ところで、現代の科学でも、
「人間はたったひとつの受精卵から始まる。人間はどの一つの細胞をとっても、からだ全体作り出すことのできる遺伝子を持っている。つまり一つ一つの細胞には潜在的にからだのすべてがある」
というような考え方がありますが、私はこの考えは「部分は全体を写す」という世界観のかなり安直な焼き直しと感じるのです。というか、細胞の話を「部分は全体を写す」というふうに解釈してしまったら、それはチェーホフ以前の世界観にしかならないと思うのです。科学者自身、細胞の話をするときについつい「部分は全体を写す」式のことを言っていますが、科学者が科学の現状を一般向けにわかりやすくアレンジしてしゃべるのきにはすでにアテにならない、と私は思っています。科学者自身の持っているボキャブラリーが案外19世紀的なことが多いからです。細胞にとっては、どれもみな同じ遺伝子を持っていることより、一度「手」なら「手」になったものは二度と「足」にも「心臓」にもならないことの方がずっと重要なはずです。
いまの科学は脳や遺伝子や宇宙について、いろいろなことを発見していますが、大事なことは、それらの発見が、概念として文学で使うことができないということだと思うのです。使うとしたら、科学の現場で使われている科学としての正しい意味を離れて比喩的にしかならないのですが、比喩的思考の乱用を避けるようになったのがチェーホフ以降の文学で、これもまた広い意味での科学的思考の成果です。
「人間はたったひとつの受精卵から始まる。人間はどの一つの細胞をとっても、からだ全体作り出すことのできる遺伝子を持っている。つまり一つ一つの細胞には潜在的にからだのすべてがある」
というような考え方がありますが、私はこの考えは「部分は全体を写す」という世界観のかなり安直な焼き直しと感じるのです。というか、細胞の話を「部分は全体を写す」というふうに解釈してしまったら、それはチェーホフ以前の世界観にしかならないと思うのです。科学者自身、細胞の話をするときについつい「部分は全体を写す」式のことを言っていますが、科学者が科学の現状を一般向けにわかりやすくアレンジしてしゃべるのきにはすでにアテにならない、と私は思っています。科学者自身の持っているボキャブラリーが案外19世紀的なことが多いからです。細胞にとっては、どれもみな同じ遺伝子を持っていることより、一度「手」なら「手」になったものは二度と「足」にも「心臓」にもならないことの方がずっと重要なはずです。
いまの科学は脳や遺伝子や宇宙について、いろいろなことを発見していますが、大事なことは、それらの発見が、概念として文学で使うことができないということだと思うのです。使うとしたら、科学の現場で使われている科学としての正しい意味を離れて比喩的にしかならないのですが、比喩的思考の乱用を避けるようになったのがチェーホフ以降の文学で、これもまた広い意味での科学的思考の成果です。