2009年11月20日

自分にとってのlady soul達

久しぶりにFaith Evansの1stを聞いてその良さに改めて唸ってしまった。

濃い。重い。分厚い。











Faith Evansと聞いてMary.J.Bligeが出て来るのと同じように、島倉千代子やちあきなおみを思い出してしまう今日この頃。
















これは名曲です。

お千代さん、こんな綺麗な声でしっかり歌える人だったんです。













言わずもがなの神曲。
彼女は本当に掛け値なしで、音と言葉をリズムに乗せて表現するという意味において文句無しに歌の上手い歌手だと思う。




どの人も気持ちというか情念、どろどろとした感情だとか燻った思いだとかやりきれない程の悲しみだとかを歌にできる稀有な才能を持った歌手として自分の中で同じ存在でいることに、最近気づいた日本酒が美味い秋の夜。

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2009年11月19日

言葉にできない気持ち

言葉にできない気持ちというのは、言葉にしたくてしようとしてみるけれども上手くいかなくて結局出てくるのは感嘆詞やらありふれたフレーズやらで、そんな反応しか返せない自分に嫌気が差すというか情けない気持ちになることがしばしばあって、だからこそ自分の中に一杯一杯言葉やら知識やらなんやらをため込んでため込んでいつやって来るとも知れないいざという時に備えているのだけれども、それでも本当にそういったものを総動員してもなんとも言い難い感情だとか状況みたいなものがある、実際ある。

その結果出てくることが究極にシンプルであってもそれはもう仕様のないことだとは思うけれども、そんなぐるぐる周りというか何回転というか意味のないような回り道もした上の言葉ではなくて、ただ単に、言葉にできないならいっかーなフレーズには責めようのない勝手さというか悪気の無い所に生まれる無責任さみたいな狡賢い手抜き加減が見え隠れしてしまい、おいおいそこは表現者として諦めて欲しくないな、と素人たる自分は思うわけです。

つまりは、素人であって何にも責任の持たない勝手気ままな一人の人間でさえ拙いながらも辿っている道をぱぱーっとワープして何が表現者だ、と生意気ながら思うわけです。

だって、だってですよ、僕達素人は、というか受け手はですね、あなた達が、こんがらがったり複雑だったり特別だったりもやもやしていたりする言いようもない言葉を、選んで選んで選んでそれでも失敗してその先でやっと見つけたかろうじてつながった意味のつながりを糧にして、そんな能力の無い自分の生活の軸にしていたりするわけです、自分の胸の内を言い表す術を持たない人達にはそういう存在が必要なんです、そこを忘れないでもらいたい。



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2009年10月14日

同じ違うだから何

安心する。

安心することに安心する。

安心するとは何に?

自分が人と同じであることに対して。

詳しく言うと、

自分の感じ方が世間一般の大多数の人と似通ったものであること。

自分の価値観が世間一般の大多数の人と極端に相違無いこと。

自分が何を良いと思い、何を良くないと思い、何に重きを置き、何を優先して何を切り捨てるかについての判断と選択を、世間一般の大多数の人と打ち合わせをした様に同様の角度とタイミングで行っていること。

そしてその良く似た結果を良く似た価値観の下で共有すること。




安心したい。

その方が楽だし、理解を得やすいから。

でも、安心できる、またはして良い部分と、決して安心できない、してはいけない部分が存在するような気がする。

それがどの領域に当たるかは本当に人それぞれだと思うし、それぞれであって良いと思うし、自分で決めた領域が不都合を生むのなら個人間のレベルではそれはそれで仕方の無いことだと思うけれど、それは自分で被るべきリスクであって、人にとやかく言われる筋合いのあるものではないとも思う。

覚悟の上で決めたこと、何を言われようとも促されようとも期待されようともどうしようもないというか変えようの無い部分なんだということを、そういう領域を持っている人もいることを頭の中のほんのちょっとの片隅にでも入れておいて時々で良いから思い出してあげられる人が増えればもっと多くの人がもっと生きやすい世界になるのにな、と思った秋の夜。

日本酒が旨い。

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2009年10月07日

もやしもんと夫婦別姓と同性婚、草食男子

テレビも漫画もあまり見ない僕が楽しみにしているコミック「もやしもん」の最新刊は一冊丸ごとビールについてだった。

ビールとは?日本における地ビールとは?そして最終的にはビールとは?に帰ってくる展開で、最終的な“ビールとは?”へ対する答が驚くほどに自分の思考回路とそっくりで困ってしまった。



それはさておき、その中での台詞

「選べることこそが大事」

という言葉にはなんだか悟りを開いた仙人の目線的な嫌らしさを感じなくもなかったが、なるほど激しく同意をしたい。



◎・同姓であろうと別姓であろうと絆は変わらない。

 ・血の繋がった親子なのに姓が違うのは子供が可哀想だ。

世の中には色んな人がいる。その色んな人が色んな考えや価値観の下で生きている。数の大小はあれ皆生きている人に違いない。
どちらもそれなりに説得力のある意見には違いないが、だからと言ってマスメディアたる存在が「夫婦が同姓でいることが教育上、好ましいことは言うまでもない」とまで言い切ることがどれほど無知を晒しているかわかっているのですか、○○新聞さん。



◎否定するんじゃなくて、肯定することから始めることで見えてくるものもあるはず。
平均に馴らした全体の利益を追求することが、今現実に生きている人たちを排除することとに繋がるのならば、それは公共団体のすべきことではないと思う。

少子化?倫理?そんなもんは今の就労・育児環境の改善が先でしょう、倫理なんてもんはあってないようなもの。

すべての人にとって必要なわけではないかもしれない同性婚、又はパートナーシップの権利が、必要とする人に与えられていない現状は生きやすい世界ではないと思う。



◎草食男子がブームになって、その反動として肉食男子が華やかにアッピールされつつある。
ブームというのは盛上り・沈静化がセットになっているからこそブームなのであるから致し方無いことではあるが、この場合はどうにも“ブームの反動としての肉食系(=男らしさ)”礼賛とは感じられず、結局元の価値観が、要するに保守的な無難な価値観が崇められている、というかそれを持ち上げることで一安心する、“色々あった(草食男子ブームだとか)けどやっぱこうあるべきだよな”的な何とも歯痒い魂胆が見え隠れして甚だ不快だ。
更に言うなら、実際はほぼマジョリティであるのにも関わらず、一時のブームを言い訳にしてさもマイノリティであるかのように自分を売り出して、マイノリティであることの困難や苦労を通過せずに、他とは違うんだという格好良さだけを打ち出していることには著しく呆れる他ない。

“こうあるべき”から逃れることは決して簡単なことではなくて、“こうあるべき”に縛られるのと同じくらい、いやそれ以上に力を要することを分かって欲しいとまでは言わないが少しの想像力を持ってみて欲しい、縛られてしまえばその後は縛られ続けるだけで良いが、逃れてしまえばどこにも正解がない、どこにでも安心できる道があるわけではない、息つく場所があるわけではない、自分で作り出しで見つけなければいけないんだ。




僕達はいつどういう立場になるかわからない時代に生きている。
どの立場であっても、出来るだけ快適に安心して損をしない生き方が可能な社会が、つまり様々な選択肢が用意されている社会こそがこれからの理想とする社会なのかなと思う。

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2009年10月06日

はがねのハイレグ:防御力45

少し前の話になりますが。

「アバクロ」がビヨンセ提訴、香水が商標権侵害と主張

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090917-00000447-reu-ent
リンク先で、ニュースに対してコメントが付けられるようになっているのですが、
その内容が
「他に画像が無かったのか」
「ニュースより画像にびっくり」

という、訴訟より彼女のヌーディ網タイツに鋼のハイレグ姿に驚くものが大半です。

確かになんともファビュラスな衣装ですが、恍惚の表情ですが、しかしなんともこれがビヨンセなわけです。
おそらく画像に驚いている人たちは、彼女のことを「世界のディーバ」という一言で理解してしまっているからその“ディーバ”という言葉からくるイメージとのギャップに苦しんでいるのであって、デスチャ時代以前からの早期音楽・芸能エリート的訓練、その努力の結果としての米国における最先端ポップミュージック界への君臨、イコール旬のプロデューサーによるサウンドと自身の類稀なボーカルを駆使した楽曲に過剰なまでにセクシーさを押し出したプロモーションをミックスしてあらゆる面でスキの無いスターに昇りつめようとしていることは知らないのでしょう。

その流れを追っていないと、ドリームガールズ的な“演技もできて歌も歌えるセレブ”的なポジションに彼女を追いやってしまうことになって、もちろん「Listen」のビヨンセもビヨンセですが、実際はもっと濃い。何が濃いって、声も音も血も。そして太い。根性も御足も。彼女の素顔はもっと凄い。何が凄いってスッピンはリンク先の画像よりももっと驚きです。

要するに、足も太けりゃスッピンは残念…でなくて、そんな驚くほどの画像じゃないということです。




♪おっおーおっおーおおーおのの


とか




♪おっおっおーおっおっおー

とか新しい合いの手だか掛声だかを生み出したり、










でイナバウアーに挑戦したりと何かとやらかしてくれる彼女ですが、

beyoncewith-gators














そんな彼女のペットはワニのようです。

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2009年07月15日

I Want You Back,Michael!!!

一人の人間の行動を分析する時に、生い立ちとか境遇とかはたまた家庭環境だとかやたらめったらに持ち出して赤の他人がとやかく言うのを聞くのはあまり趣味ではない。

幾分かは事実だろうが、幾分かは事実ではないはずだし、それを盲目的に当てはめて、“・・・だから・・・だろう”というのはちょっと違うだろうと思う。

なぜなら、ある事柄に対して感じ方なんてのはそれこそ千差万別で、その差は微小ながらも色んな方向に、角度に、深さに、自分の中にあるものに響いて跳ね返ってくるその波みたいなものが数十憶人すべて同じであるはずなんてなくて、それらを大体同じと見てしまうことは井戸端会議だとか一般論を述べるのなら良いかもしれないけれど、いっぱしの分析・物書きを生業とする人たちがそんなことを言い出したら、この世界なんてものは面白みに欠けたまっ平らなものになってしまう。



他の何でもない、自分の感じ方だけが自分を形作っているのだから。

僕はそう思う。




off the wall
























全くマイケル・ジャクソンは80年代を駆け抜けたスーパースターだった、と言い張れるほどの体験を80年代半ば生まれの僕はしていない。

ただ、実体験に勝るものは無いと常々思っている僕でも、そんじょそこらの人には負けないくらい彼の音楽とパフォーマンスを愛していたし、エキサイティングだと感じていたことは胸を張って言える。

僕が100万円(一庶民の出せる大金の平均値だ)出しても良いから観たいな、と何度も考えていたライブは、Nina Simone(亡くなってしまったが)と、(全盛期の)Michael Jacksonだった。



そんなことは置いておいて、マイケルが亡くなってから、たくさんの人が追悼記事を書いた。

人生の一部だったという人、「Thriller」を踊れる、という人、漠然と凄かったという感想を述べる人、そのほとんどを僕は羨望の眼差しを持って眺めた。
なぜなら大抵の人は生のマイケルをリアルタイムで“体験”しているのだから。
いくら僕が好きになってもその人たちには勝てやしない、 説得力の一欠けらも生まれやしない。



そんなことを思いながら、どうにも不思議なことに気が付いた。

マイケルの思い出を語る記事の大半はソロ活動以降なのだ。

一番多いのはやはり「Thriller」関連、PVやダンスのパフォーマンスについて。
それ以後も「Bad」、「Dangerous」のシングル曲についての言及はよく見るけれど、近年の活動に関してはスキャンダラスな面ばかり、僕の大好きな「Off The Wall」は結構な割合で省かれ、はたまたJackson 5時代のことなんてどこかに行ってしまったようだ。



ちょっと待ってほしい、泉山真奈美氏が“背中に電流が走るような衝撃”と言った「I Want You Back」を聞いて僕も同じように感じた、ただ歌のうまい子供ではない、そのグルーヴィーさにひれ伏したんだ。




皆さん、Jackson 5が物凄いグループだったことを忘れていませんか?

‘69年デビューの黒人グループが、デビューから4曲連続でナンバーワンヒットを生み出したなんて考えられないことだった。



皆さん、Jackson 5をまさかDiana Rossが発掘したと信じていないですよね?
DianaMichaelの信頼関係は相当なものだったとは思って間違いないだろうが、Jackson 5を見つけ出したのはGladys Knightだ。
レコード会社の都合で、より有名なDianaが発掘したことにしておこう、となっただけの話。
大手新聞で、「ダイアナ・ロスに見出された〜」という記事をみて愕然としてしまった。
何も知らない、思い入れもない、新聞記事に騙されてはいけません。




ともかく、Jackson 5を侮ってほしくない。

もちろん、ソロになってからのマイケルは輝いていた。

Off The Wall」のポップ・ソウル具合が僕の好みに一番合っている、“Rock With You”はいつ聞いても幸せな気分に浸れる、ジャケットも一番格好良いと思うし、「Thriller」は音とパフォーマンスが合体して世界中を陶酔させたアルバム、その後の「Bad」「Dangerous」「Invinsible」のそれぞれに聴きどころ・見どころは満載だと思う。



ただ、その輝かしい実績に負けず劣らず、彼の少年時代の煌きは目を見張るものだと思う。
バブルガム・ソウルだとかポップ過ぎるだとかそんなことは抜きにして、持って生まれた声の張り、リズム感、グルーヴィーなサウンド、素晴らしい。
デビュー曲「I Want You Back」は僕の中で一つのポップスの雛型みたいな存在になっている。










彼の天性のリズム感は後々のソロ活動でも爆発することになるが、この頃からバックの音と絶妙な掛け合いを見せている。
Gloria Gaynorがカバーしてヒットした「Never Can Say Goodbye」は、ディスコサウンドにアレンジされ、ボーカルの“揺れ”みたいなものがすっかり無くなっていて、オリジナルとはかなり印象が違う。これはこれで大好きだが。












また、マイケルの歌うバラードも圧巻だ。
Mariah Careyがカバーした「I’ll Be There」は涙モノ。
歌詞がたまらなく良い。

Ill be there to comfort you,
Build my world of dreams around you, Im so glad that I found you
Ill be there with a love thats strong
Ill be your strength, Ill keep holding on










マライアバージョンも、彼女の絶頂期に録音されたものだけあって、凄い。
Let me fill your heart with joy and laugher”の歌い出しのところで、相当好きで聞き込んでいたんだな、と思わせる。








個人的に圧倒されるのは、Chaka Khanもカバーしていた「Got To Be There」。
シンプルなギター、コーラスから始まるイントロ、すぐにマイケルのコシのある歌声が聞こえてくる。
Chaka Khanの爆発力には敵わないかもしれないが、緩急使い分けたボーカルは天才的。








とにかく、Michael Jacksonという一人の歌手を語る時に、スキャンダラスな一面は必ず出てきてしまいがちだが、僕にしてみれば「それがどうしたん?」という程度のものだし、傑作は何年たっても傑作なのだから彼の価値が色あせてしまうことなんてないと思う、それだけに「Thriller」以降のマイケルしか知らず“狼男、ダンス、整形疑惑、肌の色、少年事件”しか思い浮かばない人が多いことはとても悲しい。











そんなことを考えながら、追悼式でStevie Wonderが歌った「Never Dreamed You’d Leave In Summer」を聴いて想いを馳せたマイケル、彼のパフォーマンスはたとえ100万円出したとしてももう観られない。


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2009年03月27日

Young,Ordinary,and Yellow

リアルタイムではない話題。


私の目の黒いうちにこんな日が来るとは夢みたいだ
と宣い感涙する御婦人方の姿を見て思ったのは、僕もまさか実現するとは思わなかったし、歴史的に見ても予想すらし得なかった事でもあるけれど、思考停止に陥ってはいけない、これがゴールではない、ということだ。

ただ、感動の嵐のように扱うメディアはその歴史的意義をたいして理解していないだろうしまた興味もないだろうし、かと言って冷めた目で笑っていられるほど悲観的でもない。

ある程度の感慨深さを感じるのが自然な反応だろうとは思い、それはさておき就任式でAretha Franklinが歌った。





アレサフランクリンと言えば言わずもがなqueen of soulソウルの女王、60年代から70年代にかけてのレディソウル界を名実共に代表する最重要人物の一人であり、僕が心底惚れ込んでいるソウルシンガーだ。

圧倒的な爆発力とスムースな声質を併せ持つ押し引き自在のボーカルと類稀なバッキングに支えられた最盛期の楽曲は今でも至高の高揚感を味わわせてくれるだけでなく、アレサ本人と同様現代のシンガーのバイブル的な存在にもなっている。





就任式でのアレサのパフォーマンスは最近の彼女のボーカルがそうであるように輝かしい日々を知る者にすれば物足りないものだった。

寒かったからなのか、声が出ていない。
もちろんその節回しやタメのタイミングには相変わらず心惹かれるにしても、パワー不足は否めない。
体型的にも(非常にふくよかで健康が心配)、年齢的にも(70歳間近)仕方のないことだろうが、(お互いが)生きているうちに生の歌声を聞きたいと願う者からすればブレス&ビブラート過多のボーカルは痛々しくすら感じてしまう。



そんなアレサの傑作の一つに「Young,Gifted,And Black」(1972)というアルバムがある。

Young, Gifted and BlackYoung, Gifted and Black
アーティスト:Aretha Franklin
販売元:Rhino
発売日:1993-12-08
おすすめ度:4.5
クチコミを見る





サザンソウルでの爆発的歌唱を極めたアレサが、高揚感はそのままに、スムースムさを兼ね備えてニューソウル・ムーブメントに対応した一枚として評価されているアルバム。

もちろん表題曲はNina Simoneのオリジナルのカバーなのだが、そのカバーと言えばDonny Hathawayのバージョンも素晴らしくて、オリジナルのまさにこれぞ黒人讃歌と呼べる荘厳さを三拍子のリズムでゆったり解きほぐして心地好い間を生んでいる。






一方アレサのカバーはというと、のっけからクワイアをバックに自らピアノを弾いて大胆に歌い出す。

些か仰々しくもあるアレンジも、アレサがシャウトを決めれば立派なソウルミュージックになる。

チャック・レイニーのベースに引っ張られてリズムに乗る頃には体が動き出す。



声に力がみなぎっている。

声にリズムが溢れている。

これこそAretha Franklinだ、と言えば語弊があるかもしれないが敢えてそう言い切りたい。



このアルバムには他にも、「Oh Me Oh My(I'm A Fool For You Baby)」「Daydreaming」「I've Been loving You Too Long」「Rock Steady」「A Brand New Me」「Didn't I(Blow Your Mind This Time)」「First Snow In Kokomo」等の傑作カバー&オリジナルだらけなのだが、時代背景を考えればタイトル曲の重みは計り知れない。



young’で‘gifted’で‘black’。

正に新しい大統領に相応しい形容詞。


“私達は‘young’で‘gifted’でかつ‘black’なんだ、”という当たり前で単純だけれどもそれまであり得ない事として封じられてきた事実を声高に叫ぶことで同胞を鼓舞したNina Simone、それに続いたDonny HathawayとAretha Franklin、彼、彼女らの姿は凛としてひたすら美しい。



意に反して抑圧され続けた存在が壁を撃ち破ってありのままを伝えようとする時の表現力は何者にも邪魔できない力強さと誇りに満ち溢れていることを、感じられる一曲だと強く感じる。


※「Young,Gifted,and Black」のブックレットを見ていたら、Lorraine Hansberryaの名前が出てきていた。
『日なたの干しぶどう(A Raisin In The Sun)』で有名な作家なのだが、彼女の作品の中に同名のものがある模様。知らなかった



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2009年02月02日

Never Dreamed You'd Leave In Winter

“人は「いつかまた」という空しいそらだのみに一生をかけて、命を終わる場合が多い”

と昔田辺聖子は記していたけれど、

いつかまた、また今度の「また」が来ないなんて、たまらない事ではあるけれど事実みたいだ、どうやら。


だから思った、「また今度」はとても便利な言葉やけど、同時にとてもお気楽な言葉でもあると。

でもだからこそ、僕達は願望を込めて使っているのかもしれない。



「また」が無くなってしまった人には申し訳ないけど、「また」がある事を願って僕はこれからも「また今度」と言い続けていくと思う。

だから「また」がまだある人達、一緒に時間を過ごしましょう。

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2008年11月30日

地下鉄で見つけた


大阪周遊パス
2000円で大阪の街が遊び尽くせる一日観光券ー話題の観光スポット最大27カ所入場OK

では大阪を遊び尽くせないと思う。


というか街は遊び尽くすものではないと思うし、‘遊び尽くす’という考え方自体があまりにも浅薄で単純過ぎて閉口してしまう。

“遊び尽くす”とは、名の通り“遊ん”で“尽くす”、つまりもうそれ以上遊ぶことができない状態まで達してしまうこと。
そこで貫かれる考え方とは、街という存在を還元主義に基づいて徹底的に要素要素に分解して、買い物はここ、食べるならここ、飲むならここ、夜景はここ、といった風にそれぞれに予定された行動に対して平均的に最適と思われる部分をピックアップしておき、それぞれの行動の際には間違いが無いように想定された場所を訪れるようにしておけば必ず楽しむことができるという非常に効率的でもっともらしいもののようだ。

ただ、そのように部分最適を積み重ねていくことが街づくりなら、規模・量が絶対的な基準になるので日本では東京に勝る街は存在しないことになるし、世界に目を向ければNY以外の街は街ではないということになる(実際そうなのかもしれないが)。
じゃあ、そこ以外の地域に住む人たちは永遠に街にたどり着けない運命で憧れを持ち続けるしかほか無いのかと言われれば決してそうではないと思う。


どんな街にでも、人がいて店があって物がある。

人がいるから店ができたのか、店があるから人が集まったのか、物があるから人が集まったのかは分からないが、とにかく一度人と店と物が集積した場所にはそれらを利用する人がさらに集まりそして店も増え、というサイクルが成り立って街は発展していく。
そういった中で人はたくさんの物を買い、様々な店に集まり、色んな人と出会う、という事柄を非常に密度の濃い形で経験できる場所として街は機能してきた。
ただ、「店+人+物→街」という図式は正しいが「店+人+物=街」かと言うとそうではないと思う。


街≒都会というと、“いろんな店があって、いっぱい人がいて、素敵な物がたくさんある”というイメージは全くその通りなのだが、そういう要素を合計した和以上の何かがあるのが街であって、だからこそどんな小さな街でも僕達はある程度は楽しく遊ぶことができる。
それはなぜかと言うと、そこで働き暮らして遊ぶ人がそれぞれの人生を生きている、からに他ならない。

人が働きながら遊んで、遊んだ後は働いて生活する、という流れが絶えず存在しているからこそ、街は面白い。
それぞれの活動がそれぞれの活動に影響を与えてくれるので、全体として街の魅力がより高まり、結果としてよりたくさんの人がやってくる。

今まで遊んだことしかなかったような所で働くという逆の活動をすることになるかもしれないし、またその反対も有り得る。
自分の思い通りにならない事や人がたくさん存在して、どんどん自分に働きかけてくるかもしれない。
それまでの経験や価値観に次々と疑問符を投げかけられるかもしれない。

その結果としてただ一つの活動をしていただけでは見えなかったもの・経験できなかったことを知ることができる。

また街という存在の裏にいる人の存在に気づいたとき、どこどこの街の何々が面白いのはそこにああいう人がいるからだ、という当たり前の事実に気づいたとき、街は単なる遊び場以上の力を持つものとして、僕たちに有機的に働きかける。



働くだけ、遊ぶだけ、もしくは寝るだけ、の場所はそれぞれが完全に分離されてしまい、何の相乗効果も得られない味気の無い場所になってしまう。

観光地に行ったときに感じられるなんとも言えない空しさは、人の生活感が無い、実際は無いのではなく見えないだけなのかもしれないが見せまいとしている人達というか見せることを求められない人達の無念さが原因なのかもしれない。
事実としてそこで暮らし働く人達の生活には目を向けずにひたすらそこにあるもの、自分が今触れられるものしか感じようとしない、考えてみると日々の生活から開放されるための観光なのだから当然といえば当然だが、遊ぶという意識だけを持って街に接する人が大半になってしまうと、あるところから街の成長サイクルは狂い始める。

なぜなら、もちろん僕たちは街を遊ぶわけなのだが、それは同時に街が僕たちを遊ばせてくれているという事実と表裏一体で、さらにその“僕たちを遊ばせてくれる街”の向こうには“僕たちを遊ばせてくれる人”が確かに存在しているという事実を忘れてしまうと、街と僕たちの関係が「遊ぶ人ー遊ばれる街」という一方通行の関係に固定されてしまう。

そうなってしまうと、街は人に遊ばれるだけの単なる客体に成り下がってしまい、されるがままの意志の無い存在としてその動きを封じ込められる。

つまり、街というものを捉える時に遊ぶ主体としての消費者の存在だけが絶対的なものとして重要視され、客体としての街やさらにはその街を形作る大切な要素であるはずのそこで働く人の存在感は限りなくゼロに近づいていく。

となると、街にはただの利用できるモノとしての存在価値しかなくなってしまう。


街はただ何もせず何も変わらず何も考えずにあくまでもそこにあるモノで、それを私たちの都合の良いようにその都度作り変えてゆくことが発展であって、そこには人・店・物が相互に絡み合って影響を与えるダイナミックさを持ち可能性に満ちた本来の街の姿は無い。

主体はあくまでも私たち人であって、街はあくまでも利用され改善されるべき客体に過ぎなくなる。

街が本来的に持っていた化学変化のような機能が最早存在しないのだとしたら、街の判断基準はその部分部分の強さであり、それはつまりそれぞれの規模でありその街の規模であり、その先には“正解としての街は一つだけ”という何とも悲しく味気ない事実が待っているだけだ。

その事実によって“正解としての街”以外に生きるすべての人の人生は否定されることになってしまうことになる。

「正解は一つだけ=正解以外はすべて不正解」「唯一の善とそれ以外の悪」「一番力のあるものの価値観が絶対的」とはまるでどこかの国の政策のようで、いずれ何処かで無理が生じることは自明だ。

ある街を“遊び尽く”したあとの消費者はおそらく次の街を“遊び尽くす”ために念入りに情報を入手して驚くほどステレオタイプな形で街に接する、という行為を繰り返す。

その先に待っているものは「もう遊ぶことのできる街は無い」という理解への到達で、多分その人はそれ以上街というものに興味を持てず関わることも無く過ごして行く。



そうして街は衰退して行く。



“遊び尽くす”という言葉から感じられるのは、「私は街をどこまでも消費してやる」という消費者の立場からの目線であり、そこに住み暮らし働く生活者としての考え方は全く忘れられている。



人にとっても、街にとっても、とても不幸な考え方だと思う。


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2008年11月23日

日本の未来を変える

電車で、『臨死!!江古田ちゃん』を読んでいたら隣に座っていた小学生が覗き見してきたので、背徳感にどきどきしながらも
せめてこの少年くらいは猛禽女に騙されない眼力を持つ男に育って欲しい!
との願いを込めて、見やすいように大きく広げながら見せつけてあげた。

―最近したささやかな抵抗―


臨死!! 江古田ちゃん 1
臨死!! 江古田ちゃん 1


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