のように感謝の気持ちを表すこととします。このとき、併せて思念力を働かせます。

 「両目があって幸せ。 両耳があって幸せ。鼻があって幸せ。 口があって幸せ。 丹田があって幸せ。 両脚があって幸せ。 両手があって幸せ。 頭脳があって幸せ。 五臓六腑があって幸せ。 この大宇宙の中で、空気を吸いながら、大地の上で生活できる幸せ。」 と暗誦する。

 喩え、病気になったとしても、病にわずらった部分は身体の一部だけです。私たちは太陽の光りを浴び、空気を吸い、身体の各器官の殆どは健康で正常、且つ、活発に働いているのです。しかも、これらは総力を結集して、病を患った部分を回復せさるために活発に働いてくれるのです。

 だから、私たちは宇宙や身体の各器官の働きに対して、感謝しなければならないと思います。

 そこで、私は、いざという時のために常日頃から、次のように「ありがとう、ありがとう、・・・・・・」 と唱えています。

 「ありがとう」は、少なくとも、一日に300回以上、必要に応じて1000回、口に出して唱えます。 この際、両手の指を使いながら、「眼、耳、鼻、口、お腹、両脚、両手、宇宙、空気、大地」(10箇所)に意識を巡らせながら、数を数えます。

数の数え方は、「ありがとう」を 10回数えるごとに左手の指を1本折り、左手がすべて終わったとき、つまり「ありがとう」を100回 数えるごとに右手の指を1本折るというように数えます。

 次に 広い砂浜に立って、朝日に輝く大海原を想像しながら。その大海原に向かって、 「ついてる」を少なくとも、一日に300回以上、必要に応じて1000回、口に出して唱えます。 このときは、手の指を使わず、4,3,3(=10)のリズムで数えます。

 このようにして、「魂」に力を付けた後で、「入息出息念」(にっそくしゅっそくねん)を行います。つまり入る息・出る息に成り切ることとします。そのため全精神を集中して静かに出る息を長く、入る息を短くすることを心がけながら、呼吸をするのです。(特に、出る息(吐く息)を長くすることによって副交感神経が活発化し、気分が安らぎ、病気に対する免疫性が高まる、と医学的にも証明されているそうです)

  また、私たちは寝床の中で、様々な邪念や煩悩に悩まされて、中々寝付かれないことがあります。このようなとき私は次のような対応策を追加することとしています。 10段ずつ方向を変えた階段が、100段ある場面を想像し、その階段を一段から百段まで、数えながら登るのです。何回も何回も数え続けるのです。そうすれば、観念的な疲れを感じて、自然的に眠りに入っていくことができます。

 以上が、相対的にですが、私の「五蘊の全てが無我である」ということの体得手法です。

 2.「空」について

 五蘊(色・受・想・行・識)のすべてが「空」であることを理解できれば、心が乱されることはない、というのです。

 五蘊が「空」であることについて、私は次のように解釈しています。

 仏教の教えによりますと、もともと、五蘊(色・受・想・行・識)の本性は「空」なのです。そこに何かの事象が存在するとすれば、それは全て因縁に基づくものである、ということです。

  例えば、昨日の出来事をそのまま、今日再現することは出来ません。同時に、今日の時点で、明日の出来事を定めることはできません。何故なら、私たちは、全て、現時点での因縁に基づいて生活を営んでいるからです。

 このような認識手法を、五蘊(色・受・想・行・識)の夫々にあてはめれば、これらが、「空」であることを理解することができると思います。

 心の中は、本来「空」であることを理解しておれば、どのような不幸な出来事に出会ったとしても、原則として心を乱すことはないのです。

 私たちの心が乱れる原因は、心の中に過去の体験から得られた記憶が思い出されるからです。心が乱れるということは、一種の拒絶反応であり、関連する過去の様々な記憶が一つに結集した現象であると考えることができます。

しかし本来、心の中は「空」なのであり、因縁の働きによって過去の記憶がよみがえるとうわけです。ですから、このような場合には、気分転換を図って、強制的に別の因縁を作り出せば、心の乱れも納まるのだと思います。

  最後に、次のとおり、私の日常生活におけるモットーを示します。

 ・希望を失わないこと。

 ・脳細胞の働きを意識して思念力を働かせながら、次のように唱えること。

  「心の振る舞いは常に、元気ハツラツとして、明るく、楽しく、朗らかに、強く、正しく、逞しく、 積極的に、勇ましく、冷静沈着・謙虚であること」 です。

  さらにいえば、五蘊(色・受・想・行・識)が「無我」であり、「空」であることを体得すれば、次のようなメリットがあり、私たちは、いつも明るく楽しく正しい生活を営むことができると思います。

 ・ 不安を感じない。

・副交感神経を活発化し、NK細胞を活性化するための好条件を作り出すことができる。 (これは、ガンの予防になると医学的にも証明されているということです)

 ・笑顔を作り易くなる。(身体の免疫性を高めるためには、たとえ作り笑いでもよいから、笑顔を作ることが効果的と言われている)

 ・楽天的になり、ストレスを和らげることができる。

・快活な精神で元気ハツラツと振舞うことができる。

・明るく、楽しく、朗らかに過ごすことができる。

・強く、正しく、逞しく、積極的に勇ましく、前向きな姿勢をとることができる。

・冷静沈着・謙虚な気持ちになれる。

  言うまでもないことですが、日常生活において

最も根本的な心構えとしては、

常に、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を念頭に置き、陰徳を積むということを心がけなければならない、と考えています。

 


凡夫が読む『般若心経』ー11

2009-03-19 03:20:06 | Weblog

 前回からの続きです。

・経文

 故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。

 掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提僧娑訶。

 般若心経。

 言葉の意味

先ず、言葉の意味は次のとおりです。

 「般若波羅蜜多」とは「知恵の完成」という意味。

 「呪」とは、「真言」という意味で、真言は言葉で表現することができない。

 「掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提僧娑訶。」のそれぞれについては、西嶋和夫老師著の「般若心経 参同契 宝鏡三昧 提唱」(金沢文庫刊・p64)から次のとおり抜粋させていただきました。

 「掲帝。掲帝。」は「到達している、到達している」という意味。

 「波羅」は、「向こうの岸」という意味。

 「僧」は「サン」ともいい、「完全に」という意味。

 「菩提」は「真実」という意味。

 「僧娑訶」は「幸あれ」という意味。

 私の解釈

 従って、私はこの経文を次のように解釈しています。

 「故に、知恵の完成の真言を説く。すなわち、真言を説いて曰く。  到達している、到達している。向こうの岸に完全に到達している。この真実に幸あれ。

 これで、般若心経を説き終わる」

 ここで、「向こうの岸に完全に到達している」とは、いわゆる無上正等正覚のさとりに達している、ということです。則ち、「さとりの世界」は「知恵の完成」を成就しなければ到達できない世界であるということです。

 また、「知恵の完成」は、真言であるため、ことばで説明することができません。 従って、「知恵の完成」について説かれている「般若心経」は、その全文が一つの方便であると考えることができます。

 方便であるということは、それを読む人によって解釈が違うということです。つまり「般若心経」は読む人の人生経験の深さによって解釈の仕方が変わるということになります。

 私たち凡人が「知恵の完成」へ向かって成長するためには、日頃から「般若心経」を唱え、学び続ける必要があります。

  ところで、私が今、時々暗唱する「お経」は「般若心経」以外に、「座禅和讃」、「十句観音経」、「念仏門」(一般的でない呼び方かも知れません)、「光明真言」、「不動明王真言」の五本です。

 お蔭様で、これらのお経の内容については、それぞれの解説書から学びました。しかし、私はお経の教えは全て方便であるとして私なりの解釈を加えながら唱えています。つまり、仏教には「指月の指」(月を指す指)という教えがありますが、お経は、その「指」に相当していると思うのです。

 ここで、私は仏教を学ぶ際に絶対に忘れてはならないこととして、四聖諦(苦・集・滅・道)、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、因縁の法則、並びに陰徳を積むことを念頭に置くべきであると、考えております。

 参考

 最後に、参考として仏典から次の文を引用します。

  ”スブーティは答えた。「カウシカよ、知恵の完成に努力を傾ける人は、虚空に努力を傾けるのです。知恵の完成を学び、それに努力を傾けようと考える人は、カウシカよ、空間に努力を傾けるのです」 (P242)

  (注(P338): 虚空とは「認識の対象が空であること」を、空間とは「認識が空であること」を含意する。) ”(大乗仏典2 「八千頌般若経 Ⅰ」・梶山雄一訳・中央公論新社 より)

 つまり、私たちが知ななければならないことの本体は「空」であるということであり、また、私たちが認識したと思っていることの本体も「空」であるということです。

 私たちの営みの全ては「因縁に依るもの」でありますから、「すべての本体は空である」ということです。


凡夫が読む『般若心経』ー10

2009-03-13 03:50:41 | Weblog

 前回からの続きです。

・経文

 三世諸仏。依般若 波羅蜜多故。得 阿耨多羅 三藐 三菩提。故知般若波羅蜜多。 是 大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。

  注 : 語句の意味については、脚注に示しました。

私の解釈

  私は、この経文の意味について次のように解釈しています。

 過去・現在・未来の諸仏は、知恵の完成を成就したことによって、無上正等正覚、つまり、「無上にして完全なさとり」をさとられた。

 故に知るべきである、知恵の完成とは、大いなる絶対的な真言、大いなる明白な真言、最高の真言、他に比較できるものがない真言である。その真言は、真実で虚偽がなく、一切の苦しみを除くことができる。

(ここで「真言」とは「知恵の完成」のことであり、言葉では表現できないものであるといわれています)

 「般若心経」は、言葉では表現できない「知恵の完成」を凡人に伝えるために、方便を使ってあえて言葉によって説く教典であります。ですから、私たちは、「般若心経」を習い、覚え、実践し、唱え続けておれば、苦しみから解放された境地を味わうことができる筈です。

 この「苦しみから解放された境地」には、学びの深さによって、効力が低いレベルから高いレベルまであるのではないかと思います。私たちは、「般若心経」を学び続けることによって、そのレベルを向上させることができる、と私は考えています。

 なお、私は「三世諸仏」について次のように解釈しています。

 先ず、現在の諸仏とは私たちが仏典などから教えを受けているお釈迦様とその他多くの菩薩大士のことです。

 仏典は、お釈迦様はじめ多くの菩薩大士が「知恵の完成」という真言を巧みな方便を使って述べられているといわれております。真言は言葉で表現できないため、方便を活用しているというわけです。ですから、私たちが仏典を理解するためには、その方便を自分の人生経験に照らし合わせながら学ばなければなりません。このことは過去の人々や未来の人々にとっても同じであると思います。学ぶ者としては、それぞれの人生経験に対応しながら教えを受けるということです。

 経文では、このような実情を説明するために「三世諸仏」という言葉を使っているのだと思います。 つまり、お釈迦様とか菩薩大士という呼び方は同じでも、現在では現在仏、過去では過去仏、未来では未来仏であるということです。ここでいう三世とは100年前とか100年後とかという長い時代を指すばかりではなく、例えば、私自身についても子供の頃と現在と一年後の私が教えを受けるお釈迦様や菩薩大士にしても同様です。私は、私自身の生涯にわたって三世諸仏から教えを受けるということです。

参考 :

 知恵の完成について、仏典によりますと次のように述べられています。

 「世尊よ、知恵の完成とは全知者の知の成就のことであります。 世尊よ、知恵の完成とは全知者の本性であります。」 (シャーリプトラ長老のことば・「八千頌般若経」Ⅰ・梶山雄一訳・大乗仏典 2・p204) 

 世尊はこれを承諾したうえで、次のように述べられています。

 「知恵の完成はいかなるものをも与えない。全知者性をも与えない。 認識のような仕方では与えない。心のはたらき(名)のような仕方では与えない。 作為のような仕方では与えない。与えないという仕方で与えるのである」 と。(同上本 p209)

 私たち凡人が、全知者としての「知恵の完成」を成就することは不可能です。しかし、その働きは前回に想定した「空の場」を主な道場として営まれるのであろうということが、何となく分かるような気がします。「空の場」では五蘊(色・受・想・行・識)などが「無我」であり、「空」であるという考え方を進めて行けば、「全知者の知」が概念的に分かってくるのではないか、と私は考えています。

脚注: (「新版 仏教学辞典」((株)宝藏館刊)より抜粋)

・阿耨三藐三菩提 : 無上正等正覚 ( ムジョウショウトウショウガク )と訳す。仏が覚者である根拠としての智慧の悟りのことで、この上なく優れ正しく平等円満である点から このように称する。

・三世諸仏 : 三世にあらわれる多くの仏を三世諸仏という。 ただし 小乗では一仏ずつ時をへだててあらわれる諸仏を指すが、大乗では空間的に十方の諸仏が時間的に三世にわたってあらわれるとし、 十方横化 ジッポウオウケ ・ 三世竪化 サンゼジュケ という。

・呪 : 呪は普通、(梵)マントラ(真言)の訳語とするが、またダーラニー(陀羅尼)、ヴィドヤー(明、術)の訳語としても用い、またマントラを密呪、ダーラニーを総持呪、ヴィドヤーを明呪 ミョウジュ と訳して区別することもある。

・真言 : (梵)マントラの訳。呪、神呪、密呪、密言などとも訳す。真実でいつわりのないことばの意。 仏・菩薩・諸天などの誓いや徳、またその別名、教えの深い意味などのこもった秘密の語句を指し、中国・日本などでは翻訳をせず原語を音写して用いる。 文字言語をかりて表示した密呪を指して真言というのみならず、広く法身仏 ホッシンブツ の説法を真言という。

例:峰の松風や川のせせらぎの音も真如実相を説く如来の説法であるから、真言であるとする。


凡夫が読む『般若心経』ー9

2009-03-02 03:21:01 | Weblog

前回からの続きです。

・経文

 無智亦無得。以無所得故。 菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。 無罣礙故。無有恐怖。遠離一切 顛倒無想。究竟涅槃。

 私の解釈

 語句の意味については、脚注に記しました。

 ここに掲げた句は前三回と同様、「是故空中。」という句に懸かっています。

 つまり、「空の中」である故に、「無智亦無得。以無所得故。」(「智」もなく「得ること」もない、「得ること」がないから)・・・・・・と続くわけです。

 次に、「依般若波羅蜜多故」とは、知恵の完成を成就している故に、という意味です。また、「無罣礙」とは、さわりがない、という意味です。

ですから「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。」とは、知恵の完成を成就された菩薩大士は、心にさわりがなく、さわりがないから、・・・・・・・という意味です。

 ところで、私は「是故空中」の「空」について、次のように考えています。

 前回でも述べましたように、頭脳内の意識領域と外部環境との間に、私は「空の場」を想定しています。

外部環境の情報は因縁に基づき六根を通して、先ず「空の場」に入ります。「空の場」に入った情報は、過去からの経験が蓄積されている意識領域内の知識や知恵の働きによって処理されます。その処理された結果が私たちの生活の営みとして現実化されるというふうに考えます。ですから、ここで想定した「空の場」は、知識や知恵の働きがなければ、智もなく得ることもなく、また、心にさわることも、何もありません。

 知恵の完成を成就された菩薩大士の意識領域内には、何千万年にも相当するような豊富な修行体験に基づく知恵や知識が充満しているのであろうと想像できます。

 一方、私たち凡人の意識領域内には、先祖から受け継がれてきたものが含まれているとはいえ、誕生以来の短い年月の間に、体験してきたことによる知識や知恵であり、未熟なものです。

 ここで、私が想定する「空の場」に限って言えば、菩薩大士も私たち凡人も、その様相に変わりはなく、そこには知識も知恵も我も執着心もこだわりもさわりもなく、恐れや間違った考え方からも一切、無縁です。強いて言えば、「空の場」には六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通して入ってきた外部環境の情報が、ありのままの静寂な相(すがた)として存在しているだけです。

 そこで、「心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切 顛倒無想。究竟涅槃。」という経文について、私は次のように解釈しています。

 因縁を無視すれば「空の場」では、さわりがなく、さわりがないから、恐怖もなく、一切の間違った考えも起こらず、静穏寂滅の世界、つまり、究竟涅槃の世界であります。

 繰り返しになりますが、私たちは、因縁によって「空の場」に入ってきた外部環境からの情報に対して、意識領域内に蓄積されている知識や知恵が働くことによって、生活を営んでいる、と考えることができます。ですから、現実的には因縁のない生活はできませんが、しかし因縁が働かないという想像力を働かせれば、心の中を静穏にすることは可能であると思います。

余談

  次に示す教えの言葉は、私が想定した「空の場」に適用することができると思います。

 「心身の諸要素の無我なることをよく体得した人は、罵られても、非難されても、平然としている。 彼は、煩悩という悪魔に征服されることはない。 (心身の諸要素の)空なることを理解する人は、決して心が乱れることはない」(三昧王経・大乗仏典10・p163〔四十一〕・田村智淳訳・中公文庫)

 つまり、「空の場」においては心身の諸要素(色・受・想・行・識)が無我ですから、煩悩に征服されることはありません。また、心身の諸要素(色・受・想・行・識)が空ですから、心が乱れることもない、ということです。

 このように考えることによって、私は必要に応じて、一時的にですが自分の心身を鎮めるようにしています。

 なお、私はこの「空の場」を「経文を理解するための補助線である」と呼びたいのです。

脚注:言葉の意味

 「新版 仏教学辞典」((株)宝藏館刊) から引用しました。

 心無罣礙 : 心にさわりのないこと。また、無罣礙にはすべてのものがとけあって互いにさまたげない円融無碍と、すべての障礙を自在にやぶる自在無礙の意があるとの意味もある。

 顛倒 : 道理にそむいて誤っていること。二顛倒、三顛倒、四顛倒などがある。

  二顛倒とは、

   衆生は真理を知らず煩悩に迷わされており(衆生顛倒)

   衆生の住む世界も迷いの世界である(世界顛倒)こと。

  三顛倒とは、

   対象に対して誤ったうけとり方をし(想顛倒)、

   誤った見解に執われ (見顛倒)、

   そうした心自体がいつわりである (心顛倒)こと。

  四顛倒には ①有為の顛倒と②無為の顛倒との二種類ある。(投稿者注:ここでは、有為の顛倒についてのみ記します)

   凡夫がこの世(迷いの世界)の真のすがたを知らず、

   無常なものを常であると、

   苦であるものを楽であると、

   不浄なものを浄であると、

   無我であるものを我であるとして執われていること。

  究竟 :

   ① 至上絶対の究極を表わし最上級を形容する語。

   ② ものを徹底的に極め尽くすという意。

  涅槃 :

   ・ 寂・寂滅と訳す。・ 元来は吹き消すこと、吹き消した状態を表わし、燃えさかる煩悩の火を滅尽して、さとりの智慧、即ち、菩提を完成した境地をいう。

  また、究竟涅槃とは、仏教の至高最終の目的である大般涅槃( ダイハツネハン) のことをいう。


凡夫が読む『般若心経』ー8

2009-02-22 03:25:59 | Weblog

前回からの続きです。

・経文

 是故空中。 無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。 無限界。乃至無意識界。 無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。 無苦集滅道。

 ・私の解釈

 この経文は三回に分けて解釈しています。今回は第三回目として、 「無苦集滅道。」について述べます。

はじめに、「苦集滅道」について

 「苦集滅道」とは仏教の根本的思想であり、「四諦 シタイ 」と称して、四種の真理と言われています。それぞれの意味については、「新版 仏教学辞典」・(株)宝藏館刊 によりますと、次のとおりです。なお、( )内は投稿者が挿入しました。

 四つの真理の第一(苦)は「迷いのこの世はすべてが苦である」ということ。

 第二(集)は「苦の因は求めて飽くことのない愛着である」ということ。

  第三(滅)は「その愛執の完全な絶滅が苦の滅した究極の理想境である」ということ。

 第四(道)は「このような苦滅の境に趣くためには八聖道 ハッショウドウ の正しい修業道によらねばならない」ということ。 以下、省略。

 また、西嶋和夫老師はその著書のなかで、「四諦の教え」さえあれば、仏道は完全に解ける」と述べておられます。( 『般若心経 参同契 宝鏡三昧 提唱』P147)

 なお、八聖道とは、いわゆる八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のことです。

 つまり、四諦の教えによりますと、私たちは八正道を実践することによって、苦しみのない寂静な涅槃の境地(理想境)に達することができるというのです。

 八正道の実践とは、正しい見方、正しい考え方、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい信念、正しい心、に徹して生活を営むということです。

 しかし、私たち凡人は八正道だけの生活を続けることはできません。 むしろ、私たちは八正道が実践できないからこそ人間的に成長することができるのです。何故なら、私たちの心が鍛えられ成長するのは、苦しみを体験するからです。私たちは苦しみを克服するために努力したり、反省したりします。その体験が私たちを成長させているのです。

 ですから、私たちは八正道を念頭に置きながら、必要に応じて実践すればよいのではないかという考え方もできます。

余談ですが、

 禅宗には、「月を指(サ)す指(ユビ)」ということばがあります。 これは、経典について説明するときに用いられる言葉です。経典が指(ユビ)に相当し、経典の言葉の奥深くに潜んでいる真実が月に相当するというのです。

どういうことかといいますと、経典は生き方の方向を示すもので具体的な真実を述べたものではない、いわば、経典とは一つの方便であるというわけです。

 「苦集滅道」や「八正道」の教えは、当に、月を指す「指」であるということになります。

 次に、経文の「是故空中。・・・・無苦集滅道。」について

 たとえば、私たちが静かな寝室で熟睡しているときは、一切の苦や集や滅や道とは、一切、無関係です。このことは昼間における生活の場においても応用できると思います。

 まず、次のような条件を想定します。私は、これを二本の補助線であると考えています。

 ① 頭脳内の意識領域と外部環境との間には「空の場」が存在する。

 ② 生活の営みは、すべて「空の場」の中で働く因縁にもとづいて行われている。

と。

 そこで、たとえば苦しみとは、「空の場」において因縁の働きによって発生したものであると考えます。その苦しみを取り除くためには、因縁の法則に従って気分転換を行い、別のものごとに熱中すればよいのです。このようにすれば、苦しみから解放されることができる筈です。 この場合、苦しみから解放されたということは、苦しみが「空の場」の中に溶け込んでしまったと考えることができます。

 「空の場」とは大空のようなもので、一切の事象は大空に浮かぶ雲のごとくに、因縁の働きによって現実化される、というふうに考えればよいのではないかと思います。

 つまり、経文の通り、「是故空中。・・・・無苦集滅道。」ということです。


凡夫が読む『般若心経』ー7

2009-02-14 03:36:35 | Weblog

前回からの続きです。

・経文

 是故空中。 無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。 無限界。乃至無意識界。 無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。 無苦集滅道。

 ・私の解釈

 この経文は三回に分けて解釈します。今回は第二回目として、「無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。」について述べます。

 この句は、無明から始まり、老死に至るまでの十二縁起について説かれたものです。十二とは、無明・行・識・名色・六処(六入)・触・受・愛・取・有・生・老死であります。

  仏教学者の中村元先生によりますと、これらの十二縁起は人間が誕生する前から、この世を去るまでの、因果関係を示すものである、と解説されています。(脚注に、中村元先生の解説文を示しました)

「般若心経」の解説書はどれを読んでもほぼ同じような内容です。 仏教学者たちの解説文は非常に難解であるるため、簡単に理解することができません。そこで私は、十二縁起の意味について、概ね次のように解釈しています。

  1.無明とは、私たちが対象とするすべての事象(以下、「物事」という)について、はじめは何も分かっていない、内容が不明であるということ。

 2.行とは、「物事」との出合いをきっかけとして、何らかの行動を起こすこと。

 3.識とは、行動を起こした結果、「物事」について知識を得ること。

 4.名色とは、「知識」を得た結果「物事」の名称を知ること、又は、名称を付けること。

 5.六処(六入)とは、名称が付けられた「物事」に対して、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を働かせてさらに観察すること。

 6.触とは、「物事」に対して心身とも、密接に関わること。

 7.受とは、「物事」を自分のものとして受け入れること。

 8.愛とは、「物事」に対して愛着心を持つこと。

 9.取とは、「物事」に執着すること。

10.有とは、「物事」を自分の所有物として存在することを自覚すること。

11.生とは、「物事」を自分のものとして生かすこと。

12.老死とは、「物事」は、時間の経過とともに、やがて忘れ去られること。

 次に、本題の句を理解するために、私は前回と同様、解析幾何学における「補助線」の導入方法に従って、「空の場」を想定します。

 私たちは、いわば「空の場」の中で、縁起(因縁)の働きによって生活を営んでいると考えるわけです。ですから、「空の場」では、本来、全ての物事が無明であるということです。

 なお、経文でいう「無無明」とは「明」の否定の否定、つまり、「明」であるということではなく、「無明」そのものが「無」であるという意味です。  

 そこで、私は本題の経文を次のように解釈しています。

 例えば、私たちは不愉快な「物事」に出合ったとき、今は関わりたくないと思うことがあります。そのとき、私たちはその「物事」を忘れ去るように努力します。完全に無視し、忘れ去った物事に関しては、十二縁起も起こりません。十二縁起が起こらないということは、私たちが不愉快な「物事」から解放されているということです。

 つまり、「無明から老死まで」の因果関係はないということです。経文では省略されていますが、詳しく示せば次のとおりとなります。

 「是故空中。無無明・無行・無識・無名色・無六処・無触・無受・無愛・無取・無有・無生・無老死」ということです。

  また、不愉快な「物事」を忘れ去るということは、物事が「空の場」の内に埋没してしまったということです。しかし、何らかのきっかけによって、再び浮かび上がり私たちを悩ますことになるということはあり得ることです。

 つまり、十二縁起は完全に滅し尽くされているのではなく、きっかけさえあれば、いつでも起こってきます。経文では、このことを省略して説いていますが、これを詳しく示せば次のとおりです。

「是故空中。無無明尽・無行尽・無識尽・無名色尽・無六処尽・無触尽・無受尽・無愛尽・無取尽・無有尽・無生尽・無老死尽」ということです。

  以上のように私は解釈しています。

 脚注:  十二縁起について、

 中村元先生は次のように解説されています。

無明  : 過去世に無限につづいてきている迷いの根本である無知

行   : 過去世の無明によって作る善悪の業

識  : 過去世の業によってうけた現世の受胎の一念

名色  : 胎中における心と体

六入  : 胎内で整う眼などの五根と意

触   : 出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある

受   : 苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚

愛   : 苦を避け常に楽を追究する根本欲望

取   : 自己の欲するものに執着する働き

有   : 愛取によって種々の業を作り未来の結果を引き起こす働き

生   : (説明なし) 

老死  : (説明なし)

  以上のように過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触・受)、現在の因(愛・取・有)と未来の果(生・老死)という二重の因果を示すものとして、これを三世両重の因果という。しかし、これは有部の教義にあらわれる後世の形式的、胎生学的な解釈であって、本来の形はもっと名目も少なくて、人生の苦しみの根源を追究して、それについての因果関係を示すものであったろうと考えられる。(中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』 p30)