住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

祝・本尊御開帳

2024年04月05日 13時37分55秒 | 備後國分寺の風景
 祝・本尊御開帳   


3月31日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。5時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺院方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。

午前8時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。お寺様方全員お集まりになられ、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために、職衆みな色衣紋白帽子を着しました。

この日午前9時から午後5時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に9時から予定の涅槃会に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤に進み、涅槃会勧請の頭を発音。総礼の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供、祭文、舎利講別礼伽陀、散華、梵文、錫杖、舎利講讃嘆伽陀、和讃、釈迦念仏、舎利讃嘆、舎利礼。会所の役として奉送、称名礼の頭を唱えました。以上略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。

この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。

このあと、稚児行列のため、衲衣袍服に着替え、檜扇装束念珠を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。

本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して弁念香威、塗香護身法、洒水。前讃発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。慶讃文は以下の通りです。

「謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆。殊には、本尊藥師如来、日光月光、十二神将。総じては仏眼所照一切三宝の境界に申して言さく。
 夫れ、國分寺と者、聖武天皇勅願寺にして、時代の変遷により盛衰を重ねたり。延宝元年、水害により廃滅したる堂宇を、中興一世快範上人晋山して、福山城主水野勝種侯大檀那となりて復興なし給えり。ここに開帳せし如来は、再建されし本堂の本尊として、日光月光十二神将と共に、元禄五年京仏師林右近(はやしうこん)氏により彫成されたる尊像なり。
 先代和尚、平成六年本堂再建三百年祭を挙行して御開帳以来三十年の年月、瞬刻に過ぎ、本日吉辰(きっしん)を卜(ぼく)し、神辺結衆諸大徳並びに有縁の名刹諸大徳に光臨賜り、稚児の先導を受け、当山檀信徒の総意を以て、本尊御開帳の法筵(ほうえん)を布(し)き奉(たてまつ)る。
 本尊薬師如来、実に三百三十年の長きに亘り信徒の安寧と仏行の成満のために数多の参詣人を守護し来たる。当山檀信徒並びに今日参詣善男善女人、その恩恵に報いて厚く信仰の誠をここに捧げん。
 仰ぎ願わくは、本尊薬師如来、法会所設の六種の妙供を哀愍納受(あいみんのうじゅ)して威光倍増し、広大慈悲の願望(がんもう)改むることなく、檀信徒各各の惑悩を平癒し、永く快楽(けらく)を与え給え。加えて、天童子(てんどうじ)に擬したる稚児らの健やかな成長と無病息災を祈るものなり。
重ねて乞う、
備之後州 國分精舎 伽藍安穏 護持檀信 万邦協和 利益衆生 
今日参詣 随喜諸人 家門繁栄 子孫長久 除災招福 如意円満
乃至法界 平等利益
干時令和六年三月三一日
 唐尾山國分寺中興十四世全雄 敬白」

慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。

それから、改良服に着かえて、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらいささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服に着替え、午後一時に入堂。職衆が土砂加持法則にしたがい声明を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法を修法しました。光明真言法において勧請する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれいるように感じられ誠に有り難く法悦にひたり修法を終えました。

土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和3年10月11月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。

最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、3時15分頃散会となりました。

お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ挨拶のあと、お見送りをいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し又の再会を約しました。その後5時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせていただき、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった1日を語りつつ祝杯をあげました。午後5時丁度再度参詣された圓照寺ご住職様とともに真言を唱えつつ、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。

今年1月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンターの方々、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に感謝申し上げます。誠にありがとうございました。


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(追記あり) 30年ぶりの本尊御開帳 是非ご参詣ください

2024年03月31日 07時37分21秒 | 備後國分寺の風景
30年ぶりの本尊御開帳 是非ご参詣ください。



ここ備後國分寺では、来月3月31日午前9時から午後5時まで、普段閉じられている本尊厨子の扉を開きます。その間に、ご都合の良い時間にお越しになり内拝下さい。

元禄7年(1694)に福山城主水野勝種侯が大檀那に成られ現本堂を再建されました。それから300年となる平成6年に、本堂再建三百年祭が先代和尚により挙行され、その際に御開帳されてから早いもので30年が経ちました。

延宝元年(1673)の水害により荒廃した堂宇を復興していかれた、時の中興一世快範上人が記した『國分寺中興基録』と題する記録が今に伝えられています。

それによれば、元禄5年に新しい本堂の仏像一式を京都柳の馬場松原下る町の京仏師林右近氏に依頼しており、その際の注文書通りの仏像を今日目にすることができます。

本尊薬師如来座像、木造像高76センチ。日光月光菩薩立像、55センチ。厨子の両脇には十二神将立像、52から54センチ。来迎二十五菩薩立像、24から26センチ。このほか弘法大師像等。いずれも元禄5年作。是非これらの仏像を参拝にお越しください。

因みに、この日は朝9時頃から「涅槃会」が行われます。常楽会とも言われ、お釈迦様のご入滅された2月15日に本来執行される釈迦追慕讃嘆のための法会となります。

その後10時45分頃から参道入口から本堂へと御詠歌隊に先導された稚児行列があります。稚児は、幼子が天童子の姿をまとい、仏様に仕えて供物を供え、仏縁を深めて健やかな成長を願うものです。

そして、稚児に先導され入堂した僧侶方により午前11時頃から「御開帳法会」が本堂にて行われます。

また午後1時からは、土砂を加持する功徳によりご先祖の供養をする「土砂加持法会」が行われます。
法会後、2時10分過ぎから、徳島文理大学文学部文化財学科教授濱田宣先生より、この度のご開帳に関するご講話がございます。また、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生も東京から遥々ご参詣くださり、ご講話を頂戴する予定です。

どの法会にもお気軽にご参詣ください。

当日車でお越しの方は、福山方面より国道313号国分寺口交差点を左折して徳永商店前を右折して國分寺参道を入り、参道途中左側の福山市駐車場(無料)に駐車ください。境内は御寺院専用駐車場となります。なお10時30分頃から30分程度稚児行列のため参道は通行不可となります。


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今日の護摩供後の法話に補足して

2024年02月21日 19時45分24秒 | 仏教に関する様々なお話
今日の護摩供後の法話に補足して


今日も沢山の添え護摩の木を皆様書いて下さって大きな護摩を焚かせていただきありがとう御座います。毎月お大師様の日に、一ヶ月のいろいろ積もった、願い、思い、計らい、心の重荷を仏様にすべてをお預けして、放下する心の大掃除の場として、私も大切な行として修法させていただいています。

ところで皆様の中には、自分自身が病を抱えている方もあるし、ご家族が長く患っている人もあります。また長く患っていた家族をお見送りしたという方もあり、様々な思いを以てお参りいただいていると思います。

私たちのしがちなこと、習慣として何事も二つに分けるということをしがちです。良いこと悪いこと、楽しいこと苦しいこと、幸せなこと不幸なことと。ですから、病気になる、亡くなる、またはいろいろな場面で思ったようにならなかったりすると、それらは悪いこと、良くないこと、不幸なことと判断しがちです。

ですが、それらは本来自然現象です。色々な原因によって結果しただけのことに私たちは色々とそこに思いを重ねて気持ちが塞いだり、落ち込んだりしてしまいます。

どうしても一つのことに心が塞いで閉じこもってしまったようなときは身体を使って動いてみることです。外へ出たり、運動したり、出られないときは映画でも見たり本を読んだり。

すべてのことはあるべくしてあるのだから、そのことをどう受け取り、捉えて、そこからどうしていくかが大切でしょう。

これまでの様々な積み重ねによって今があるわけですが、この次にどう考え行動するかによって未来は違ってきます。悪いことが起こったと暗い気持ちになることなく、冷静に、ではどうあるべきかと考えて、自分の心を自ら幸せなものにする必要があります。

人のせいにしても何も解決しません。残念なことではあるけれども、あるべくしてあったのだと思いあきらめて、あるいは、自分の考え思いがすべて正しい、こうあるべきという考えも捨てて、自分の受け取り方を変えてみたら、自ら幸せな心を作り出していく工夫や智慧が湧いてくるのではないかと思います。

息子さんに先立たれたある方が、当初は相当なショックだったようですが、しばらくしてそれをきっかけに若い時の夢であった音楽の世界に再チャレンジして、作曲したり歌ったりして、同じように子供に先立たれた家族に向けた歌を作り、多くの人たちから励ましをいただいたと感謝された方がありました。

また昔歯医者さんの奥さんでご主人のスケジュールや会計まで任されてとてもハードに働いていたら、ステージフォーのがんが発覚して、色々と思案されて、すべて仕事を辞めてしまわれて、生活を一変して、瞑想やお経の勉強などをされて、食品も厳選して生活されていたら、いつの間にかがんが消えて、今も元気に以前とは比べ物にならないくらい精神的にとても豊かに暮らしている方もあります。

私たちはみんな前世までの沢山の業を持って生まれてきて、来世にその業を少しでも善いものにして受け渡していく役割があります。何があってもそれによって自分を変えて、それを一つの学びと捉えて、前向きにプラスのものに転回していってほしいと思うのです。

人生で起こることのすべてが自分が学び成長していく切っ掛けとしてあり、来世により良いものを受け渡すためにあるのだと思えれば、何があっても冷静に受け入れることができます。病気も、身近な人の死も、失敗も、挫折も。

そうした悪いことと思われがちなことの方が、かえって善いことよりも多くの学びを私たちにもたらしてくれるのかも知れません。・・・

月例護摩供は、毎月二十一日午前8時から9時頃まで、大師堂にて。お気軽におこし下さい。


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備後國分寺だより 第66号(令和6年1月1日発行)

2024年01月29日 08時16分33秒 | 備後國分寺だより
 備後國分寺だより 第66号(令和6年1月1日発行)


七回忌の法事にて
  極楽は極楽か


「お疲れさまでした。長いお経を聞いてくださり、また、ご一緒に『仏前勤行次第』を御唱和いただきご苦労様です。今日は七回忌ですから、こちらの塔婆に書いてありますように、七回忌の本尊様阿閦如来に沢山のお供えをし、読経供養を施し、その功徳を六年前に来世に赴かれている○○大姉に手向けるというのが今日の法事です。

こちらにあります塔婆には、上から梵字で「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」と書いてあるのですが、これはよく先祖墓に見られる五輪塔を表していまして、その意味は下から地水火風空となります。これはそれぞれに大をつけて、五大ともいわれるこの宇宙全体を構成する要素となるものです。

それぞれの意味は、地大は堅さを性質としてものを保持する働きを表し、水大は湿り気を性質としてものを収めとる働き、火大は暖かさを性質としてものを成熟させる働き、風大は動きを性質としてものを成長させる働き、空大は虚空のことでこの場合空間を意味しています。

これは、その成り立ちそのものである大日如来を表わしているものともいえ、五輪塔を建立することは、多くの人を幸せに導く仏教のシンボルとして、誠に功徳あるものです。そこで、法事にあたり薄い板ではありますが、その五輪を刻んであしらい、五輪塔を建立する功徳を今日の法事の○○大姉に手向けるために建立されるのです。 そして、塔婆には、その下に回忌の本尊様を象徴する梵字が書かれ、そのあとには「○○院○○○○大姉七回忌菩提の為也」とあります。

七回忌の菩提ですが、菩提とは覚りのことですから、七回忌の覚りというものが特別にあるのかというとそうではなく、この七回忌の法事に当たり前世の家族親族であった皆様の供養する功徳をいただかれ、さらに覚りに向かい一歩でも前進して心清らかにご精進くださいという意味となります。

あれ、そうなんですか、死後は極楽浄土に逝けるという宗旨もあるのにとお考えになられるかもしれません。

が、少しお考えいただきたいと思うのですが、この煩悩だらけの私たちの考える極楽と仏様のお考えの極楽とは随分と環境や居心地が違うのではないかと思うのです。ちょっと待ってください、コンビニに行ってきますというわけにはいかない世界です。仏様の世界に逝くというのはそのまま仏様を目の前に教えをいただき仏様のように過ごすことです。きらびやかな荘厳にとらわれがちですが、仏様の世界は禅定の世界です。

昔禅宗のお寺にご縁あってお世話になっていたことがあります。そこでは「接心(せつしん)」という、一週間一日に十時間以上座禅する坐禅会があり、三度ほど参加させてもらいました。

周りは禅宗のお寺さんばかりで、はじめはじっと座っているだけで緊張し、体中の筋という筋が突っ張りゆったりと座ることもできませんでした。そうした時に警策(けいさく)という棒で肩から背中にかけてパンパンパンと叩いてもらうと、スッと身体の緊張が解けて楽になったことを思い出します。

皆さんが突然そうした坐禅会に参加されたらどんな感じになられるでしょうか。私は高野山やインドに行った後にご縁をいただき参加させてもらったので多少の下地はあったのに、それでも大変でした。

さらに韓国の禅宗にはその坐禅会の期間が五十日に及ぶところがあるとか。またスリランカやミャンマーなどでは、期間を設けずに、横になって寝るのは一日二三時間だけで、あとはずっと坐禅瞑想ばかりしている森林派のお寺さんもあるとか。そんなところに突然放り込まれても、おそらく一週間と持たないと思います。

極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界と思わなくてはいけないとすると、そこにいられるだけの心、つまり欲も怒りもない、何があってもなくても動揺しない心を作ってから行くべきではないかと思うのです。

インドの仏教徒たちは、また死後も人間に生まれ変わりたいと言います。もちろん今よりも裕福な家に生まれたいと。そのために沢山の功徳を積んでおきたいから、お寺に行きブッダを礼拝し、ドネーションしてお坊さんたちに食事を食べて修行してもらって功徳をたくさん積んでおきたいと思っています。

今日の法事の○○大姉もおそらくそんな厳しい世界ではなく、○○家の皆様同様の敬虔な仏教徒の家に生まれ変わり、そこでたくさんの功徳を積み、心を浄めて、一生でも早く仏様のような清らかな心を作ってくださるべく精進されているものと思います。

そのために皆さんも今日の法事において、たくさんの功徳を積まれ、来世におられる○○大姉に向けてその力となるべく功徳を回向されたということです。

この次は十三回忌、少し先になりますが、それまで仏壇から功徳をご回向してあげて欲しいと思います。本日は誠にご苦労様でした。」

○この法話を実際に聞いてくださった方々が、聞いていておそらく頭の中に?マークがついたのではないかと思われる点について、解説を補足してみたいと思います。

まずはじめに、「来世に赴かれている」という表現についてです。死んだら無に帰するとか、仏になるという表現もありますから、死後のことは心配いらないとお考えになる方もあるかもしれません。ですが、仏教は死とは体と心が分離することであるとされ、身体はこの世の借りものなのです。心が本人であると考えます。そして、すべてのことに原因ありとする教えです。この世に生まれ、こうして私たちが縁あり、この話を聞いてくださるのにも原因と縁があってのことです。

ですから、亡くなったら身体は荼毘(だび)に付されますが、心には様々な思いが残り、それが因となり、その心に相応しい来世に赴くと考えるのです。それを輪廻するというわけですが、間違いのない生涯であれば人間界以上の世界に、もしも暗い心で亡くなったりすると餓鬼の世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に生まれ変わる可能性があるとされるのです。

実はこの生まれ変わりに関する研究は学問的に古くからインドやスリランカで進められており、日本では東京の産婦人科医池川明さんが有名です。米国ではヴァージニア大学において一九六〇年代から専門に研究する超心理研究室がつくられ、世界ですでに二千件もの間違いのない生まれ変わりの事例が確認されているとか。学んでもいない行ったこともない地方の言葉を話し出す子供がいて、その地域に連れて行くと、ある家の家族の大人に自分の子供に対するようにその子が語り掛けたりということが実際にあるそうです。

次に、「この煩悩だらけの私たちの考える極楽」とありますが、中には死ぬとそれこそ仏になれるのだから、今の自分とは次元が違う心になると考える人もあるかもしれません。船橋の大念寺というお寺に大島祥明さんという住職さんがおられます。実際にお会いしてお話を伺ったこともありますが、『死んだらおしまいではなかった』(PHP研究所)という本に、亡くなられた人の死後の心について書かれています。

十年間ばかりの間に二千件ものお葬儀をされたということなのですが、しばらくすると通夜のお経を唱えていると亡くなった人の心が語りかけてくるのがわかるようになったというのです。誰が亡くなっても急に人が変わることはなく、その人の本質的なものがあらわになって語りかけてくると書かれています。誰もが亡くなった時の心にしたがって死後の心もあるということなのです。

それから「仏様の世界は禅定の世界」ということについてですが、仏様の世界の下には、無色界、色界という天人の世界があるとするのが仏教の世界観です。私たち人間界はその下の欲界にあるとします。色界、無色界は共に深い禅定を修めた人たちが死後に生まれる世界とされています。その上に位置する仏の世界は当然それ以上の静謐(せいひつ)なる世界と言えます。

そこで、「極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界」という表現となっているのです。そのことについては、浄土真宗のお寺出身の武蔵野女子大学教授花山勝友先生がお書きになった『仏教を読む・捨ててこそ得る[浄土三部経]』(集英社)という本から核心の部分を転載させてもらいます。

「古来浄土経典とよばれるものを典拠として、死後の世界としての極楽が説かれてきたわけですが、教義の上からいいますと、実は、極楽という世界は、経典に描かれているような、人間にとっての理想的な世界では絶対にあり得ないのです。…浄土というのは、人間の欲望の対象になり得るようなものがあるはずはないのです。

…浄土を極楽と名付け、そして、その世界がいかにも人間にとっての理想的世界のように描写しているのは、一人でも多くの、煩悩を抱いている、まだこの世に生きている人間を導こうという目的のためであって、これを仏教では方便といっているのです。(P19~P22)」以上


中村元東方研究所
 東方学術賞授賞式に参加して 

昨年十月十日、東京九段のインド大使館で、公益財団法人中村元東方研究所の第三十三回中村元東方学術賞の授賞式が行われ、参加しました。

今回の栄えある授賞者には、これまで何度も本紙にご著作を紹介して学ばせていただき、また平成二十二年三月福山に本派研修会にお越しの際に当山にもご参詣をいただいたこともある、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生が選考されました。

以前先生から東方研究所の会報をお送りいただいたご縁で、数年前から会員にさせていただいておりました。

先生は長年にわたり、シク教の研究やイスラム資料からインド仏教の盛衰を研究され、それのみならずインド宗教全般の幅広い研究に多大なる実績を挙げられての受賞でありました。

受賞後のご挨拶で先生は、「学問研究もただ自らの成果とするばかりではなく、広く世の中に、特に世界の平和と人々の安寧に寄与するものでなければならず、昨今の国際情勢の不穏な現状にも貢献できるための比較思想、比較文明論であらねばならない」と述べられ、とても印象に残りました。

なお、若手の研究者を対象にした学術奨励賞には、明治の傑僧といわれた釋雲照律師の研究書『釋雲照と戒律の近代』(法蔵館)を出版された亀山光明氏が受賞しています。

亀山氏は真宗寺院の寺族でありながら、近代の真言僧の戒律について研究する矛盾を感じつつも、自らの出自で悩んだ過去の煩悶が近代の仏教を学ぶ中で救われる思いがするという経験から研究を続けているとのことでした。

後日読んでみますと、とても丁寧に明治時代の資料を渉猟してなされた研究であることがわかりました。そして、雲照律師の戒律思想は理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであり、近代に相応しい活動であったと結論しています。

近代仏教は、真宗僧ばかりが取り上げられる「真宗中心史観」ともいわれる状況でしたが、こうした若い研究者のお陰で見直されつつあるのはありがたいことであると思います。今後の研究にも注目したいと思います。


お茶会を終えて  

昨年九月十七日、ここ國分寺を会場にお茶会が開かれました。尾道のNPO法人・茶の湯歳時記同好会主催の百人を超える参加者が来訪される盛大な茶会でした。

同会は、これまでにも尾道の浄土寺や海龍寺、光明寺、三原の極楽寺などで茶会を開催してこられました。この度は、『茶の湯~西国街道をゆく~』と題された連続茶会の今年五月に開催された第四回尾道海龍寺文楽茶会に続く、第五回神辺備後國分寺茶会として行われたものです。

ことの始まりは、今年二月に神辺在住の表千家教授である理事さんが訪ねてこられ、是非客殿で茶会を開かせて欲しいと申し入れがありました。これまで茶会などとは縁のなかったこともあり、総代さん方にも相談の上快諾を得て、その後理事さんとのやり取りの中で日程も決まりました。

今年五月ころだったでしょうか、副理事長さんと実際に茶会で作法される先生方が会場の視察に来られ、部屋割りや出入り口の確認をしていかれました。そして八月末にもう一度理事さんが会場の確認に来られ、茶会前日には茶道具や花、掛け軸を持参され、会場の設えがなされて当日を迎えました。

当日は先生方は午前八時前にはお越しになり、九時から本堂で本尊様へお茶をお供えする供茶式法要がありました。同会理事長の壇上博厚氏より挨拶と来賓の紹介があり、そのあと供茶式が行われ、梵語の心経を独唱の後、理事さん方や茶会に参加される皆様方と心経を読誦しました。

遠くは京都や広島からお見えの方もあり、午前A九時半、午前B十一時十分、午後C十三時十分の、それぞれ定刻には定員を超える三十五名の予約されたお客様方が集い、客殿奥の間の濃茶席・中の間の薄茶席・客間の点心席と移動しながらゆっくりとお茶を飲み、國分寺での茶会を堪能されお帰りになられたことと存じます。濃茶席は表千家流十友会、薄茶席は表千家流雛の会が担当されました。先生方にはこれまでなされた大寺とは違い手狭に感じられたかもしれません。

皆さまが片付けを終えてお帰りになったのは夕方四時半ころだったでしょうか。九月半ばとはいえ夏の暑さの残る中丸一日着物でご奮闘なされ誠にご苦労様でした。後日早速に理事長様から丁寧な毛筆の礼状が届きました。「吹く風の 色こそみえね 唐尾山の 古代の松に 秋は来にけり」と歌を添えてくださいました。ありがとうございました。

國分寺では、夏の行事万灯会が八月二十一日に終わって、次の日から庭屋さんが入り庭園から境内の樹木の剪定が行われ、今年は殊の外丁寧な作業が二週間続きました。その間庭園や境内の草取り、中門外や参道の草刈り、本堂の縁や茶室の濡れ縁の掃除、そして茶会の前日まで本堂客殿の室内ももちろんのこと清掃に勤めました。普段しないところまで掃除ができ、あらためて掃除の大切さが知られるということもありました。

お寺は専門的な言葉では現前僧伽(げんぜんさんが)の役割として檀信徒に維持していただき様々な行事法務に勤しむ活動をしているわけですが、一方で世界のすべての仏教施設は四方(しほう)僧伽として、すべての仏教徒に門戸を開き適切な対応がなされなければならないものです。勿論ここにある僧伽とは僧の集団をさすわけですが、僧園や精舎などの施設は四方僧伽に属するともあります。今日の寺院も僧伽と考えれば、一般的にも寺院は公共の施設として捉えられもしますが、本来お寺は四方僧伽としてより広く人々に開かれてあることが本来のあり方と言えます。

そう考えますと、この度の茶会も、伝統文化の普及発揚のためになされた、人々の心を豊かに育むための活動に対する四方僧伽としての役割を果たしたものといえましょう。私どもも茶会が行われたことで多くのことを経験し学ばせていただきました。お茶会のため、残暑厳しい中参道の草刈り、草取り、外トイレの清掃にご精進くださった檀信徒の皆様に改めて感謝し御礼申し上げたいと思います。


三方よしということ           

三方よしという言葉があります。近江商人の心得とも、モットーともいわれますが、売り手も買い手もそれから世間にも良いことを言うのだといいます。

ネットの言葉検索で「コトバンク」を見てみると、『「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。』とあります。

世間良しのところを社会貢献に置き換えてしまっています。これでは世間良しは商いと別物のように受けとられかねません。商いそのものが世間にとってもよいものである必要があるという本来の意味を読み違えそうな表現ではないかと思えます。商いと社会貢献を切り離しては本来の意味の三方よしにはならないでしょう。

ところで、昔サラリーマン時代に、「てんびんの詩」という映画を見たことがあります。ある情報出版社で営業企画の仕事をしていて、営業マンたちの研修に参加して一緒に見たのです。研修用の映画というので、誰もがこれ見よがしの教育ビデオ程度に思って見始めたのですが、終わった時にはみんな涙を浮かべて、見てよかった、もっと早く見ておきたかったと言い合ったものでした。みんなしんみりと、自分の営業の至らなさを思い知った人もありましょうが、その人生の根幹にまで思いを馳せ考えさせられる内容に誰もが重たい気分になりました。

制作した会社のホームページ『日本映像企画・オフィスTENBIN』には、次のようなあらすじが書かれています。
「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋(なべ)の蓋(ふた)が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。

しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。

行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。

無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。大作は、その場に手をついて謝る。「堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです。」女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった。」

そして、鍋蓋を買ってくれた女は、近所の人たちにも声をかけてくれて、おかげで大作の鍋蓋は売り切れ、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」という商いの神髄を知ることができたのでした。大作は父もしたようにてんびん捧に“大正十三年六月某日”と鍋蓋の売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰っていきました。商いに関すること以上に、親の子に対する思い、世間の他所の子に対する接し方、幼い主人公の心の葛藤など、学ぶべきことの多い作品でしたが、今の時代、教育という観点からも一度は若いうちに見ておきたい映画の一つではないかと思います。

主人公が農家の井戸の洗い場にあった鍋蓋を見て考えて、思い改めて涙があふれ、そのときその鍋蓋はただ自分が売るための商品ではなく、自分にとってかけがえのないものであり、ただただ、いとおしくなった鍋蓋。気がつくと無意識のうちにその場に下りていき汚れた鍋蓋を一心に洗っていました。自分は何もわかっていなかった、商いということがわかっていなかった、鍋蓋のことも、それを使う人の気持ちも。その素直な気持ちが農家の奥さんの気持ちを動かし、鍋蓋を売ることにつながりました。

売り手と買い手、そして、その周りの人たちにも、お父さんお母さんや店の人たちにも喜びや安どの気持ちをもたらしたことでしょう。主人公の少年から鍋蓋を買った奥さん方はその鍋蓋を大切に使用したであろうことも想像されます。まさに三方よしといえましょうか。

ところで、たとえばお堂の材木は伐採され製材した材木の売り手があり、その材を買い手として大工さんや工務店があり、お堂の一材として建設されます。勿論買い手と売り手が適正な価格取引に満足してのことであり、そして、そこに集う参拝する人々が世間としてそのお堂で様々な祈願をなし、多くの人の集う場となることによって、三方よしが成立します。

また様々な病気や感染症に対する薬やワクチンがあります。まず、それを作る製薬会社があり、それを症状ある人や感染を危ぶむ人が購入し、飲用したり投与する。それにより世間の人たちは安心し健康な生活を享受できる。それで快復改善されるばかりなら問題はなく三方よしとなりますが、その価格が適正なものではなく、さらに副作用が想定よりも多くなり、社会に不安を与えるようなら、それは三方よしとはならないでしょう。

広島県では昨年、県が許可した三原市の産廃最終処分場から染み出した水の汚染度が法定の水質基準の二倍を超えているなどとして地域住民による訴えがなされました。地裁にて県の審査の不備が指摘され建設と操業差し止めの仮処分が決定したにもかかわらず、それに対し県は控訴するとした問題がありました。処分場建設会社と土地を提供した県の二方に、世間としての地域住民がよければ三方よしとなるのでしょうが、残念ながらそうはならなかったケースといえます。当事者だけ良い取引ではやはり後々問題が生じ世間からは後ろ指をさされる可能性があるということでしょう。

日本の仏教は、その教えの基本的な考え方として自力とか他力とか言われることがあります。ですが、真言宗では三力という考え方をいたします。修行する自らの功徳力とそれに対して仏の側からの救済の力、それに宇宙の万物に宿る生命力によって悟りは成し遂げられると考えるのです。やはり三方の力が総合されて初めて良しとする考え方といえるでしょうか。

さらに慈悲も自らがよくあってこそ他を慈しむことができるわけですが、慈悲の心を養う瞑想法では、まずは自らの幸せを願い、身近な人たちの幸せを願い、そして生きとし生けるものの幸せを願います。やはり三方がよくあらねば慈悲も成り立たないということです。何事にもこの三方よしを確認することによって、当事者だけでなく周囲の人たちや社会にとってもよい、間違いのない行いをなすことができるということにもなります。

近江商人が育てあげた総合商社に伊藤忠商事があります。その創業者伊藤忠兵衛の言葉に『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉があるといいます。これは近江商人の先達たちに尊敬を込めて語ったとされるのですが、いにしえの商人方は実業も仏行と捉えられていたということです。仏の心にかなう行いを心掛けたいと思うなら、近江商人に倣い、この三方よしを確認すべしということであろうと思います。


國分寺に掛けられている書画について


まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。

本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。

玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。

「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。

左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya svaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書かれたのは私の出家の師となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官(こうりゆうぜんかん)です。梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。 

客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜(くさなぎぜんぎ)猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師(しやくうんしようりつし)によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園(つらじまそうえん)にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。

この書は高野山の執行長(しぎようちよう)時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。

そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚心」が掛けられています。

同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄(りゆうちみつおう)猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を描いた額があります。

そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍(どきほうりゆう)師の書もあります。師は明治二十六年(一一八九三年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。

そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城(ごんごほうじよう)」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。

この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞(りゆうずい)猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶(とも)に了々たり」と二行に書かれています。

また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(一八四一年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。

そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊(ぎよくうん)の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。

同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄(ぶんゆう)師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 

北側には雲照律師が安政六(一八五九)年に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮(はちす)を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る」と書いてあります。

それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。

弘法大師の著作『秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。

この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。

そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。

北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治時代になると仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。

そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯(じようによたんがい)猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。

「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴  小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清 
 東林吐月々更明 此夕何夕最多清  床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
 独在香楼費吟句 何厭翫月至五更  天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」と、先代が書き残してくれていました。

ご参詣の折に、是非ゆっくりとご覧ください。


【國分寺通信】
 朝な朝な 出づる日影は 我ために
  こことをしふる 西の山端  (慈雲尊者和歌集より)

「極楽願求のこころを」と題する和歌となります。
毎朝拝む朝日に手を合わせ、一日の安穏を祈り、尊者が提唱された十善の生活の中で、十悪を避け、たくさんの徳を積む。そして、一日の終わりには沈む夕日に西方浄土の方角を教えられ、一日無事に過ごせたことに感謝の心を捧げつつ、合掌する。そうした極楽を思い信仰の生活を送る人の営みが自然と目に浮かぶ一句と言えましょうか。

○今年は御涅槃です。そして、平成六年以来のご本尊の御開帳を予定しています。当日は朝九時には御開帳し、夕方五時に扉を閉じる予定です。この間に、九時過ぎからお釈迦様の涅槃会を厳修し、十一時ころから稚児行列・御開帳記念法会、午後一時からは土砂加持法会、御法話となります。

この間にいつでも本堂に参詣できますので、ご都合の良い時間にお越しになり、是非お姿をご覧になりお詣りください。御稚児さんは、参道を歩き本堂内にお詣りします。たくさんのご参加をお待ちしています。若い方々へお声がけくださいますようよろしくお願い申し上げます。

 
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)


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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (3)

2023年12月11日 19時13分22秒 | 仏教に関する様々なお話

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (3)



私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうというものです。

今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。

一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。

今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。

ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。

どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったりあるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。

このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行はざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。



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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)

2023年11月18日 20時14分44秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)


まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。


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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (1)

2023年11月15日 08時43分48秒 | 仏教に関する様々なお話

雲照大和上遺墨展によせて - 住職のひとりごと

雲照大和上を学ぶ会の松本宣秀師が23日来訪された。来月14日から18日まで倉敷市立美術館にて、倉敷仏教会主催「雲照大和上遺墨展と講演・明治150年を雲照大和上に問う...

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『十善の法話』 東京十善会蔵版  明治二十八年四月十五日十善会福田慈海編輯発行 

『十善の法話』 雲照和上の御講演 (東京三浦家において)

さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、またついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。


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國分寺に掛けられている書画について

2023年10月08日 17時20分24秒 | 備後國分寺の風景
國分寺に掛けられている書画について



まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。

玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。



左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya suvaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書いたのは私の出家の師匠となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官で、梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。 

客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。この書は高野山の執行長時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚空」が掛けられています。

同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を書いた額があります。



そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍師の書もあります。師は明治二十六年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。

そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。

この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林に独座す草堂の暁 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶に了々たり」と二行に書かれています。

また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(1841年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。

そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。

同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 

北側には雲照律師が安政六年(1859)に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮を観じて自浄を知り、菓を見て心徳を覚る」と書いてあります。

それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。弘法大師の著作『秘蔵寶鑰』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。

この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。

そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。

北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治に仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。

そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。
「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴 小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清 
 東林吐月々更明 此夕何夕最多清 床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
 独在香楼費吟句 何厭翫月至五更 天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」

是非ご参詣の折にはゆっくりとご覧ください。

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補足解説・七回忌の法事にて

2023年09月30日 19時53分34秒 | 仏教に関する様々なお話
補足解説・七回忌の法事にて



この法話を実際に聞いてくださった方々が、聞いていておそらく頭の中に?マークがついたのではないかと思われる点について、解説を補足してみたいと思います。

まずはじめに、「来世に赴かれている」という表現についてです。死んだら無に帰するとか、仏になるという表現もありますから、死後のことは心配いらないとお考えになる方もあるかもしれません。ですが、仏教は死とは体と心が分離することであるとされ、身体はこの世の借りものなのです。心が本人であると考えます。そして、すべてのことに原因ありとする教えです。この世に生まれ、こうして私たちが縁あり、この話を聞いてくださるのにも原因と縁があってのことです。

ですから、亡くなったら身体は荼毘に付されますが、心には様々な思いが残り、それが因となり、その心に相応しい来世に赴くと考えるのです。間違いのない生涯であれば人間界以上の世界に、もしも暗い心で亡くなったりすると餓鬼の世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に生まれ変わる可能性があるとされるのです。

生まれ変わりの研究が学問的に進展しており、日本では東京の産婦人科医池川明さんが有名ですが、米国のヴァージニア大学では1960年代から超心理研究室において研究がすすめられ、世界ですでに二千件もの間違いのない生まれ変わりの事例が確認されているとか。学んでもいない行ったこともない地方の言葉を話し出す子供がいて、その地域に連れて行くと、ある家の家族の大人に自分の子供に対するようにその子が語り掛けたりということが実際にあるそうです。

次に、「この煩悩だらけの私たちの考える極楽」とありますが、中には死ぬとそれこそ仏になれるのだから、今の自分とは次元が違う心になると考える人もあるかもしれません。船橋の大念寺というお寺に大島祥明さんという住職さんがおられます。実際にお会いしてお話を伺ったこともありますが、『死んだらおしまいではなかった』(PHP研究所)という本に、亡くなられた人の死後の心について書かれています。

十年間ばかりの間に二千件ものお葬儀をされたということなのですが、しばらくすると通夜のお経を唱えていると亡くなった人の心が語りかけてくるのがわかるようになったというのです。誰も亡くなっても急に人が変わることはなく、その人の本質的なものがあらわになって語りかけてくると書かれています。誰も亡くなった時の心にしたがって死後の心もあるということなのです。

それから「仏様の世界は禅定の世界」ということについてですが、仏様の世界の下には、無色界、色界という天人の世界があるとするのが仏教の世界観です。私たち人間界はその下の欲界にあるとします。色界、無色界は共に深い禅定を修めた人たちが死後に生まれる世界とされています。その上に位置する仏の世界は当然それ以上の静謐なる世界と言えます。

そこで、「極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界」という表現となっているのです。そのことについては、浄土真宗のお寺出身の武蔵野女子大学教授花山勝友先生がお書きになった『仏教を読む・捨ててこそ得る[浄土三部経]』(集英社)という本から核心の部分を転載させてもらいます。

「古来浄土経典とよばれるものを典拠として、死後の世界としての極楽が説かれてきたわけですが、教義の上からいいますと、実は、極楽という世界は、経典に描かれているような、人間にとっての理想的な世界では絶対にあり得ないのです。…浄土というのは、…人間の欲望の対象になり得るようなものがあるはずはないのです。

…浄土を極楽と名付け、そして、その世界がいかにも人間にとっての理想的世界のように描写しているのは、一人でも多くの、煩悩を抱いている、まだこの世に生きている人間を導こうという目的のためであって、これを仏教では方便といっているのです。(P19~P22)」とあります。以上



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七回忌の法事にて

2023年09月23日 07時38分57秒 | 仏教に関する様々なお話
七回忌の法事にて



お疲れさまでした。長いお経を聞いてくださり、また、ご一緒に「勤行次第」を読誦いただきご苦労様です。今日は七回忌ですから、こちらの塔婆に書いてありますように、七回忌の本尊様阿閦如来に沢山のお供えをし、読経供養を施し、その功徳を六年前に来世に赴かれている○○大姉に手向けるというのが今日の法事です。

こちらにあります塔婆には、上から梵字で「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」と書いてあるのですが、これはよく先祖墓に見られる五輪塔を表していまして、その意味は下から地水火風空となります。これはそれぞれに大をつけて、五大ともいわれるこの宇宙全体を構成する要素となるものです。それぞれの意味は、地大は堅さを性質としてものを保持する働きを表し、水大は湿り気を性質としてものを収めとる働き、火大は暖かさを性質としてものを成熟させる働き、風大は動きを性質としてものを成長させる働き、空大は虚空のことでこの場合空間を意味しています。

これは、その成り立ちそのものである大日如来そのものを表わしているものともいえ、五輪塔を建立することは、多くの人を幸せに導く仏教のシンボルとして、誠に功徳あるものであるので、法事にあたり薄い板ではありますが、その五輪を刻んであしらい、五輪塔を建立する功徳を今日の法事の○○大姉に手向けるために建立されるのです。

そして、塔婆には、その下に回忌の本尊様を象徴する梵字が書かれ、そのあとには「○○院○○○○大姉七回忌菩提の為也」とあります。七回忌の菩提ですが、菩提とは覚りのことですから、七回忌の覚りというものが特別にあるのかというとそうではなく、この七回忌の法事に当たり前世の家族親族であった皆様の供養する功徳をいただかれ、さらに覚りに向かい一歩でも前進して心清らかにお過ごしくださいという意味となります。

あれ、そうなんですか、死後は極楽浄土に逝けるという宗旨もあるのにとお考えになられるかもしれません。が、少しお考えいただきたいと思うのですが、この煩悩だらけの私たちの考える極楽と仏様のお考えの極楽とは随分と環境や居心地が違うのではないかと思うのです。ちょっと待ってください、コンビニに行ってきますというわけにはいかない世界です。仏様の世界に逝くというのはそのまま仏様を目の前に教えをいただき仏様のように過ごすことです。きらびやかな荘厳にとらわれがちですが、仏様の世界は禅定の世界です。

昔禅宗のお寺に出入りしていたことがあります。そこでは「接心」という、一週間一日に十時間以上座禅する坐禅会があり、それに三度ほど参加させてもらったことがあります。周りは禅宗のお寺さんばかりで、はじめはじっと座っているだけで緊張し、体中の筋という筋が突っ張りゆったりと座ることもできませんでした。そうした時に警策という棒で肩から背中にかけてパンパンパンと叩いてもらうと、スッと身体の緊張が解けて楽になったことを思い出します。

皆さんが突然そうした坐禅会に参加されたらどんな感じになられるでしょうか。私は高野山やインドに行った後にご縁をいただき参加させてもらったので多少の下地はあったのに、それでも大変でした。さらに韓国の禅宗にはその坐禅会の期間が五十日に及ぶところがあるとか。またスリランカやミャンマーなどでは、期間を設けずに、横になって寝るのは一日二三時間だけで、あとはずっと坐禅瞑想ばかりしている森林派のお寺さんもあるとか。そんなところに突然放り込まれても、おそらく一週間と持たないと思います。

極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界と思わなくてはいけないとすると、そこにいられるだけの心、つまり欲も怒りもない、何があってもなくても動揺しない心を作ってから行くべきではないかと思うのです。インドの仏教徒たちは、また死後も人間に生まれたいと言います。もちろん今よりも裕福な家に生まれ変わりたいと。そのために今沢山の功徳を積んでおきたいから、お寺に行きブッダを礼拝し、ドネーションしてお坊さんたちに食事を食べて修行してもらって功徳をたくさん積んでおきたいと思っています。

今日の法事の○○大姉もおそらくそんな厳しい世界ではなく、○○家の皆様同様の敬虔な仏教徒の家に生まれ変わり、そこでたくさんの功徳を積み、心を浄めて、一生でも早く仏様のような清らかな心を作ってくださるべく精進されているものと思います。そのために皆さんも今日の法事において、たくさんの功徳を積まれ、来世におられる○○大姉に向けてその力となるべく功徳を回向されたということです。

この次は十三回忌、少し先になりますが、それまで仏壇から功徳をご回向してあげて欲しいと思います。本日は誠にご苦労様でした。


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