淡々 (マンガソムリエ廃業編)

元マンガソムリエ(自称)の淡々とした日々をつらつらと。 ★★★★★・・・大絶賛。絶賛すぎるので、逆に、誰もが100%楽しめるとは決して思わない。 ★★★★・・・是非読むべき。たぶん誰がよんでも面白い。 ★★★・・・読んで損はないかな。 ★★・・・うーん。おすすめはしない。 ★・・・逆に凄い。自己責任で読んでほしい。

今週末は3連続で映画館に行くという贅沢を堪能した。
最近ばたばたしていた仕事がやっとひと段落したというほっとした気持ち半分、そこでたまったストレス的なものをうっちゃってしまいたいというやけくそな気持ち半分の暴挙だ。
というわけで、その感想を一言ずつ。

1日目
ミナリ

部隊は1980年代のアメリカ南部。
韓国出身の移民一家が理不尽な運命に翻弄されながらもたくましく生きる姿を描いた家族映画・・・ってことなんだけども、いろいろな意味でレベルの高い映画だった。
その頃の移民の生活を描くデティールだとか。
彼らが住む土地の豊かな自然と、それゆえの寄る辺なさとか。
あるいは夫婦の関係のリアリティだとか。
途中から登場する祖母の演技の妙だとか。
細部の確からしさが、「映画的な豊かさ」につながっている・・・のはなんとなくわかる。
だから、きっと映画なのだということもわかる。
わかるのだけども、どうにも味わいつくせなかったのは自分の映画IQの低さ故なのだろうか?
文句の付け所は特にないだけに、不可思議な飲み込みづらさだった。

2日目
花束みたいな恋をした

こっちは逆にわかりすぎてつらい。飲み込みすぎて消化できないという映画体験。
恋愛あるあるもそうなんだけども、「ゴールデンカムイも宝石の国も途中でとまってる」という麦くんの社会人あるあるにクラクラきた。
本来サブカル・・・っていうかカルチャーっていうのは、資本主義に飲み込まれないための価値観の一つだったと思うのだけども、それが資本主義的な価値観に敗北していく様をまざまざ見せつけられるのはなかなかにつらいものがあった。
これに関しては後日、Coffee and Beerのほうで語るつもり。

3日目
ノマドランド

気高く、美しく、それでいてちょっとひんやりどんよりともした映画。
映像の美しさとか、登場人物の生き方のしなやかさに目を奪われる一方で、やっぱりこの生き方の前提にあるのは資本主義の行き詰まりとか、格差社会とかがあるわけで。
もちろん、そういった既存の枠組みからはみ出して自由になった人達の映画という見方もできるのだろうけども、でもその選択をもって、単純に幸せだとは言い切れないよねってこともちゃんと突きつけてくる。
荒野を旅するってのは、背景まで含めてロングショットで見るとかっこいいのだけどもクローズアップしていくと埃まみれでもあるわけで。
その辺の機微というか妙を味わう映画体験だった。

先週から、別ブログというかラジオを始めた関係で、少なくとも週一回はパソコンを開くことになった。
これがまた、億劫で。わりとえいやっと気合を入れて立ち上げている。
で、思えば昔はこれを毎週やって、ここにいろいろ書きなぐっていたんだよなぁと思うと、今のこの億劫な感じが不思議で仕方がない。
まあ、一番の原因は仕事と家庭で手一杯で、時間がないってところに尽きるのだろうけど。
それとは別に、不惑を迎えた今、アウトプットへの欲求が減ってきているというか、インプットだけで満足できているのが大きいような気はしている。
あー。ちょっと違うな。
アウトプットとまでは言えないのだけれど、読んだ本とか映画に関して備忘録的なことはしているのだ。ただ、それが知人へのラインでしているという話。
映画に関してと、本に関して、それぞれ別の友人と何を摂取したか、くらいのことは共有してて。
それで満足してる。
SNSってやつは、備忘録すらも手軽にしてくれた。
でもまあ、こうして久しぶりにキーボードをたたいてみると、それなりに思い出すことはあったりするわけで。
例えば今だったら映画「ヒメアノール」を見てからというもの、高校とか大学の、今はもう会えない友達(通称元友)のことがなんだか思い出されてならない話だとか。
あるいは「<責任>の生成」を読んで思った、「語り合う」という行為の意義と中動態というキーワードだとか。
まあ、そういうこと。
あるいは、ディズニープラスにやっと入ったのに息子は意外と食いつきが悪いこととか。
レゴマリオの中毒性だとか。
そういうことも。

これをしっかりがっつり長文で書こうというほどの欲求はないのだけども、「今の自分」の記録として残しておくのは悪くないのかもしれん。
というわけで、せっかくパソコンを立ち上げる機会ができたので、こっちもちょっとは書こうかなとおもうしだい。かなりぬるいですが、週一回程度書きます。多分。
あ、でもメインはCoffee and Beerですので、またよろしくお願いします。先ほど、更新しました故。

淡々と記事を書くとか言いながらその実、1年間放置しておりました。
まあ、そういうやつです。(知ってた)
お久しぶりです。元マンガソムリエの夏男です。
で、お久しぶりの記事で、わりと重大発表です。今になって何人が見てくれているのかわかりませんが・・・・続きを読む

スコセッシっぽいなぁ!!ってのが第一印象。
でもそれが、パクリじゃん、ダメじゃん、と思わないのは、とにもかくにもこの映画が面白かったからなんだろう。
事実と真実と虚構と妄想がすごいテンポで入り混じる。
その中で、トーニャハーディングという人と、その周りの人達のどうしようもなくアホな、でもだからこそ泣けてくる悲劇と、その悲劇をささら笑うようなしたたかさが浮かび上がってくる。
で、その痛みを通り越して痛快な感じってのはグッドフェローズとか、ウルフオブウォールストリートの感じに近いんだよなぁ。
おそらく、悲喜劇がない混ぜになって痛快になるって感覚は、映画という技法が根本的に持つモンタージュ的な側面と相性がいいのだと思う。
おかげでこの「スコセッシっぽい語り口」ってのがもうスコセッシのオリジナリティってところを飛び越えて、一つの手法として成立してるってことを改めて実感できた。
(まあ、そもそもスコセッシ自身がこの語り口に固執してないし。)

個人的に爆笑したのはあの、どうしようもない誇大妄想家の兄貴で。
まあ、見た人誰もが思うんだろうけども、とにかく度を越した阿呆でトンチキな感じに開いた口が塞がらなかった。
で、いくらなんでも演出が過ぎると思ってたらエンドロールで出てきた本人インタビューが、まさかのそのまんまで、塞がらない口が塞がらないどころかさらに広がるという臨死体験。
事実は小説より奇なりってのは使い古された表現だけれども、どっちがどこまで奇なのかわからなくなってくるのがこの種の映画の醍醐味なんだろう。

てな感じで、なんともかんともかなり印象に残る映画だった。
特にラストのボクシングシーンのふてぶてしさと、エンドロールのスケートシーン(本物)の文句なしの素晴らしさ。
この2つの残響が凄くて、なんだかここ数日トーニャハーディングのことを考えている気がする。

一発屋っていう言葉を、半笑いの対象から少しずらしたってだけで意味のある本だったと思う。
一括りに一発屋と言ってもそこにはそれぞれの人生があるわけで。
何も考えずに一発屋達のギャグを消費してきた側の人間にして見れば、彼らについて改めて考えるってのは、自分の人生も同時に振り返るような妙な感慨があった。
なんでだろ〜の歌、当時はバカにしてたよなぁとか。
ムーディー勝山はよくわからん衝撃が走ったなぁとか。
それこそ、ルネッサーンスはかなり、好きだったなぁとか。
そんな彼らを忘れた後も自分は生きていて、結婚して子どもができたりして。
で、同じように彼らもまた人生を歩んでいて。

まあ、単純にそんな風に自分の人生を、重ねながら誰かの人生に思いを馳せるというのは楽しいのだ。
それって、年末の元プロ野球選手によるトライアウト番組を見るような、ちょっと下世話な楽しみなのかもしれないのだけれども。
そういう、モヤモヤも含めてなかなかに楽しい読書ではあった。

あと、レイザーラモンHGのあれが、思った以上に真面目にハードゲイに向き合って、それなりに筋を通していたっていうのはいい意味で衝撃だった。
なんとなく自分は、あの芸はLGBT的な感覚から笑いにくくて、苦手だったのだ。
でも、本書を読んだことで笑えるかどうかは、ともかくとしてとりあえず今後は見ても、モヤモヤしなくてすみそうだなとは思った。

多分、恥ずかしながらの初ケン・ローチ。

評判どおりのいい映画だった。
なんて、陳腐な感想だろうとは自分でも思うが、いい映画という表現が一番しっくりくるのどから仕方ない。
じゃあ、何がいいのかってことなんだけども。
それは、登場人物に対する距離感なのだと思う。

ここで描かれる現実は、どう考えたって救いがない。
心臓を患って働けないから給付をもらおうもしたらまだ働けると言われ、異議申し立てするためには求職活動をしているフリをしなければならず。
さりとて、本当に働くには身体がまだ病から回復していない。
あるいは、学生でシングルマザーになったがためにその後の働き口がなく、かといって職を得るための勉強もできない。
そういうのを救うのが社会福祉のはずなのに、複雑怪奇な法律とパソコンの壁が、彼らを人間扱いしない。
どこのディストピアだよと思うけれども、多分これがイギリスの今であって。
で、それはこの国、日本もだいたい同じような感じな訳。

それを告発するだけでも、価値はあるのだろう。
でも、この映画はその中にささやかな笑いとか優しさとか、希望もフェアに盛り込む。
苦しい生活を、単なる絶望感と徒労感の描写では終わらせない。

それは、この映画の目線がここで描かれる人々の人生に、過剰に入り込み過ぎず、少し距離を置いて切り取っているからで。
人生はクローズアップで見たら悲劇で、離れて見たら喜劇ってのは使い古された文句なのだろうけども。
それを愚直に丁寧に行うことで、僕らが現実で見過ごしている笑いとか優しさにもちゃんと気づかせてくれる。
それが、心地いい。

まあ、とはいえ結局そういうささやかな希望は非人間的な社会システムに飲み込まれてしまうってところまでこの映画は描いているので、決して楽しいだけの映画ではない。
自分のメンタルが弱っていたら持っていかれたかもしれんと思うくらいのキツさはある。
でも、それが重苦し過ぎずな、胸に残るのは、この世界の優しさもまた、フェアに捉えている故なんだろう。
そういう意味で、やっぱりいい映画っていう表現が1番しっくりくる気がするのだった。


不思議な読後感。

なんというか、焦点の定まっていないマンガという印象だ。

知ってるようで知らないゴミの捨て方講座でありながら、ゴミ清掃員というお仕事の紹介マンガでもあり。
はたまた、ささやかな家族ものであり、芸人の青春記でもあり、同時に一人の男が夢と折り合いをつける話でもある。
つまり、一つの作品として見た場合には完成度は決して高くないのだ。

ただこの評価には、そもそも本作がプロの作品ではないというエクスキューズがついてくる。
なにせ、原作者が芸人兼ゴミ清掃員ってのは、まあそりゃそうだろって話なんだけども。
それをマンガにしているのはその奥さんで。
勿論これが初マンガだという。
そりゃあ、完成度なんか求めるべきではない。
むしろ、ちゃんと完成させたってところですでに凄い。

で、そのいい意味での素人感が、本作の場合は妙なフックになっていて。
なんだか妙に記憶に残っている。

で、そのこびりついた記憶は、自分がゴミを出す度にちらりちらりと顔を出す。
ときには、何が燃えるゴミで、何がプラスチックゴミなのか、みたいな実用的な記憶として。
ときには、自分が昔思っていた夢と、今の自分との折り合い的なセンチメンタルな記憶として。

そして、ときには自分が出すゴミを片付けているゴミ清掃員の存在への認識として。

勿論向こうも仕事でしていることなので、今更特に感謝の念を抱くとか、そういう感情ではないのだ。
でも、自分の日常の中でオートマチックに、あるいはシステマティックにこなしていた、ゴミ出しという行為の裏に、それを片付ける仕事がある。

そのことをこれまで特に意識していなかったということに今更ながら気づいたってところはあって。
その気付きは、妙に生々しかった。
で、そういうことって、ゴミだけに限らずとの社会のありとあらゆるところにあるんだろうなぁ。

多分、所謂マンガの上手い人が描いたらこうはならなかったと思う。
もっと面白くて、もっと読みやすくて、そしてもっと消化しやすかった。

本作はその素人臭さ故に、生々しく、そこに生きる人の人生をリアルに伝えてくる。
だから、消化しきれずにずっと記憶に残っているのだろう。

まあ考えてみたらこの本には1人の男の、あるいは家族の人生が詰まっているわけで。
そんなもの、簡単に消化していいわけがないのだ。
そういう意味で完成度だけでは測れない価値がこの本にはある。

というわけで。
すっげー面白い!!みたいな作品ではないけれど、読んでよかった一冊。
自分は、同人誌界隈には詳しくないのだけども同人誌のよさってこういう感じなのかな、などと思った。



男臭い映画なんだけども、同時にすごく上品な映画でもあった。

見る前は下町ロケットとかプロジェクトエックス的な感じかなと思っていたのだ。
つまり、見たあとは、高揚感たっぷたぷで、明日からもお仕事がんばっちゃうぞ!!みたいな感じになるのかと。
でも、実際見終わった感想は、もっとビターで。
やりきれなさとか、虚しさみたいなもので胸にぽっかり穴があいた。
ただ、それがイヤな感じだったわけでもなくて。
その穴に絶望するのでもなく、その悲しみに浸るでもなく。

ただ、ままならん人生が、ままならんが故に美しくも見えるような。

つまりは大変、上質な映画体験だったのだ。
その上質さを担保しているのは確かな演出なのだろう。

とにかく、ドラマを過激に煽らない。過剰に盛り上げない。
ちょっとした仕草や演出でドラマを盛り上げてくれる。
だから、さりげない会話シーンでも目が離せない。

で、その抑制が解き放たれるのが途中のレースシーンで。
ここは大画面にふさわしい圧感の出来栄え。
劇場にて、素でうわあと声が出てしまったのは何年ぶりだろう。

この、緩急が肝で。
多分その心地よい体感が体の芯に残っていたからこそ、あのエンディングの後にそれでも人生を肯定したいと思えたのだと思う。

というわけで、とりわけ、モータースポーツに興味のない人間でもどっぷり楽しめた2時間強。
仕事が終わった週末の深夜に見るのにうってつけの映画でした。おすすめ。

【映画パンフレット】 男はつらいよ お帰り 寅さん





大画面で寅さん見るのもこれが最後かもなと思って鑑賞。
まあ、中身は完全なファンムービーで。
素晴らしいこれまでの映像とそれを繋ぐためのとってつけたような現代パート。
何より、「おかえり寅さん」と銘打ちながら、物語上は寅さんは帰ってこない。
これは所謂、詐欺にあたるのではないかと思わなくもないが、まあ、そこまで目くじらたてるようなことでもないよなとも思う。
少なくとも、紅白のCG美空ひばりに比べれば、これくらいの節度の方が上品だし、お茶目だ。

ファンムービーってのも、まあ悪いことでもなくて。
自分の知り合いの寅さんファンはみんな、これを大絶賛しているし。
寅さんファンを喜ばせなくて、なんのための寅さんなんだって話なわけだ。
また、特に大ファンでもない自分もこれを見て、往年の邦画に思いを馳せるのは悪くない体験ではあった。
とくにこれまでのマドンナが次から次へと大画面に登場するシーンは圧巻で。
女優さんって、きれいだなぁという当たり前の感想を、当たり前に抱いた。
正月明けて一発目に見る映画としては、これくらいが最適解のような気もする。

【2019年ビジネス書大賞 大賞】AI vs. 教科書が読めない子どもたち

もっと教育よりの本かと思っていたけど、どちらかというとAI寄りの本だった。
そもそも著者はAIの方の専門の方らしくて、文章は非常にロジカル。
そういう人が「シンギュラリティは起こらない」ってことを論理的に断言してくれるのは、わりと痛快ではあった。
で、そういう本だから、「読解力」がなぜ必要なのかとか、今の現状ではどうなっているのかっていうあたりの論考も極めてロジカルで。
読み進めるうちに、今まで、なんとなく意味は通じるもののの、ふわっとした定義だった「読解力」が自分の中でも形になる感じはあった。
また、それを理解すればするほど、どうしてAIの専門家が教育に対して危機感を持つのかもよくわかった。

AIが急速に進歩しているのに、そのAIにできることばかりを教育でも詰め込んだ結果、肝心のAIにはできない、人間にしかできないこと分野に関しての力がガタ落ちしてるってのは、間違いなく構造的な問題だ。
それをなんとかするのが大人の役割なんだろうけども・・・・・
なんというか、ここまで幼稚化が進んだこの国で、この冷静な判断ができる人がどれだけいるのだろうかと暗澹たる気持ちにはなるよね。

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