ウルフギャングが見た夢

人間というのはすぐに驕り高ぶるから気をつけないといけない。

2023年の仕事を振り返ってから気づけば3ヶ月も経っていた。恐ろしい。震災の義援金対応にはじまり、年度末ということで予算策定に奔走したり、新年度の人事調整をしたり、紛争対応したり、広範に仕事に明け暮れた。プライベートは時々旨い酒と旨い飯を食むくらい。ウルフギャングステーキはクリスピーで最高に美味かった!

多忙の折に仕事を増やしてくる上司というのは厄介なものである。もっと早く言えよと思ったり、もっと的確に指示を出してくれよと思ったり、負の感情が渦巻く。そうは言っても前に進むためにはやらねばならぬものはある。変に不満を言って突き上げてしまうと、次回から仕事を振ることをためらってより悪い結果を招く恐れもある。

しかし考えてみれば、確かにそうだなと膝を打つ話も多く、経営者がギリギリまで考えて捻り出したものには宝石もあるもの。ポジティブに向き合って吸収する素直さをもった方が得かもしれない。仕事を増やしやがってと思うのは傲慢で不遜で損だと思う。

先日代表とペアプロするが如く一緒にパワポを作った。正直かったるいなと思っていたが、今になって相当に貴重な経験だったと思い直している。やりたいと願っても叶うものではないもの。リスペクトもなく面倒に思ったのは驕りだと思う。我ながらよくない。

自分を何者かであるように勘違いするのは本当によくない。ただのサラリーマン。角打ちでホッピーすることこそ幸せだと思わないといけないので、もうウルフギャングステーキには行きません!(また行きたい)

March 24, 2024


dogandchopsticks at 10:30


2023年の仕事を振り返る

ゴルフをやりたくなくて生きてきた。

若い頃から接待ゴルフに明け暮れるサラリーマンにはなりたくないと思って、ゴルフ文化のない世界を選んで身を置いてきた。ベンチャー企業にはゴルフ文化がなかったのは幸いで、社会人になってこれまでゴルフに絡まず生きてきた。

そんなゴルフに向き合うことになったのが2023年である。

某社の社長様から「ゴルフやりなよ、楽しいよ」と言われ、その人の経営傘下にあるゴルフスクールに通った。年齢を重ねると挑戦が少なくなってくるもの。今年挑戦するものとしては悪くないかもしれないと思って、一念発起してゴルフを習った。

で、結局ゴルフは好きじゃなかった。

一応それなりのスイングができるようになり、体格もあってか飛距離も出るようになった。普通に上達したと思う。うまく芯の食ったスイングができた時は心地よいものがある。しかしながら、遠出してわざわざやりたくなる面白さを感じられなかった。仕事の多忙さもあって最後はスクールごと辞めてしまった。

そう、今年は後半になるに従って忙しくなる年だった。

5月にコロナが5類に移行してからは往訪も来訪も増え、イベントごとが格段に増えた。リアル取材では話してもないことが記事に書かれたり、新卒採用イベントでは「ぼくは将来的に寺を継ぐんですけど御社にはそこに役立つ経験ができますか?」と投げ込まれたり、投資家向けイベントで演技力が足らなくて「目が死んでる」と言われたり。

そうした出来事の合間で、足元の事業整理と中期戦略の立案が進み、冬の訪れを感じる頃から本格化していった。厳しい話もあるなかで、人の感情がむき出しになる瞬間を数々見た。人が感情を出すのは本気だからだと思う。夢中でも焦燥感でも危機感でも良いが、本気スイッチが入ってこそ組織はカオスになって強くなっていく。

会長からのブチギレ電話が鳴ったり、社長が瞳孔を開いて詰めてきたり、自分にも痺れるシーンがいくつかあった。ほとんど笑い話だけど。彼らをしてそうなる状態では自分も平常心ではなく、言い返して衝突してしまった。良い問いを返したり、自分の気持ちを述べたり、来年は正面衝突ではない対話の引き出しを増やしていきたい。

さて、そうしたなかでの挑戦はゴルフだけじゃなかった。

業務のDX化のためにGASを覚えて書きまくり、APIを叩いてSlackを有効活用した。ジムで筋トレしながら英語勉強するという意識高い活動もスタートした。法務領域にも携わるようになった。改めて新しいことに挑戦する刺激は大事だと悟る。LLMの活用は表層的なので、来年はもっとディープに活用していかないとなー。

来年も熱い一年になりそう。たくさん挑戦して反省して学びを深めていきたい。そして、ビジョンを持って、そのビジョンに向けて学びを活かしていけるようにせねば。

みなさま良いお年をお迎えください。また来年!

December 30, 2023


dogandchopsticks at 14:04


幸せになると幸せになれない問題

おびただしい資産を保有する経営者と話す機会がありまして、雑談のなかで「金持ちになって幸せでなくなった」と語るのを聞いて、自分のなかでまたひとつ人間理解が進んだのでメモ。

不自由の無い贅沢な暮らしをしていながら幸せでないというのは何と嫌味なことだろうか、と最初は冷ややかに聞いていた。この話を聞いていたのも、その方のご邸宅で都心に構える大豪邸のなかである。何言ってんだと。

彼が言うには、欲しいものが買えるかどうかという頃の方が幸せを多く感じていた、という。

かつて彼が就職するときに両親からの贈り物として時計をもらったそうだ。それなりに高価な手巻きの時計だったそうで、それには大変喜んだという。両親からもらったこともそうだが、高級時計を身に付ける喜びが強かったそうだ。

その後、彼は成功して欲しいものなら何でも買えるだけの裕福さを手に入れた。

ある時に旧友と海外旅行に出かけ、高級ブランド店に入ったそう。自分が気に入ったアイテムを全部買い漁っていた一方、旧友は吟味して一点買いだったそうだ。旧友は彼ほどリッチではなかったから。

帰国して暫くして会ったときにも旧友は大事そうにそのアイテムを使っていたそう。一方の自分は買ったまま使わずに倉庫にしまってあるという。

その時に彼は、かつて両親に貰った時計を大事にしていた自分の幸せとその旧友が重なって映ったという。それで自分は以前のように幸せを感じられなくなってしまったのだと悟ったのだと。

幸せになればなるほど幸せになるのが難しくなる。人間というのは厄介だ。

ちなみにそうなってしまった場合の解決法は、一度どん底まで不幸になることだ。そこまで行けば一杯のかけそばでも幸せに思えるはずだから。まぁ、幸せのために不幸になるって意味わかんないから誰も望んでそうしないけど。

October 11, 2023


dogandchopsticks at 10:18


仕事は台風の進路予測のように行うべし

台風が日本列島に迫ってきており、猛暑をもたらす小笠原気団もさすがに台風には勝てないのだなと思い知らされる。最近は台風の進路も予測が難しいようで、おびただしい数のシナリオが描かれることがある。もともと台風の進路は幅のある形で天気図に描かれるが、それではカバーできないような変化球タイプも多い。

さて、台風の進路が予測できないのと同じように、ビジネスも予測が難しい。ところがビジネスの場合は台風と違って、幅のあるような予測を立てるのを見かけることがあまりない。計画や目標が固定の値であるのは良いけれども、着地予測がひとつの数字だけで示されているのを見ることが多い。

たまに企業の決算資料を見ていると業績予測を幅で出しているところがある。先日のサイバーエージェントの決算ではその幅を下回る決算で逆サプライズがあったわけだが、幅で示していたとしても予測を立てるのがいかに難しいかということの証左だと思う。

先日うちの中堅社員に自社の人員推移が今後どうなるかをシミュレーションさせた。御多分に洩れず、「5年後に3456人(数字は適当)になる」というようなピンポイントの数字を示してきた。そんなわけあるかい。

こういうのは予測ロジックの数式を作ることで発生するエラーだ。一桁単位でピッタリ当てられるロジックなんてありえない。それでも数式が弾き出した数字を信用し、何も考えずに出してくる。気持ちはわかる。自分も昔そういうことやってしまっていた。

ビジネスシミュレーションするときは台風の進路予測のようにやるべきだ。

台風の進路予測は、先に進めば進むほどレンジが広くなるような絵を描くことが多い。ビジネスも同様に未来になればなるほど予測はブレるはずだから、大きな幅をもって示すのが適切である可能性が高い。

予測シナリオが単一であるほうが扱いやすいのは事実だ。変数が多くなればなるほど、そのパターンごとに企画しないといけなくなるので、作業量が指数関数的に増える。台風の進路予測がスーパーコンピュータを使って行われているのはそういう理由だからだろう。

仕事をするときは、この幅のうちから4つに的を絞って考えるのが良いと思う。つまり、最大値・最小値・中央値、そして最も起こりそうな値(往々にして中央値に近いことが多いが)の4つ。この4つのときにどうするのかを備えておけば、あとは進捗に合わせて動きを調整していける。

なお、脳内メモリの少ない上司にこういう形で持っていくと「もっとシンプルにして持ってこい」とか言われるので注意が必要。そんなわけで天気予報も最もらしい予測コースのみを実線で示すようになってるはず。そういう上司はハズレです。御愁傷様です。


August 11, 2023


dogandchopsticks at 22:13


桜梅桃李

人事の仕事をはじめてからというもの、座右の銘のひとつに「桜梅桃李」を置いている。

桜、梅、桃、李のこと。それぞれが独自の美しい花を咲かせるように、他人と自分を比べることなく、個性を磨こうという教訓を含んでいる。


要するに「みんな違って、みんな良い」ということ。多様性を尊重することは一人ひとりの能力発揮を最大化することに繋がり、それらの掛け合わせはイノベーションを生む。みんな違う方が良いのだ。数年前に会社のバリューを見直すとき、ゴリ押しでこの観点を新たに盛り込んだくらいには重要な考え方だと思っている。

数十年前の大量生産・大量消費時代は画一的な商品であっても作れば売れるので、いかに生産性を高めて製造するかが大事だった。同じものを効率よく製造するなら、みんな同じ方が都合がいい。年功序列や終身雇用といった歴史的な人事制度は、そういう時代に最適化されたものだ。

VUCAの時代と言われて久しいが、作れば売れる時代は終わり、何が売れるかどころか何が起こるかも予測できな世の中になっている。そうした環境を攻略するのに必要なのが多様性だ。多様である方が変化に強い。

先日とある銀行マンに会ったときのこと。

大手金融機関に長く勤めて活躍してきた人で、社内では異端児として扱われているとのことだった。どのくらいぶっ飛んでいる人だろうかと楽しみにして会ったら、めちゃくちゃ銀行カルチャーに適応した人だった。確かに銀行マンにしてはリスク選好型だったが、目当ては出世レースだった。行内の出世競争ゲームに向けて各自が競い合うなかで他と違った方法論でやっているから異端児に見られているようだった。

多様性には幅があって、ある組織のなかでの多様性は、決して世の中での多様性ではないのだ。自分の会社も自社内のゲームに最適化された多様性かもしれない。それでいいのか。そういう問いを、この銀行マンから投げられたような気持ち。「桜梅桃李」のつもりが、ただの桜の品種違いを揃えていたということにならないようにしないといけない。

March 07, 2023


dogandchopsticks at 08:24


2022年の仕事を振り返る

昨年の振り返りでこのブログも潮時だと言っておしながら、こうしてダラダラと続けて変わらないのはおじさんの惰性である。新しいことに挑戦することはやぶさかでなく、今年も色々なことをやったけれども、他方で止めることは鈍い。始めるよりも止める方が難しいのは、公私で変わらないなと思う。

今年も昨年同様に偉そうに人前に出た。昨年のNewsPicksの黒歴史よりはマシだがログミーされてSmartNewsに配信されてきたのは憤死ものだった。生きるというのは恥をかくことだという認識が色濃くなってゆく。

お付き合いさせていただいた先輩たちは大変に立派な方が多かった。若い頃に必死になって読んでいたビジネス書を著したようなコンサルのパートナーと仕事したり、これも書籍で学ばせてもらった業界有名人の方と仕事したり、かつて遠い世界にいた方々とご一緒できたのは、ものすごく恐縮だった。何がってそういう人たちが自分に一目を置いてくれたからだ。

しかし自分がスゴイわけでなく、結局は会社の看板であるとか媒体露出であるとか、そういう表層的なラベルでもってそう見られただけ。本当の自分の大したことないことよ。実態と評判の乖離ほど恐ろしいものはない。こういうので人は勘違いすることがあるから、身の程を弁えたい。

志が低いと言われそうだが、その評判に見合う人になりたいとも思わない。赤ちょうちんで黒ホッピーセットで決めてバカやってる人生がいい。かつて福本豊は立ちションできなくなるからと言って国民栄誉賞を辞退したけど、よくわかる。

自分は偉くなりたいわけじゃなくて、本質な問題解決に手を添えたいのだ。周囲からの扱いが変わってきたなかで、改めて自認した。

プライベートは、メタボ脱却に向けてゴリゴリのダイエットをした。食事制限と筋トレ。5kg近く絞って無事にメタボの汚名返上を果たしたが、それ以上の成果として栄養の話ができるようになったことと筋トレの話ができるようになった。

しかし、筋トレして、サウナ行ってるとか、めちゃくちゃ意識高い系じゃないかと思って恥ずかしい。そうそう、今年は日本各地のサウナの聖地もいろいろ行った。なんだかんだ意識高い系かもしれない。自覚しろってことだな。

さて、ふまえての来年の話。

いい加減に英語で仕事しないとダメだなーと思うので、10年ぶりに英語の勉強するつもり。英語で採用インタビューして見極めできるくらいになることを目指して、その一歩目ということで。

自分のできることを少しでも増やして磨いて、事業の最前線にある奴らが少しでも救われるような仕事をしっかりやっていきたい。攻めながら守る。一年を振り返ったときに、攻められたなと思えるように。

みなさま良いお年をお迎えください。また来年!



December 30, 2022


dogandchopsticks at 08:46


定年退職したら小説を書いてはいけない

壮大なエロ小説を文学新人賞に送りつけてしまう定年おじさんの悲しき妄想

コロナ禍に入ってコロナどころか一度も風邪すら引いてこなかったのに、このタイミングでインフルエンザに罹患して寝込んだ。うめきながら最低限の仕事はするが、体力が落ちているのですぐに休みになる。そういう半分ゴロゴロ生活をしているときに、上記の記事を読んで、自分のなかの「おじさん学」がまた進んだのであった。

ずいぶん前に飲み屋で知り合った編集者から聞いたのも似たような話だった。恐らく定年を迎えたあとに小説にチャレンジするおじさんは少なくないらしく、その題材は決まってサラリーマンのサクセスストーリーなんだそうだ。大きな仕事を成功させ、若手の女性社員と愛人関係になり、その2つが絡み合いながら会社人生を謳歌するという内容で、その愛人との逢瀬がやたらとロングにディープに描かれるのが特徴なんだという。

あくまで濃厚なラブシーンが描かれているという話であって、冒頭の記事のように「エロ小説」と言い切ってしまうのは乱暴に思うが、それにしても必ずと言っていいほどエロ描写が入るというのは興味深い。

定年おじさんが自身のサラリーマン人生を振り返ったときに、自分が成せなかった夢みたいなものを主人公にやらせてる構図。くすぶっている若者が異世界転生物を書いて読むのと同じだと思う。そう考えると、そこはかとなく詫びしい気持ちになる。

人間というのは想像できないものを描写できない。

おじさんが小説を書こうと考えたときに、想像できるのがサラリーマンの世界しかないのは不幸だし、ラブシーンもエロビデオの見過ぎだろう。薄っぺらい人生からは薄っぺらい作品しか生まれない。だから、定年を過ぎて小説家デビューしようとするなら、せめて若いうちからユニークな見識を身につけるように精進しておかないといけないのだと思う。

よほど人生の厚みに自信がなければ、人に読ませるための小説は書かないのがマナーだ。あと何十年後かの自分に向けての教訓である。

November 25, 2022


dogandchopsticks at 21:51


貧乏のやせ我慢体質

四半期ごとに上場企業のシャチョーさんとかがズラッと並ぶような某組合の会議に出てるんだけど、左右を見渡しても自分が一番若いんじゃないかと思われ、これで意思決定するんだから若者の便益は図られないなと、日本の縮図を感じたりしている今日この頃です。

そこに参列してるお前が言うな案件だけど、権威が苦手です。本当は単なる気の良いおっちゃん達のような気がしないでも無いけれども、なんか会食とかが仰々しく権威を感じる振る舞いがあるわけですよ。高級なおもてなしへの居心地悪さ。

そんなわけで、その会の翌日は決まってすき家に行って牛丼などを貪って自分を取り戻すんですが、もちろんBGMはすき家RADIOです。あれに曲をリクエストする人の気持ちが知りたくて応募しようとしたら、採用されると牛丼お食事券がもらえるらしく、それ目当てなのかとたじろいだ。

牛丼無料券のために曲リクエストしたいと思えない金満な振る舞いをしてる自分にげんなりした。いや、牛丼無料券が目当てでなく単にすき家で自分の好きな曲を聴きたいだけかもしれない。いや、すき家で自分のエピソードが採用されることで満たされる承認欲求だってあるかもしれない。そのいずれも共感できない自分にガッカリする。

権威的な振る舞いに居心地が悪いと言っておいてからの、すき家のファンたちに共感できないといつ権威的な考え方を自らしている矛盾。なんてみっともないのでしょう。

最近、(なんとか to Earn じゃなくて)トリマみたいに歩いてポイント貯める系のサービスが勃興して群雄割拠だけど、そこも手が出ない。ビジネスモデルとしては、広告収益の一部をユーザーに還元する、そのときの分配ロジックを歩数とかで決めてる感じだと思う。広告媒体のためにユーザーが必死に歩くなんて滑稽じゃないか!

そして、あーだこーだ言って経済的便益を得ることについて批判的な自分に気づく。拗らせてるのかもしれない。ちなみに、金なら無いよ。

October 30, 2022


dogandchopsticks at 13:10


刻みたいという欲求

先日とある戦略ファームのコンサルタントと一緒に仕事する機会がありまして。

位を表す肩書きを言うとどこかバレちゃう会社の上から二番目と三番目の位にいる方々で、ブレストであーだこーだ話してたら、最後に議論を総括してさらっと論点を整理しちゃうような腕利きのコンサルタントでした。あと、他社の事情にも詳しくてポンポンと事例が出てきてスゴかった。

プロジェクトのなかで、私は彼らにあるサービスのネーミングを任せることにした。正確にはネーミングについて意見を求めたのだが、私は自身の壊滅的なネーミングセンスの無さから、提案されたものを即採用する気でいたのだ。

敏腕コンサルタントが付けた名前は、面白みは無いけれども隙のない無難なものだった。私は提案を持ち帰って各所調整し、正式採用することをコンサルタント達に伝えた。

そのときの破顔一笑が忘れられない。

日本でも有数のコンサルタントだと思うんだけど、こんな名前ひとつでそんなに喜ぶなんて、どうしたんだろう。私は怪訝に思った。彼らは日本を代表するような会社の経営計画や戦略立案をしていたりするわけで、それに比べたら鼻クソみたいなもんだろう。

しかし彼らは言った。「私たちは提案までなので、それがそのまま採用されることはめったに無いんです。しかもモノの名前として残り続けるものは珍しい。ありがたいです」と。

戦略コンサルも何かを刻みたいんだ。なるほどなと思ってすぐに、だったら自分でやればいいじゃん、と思ったけど、喉の奥に飲み込んだ。人の歓喜に水は差すまい。


大義名分は本質を突かないという当たり前の話

そのときYくんは最後まで食い下がったが、私はそれを厳しく振り払ったのだった。

遡ること3か月前──

若手時代から行動力があって活躍めざましかったYくんは、ある事業のトップにまで上り詰めていた。彼は現場の細部まで把握し、そこに気の及ばない上司を助け、時には突き上げることで重用されてきたのだ。現場に詳しく上位の目線がある、器用で万能なタイプだった。経営としては当然そのような活躍をトップになってからも期待していた。

けれども彼の動きは、トップになってからすこぶる鈍った。

Yくんの管掌範囲にあるサービスのひとつでトラブルが発生した。社長から問い合わせがあったがYくんは答えられなかった。そのサービスの現場に入り込めていなかったからだ。かつて現場まで熟知して成果を出してきたYくんに対して経営陣が期待したのとは、真逆の状況にあったのだ。

社長に問い詰められたYくんは対応策を思案した。その結果、そのサービスを運営している部門のサブマネージャーになると言う。名実ともに現場に入ってやりますという宣言だ。マネジメントによる代打オレは愚の骨頂だが、Yくんのコミットする気持ちを尊重しようと思った。

結果どうなったかというと、Yくんはそのサービス運営の会議には参加できたが現場に入るに至らなかった。まだ途中かもしれないが、当初コミットとは温度差ある状態だ。

そんななかでYくんから別の相談が来た。今度は管掌部門のバックオフィス部門のマネージャーを自分がやるのだという。

代打オレで打席に入ってまだ結果も出ていないのに、さらに代打オレをしようなんてとんでもない。私は怪訝にYくんの真意を尋ねた。

様々なトラブルが発生するなか、バックオフィスの対応が後手に回っている。フロントからのオーダーが散発的で整理されておらず、優先順位がついてなく、後手な上に対応も遅い。バックオフィスを任せてるリーダーがワークしてないから自分が見るしかない。

Yくんの主張はおよそこんな具合だった。

普通に考えると、フロント側のプロセスに手を入れるべくそっちのリーダーを指導するべきだし、バックオフィスのリーダーが機能するよう指導するべきだと思う。しかし代打オレというのはプレイヤー好きすぎかとツッコミたくなる。成果が出ないと腕まくりしてプレイヤーやりたがるマネジャーは少なくない。

だが真相はさらに残念なものだった。

本来は組織のトップとして直接介入すれば良いだけなんだけど、彼は肩書きをもって入る口実にしたかったのだ。言い換えると、肩書きがないと現場にブロックされてしまい介入できなかったということだ。トップなのに下の肩書きが必要というのは不思議である。

かつては現場に入り込んで細部を把握してリードすることに長けていたのに、どうしたことだろうか。過去は現場メンバーから尊敬を集めたものだが、いま彼はミドルマネジメントから総スカンだった。現場メンバーにとってありがたいことが、ミドルマネジメントからすると迷惑だったのだ。要するに任されないことへの不満が渦巻いていた。

その事を指摘すると、Yくんは「任せていたら報告もなく好き勝手やられて、ケツだけ拭くことになったんで任せきれない」と言い訳した。それは任せていたのではなく放牧していただけだ。まだYくんは自分のマネジメントの不具合に気付けていないようだった。

Yくんはバックオフィスのリーダーに自分がなることに拘ったが、私は断固反対で貫いた。Yくんはうなだれながら私にこう言った。「組織の形やべき論については理解してるうえで、なかなか現場の実態としては難しい部分もあるので考慮して支援して欲しい」

信頼関係が築けていない。肩書きという看板でそれは代理できない。Yくんが向き合うべき本当の課題に向けて、しぶとく付き合っていこうと思った。最近の梅雨は特にじっとりする。


大丈夫ですか?の落とし穴

後輩のTくんと話していて、身近にあふれる危険な問いに気付いた。

Tくんは社内でコンディションを崩しているメンバーの早期発見のために、いろんなマネージャーに接触してメンバーのことを聞いているそう。それでもマネージャーの見えないところで調子を崩すメンバーは残念ながら出てしまうもので、そういうときはTくんはマネージャーをフォローする役割に回る。

「Aさん、調子悪そうですけど大丈夫ですか?」

Tくんは「こう問いかけると『大丈夫』と返ってきちゃうんですよね」と苦笑いしながら話してくれた。Tくんは違うアプローチを模索し続けているのだという。

職場において「大丈夫か?」という問いに「大丈夫じゃないです」と答えるのは勇気がいる。白旗を上げるようなもので、プライドを損ないかねないから。信頼関係あって甘えられる関係性のなかなら言えるだろうが、任されたものについて「大丈夫じゃない」とは言いづらいものだ。

これの良くないところは、本当は大丈夫じゃないのに大丈夫だと言ってしまうことで、質問者は安心してしまうし、回答者はその言葉に呪縛されてしまうことだ。大丈夫と言ってしまった後には相談しづらくなってしまう。こうして問題が隠蔽されて大きくなっていく。

割と仕事してるなかで「大丈夫?」という声かけを見かけるけれども、危ない質問だということを認識した。自分も無意識に使ってる気がする。よろしくないな、気をつけよう。やっぱり問いかけはオープンクエッションであるべきだな。

March 29, 2022


dogandchopsticks at 09:04


いかがわしくなりたい

最近の読書はもっぱら Amazon の Audible なのです。通勤時間に聴いたり、ランニングしながら聴いたり、ラーメン食べながら聴いたりしている。まだ本のバリエーションが十分でないので、どうしても読みたい経営関連の実用書は Kindle で読んでいるけれども、8割は Audible になってる。

自分の脳の問題かもしれないんだけど、本を読んでも大して内容を覚えていない。300ページを読んだのに、主張をおぼろげに覚えていたり、ドキッとするフレーズを覚えていたり、おそらくは1%にも満たないくらいの記憶じゃないだろうか。一字一句を拾って真剣に読んでもどうせ1%しか覚えていないのなら真剣に読むのがバカらしい。斜め読みで十分である。

そうやってここ数年は活字すら斜めに読んでいるので、Audible で本を聴き流すのが非常にちょうどいい。これが何割か覚えてテスト対策だというと困るんだけど、1%のエッセンスを抽出するなら音声で十分なのだ。

さて、そんな Audible お兄さんとして最近聴いたのが「起業の天才!-江副浩正-8兆円企業リクルートをつくった男」だ。

江副浩正が学生ベンチャーで現リクルート社を創業して駆け上がっていく姿を、関係者への丁寧な取材を通して描いたノンフィクションドラマ。論理的かつ合理的判断によって既成概念を崩してビジネスを確立していく手腕は素晴らしく先見の明があった。それでも後半になって政財界の大物と接するなかでおかしくなっていく。経営者は成功するとどうして政治に熱を上げようとするのか。それは大いなる罠なんだと思った。政治家に近づいていくのか、政治家から近づいていくのか。安比高原の開発ストーリーを聴くに、どっちもあるんだろう。やはり思い上がらず謙虚に、顧客を向いて経営する強い心を持つことが大事だな。

さて、本書の紹介のところにもあるが、リクルート社がバブル経済崩壊でピンチになりダイエー傘下に入ったときのこと、不安がるリクルート社員に向かってダイエーの中内功が「おまえら、もっといかがわしくなれ!」と鼓舞したという。

ちょうど2022年の年頭の日経ビジネスでこんな記事があった。孫正義ソフトバンクグループ会長兼社長「いかがわしく」あり続ける

誤解を恐れずに言えば、我々は若者や起業家に「いかがわしくあれ」と言っているぐらいなんです。世の中が「立派な会社だ、安心な会社だ」と思うころには、成長しない成熟した会社になってしまう。ですからまだまだ僕も、いかがわしくありたいと思っているんですよね。


成長に必要なものは何かと問われたとき、「挑戦」や「変化」というキーワードが浮かぶのだけど、そうか「いかがしい」という視点もあるのだとハッとした。奇しくも中内功と孫正義が、若者に向かって「いかがわしくあれ」と言っているのは、本質を突いたものがあるのだろう。

かくいう自分は、以前はギリギリアウトなところを狙って企画して会社で問題視されたりしたこともあったけど、最近は大人しくなったものだ。これはいけない。なんとも言えないような怪気炎を上げる、まだまだそんないかがわしい人間でなくちゃいかんと思った。まぁ、ギリギリアウトはギリギリセーフくらいにはしようと思います。もう大人なんで。

March 21, 2022


dogandchopsticks at 09:11


2021年の仕事を振り返る

気がつけば夏に更新してから何も書かずに年末を迎えてしまった。以前は毎日のようにブログを書いていたけれども、ここ数年は更新頻度も落ち、ついには季節を飛び越えて更新をしないようになっている。潮時なんだろう。自分にとっての内省ツールとして数々の気付きを得てきたけれども、役目を終えたんだと思う。

今年は「盤石化」を抱負にして取り組んできたが、少なくとも仕事はそうなったと思う。昔からキャッチアップだけは得意だったが、昨年バタバタして苦労した役割にも慣れ、卒なくこなせるようになったと思う。未知との遭遇も多かったが、余裕をなくして心を乱すことも少なくマネジメントできたのではないだろうか。

最近すっかり落ち着きを見せているけれども、今年もコロナが猛威を奮った。そのなかで自分もワクチンの職域接種を実施することで時流に乗った。マニュアルを作りながらの運用というアジャイルオペレーションだったが、事故なくやれたのは幸いだったと思う。昨年は従業員に感染者が出ただけで混乱していたのだけど、やはり冷静さが出てきたのだと思う。

振り返ってみると大変な仕事ばかりだった気がするし、怒涛の仕事に飲み込まれて退職するメンバーを生んでしまったのは反省だし、決して良いことばかりじゃなかったけど、いま年末になって考えると割と良くやれていた気がする。

惜しむらくは、業績直結の成果を出したと胸を張れないところ。攻めが足らなかった。いま思えばもっと事業に踏み込んだことをやれていれば違う結果もあったかもしれないと思うが、あの多忙のなかにあって二の足を踏んだと思う。

12月になって自分の中で転機があった。バカになった。空気を読まず後先を考えずに踏み込むことに躊躇が少なくなった。勢いが解決する問題もある。怒られるまでは良いだろうと腹をくくってみたら、なんだか熱くなれそうな気がしてきた。いい大人になってからバカになるのも悪くない。

昨年は「外に出る」という抱負だったが、今年の方が外部露出は格段に多かった。イベントの登壇も数々あったけど、一番は某番組に出て立派な経営者に並んで偉そうな弁舌を奮ったことだろうな。完全なる黒歴史。生きるというのは恥をかくことだと改めて知った。しかしこれもバカになればこそで、来年もバカっぽく出しゃばってやろうかと思う。

しかし調子には乗らない。謙虚さを失うのはバカではなくアホである。今年は周囲でアホになって足下をぐらつかせる人たちを何人も見た。他山の石。メタボリックの良いおじさんとして、腹は出ていても心は謙虚でいたい。

みなさま良いお年をお迎えください。また来年!

December 31, 2021


dogandchopsticks at 10:19


テレワークが長期化するとどうなるのか

新型コロナウイルスの日本での蔓延から一年半以上になる。これは企業がテレワークにチャレンジしてきた一年半でもあったと思う。

我が社も昨年4月の最初の緊急事態宣言から、社会の要請と社員の安全のために、関東圏を中心にテレワークを徹底した。そこから波はあったが平均して出社率は1割程度だった。

いまだテレワークの賛否を問うアンケートがあって、テレワークできない境遇の方を中心に反対する声があるようだが、今後テレワークが働き方の手段として当たり前になるのは確実だろう。メインになるかは分からないが、コロナ前に戻ることは考えにくい。

しかしテレワークも一年半続くと弊害もある。

これまで出社して仕事していたのは、ネットワークやセキュリティ等の環境起因でテレワークが難しいこともあったろうが、出社か良かったところもあったからのはず。それが失われているかもしれないのだ。

先にテレワークのメリットを挙げておきたい。通勤時間がなくなる、会議室移動がなくなる等物理移動にかかっていた分の生産性が上がる。営業の効率は格段に上がった。ツールの恩恵でもあるがウェビナーのように大人数での会も開催が容易だ。自宅であることでワークライフバランスも取りやすく、働きやすさが高まった。

では失われたものは何か。心の近さだ。

脳トレの川島先生によれば、テレビ会議では前頭前野が働かないのだという。すると、相手への配慮が欠けたり、共感したりできなきなくなる。心の距離が縮まらない。仲間意識や帰属意識が薄れ、誰かのために仕事するより、自分のために仕事する気持ちになっていくところがあるんじゃないか。そうすると後輩を育てようという想いにも至らないだろう。

ちなみにゆとり世代の特徴として、プライベートを重視し関係の近い人との繋がりを重視する傾向があるという。テレワークと相性がいいのだが、言い換えれば特徴が加速するので世代差が開いてしまいかねない。

フリーランスの集まりのように、各人がやることをやるだけで良いのであれば良いかもしれないが、組織としてチームとして成果を目指すなら、心の距離が縮まらないのは問題だ。特に若手社員は個人主義的な雰囲気に飲まれて、機会を失ってしまうかもしれない。

米国のテックジャイアントがそうしているように、時に出社することをルールとするのが良いと思う。会社視点でもあるが、社員自身にとっても長期にメリットのあることだという信念をもって。



August 22, 2021


dogandchopsticks at 10:38


失敗を癒すクリーニング屋

「あそこのクリーニング屋までは行けますか?」

Aさんは悔いて落ち込む私を憐れみながらも優しく諭すように言った。私はこくりとうなづき、Aさんの後をついて大通りの向こうに小さく見えるクリーニング屋の看板を目指した。

この少し前のことだ。

私とAさんは体育館のようなホールに居た。朝一番の予定で、とある事業部のメンバー数百人を集めた会を催していたのだ。会の主催者は私である。しばらく前、その事業の撤退についてトップが現場に話せずにいるのを見て、もしもここまでに話せないならこの場で話をさせようと、プレッシャーを掛ける意味で予定を押さえていたのだ。

私はあろうことかスッカリこの事を忘れていた。朝九時の予定に事業部のメンバーがすでに勢揃いしていて、そこに焦って駆けつける始末だった。15分程の遅刻だったと思う。なかなか始まらない会に、待っていたメンバー達は明らかにイライラしていた。そのなかには、くだんの事業部トップもいた。

そう、その会のことを忘れていた私は、そのトップにプレッシャーを掛けることも忘れていて、この会の主旨を伝えることも忘れていた。

何が始まるのだろうかと待ち侘びてイラつきさえ見せる数百人を前に、私は戸惑った。ホールには不穏な空気が充満している。とんでもない状況である。

ええい、ままよ!

冷静ではいられなかった私は、勢い「今日は大事な話をします」と口火を切った。会場は静まり返った。そのまま私は唐突に事業撤退の考えについて夢中に話した。寝耳に水の事業部トップの驚いた顔が見えたが、もう自分で自分を止められなかった。

場は混乱した。私は何が起きてるのか分からなかったが、マズイことになっているのは間違いなかった。どうやら私のフライングは、事業部トップを差し置いたことだけでなく、経営判断にも先んじてしまっていた。どの権限でそんな話をしているのか。怒りが渦巻くなかで会は閉会した。

すぐに社長室長から「やらかしてくれたな」と怒気の強い言葉が届いた。ようやく冷静になって、私はうなだれた。誰も私に声をかけないし、終わった人であるように扱われた。私は解散する人の流れの中にその事業部にいて旧知のAさんを見つけて、すがるように泣きついた。Aさんは不憫に思って応じてくれたが、クリーニング屋に行くことを急いでおり、私は付いていくしかなかった。

クリーニング屋に着いて、私はホールに置きっぱなしの私物があるのを思い出した。クリーニング屋で用事を済ませたAさんに付き添われてホールに戻った。道中、Aさんは事業部メンバーが何を言ってるか、いかに自分の振舞いが問題だったか話してくれた。泣きながら言い訳する私を蔑んでいたと思う。アイツのためを思ってやったんだとか、私の言い訳は無茶苦茶だったからだ。

ホールには大きなゴムボールがあった。バランスボールのようだ。空気穴のようなところから、紐が一本出ている。その紐を引いたとき、夜が明けた。

酷い寝汗をかいていた。

場の空気に飲まれて見切り発車する恐ろしさ、終わった人になる恐ろしさに目が覚めてからも動悸が止まらなかった。そして実はAさんを癒しに思っていた自分に気付き、彼との仕事を大事にしようと誓ったのだった。

August 21, 2021


dogandchopsticks at 10:35


頼りないやつほど頼りにしないといけない

マネジメントをしていて思わず唸ってしまったのは久しぶりのことだった。

私とHさんの付き合いは長く、彼が若手の一兵卒だった頃から知っている仲だ。キレ味の鋭いタイプではなかったが、真面目で堅実に仕事を進めるので信頼は厚かった。ここ2年ほどは上下の関係になったが、これまでの信頼をベースに、私はHさんに大きな役割を担ってもらっていた。

Hさんはよく私に相談に来た。時に企画の相談であり、時に仕事の進め方の相談であり、時に問題解決の相談だった。その時々で、私は彼に大小のフィードバックをし、内容が厳しいものだったときには、必ずそのあとで鼓舞するように励ました。

Hさんは私からのフィードバックを噛み締め、確かにその方がいいと考えを改めていた。決して私に忖度をしているのでなく、彼としても本質的に考えて納得してのことだった。私も考えを押し付けるつもりはなかったので、問いかけるなかで彼が選んだものだった。

そうしたなかでHさんは悩んでいた。横の部長に吐露した。

私からのフィードバックは正しく、自分が考えていたものよりも良いと感じている。どんな相談でも自分よりも正しい意見が出てくるので、自分の上位互換のように感じている。そこに無力感がある。変な話、自分がいなくても大丈夫なんじゃないかと感じてしまう。

そんな話だったという。

私は思わず唸ってしまった。Hさんにヒントを与えて彼の成長を促したい一心であったけれども、彼ほどの人物をして無力感を覚えてしまうとは、一体どうしたことだろうか。上位互換だと思うなら、そこから学び成長して追い越してほしいと思ったけれども、あまりのギャップに絶望させてしまったのかもしれない。私は悔やんだ。

どうするのが良かったのだろう。どうしていくのが良いのだろう。

彼の相談に対して盲目的にOKと言えばいいのか、問題が起きてからフォローしてあげればいいのか、相談せずにやって良いよと委譲すればいいのか。考えてみたけれども、いずれも違うと思った。決して私は彼の上位互換ではないのだ。彼にしかできないことにスポットを当てて自己肯定感を上げてあげるようにしてあげないといけなかった。彼だからこその真面目で堅実な仕事は、私なんか足下に及ばず、Hさんに敵うような人を知らない。そのストロングポイントを大いに活かしてあげるべきだったし、その点をもっともっと頼らないといけなかった。

Hさんに限らず、他のメンバーのことをちゃんと頼れているだろうか。そう振り返りながら開けた今日最後のビールは、ちょっとだけ苦い味がする。


雨に濡れてアディダスに行った話

気候変動の影響か、東京でも夏になると熱帯地方のスコールさながらのゲリラ豪雨が降るようになった。今日はそんな雷雨に見舞われた。

渋谷のスクランブル交差点を過ぎたところで、急に豪雨が降ってきた。ポツリと雨粒を感じてから5秒も立たずにおびただしい雨が降ってきたのだ。思わず目の前にあったアディダスの店舗の軒を借りた。

コロナ禍とはいえ、さすがの休日の渋谷である。人通りが少なくないなか、私と同じくアディダスに逃げ込んだ人は多く、アディダスの店先は大混雑となった。

はっきり言って営業妨害である。

店先を占拠する人たちは雨足を見てばかりで、アディダスの商品などひとつも見ていない。そこがアディダスであることすら気付いてない人もいたかもしれない。そんな人たちが店先を占拠してるのだから、もし本当のお客さんが来ても入店はままならない。

さて、そのときアディダスの店員はどうしたか。

入口付近を担当する店員は、それに何を言うでもなく、店先を占拠する軍団と共に雨足を見守っているのだった。おいおい、親切だなぁ。アディダス最高かよ。

しかし雨足が弱まるまで20分その状態が続いたので、次第に何も打ち手のないアディダスに物足りなさを感じていった。軒を借りておきながら何と不躾なヤツだろうか。すみません。

ひとつめ。急いでいる人のために、アディダスの傘を売ってみたらどうだろうか?商機なのに動かないなんてもったいない!

ふたつめ。雨がひどいですね、落ち着くまで折角なので店内ご覧ください、と誘導したらどうだろうか?商機なのに動かないなんてもったいない!

みっつめ。そんなときのために販促用のハンドタオル用意しといて配ったらどうか?アディダスの規模で用意するなら原価は@50くらいで作れるんじゃないか。めっちゃSNSでバズってブランディングに効くと思う。市民のハートを鷲掴み。商機なのに動かないなんてもったいない!

しかし、きっと一時の商機にバタバタしないのが、アディダスが至高のブランドである所以なのだろう。いいんだ、今日があったから次に買うランニングシューズはアディダスにすると決めたから。アディダスは最高だぜ。


マネージャーなら汲んでもらうのを待ってはいけない

晴天の霹靂だった。

ある投資案件を任されていた事業責任者が、その案件からハズされることになった。そのことを役員に伝えられた当人は驚きを隠さず、自分がハズれることは受け入れるしかないと思うが、何故なのか腹落ちはできていないと言った。

ある社内プロジェクトを進めていた責任者が、その相談に行った役員から怒号を浴びた。そのプロジェクトよりも先にやるべきことがあるだろう、そのプロジェクトに価値を感じないと。それまで幾度かの会議でも話してやりとりをしていたので、突然のことにその責任者は狐につままれたようだった。

話を聞いていくと、2人とも役員に対して拙いコミュニケーションを取っていた。指摘に対して言い返す。もちろんそれはそれで論理的に破綻したものでなかったから、言ってることも真っ当だと思った。しかし指摘した役員の心情配慮は感じなかった。傾聴姿勢が足りないのだ。

しかしそれは些末な話である。本質はもっと深いところにある。

経営陣が考えていることを適切に伝えられていないのだ。どういうことを考えていて、どうして欲しいのか。それが彼ら責任者クラスにも伝わっていない。接点はあって話す機会があったにもかかわらずだ。

その一方で、責任者の動きがよくないのだと裏で不満を口にしていた。意図が伝わっていないのだから意図どおりに動いてないのは当然だ。何も言わずとも阿吽の呼吸でやれる人ばかりではないし、忖度して動ける人ばかりではない。

普段のコミュニケーションを疎かにしておきながら、堪忍袋の尾が切れたときに突然、意図通りでないことを指摘する。それでは驚かれるのも無理ではない。

その役員のコーチングをせねばいかんなぁと思った瞬間、ふと自分はどうだろうかと振り返って背筋が伸びた。自分の意図をどれだけ包み隠さずに部下に言えているだろうか。どこかで意を汲んでほしい、言わずともやって欲しい、とサボって伝えてないことがあるのではないだろうか。

ハラスメントの時代だから配慮は必要だけど、遠慮は必要ない。ちゃんと伝えないと。晴天が続くように。


良い問いを引き出す意識

とある案件の契約締結で交渉をしていたときのこと。三社間契約のために利害関係が複雑で、調整が難航していた。問題は関係者の間でふわふわと漂っており、漂着点は定まる気配がなかった。

こういうときに火柱の立つ中心に飛び込んでしまうのが自分の悪い癖である。夢中になって関係者の意向を汲みながら、解釈の仕方を提示したり、譲歩ポイントを明確化したりしていた。時にそれは深夜に及び、夜中に読む契約書文言は呪いの呪文のようにも感じられた。

10日程だろうか、奔走した結果ようやく方向性が見えてきた。しかしほっと一息付けそうになったときにとんでもない問題が出てくるのが世の常である。三社のうちの一社に増資話が出てきて、ステークホルダーが増えた。取れることになっていたリスクの話はリセットされてしまった。

私は夢中だった。改めて振り出しに戻ったリスクを関係者に飲んでもらえるように、調整に駆け回った。元の案をどうしたら飲んで貰えるか、その決裁のできる人は誰かを聞いて相談に当たった。しかし一度リセットのかかったものに徒手空拳で向かって解決できるほどビジネスは甘くない。詰んだ。

そりゃそうだよな、と冷静になったとき、三社間契約しなければ良いんじゃないか、とゼロベースでのアイデアが浮かんできた。試しに各社の担当者レイヤーにサウンディングしてみると、それなら多少の調整をすれば飲めるんじゃないかというので意見が揃った。すぐにその方向で再調整にかかってから着地するまでは幾ばくも時間はかからなかった。

常にゼロベースで考えないといけないということを改めて感じたわけだけど、今回の肝はそこじゃない。なぜゼロベースで考えられなかったか。これまでの動きをサンクコストと感じていたわけではなく、三社間契約が前提条件のスキームだったからだ。前提条件を壊しにいくという思考がなかったのが本質的な課題だ。

前提条件に囚われているとき、それを自ら打破することは難しい。そのバイアスを壊すためには、他者からの問いが必要だった。どうしたら契約を飲めるか相談するのではなく、悩ましい状況を相談するべきだったのかもしれない。そうすればもっと早くに気づいて解決できた。

良い問いを引き出すために、良い相談をしなければならない、というのは深い発見だった。まだまだ青いなぁ。

April 29, 2021


dogandchopsticks at 10:42


わからないことが大事なこともある

人間は自分が感じられることしか考えられないのだろう。

3月は別れの季節だ。今年も異動や退職で離れていく同僚は少なくなかった。今回はそのなかに10年近く働いてきた人がいたので、久しぶりにじっくり話を聞いてみようと時間を取らせてもらった。

とにかく優秀だった。プレイングマネージャーとして、どんな時でもいざとなれば自分が最前線でやろうとする姿勢と迫力は凄まじかったし、それで大きな成果を出すこともしばしば。その仕事哲学を訊いてみようと思ったのだ。

「人を育てることの意味はわからなかった」

自分で自分を追い込んで修羅をくぐり抜けてきた彼は、それで自己成長を遂げてきた。だから人は自分で成長して育つものであって育てるものじゃないと感じていたのだ。でも人材育成の大切さは認識していて、彼なりになんとかしようと考えていたのだ。意味がわからないから育てられず、上のセリフになったわけだ。

興味深いので続けて話を聞いていくと、彼の育成方法はワンパターンだった。ストレッチアサイン。いや、無茶振りと言った方が正確なニュアンスだろう。そうして彼の期待する若手には難しい題目を投げかけてきた。人によってはそれをやり抜いて成長したが、できなかった人はそれまでだった。それ以上に何をしたら人が育つのかアイデアがなかったのだ。

本人は無茶振りに対して応じられなかったことが無かった。つまり、できなかったときにどうすればいいのか体験から導くことができなかったのだ。優秀さゆえの課題なんだろうなと感じた。

翻って自分を省みると、自分ができていることについてちゃんと他のメンバーができるように工夫できてるだろうか。当然のようにできていることは、それがさも誰しもできる前提で考えてしまっているのかもしれない。

自分にとってできないことがわからないものがあったとき、そこには育成力のヒントが隠されているのだろう。

April 09, 2021


dogandchopsticks at 22:37


起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半

ひょんなことから古びたマンションで暮らしている。

春が近づいてきて幾分マシになってきたけれども、すきま風に震えながら生きている。市街地が近いので騒音もなかなかのもので、朝は目覚まし時計を鳴らさなくても近くを走る大型車の音で目が覚める。お世辞にも恵まれていると言えない住環境なので、時に不満がちになるのだけれども、このご時世に屋根があるところで布団かぶって寝られるだけありがたいと思わないといけないな、と自戒する。

よくよく考えてみると、社会人になってしばらく住んでいた激安マンションに似ている。そういえば、最初はこういう部屋から出発したんだった。若い頃に比べればお給料も上がってお金に余裕があるから、贅沢をしているつもりはなかったけれども、自然と生活水準は上がってしまっていたのだろう。

「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」である。どんな人間でも起きているときは半畳のスペースがあれば足り、寝ているときでも一畳あれば足りる、たとえ天下人になっても一度に二合半も食べればお腹いっぱいで足りる。つまり、必要以上のものを求めても使いきれないのだから欲するべきでない、ということだ。

原点回帰をして、必要以上の「何畳」をも求めてしまっていた自分に気づけたことは、とても良かった。無自覚に「普通」の感覚から乖離していくのは本当に怖いこと。普通に暮らすというのはこんなものであって、これ以上を得たときは贅沢なんだと思わなければいけない。

清貧が素晴らしいと言いたいのではない。贅沢をしてる自覚なく贅沢すべきでないということだ。いつかまた少し贅沢な暮らしができるよう、謙虚に頑張ろうと思います。

March 10, 2021


dogandchopsticks at 00:42


執行役員は何人必要なのか

ここ数年、大企業で執行役員制度の見直しが進められている。

欧米流で経営の監督・執行を分離するため、1997年にソニーが導入した執行役員制度。それから2000年代に多くの企業で導入され普及してきたが、20年経って制度疲労が出てきたのだろう、2016年に執行役員制度を廃止したLIXILをはじめ、2019年から2020年にかけては富士通・パナソニック、そして世界のトヨタが執行役員の大幅削減という舵を切った。

方針転換している企業の多くに共通するのは、経営体制の簡素化による意思決定スピードの向上を目的としていることだ。執行役員が増えすぎて、急速に変化するマーケット対応に適した意思決定スピードを出せなくなっていたというのだ。トヨタは、執行役員を社長とともに全社戦略を担う存在として再定義し、変化する世界に対して、領域横断で知恵を寄せ合える経営体制に作り直している。

また、責任明確化というのも多くの企業が説明しているところだ。もともと執行役員制度は監督と執行を分離する機能を担うけれども、人数が多すぎることで執行の責任範囲があいまいになっていると監督がままならない。執行役員は大企業において最高幹部、すなわち出世レースの到達点という意味合いを持ってしまっており、社員に対するある種のニンジンとして、責任範囲を細分化して執行役員を増やしていった会社は少なくない。そこに監督側の深慮はなかったのではないか。

最近では数十人程度のベンチャー企業でも執行役員がいるケースがある。「執行役員といっても何も変わらないんですけどね」と自嘲しながら話しているのを聞くと、箔をつけるための肩書きとして扱われてしまっており、本来の意味合いは失われてしまっているのだろうと思う。執行役員制度は普及しすぎたがゆえ、形骸化しているのだ。執行役員制度はダメではないが、それが本来の意味を果たさなくなっているなら見直すタイミングかもしれない。

さて、執行役員は何人必要なのだろうか。

トヨタやパナソニックなどは執行役員の大胆な人数削減を実行している。三分の一とか四分の一とかだ。仕上がりとしては、9人とか10人だ。各企業で組織規模も事業範囲も異なるが、結果としてそういう数字になっているのには意味があると思う。すなわち、本当の経営チームとして機能する人数にしているのだ。ダンバー数では10〜15人くらいの人数を「シンパシーグループ」と呼び、親密な人間関係を築ける数だと指摘している。社長を中心に一枚岩で経営に臨める体制はこのくらいの数が適正ということかもしれない。

一枚岩になると監督と執行の分離という執行役員制度の当初目的が果たされないのではないかと思われる。ただ、日本は古くから監査役会設置会社という建てつけで経営している会社が多く、フォーマットだけ欧米のものを当てはめることは限界かもしれない。いや、上述のとおり社長がよく執行を見えるようになることで監督機能がパフォーマンスするということもあるか。

それにしても削減後に残った執行役員は大変である。恐らくそれぞれはこれまで以上に広い領域の責任を持つことになっているだろう。そして降格させられた執行役員を配下に従えていると思うが、そこからの恨み節も聞こえたりしてマネジメントは簡単じゃないと思う。経営目線では執行役員削減は理にかなった戦術だと思うが、執行役員にとってはたまらないものだ。それゆえ、それを断行することが許される危機感が必要だと思う。著しい業績悪化は絶好のチャンスだが、そこに至る前に、トヨタのように社長が危機感を醸成できるのは理想的じゃないだろうか。

より変化の激しい時代になってきている。経営体制も柔軟に変えられる会社かどうかは、今後の生き残りの分水嶺になるかもしれない。

March 01, 2021


dogandchopsticks at 09:18


夜明け前

一皮剥けそうで剥けない。

正月早々に新年の抱負を述べてから、怒涛の仕事に見舞われてバタバタと過ごすうちにおよそ2ヶ月経ってしまった。持ちうる限りの要領の良さを発揮して長時間労働は回避できているが、心理的な余裕は一切なくて、気づけば心身ともカチンコチンに固まってしまっている。

余裕がないと「地」が出るのが人間なわけで。

それなりの役割を担う人間として器量のあるマネジメントをしたいものだが、余裕がなくてカリカリしてそれどころじゃなくなっていた。結果として、誰かに対して攻撃的になってしまったりだとか、誰かを揶揄するような態度が見え隠れしてしまったりだとか、カッコ悪い感じになってしまっていた。

こうやって余裕のないときほど人間が試されるわけで、良い訓練をさせてもらっているのかもしれない。今回これだけのバタバタを何とかやり過ごせているので、次同じ程度の忙しさなら今回よりは気持ちに余裕もできるだろう。そのときに心に波風立てずに、私心を捨てて物事に向き合えるようにしなければ。

実は忙しくてカリカリしているときに、自分でもよろしくない発想になっている自覚があった。自己憐憫に浸っているというか、私心が出てきて他責にしてしまうようなところがあって、時折ブレーキを踏んでいた。暴走にならなかったのはそういうことだ。しかし分かっているだけでは変われない。一皮剥けそうだけど、本当に剥けるにはまだまだ時間と経験が足りないのだろう。

とりとめのない自省なんだけど、生きてますということで。

February 25, 2021


dogandchopsticks at 00:12


2021年の抱負

あけましておめでとうございます。

依然コロナは落ち着きを見せず、これが政治的にも経済的にも大きな因子になっていることから、今年がどういう一年になるか予想が難しい。ひとつ言えることは、人類がCOVID-19を克服したとしても、それ以前の社会には戻らないということ。テレワークはますます浸透するだろうし、副業やワーケーションも普及し、より個人の自由度は上がっていくと思う。物理的・物質的なものは重く感じられ、より軽快なものが好まれるようになる。どんどん世の中が変わっていくなかで、今までのあり方に拘泥しないことが何よりも大事だなと思っております。

今年の抱負は、盤石化。

年末の振り返りでも書いたけれども、今年は自分なりの経営スタンスを確立したい。年末に振り返ったとき、「経営に対してバリューを出せた」と胸を張っていられるようになれていたらいいなぁ。もちろんその先にはマーケットがあり、その先で世の中にバリューを出せることが大前提だ。

今年からは自分の生き方も変わる。カッコつけすぎず自分らしく思いっきり生きることで未来を紡いでいけたらいい。昔と違って今はいろんな仲間がいて強い味方がいる。

引き続き変化に富む一年で、また頭を悩ませることも多くあるだろうし、覚悟を決めて臨まないといけないこともあるだろう。それらにしっかり逃げずに向き合っていきたい。そして、2020年に積み上げたものを盤石にしたい。

このブログも区切りをつけようと思いながら、バタバタしているうちにそのまま来てしまった。今年こそは別のところで仕切り直して文章を綴っていきたい。いや、今年もバタバタするから未遂に終わる可能性大なんだけど。

リアルな方もバーチャルな方も、今年もどうぞ宜しくお願い致します。

January 01, 2021


dogandchopsticks at 08:00


2020年の仕事を振り返る

年初に「外に出る」と抱負を語ったけれども、それから想像もしていなかったようなことが次々と起こり、その想いは簡単に反故になってしまった。

昨年の今頃はマンネリ化する仕事に対して能力と時間を持てあまし、転職なり副業なり本業以外でのチャレンジをしたいと思っていた。たとえば医療分野への関心から、1月は医療系ベンチャーに出入りして話したりもしたが、そこから大きく流れが変わっていった。

コロナ流行で社会全体が変化したことの影響はあったけれども、尊敬する人を亡くしたし、新たな重要人物との出会いがあったし、自分の会社での役割が変わったし、それらの方がインパクトがあった。「たられば」は無意味だけど、もし尊敬する人が存命で新しい出会いも会社での役割も変わらなければ、その尊敬する人の会社に転職した可能性もあったかもしれない。しかしそうはならなかった。

会社での役割変更は、非常に刺激的なものだった。

ここ10年を振り返ったとき、海外事業に携わったときに並ぶくらい変化が大きく刺激があった。こう書くとポジティブに聞こそうだが、違う。未知の難題が続いて強いストレスに苛まれたのだ。生きてるって感じ。決してうまくやれている自信はないが、久しぶりに自分で「がんばってるな」と思えるくらいには気張って仕事をしたと思う。だから下半期には「鷹揚にやる」と、肩の力を抜いて仕事をすることを目標を変えることにした。

これまでも戦略人事をなりわいに経営目線で仕事をしてきたから、その応用でやれる仕事も少なくなかった。けれども今まで触ってこなかった仕事、すなわち会社法改正に向けた役員報酬制度の見直しであったり、オフィスを含めたコロナに適応する新しい働き方のホリスティックな整備であったり、海外子会社の投資スキームの見直しであったり、それらは時に青息吐息になりながら対処した。不慣れなわりにはよくやれたと思うが。

大きな反省点が2つあった。

ひとつはマネジメント。とにかく短時間で問題解決をしなければならないことが多く、任せきれずに自分が直接手を下すことがあまりに多すぎた。リーダーシップがあると尊敬されたところもあったが、まったく鷹揚でなかった思う。

もうひとつは経営視点の不足。足元の問題に手をこまねいていて視野狭窄になっていたこともあるが、自分の所掌以外において経営にインプットすることが十分できなかった。特にスタンスをきれなかった。自分だったらこうするという考えを持ちきれず、経営計画の議論をしてしまうところがあった。

任せるべきところは任せ、自分は大上段のコンセプトを練り上げること、そしてそのコンセプトに沿ってブレずに判断をしていくことに時間を使うべきだったな、と反省している。軸となるコンセプトがなかったのでスタンスが切れなかった。スタンスが切れないから経営に口出しできなかった。モチベーションでも何でもいいけど、これは譲るべきでないと信じ抜ける経営判断の軸づくりは課題。

こうして深みのある振り返りができるのだから、今年は充実していたと言えるだろう。仕事以外においても人生で忘れることのできないことがあり、公私に渡って激しい一年だった。来年は安定化を目指しながら、着実に成果を出せるようにしていきたい。

みなさま、一年おつかれさまでした。

December 31, 2020


dogandchopsticks at 16:49


正しさを求める暴力性

まともな人間に憧れて、そういう人に自分もなりたかったのかもしれない。

社員との面談はいつもカジュアルに始まるものだが、今日は違った。Kさんは早々にそう言うと堰を切ったように自身の内省を話し始めた。

いつも自分はハズレ者に思ってきたし、実際に普通でないところがある。仕事を頑張ってそれなりの地位を得たり、家庭を持って社会的な役割を果たしたりすれば、普通の感覚が得られるんじゃないかと思ってきた。しかし実際に仕事でも家庭でもその役割を大いに果たしてきたが、変わることがない。むしろそれなりの地位まで来たことで「これでもダメなのか」と逆に閉塞感が強まっていった。

そういうことで今後のキャリアをどう考えるのがいいかという相談だ。明確な答えよりも話を聞いてほしいように感じられた。

私は普通ってなんだろうねというところから質問をスタートした。二人で雑談するなかで、どうやらそれは「正しいこと」のようだった。科学的に正しいこと、法律的に正しいこと、社会的に正しいこと。彼はそうした正しさを窮屈に思っていた。でも聡い人なので正しい振舞いができることの重要性はわかっていた。そこで彼は葛藤していたのだ。

コンプライアンス違反はよくないので、法令違反はダメだよね、とフォローを言いながら、続けて、他のこともやっぱり正しくないとダメなんですか、と尋ねた。命に関わらなければ、間違ってることがあっても良いじゃないかと。彼自身は心の底からそう思っていると語気を強めた。

彼は世の中の正しさに必要以上にがんじがらめになっているようだった。肩の力を抜いてやりましょうよ、そんなに仕事できるんだったら、多少間違いがあってもむしろ愛らしいくらいじゃないですか、大丈夫ですよ。私はそう声をかけたのだった。

Kさんが会社や家庭で築いてきた正しさのキャリアをいかに切り崩していくべきなのか。私にはそこまでのフォローはできなかった。少なくとも会社では正しさを貫いてほしいと思ってしまった。きっとこういう周囲の思いを汲んで、彼は苦しんできたんだと思う。彼を苦しめることに加担してしまったかもしれない。面談後、私は天井を見上げた後、静かに目を瞑った。

December 29, 2020


dogandchopsticks at 12:09


グレートコンジャンクション

2020年12月22日は時代の転換点だという。

なんだか中途半端な日付だけれども、占星術では土星と木星が重なり、その重なる場所が風エレメントである水瓶座になるグレートコンジャンクションと呼ばれる現象であるとのこと。これまでは土エレメントだったのが風エレメントに変わるのが革命的なことなんだそうだ。

占いというのはバーナム効果があって言われてみればそんな気がするものだ。だからこじつけのようにも思える。ただ、物質的な特徴をもつ土エレメントから、情報や個人主義的な特徴をもつ風エレメントへの移行は、うまく時代を言い当てている。年功序列の崩壊は今に始まったことではないが、副業や複業という働き方へのシフトはその表れに思えるし、今後この傾向は強まっていくだろう。ティール組織は風っぽいと思う。

伝染病の流行も風の時代を表しているとのことだが、これによって移動制限があることは逆行しているようにも思う。ESG観点でもこれからの時代は二酸化炭素排出制限のために飛行機で飛び回ることが忌避されるかもしれない。物理的な移動は土エレメントということかも。

今日を境に何かが変わるわけじゃないそうだ。すでに変化は始まっていて、ここからどんどん進化していく。ここ数年の変化のトレンドは強まっていくのだ。面白い時代の幕開け。こういう変化を楽しめるかどうかで、人生のパフォーマンスは変わってくるのだろう。

自分にとっても大きな転換点が訪れる流れになっている。風に逆らわず自然に乗っていかないと。

December 22, 2020


dogandchopsticks at 08:51


サウナの宇宙に溶けたおじさんの哀歌

すっかり秋も深まってきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

9月後半より公私ともにバタバタすることがあってブログのことを失念するくらいでしたが、こうしてブログを書いているということは、言い換えると平穏な日常を取り戻しつつあるということです。四十代は不惑のはずが、「後悔のない人生とは何だろうか」とか色々と考えて悶々としながら、次から次にやってくる鬼のような仕事に対峙する日々。鬼殺隊です。忙しいと言いながら映画はバッチリ観た。

「人は何のために生きているか」という問いについて、私は割と若いときに答えを得られたと思う。20代の終わり頃、何をやっても完全に満たされない自分という存在に悩んだのだけれど、そこで結局は自分のために生きたところで満たされないと悟った。だから、「人は何のために生きているか」と言えば「人を慈しむためだ」と答えるに至った。これは自分のなかでストンと腹落ちするし、30代を充実して過ごすことができたのはこういう観念を軸として持てたからだと思う。

まさか続きがあるとは思わなかった。

「ある人を慈しむとある人が傷つく時どうするか」と考えたときに、自分のなかで躊躇があった。慈しむことと傷つけることは真逆である。一人を傷つけて百人を慈しむなら判断もできたかもしれない。私はトロッコ問題には引っかからないのだ。一人を傷つけて一人を慈しむならどうだろうか、二人を傷つけて大切な一人を慈しむならどうだろうか。どうやら自分のなかでこのあたりに迷う均衡点があるようだった。

ならばと考えたのは「誰も傷つけずに慈しむことはできないか」という問いだ。これが難儀だった。世の中には融和できない対立というものがある。慈しむことそのものが誰かを傷つけるという構図もあるのだなと知って、迷いは深まっていった。そして、これは誰かを慈しむことじゃなく自分の我がままになっていないだろうか、と原点に立ち帰ったりもした。

まだ新たな問いに自分なりの結論は出せていない。

最近サウナによく行く。遅れてきたサウナブームと言われると恥ずかしいのだけど、サウナで深く考え事をしたあと冷たい水風呂に入り外気浴によって整えば、すべての悩みは吹き飛んでゆく。強引に脳内物質によって体を整えるのだが、本当は心までは整わない。気を紛らわしているだけだ。だけど、そんなサウナによく行くぐらいには悩んでいる。

取締役がしつこくゴルフに誘ってくる。前向きな返事でかわすという高等技術を繰り出しているが、ゴルフデビューも近かろう。サウナに行ってゴルフに行って野球を観て酒を飲む。まるで絵に描いたようなサラリーマンおじさんじゃないか。若いときになりたくなかった大人だ。これでは誰も慈しめない。悩みの果てに自分の人生からも降りてしまわないように気をつけなければいけない。

皆様くれぐれもコロナにはお気をつけて。

November 23, 2020


dogandchopsticks at 08:56


楽しくラクして仕事するために

パーキンソンの法則というものがある。

イギリスの歴史学者パーキンソン氏が主張したもので、「仕事の量は完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というものだ。

この法則に思い当たる節のある人も多いのではないだろうか。多くの仕事において、納期までにどんどん仕事が増えていくし、どんどん人も増えていく。

この法則を逆手に取るのが仕事上手である。

ある戦略策定プロジェクトがあった。期間は半年で、下半期かけて来期以降の戦略を詰めるというものだ。10月に入ってすぐキックオフが行われ、翌週からは早速議論が始まった。

このプロジェクトを主幹する部署のリーダーだったOくんは、最初の議論から情報量の多い資料を仕上げてきた。まるで完成品のようなレベルでいかにも大変だったのが資料から浮かんでくるようだった。

しかしパーキンソンの法則が発動する。

そこから半年間、最初の資料をスタートラインにOくんは膨大な調査と資料作成に追われた。戦略の大筋は変わらないが、来期まで議論の時間があるので微細な論点をほじくりだし、Oくんはそのオーダーに応えるために奔走した。

戦略が定まったのだから、さっさと実行に向けて動き出せばいいのに、会計年度に引っ張られるのは上場企業のよくないところである。会計期間の奴隷になっていることに無自覚な企業のいかに多いことか。

話が脱線した。

私のアプローチは自分で言うのもなんだけど狡猾だった。最初の議論に大した資料を持ち込まなかった。調査もしていたし検討した内容もあったけど、資料としては簡素にした。余白たっぷりの資料は、Oくんの著した資料にいかにも見劣りした。仕事のできない人みたいで恥ずかしかったが、半分ワザとなので気にしない。

のらりくらりしながら年度末近くなって資料をちゃんと作ることにした。のらりくらりとは言ったがプレッシャーはあるので、そこそこの質と量は意識したが。結果として、Oくんに比べて効率的にやれたし、おかげで時間を別の価値あることに使えた。

仕事の早い人はタイムマネジメントが上手だが、時間をうまく使うには過剰品質の罠に陥らないことだ。求められる以上の品質だったり、本当に必要な品質以上のものを作りこむのはムダである。ムダなことをしないのが仕事上手なんである。

もうすぐまた下半期が始まる。来期の話をしていくビジネスパーソンもいることと思う。ぜひパーキンソンの法則にハマらないように気を付けて楽しく仕事してほしい。

September 22, 2020


dogandchopsticks at 12:40


火消しに興奮してはいけない

ショックで打ちのめされそうだった。

ある事案が起こり炎上していたとき、トップから直々に対応を命ぜられた。私はすぐに対処すべきことを洗い出し、方針をトップに報告して取りかかることにした。方針を聞いてトップから、炎上を起こしたやつはどうするのか、という問いを投げかけられ、その場では対応の仕方について選択肢を絞れなかったので宿題として持ち帰ることにした。

会議室を出るとすぐに関係者に連絡をとって、新たな情報を集めながら、対応の検討と実行を指示した。初動はよく鎮火が進むのを見て、私は宿題をどうするか考えていた。

思えばこの時、火事場にあって興奮していたし、鎮火していく状況を見て万能感を覚えてしまっていたところがあったように思う。こういう気持ちのスキは危険の兆候だ。

炎上を起こした犯人をどうするか。自分のなかでは、いつの間にか「犯人」になっていた。炎上は事件かもしれないが事故かもしれない。ただ興奮するなかで犯人扱いする気持ちになっていた。

その炎上を起こしたであろう人の名前を見たときに、まさかこの人が、と思ったけれども、そういう人がやるから怖いのだ、と思ってしまった。視野狭窄になっている自分には気付いていなかった。

自分のなかで盛り上がっていくなか、他のところから違う話が聞こえてきて冷静になった。なるほど、そっちの方が妥当性のありそうな話だった。もしかして自分は勘違いしたまま、この人を断罪しようとしていたのではないか。そう思った瞬間、ショックでうなだれた。人として最低だと思った。

思い込んでいるところで、それと違う話を聴いて冷静になれたのは良かった。固執して誤った道を突っ走らずに冷静になれたのは、せめてもの救いだ。そして冷静になってから自分の誤りを正して回る正直さがあったのも良かった。それが無ければ、酷いことになっていただろう。

でも本来なら「まさか」と思ったときに冷静になるべきだった。普段なら疑いの目をもって見れるものも、興奮する感情とスピーディに対応したいと思う焦りで、止まることができなかった。気持ちがはやる時こそ注意深くなくてはいけないのだ。

この苦々しいショックをいつまでも忘れないこと。それをもって次の有事の際のブレーキにしたい。

September 16, 2020


dogandchopsticks at 09:10




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