バナナ・ヒロシの「はーい!バナナです」

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ところで、現代の科学でも、

「人間はたったひとつの受精卵から始まる。人間はどの一つの細胞をとっても、からだ全体作り出すことのできる遺伝子を持っている。つまり一つ一つの細胞には潜在的にからだのすべてがある」

というような考え方がありますが、私はこの考えは「部分は全体を写す」という世界観のかなり安直な焼き直しと感じるのです。というか、細胞の話を「部分は全体を写す」というふうに解釈してしまったら、それはチェーホフ以前の世界観にしかならないと思うのです。科学者自身、細胞の話をするときについつい「部分は全体を写す」式のことを言っていますが、科学者が科学の現状を一般向けにわかりやすくアレンジしてしゃべるのきにはすでにアテにならない、と私は思っています。科学者自身の持っているボキャブラリーが案外19世紀的なことが多いからです。細胞にとっては、どれもみな同じ遺伝子を持っていることより、一度「手」なら「手」になったものは二度と「足」にも「心臓」にもならないことの方がずっと重要なはずです。

いまの科学は脳や遺伝子や宇宙について、いろいろなことを発見していますが、大事なことは、それらの発見が、概念として文学で使うことができないということだと思うのです。使うとしたら、科学の現場で使われている科学としての正しい意味を離れて比喩的にしかならないのですが、比喩的思考の乱用を避けるようになったのがチェーホフ以降の文学で、これもまた広い意味での科学的思考の成果です。

少し話が飛躍するように感じられるかもしれませんが、歴史と真に対峙しようとするとき、ひとりであるということがとても重要なのではないかと考えているのです。ここで対置される態度があるとすれば、それは集団的に理解される歴史観というものです。しかし、キリスト教における生きる歴史というものに向き合うためには、こういう誰かに定められた歴史観をもって生きるのではなく、ひとり、歴史と向き合ってみなければならない。「歴史」を経験することと、ある「歴史観」で時代を眺めることは違います。キリスト教の歴史は正統と異端の相克です。新しい時代を作ってきた者たちは一度ならず異端視された。古くはパウロ、トマス、アッシジのフランチェスコもある人々から見れば異端者です。もちろん、ルターやカルヴァンにも同質のことがいえます。

若松英輔・山本芳久「キリスト教講義」p187

いま大谷翔平の通訳がギャンブルに大谷翔平の金を使いこんで問題になっていますが、その報道をみていて、俺はギャンブルに縁のないままここまで生きてきたんだなあとあらためておもいます。

わたしはいまだに麻雀のやりかたを知らない。馬券の買い方を知らない。パチンコ店に入ることがあるとすればトイレを借りるときだけ。スロットなどは、子どものやることを大人がやるもんじゃねえよ、とそんなふうにみえてしまいます。とはいえ、さいきんまでわたしはゲームセンターがすきだった大人ではありますが。もうゲームセンターにはいかないですけどね。興味がなくなったというより、わたしができるゲームがなくなったというだけのことです。いまのゲームセンターにある、あのガンダムのゲームはなんだろうといまでもわかりません。ゲームセンターでもギャンブルに近いものはあるかもしれませんが、そんなものに手を出したことはありません。

なぜいままでわたしはギャンブルに縁がなかったのか。まずわたしの交友関係で、ギャンブルが趣味という友人がいなかったということですね。そういうひとたちばかりでした。みんなまじめだった、といえばそうなのでしょうが、わたしとおなじように、その友人もわたしのように、まわりにギャンブル好きがいなかったということでしょう。わたしと似たひとたちばかりだった、そのまま麻雀のやりかたなど知らず中年をむかえた。逆をいえば、わたしはわからないのですね、麻雀ができるひとはどこで麻雀のやりかたをおぼえたのか。

もうひとつ理由があります。たぶんこの理由が大きいのでしょうけど、ギャンブルをやる環境がわたしには到底なじめなかったということです。もっとはっきりいえば、ギャンブルって、こわいな、という臆病な性質がギャンブルを遠ざけていたということです。

パチンコなどは、店内に入るとパチンコ玉でうなりつづける、ウワーンと耳に響いてくる音が生理的にうけつけられない。だからパチンコはすきじゃないともいえますが、パチンコ台を前にしているひとたちの顔がなんとなくこわい、パチンコをしたくてここにきた大人たちというのはそうだけど、パチンコを前にしているひとの顔はちっとも楽しそうにはみえない。機械の電源を落としたような表情のまま無数の小さな鉄の玉を目で追いかけている姿は、みているだけでこちらの気が滅入ってくるおもいがするのです。

麻雀をしないわたしですから、雀荘にいったことはありません。映画や漫画でしかみたことがありません。その映画や漫画にでてくる雀荘店内をみていて、なんだかこわそうな空間だなということだけは感じました。子どもの頃は夜遅くまで麻雀をやっているおじさんたちも何度かみたことがあります。薄暗い部屋で、うわはは!と仲間たちで笑いながら麻雀をやっているおじさんたちが薄汚くみえました。麻雀ってこういうひとたちのやるものなんだなと子どもごころにおもったのをいまでも覚えています。

競馬にしても、わたしに合いそうもないなとおもいます。場外馬券売り場のまえも何度も通りましたが、耳に鉛筆をはさみ、イヤフォンをして、ウイスキーの小瓶をかたむけながら馬券の予想新聞を読むおじさんの前を何度も通りました。

ああいうのは、こわいな、いやだな。臆病がわたしをギャンブルを縁のないものにしたのだといまならわかります。いままでのわたしの人生は、臆病のセンサーがわたしを不幸から遠ざけてくれたとさえおもっています。ゴルゴ13の有名な場面があります!

「ゆうべ...拳銃の前で顔色ひとつ変えなかったあなたが...ぼくがあとを追った足音でどうして飛び上がったんです? 」
「おれが、うさぎのように臆病だからだ...」
「え!?そ、そんな...!!」
「だが...臆病のせいでこうして生きている...虎のような男は、その勇猛さのおかげで、早死することになりかねない...強すぎるのは、弱すぎるのと同様に自分の命をちぢめるものだ...」
(ゴルゴ13 28巻『ザ・スーパースター』より)

ギャンブルを適度にたのしめる。そんな大人こそ大人としての嗜みであり、人生を豊かにしてくれるものとおもいます。そういう大人がわたしの近くにいたら「わたしもギャンブルをやってみようかな」とおもったかもしれません。でもいなかったです、そんな大人はわたしのまわりに。わたしの知らないところで、今日もギャンブルで、人生が破滅していくひとがいるのでしょう。彼らは勇気があるのではない、大胆な行動にでる気質でもない。負けたときは悔しいのだろうが、同時に負けたときのゾクゾクする恐怖がなにより愛おしいひとたちなのではないか。ギャンブル狂いは倒錯したマゾヒストではないかとわたしはみています。わたしは極度の勝利も極度の敗北も、どちらとも「こわい」。怖いというおもいがわたしを守ってくれたのでした。

スカーフェルが悲しみの家に300年のあいだ閉じこもったとき、それは彼の国が東の帝国によって永久に呑み込まれるのが見えたからだった。彼は間違っていた。未来についてはみんなが間違う。人間は現在の瞬間しか確信できないのだ。だが、それははたして真実だろうか。人間はほんとうに知っているのか、現在を?人間は現在を判断できるのだろうか?もちろん、できないというのも、未来を知らない者に現在の意味がどうして理解できるのか?もし現在が私たちをどんな未来のほうに導くのか知らないなら、この現在が良いとか悪いとか、私たちの賛同、私たちの不信、私たちの憎悪に値するなどと、どうして言えるのか?

1921年、アーノルド・シェーンベルクは、自分のおかげでドイツ音楽は数百年のあいだ世界の支配者としてとどまるだろうと言明した。その15年後、彼は永久にドイツを去らねばならなくなる。戦後のアメリカで、栄誉を一身に集めた彼は、栄光が彼の作品を見捨てることはけっしてないと確信していた。彼はイーゴル・ストラヴィンスキーにたいして、あまりにも同時代人のことを考えすぎ、未来の判断をおろそかにしていると見なしていた。トーマス・マンに宛てた手厳しい手紙のなかで、彼は「ニ、三百年後」の時代を後ろ盾にし、その時代になってやっと、マンと彼のふたりのうち、どちらがより偉大であるか明白になるだろう!と言った。彼は1951年に死んだ。つづく20年のあいだ、彼の作品は今世紀最高のものとして敬意を表され、彼の弟子と名乗り上げる、もっとも傑出した若い作曲家に崇拝された。だが、それからその作品はコンサートホールからも、記憶からも遠ざかってゆく。

20世紀末になって、いま誰がその作品を演奏するというのか?誰が彼に準拠するというのか?いや、私は粗忽にも彼の自惚れを嘲笑し、彼が自己過大評価していたなどと言いたいのではない。断じてそうではない!シェーンベルクの自己を過大評価していなかった。彼は未来を過大評価していたのだ。

彼は考察の間違いをおかしたのだろうか?いや、正しく思考していた。たた彼はあまりにも高貴な圏域に生きていた。最高のドイツ人たち、バッハ、ゲーテ、ブラームス、マーラーたちと議論していたのだが、しかしどれだけ知的なものであっても、精神の高い領域で進められる議論はつねに、理由も論理もなしに生起することには目先が利かない。たとえば、ふたつの大軍が聖なる大義のために死闘を演じているとする。だが、そのふたつの大軍をともに打ち倒すのは、微細なペストのバクテリアなのである。

シェーンベルクはそのバクテリアの存在を意識していた。彼はすでにこう書いていた。「ラジオは敵である。抗するべくもなく前進し、これにたいするどんな抵抗にも希望がない敵である」ラジオは「私たちに音楽を詰め込む(・・・)ひとが聴きたいのかどうか、音楽を知覚する可能性があるのかどうか考えもせずに」。その結果、音楽はたんなる物音、さまざまな物音のなかのひとつになってしまう。

ラジオは、そこからすべてがはじまったささやかな小川だった。やがて音を再生し、増幅し、増大させる物の技術的手段が到来し、小川が広大な大河になった。かつてひとは音楽への愛のために音楽を聴いていたのだとすれば、こんにちでは音楽は「ひとが聴きたいのかどうか考えもせずに」いたるところで、つねに喚(わめ)いている。音楽はスピーカーのなか、車のなか、レストランのなか、エレベーターのなか、街路のなか、トレーニングセンターのなか、ウォークマンにふさがれた耳のなかで喚いている。ロック、ジャズ、オペラの断片が書き直され、再器楽化され、短縮され、四つ裂きにされた音楽が、誰が作曲家なのかわからず(物音になった音楽は匿名だ)、始まりと終わりの区別ができない(物音となった音楽は形式を知らない)まま、すべてがたがいに絡み合う波となって喚いている。それは音楽が死にかけている、音楽の汚水だ。

シェーンベルクはそのバクテリアを知り、危険を意識していたが。しかし心の底では大した重要性を与えていなかった。先に言ったように、彼は精神のとても高い圏域に生きていたのであり、その矜持のためにじつにささやかで、じつに俗悪でじつに嫌悪を催す、じつに軽蔑すべき敵をまともには相手にしなかったのだ。彼にふさわしい唯一の偉大な反対者、彼が才気煥発に仮借なく打倒しようとした最高のライバルは、イーゴル・ストラヴィンスキーだった。彼は未来の行為を勝ち得るために、ストラヴィンスキーの音楽を剣で渡り合った。

だが未来、それは作曲家たちの亡骸が枯葉と、もぎ取られた枝のあいだに漂っていた大河、音の洪水だった。ある日、荒れ狂う波のうえで揺すられたシェーンベルクの死体がストラヴィンスキーの死体にぶつかり、遅すぎた恥ずべき和解をしながら、ふたりとも虚無のほうに(絶対的な喧騒になった音楽という虚無のほうに)旅をつづけていた。


ミラン・クンデラ「無知」p153

毎日新聞3月24日
人生相談

75歳の夫がまだフルタイムで働いてくれることに感謝していますが、最近ちょっとしたことで怒鳴り散らすことが多くなりました。私はこれといった楽しみもなく毎日が過ぎて、何のために生きているのだろうとむなしくなります。息子たちは独立して二人きりの生活です。心の持ちようをアドバイスしてください。(65歳・女性)

回答
最初に申し上げておきたいのは、あなたの質問は、回答できないタイプの質問だということです。その上でお答えします。
わたしたちは生きて、生きて、生きてもやがて歳をとる。そこまでは夢中で、まるで高速の車を運転するようにただ生きてきたので、なにも考える必要がなかった。あるいは考えることをやめていた。それでも生きることはできた。けれど、車もいつか止まり、自分の足で歩かなければならなくなる。そのときになって、突然、「何のために生きているのか」という問いがやって来るのです。
その問いに答えはありません。わたしたちはみんな、その問いを胸に秘めて生きていくのだから。息子たちは独立し、夫との間に会話はないのですね。あなたはひとりになり、自分自身と直面しなければならない時間になりました。そのとき、あなたを助けてくれるのは、善き智慧(学んできたこと)、そし善き友(触れ合ったこと)以外にはありません。あなたには、それがありますか。ないのだとしたら、一から作るしかありません。ぼんやりしている場合ではありませんよ。あなたを助けてくれる経験や智慧はあなた自身で作り出すものです。友がいないのだとしたら自分を友にするしかありません。確かに難しい。ても、みんな、ひとりで黙々とそうやってきたのですよ。


(高橋源一郎・作家)

何かキーワードを出して、そのキーワードに引きずられて、あんまりそれにこだわると、もともと考えていることと別のものが膨らんできてしまうからです。それはそれでかまわないのかもしれませんが、そのときに結論めいたことが出てきてしまうのが具合いが悪いのです。結論めいたことが出てきてしまうと、読者でなくて自分自身がそれにだまされてしまうからです。本当に考えようとしていることはもっとずっと茫漠としているからです。

小島信夫・保坂和志「小説修業」

穴のあいた太鼓を
いっしんにたたきながら
行列がとおる

蟻よ

おまえが
もっともなかおをしてゆくので
おまえを軸に宇宙はまわり
夜もすがら地平に
草の葉をかざして
お日さまもおでましだ

がんばれ

1944年田浦小学校校庭にて


石牟礼道子「朝」

「さあ、今度はお前の番だ。やれ。」ムーレイ・アリがフルートを彼に渡した。晩餐のときにいっしょに坐っていたクッションのところに、彼は行かされた。「さあ、気を楽にして、お前のタンジャ・アリアを、わたしに聴かせてくれ。」

早く応じれば応じるほど、眠りに戻るときが早いだろう、とアマールは思った。彼はクッションに背を凭せせかけ、一方の足をもう一方に重ねて、演奏を始めた。何フレーズかの後で、ムーレイ・アリが強張った笑いを見せて、「よろしい。上手だよ」というと、広間のもう一方の端へ退いた。客たちは扉を出て、回廊へと流れた。「そこから聴きたまえ。」ムーレイ・アリがそう呟いているのが耳に入った。アマールはそのとき新しい一節を吹こうと息を継いでいたところだった。その直後、件(くだん)の囁きが聞こえた。それはもし聞き間違っていなければ、たいそう気になることだった。フルートのもてる調べの合間に彼が聞きとったと信じたのは、次のような言葉だった。「チェムシだ。忘れるな。あいつの足取りはわかっている。忘れるな。」

眼を開けるたびに、扉のそばに立って聴いているムーレイ・アリの姿が眼に入った。彼が自分の演奏を聴きたがっていると思うとうれしかった。他のすべての聴き手はさておいても、彼のために演奏したい気持だった。

チェムシ。チェムシとは誰?アマールは長く、緩やかに下降する飾りの節回しを吹きながら考えた。曲は蝶のように翻ったかと思うと、震え、上昇しようとし、最後に落ち着いて静かになった。チェムシというのは、もちろんあの少年のことだ。ずっと前の最初に道に迷ったあの午後に、ムーレイ・アリが新聞の切抜きを渡していたあの少年。だが、彼はチェムシになど興味はなかった。つい今し方彼の名前が発音されたと聞いたというのも、どうでもいいことだ。彼は軀をくねらせて、きわめて美しい旋律のフレーズを工夫して吹いてみた。アラーが助けてくださるときもあった。そうでないときもあった。今夜はひょっとしたら助けてくださる見込みがあるかもしれない。ひとたび自分が音楽そのものとなってしまえば、もはや自分というものは存在しなくなり、残るは音楽が自分と他の人の心をつなぐ橋となりおおせたときで会って、自分自身に戻ったときの世界から別のところへと引き上げてくださり、ほんのわずかのあいだではあるが恩寵(フデイア)を授けてくださったということである。

彼は遠いところでひとりになるまで演奏を続けていた。アラーはお助けくださらなかったが、それは問題ではない。心のなかにある寂しさ。自分が話しかけたとき、それをわかってくれる人への憧れ。彼が息と指を使って生み出す、果(はか)なき音色のうちに、それは立ち現れた。心を無にしながら演奏を続けていると、彼が演奏を捧げている相手がしだいに扉のそばの人物てあることをやめ、夕方に塔にいるとき気がついた別の人物へと変わっていった。世界にその人物がいることが何か希望の証(あかし)であるような人物。彼は一瞬演奏をやめた。他の人物を思い描くことで解き放たれた幸福感に一体化した頭のなかに、第二の音楽が聞こえてきた。それは陽の当たる遠い岸辺から聞こえてくる歌のようで、どこまでも麗しく、名伏しがたいほど優しかった。歌の縒糸があまりにか細いので、夢のなかでしか聴くことのできない音楽を憶えていられるのは耳ではなく、意識だけかもしれなかった。彼はぐっとして、それを聴いていた。息ひとつしてもそれを、おそらく永遠に駄目にしてしまいそうなので、息ができなかった。音楽はアラーに由来するものではなかったが、そこにあった。彼はこれまでこの世にかくも貴重な捧げものがあったと、知らなかった。ついに息をしなければならなくなると、この音楽は消滅した。覚悟していたことだ。まるでいつもその人物のことを考えてきたかのように、自然にあのナザレ人のことが意識に上ってきた。彼の唇に浮かぶ謎めいた微笑み、最初の晩に彼が見せたあの微笑みが、思い出された。

ポール・ボウルズ「蜘蛛の家」p476

ふたりの整体師がいた。ひとりはあるときからつきあいが途切れ、もうひとりとはいまもつきあいがあり、定期的に施術をうけている。

そのふたりは師匠と弟子の関係にあった。師匠の整体院に弟子は勤めていた。わたしがこの整体院に通うきっかけになったのは、腰を痛めたことにより、どこかの整体院に行かないと、とネットでいろいろ調べて、ここはいいかもしれない、と直感を頼りにその整体院にいった。

いい整体院だった。が、わたしが通い始めたときには店長は入院中だった。店長がその師匠だった。師匠のいないあいだ、弟子と他の従業員が経営をきりもりしていた。だからまずさきにわたしが知り合ったのは弟子のほうだった。

師匠はあるときから脳梗塞になってしまい入院中だった。やがて師匠はその脳梗塞をなんとか克服し、現場に戻った。そこからまたこの師匠にもわたしは施術をうけることにもなった。

やがて弟子は師匠の店から独立し、自分の店をもつようになった。晴れて個人事業主となったのである。わたしはまだ若い、これからの未来を応援するきもちをこめて、弟子の店に通うようになった。そこからその師匠の店にいくことはなくなった。

弟子の口から師匠の近況をきくことになる。脳梗塞から復帰はしたものの後遺症はずっとついてまわった。呂律があやしくなる。しゃべりつづけていると重い疲労に襲われる。など、多難を抱えていた。

施術うけながら「いまだからいえるのですけのど」と弟子が切り出し、師匠の店から独立した経緯を話しはじめた。弟子は独立したくてしたわけではなかった。師匠からある日いきなり、俺はこれからひとりで店をやっていくことにする、おまえには辞めてもらう、明日から独立する準備をしろ、と一方的にいわれた。べつに自分は師匠の店につとめていたままでもよかったんですけど、と教えられました。これをきいて私はおどろいた。なんと乱暴な話だ。わたしはてっきり弟子が独立を志願した結果だとおもっていた。いままで脳梗塞で入院していたあいだ、弟子が師匠の担当の客の応対もして、運営していたのにその恩をかなぐり捨てるかのようなつめたい解雇通告。「それ、ブラック企業みたいなものだから、労働基準監督署に訴えたらどう?」といいたかったが、こうしてめでたく独立して店を構えることができたのだし余計なことはいわなかった。しかしひどい話だ。

それから年月が経った。師匠が喉頭癌になったと弟子がいう。まだ初期症状ではあるからはやめに手を打つことはあるそうだが、師匠は治療にあまり乗り気ではないという。師匠は子どもをもたず、数年前に利根もして、身寄りらしい存在はいなかった。弟子だけが身寄りといえるものだった。

癌と診断されても治療に乗り気ではない、これでべつにかまわないという師匠の態度。これは決断なのか、逃避なのか、あるいは揺らぐ心をどううけとめていいのか本人もいまだにわからないのか。いろいろかんがえられはすれど、もう師匠は還暦を過ぎた身です。わたしは弟子に、本人が治そうとしないのなら、治ろうという意志はもっていないと、そう判断しておけばいいとおもいます、それでいいじゃないですか、といった。じゃあ、そうします、と弟子もわたしのことばに合致した口調でうけとめてくれた。

けっして冷淡なことをわたしはいっているのではないと弟子は理解した。わたしも弟子もそれなりにながく生きてきた。他人の不可解な態度には不可解である態度をなるべく尊重し、斟酌して放っておくのがよい、そのことをわたしたちはいいかげん理解している。還暦を越えての人生、体力が衰えていく老い先をわかったうえでの癌治療。そこからさきの人生に虚無をみたのかもしれない。それならいっそこのまま人生を閉じてもいい、そう思うのかもしれない。

喉頭癌の知らせをきいてからも、わたしは弟子の施術をうけている。その後、師匠のからだはどんどん悪くなりついに店をたたんでしまったという。癌の進行はかなりはやくすすんでいる。じゃあ、もうそう遠くないなということだけはわかった。

それから弟子の施術をうけにわたしがいくと「面会禁止になりました。師匠に会えなくなりました」という。「会って話しておきたいことがある」といっても「できません」の一点張りだと。

師匠には親族と呼べる存在はいない。子どもはいない。結婚はしたが離婚した。身寄りは弟子しかいない。「どうしても会いたい、会っておきたいんです!」弟子の悲痛な懇願をけっして受けつけない病院側。刻々と死の時間が師に迫っているのを遠くから案じるしかない弟子。面会禁止となったのはいよいよ重篤になったからだろう。

それから2週間して弟子の施術をうけにいった。施術にうけながら弟子は「師匠、亡くなりました」とあっけらかんといった。なぜ亡くなったとわかったのですか?ときくと「死んだら病院は死んだと教えてくれるのです。存命のときは個人情報保護をきびしく守り口にはしないんです」

「遺体はどうなるんですか」

「わかりません。国のほうでなんとかするんですかね。なにしろ身寄りがないですからね」

「つめたい話ですね。これから身寄りのないひとがどんどん増えていくというのに」

「つめたいですね。店とかの不動産とかいろいろ問題は残っているはずなんですけどね。どうなるんですかね」

死ねば死にきり。あとはもう知ったことではない。ぽつんとベッドに残された師の姿をわたしはおもう。闇のなかに師が寝ている。闇の地上から宙に浮かんでいく師の姿。電話の向こうから必死に師に会わせてくれと訴える弟子。亡くなったのち師に会えるかといえば、それどころかどこか知らない場所に他人に連れて行かれ弟子から遠く離れていく師の遺体。わたしもこの師匠のように、近い将来、わたしの死もどこかわからない遠くへと運ばれていくのだろう。いまからそれは覚悟しておく。

わたしのからだを弟子は「定期的にメンテナンスをうけていますから健康ですね」とほめてくれた。「やっぱり健康に気をつけてないとだめですね」朗らかにわたしをほめる。

「それでも師匠はしあわせものだったとおもいますよ。あなたのような誠実な弟子におもわれながらあの世に旅立っていったのだから」

わたしはそのことばを弟子に伝えたかったが、いわないでおいたほうがいいかと気が変わり、いわないでおいた。

カフカの『掟の門前』という有名な短編は、一生待たされて最後まで入ることを許されなかったその門が、じつはその男一人のためだけにあった門がだったという話ですが、書くというのはまさにそういうことで、小説という普遍的な何かに辿り着くかもしれないその門は、一人一人の前に、その人だけのために聳えていて、その人だけのやり方でしか通ることができない――という、いちいち意味を説明することもないくらいに、小説を書くことそのものの、譬えをこえた話だと感じるのです。

この「その人だけのやり方」というのが、またまた誤解を招くような表現なのですが、事前に考えている計算がすべて無効になった後に残された、うまくできる保証のない何かのことで、そのときにだけ「その人」が現れてくるということで、もうそれは本当は「その人」ではなくて「小説」なのです。小説とは「ああも書けるこうも書ける」という選択肢の中から書き手が主体的に選んだようなものはつまらないもので、「こうとしか書けなかった」というのが小説で、それが「その人」なのです。

小島信夫・保坂和志「小説修業」

眼に入る最初の光と、意識に到達する最初の単調な音を。知っただけで、ある種の音楽の躍動が心を捉えてしまうような朝が存在している。未知ではあるが親しげで、遠い昔に中断され忘れられていたものの、突然の音楽が蘇る。網目を潜る風に似た静かな旋律が、意識の織り目を揺らすことなく通り抜け、にもかかわらず同時に間違いなくそこにあって、意識のまわりを廻っている。こうした朝をけっして知らぬ者には、このような時の到来は単に軀の麻痺と思われるかもしれない。アマールが起きると、鳥の優しげな鳴き声を背景に鵞鳥のがあがあという声が耳に入った。彼はしばらく館の耳慣れぬ音に聞き入った。扉を占める音。召使どうしが交わす言葉。彼らが仕事の最中にたてる音。そして眼を開かないままに、悲しげではあるが安息感に満ちた、少年時代のノスタルジアのうちに沈みこんでいった。それはヘリブ・ジュラトドで遠い昔に幕を閉じた、別の人生だった。過ぎ去って以来一度として考えたことのなかった小さいいくつもの出来事が、思い出されてきた。それに、ある大きな出来事。その村の少年たちのあいだでただひとりの友だちだったスマイルとの喧嘩のことだった。スマイルは彼を打とうせず、突然その首の後ろに噛みついて、男たちがやってきて叩かれるまでけっして口を開けようとしなかった。今でも彼にはそのときの鋭い歯の跡が残っている?散髪屋が首のところを少しでも余計に剃ろうものなら、それは露(あらわ)になるはずだ。その晩には村の長老たちの代表が、彼女の父親に会いに、カンテラと松明をもって謝りにやってきた。彼らにとってより大切だったのは、アマールの口から許しの言葉を引き出すことだった。なぜならよしアマールがそれを拒んだとすれば、あらゆることがまずくなってしまい、彼らは仲間のひとりが傷つけた若き貴き者のために捧げものをしないかぎり、事態は収拾されないことになるのだ。ましてアマールはそれを拒んだ。痛みはまだたいそう残っていた。そこで翌日、彼らは美しい白い羊を一頭連れてきて、自分たちの作物と家屋がアラーの不興を免れることができるように、父親に差し出した。父親は彼に不満だった。「どうしてスマイルを許してやらないんだ?」彼は尋ねた。「憎しみ」とアマールは興奮して答え、それきりになってしまった。

かつて遊んだことのある、高い土手と土手のあいだの窪みが、思い出されてきた。それからヘリブ・ジュラドへバスで行くときにいつも着ていた綺麗な着物のこと。そう当時は家にお金があった。母親は大金を遣ってアマールに、フェズで一番いい仕立て屋と靴屋で誂えたケープとズボン、ヴェスト、部屋履きを着せた。思い出に耽っていると、近くと遠くで鳥が鳴いているのが聞こえた。生きているかぎり、今感じている甘い悲しみが終わることはまずないだろう、という気がした。なぜなら、それは彼そのものだったからだ。彼は家から切り離されてしまってから、彼であることを止めてしまっていた。どことも知れぬマットレスの上に横たわっているだけだ。ただこの何者でもない状態であり続ける以外に、なす術はなかった。それからふたたび眼覚めた。それはまるで波に身を任せながら、静謐な大海を彷徨(さまよ)っているかのようだった。


ポール・ボウルズ「蜘蛛の家」p452

毎日新聞3月17日
人生相談

ひな祭りにちらしずしを作り家族でお祝いをしていると、中学生の息子が「女子だけのお祭りはもう時代に合わない」と言い出しました。由来を説明しましたが納得いかない様子でした。LGBTQなど性的少数者に配慮した社会が念頭にあります。日本の伝統行事がなくなっていくならば寂しいです。どう話せばよいですか。(50歳・女性)

回答
相談者ではなく「息子」さんへの回答です。「あなたを詳しく知っているわけではありません。そのうえでお話したいことがあります。お母さまの手紙に、今回の件に関してあなたが『いらなくね?』という言葉を使ったと書かれていました。その言葉遣いがほんとうなら、わたしは、あなたを軽蔑します。他人を尊重する姿勢が感じられないからです。わたしの家で唯一の規則は『相手を尊重すること』です。わたしは子ども、何かを頼むときでも必ず『お願いしますね』と言います。やってくれたら『ありがとう』。子どもたちもそうしています!どんな立派なことを言っても、相手を尊重できないなら意味がありません。また『・・・と大人は言うけどこれはどうなの?』とも発言したそうですね。誰がどう言うと関係ありません。時代に合う合わないも関係ありませんでした時代は勝手に変わるし、時代は間違いも犯すのです。あなた自身が徹底的に考えた末に『正しい』と思えたことだけを主張してください。そして、もう一つ。誰かの意見に反対でも、相手を。思いやる気持ちを持ってください。わたしは『君が代』を歌いませんが、たとえば、何かの式に参加する時には、それを歌う人の気持ちする尊重します。だから、歌われる時黙って席を外します。最後です。あなたは親に愛されています。そのことを決して忘れないでください。


(高橋源一郎・作家)

いまのパラダイム、いまのスキームがそもそもまちがっているのだから、まずそこを疑い、見直していかなければ世の中は変わらないぜ、といいつづけているのだけれど、いま目の前にあるものは変えられない、変えてはいけないと頑なに態度を、おもいを変えないひとっておおいのよね。

このパラダイム、このスキームで自分は耐えて耐えてここまで来た!という自負心の強い大人ほどそうなのね。

まあ、俺の若いころだったら、いまの俺のように「いまのパラダイム、いまのスキームがわるいんだ」といわれたら、ひとのせいにするな、自分を変えるよう努力しろ、自分を変えろ、と抗ったかもしれないから、それ以上はいえないがな。

頂上に立つと、彼は一望のもとに明るい光景を見下ろした。南には不毛の黄土が、北には山並みがあり、西、つまり眼の前には灰緑色の林の傾斜が展がっていて、たくさんの小さい白いものが見えた。この高さから見ると、それらはどう動いていても、風景のなかで凍りついて、じっと動いていないかのように思えた。しばらく眼をこらしてみて初めて、それが実際に動いていると確かめることができた。この陽気な陽光のもとにいると、ひどく遠いところにいるような気がした。ここから犠牲を眺めるのも、つまり意識せずに自然に眺めているのも悪くないかな、と漠然と考えてみた。イスティクラルはすべての人々にむかって羊を殺すなといってはいるが、けっしてうまくいくまい。つまり、いずれにせよ、それが目的ではないのだ。彼らは混乱、不安定、疑惑といったものが儀式の途中に注ぎこまれるのを充分にみることになるだろう。人々を仲間割れさせて、儀式がきちんと行われたときに生ずる満足感を台無しにすればいいのだ。この手の破壊工作は周到に計画されてさえいれば、後はひとりでに動いていくだろう。もし先の若者たちに抜け目がなければ、今年シディ・ブウ・シュタを満たされない気持ちを抱いて離れた人々は、来年は戻ってくる鎖を殺がれてしまう。若者たちはそれを狙っている。人々の生活があるリズムの繰り返しに完全に依拠している以上、リズムのいかなる変化も彼らを混乱させる。そして定められた儀式を見ることができないとなると、心理的に恐ろしいことが起きる。人々は自分たちがもはやアラーの恩寵のもとにないと感じることになり、一度そう感じてしまうと、後はたいていのことはどうでもよくなってしまう。いわれたことは何でもしてしまうようになるのだ。イスティクラルの若い手先どもが全員一台のバスに乗っていれば、と彼は空想した。もしそうで、バスが道を踏みはずして崖に転落すればどれほど素晴らしいだろう!人々は悦びながらアラーの命令を実行するだろうし、新年の帰還中、土地の津々浦々に幸福が約束されることだろう。昔読んだ一節が思い出された。「幸福とは自分が幸福だと信じている人々である。」そのとおりだ、殺人よりも悪いのは、この信念を否定しようと企む者のことだ、と考えた。そうした不幸で卑しいお節介屋こそが人類の罰当たりであり、地上にはじこるペストと呼ぶにふさわしい。「あなたはわざわざそこに坐って、あの人たちが幸福だといってあげるだけななのよ。」リーがそんなことをいったことがあった。彼女の眼は自分の正しさへの確信で燃えていた。きっとフランス革命を行ったインテリたちも、忌まわしいイスティクラルの若者たちや世界中の共産党の非人間的な工作員と変わりのない、同じいい方をしただろう。

きわめて深遠なる智恵をもった人物の口から発せられた言葉があった。「万人は平等である。」この言葉ほど嫌なものはなかった。それは神なる自然が創造した階層という秩序をあきらかに破壊するものだった。しかし彼のもっとも親しい友人たちですら、彼がここに世界が毎年悪くなっていく原因があるのだと口にすると、微笑みながらこういうのだった。「いいかい、ジョン。気をつけたほうがいいよ。いつの間にか、きみは本当の変人になってしまうよ。」この虚偽は彼らの精神に深く植えつけられており、その結果、それに疑問を呈するなど不可能なのだった。加えて、ぼくには世界を救おうなどという義務などない。横になってただ空を眺めながら、彼は独り言をいった。ただ自分を救いたいだけなのだ。一回の人生の長さではそれだけでも充分ではないか。

朝の風が彼の後ろ、東のほうから吹き上げてきた。風が麓で鳴っているドラムの連打の音を吹き飛ばしてしまうので、耳に入ってくるのはそれが茨の藪の抜けるときの、ひゅうひゅうという音だけだった。彼はしだいに正体もなく夢想に陥った。それは無為の状態であって、太陽の熱気と風の冷気とが皮膚上で均衡を保っているという意識しかなかった。こんなふうに横たわり、空の下に軀を伸ばして、他愛もないことを考える朝というものは、これからも地上のどこかで迎えることがあるだろうかというのが、彼の最後の意識だった。


ポール・ボウルズ「蜘蛛の家」p414

よく「この話は面白いけれどリアリティがない」というような言い方がされますが。本当はそんなものはなくて、面白いものはすべて何らかの意味でリアリティがあり、リアリティのないものはどんな意味でも面白くは感じられないはずなの面白いです。面白いと感じるもの、気持ちがそっちに向くもの、忘れずに記憶しているもの、それらはすべて何らかの意味でリアリティを持っているはずなのです。それがいまのコード(共通の了解)の中でリアリティがないと言われがちなものであっても、絶対に何かリアリティを持っているはずで、だからそれをあらためてリアリティとして見つけていかなければならないのです。


小島信夫・保坂和志「小説修業」

「でもそれは、一人ひとりを個人として、というわけじゃないでしょ。」

「いや、そもそも重要なのは、きみのいう個人などいないということだ。」

「それは危険な考え方だわ。」彼女は注意した。

また異を立てられると面倒だなと思って、彼は黙り、発展途上の民衆のあいだで生活していると、いかに本来の自分の文化を外側から眺め、それを以前にもましてよく理解できるようになれるかを、説明することを諦めた。あらゆる民族とあらゆる個人は「平等」でなければならない、というのが彼女のたっての望みであった。この原理をよしとしない、いかなる論理も、彼女は受け容れようとしなかった。結局この女と何を話しても無理だ、と彼は結論を下した。彼女は全体の現実のひとつひとつの部分が他の部分を補い合っていると考えるのではなく、そうした部分を自分の信念を証し立てる証拠じみたものに仕立て上げることに、異常な執着をもっているだけであったためである。

どこか外から微かに何かの音が聞こえてきた。もしそれが人間の声だと知らなかったら、松の枝を戦(そよ)いでゆく風の音だと勘違いしたかもしれなかった。少年は目下、まるで自分のためだけに太陽が存在しているかのようにして池のそばに坐っていたが、彼もまた音を聞いたようだった。ステンハムはリーを見た。あきらかに彼女は気づいていない。この女が今できる演技といったら、コンパクトを取り出して忙しそうに鏡をみるか、でなければ煙草を吸うくらいのものだろう、と彼は考えた。今回、彼女はコンパクトのほうを選んだ。

彼は彼女を見た。彼女にとってモロッコ人とは、進歩のパレードのわきに立って、後ろから覗きこんでいる見物人にすぎなかった。もし必要とあらば無理やりに引き入れてでも、彼らに参加を勧めなければならない。これは宣教師の態度だが、本当の宣教師が一応完璧ではあっても実際の役に立ちそうもない思考と行動の様式をもたらす一方で、近代化論者の方は等級の制度のどこかに場所を宛がうだけで、それ以外のものは何ももたらさなかった。そしてムスリムは盲目の本能的な知恵から宣教師の甘言は得意げに払い除けたものの、今では、人類みな兄弟といった意味のない行進に騙されて、加わろうとしているのだった。特典ということでいえば、各人は自分のなかのわずかの部分を引き渡すだけでよかった。それだけで、彼は簡単に不完全な存在になれた。その結果、自分の内面を覗きこむと、アラーを信じて安心立命するかわりに、他の者を当てにしなければいけなくなる。新しい世界に君臨するのは欲求不満であり、あらゆる人間は呪われし平等という名のもとに、独力で生き延びていかなければならなかった。イスラムの宗教的指導者が西洋文化を悪魔のなせる業だとみなしたのも、無理はない。彼らは真実を見抜いていて、それを端的な言葉で表現したのだ。


ポール・ボウルズ「蜘蛛の家」
p306

ステンハムは笑った。「全体主義だなんて、それは絶対にありえないよ。絶対にね。」

しかしながら、この不愉快な批判は後々まで彼の脳裏に残った。歩きながらも彼は考え続けた。苛立だしいのはそこに真理があると信じられるからではない。モスが急所に向かってどの矢を投げればいいかを、実に正確に知悉していることに腹が立つのだ。モスが自分で口にしている非難の言葉の意味を、そのくせわかっているかは確信のかぎりではなかったが、それはさほど重要ではない。彼がモスの言葉のなかに無意識に読み取った意味への拘りのほうが重要だった。かつてコミュニストに両手を挙げて身を預けたという弱い性格は、少しも変わっていなかった。彼は同じように世界を見ていたのだ。それが本質的には、彼が想像するところの他者というものだった。そのかぎりにおいて、彼は歳月が経ったにもかかわらず、何も学ばなかった。

彼は自分がかつていたところから今いるところまでの退却と足取りを、頭のなかで辿ってみた。まず彼は党への忠誠を喪い、次にイデオロギーとしてのマルクス主義に訣別した。それから徐々に、人間の平等という考えを嫌うようになった。それは彼が縁を切ったはずの悪へと避けがたく通じているように思えた。人間の心が階級を望んでいる以上、人生の平等などありえない。いったんこの地上に達してしまえば、もう選択の余地はなかった。どんな現実も法律も無視して、自分の存在だけを信じる主観性の世界へとどんどん撤退していくばかりだった。彼は戦後のこの時代を孤独のままに、用心深く世界で生起することに目を瞑(つぶ)って過ごしてきた。自分の意識のなかに精密に拵えられた、孤立した宇宙以上に大切なものはなかった。意味の世界が、つまりすべてのものに宿る意味というものが、死に赴こうとしているという印象を、彼は徐々に抱くようになった。意味はコップのなかの炎のように、ちらちらと揺れながらだんだんと小さくなり、ついには消えてしまった。そしてあらゆる実存は、観察者である彼の、隠者としてのあり方も含めて、愚かしく現実感を喪ったものと化した。

以上を受け容れてしまうと、彼は単に正気らしさを保つための義務を毎日機械的にするという、反射行為のような人生へと転落していった。

いい知れぬ不安に捕われると、それは「救済」の欲望だと日記に書きつけた。しかし何からの救済なのか?ある熱い日のことだ。フェズの丘の上を長く散歩していて、この古い邑(まち)以上に自分の恐怖をすぐれて体現するものはないと認めるべし、という抗いがたい力に驚きと恐怖とともに襲われた。それは永遠の呪いだった。それは衝撃的な発見だったのは、邑こそが彼の内面に宿る神秘的な裂け目を物語っているためだった。彼は信仰について初歩的なことも知らなかったし、子どものころ信仰のなかで育ったという記憶はなかった。信仰からは目隠しされていたのだ。家族のなかで宗教はセックス同様に、触れてはならないことだった。

両親はいった。「世の中は善への力というものが働いていることはわかる。けれども誰もその力の正体を知らない。子供心に彼は両親が「力」と呼ぶものは運ではないかと考えるにいたった。運にはいいものと悪いものとがある。これが彼の宗教理解の限界だった。世界には何らかの形で宗教を実践している人たちが大勢いた。彼らは貧者と同じく忍耐の精神をもっていると考えてみた。いつか必要な教育さえあれば、彼らとて啓蒙の光のなかに歩むことができるだろう。家のなかに信心深い人間が同席していると、つねにそれは試練のごときものとして考えられた。「この世には変なものを信仰する人たちがいるんだ。アイーダは兎の足を拝んでるし、コナー夫人は十字架を拝んでいる。ぼくたちはこんなものが何の意味もないことを知っている。けれども人々の信仰は尊敬しなければならない。誰も怒らせないように、気を遣わなければ、いけない。」

しかし彼は子供のころから、両親は実は尊敬の念などもっていないことをすでに知っていた。そうした人の前では尊敬のふりをするのが礼儀だ、というだけの話だった。とりわけ霊魂の不死の教義に言及することは、悪趣味の極みだとみなされた。来客が会話のなかで無邪気にこの点に触れると、両親はそっと身震いした。彼は6歳の子供にして、肉体が動かなくなり意識が消滅するのが死であり、その後は何もないと知っていた。今、フェズのこの瞬間まで、そうした観念が、意識の深く昏(くら)いところに並ぶ多くの柱の一本のように、重力の法則と同じ毎日の生活原理として存在していた。

たとえできたとしても、彼は信仰についてそのままにしておこうという気持ちしかなかった。その日、恐怖を覚えて彼が最初にした反応は、岩の上に坐って地面を見下ろすことだった。自分をしっかり保つのだ、と自分にいい聞かせた。いつもなら不安の原因を見つけ出すことができた。たいがいは睡眠不足だとか消化不良だとか、肉体的なきちんとした原因によるものだった。しかしこの瞬間に体験したのはほとんど一瞬のビジョンともいいうるものだった。彼はそのとき意識を、初めと終わりが結合しているために切れ目のない円環のように思い描いた。物質は時間に条件づけられているが、意識はそうではない。それは時間の外側のものだ。死の瞬間に意識の内側で生起することを知ることができるという、確実な証拠はあるだろうか?だから時間が停止し、生命が活動を終えた瞬間に、永遠にわたって意識だけは打ち消すことができないと判明することが、ありうるかもしれない。このときの体験があまりに強烈だったので、彼は嘔吐感に見舞われた。望むときに意識の存在を止めるだけの力をもっていないという考えほど、恐ろしいことを思いつくことはできなかった。忘却が抽象であり、誤謬であるならば、それに到達するなどできない。そこでは彼は腰を下ろし、自分は取り憑いた悪魔のような感情を振り払おうとした。人間の精神のなかには何と不思議なものが生起するのだろう。外国では何が起ころうとも、精神はおのれの道を試みつつゆっくりと前へと進んでゆく。現実とは内側のことなのか、そとがわのことなのか、誰にもわからない。眼下の邑を行く人たちを眺めていると、羨ましかった。単純に正しくあるだけでいいのなら、人生はいかにすばらしいことか。それに神が存在していれば。よくよく考えてみれば、人間はいまだ存在を始めて以来、神々の発明以上に役に立つ立派なことをしたためしがあっただろうか。神々を考案すれば、それを完全に信じることができるし、信じることが結果として人生により耐えることができるのだから。

彼はしばらく腰を下ろし、煙草を三本吸うと、このヴィジョンが消えてゆくのに任せた。

ポール・ボウルズ「蜘蛛の家」p238

あの大災害は。それ以前の記憶を消し去ってしまった。時間にも断層が出来たように、それ以前のことが思い出せない。

記憶は、ゼロからスタートした人の胸の中にそれぞれ孤立してあって、それ以前の記憶を人と共有することが出来ない。後ろを向いて記憶の再構成する前に、先へ足を踏み出さなければ。甦る記憶の置き場がない。記憶は、個々人の胸の中に、個々人の記憶として細い根のように伸びているだけだ。五年前、息子の一朗は農業高校に行こうなどとは思わなかった。外に職を得ていた父が「牛舎の再開をしたい」という一年前、「僕は農業高校に行く」と言った。

父親は、なにも強制をしなかった。それでも息子は「お父さんを手伝う」と言った。「嬉しい」と思う前に、父は「息子を道連れに出来ない」と思った。それでも息子は、「お父さんを手伝う」と言った。

一朗は、失われてしまった五年前の風景を覚えている。しかし、その記憶の中に帰りたいわけではない。父親と別れた避難生活のなかで、自分はなにが出来るのだろうと思った――看護師になろうと思った姉と同じように。

なにが出来るのかわからない。父に従うことを選択して、十五歳の一朗は、闇の中にポツンと点る明かりのように、心細かった。でも。それを口にすることが出来ない。周りが闇でも、明かりが点っているだけいい。その光が生きる意味で、誰もがそれぞれにその意志を持っている。

四人で囲む食卓を明るくするのは、それぞれの持つ医師の光だった。


橋本治 「初夏の色・団欒」

3月10日毎日新聞
人生相談
子供2人は実家を離れ、田舎で1人暮らししています。夫は数十年前に亡くなり、子供からの仕送りや年金で生活しています。大病もなく健康教室に通う日々を送っています。ただ子供たちが田舎に帰って来ないまま、最後は施設に入って生涯を終えるのかと考えると一抹の不安が募ります。どうすればよいですか。(70歳・女性)

回答
子どもは親の所有物ではありません。成人し、ひとりで生きていけるようになれば、手離さなければならない。時来たら、家の門を開けて、「行ってらっしゃい。あなたの人生を歩んで、戻ってきてはいけないよ」と言って送り出す。それが親の義務なのです・・・これが「正しい」回答だと思います。しかし。
幾度か書きましたが、両親は別居し、それぞれひとりで暮らした末になくなりました。親は子どもを手離すべきだという考えを、わたしは彼らから教わりました。だから、彼らの孤独な死は彼らの選択でもあったのです。けれど、人生の最後の寂寥の中に暮らした彼らも、本当は子どもたちと暮らしたかったのかもしれません。それを薄々感じながら、気づかぬふりをしたのです。彼らと住めば、不機嫌な同居生活になったでしょう。わたしにはそれを選択する勇気はありませんでした。
いま晩年に近づいて、わたしは、最後は誰の世話にもならずに生きていきたいと思っています。けれども、本心はわたし自身にもわかりません。おそらく、わたしたちはみんな最後まで迷うのです。それが「正しい」道だとしても。あなたの「一抹の寂しさと不安」は、わたしたちが人間である限り、避けようがないもっとも深い感情なのだと思います。だから、回答はありません。自分の人生と直面できるのは本人だけなのですから。


(高橋源一郎・作家)

小学校から中学校まで、ボランティア活動は授業のカリキュラムに組み込まれていた。クラス全体で海岸まで歩いて行って、ゴミ拾いをした。田植えや稲刈りもした。それはいやではなかったが、老人ホームの慰問には少し戸惑った。知らない人を相手に、何を話していいのかが分からなかった。普段は接点のない老人というものが、小学生の自分がやって来たのを見て、喜んでいるのかどうかもよく分からなかった。

外へ出て体を動かすものと思えば、ボランティア活動という授業時間はそういやなものではない。しかし、ボランティア活動は自分のためにするものではない。他人のためにするものだ。そうは思っていても、小学生の健太郎には、自分の生活圏の外側にいる「他人」というものがよく分からなかった。それは「関係のない人」で、「関係のない人と」とどのような「関係」を持てばいいのか分からなかった。

外へ出て体を動かすものと思えば、ボランティア活動という授業時間はそういやなものではない。しかし、ボランティア活動は自分のためにするものではない。他人のためにするものだ。そうは思っていても、小学生の健太郎は、自分の生活圏の外側にいる「他人」というものがよく分からなかった。

「他人」を前にしても落ち着かないだけで表情のない老人の顔を間近に見ても、その相手とはコンタクトが取れない。「コンタクトを取りたい」という気持ちが湧かない。そう思う健太郎の胸の内を表情のない老人の目が黙って覗き込んでいるような気がする。「いやだ」とまで言う気もないがm喜んでそれをしたいとは思わない。「授業」とはそういうものだ。

人間というものは、放っておいてもロクなことにならないらしい。だから「善なるもの」となるように、社会奉仕でその方向付けをする
――どうやらそういうものらしいと、中学生になった健太郎はぼんやり理解はしたが、だからといって自分の中に「善なるもの」が芽生え、すくすくと伸びて行くようには思えなかった。

自分が「善なるものとなるべき道」を辿っていると思うとしても、あまり説得力がない。」自分に嘘をついているような気分になる、悪に走りたいわけでもない、「善」であることへのリアリティが湧かないのだ。みんなと同じように「よい子のなすべきこと」をやっていて、そのことが嫌いではなかったはずなのに、気がつくとそれをやっている自分が好きになれない。それをする自分に嘘臭さを感じてしまう。

高校に入って、授業のカリキュラムから社会奉仕のボランティア活動が亡くなっているのを知ったときには、少しだけほっとした。ボランティア活動自体は、依然「やるべきこと」として位置づけられていて、そのことにこそそっぽを向いていたわけではないが、学習成績と切り離されていることに安堵感のようなものを感じた。もう点数稼ぎでよい子のふりをする必要はないのだ」と思って、「子供の時間」が終わったことを知った。「自分はそんなに善人ではないな」と思って、そう思えることに快感を覚えた――それと同時に、「自分はなにかに飢えていて、満たされていないのだ」ということも感じ始めた。

大震災が起こったとき、健太郎はまだ高校に席を置いていたが、卒業を待つだけの、「終わってしまった高校生」だった。大震災のことは、友達と電話で話した。そのために電話をしたのではなく、友達から電話がかって来て、そのついでに話した。東北の地から離れた場所に住む健太郎達の感じた揺れは「普通の地震」で、テレビで見た被災地の凄まじい映像に対して「すげェなァ」と言いはしても、それは「ショッキングな他人事」だった。「すごい」と思える距離間が健太郎を不安から守っていた。

卒業式のために、クラスのメンバーが学校に集まった時、「被災地の人達のちのためになにかをしよう」という話になって、みんなで金を出し合って義援金を送った。「被災地の復旧の手助けのために、ボランティアとして現地へ行くべきではないか」という話も出た。しかし、被災地直後の現地はまだ混沌としていて、「安易な気持でボランティアに来てくれるな」ということも言われていた。「ボランティアに行くならもう少したってからだ」ということにはなったが、卒業式を終わらせ打健太郎とクラスメイト達には、もう日常的に顔を合わせる機会がなくなってしまった。だからすべてはそのままになった。

橋本治「初夏の色・海と陸」







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