一水四見

enju's Private Blog

enju1stソロアルバム『Little Planet』完成

CD宣伝


アコースティックギターインストゥルメンタルアルバムが完成しました。

良かったら聴いてください。enju

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◉内容紹介

切なくも優しいアコーステックギターのインストゥルメンタルアルバム。暖かく、懐かしくも、どこか物悲しげな旋律。画家が風景を写生をするように、奏者がその時々に訪れた「場所」で生まれた心象を、ギターで奏でた「音」のスケッチ。場のアンビエントも曲の背景として収録。まるでその場に居合わせているような感覚を抱く。今回、これまでにレコーディングした時々の音のスケッチをまとめてリリース。時々の音の欠片たちが一つの作品となる時、その短編を包み込むさらに大きな「物語」が見え隠れし始める。

◉アーティストについて

【enju】(えんじゅ)。14歳から独学でギターを弾き始め、ROCK、BLUES、JAZZ、Folksongなどの影響を受ける。いくつかのバンドを掛け持ちながら、全国のライブハウスで演奏。しかし、昔から哲学や宗教などについて深く考え込むことがあり、突如ギターを封印。以後、道を求めて精神的な旅に出る。旅先で現地の音楽や人々の暮らしに触れ、その場で時々ギターを手にする機会があった。また、即興劇のワークショップや、震災のボランティアを手伝う内に、その場の人々のために演奏する機会が時々にあった。そんな旅の途中で始めた「音のスケッチ」。シンプルに、素朴に、その場と自分の感覚を大切にしようと極力テクニックやアレンジ面での計算を避け、その微細な感覚をできるだけ音に乗せようと、思考を挟まずにギターを爪弾く。場と、人と、自己との関係でリアルな音楽が生まれるように感じている。やっぱりまた、音楽を始めてみようと、今、そんな気持ちでこの旅を続けている。きっとまた、どこかの町で。

今夜のBGMは長渕剛『人間』です。

僕は人間がどうしても好きなのかな。

それともやっぱり嫌いなのかな。

FacebookでもTwitterでも、脱個人というか、自身の宣伝や告知ばかりの投稿はどうしてもスルーしちゃう。

企業や団体のアカウントならそれでいいんだろうけど、個人のアカウントでその人の「匂い」のない投稿はつまらなくて時にミュートしちゃう。

なんでかなぁ?

ところで僕はお坊さんの友人が多い(唐突だ)。

そんな友人は、僕が個人的に、その個性が好きな人たちだ。もちろん友人らの宗教への取り組みや、様々な社会活動もリスペクトしている。

が、やっぱりその「人物」が好きなのである(友だちだから当たり前だけど)。

仏教や宗派の教義にいくら詳しくても、「その人」が感じられなければやっぱりつまらない。

理想や持論に自己同一化して、とてもロジカルで議論に強い方もいる。が、友だちにはなれない(お近づきになりたいと思わない。惹かれない)。凄い能力だと素直に関心はするんだけども。。。

僕の先生は、仏教「を」学ぶのも大事だけど、仏教「に」学ぶことの方が何より大事だと言っていた。

仏教は「人間が『真の人間』になる道だ」とも仰っておられた。

もちろん言うまでもなく、仏教は「仏になる道」であるが、先生の仰るその『真の人間』という言葉が最近ますます僕の心に響いている。

言葉をかえれば「私がますます私になる」と言ってもいいかもしれない。

一見「私」を出さずに「教え」を語る人が「無我」っぽく見える。

「私」をあらわにして「実存」を語る人は「エゴ」っぽく見える。

しかし、僕の関心は「人物」なのである。この人はいったいどんな人なんだろう、と惹かれる人に関心があるのである。

その人はどうしてそうなったのか。どうしてあんな雰囲気で生きているのだろうか。どうしてあんな行動や考えをするのだろうか。

それは仏教の影響かもしれないし、または全く違う理由からかもしれない。(果たしてそんな線引きはできるのだろうか)

仏教の専門用語を使っていれば、何か自分は仏教している気になるし、仲間うちではその概念で了解しあえたような気になれる。

もちろん趣味やオタク的なマニア談話もありだと思う。それはそれで楽しいものだ。でもそれをできるのは同じ知識を共有している同じ穴の仲間だけだ。

何が言いたいのか分からなくなってきた(笑)

たぶん職業や思想に同一化した人といると寂しくなるんだ。あなたはそんな人じゃないでしょって。勝手に思っちゃう(笑)

生きている人の言葉が聞きたいのだろう。生身の人間に会いたいのだろう。

構えや鎧をまとわない、普通の人間に会いたいのだろう。

そして、こんな事を書いている僕自身こそが、そんな人間になりたいんだろう。

なりなさいよ。

はい。


たぶんここまで読んでくださった方は僕を直接知っている方だけでしょう。支離滅裂な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。またどこかの飲み屋で聴いて下さいm(_ _)m


enju拝


追伸:BGMは長渕剛『人間』

歌:長渕剛
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛

そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから



息が詰まるほど 悲しかったから

あなたにしてやれることといったら



あなたと空を見て あなたと泣いて

あなたのその手を 握りしめることくらい



あなたのこの手が 温かいのは

あなたのからだに 血が流れているから



そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから



人を愛するたび 切なくなるけれど

やっぱり独りでは 生きてゆけません



苦しみの数だけ 涙を流したら

やさしきあなたを 迎えにゆくから



美しい心と やさしい命が好き

いつでも いつまでも

そんなあなたのそばがいい



そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから


そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから


そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから

【島】

ぼーっと空の雲を眺めてて書き始めた「物語」

【島】

自分の輪郭を「島」に喩えてみる。
その輪郭は知識や経験で大きくなっていく。
取り囲む「海」は未知の世界。

普通は年齢と共に「島」は大きくなり「既知の世界」が増えていく。
ただ、その「島」と「海」の接岸する輪郭が広がるにつれて、
「島」はさらに「未知の海」に接することになる。

そうして「島」は「島」には分からないこと、未知なるもの(海)が圧倒的であることを知る。
中には「海」を見ないで、自分の「島」しか見ない人もいる。

ある日、不思議なことに「舟」という乗り物が発明さた。
お陰で時々「舟」に乗って、違う「島」を訪れることができる。

「島」にはそれぞれの歴史や文化があって、それぞれの「島」なりの哲学がある。
その「島」ではそこで生きる者の確かな「実感」があり、それぞれの「世界観」がある。

人々は互いの文化や世界観の違いに驚き、時に否定し合い、時に争う。
利用しあうこともあれば、占領することもある。

いつもどの「島」が正しいか、進歩しているか、優れているかが問題となった。

いろんな「島」を訪ねる人もあれば、一生を自分の「島」で終える人もいる。



ある時人々は、最期には「島」は「海」に飲まれてしまうことを知った。

「私」だと思っていたその「島」が未知の「海」に沈んでしまうのだ。

「海」は繋がっている。「空」も繋がている。それはみんな知っていた。
でも「島」は別々に存在している(ように見える)。

人々は恐怖に慄いた。

そんな時、「島」は海底では繋がっていることを発見した人がいた。

しかし彼は「島」には輪郭があることも知っていたし、実際にそれはある。ただ、島が島として独立してあるのではないことを発見したのだった。

ただ、彼はすべては繋がっており、因縁によって様々なカタチをとって生起している、という事実を発見したのだった。

そして「島」は「私」ではないし、「あなた」ではないと言った。
それを聞いた他の「島」の人々は驚いた。

信じる人もいたし、信じない人もいた。
怒り出す人もいれば、そんな狂人は殺してしまえと言う人もいた。

発見者は言った。「海に潜って確かめなさい。そうすれば分かる」。

最初はその発見者が、潜り方や泳ぎ方、潜っていい状況や、潜りやすい方法を教えた。
それも「島別」に、各々に理解できるように、その「島々」のことを理解し、その「島々」の人々が出来る方法を教えた。

多くの人々はそれを実践し、実際に確かめることができた。しかし誰もが「海」などに潜りたい訳でもなく、また潜りたくても潜れない人は、それを信じるか、信じないかしか出来なかった。

次第に直接潜って確かめた人がいなくなり、その「島」に伝わる「ある人にしか適さない方法」を真似て、多くの者が溺れた。

溺れて死んだ者もいたが、溺れながら泳ぐこと、潜ることを憶えた者もいた。
今度はその人たちが「私の島のやり方が正しい」と言い出した。

彼らは「こと」を「もの」だと思い「所有」し始めたのだ。

中には実際自分で潜ったこともないのに「これこそが正しい」と言い張る人たちもいた。

残念ながら「島」と「島」には共通言語はない。みんな違う世界観を生きていた。ただ、その世界では一貫性のある論理、しきたり、言い伝えを信じていたし、誇りに思っていた。

それぞれはそれぞれにおいては正しかった。ただ、部分的に、だった。


何が正しいか、どれが真実かと言う前に、それぞれは既に違う「島」に生きているということ、しかもそれは決して其の如くは理解し合えないということを思いだしてみた。

まずはここからではないだろうか。

自分の「島」に土足で上がりこまれて嫌なように、相手の「島」にもそうしてはならない。

「遠い所、わざわざお訪ねくださってありがとうございます」
「お招きありがとうございます。今日はお邪魔いたします」

「私は自分の島のことしかわかりません」
「よかったらあなたのお話聴かせてくださいませんか」

こんにちは。
さようなら。

お昼の妄想終わりぬ。
(思いつきなので加筆訂正順次)

「あんちゃんと一緒に、『歎異抄』を読みたい。」

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明けましておめでとうございます。2015年は「あんちゃんと一緒に『歎異抄』を読もう。」が開催されます。『歎異抄』?そう自身を「罪悪深重の凡夫」「地獄必定」と言い切った、親鸞聖人の言葉をお弟子が書き留めたあの書物です。

といっても、単なる読書会ではなく、生身をかけた真剣な座談になると思われます。

仏教サイドの方も、ワークショップサイドの方も、想定外な時間となるでしょう。冷やかしはいりませんので、崩れて落ちてダメダメな人間になる覚悟のある方のみご参加くださいませ。

何かを期待しても、何も得ることはないでしょうし、ただ偽りの自己が照らされるのみでしょう。

詳細は下記ホームページにて。

http://revision.enju.in/workshop/tannisyo2015.html

よろしければ、その身一つでおいで下さいませ。

◉ 日時 

2015 年
1 月 26 日(月)19:00-22:00 場所 studio CAVE(大阪府西区)
2 月 23 日(月)19:00-22:00 場所 studio CAVE(大阪府西区)
3 月 23 日(月)19:00-22:00 場所 楷定寺(大阪府高石市)


●当日は...

あんちゃん(藤岡延樹)、森を中心に参加者が半円で囲み、森から、あんちゃんへ問答を挑みます。機に応じて橋本久仁彦が問答に加わります。

<森洋介の問いを受けてくれる人>

■藤岡延樹(浄土真宗本願寺派楷定寺副住職、Re:Vision! 代表)
20 代をミュージシャンとして過ごした後、大学で伝統・近代仏教学を学び、
大学院在学中に恩師である故西光義敞先生の「真宗カウンセリング」に出会う。 真宗カウンセリングの仲間とともにつくる「育ち合う場」としての「Re:Vision! 」代表となる。 フェンスワークス・フェローとして、フェンスワークスの仲間とも遊ぶ。 だいたいいつも真っ黒い服を着て、あやしい雰囲気をプンプンさせている。

<ゲスト>

■橋本久仁彦(口承即興~縁坐影舞舞踏劇団「坐・フェンス」坐長)
円坐守人として、縁坐影舞の坐長として、既成の心理学やら「自己実現」やら「癒し」やらを全部ぶっ飛ばして、ただ、生きて死ぬという人生の事実に正面から向き合い続ける姿を、僕(森) に見せ続けてくれている。
故西光義敞先生、「真宗カウンセリング」との出会いを機縁として、仏教についても造詣が深 く、ほんとに面白く仏教についても語ってくださる。

<あんちゃんに問いを挑む者>

■森 洋介(フェンスワークス)
ふだんは、円坐守人であったり、縁坐影舞のヒトガタ役者だったり、
人生の先輩に戦争体験をお聴きする「円坐と縁坐舞台の旅」を主宰したりしている。 『歎異抄』との出合いは、故西光義敞先生との出会いのなかで、こんなに静かに坐れる人になり たいな、そのためには浄土真宗のこと知りたいなと思ったのがはじまり。もう 20 年くらい前だ。

詳細は下記ホームページにて。

http://revision.enju.in/workshop/tannisyo2015.html

CD完成

俳優さんに楽曲提供したCDが完成しました。クレジットが微妙な。大人の事情(笑)

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寺子屋カルチャー終了!

静岡は掛川、長源寺さんでの宿泊ワークショップ終了!めっちゃ自由で癒された〜♪楽しかった^_^

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10628241_896147377091999_4488569576902515293_n僕はファシリテーターとして招待いただいのですが、こんなにファシリテーションしなかったワークショップは初めて(笑)ファシリテーターの究極は「何もしないこと」なんですが、まさに何もしなかった2日間。
ただ、人と居て、ご飯食べて、生活の仕事して、後はボーッとしてました。10347688_896146610425409_5599358576988944545_n

足湯を沸かすためのボイラーへの撒き焚き。山の奥の滝を探しての散策。凍えながら辿り着いた温泉。囲炉裏を囲んでの温かい食事や酒盛り。朝のお粥の美味しさ。坐禅して、犬と遊んで。素朴で優しい地元の方々との温かい交流。どれもみんな自然で無為で本当に癒されました。
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人為的で構成的なセラピーやワークはここでは全く必要ありません。学びとか成長とか気づき発見とか云々を殊更に言う必要もなく。ただ、そこに一緒にいる。時々人生を語り合ったり、宗教や人間を語り合ったり。悩みや、夢や、愚痴も交わす。うん。こういうの、こういう場に居たかった。作りたかった。1908211_896146390425431_6902048920910862093_n

これからもこのお寺さんとのご縁は続きます。

次は夏に、沢登りしたり、滝に打たれたり、バーベキューしたり、足湯ボイラーワークしたり、坐禅したり、円座したり、ボディワークしたり、昼寝したり、肝だめししたり、その場で起こることを起こるままに、楽しみたいな。

そして、生きづらい人や、死にたい人や、人生に疲れ果ててたり、絶望してる人も、ここで寝食を共にしながら、それぞれが自由に過ごせるようなリトリートをしよう、とも。

長源寺の澤中和尚お世話になりました。また遊びに行くよ〜!

メモ「聞き合う場」

◉探究

「教える人」と「教わる人」という固定的な関係のメリットとデメリット。
「互いに教わり合う」ことが可能になる「場」と、何を教わるかという中身の問題。

◉とりあえずの今日の法座でのメモをノート。

何事も、人に教えると自身が何倍も学べるというけど、法話もそう。先生の話を聞いてるだけより、自ら話すことでさらに我が身で味わえる。だからみんなで話し合い聞き合う場が大切だな。話者・聞者を固定しないで、互いに話し聞き合う法座を。それはとても難しいけど、場の守人次第では不可能ではない。

お勤め中、この後どんな話をしようかと色々思い巡らすものだけど、せっかく右脳を活性化させてるのに左脳働かしててもったいなと。読経で思考は放下して、聴衆に向き直って起こってくる(降りてくる)言葉を待てばいいのに。寂滅現前ではないけど、そんな感じでないと「人間(個人)臭」が出ちゃう。

「人間(個人)臭」が出ると、その「人」ばかりが見えて「法」が見えなくなる。「人」が消えてると「法」が顕れる可能性が高まる。つまり「使い」としての空っぽの「器」になり得る。「人間(個人)臭」は聴衆の好き嫌いを生むし、それはその「人」の話、人柄であって、「法」とは離れてしまう。

空っぽの器状態の時はよく、憑依するというか、降りてくるというか、この身体が使われているというか、そんな感覚になる時がある。といっても忘我でなく、それに気づいている意識と共に。そんな状態の時は、その「何ものか」に安心して任せていれば、それが勝手に仕事をしてくれる。

しかしそれは、空間設定というか、舞台設定というか、それに相応しいセッティングがなされているかどうかが重要だと思う。セッティング次第で魔も入れば邪も入る。また少しでもエゴが動けばそれに利用される。だからとても危険な状態でもある。

(「何ものか」を解釈して言語化して話す主体は「私」という文化で形作られた「器」であるが、その違いが様々なバリエーションとして表れている。そのうちのどれが正しいかという基準は個々の「器」が判断しているに過ぎないのかもしれない)

そのようなことは誰にでも起こる。もちろんそうなりやすい体質の人もいるし、そうなろうと訓練している人もいる。でも結局、自分のことは自分で見れないのでやっぱり他者が重要になる。で、役割を固定しないで互いに聞き合うとうところに戻る。

釈和真一周忌

友人の一周忌を有志の仲間とお勤めしました。もちろん故人の自宅でもご家族とお勤めしたのですが、友人の一人が「あいつは延樹の読経が好きだった。あいつのために本堂でお経あげてくれないか。布施はする」と声がかかり、「それなら一緒にお勤めしようよ」ということで、急な話ながら数人の友人が集まりました。

友人だけだったので、いつも提案したいと思っていた法事のスタイルでお勤めさせてもらいました。
最初に丁寧に法事の意味と次第の中身を説明して、読経は短めにして、ゆっくりと法話。

普段と違うのはその後、みんなで円坐になり、それぞれの思いを語り合う場を時間の許す限り持ちました。(普段は定位置のままのやり取りなのでどうしても僧侶中心になりがち)

円坐には故人のお母さんも参加され、驚くほどよくお話されました。毎月お参りでいろいろとお話するのですが、この日は今まで話せなかった話を涙いっぱいにしてくださいました。

やっぱり深い悲しみの思いはたとえ家族にでも(いや、家族だから余計に)、日常の中ではななかなか話せないんだなぁと、あらためてその胸のうちを聴かせて頂きました。

彼は癌に侵されながらも発心得度し、僧侶となって亡くなりました。彼の最期の思いは「みんなにも仏法を聞いて欲しい」でした。

「でも僕にはもう出来ない。短い時間だけど生きざまで見せたい」と、たくさんの離れ離れになった仲間が繋がる機会を、自身の苦しい身体に鞭打ちながらも笑顔で作ってくれました。

一周忌のこの日も、彼のはたらきで、お寺や仏法にまったくご縁のなかった友人らが集いました。
これからも、このご縁は続いていくのでしょう。

人は死してなおはたらく。

有難いご縁でした。
合掌

お坊さんモデル

MOOK「関西のお寺2」にちょこっと出てま〜す!

http://lmaga.jp/mook/kansai_tera.html

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【音楽の仕事】


あるアクション俳優さんのLIVEで使う楽曲の依頼。作曲は辻野盛一さん。ほぼ弾き語りのデモからアレンジと演奏とレコーディングを僕が担当。こんな感じで進行中です。ご依頼はアレンジとオケで1曲5万円〜。作曲からだと10万円〜です。(応相談)

瞑想と音楽とコンステレーション2014東京

「藤岡延樹 × チェトナ小林」 5年ぶりのコラボワークショプ。

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日本のシステミック・コンステレーションの第一人者的存在のチェトナ小林氏と、「広島・長崎・沖縄」を巡ったのも早5年前。

チェトナ氏の探究は更に深まり、ドイツ生まれの心理療法がこの日本という独特の歴史文化を培ってきた土壌で、日本人ファシリテーターにより昇華され、我々日本人にとってのシステミック・コンステレーションへと深化されつつあります。

今回は、瞑想と音楽を僕が担当することになりました。
西洋では「マインドフルネス」と称され、広く認知されているものも、もともとは東洋の精神文化に根ざした瞑想的な経験や洞察を意味しています。

僕が瞑想指導などとは恐れ多いのですが、様々なワークショップや、他宗の行法や坐禅など古くから瞑想に親しんでおり、またインドの瞑想センターやアシュラムへ遊学した経験から、若輩ながらも、自分なりにその構造や実践を紹介できればと思います。
※僕もシステミック・コンステレーションの第3期・4期(3年間)トレーニング終了生です。

【システミック・コンステレーションとは】

◉ 個人セラピーや、グループセラピーの限界を超えるアプローチ。
◉ 人間を有機的繋がり(家族や地域や国家)として見るアプローチ。
◉ そこに愛(慈悲・神仏・光)の秩序を見出すというアプローチ。

と、自分なりに箇条書きにしましたが、言葉にするのはとても困難なアプローチです。
いま生き辛さに苦しんでいる方はもちろん、研鑽を深めたいセラピスト、場作りや援助職にある方、舞台芸術家、経営者、そして僕の繋がりの宗教者・仏教者に強くお勧めするワークショップです。

仏教でいう「縁起」や「業」、俗的には「先祖供養」というものの見え方や、「光」や「青空」と称される概念が、体験的に、眼前に広がる様は圧巻です。

もちろん、システミック・コンステレーションを深く理解するには、数年ものトレーニングを要するかもしれませんが、初めて体感するその「なんとも不可思議な光景」は、新しい認知の扉を開くに余りある経験となるでしょう。

関心のある方、ご縁のある方、9月27日・28日に東京でお会いしましょう^_^

http://revision.enju.in/workshop/m_m_c_2014.html

追記:enjuの生ギター演奏もあります♪

【はたらき】

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とても素敵な「はたらきかた」をする人に会った。その人に触れると、とても清々しく気持ちのいい穏やかな気分になる。

その人はそんな「はたらき」をする存在なんだろう。

ここで言う「はたらき」とは、業務や作業やスキルのことではなくて、その人がそこに存在することで、周囲に影響する「見えないはたらき」のこと。

その意味では、私たちは何もしなくても常に「たはらいて」いる訳だし、「存在そのもの」が「はたらき」であると知る。

さて、いったい常に「はたらいて」いるのは誰なんでしょう。「はたらき」は「わたし」に先行する「なにか」。なんだ?

普通は人はより良い「はたらき」をしようと、いろんなことを学んだり、それを身につけようと努力する訳だけど、「はたらき」とは果たしてそうして獲得するような質のものなんだろうか。。。

ところで話は飛躍するけど、「○○を学ぶ」から「○○に学ぶ」へ。

例えば仏教「を」学んでも、仏教「に」学ばなかったら、何にも変わらないなぁとか。ま、これは別の機会に。

ともあれ、今日は素敵な「はたらき」をしている人に出会った。

自分の「はたらき」は自分では自覚できないのかもしれない。だから周りにどんな人がいて、みんながどんな影響を受けているか(正確には影響しあっているか)を感じてみることが大切かなぁ。
俺ってどんな「はたらき」をしてんだろう。また『こっそり』教えてくださいませ(^人^)
ギャラリー
  • enju1stソロアルバム『Little Planet』完成
  • 「あんちゃんと一緒に、『歎異抄』を読みたい。」
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