2012年04月21日
夜明けの風
歩いている内に夜が明けた。
夜が明ける直前に吹く風は、今日も冷たかった。
繰り返し繰り返し押し寄せてくる深い悲しみを紛らわすため、ぼくはまた歩き始め、トレーニングを再開している。
春の日射しが
眩しい季節ですね
とキミに話しかけ
ぼくはいつも
悲しいうたをうたうよ
キミの耳元で
愛してる
と
言わない
よう、どう?元気か?
と
笑っているのだ
いつも風をうけて
2012年04月20日
タバコロード
東京で一人暮らしを始めた18歳当時、そのテープをよく聴いていたものです。
A面3曲目の「センチメンタルナイト」では望郷の念に駆られ、本当にセンチメンタルな気分になったことを今でもよく覚えています。
「コインランドリーブルース」を口ずさみながらコインランドリーに行ったことも、洗濯機の使い方も洗剤の買い方もわからず、戸惑いながらも、田舎者と思われぬよう必死でツッパっていた自分の姿もよく覚えている。
それから十年ほど経った頃にやっと、そのアルバムをレコードで手に入れました。
今も帯をつけたまま大切に持っている。
今夜、レコードで聴いています。
2012年04月19日
夜が明ける前に歩く
夜が明ける前の道はまだ少し肌寒く、その寒い道を自分は、いろんなことを考えながら歩くのです。
いつか、好きな人と一緒に歩いてみたいです。
夜が明ける前に歩く
道の彼方をめざし
いつもキミのことがあふれる
遠い場所にいても
振り向けど
時は戻らない
懐かしい景色に
泣く
2012年04月17日
2008年12月15日
お化粧
式場に安置された婆ちゃんを、義空さんが拝みに来てくれた。
通夜のお勤め前に枕元で、と連絡をくれ、渋滞の道をわざわざ駆けつけてくださったのだ。
婆ちゃんの痛みをなくす砂や四十九日まで部屋に掲げておく掛け軸や軸台を持参してくれた。
それはもうぼくらには勿体ない親切で、おふくろは終日その事にひどく感謝していた。
http://blog.goo.ne.jp/gikooh/e/9da2b9924d9933d4d73375e82e934075
夕方。
婆ちゃんは着物に着替えさせてもらい、棺に入った。
棺の中を花でいっぱいにしてあげたかったけれど、ぼくらにはそうしてあげるためのお花代すらなかった。
棺に入れられた花は、ふたつだけだった。
でもその白い花びらは、最後のお化粧をした婆ちゃんを一際ひきたててくれた。
2008年12月13日
黒い道
夜。婆ちゃんが大量の吐血と下血をはじめたと、病院から電話があった。
おふくろは病室に泊まり込みだ。
ひとりで行くと言っていたが、話し言葉の内容も支離滅裂で明らかにパニック状態になっていたので、ぼくは子供にも声を掛け、みんなで一緒に行くぞ、急げ、とせかした。
ぼくと子供たちは病院を後にしたが、おかんが腹を空かすかもしれんとか、朝晩必ず飲まなければならない薬や老眼鏡も持って行ってないに違いないと気になり、全員一致でもう一回病院に行こう、ということになった。
スーパーで食べ物を買い、家に眼鏡や薬、タオル等を取りに帰り、ふたたび病院へ。
車の中で次男のううりんが「爺さんが死んだときは二年生じゃったから何も分からんかったけど、今おれ六年生じゃろう、婆ちゃんが死んだら泣くかもしれん。今も泣きそうなんじゃ」、と。
ぼくも長男の夢もそれには答えず、黒い道をひたすら車を飛ばした。
気持ちは、みな同じなのだ。
ふいに長男が、「しゃぁしゃん(おふくろ)、金あんまり持ってねえ。喉が渇いても自動販売機でお茶が買えん」と言った。その言葉の意味は、ぼくがお金を持っていたら、それを渡してあげてくれという意味だ。ぼくはなんて答えていいのか分からず、ありのままに、おれも持ってねえ、と返した。日中、集金には回れなかった。銀行には二度行ったけれど、どこからの入金もなかったのだ。
三人で病室に入ると、大きな細長い容器の中に、婆ちゃんの喉から吸引した血が入っていた。
婆ちゃんは手も頬も昨夜より冷たくなっていおり、それに触れると、こんなに冷たいんか、と愕然としてしまったけれど、おふくろも子供も、ぬくいぬくい、と言っていたから、ぼくも、ほんまじゃ、ぬくい、と言った。
黒い道を今度はゆっくりと車を走らせながら、「このまま目を覚まさずに、おばあさん死ねたらええのになぁ」と言ったおふくろの願いを思い出していた。
2008年12月11日
指先
7時45分に帰宅すると、おふくろは夜のお見舞いをあきらめていた。夜8時を過ぎると院内に入れてもらえないらしい。
急げば間に合うと言い聞かせ、家族全員車に乗り込んで飛ばした。
大病院ではなく小さな個人医院なのだ。そんな規則はどにでもなるはずだ。
寝たきりの婆ちゃんはゆうべと変わらず、元気そうに見えた。
昼間、弟が見舞いに行った際、「あつしじゃ。ぼくが来たで!」と何度も叫ぶと、婆ちゃんは目を開けようとしたらしく、ぼくら家族は、ぼくらからの呼びかけに反応は出来ないけれど聞こえているに違いない、という結論に達していた。
おふくろは婆ちゃんの耳元で色々と語りかけた。
はじめが来たよ、こずえさんも来たよ、夢君も来たよ、うーちゃんも来たよ、お婆ちゃん起こしてごめんね、と。
婆ちゃんはもうずっと目を開いていないけれど、おふくろが話しかけていると、指先だけ微かに動かした。
コミュニケーションが取れた。
まだ生きているし、まだコミュニケーションが取れるのに、ぼくらがしなければならないことは、喪服の用意や葬儀の準備なのだ。
人間、切ないものである。
命のあかり
生きている婆ちゃんと会えるのは今夜がもう最後かもしれん、と子供に言い聞かせ、泣いてばかりのおふくろと出張帰りの奥さんと一緒に病院へ行ってきた。
からだの中のどこか、目に見えない部分が破れ、出血が始まったが、おふくろもぼくも、もう輸血はしないという病院の方針に納得し、気持ちの準備を整え始めている。
ベッドで寝ている婆ちゃんの頬は温かく、なんだか元気そうに見えた。
話しかけても返事はしないけれど、もしかしたら聞こえているかもしれないと、みんなで話しかけた。
子供は恥ずかしがって声を掛けなかったけれど、きっと心の中で呼びかけたはずだ。
おふくろは婆ちゃんの顔に自分の顔をくっつけて、何度も何度も呼びかけていた。
人が死ぬことを願うというのはおかしなことだけど、昨夜ぼくは仏壇に手を合わせながら、痛みを感じることなく、苦しむことなく、静かに眠らせてあげてください、と拝んだ。
拝んだことと同じ内容を住職の義空さんにメールで伝え、そうお祈りしてくださいとたのんだ。
2008年11月04日
もう会えない君を、守る。
片道燃料で出航した後、大和に特攻命令が下った。
レーダーにキャッチされ、敵軍800もの戦闘機に爆撃され、船上は瞬く間に血の海と化した。
死んだらいけんと母親に、恋人に抱きしめられた兵士たちが、決戦の海に命を落としてゆく。
出航前夜、最後の時間を家族と、恋人と過ごした際の乗組員たちの姿が戦闘シーンと重なり、ぼくの心を打った。
大和沈没から60年。ぼくら本当に、利己主義の根性なしである現実がよく分かる。
●映画予告篇
http://jp.youtube.com/watch?v=HZ3L-ETex-U
●生存乗組員インタビュー
http://jp.youtube.com/watch?v=pHdV2w0ZNA0
2008年10月07日
病院
お袋は入院中のばあさんに付きっきりだが、お袋も癌なので、今日は別の病院でお袋の定期検診だった。
そして明日は、また別の総合病院でぼくの定期検診だ。
夜は長男の夢が、お袋の足となる自転車を病院まで運んでいった。
夢はおばあちゃんっ子なので、去年の夏は徒歩で往復3時間の道のりを毎日学校が終わった後に歩いていた。
今日は自転車だったから少し楽だったと思う、肉体的には。
………………………………………
※写真解説
昔、JR児島駅の構内で撮ったパネル写真。
2008年03月20日
うどんじゃ太すぎる!!
昼は奉還町のタコ福にて、たこ焼きを。ここは、子供の頃によく行ったお店だ。おかんに小銭を渡され、買ってくるよう言われ、いやいや買いに行った記憶がある。店の近所には大勢、いじめっ子が住んでいたから行きたくなかったのだ。
夜は倉敷の鉄板料理のお店で、お好み焼きを2種類と、焼きそば、ホルモンうどん、豚肉の鉄板焼きを食べた。
さすがに食いきれず、鉄板を挟んで座っていた亜矢子さんとのんちゃんに厳しく言うてやった、「おまえら、わしを殺そう思うとるんか!じゃから、そがんに注文するな言うたろぉが! 誰の金で勘定すると思うとるんなら? わしじゃないことだけは確かぞぉ! これ、死ぬ気で食えよ! 残すんなら、焼きそばを残せ。焼きそばは山下君がよろこぶ。あいつ時々、焼きそばとかざるそばを頭の上に乗せて、髪の毛が生えてきた気分を味わってる。気分だけじゃけどな!」、と。
でも、焼きうどんが残った。
「山下さん、うどんでもよろこぶかな?」と亜矢子さんが言うので言うてやった、「うどんじゃ太すぎる!!」。