今から40年前、中学生の頃に欲しいレコードを買いに行ったんですが、身体が弱いのに働く母が好きな田端義夫さんのカセットテープをたまたま見つけて買ってしまい私は欲しいレコードをあきらめました。母は喜んでました。その当時はあ~これが母の好きな唄なのか程度で、祖父が満州で戦死して父が満州から帰ってきたのが、田端義夫さんの唄とダブるとかなんとかがまったくわかりませんでした。終戦の日が近づいて母がカセットテープからCDに録音してと言うので今日録音してたら、昭和52年7月9日NHKホールのでした。「ふるさとの丘」の前に田端義夫さんが、母と弟と3人でいた頃に田端義夫さんがでっち奉公に行く事になり、母と丘で語ったと聞いて涙腺が緩んでしまいました。そんな事を今の今までまったく知らずに、ただ母の好きな田端義夫さんの唄を聴いていた私はショックをうけました。これからは詳しく母にバタヤンの事を聞いてみるつもりでおります。すばらしい画像をありがとうございます。
547万回突破おめでとう
管理人: やはり、鎮魂の夏。安倍ちゃん、天国で見てますか?
6
終戦時に海外に取り残された軍人および一般人の日本への引き揚げを担った艦船です。 戦時中の壊滅的な被害によって船舶不足にあった日本にとって、
アジア大陸各地や南方の島々などに取り残された600万人以上の人員を帰還させるのは
一大事業でした。 (ネット記事より) 日本は敗戦後の厳しい時代にあっても、
海外に取り残されていた600万人の日本人を僅か2年で帰還させた。
(シベリア抑留者は除く)
それは人類史に残る大事業だった。現在の日本人の殆どは、その大事業を知らない。