kimagure読書メモ

紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う(松野志保)

「ぼくらが必要としているのは、ぼくらを苦しめる不幸みたいな働きをする本だ。たとえば自分自身よりも大切に思っている人の死みたいな。たとえば人里離れた森の中に追放されているような。たとえば自殺みたいな。本というものは、ぼくらの中にある凍りついた海を叩き割る斧でなければならない。」
フランツ・カフカ書簡オスカー・ポラック宛 集英社文庫『ポケットマスターピース カフカ』

5
繊細な感情の機微がきらきら光るSF短編。
全編を通して人が人を想うことへの前向きな感情があって素敵なんだけど、何と言っても表題作が一番好き。
歴史に取り残されてしまったアンナが抱え続ける自問自答が。
決して解消されることのない別離と孤独を抱えてしまったアンナが向かう先の描き方が。

「わたしたちが光の速さで進めないなら」は問いかける。
物質的豊かさを追い求め、経済的な観点で文明が進んでいってしまったら、それは
「わたしたちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか」と。
空間的な深い深い断絶。
歴史は繰り返さないけど、韻を踏むとは誰の言葉だったか。

要因がさ、人間が勝手に下した判断だからこその割り切れなさが感じられてやるせない。
ずっと待つという展開で内田百里「柳撿挍の小閑」をなんとなく思い出した。

うつつにその人がいるとしても、その人の顔も姿も声も見る事は出来ないのであるから、いない人を見るつもりになっても同じ事ではないか。

でもそうはならない。
かつて愛した人たちは本当に永遠に離れていってしまったのか、彼らが去って100年以上が過ぎたのだとしたら、どうしてわたしはいまだに凍結と覚醒をくり返すことができるのか、どうして毎回死なずに目覚めるのか。どれほどの時間が流れ、世の中はどれほど変わっているのか。だとしたら、わたしが彼らに再会することだって可能なんじゃないか。

わたしたちは何処に行くのか、先の未来に何かあるのか、別れ来た人たちとは本当にもう会えないのかしまい込んだものは未だそこにあるのか。
この日々は何のために、何のために生きているのか、本を読むことが僕にとって何なのか。


SFで、化学もずっと進歩していて、
先の未来でなんだけど、分かち合えなさ、自分のことを理解してもらえない孤独が、全編を通して根底にある感じ。
「スペクトラム」のヒジンは未知との邂逅を疑われて口をつぐみ、「共生仮説」のリュドミラは『わたしを置いていかないで』と懇願し、「感情の物性」でボヒョンはユウウツ体を収集する彼女に当惑し、「館内紛失」でジミンの母は生前から社会と分断され、「わたしのスペースヒーローについて」でヒーローは失踪していると。
だけど、それらは決して悲しむべきことだけではなく、そうした他者の存在こそが巡礼者たちが帰らない理由そのものであると。
だから読後感が明るい。

でもオンボロでちっぽけな宇宙船に乗って、止まって見えるかのようなスピードで虚空を進んでいく170歳のおばあちゃんて、その情景を想像するとユーモラスでもあるよね。

5
19世紀フランス、音楽家ショナール・詩人ロドルフ・哲学者コリーヌ・画家マルセル。意気投合したまだ何者でもない4人の織りなす奔放な物語。
芸術と、気紛れな愛と、深い愛と、困窮と友情。

晩餐会に着ていく服がないために、肖像画の依頼をしてきた男から服を巻き上げようとしたり、部屋代を催促しにきた大家に酒をしこたま飲ませてうやむやにさせてしまったりとか、落語みたいなおおらかさがあって良い(落語詳しくないけど)

 ボエームたちの生活を描いた情景という具合で、4人を軸にした短編集といった様相だから物語について語る部分は正直難しいので語り口について少し書きます。
この語り口が本当に面白い。
愉快で軽やかな誇張表現が読んでいて、めちゃくちゃ楽しい。
ユーモア満点の軽口が沢山。
ここで何を書いても、実例を見せた方が早いので、特に好きな描写をいくつか。

 喚きながらショナールは家具を飛び出した。家具とはこの男の創意工夫の産物であって、夜は寝台となり(言うまでもないが寝心地は最悪であった)、昼はこの部屋にない他のあらゆる家具の代わりとなるのだった。他の家具がないのは、前年の冬が猛烈に寒かったためである。

そうしてロドルフは何枚かの原稿を暖炉に焚べた。炎の暖かみに悴んだ手も治った。五分たって、『復讐者』の第一幕が暖炉の中で熱烈に演じられるなか、ロドルフは墓碑銘を三行書き上げた。
 四方の窓から吹き込む風が暖炉の炎を見てどんなに驚いたかは筆舌に尽くしがたい。


 真夜中まであと十五分を残し、帳場のおかみさんが勘定をもってきた。二十五フラン七十五サンチーム。まさしく天文学的数字だった。
「おい、誰が店の親爺と談判するか、籤で決めようぜ。今回は手強そうだぞ」

 ロミオとジュリエットの真似事をしようとバルコニーから恋人の部屋に乗り込もうとしたロドルフ
ところが部屋は一階なので露台の手摺は誰でもやすやすと跨ぎ越えられるのであった。
 ロドルフは露台に攀じ登るという詩的な目論見を台無しにするこの部屋の配置を目にして茫然自失した。

アホなんですよー、この人たち。でもそれがまた大層愛おしい。
前に読んだ時よりも不思議と面白く感じた。
こんなに主張の強い4人なのに友情付き合いがずっと続くのも素晴らしいなとも。


 ただ4人のボエーム的生活の情景を描いた物語といいつつ、恋人の話を含め大半がロドルフとマルセルを主軸なのがやや残酷といえば残酷。
ショナールとコリーヌ関連の話がもっとあればより良かったのにな。

 「青春は斯くも儚し」というタイトルを冠する最終話では、成功した4人のその後が描かれるけど、それがすごくあっさりとしていて、それが、裕福になったこの人たちの語るべき冒険は終わってしまったのかなと思えて、寂しい。


ボエームなる、何かと誤解を受けがちな社会階層に属するこの主人公たちは、破茶滅茶なところが玉に瑕だが、当人たちは、なに、このご時世、破茶滅茶でもなければ生きてゆくのは難しいのだと嘯くかもしれない。
そうとも。

1位 絲山秋子『海の仙人・雉始雊』
http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1904434.html

紛れもなく今年度最高の1冊。
「えっ。ファンタジーって、『救い』なの?」
そういえば友人と同じようなタイミングでこの本を読んだことが「逃亡くそたわけごっこ」をするきっかけだったかも。
という訳で絲山秋子が大きな存在感だった年でした。
http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1907506.html

2位 ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』
登場人物の語りの中で、登場人物が語り始め、その中でまた登場人物が語り出すという入れ子構造が読んでいて楽しかった。

3位 カミュ『転落』
語り口がとても良い。
死は孤独でも、隷属は皆一緒です。
他の者たちも各々ひどい目にあいます。皆一緒にです。それが大切なんです。ようやく万人が団結できるんです。ただし膝はついて、頭は垂れて。


一条次郎『ざんねんなスパイ』
「馬鹿じゃないの(笑)」と思わず笑わせられるユーモアが抜群。
『精選女性随筆集 幸田文 川上弘美選』
「ふじ」の後半、痛みと感傷を伴う対立、すごい好き。でも選者である川上弘美のコメントが少しでもいいから、選話ごとにあると良かった。
田中兆子『懲産制』
かくも残酷な世界に生きる人間というものの痛々しさ。しかし人であるには他者の存在が必要なんだと。

今年読んだ本は104冊。
うち再読が19冊。

映画
ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』めっちゃ良かったです。
こんな不穏でグロテスクなアリス見たことない!

去年より良くなった部分と、全く展望が見えなくなってしまった部分と。
「これからどうする?」ではなく、「これからどうなるんだろう?」という気力の欠如。
そんな話を昨日友人としていて。
ますます『人間失格』の境遇に近づいている感覚。
誰か救ってくれという言葉の虚しさ。
生きたくもない生を生きるミスルン隊長に共感を得ていたダンジョン飯完結しましたね。

この長い余生の途中「では、また」で終わる手紙を何度も君に
(松野志保)

4
 ネットワークのどこかに存在する、仮想リゾート“数値海岸”の一区画“夏の区界”。
南欧の港町を模したそこでは、人間の訪問が途絶えてから1000年ものあいだ、取り残されたAIたちが、同じ夏の一日をくりかえしていた。だが、「永遠に続く夏休み」は突如として終焉のときを迎える。


最初に読んだ時は仮想リゾートに生き続けるAIたちというSF風味に目が行ってたけど、精巧にプログラムされている彼らの感情の機微よなと思った。
設定するにはそれを作者が描かないとならないのだ。

ジュール、ジュリー、ジョゼといった面々はもちろんそうなんだけど、豊満で厳粛で官能的であったはずのイヴ内面が印象的で象徴的。
あの人がいなくなってせいせいした気持ちと、これで視体に没頭できるという密かな歓び、またそれらの後ろ暗さを抱えていたという人の内面そのもの。
寒さのあまりイヴが目を覚ますと、その寒さは、実はさみしさなのだった。


あとマクベスを想起させる三姉妹も好き。
「わたしはアナ(ルナ)(ドナ)ですよ」の三面鏡、すごく人を喰ってていいよね。

野村美月の”文学少女”で遠子先輩は
「本を閉じれば、物語は終わってしまうのかしら?いいえ!それはあまりにも味気ない読み方だわ。あらゆる物語は、わたしたちの想像の中で無限に続いてゆくし、登場人物たちも生き続けるのよ。」
と言ったけど、打ち捨てられた場所で創作された人たちはどうなっていくのか。

この作品が読まれたことで夏の区画の住人たちは苦痛の集積体となってしまった。
物語として請われて消費されることは、忘れ去られたまま風化していくよりも幸いなことであろうか。


「生まれないほうが幸せ」ブランチは朱鷺の卵を半熟にして(松野志保)

艱難辛苦の逃亡生活から無事に帰ってきました。

1日目。
博多空港を出て借りたレンタカーに乗り込み、いざ出発。
亜麻布二十エレは上衣一着に値します。

目的地の秋月城跡をナビに入れると、到着予想時刻では工程が間に合いません。
宿泊予定のホテルは別府です。
どうしても行きたい摩崖仏は最終入場が16:30
元々の到着予定は17:30。間に合いません。
同行者と協議の末、昼食と秋月城跡と小石原道の駅は取りやめて、大分県は福沢諭吉記念館を目指すことにしました。
そのまま福岡を旅立ちます。九州随一の都市とは……。
花ちゃんのお父さんは車に乗る際には木刀をトランクに積んでいたなんて言うので、運転を始めるまでは震えていましたが、皆様落ち着いた運転でした。
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福沢諭吉記念館。
「なんで福沢諭吉が唐揚げなんだよ!」と、記念館横の喫茶店でなごやんは憤慨しますが、立っている幟には「カレー食べ放題」
「なんでカレー食べ放題なんだよ!」
ごっこ遊び二人は突っ込みます。

富貴寺から摩崖仏へ。
ごっこ遊び二人とも富貴寺の中に摩崖仏があるものだと勝手に思い込んでいたため混乱しましたが、原作でも富貴寺から車で移動をしてました。
何度読んでも読み違えや勝手読みはあるんでしょうね。どんな本でも。
さて、摩崖仏。ぜいぜい息を切らしながら石段をのぼるなごやんを笑って読んでいましたが(いくじなしやね、なごやんは)
途中から石段も荒れた急勾配で、ごっこ遊び二人もたじたじです。
なごやんの反応は正しかった。
幸いなことにヒルの急襲もなかったため、相方を置き去りにせずに済みました。
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別府について一息。ここまでおよそ170kmです。
チェックインを済ませて竹瓦温泉へ。
実物を見てみると、建物やお風呂場の描写がとても正確です。
「地獄ばってん天国よ」と花ちゃんは言いますが、……あっっっつい!!
下町の銭湯より熱く、身体を浸けることができません。
他の入浴客が私たちに許可を取りつつ、ドバドバ水道を開きます。やっぱりみんな熱いんだ。
多少なりとも薄まったお湯に入ってみますが、少しでも動くとすぐに熱い水域に触れます。
危うくのぼせるところまで原作をなぞるところでした。
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2日目
阿蘇山から宮崎へ辿りつけば工程は完了のため、今日は悠々です。気分だけは。道のりは悠々などではありません。
2時間かけて阿蘇山へ。
「うおお、これ全部阿蘇か」
 なごやんが声をあげた。阿蘇を見るとなんで「うおお」と言うのだろう。
なるほど。曇天ではあっても、「うおお」としか言えない絶景がありました。これが阿蘇かあ。

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レストハウス草千里
「いきなり団子たい!」
「ばりうま!高級じゃなかばってん、懐かしい味のするっちゃんね」

疑っていたとかではないんですが、本当にありましたね。いきなり団子。なるほど、素朴な味だなーという印象です。

火口。こっちもこっちで壮観です。
阿蘇山大観峰とはまた少し毛色の違う、剝き出しの雄大さ。
隣にポルシェはいなかったため、当て逃げをせずに済みました。
代わりに駐車場の縁石に当ててしまったのか、「お前そのまま絶対動かすなよ」「ようそんなんで免許取れたなあ」などと大学生らしい男の子たちの会話が聞こえてきました。

ここまで順調に来ています。さあ原作通りホテルJALシティ宮崎へ。
離合なりを駆使しつつ鬱蒼とした山道を鬱屈と走るルートは流石に避け、国道10号をひたすら南下します。が。
長い。ひたすらに長い。これが陸の孤島宮崎か。
気を失うほどの長さに、ごっこ遊び二人は疲労困憊の末JALシティに辿り着きました。
ちなみに原作では追手をかわすため高速道路は使いません。そのため私たちもその縛りを設けることにしました。
ここまでおよそ300劼旅程です。
それにしても、宮崎地鶏にチキン南蛮は絶品ですね。

3日目。
いよいよごっこ遊びの逃亡生活も最終日。ハイライトである知林ヶ島を目指します。
おかしいな、朝8時過ぎには出発し寄り道もほぼないはずなのに、着いたらもう5時間が経っています。
指宿の鰻温泉を泣く泣く諦めます。

知林ヶ島。
干潮時にのみ、狭い砂の道が現れて渡れる不思議な島です。
使い捨てカメラごと写真を撮ってくれる〈よかにせ〉(鹿児島弁のいい男)は現れませんでしたが、まだ道が出ていないにも関わらず海に突っ込んでいく男の子たちを「馬鹿なんですよ」と紹介するお姉さんは、近くにあるそうめん流しを勧めてくださいました。
よかにせの女性版はなんと表現するのでしょう。

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長崎鼻。
最終目的地。ゴツゴツとした岩場とその先に広がる海を見ると、もうこの先にもう逃げる場所がないことをひしひしと感じられます。
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「くそたわけ!」

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最終日もおよそ300劼瞭擦里蝓F亡もここで幕ということで高速道路を解禁して帰ります。


 原作の解説で渡部直己さんは、知林ヶ島で香ったラベンダーのことを救いだと書いています。
花の香りのもとに「くっきり」と繋ぎ止められているのは、そうした自在さにほかならない。救いとはこのとき、自在でたえず軽快で不実なものの生動にむけて、何度でも「あたし」をあるいはわれわれを促す力の別称となるだろう。

 実際に逃亡をしてみて、ここの香りはラベンダーを探す約束もとい二人の関係性と逃亡を強制終了させる終わりの鐘なんじゃないかと思ったんですね。
逃亡が終わってしまって病院に連れ戻されても、ラベンダーが見つかっていなければ探そうよっていう約束は残る、つまり関係性も残るから。
だからこその「いつか極楽に帰ったがよかよ」なのではないかと思ったけど、続編が出ているらしいので、やっぱり自在な二人に訪れた不意の救いなのかなあって気もしてる。

 痛快なタイトルですよね。内容もだけど。
『逃亡くそたわけ』
書店でアルバイトをしていた時に、お客さんがレジに持ち込んだ一冊に目を奪われたことを覚えています。
イカすタイトル、買ってみようと。

亜麻布二十エレは上衣一着に値する。
頭の中の声に追われるようにして、青春病院を抜け出す二人、夏の終わり。

数々の事件を起こしつつ衝突しつつ、車は福岡から南へ南へ。
ロードムービー風の物語としてとても面白い。
精神病院に入院していた二人だから不穏さを孕むけど、青春はそれ自体に仄暗さを含むものだから。
そう、これは青春小説。
まばゆいくらいに光る青春小説なのですよ。

吉田修一の『逃亡小説集』の解説で解説の酒井信さんによると、「逃亡」は「旅」と似ているが、戻るべき仕事や帰るべき家を失うという点で「文学的な影を帯びる」と。
なるほど。
今回の逃亡によってなごやんは退院の予定が反故になる。
では花ちゃんの方はどうだったか。

大学を休学中、彼氏とは離縁。家庭的にも問題はなさそう。
であるなら残った要素、それはなごやんだったんじゃないかな。

すごく仲の良い友人だった訳でもなく、無論恋愛関係でもなく、たまたま脱走する際そこにいたからだけど、
この逃避行の道連れであって、故郷への愛憎を看破できるくらい理解してしまった存在。

「いいらしいよ、ラベンダーの香りって落ち着くんだって」
「……そうなん?」
「ふたりで、さがそうよ」
 ふたりで、というのは初めてだった。薄い紫の靄が高原を、花を摘みながら歩く二人の姿、浮かんだ。胸の奥がシクッとするような気がして、あたしはなごやんの横顔を盗み見た。
 すてきだなあ、やさしいなあ、あるかなラベンダー。


結末付近でラベンダーが香るけど、それ自体が二人に何かをもたらす訳ではない。
救済を花ちゃんが作中で感じたのは、間違いなくこの夜だと思うから。
ああ、だから次の夜に花ちゃんは「してもよかよ」と言ったのかな。
一度もさせてあげないのも可哀想かなと感じた理由は。

いつか帰った方がいい名古屋の極楽と、帰って行くほかない博多を改めて認識して物語は幕を閉じる。
「くそたわけ」となごやんは叫んで。


 友達と逃亡くそたわけごっこをしに、今週末九州へ行ってきます。
ごっこ遊びは逃亡ではなく、日常生活に変わらず戻っていくことを前提にしています。
福岡から鹿児島までという強行軍が無事に達成できるかが心配。

祝・映画化。
どちらかというとまだ知る人ぞ知るといった作家さんなので、周知されるきっかけが増えるのは喜ばしいことですね。
主演も広瀬すずさんと。

という訳で元々田島列島さんと原作のファンだったので観に行きました。
言ってしまえば原作ファンからするとあまり……。
そもそもがわりと独特な作風なんですよ。
高校生の男の子とOLのお姉さんが、お互いが親の不倫相手の子どもだと知ってしまうというヒューマンドラマなんだけど、基本的な雰囲気はゆるゆるとしたユーモアをまとったコメディなんだよね。
それって映画化するとどうなるんだとは思ってたけど、まあそのままは出ないよね。
実在の人間にそれをさせると妙にわざとらしくなってしまう。

 まず映画の良かったところ。
それは血の通った人間が演技をするということそのもの。
特に高校生役の男の子が榊さんに、涙ながらに訴える場面は青春の青臭い情動が迸るようで良かった。
あとはラストの展開。あれはあれで好き。
「ばっかじゃないの」

 悪いところというよりは、気になったところ。
ズバリ榊さんの造形ですよね。ずっと不機嫌な仏頂面。
ラストの描写が180度違うという点から考えるに、そもそも原作と映画では榊さんの性格が全く違うのではないか。
原作の榊さんも朗らかに人と接することはしていないけど、雰囲気そのものはとげとげしくなくてむしろ優しい寄り。
過去の経験から心に波風を立てないよう、敢えて距離をとっている。
映画の榊さんが優しくないということはないんだけど、うで卵を直達くんと競うように食べる場面とか、腹いせに山盛りのポテトサラダを作る場面とか、感情を押し殺す性格ではあんまりないよね。
原作の榊さんも腹いせにパチンコ行くとかはしてたけど、人との対峙の仕方かな。
だって、原作1話目のタイトルが「雨と彼女と贈与と憎悪」だよ。
ここで言われないと、榊さんのそれが憎悪を抱えた人間の行動に見えない。彼女が波風を立てないように心情を抑え込んでいるから。


 もちろん映画と原作はまた違うから、原作そのまんま作らなくちゃいけないことはなくて、映画の終わり方もわりと好きなんだけど、人物造形が全く違うものと思えるのはわりと大事なところなんじゃないかな。


 ただ、明確に間違っていると言えるのがポトラッチ丼について。
映画ではポトラッチ丼の由来が明かされます。
母と決別した高校生の榊さんは、怒りに任せて牛肉を無造作に煮立てます。
「それが、最初のポトラッチ…」

いやいやいや、さも伏線を回収したみたいになってるけど、ニゲミチ先生の説明をちゃんと読んだか?
「『ポトラッチ』は北米の北西海岸に住んでた先住民が、冠婚葬祭に合わせて宴会をして呼んだお客さんとアホほど贈り物をし合うお祭りなんだけど、自分の気前の良さを見せつけるために高いモノぶっ壊したりとか乱暴なコトもしてたのね。
榊さんは時々私財をなげうってかなり上等な肉を買ってきては、フツーの玉ねぎと一緒にフツーのめんつゆで暴力的に煮つけたものをふるまってくれるのでこの名がつきました」
と。
行為自体がポトラッチなんじゃなくて、ポトラッチとは概念でしかないんだよ。

 というかポトラッチに例えたのは教授だろうけど、ニゲミチ先生説明上手だな。

 あともう一点は映画の泉谷さんの扱い雑じゃない?存在感が希薄というか。
何より告白への返答をしてないじゃん。
教室を飛び出して行く直達くんを、「あーやっぱりそうなっちゃったか。分かってたよ。しっかりやりな」的笑顔で見送るだけど。
それでいいの?本人がいいならいいのか。ならそれでいいんだ。


Twitter終わっちゃいそうじゃないですか。
10年以上一緒に生きてたものが消えてしまう喪失感が悲しくて、でも仕方ないよね。
怒ったってしょうがないことばっかりだもん。
あ、これ榊さんの台詞だって思ったら、あれ、もしかしたら原作と映画では榊さんの性格そのものが違うんじゃないかという見解でした。

4
国を変え、場所を変えつつ綴られる短編集は
空gnamのように見知った文字に、知らないルビが振られたり、
shitoshitoshito barabarabaraと雨のオノマトペがローマ字で書かれたり、
知っている言語が解体されていくような、文字という雨をつたって辿り着く情報が流れて形を変えていくような、そんな不思議な酩酊感があって良かった。

「国際友誼」好き。
京都を舞台に、3人の視点人物から思考が様々に枝分かれしていく様子が。
それは時におもかげ、郷愁、言語の関係性、何百年も昔の人びと。

自分は自分の渡し守を探さなければならない。
ぬばたまの、常夜のさなかの起源を、求めて旅に出なければ。
しかし彼女が探し当てたのは、一丁の鋏であった。

その発音の仕方じゃ谷崎由依じゃなくて、インターナショナル・フレンドシップだよって、実際に谷崎さんが経験したことなのかは定かじゃないけど、
そうした流れを汲んで至る
ーあんた誰。
ー国際友誼。
の帰結すごいクール。

「天蓋歩行」とても好き。
かつては木だったという男が紡ぐ物語は、これまで作品を読み進めてきた酩酊感をより一層強くする。
今ここで人として座る自分の前にいる、自分の話を全て信じる女から、全てを疑う女への回想へ。
人間の社会に属さない私と、名家に嫁いだ立場に馴染めない女主人との、決して分かち合うことのできないやり取りの描写がすごくすごく美しかった。

ー許す。
と彼女は言った。
けれど声は言葉通りを意味してはいなかった。まなざしはむしろ乞うていた。私がそこへ座ることを懇願するように見ていた。


夕焼けは、その表面で反射し私たちへのもとへもやってきた。ひとつの、贈り物として。私の、彼女の、虹彩の襞を、へいぜいとはべつの色に染め上げた。
その色に、虚を衝かれたのだった。私の黙った一瞬の隙に、彼女はもう告げていた。

手入れの行き届いた指を、彼女は青くなるまで握りしめていた。それが目に入ったとき、知っている、と思った。
訴えていることは真逆で、口調も矛先も違うようだが、それでも、おなじことなのだと。あの数々の午後に、どこへも辿りつかない交わりのあとで、ままならなさに泣いていたその心とおなじものだ。

男のことを「恋人」と呼び違える。
かつて木だった男にとっては呼び違えるものだという描写が秀逸で、更に過ごした関係性さえも認知によって変わってしまう。
言語の機能によって。

4
『逃亡くそたわけ』はバイブル、ということで除外すると、絲山秋子作品で一番好きかも。
(その割にくそたわけの方はまだ記事にしてないね)

 力の抜けた自然体の佇まいの底に、どこか無常観みたいなものが漂っていて、読んでいてすごく心地良かった。
言葉の交わし方とか、するすると水が流れて行くようなセンテンスに。


突然現れた、ファンタジーという何もできない神さまの存在が物語を特異なものにする。
何かを変えるでもなく、与えることも奪うこともせずただ在る。そして消える。
登場人物と読者に強い印象だけを残して。

特異な存在が混じると物語の奥行きがすごく広がりますね。
文章が豊穣になる。

「ファンタジー、なにかをするってことは前に進むことなんですか?」
「どっちが前かはわからんがな。物事が連鎖するのは間違いないから、前に進むときもあるだろう」

「孤独ってえのがそもそも心の輪郭なんじゃないか?外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。


確固としたなにもできなさはユーモラスでもある
「なんか御利益ないの?」
「俺様に御利益?あるわけないだろう」

「ほんま、役に立たん神さん拾ってしもたわ」
「役に立たないが故に神なのだ」


なにかがどうっていう本ではないようだけど、我々の孤独を埋めるために何かを残していくというそれは強く伝わる、ちょっと珍しい雰囲気のとても面白い本だった。
それを思うと、ファンタジーという神の名前もすごく適切に思えますね。

お前さんが生きてる限りファンタジーは終わらない。俺様のことなんか忘れてもいいのだ。それは致し方ないのだ。だが、お前さんの中には残るのだ

せめてここに載せる本くらいは記事にしてからまとめたいよなーと思いつつ、とうとうそれすらもできなくなってしまった。

1位 キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』
面白さでいえばこれが一番だったかな。

2位 アンドレイ・キヴィラフク『蛇の言葉を話した男』
雰囲気も舞台設定も話型も、今まで読んだことがないくらい斬新。
主人公の境遇を自分に重ねたりなんぞもして、【今年の一冊】というテーマにはこれかな。

3位 千早茜『わるい食べもの』
そういえば友人にお勧めもしたっけ。
http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1897476.html

あと印象に残った本。
村田喜代子『人が見たら蛙に化れ』
骨董品をめぐる妄執が面白かった。
ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』
優れたミステリーがもたらすのは、物語へ没入することによる期待と不安とカタルシス。
辻村深月『嚙みあわない会話と、ある過去について』
「ナベちゃんのヨメ」がすごいよかった。それはそれ、私たちが口を出す部分じゃない。
笙野頼子『海獣・呼ぶ植物・夢の死体』
何がどうっていうと、言語化はすごい難しいんだけど。
残雪『黄泥街』
何一つ訳が分かんなくて、それが面白かった。
三方行成『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』
タイトルからしてはちゃめちゃなSF×童話のエッセンスが、すっごい馬鹿馬鹿しくて楽しい。



今年読んだ本は102冊。
うち再読は20冊。


職場で配置換えがあって、役職も変わった。
だから何だっていう話。感情そのものが身体の外側を流れ落ちていくというか、今は何を感じてるんだろう?みたいな。
ますます虚無の広がるファンタ―ジエンにアトレーユも幼心の君ももういない。

最後に、マルクス・アウレリウスの『自省録』から。
これ以上さまよい歩くな。君はもう君の覚書や古代ローマ・ギリシア人の言語録や晩年のために取っておいた書物の抄録などを読む機会はないだろう。だから終局の目的に向かっていそげ。そしてもし自分のことが気にかかるならば、虚しい希望を棄てて許されている間に自分自身を救うがよい。

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