きっかけはコロナ感染でした。38度の発熱で検査陽性でしたが入院を拒否され、高齢の母が主に看病することに(その回避のため入院を検討したのですがかなわず)。
病院の見立て通りコロナからの回復は順調で、都の基準通りに療養解除。しかしその時から食欲がほぼゼロになり、衰弱していきました。
父の強い希望で手術や入院は拒否、母と私も胃ろうなどは反対だったため、在宅での介護・医療となりました。
しかし手首からの点滴は水分しか補給できないため、食欲ゼロ近辺の父には回復の見込みがなくなりました。直前まで元気に働いていた父だけに、ギリギリまで食欲の回復を期待していたのですが、かないませんでした。
最後は母の決断で点滴を外してもらい、そのまま数日内に息を引き取りました。
最近ネット界隈で言われるようになった、日本で行われがちな拷問延命ではなく、スウェーデン型の看取りができたのです。眠ったまま息を引き取るような、穏やかな最期でした。
担当の医師や看護師も本人や家族の意思を好意的に受け入れてくださり、医師は点滴を外すと苦痛が治まることを母に説明してくれました。(私も読んで知った知識があるとはいえ、それが目の前の父に適用できるかどうかは医師でないとわからないので、医師のお墨付きは大変心強かった)
ほぼ平均寿命とはいえ自分の父親で、毎日共に働いて来た仲ですから葛藤がないといえば嘘になるけど、やはり命は必ず尽きるものだし、他に選択肢もなかったと思います。自宅で家族に看取られ、80半ばで逝くのは、客観的に見て良い死に方だったと感じます。80年の生き様、最期の受け入れも含め立派な人生でした。
兄弟の中には私が医療不信の非科学野郎で適切な治療を断ろうとしているなどと考えているーというか露骨に話してるのも聞いたしー人間もいましたけど、最終的には母が点滴による苦痛からの解放を決断し、それを医師も医学的見地から支持するというハッピーな経路で決着できました。
それでも、父は倒れる前から認知症が始まっていたし、まして寝込んでしまってからの意思確認は怪しいものがありました。自分の置かれた状況を把握できてるのか、入院しないということがどういう結果をもたらすか本当に理解できているのか。その辺を周囲が言い争えばなかなか難しいものがあったわけです。
こういう時に、専門家としての医師がしっかりしてくれないと大変なことになるんだなと実感します。まして、延命治療で儲けたいなどという願望が入ってたりすれば…
しかし今般の、病院側が不要不急の入院に及び腰ということもあるせいか、また担当医による違いも大きいかもしれないけど、医療が拷問延命をゴリ押ししてくるというようなことは、私の経験からは感じ取れませんでしたね。大事なのは患者側の意思と知識だと思います。
人生にイフはありません。あくまで仮定の話になりますが…もしも父を医療漬けにして延命したら、年単位の闘病生活やそれを見守る手間と苦痛に耐えかねて、父との別れはもっと複雑なものになった気がします。
生きていればお互い不満もあります。でも生涯現役を貫き、最後は謝罪と感謝の言葉ばかり発していた病床の父。その父に、私はもっとありがとうと言いたかった。何度も何度も言いたかった。
でもやれるだけのことはできたと思います。それ以上できるかなんて、身の丈に合わないことを考えても仕方ない。十分にやり抜いたと思います。家内や子供たちも全力で支えてくれた。本当に良い看取りができました。
死後に父の書き残した日記が見つかり、生前からかなり無理をしていた様子が窺えました。私の父らしく、誰にもこぼさずに苦痛と戦っていたわけです。コロナのせいとか、そういう軽い話じゃないです。父は自分の肉体を使い切り、人生を全うしました。老衰という死因には納得感しかないのです。
老人医療、延命治療、コロナ対策、看取りのあり方、私のTwitter界隈で毎日たくさんの意見が交わされます。その実例の一つとして、父の死を見つめた私の感想を記してみました。
最後まで読んでいただきありがとう。私は父の遺したものを受け取って自分の人生の残りを堪能していきます。