評価 ★★★★
著者は1975年フランス生まれ、社会科学高等研究院(EHSS)卒、ソルボンヌ大修士、フェミニズム・ジャーナリスト、映画監督。『シャルリー・エブド』誌や『ル・モンド』紙の寄稿者でもあった。レズビアンであることを認めている。
訳者は1952年生まれ、早大教育卒、慶大修士、慶大名誉教授、フランス文学者。
Crorine Fourest: Génération Offensée. 2020
本書は、すでに当ブログでも何冊かの本を紹介しているテーマ、すなわち「アイデンティティ政治」を、フランス人の立場から論じた本である。この問題はアメリカが発端で、そこから英国やカナダなど他の英語圏にも飛び火し、さらにフランスなど非英語圏の先進国にも広がっているが、著者の立場ははっきりしており、「言論・表現の自由」こそ近代国家の最大の基盤であり、例えば黒人の文化は黒人にしか理解できないとか、白人が黒人文化を利用してはいけないといった偏狭な「アイデンティティ政治」には断固として反対すべきだ、と述べている。
冒頭、アイデンティティ政治の典型例が紹介されている。
2012年、アメリカ人の母が娘のために日本趣味をテーマにした誕生会を開いたら、ネット上で多数の悪口雑言を浴びせられる羽目になった。日本文化をアメリカ人が勝手に盗用するのはケシカラン、という理由で。こういう攻撃をしかけたのはアメリカ人ばかりだった。少数の日本人はむしろ唖然としたらしい。「日本人は日本文化が外国人に評価されることを歓迎する」「ピザはイタリア人でなければ食べちゃいけないのか?」と。
しかしこういう事件が起こると、「何をしてはいけないのか」をあらかじめネットで調べたり、その方面の専門家に意見を求めたり、といったやり方が一般的になってしまう。
著者がこの本を書こうと思うきっかけになった事件も紹介されている。
著者の友人である女性タニア(肌が黒い。ただしそういう人間はフランスではアフリカ出自よりアンティル諸島出身であることが多いという)が書いた『黒人女性』という作品が、マンガ化され、さらに演劇にもなる予定だった。ところがマンガ化されたこの作品をアメリカで出版しようとしたら、アメリカの出版社からタイトルを変えてくれ、と言われた。なぜか。マンガ化を行ったのが白人女性のマンガ家だから、という。白人のマンガ家が『黒人女性』という作品(のマンガ化)を手がけるのは「文化盗用」として非難される恐れがあるからだと。
著者は最初は冗談かと思ったが、どうやらアメリカの出版事情はそこまで変になっているらしいと気づく。
ちなみに本書の訳者あとがきでは、同様の以下のエピソードが紹介されている。
バイデン大統領の就任式で、22歳の黒人女性(ハーバード大在学中)の詩が朗読された。その詩は世界各国語に訳されたが、オランダでは訳者に白人女性を選ぼうとしたら、白人が黒人の詩を訳すのは不適切という批判がSNS上で起こり、予定されていた訳者が辞退した。スペインでカタルーニャ語に訳そうとしたときも、十分なキャリアのある男性翻訳者が担当するはずだったのが、アメリカ側から「若い黒人女性の作品を訳すなら、若い女性の、社会運動活動家で、黒人である人物が担当することが望ましい」という意向が伝えられて、予定の訳者が降板したという。
エルヴィス・プレスリーやローリング・ストーンズといった白人の著名ミュージシャンが、黒人の作った曲を歌ったからという理由で「盗用」を難詰されることもあった。別段、黒人の曲を自作と偽ったわけではないのに。そして実際には、著名な白人シンガーに歌われることで、それらの曲は(そして作った黒人シンガーも)広く世界に認知されたのに。
やはり著名な歌手のマドンナが、黒人流の三つ編みの髪を採用したので非難されたこともあった。
著者は指摘する。そもそも、三つ編みの髪型はアフリカ(出身者)に起源があるのか? むしろインドやエジプトが発祥の地だったのではないか。ならば、なぜアフリカに出自がある人間だけの髪型だと決めつけることができるのだろうか、と(44-45ページ)。
1955年、アメリカ南部でエメット・ディルという14歳の黒人少年が白人に惨殺される事件があった(最近、あらたに映画化された)。この写真に刺激をうけて21世紀になってから白人女性画家により作られた絵画作品は、しかし美術館に展示されるや、ボイコットせよとの激しい攻撃を黒人たちから受けた。「黒人の苦しみを白人が利益や楽しみの種にするのは赦されない」との理由からだった。
同様にして、アメリカ先住民がこうむった迫害を材料にした美術作品も(先住民が作ったものではないとの理由で)糾弾された。こうなると、マイノリティの苦しみをテーマにする美術作品は(そのマイノリティが作り、味わうのでない限り)不可能ということになってしまう。
アメリカの黒人が差別され続けてきたこと、そこにはミンストレル・ショーのように、大衆演劇で白人が肌を黒く塗って愚かな黒人を演じるといった明らかな黒人蔑視も含まれていた歴史に、著者は忘れず言及している。だから肌を黒く塗ることにはアメリカでは注意が必要というのは分かるが、ヴェルディのオペラ『オテロ』でヒーローを黒人歌手にやらせろという要求がメトロポリタン(とコヴェントガーデン)で起こったのは変だと指摘する。オテロはムーア人、つまり今で言うアラブ人であり、黒人ではないのだから。
つまり、オテロは黒人だというのは、歴史をねじ曲げる見方なのだが、オテロはフィクションだからまだしも、エジプトのファラオは黒人だったと主張するとか、ツタンカーメン展覧会は彼が黒人だったことを隠蔽しているから中止しろと要求するとか、ちょっとびっくりするような要求が黒人団体から強く出されている現状が報告されている。
また、アイスキュロスの劇作『救いを求める女たち』がソルボンヌ大学内で上演予定だったところ、やはり黒人団体の圧力で中止に追い込まれるという事件も2019年に起こっている。このギリシャ古典劇では、伝統的にギリシャ人を演じる役者は白い仮面を、ダナイデス(劇中でギリシャ人に救いを求める民)を演じる役者は赤銅色の仮面をつけることになっている。ところが押しかけてきた黒人団体はそうした異文化の決まり事を理解せず、万事をアメリカのミンストレル・ショーの基準で糾弾してしまう。
この事件では、ソルボンヌ大学長とフランス当局の人間が、劇団側を擁護して、中止に追い込んだ団体を批判したのでまだしもだったが、著者によると最近のフランスの学生団体はアメリカナイズされてきており、アメリカの基準による「アイデンティティ政治」に賛成する方向性をとっているので、予断は許さないという。(63-67ページ)
著者は言う。反レイシズムには二つのタイプがある。一つは普遍主義の名において平等な待遇を求める反レイシズム、もう一つはアイデンティティの名において特別待遇を求める反レイシズム(アイデンティティ至上主義)である。著者はむろん前者に肩入れしている。
また、人種というものを扱う方式がアメリカとフランスでは異なっている。アメリカではアファーマティブ・アクションで有利な条件を得ようとして細かい人種の違いにまで言及することが珍しくないが、フランスでは逆に人種を言うことは平等の原則に反するとされている。ナチの二の舞にならないためにも、人種を強調してはならないというのが、フランスの原則なのだと。
(とはいえ、フランスに人種差別がないわけではないこと、人種を言わないために逆に差別がまかり通るという側面もあることは、当ブログ制作者としても指摘しておかなかなければならない。)
著者が『シャルリ・エブド』誌のイスラム批判を支持していることは、日本人には違和感があるかも知れない。いかに表現の自由が大切でも、他宗教の教祖を戯画化するという行為は、日本人には「趣味が悪い」と思われるからだ、またフランスの知識人でもエマニュエル・トッドのように同誌の姿勢に批判的な人物もいる。
しかし本書を読むと、フランスではイスラム原理主義者たちによるユダヤ人攻撃(言論だけでなく)は、イスラム教徒がこうむる同種の被害の二倍に及んでいるという(74ページ)。イスラム教徒がしばしばナチのホロコーストを否定したり、ヨーロッパ内部で露骨にユダヤ人に敵対的な行動をとっていることは、日本人としても知っておきたい。こうした背景があってこそ、著者の戦闘的な(しかしあくまで言論によって)「言論表現の自由」支持が生まれてくるのである。
著者は、マーティン・ルーサー・キング牧師を支持し、マルコムXを批判している。
アイデンティティ至上主義が蔓延しているために、例えばアラブ女性が白人男性にレイプされたら告発するべきだが、アラブ人男性にされた場合は民族のアイデンティティを守るため告発は控えるべきだ、というダブルスタンダードが堂々と唱えられたりしているという。
著者はこれを誤りとし、それはかつて階級闘争がフランスの知識階級にとって大きな位置を占めていた時代に、移民労働者にレイプされた女性が告発を控えるべきだとされた(移民労働者の困難な立場を理解して、なおかつ彼らとの連帯を損ねないために)ことと同じ誤りだと述べている(95ページ)。
アイデンティティ政治の誤りを分析するに際して、著者はミシェル・フーコーを厳しく批判している。フーコーはホメイニ師を支持し、イスラム女性がヴェールを着用するのを見て歓喜したのだと(97ページ)。まあ、私=当ブログ制作者の率直な感想を言えば、フランス知識人のこういうダメなところは、フーコー以前からで、1960年代に毛沢東主義にフランス人がイカれていた時代からさっぱり進歩していないのだが。
もっとも著者によると、フーコーの弟子は現在でも、ハマスやムスリム同胞団やイラン体制に対して肯定的なのだという。アメリカの大学で台頭してきたアイデンティティ政治にも親和的なのだと。こういう傾向はアメリカからカナダに伝染し、今はフランスの大学でもそれなりの勢力になっているから、フーコーの後継者やブルデューの信奉者がフランスの大学を牛耳っており、それ以外の学者が大学でポストを得るのは困難になっているという。(98-99ページ)
そのカナダの大学では、ヨガを学ぶことはインド文化の盗用だからやめるべきだという見方が拡がっている。
学者がこういう傾向を助長するような態度をとることも指摘されている(チャールズ・レイラー〔一九三一年生まれ〕という学者名が挙げられている)。
文化盗用という概念に否定的な見解を述べた編集者・作家ハル・ニエツヴィエキーに、先住民にルーツを持つ作家アリシア・エリオットが噛みつき、他の作家たちはエリオットの後押しをするばかりだった、というカナダの情けない事件も報告されている。
『カナタ』という先住民が味わった苦しみを描いたドラマが、やはり同様の理由に基づく抗議行動を受けたという例も取り上げられている。上演予定だった劇団の創立者アリアーヌ・ヌムーシュキンが現地に飛び、先住民も出演者に入れるとか、一部分を共同脚本にするなどの妥協案を出し、それで決着しそうになったのに、過激な活動家によってそれもダメにされてしまい、結局この劇はフランスとイタリアとギリシャでは上演されたがカナダでは上演されないままだという。
ヌムーシュキンは記者会見で「文化盗用」について問われて、「文化は誰の所有物でもない」「どんな孤島の住民でも自分たちの文化が決定的に純粋だと主張することはできない」「すべての文化は私たち皆の文化であり、源泉であり、神聖である。それを飲もうとするときには敬意と感謝の念をもって、学ぶ姿勢でいなければならない。しかしその原泉に近づくのを禁じるなどということは受け入れられない」と答えたという。
この問題でも、マギル大学が「文化盗用」に関するシンポを開き、「先住民やマイノリティの役を、その民族や属性とは異なる役者に与えること」は盗用だとしたという。大学がこの種の偏向した態度にお墨付きを与えているのだ。
映画についても同様の事件がいくつも取り上げられている。有名な女優スカーレット・ヨハンソンが映画でトランスジェンダーの役を演じるはずだったのが、彼女はトランスではない、トランスの女優が演じるべきだと非難されて役を降りた例は有名で、他の書物でも言及がなされていたと記憶する。
だが話はさらに細かくなる。アフリカ系の映画監督であるスパイク・リーがシカゴの黒人暴動の映画を撮ろうとしたら、「アンタはニューヨークのブルックリン育ちでシカゴを知らないだろ」と非難されたという。
1972年の有名な映画『ゴッド・ファーザー』は、今ならマーロン・ブランドが主役を演じることはできないだろうという。ブランドには英独仏などいくつもの血が流れていたが、肝腎のイタリア人の血は(ほとんど)入っていなかったからだ。
映画の脚本家や監督、そして俳優は、映画によって「他人の人生」を表現する・生きるのである。それこそがフィクションというものの中心的な本質なのだ。しかるに、「文化盗用」「アイデンティティ政治」に洗脳された人間にはそのことが分からない。そう著者は述べている。
もっともこの種の異議申し立てには理解できるものもあると著者は述べる。ディズニーは最近では非白人文化の物語を積極的に展開しているが、現地の文化を十分調べずに、現地人からすると違和感があるような服装や習慣を作品に盛り込んでしまう場合がある。また、関連商品を売り出すために商標登録してしまうこともある。自分の商売のために、他文化を現代的な「商標登録」という枠に押し込めることに批判が向けられても、それは当然のことだと。
本書の最後の章は大学と学生をまとめて扱っている。
2015年、オーバリン大学で、ベトナム人の女子学生が、食堂でベトナム料理と称するものを食べてがっかりした。彼女がベトナムで食べていた同名の料理とはかなり異なっていたからだ。これによって学生たちから「文化盗用だ」「ベトナム人の料理を勝手に改竄するな」という抗議の声が大々的に上がった。
しかし、実はその料理はベトナム土着のものではなかった。ベトナムが植民地になっていた時代に、西洋や色々な地域の料理とミックスされることで生まれたのだった。ベトナム人女子学生が故郷で食べていたのもそういう料理であり、文化融合の産物であって、「純然たる民族料理」などではなかったのだ。
これなどほんの一例だが、アメリカの大学では「マイクロ・アグレッション」という概念が流通しており、つまり民族や性やその他色々な属性に関して不愉快な発言や態度を示されたら大声でそれを批判する、といったことだが、このために学内でまともに討論をすることすらできなくなっている。ハーバード、コロンビア、ブラウンといった一流とされる大学においてである。
「仕事は最も能力のある人に与えられるべきだ」というような、常識的な見解でもダメである。なぜなら民族別にアファーマティブアクションを受けるのが当然と思っている人間を「傷つける」から。
大学教員はそうした可能性のある授業については事前に予告し、或いは授業そのものを避けてしまう。
著者がアメリカの大学に招待されて討論会に出席し、フランスのライシテや『シャルリ・エブド』誌を擁護する議論を行っていたら、女子学生から「あなたがイスラム教徒のヴェールについて話すのはおかしい。あなたは白人のフェミニストなのだから話す資格がないのだ」という、著者も予想していた批判が出たという。著者はヴェールはイスラム教徒の普遍的な文化だとは言えない、ヴェールをしない、或いは嫌っているイスラム女性だっていると反論したそうである。
この辺は、私に言わせると著者の普遍主義系フェミニズムの弱点だと思う。つまり、ヴェールは抑圧だ、という前提から出発しているからだ。イスラム女性が本当に自発的にヴェールをしているなら、どうなのだろうか? 普遍主義者は必ず「解放」を重視し、解放とは伝統や因習の反対語だと決めつけるから、話がおかしくなるのだと私は見る。なお女性が髪を隠すのは、イスラムだけの習慣ではなく、ユダヤ教原理主義にも見られる習慣である。つまり女性はそもそもが性的な存在だから、それを他人の前ではなるべく隠すのがよい、とする見方が根底にあるわけなのだ。
それはさておき、本書ではエバーグリーン大学で起こった事件も取り上げられている。すでに当ブログで取り上げた本『傷つきやすいアメリカの大学生たち』でも言及されている有名な事件(学内の行事について理性的な発言をした教授が学生たちから非難を浴びて辞職に追い込まれる)だが、私が本書で改めて気づかされたのは、そもそもエバーグリーン大学はこの事件が起こる以前から異常だったということだ。学生が過激な行動をとっていたから、ではない。大学や教員が異常な行動に走っていたからだ。
つまり、年度初めにこの大学の新学長となったジョージ・サムナー・ブリッジスは、教員たちに自分の「人種」を明示する自己紹介と、壇上における自分の特権の告白と謝罪を義務づけたとう。別の日、黒人教授の指示で、架空のカヌーに教授たちと学生たちとが乗り、教授は黒人学生に最大限好意的に振る舞うことと、「白人的性質」を非難することを誓ったという。
こういう状況下の大学では、冷静な議論も、教授に対する節度ある態度も、不可能になるのは当たり前なのだ。アメリカの大学は狂っている。
著者はさらにこの大学で白人女性教授ロビン・ディアンジェロ(社会学)が導師の役割を果たしたと述べている。自分がレイシストであることを否定する白人は、それ故にレイシストなのだ、という理論(?)を打ち立てた人物である。だからディアンジェロ自身は(白人だから)自分もレイシストだと述べているし、またレイシストになるのは白人だけだ、とも言っているという。著者はディアンジェロを詐欺師と呼んでいる。人身売買が十三世紀間も続いたイスラム諸国も、黒人は肌の色からして真のイスラム教徒にはなり得ないと発言しているイスラム教原理主義者も、レイシズムとは無縁というわけだと。
そして著者はフランスの大学にもこういう傾向が強まっていると警鐘を鳴らしている。
フランスだけではない。著者はブリュッセル自由大学に招かれて二度講演をおこなっているが、最初のとき(2007年)に「卑劣なユダヤ女」「イスラム・フォビア」といった悪口雑言を投げつけられた。二度目のときに(2012年)は、学生だけではなく、過激なイスラム原理主義者スエル・シシャ(この大学の教授)が著者に迫ってきたという。会場は騒然となり、会は中止となった。この後、調査がなされ、事件の黒幕だった教員が解雇され、著者は告訴を行い、また学長も事態を放置しなかった。
このように、ヨーロッパの大学ではイスラム原理主義者が大学内にまで入り込み、問題を起こしている。移民の問題は、単に労働者の領域だけのことではないのだ。知識世界においても、暴力的な行動によって秩序が脅かされている。
著者が『シャルリ・エブド』誌を支持しているのも、ヨーロッパ内部のこうした厄介な状況を反映していることを、日本人としては知っておくべきだろう。
以上、本書はアメリカの大学を発端としてカナダやヨーロッパにも飛び火している「アイデンティティ政治」を、フランスの普遍主義者の立場から批判的に論じたものである。すでに当ブログでもアメリカの大学での場合についての書物は何冊も紹介しており(下記)、本書は内容面でそれらと重複もあるが、フランス人がアメリカの状況を距離をおいて吟味し、さらにはフランスやヨーロッパの(非英語圏の)状況についても紹介を行っているという点で貴重だと思う。
上に少し述べたように、著者の立場(普遍主義のフェミニスト)はやや窮屈な感じがすることもあるし、保守主義を一律反動主義と規定するなど、単純な部分もあるけれど、十分に一読に値する書物と言えるだろう。
新潟県立図書館から借りて読みました。新潟大学には例によって入っていないんだけど、入れておいたほうがいいんじゃないか。
■当ブログが紹介した本書と共通したテーマの書物
G・ルキアノフ+J・ハイト『傷つきやすいアメリカの大学生たち』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1082795118.html
ダグラス・マレー『大衆の狂気 ジェンダー 人種 アイデンティティ』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1083272050.html
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1083278801.html
ジェイソン・モーガン+我那覇真子『LGBTの語られざるリアル』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1083091015.html
松浦大悟『LGBTの不都合な真実』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1082976625.html
H・プラックローズ+J・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい
人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1082841085.html
ジェイソン・モーガン『アメリカン・バカデミズム』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1080718697.html
福田ますみ『ポリコレの正体』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1080641889.html
前嶋和弘『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1082732439.html
三牧聖子『Z世代のアメリカ』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1082601909.html
キャンディス・オーウェンズ『ブラックアウト』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1081215851.html
山口真由『リベラルという病』
http://blog.livedoor.jp/amiur0358/archives/1067284485.html