始まりの大地

どうやら、本日でGのレコンギスタが最終回を迎えるとの事だ。
最新話まで見て来た感想を言わせて頂くと最高に面白い。
何が面白いかを一言で説明出来ないが、人がより良く生きるという事はこういうことだろう!
という富野監督の気持ちがストレートに伝わってくる
この「生きる」はそれぞれのキャラクターがそれぞれの生き方をして行く中で君は何を見るかという事を問い続ける作りになっている。
この作品を観た子ども達はきっとこの作品を見たあの時を思い出し、私たちが見たレコンギスタ(再征服)の意味を生きながら確認して行く作業だったのだという事に必ず気付く作りになっている。
私は、ガンダムからガンダム作品全て(文庫はガンダムユニコーンまで)を自分の人生で再確認する事があるが(これに限らず今まで読んで来た書物全てにも言えるが)この作品を見ていた子ども時代の記憶が今になって記憶の底から蘇って来ているのだ。
子ども達の知性を信じて作品を作るというのはそういう事なのだ。
子どもの為に子どもが理解出来る教科書を作ろうとか子どものために授業を簡単にしようとか。そんな馬鹿げた事を世俗にまみれきってしまった大人が、退化しきった頭で行なっていい事ではないはずなのだが今現在はそれがまかり通ってしまっている。
子ども達の未来の知性を信じて、私たち大人は今その子が理解出来ない事をとりあえず教えておくという事を行なった方が良い。
もちろん、それは何でも教えれば良いという事ではない。
しかし、その子ども達が生きながら活きるという事を先人たちがどう学んだのかを実感を通して知ってきたヒントの種を私たちは蒔き続けなければ行けない。
それこそが、Gのレコンギスタが富野由悠季が次の世代に託した祈りだったのではないだろうか。
大地があるから種は芽を出し、やがて成長し樹木となり樹木は果実を実らせ果実は実を落とす。落とされた実を大地が受け取り、そしてまた新たな樹木が生まれるのだ。
この惑星はそうやって緑を増やし、生命を育んできたのではなかっただろうか。

神と霊と物語と

新年になってからこの三日間、連続して神社でお参りをしておりました。理由は自分の霊力を高めるために。
というと、ああついにこの人もあちらの世界に行かれてしまったかと思われるやも知れませんが、恐らくこの話を素直に聞き入れられる方もいるはず。ではなぜ、この様な事を私が行なったのかについて自身の思考の記録という事も込めて書き記し、語ろうと思います。

ごゆるりとお付き合い下さいませ。

さて、冒頭の霊力を上げる為に三が日に連続して神社に行く。
これがなぜ霊力を上げる事になるのかを説明しなくてはなりません。
そもそも霊力とはなにか。
人によって解釈はあるかとも知れませんが、私は良く分からないものの力を「霊力」と読んでいます。だからなんか見えたら霊が見えたと思って良い。でもそれは、怖いおばけとかそういう意味だけではなくて今、自分の知識の中になく調べても観測出来ない様な事象や現象の事であって、すぐにオカルトであるという判断をしないで保留した措置をするという態度です。
いずれ自分の知識や人類がその事象や現象を解明出来ればそれは、霊ではなくなり科学の世界の分野となる。

三が日に連続して神社に通ったのは、意味合いのあるこの時期が一番人に対しても自分に対しても同じ事を続ける事でその意義を身につける事が出来るからです。
同じ事を祈りました。
最低限の作法もおこないました。
儀式は意味合い深く行なう事が肝要だからです。自分自身にも無自覚な自分自身に対しても。他人に対しても。
この儀式はすでに半分以上が科学によって説明出来ると思ってもいるのですが、それでも祈ることで得られる効力を信じ、それを力に変えるためにこのタイミングで行なったのです。
人が意味合いある様な事を敢えて行なう事により、その事に具体性を持たせ自分自身にその事を刻む事が出来る貴重な時期だから。

、、、霊について話をしすぎて神についてのお話が遅くなりました。
神についても語らせて頂こうと思います。
神とは何か。
神は人が生み出した敬いと畏れの集合体だと私は思っています。
そして、それを奉る事によって神として力を得る事が出来るのです。
ではその敬いと畏れとは何か?
それこそが霊性です。
先ほど話した霊は私たちが今現在分からないが実際にその人におきた事象や現象ですが、その事象や現象が万人に通じる事ではなかったり同じものを見たり聞いたりしてもそれがなんであるのかが分からなければそれは霊として処理します、、されてきました。
わたしもそう処理しています。
私たちよりも先を行きていた人達はまだ科学は発達していない時代を生きていました。その時代においてまだ解明されていない事象や現象は霊として観測されていました。それはお化けや妖怪等とも言われた事があったでしょう。
今それを観測すると個人が妄想や妄執、恐怖心などによって引き起こす幻覚や見間違いとして心理学で説明出来たり、とてもそのまま語る事は出来ない様な話を抽象的な存在に置き換える事でその事象を意義のある教訓として語り継ぐ「物語のキャラクター」と呼ばれているかもしれません。
(ですから、物語や話、詩は常識の眼鏡を外してみる事が寛容なのです。とこれは余計な一言。)
しかし、その当時はそういう事象が、現象がなんであるかは説明が出来なかった。だからとりあえず霊的な事が起きた場所に何かが起こる場所として良き事があれば敬い、を恐ろしき事があれば鎮めるために起きた事象や、現象を象徴する神を奉る。
こうして神は誕生すると私は思っています。

最後に物語について。
すでに一度軽く触れてしまったのですが、神と霊と物語はセットなのです。全ては語られる物語(事件)があり、そこに未知という霊力が加わりそれが分からないけれども、とりあえず奉ることによって神を現出させ次世代に印を残した。

これが私が今思っている、神と霊と物語についてです。
蛇足ですが、今私たちが生きている現代においてこの霊性と先達が残して機能は失われかけています。
科学をどこまで崇拝するかは自由かもしれませんが、今の所分かっている事までしか科学では未だ分かっていません。
それ以外は霊力の場所だと私は思っています。
どうぞ、この日記を読んで少しでも霊力が薄っぺらな言葉ではないという事が分かってくれる方が増えます様に。
私自身が霊力に対して鈍感だったからこそ反省の意味を込めて、お祈り申し上げます。

人を縛りつける呪いについて。

昔話や漫画でしばしば登場する「呪い」。
でも、この呪いって何でしょうか。
神社にいって藁人形に対象者の頭髪と写真を貼って心臓の位置を打ち込む。
儀式を行い供物を捧げ、対象者に祟りをと願う。
何故この様な儀式をするのか?

その話をする前に私自身に懸かっていた呪いについて少しお話をさせてださい。以前にも書いた記憶があるのですが改めて。
私は中学生3年の時に不登校でした。
当時の私は何故、自分自身がこんな苦しい思いをしているのかが理解できずただただ苦しかった。どの様な状態だったか。
自分が何か恐ろしい事をしてしまうのではないだろうかという焦燥感である、、、、ええ厨二病ですね、はい。
ただ、問題はその上に強迫観念があったのです。それは何か。
高校受験でした。今思い返すと受験というものが嫌いで仕方なかったのです。今でも好きではありません。
当時、受験を何故受けないと行けないのかという問いに私が納得をしてくれる解答をしてくれる人はいませんでした。そして、私自身もその答えを出す事が最後まで出来ませんでした。
ですから、私は受験勉強が始まった学校の雰囲気や授業が嫌で嫌で仕方なかった。みんなやっているのだから、君だけがそんな事を言うのは変。何故、君は周りの皆がやっている事が出来ないのか。
そういう風に言われた事があります。
思春期の時期に私は受験というストレスを受け、更にその問いに対する適切な解答を出せなかった(もらう事も出来なかった)。私は周りの子とは違う駄目な人間なんだな。そう感じた。
しかし、だからといって死にたいとは思わない。
こうして、私は自分を守るために学校に行かないという選択肢をとった。その選択肢を使う為には親に納得をしてもらう必要があったがその手続きは当然簡単ではなかった。今にして思うと当然だ。話がすぐに分かってもらえるようなら、私の問いに対する解答はきちんと出ていたはずだから。
かくして、私は理論武装をした上で両親に納得をしてもらい(ある意味強制ではあるが)不登校になった。それは自分を守るための私なりの命がけの選択だった。(人によってはここで反社会的になってしまう人もいる様です。)

話が長いですね、申し訳ないです。ですが、この話を踏まえた上で冒頭の話を聞いて頂きたいのです。
では、冒頭の呪いとはについて解説を加えながらお話をさせて頂こうと思います。
まず結論から申し上げます。
「呪いとは、自己と他者(場合によっては社会)の行動、発言によって自己を束縛してしまう事。」
これが私の結論です。
藁人形の呪いは神社という神聖な場と多くの人が認識する空間において、具体的な対象者を暗示する物質を用いて人が寄り付かない時刻に儀式を行ないます。この時点では対象者は自分が呪われたという事を知りませんから呪いはまだ発動していません。
その事を対象者が知った場合に、呪いが懸かるかどうかが決まります。少しだけ想像してみて下さい(想像するのも嫌だという人はしないで下さい。)。
自分がそういう話を聞いた時、どんな気持ちになるだろうか。
シュチュエーションにもよりますが今、貴方に沸き起こった気持ちを実際に「引き受けて」しまっていた場合(ネガティブに思った場合)に恐らく、良くない事が起こっと時に因果関係の査定考慮にしてしまう可能性が一段階上がります。
その暗示に引きずられて、何かちょっと嫌な事や恐い事に合うと「引き受けて」しまった事を思い出して「私は呪われたから悪いことが起こっているのだ」と自分を納得させてしまうのです。
そして段々と不安になって来る人もいます。もっと悪い事が起こるのでは、もっと嫌なことが起こるのでは。その思考に取り憑かれてしまいます。不安がその人を苛み眠れなくなる事もあるでしょう。そうなると神経質になる人もいるでしょうし、自律神経に支障を来す人もいるでしょう。
対象者の仄暗い祈りが何かは知る由もありませんが対象者がこの不安や不信強化させ続けてしまった場合、呪いは成就してしまいます。
とても不気味です。

では呪いを解除するにはどうすれば良いか。祝福を受ければいい。
でも祝福ってなんでしょう。
祝福は人によって様々です。(当然ですが)
ただ、この場合は取り憑かれた思考から解き放ってくれる事であれば何でもいい。それがこの場合の祝福です。
人によっては、自分自身で自分に起こっている事象を解明する事かもしれない。人によっては恋人と語らう事かもしれない、人によっては家族で時間をゆっくり過ごす事かもしれない。
そうやって、自分が取り憑かれた思考から解き放つ事が出来ることをすれば(忘却)人は呪いから解き放たれます。

さて、ここで前半にお話しした私の不登校の話を思い出して下さい。
なぜ、私が自分自身の不登校になったはなしを長々としたのか。
それは「人は知ってにせよ知らずにせよ人を呪う事がある」からです。
先日、岡田斗司夫先生の著書「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない」を読んだ後、この本は人の呪いを解く祝福の本だな清々しい気持ちになりました。
同時に、就職する事、大学に行く事が目的化してしまった結果、それが出来ない場合、就職したけれどすぐに止めてしまった場合。今まで受けて来た期待や願いを自分が応えきれなかった場合。
真面目(無垢)な人程(先ほどの「引き受けて」しまうの関係)自分を責めてしまい苦しんでしまう事になります。
しかし、この苦しみの根源になった人たちが悪いのかというとそういう訳でもありません。
その人達も、「良かれと思って」(祝福だと思って)やっていた行為なのです。世間的にそうすれば良いという事だと思っています。そうでなければ基本的にはそんな残酷な事は出来ません。
究極的に言えばそれは確かに、悪い事かもしれませんが本人達が無自覚である以上は自分の身を守るために私たちは「引き受ること」ではなく拒否を選択する必要があります。

冒頭に書いた通り、私は中学に行かないという選択をすることで、学校教育に対して拒否を示しました。それは世間からすれば信じられないかもしれませんし、どうしようもない奴だと思われるかもしれません。
でも仕方ない。こっちだって命がけだったのです。無理に理解をしてもらおうとは思いませんでした。ただ、両親は私の説得に理解を示してくれたので今の私があるのです。

人は、選択を間違ってしまったばかりに苦しい思いをしてしまいます。とはいえ、今まで自分が育って来た環境から今と違う考えを取り入れなければ、「引き受けない」という選択肢が生まれにくいです。自分の考え方を歪めるのも一時的であれば良いですが長期的であれば問題になってしまう。(一部のパーソナリティが肥大化してしまう事があると思います。結果、人格的な障害として言われる人が増えてしまっているのが今の現状では、、)

物事の本質を見誤ると人は残酷な事も無意識で行なってしまう。
まぁ、無意識だからこそ出来る事なのでしょうが、、、・
意識してやっている分はいいと思うのです。それはその人の選択ですし、きちんと責任が伴いますから。人は自分が思っている以上に賢い生物ですので事実を受け入れるか歪めるかはその人次第ですが必ず間違いを知る時が来ます。(或は迷った時に歪みで修正します。余り良い結果にはならない様に思えます。)

話を少し飛躍させると、本質的な解決の為には様々な考え方、価値観が世の中に溢れている必要があった。でも現代は基本教育からそのような多様性が失われ画一化された教育が行なわれている風潮がある。
結果、多くの人が想像出来る「分かりやすい社会」が出来上がってしまっている。「分かりやすい社会」がいつまでも維持出来れば良いのですが、それに綻びが生まれてくると今まで信じていたものを失う不安が生まれます。信じていた「分かりやすい社会」が「分からない社会」になってしまうのですから不安にもなります。
ですから、綻びが見えだしてもそれがまるで見えない様に話したり、認めようとしなかったりするというのはある意味では社会という生き物が生きる為の生存本能かもしれません。事実を見れるだけの人が少ないから仕方がない。事実を認めてしまうと責任を問われるからせめて自分が生きている間は問題がない様に見える様にしよう。

知ってか知らずか人はそういう選択を今している様に私には見えるのです。
この呪いの連鎖に気付き、自分を許し人を許す。
そうやって、この時代の呪いを減らしていく。
ここで書かれていた事を知っていた方も知らなかった方もおこがましい願いではありますが、どうぞ今回書いた様な縛り付けを(或は類似する)を受け苦しんでい人を見かけたら話を聞いてその人の呪いを解除して上げて下さい。
プロフィール

alen397

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