児童養護施設と共に

児童養護施設出身者として、施設職員として思ったこと、感じたこと主に書きます。

すっごく久しぶりの更新。誰も読んでいないと思うけれど、それでもここが原点のひとつだから。

今思うこと。名選手名監督にあらず。

自分で言うのもなんだけど名選手の方だと思う。今でも日々その子にとって何が大事なのか考えているつもりだし、その子の人生を背負っている仕事だと言う認識と覚悟はある。これまで貪欲に学びと経験を積み重ねてきたことでその子の力になってこれたこともそれなりにあると思う。後悔と反省も積み重ねてきたけれど…

施設職員として18年。今自分は選手ではない立場になってきている。じゃあ、自分は名監督になれないのか?

いやいや、そんなことはないはず!自分の経験を、自分の想いを丁寧に伝え、仲間をもっと増やしていきたい。技術や知識も大事なんだけど、“想い”がいちばん大事なんだと改めて感じたここ一週間。こうした“想い”を持っているケアワーカーをしっかりと大切に守り、育てていくことが名監督への第一歩だと信じて進もう。

自分の正義はなんだろう?続きを読む

私を産んだ母は数年前に亡くなった。

生活保護を受けていたようで、母が住んでいた市の職員がどこかで私の連絡先を聞いて私に連絡をしてきました。

私には母の記憶はほとんどなく、数少ない記憶は悪い記憶ばかり。

施設のクリスマス会に私が知らない私より小さな男の子を連れてきて、私を放ってその子を隣において楽しそうに食事をしていた記憶。いまだにあの子が誰なのかわからない。

初めて帰省(施設から家に帰ること)した時、汚いアパートに連れて行かれ、そこには母の交際男性がいた。日中よくわからないところを散々連れ回された挙げ句、夜になるとその人はお酒を飲んで暴れて母はヒステリックに泣いていた記憶。施設にいる時よりも強い不安と恐怖しかなかった記憶。あれが最初で最後の帰省となり本当によかったと今でも思っています。

施設を退所後にも自分のルーツを探るために母に会いに行ったことがあります。病院のベッドに横たわり、弱々しい姿でまともに話ができずに自分のルーツは全く何もわからなかった記憶。

そんな母が亡くなったと聞かされた時

自分の心は何一つ動くこともなく感じることもありませんでした。

兄はまだ生きていますが、もし兄が亡くなったという知らせを受けてもたぶん同じような感じなのでしょう。

私は人の死の重みや辛さがわからない冷酷な人間なのだろうかと考えたこともあります(今でも考えます)。

父も亡くなっている今、私は完全に自分のルーツがわからない状態になっています。

私はどこで産まれたのでしょう。どうして産まれたのでしょう。どうやって産まれたのでしょう。

もう今さらわかることはないでしょうし、わからなくても私は十分生きていけています。

ただなんとなくふと母の死を思いだし、そんなことを考えた今日この頃です。




わかっているんだよ。特に子どもはもっとわかっていると思うよ。

ただ単に仕事として児童養護施設の施設職員をやっているか。

そこに想いがあって児童養護施設のケアワーカーをやっているのか。

施設職員とケアワーカーというのは客観的な区別はありません。児童養護施設の職員はケアワーカーですし、ケアワーカーは施設職員です。

ただ、主観的なことなのですが、ケアワーカーとは呼べない施設職員はどこの施設にもいます。

私の、完全に個人的な、定義ですが…

ケアワーカーは、専門性だけではなく、しっかりと子どもに対する想いや信念、考えを持っている人。

ただ単に熱い想いだけでもダメなのですけれどね。プロとしての意識と知識と技術は必要です。

確かにケアワーカーは仕事なのですけれど、仕事ではないんですよ。その子の人生に関わっているんだから。

昔っから(施設の子ども時代から)わかっていることなのですが、最近は妙にそこの違いに腹が立っています。

なんでだろう…

あけましておめでとうございます。少し遅れての話ですが、皆さんはどのような正月を過ごされたでしょうか?コムにとって正月はどこか寂しい時期です。

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最近、子どもの頃のことを振り返る機会ができました。

忙しい日々に追われながらも今自分の生い立ちについて振り返りをしているところです。

振り返って思うこと。

私は子ども時代の全てを施設で「生活していた」のではなく「生きてきた」こと。
(特に幼少期はひどかった)

たくさんの人に迷惑をかけてきたこと。
(当時は自分のことで精いっぱいで周りなど見えてなかった)

見放されなかったこと。
(これが一番大きい)

いまだに自分のルーツはわかっていないこと。
(もうそれでいいと思っているけれど)

悲しみや疑問や感謝…いろいろな気持ちがでてきます。

けれど、なんだかんだであの頃の全てが今の自分に繋がっているのだと思いました。

責任担当制とは、入所している子どもの担当を決めてその担当者がその子に関わること全てを担っていく児童養護施設の仕組みの一つです。子どものことをどこまで担当者が行うかは施設によっても様々なようですが、チーム重視の支援ではなく担当と子どもの関係重視の支援と言えばよいでしょうか。前回の記事を受けて、メールで幾つか指摘を受けまして表現が難しいと感じています。

 

とにかく、この責任担当制によって、担当者と子どもとの関係が深まる一方で、さまざまな弊害もあるようです。実際に私が聞いた話も含めてそのまま載せた方がわかると思いますので以下に挙げていきます。

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児童養護施設では、責任担当制という言葉があります。

 

どこの施設でも子ども一人ひとりに担当者がいます。それは支援計画作成上の担当者であり、実際の子どもの生活のなかでは、その担当者が常に子どものそばにいるわけではなく、交代制勤務の中で養育することになります。


責任担当制では、支援計画の作成だけではなく、その子の生活支援の中心となり、洋服の購入や誕生日祝い、学校との面談、進路の話し合い、家庭との連絡・調整などその子に関わることのほぼすべてを行います。家庭との連絡・調整はファミリーソーシャルワーカーの仕事だと思うのですが…

 

チームでの養育というよりは、ひとりの大人が担当する子どもたちを養育していくというイメージです。

 

必然的に担当職員と子どもとの関係は担当ではない職員よりも深い関係になっていきます。

 

子どもとの関係性が必然的に深まっていくということで、責任担当制はとてもよいのではないかと思うところがあります。

 

しかし、私はこの方法には反対です。

 

その子の入所から退所までずっと同じ職員が担当するということであればまだよいのですが。施設はどこまでいっても施設。家庭「的」にはなれても家庭にはなれません。児童養護施設において責任担当制は弊害ばかりであると思っています。

 

次回、責任担当制の弊害を書いていきます。

新しい年度が始まり、児童養護施設の業界にも新規採用の職員が入ってきています。

毎年のように思うのですが、そういった若い職員に言いたいこと。

それは

「流されるなよ!」

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私達に必要な才能

 

以前ある方の講義を受けたときに、この仕事に必要な「才能」というものを教えていただきました。コムもそれはとても必要な才能であると思いますので、紹介したいと思います。

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シリーズ最後です。

私の目標は、児童養護施設に入所する子どもを大学に進学させることではありません。

「高校の進路選択時に大学や短大、専門学校等も選択肢の一つにして、数ある選択肢の中からその子どもが活き活き生きるための選択ができること」

これが目標です。

また、この目標の達成は次の目標(自己実現)のスタートにしかすぎません。

これまで子どもを進学させた実績のある児童養護施設も少なくないでしょう。

しかし、進学後の生活やその子の持つ課題などを十分話し合いをせずに「進学したい」というから進学させたというある意味無責任な施設もあるのではないでしょうか。結果、退学し(経済的な面やその子の持つ課題をクリアできず)、借金だけが残るという結果になっている子もいるのではないでしょうか。

これは私の偏りであり、賛否両論あるかと思いますが、私は子どもがいくら進学したいと言ったとしても簡単に賛成するつもりはありません。もちろん、できる限り応援しますが。

児童養護施設から大学等へ進学するには(その子のケースにもよりますが)、いわゆる一般家庭から進学する子どもたちよりも「覚悟」と「自律」が必要だと思っています。周りの友達が進学するからなんとなく進学したいというモラトリアム的な余裕までは残念ながらないことが多いのが現状です。

他の施設で「なんでその状況で進学させてしまったの?続かないで借金だけが残るのは明らかじゃん」というケースを見たことがあります。未来のことは予測不可能なので「絶対無理」「絶対大丈夫」はないのですが。

本当にその夢を実現したいのかどうか、退所後の生活ではしっかりと自分の意志で自分の生活を組み立てることができるかどうか(就職の場合も一緒ですが)、よく話し合った上で進学しないで就職する方向を助言することもありだと思っています。

まぁ、もちろん最終的には本人の決断になるのですが。

前回の続きです。

今回は反省と課題。

芽が出るまでになぜ10年もかかったのか。

施設の中での自分の立場や組織のことなどいろいろありますが…

子どもの基礎学力も当然ながら進学に向けて重要なキーワードの一つです。

将来の目標が持てても「どうせ頭が悪いから進学できない」「勉強が嫌いだから」と諦めてしまう子もいました。

児童養護施設に入所してくる子どもの中には、入所前の環境の影響やその子の特性として学習する習慣が身についていない、年齢相応の学力が身についていないという子どもが少なくありません。

高校卒業後の選択肢に進学が入るためには、やはり子ども自身の基礎学力の向上も必須です。数年前から中学生が塾に通うための費用を国と自治体が全額負担する制度が始まっていますが、高校生についても同様の制度ができたらさらに良いです。

小学生の頃からの学習支援も大事です。「学習時間」と言って時間と場所を決めてみんなで一斉に学習をするのではなく(たいていの施設はこうやってるのではないでしょうか)、その子の特性や学力に合わせた個別的な学習プログラムの展開が必要になってきます。

次でこのシリーズ最後です。

前回の続きです。

まず私が取り組んだこと。

「大学進学はできるんだよ」「だって私も施設出身だよ。その私だって大学卒業したんだ」

自分の経験を話し、進学しようと思えばできると教えたこと。

特に当時小学生だった子には、あまり具体的な学費や生活費などのことは話さず、とにかく希望を持たせるよう意識して話したことを覚えています。この春、当時小学校3年生だった子が進学します。また、来年度も進学を希望する子がいますので、あの時まいた種が今芽を出していると思うととても嬉しく思います。

次に私が取り組んだこと。

子どもが大学進学したいと言ったときに、具体的な助言ができる知識を身に着けること。

奨学金について、勉強会に出て情報を得たり、施設出身者を支援する団体に直接問い合わせたり。また、機関保証制度や未成年の契約についてなども勉強しました。

児童養護施設出身者に対する奨学金制度については、私が高校生の頃に比べて数自体も増えてきていましたね。最新では(たぶん)、NPO法人タイガーマスク基金さんの大学進学者への支援制度があります。もちろんこの給付事業に応募させていただく予定です。

この春、当時小学校3年生だった子が進学します。その子は最初に私が進学できるという話をしたとき、興味津々にいろいろなことを質問してきた子でした。私も当時のその場所の雰囲気やその顔を今でもよく覚えています。また、来年度もその当時話をしていた子の中から進学を希望する子がいますので、あの時まいた種が今芽を出してきていると思うととても嬉しく思います。

今日はここまで、次回は反省と課題。

約10年前児童養護施設の職員になった時、いろいろなことにショックを受ける毎日でした。

その一つが施設出身者の進路です。

高校生の進路選択では「就職か進学か」という選択がありますが、当時、私が勤めた施設の子には「進学」という選択肢はありませんでした。

高校卒業=就職

子どもも職員も。

子どもの会話でも「高校出たらどうせ働かなきゃならないんでしょ」「中学卒業したら就職するかな」

大人は子どもが大学進学したいなどと言った日には「無理でしょ」「学費はどうするの?」「生活費は?住むところは?」

中学の進路選択にも「就職」という選択肢が普通にあり、高校進学は当たり前と育った私にとって(私も施設出身なのですが)、とても衝撃的でした。

特に憤りを覚えたのは、奨学金の制度などほとんど知らずに初めから「(大学等の進学は)無理」と決めつけた関わりがあったことです。

中卒や高卒の就職を否定しているものではありません。その子どもが活き活きと生きるために中卒や高卒での就職を選択し、その後も一生懸命、活き活きと人生を歩んでいる人を何人も知っています。

未来への選択肢がないことが問題なのです。やりたいことがあってもできない、初めから「無理」「できない」と言われ諦めさせられ、将来に希望を持てない子どもたち。その不安やストレスもあるのでしょう、荒れていく生活。

高校卒業後の選択肢に進学も当たり前のように入れる。

そんなことを一つの目標にした約10年前。


ペアレントトレーニング(コモンセンス)の全国交流会に参加しました。

ペアレントトレーニングとは、技術的かつ非暴力の躾の方法を身につけることで、親(養育者)と子どもの良い関係を築き、問題行動を予防的に防ぐ教育です。
虐待の予防や回復のプログラムとして活用され、今後もその広がりが大きく期待できるものです。

児童相談所や児童養護施設では取り入れられてきていることは知っていましたが、保育園や学校現場でも活用されてきているとは知りませんでした。まぁ、それでもまだまだ普及はしていないのでしょうけれど。

うちに来る実習生に知っているかどうか聞いてみても知らない学生ばかりです。

もっと広がっていくといいですね。

特に施設では必要な技術の1つです。

他業種の取り組みをしり、よい刺激を受けた研修でした。

芦田愛菜が出演している日本テレビのドラマ。

施設関係者のなかでは大きな波紋をよんでいる。私も言いたいことがたくさんある。

芦田愛菜の演技が凄い!とか、野島伸司らしいとか。

そんなことではなくて…

あれは確実に権利侵害だと思う。

以前木村拓哉が主演した児童養護施設が舞台のドラマがありました。あのドラマは施設関係者からは「実際はあんなんじゃない」「現実はもっと厳しい」「誤解をうむのでは」などそういう意見が出ていました。

でも、エンターテイメントとして観ると面白かったですし、子どもたちや職員の肯定的な面も描かれていて施設出身者の立場からも施設職員の立場からもまだ許せる内容でした。

しかし、「明日ママがいない」は公共の電波を用いた暴力としか思えない。フィクションだろうし、エンターテイメントなのだろう。法律上も問題ないのだろう。ただ、あれを観た施設出身者や今入所している子ども、施設職員の大勢はとても傷ついているに違いない。施設に預けている親だって預けたくて預けたくてわけではない親もいる。保護者を全面的に肯定するわけじゃないけど、傷ついている保護者も多いと思う。

施設の子どもも学校に通っていること、あれを観た生徒やその保護者、教師その他もろもろの関係者がどのような目で施設に入所している子どもや施設職員を見るかということを製作者は全く考えていないと思う。

世間に対する絶大な影響力を持つテレビだからこそ、話題になればいい、面白ければいいではなく、弱者やマイノリティの声にも敏感になるべきだと思う。




あれは絶対権利侵害だ。

今、改めて問いたい。

『なんのための小規模化なのか?』

これがわかっていない施設がとてもに多い。

形だけ小規模化、ユニット化し、見た目だけ「家っぽく」なっている施設。

中身はなんにも変っていない施設。

形は立派な家なのに…

個別化を担保するための小規模化ってことわかってますか?


先日、うちに来た実習生が

「アットホームで、子ども一人ひとりに合わせた対応をしていて本当のお家のような生活をしていてびっくりしました(従来の施設のイメージと違い)」

この言葉は嬉しかった。

小規模化して個別化を意識した関わりができているからだと思う。

一人ひとりきめ細かく見やすい建物になって、一人ひとりの状況に合わせた対応を意識しているからだと思う。

正直、小規模化したことで、子どもも大人に甘えや要求を出しやすくなって、時にはそれに応えることが大変な時もあり、話し合って折りあいをつけていくことがすごく難しいこともあるが。

施設はどこまでいっても施設なので、施設っぽいところはあるのだけれど…(毎月、保菌検査や避難訓練行うとか家庭的養育目指しているならいらないでしょとか思う)

なんのための小規模化なのか?

少なくてもうちはそれを意識した関わりができていると思う。

現在、児童養護施設では、苦情解決の仕組みができています。今日現在でも全くできていない、または、仕組みはあったとしても全く機能していない施設は当然のようにあるんでしょうが。

苦情解決の「仕組み」とは、たとえば意見箱を設置して子どもの声を拾う「仕組み」であったり、子どもが主体的に運営する自治会という「仕組み」などのことです。この業界の人ならば当然知っているべき「仕組み」のことです。

ただね。ずっと前から思っていたことがあるんです。子どもの声に向き合うことというのは、そういう「仕組み」を整備することではないんですよ。意見箱だったり、自治会というのはあくまで子どもの声を運営に伝えるツールなだけなんだす。

裏を返せば、そのような「仕組み」を規定しなければ、子どもの声が拾えないという現状があるということなんです。

本来ならば、日常の中で子どもとのコミュニケーションの中で子どもの声を拾っていくべきなんです。そして、日常の中で子どもたちの声に向き合っていくべきなんです。

それができないから、意見箱など自治会などという「仕組み」が必要となっているんです。一見、素晴らしき仕組みですが、実は悲しきことなんですね。

ただ、子どもの声に向き合うことというのは、なんでもかんでも子どもの意見を聞く(叶える)ということではありません。子どもの声に真摯に向き合いしっかりと丁寧に応えていくということだと思うのです。時には、子どもの意見が正しいこともあります。その時は素直にその意見を認めましょう。時には、子どもの意見が間違っていることがあります。その時は毅然とした態度で間違っていることとを伝えましょう。時には、判断に迷う意見の時があります。その時は、ちょうどいい線を一緒に話し合って折りあいをつけていきましょう。

「うちの施設は意見箱をしっかりと設置して、しっかりと回答していますよ(当然ですが)」という施設があったとしても、それで満足していたらだめだと思うんです。

意見箱に意見が寄せられる時点で、普段のコミュニケーションの中で十分に子どもの声を拾えていない、向き合えていないと思うのです。だって、普段から子どもとよくコミュニケーションをとって子どもの声と真摯に向き合っていれば、子どもは意見箱というツールを使う必要がないでしょう。と思うのです。

そんなこんなで私の施設にも意見箱に意見や要望が書きこまれ、その紙と向き合いながらそんなことを思う今日この頃です。

私は体育会系の施設職員が大っっ嫌い!!

体育会系とひとくくりにしてしまうのはよくないことですが。。。

先日、ある児童養護施設を訪問する機会がありました。

その施設の玄関で挨拶をし、用事がある職員を玄関先で待っている時の話です。

私は玄関ホールの端っこにいて、職員室がある廊下(いわゆる昔の施設の作りなんですね)からはちょうど見えない位置にいました。

私が玄関ホールで待っていると、そこの施設の子どもが話しかけてきました。挨拶を交わし雑談をしていると、職員室から体育会系職員が出てきて「おい、何してんだよ!」と突然偉そうに威圧感たっぷりに出てきました。しかし、玄関にいる私に気づくと「あ、こんにちは」と何事もなかったかのように去って行きました。

「あ〜普段からこういう関わりをしているんだな」と思ってしまう場面でした。

なぜこれが体育会系と関わりがあるのかと言うと、その職員が施設内のスポーツ指導(これまた古い考えです)に力を入れていることで有名な職員だからです。もちろん、普段からジャージ姿です。

とにかく私は体育会系児童養護施設職員が嫌いです。それは、彼らの多くが訪問した施設の職員のようにケアワーカーではなく古き悪しき「指導員」であることを体験的に目にしてしまっているからです。

私は焼酎が苦手なんですが、ダバダ火振りは大好きです。

高知県の焼酎で、芋でも麦でもなく「栗焼酎」なんです。

今までは個人経営の居酒屋でたまに見つけては、テンションがあがって注文していたのですが、ついにネットで一升瓶を購入してしまいました。

これからは家でダバダ火振り三昧だあ!

というお酒好きの私。。。

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