ZZR1400GTR's Tagebuch(日記)

主に独逸・墺太利・瑞西・南チロルの欧州事情を発信。

総走行距離2372キロ

2019-09-03 16:29:22 | ZZR1400
総走行距離は2372キロでした。予定より600キロ近く少ないのは中南欧を大きく左周り(ベネチア経由で北上)して南チロル経由で帰らなかったです。理由は最終日前日から最終日にかけて全域で雨の予報だったからアルペンの峠街道を避けたのです。
統計上、日本人ライダーのアルプス街道で亡くなった数は、ドイツ人ライダーの100倍以上になる(母数を考慮すると)のはいろいろな理由があるのですが、その一つは日程が詰まっていて諦められないで無理をするから、があります。
スイスのある峠では、たった一つの峠ですが、去年までに100人近くのライダーが数百メートル落ちて亡くなっています。
今回、南チロルに寄れなかったのは大変に残念なことでした。"予報には当たり外れがあるのに、よく我慢できたわね"と女房に言われましたが、"お前は俺の女房だけれども、娘の母親でもあり、お前の母親にとっては一人娘でもあり、そんな人を危険な目に合わせることはしないよ"って言ったら、私の応えが意外に思えた様でした。


各国の高速料金

2019-09-03 16:03:58 | ZZR1400


スクリーン上のステッカーはスロべニアのもの、下はオーストリアのもの、イタリアは高速上に料金所があります。クロアチアでは下道だけ使いました。ステッカーのある国は割安、ない国は割高です。スイスは一回でも高速を使えば一年分のステッカーを買わねばなりません。


最終日

2019-09-03 15:05:49 | ZZR1400


最終日、ドイツ最南端から帰国してドイツ人たちの長期夏季休暇の最終日(偶然にも日曜日)の大渋滞に巻き込まれ、ドライブインで休憩した後で"南無三"でアウトバーンに再進入してしばらくして雨と雷のMIXに遭遇、既に4ヶ国横断で走行距離500キロ越えしていて疲れていたのですが、橋ゲタの下に避難して両者とも乗車したままハザードランプ出して一計中に、12.4V、12.3V、12.2V、と電圧表示の値が下がってきて、後ろからチラ見していた女房が不安がり始め、既に19時を回っていたのですが、思い切って次の出口の街で宿を見つけることに。こういう際には雨やスクリーンで視界が悪い上に、問い合わせに宿屋にバイクを寄せる時に、石製のツルツルの段差や大袈裟な道路のペイント、駐車場全体に敷き詰められた砂利、この晩は運悪く土地のビール祭りが重なっていて断られる都度に募る疲労、結局5件目で予算的には倍な値段で部屋を確保できて、しかも徒歩で行けるイタリアンを宿屋の人予約してくれて、なんとか女房の機嫌が直ったのがコレ、

このお店は廃院になった修道院の備品を使っていて、従業員もコック以外の全員が修道女や修道士の姿でした。料理は望外に美味しくて、最初のミネストローネがコレ

翌朝は雨量も1mm以下になり一気に北上して昼過ぎには我が家で遅めのお昼にありつきました。泊まった宿屋の朝ごはんは普通に良かったのが、さすがにバイエルンです。






タンデムの意味

2019-08-31 10:20:10 | ZZR1400

※これは院長先生宅の置物

タンデムの意味、普段はタンデムしないとか、決してタンデムしないとか、タンデムする相手がいないとか、タンデムばかりしているとか、状況は色々だと思いますが、"意味"について考える事ってあまりありませんでした。
今度の夏季休暇は別に仕事と結びつけなくても自分のバイクでも来れたんですが、女房の方から"バイクで行かない?"って誘われて、彼女の"渇き"を察し、咄嗟に"うん"と言ってしまったんです。本当は2013年の大きなバイク事故以来、長距離や二人乗りは避けていたんです。長い時間走っていると、どうしても想い出しそうで怖かった、が本音でした。
K1600GTLは、発売当時の長距離テストランの印象では好印象でしたし、現在所有しているバイクにABS付きが無く、女房を乗せたくは無かったんです。それで、2016年にマイナーチェンジを受けたK1600GTLの長距離タンデムランをすることになりました。この手のバイクはせいぜい乗ったと思っていましたが、徹底的にタンデムしないと見えなかったことが沢山あって(見つかって)、走れば走るほど事故後のトラウマも薄まって来ています。
事故後に女房が我が家の主のようになり既に6年目になります。それまでは私が25年間主だったんで、現実とは直ぐにはリンクしないにせよ、短時間、精神的にタンデムの前後を交換したかった、のでしょう。先日の夜(スロベニアの最後の夜)に思い切って女房に訊いたら、"そう明確には考えていなかったけど、そうハッキリ言われると、そうだと思う"って言われました。
私は事故後に全く違う職種に転身中ですが、それは元々したかったこと、それをドイツでリアライズするとは思いいませんでしたが、家族の応援無しには不可能なことでした。女房にも娘にも感謝しています。

走行距離1356キロ

2019-08-31 00:31:10 | ZZR1400

今日までの走行距離は1356キロ、まあ往復で約3000キロ位はいくでしょう。帰りは2日かけて山道以外を行く予定ですが、総重量約550キロ(2人で2週間分の荷物)
なバイクの燃費はほぼカタログ通りで、初期型に無かった"R" (バック)はなかなかです。


クロアチアのBMW乗り

2019-08-29 06:20:52 | ZZR1400


昨晩にスロベニアからクロアチアに入国、ここは2千キロ近い海岸線を持ち、欧州の中でも夏のバカンスのメッカな一つ、帰独寸前まで写真のBMW 乗りのお宅に連泊しています。彼は地元の病院の院長さんで、娘さんは今やクロアチア一のオペラ歌手として世界中で歌っていて、息子さんは医大生、乗っているクルマはカイエン、典型的な勝ち組家族ですが、すごくフレンドリーです。女房はイタリアの音大を卒業したばかりの頃からの彼の娘さんを知っていて、彼女は普段はドイツの我々の地元の街で暮らしています。

K1600GTL

2019-08-27 09:42:39 | ZZR1400
K1600GTL、出たばかりの頃に南チロルへテストツーリングをしました。それは数日間なものでしたし、タンデムではありませんでした。今回は2週間近くでタンデム、距離的にも当時の3倍以上です。まだまだテストは続きます。




タンデムの快

2014-10-11 23:04:13 | ZZR1400


今夏の出張先で撮った一コマ。「ああ、こんな所をタンデムで走ったり、一服したり、食事したり、泊まったり、したら、さぞ愉快だろうな」 って考えていました。最近はこんな写真の瞬間でもライダーと後ろの相棒の間では無線で会話が成り立っていることが多くなりました。オーストリア、スイス、イタリア、フランスのアルペンなんかを同行していたのですが、40以上の峠道を10日間で次々と越えていくが目標でしたが、実際には30峠位で終わり、しかしこうなると、もう「数」などに拘るライダーは皆無で、笑顔で一杯な夕飯と酒盛りの夜練が連日続き、朝は朝で心地良い疲れとその日への期待感で、平均年齢50歳以上(詳しくは言わない・笑)男女がニコニコしていました。皆さん、「一生の思い出」 となったようです。

カフェレーサー

2014-09-09 18:20:58 | ZZR1400
日本語の Wikipedia には以下の様な由来が書かれています。

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1960年代、イギリスで唯一の24時間営業だったロンドンのカフェ、エースカフェにロッカーズとよばれる若者達が、改造されたオートバイで毎夜のように集まって、店のジュークボックスにコインを入れて曲が始まると同時にスタートし、曲が終わるまでにカフェに戻ってくるという公道レースを行っていた。改造されるベース車両はノートンやトライアンフ、BSAなどのオートバイであった。当時はロッカーズこそがカフェレーサーであったが、その文化が世界中に広まり、現在の日本でもオートバイの改造スタイルの一つとして認知されている。
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南ドイツのシュッツッツガルト近郊には全長10キロを超えるようなレースコースがありました。今では一般道になっていますが、1900年初頭に作られたこのレースコースでは60年代にF1も開催されていました。二輪のレースも全カテゴリーでレースがあったようです。今は一般道の一部になっている当時のレースコースの一部を交通封鎖して、ロンドンのエースカフェとの連携でカフェレーサーの集いがドイツで開催されるようになって久しく、1000台以上のバイクが集まって来ます。

このバイクはドイツの隣国オーストリアのザルツブルグからやってきたクリストフさん(28歳)の車輛。XJ900を大改造したもの。仲間6人と一緒にやって来て、トランスポーターの中で雑魚寝しながらカフェレーサーの祭典の週末を過ごし、草レースにも出ていました。お金はそれなり、手間だけはすごく掛かっていそうで、本人もロッカーズの雰囲気プンプンの身なりでした。皆、とっても人懐こくて、自分も仕事を忘れて楽しめた土曜の昼下がりだったのです。

久々の1400GTR

2014-07-27 08:41:24 | ZZR1400
「久々の1400GTR」 と言っても自分で乗っている訳ではなく、追い抜かれざまに挨拶した御仁の事です。彼はあっという間に詰めてきて、慌ててデジ一を手にとって ON して何とか撮影でき、一旦千切れましたが料金所(イタリア内)で見かけましたが、次もあっという間に消し飛んでいってしまい、しかし、しか~し、なんと高速上のガソリンスタンドの脇で電話中の彼を発見。給油の必要は無かったので窓を開けてゆっくり走りながら 「良いバイクですね」 って言うと喜んでいるようでした。乗っているバイクを褒められて良い気分にならない人は稀だと思いますが、1400GTR はあらゆる意味でBMWツアラーを凌駕できたバイクです。K1600GTL だけがこれに対抗できる感じですが、最高速と加速で 1400GTR に軍配上がります。この御仁のバイクはトラコン付きの第二世代の 1400GTR ですが、トラコンの反応速度は BMW のそれより速いとの定評がドイツであります。

うーん、と唸ってしまいました

2013-12-05 05:48:03 | ZZR1400
昔、昔、アプリリアのファルコにも乗っていた頃、近所のアプリリアの代理店でバイトしていた若者がこういう風な事故を起こしたのを想い出しました。彼は四肢を失いながらも生き延びたのですが、警察に促されて引き取りに行った店主の言では 「あたった木を巻くように潰れていてバイクの形をしていなかった」 そうです。この写真のライダーは事故現場で即死していました。ドイツ語には日本語の様な 「亡くなった」 の様な表現がなくて、「死んだ」 だけで、あっけらかんです。

自分としては今だに乾いた印象がドイツ語にはあるのですが、どう言い換えても 「死んだ」 ことにはかわりはなく、亡くなったご本人との関係で表現方法の選択肢が多い日本語はよりウェットな表現をし易い言語なのかもです。コンピューターのプログラミング言語で考えると、CPU(頭脳に相当)は一緒なのにプログラミング言語(各国の言葉に相当)が違うと、ある種の傾向(書き易さや行程数の増減、実行速度の差等)が生じるのですが、それに似ていると思います。

最近に自分も 「逝ったかも」 の大事故をバイクで起こしているので、それらは「強い関心事」 となって、ここ数ヶ月過ごしています。この写真自体は動画からの切り取りでしたが、上の写真では、手裏剣みたいに木に深く刺さったバイクのフロントの大型ブレーキディスクを消防隊員がハンマーで上から叩き落とした場面のものでした。いずれにしてもこのライダーのご冥福をお祈り致します。でも、「登山者事故」 と 「バイク事故」 への世間の関心は 「ピュアな遊び」 なせいか、とても薄いのが実情です。

大変に悲しい出来事

2013-11-14 18:59:33 | ZZR1400
ある日の夕方、こんなニュースを iPhone で読みました。カーブを曲がり切れなかった36歳のライダーが宙に飛んで、歩道を歩いていたおばあさんにぶつかって両方共に亡くなったというニュースでした。おばあさんの52歳の息子さんが以下のようなコメントを寄せています。

Andreas B. (52, Sohn der verstorbenen Rentnerin) zu BILD: „Meine Mutter war wohl einfach zur falschen Zeit am falschen Ort. Ich möchte dem Motorradfahrer daher keinen Vorwurf machen. Niemand weiß, was genau da passiert ist.“

訳: 私の母は、単に間違った時間に間違った場所に居たんです。私は(母の死を、の文意)バイク乗りのせいにはしたくありません。誰もが何が起こるのか知らないのですから。

お二人のご冥福をお祈り致します。

冷戦時代の想い出 (5)

2013-04-17 12:16:27 | ZZR1400
「何処へ行くのか?」 は大きな自問です。それに 「自答」 するのか 「他答」 を参考にするのか、今回のバイク行は 「仕事絡み」 とは違いました。日曜の昼から明日の深夜までの5日間で何かを掴めそうな予感がしています。

冷戦時代の想い出 (4)

2013-04-17 12:02:05 | ZZR1400
国道9号線で印象に残っていたモノの一つ、今回も是非にも見たかった 「糸杉の様なもの」 です。ゴッホの絵の中で観た印象的な木、大昔にケンメリ(スカイライン)の宣伝で使われた北海道の風景の中にあった様な木、少し 「翳り」 が感じられて、しかし 「すっく」 と立っている姿にどこか 「凛々しさ」 があります。そんな木々を 「もう一度見てみたかった」 のです。 その木々はやはり24年も昔と同じくそこに立っていました。それが視界に飛び込んで来た時、胸が 「ドキッ」 としました。人は今の自分に 「迷い」 が生じた時、「変らないもの」 を訪ねたくなるのかも知れません。

冷戦時代の想い出 (3)

2013-04-17 11:42:48 | ZZR1400
国境前の最後の 「まともぽかった町」、改めて訪ねてみた感想は 「こんなに活気があったっけ?」 でした。国境を見に行った後で、この町のどこか 「場末な雰囲気の食堂」 でカツレツを食べてました。そのカツレツも、ウィーンで食す様な洗練された物ではなく、使い回した油で揚げたかのギトギトした一品で、今回は小半時も探したのですが、見つかりませんでした。その食堂を見つけられてもそこで食べるつもりは無かったのですが、記憶を確かめたかったのです。