サルナシの掘り掘り日記 ~越後黄金山の砂金を訪ねて~

 かつて越後黄金山と呼ばれた新潟県北部の産金地帯を探ってきました。  砂金、砂白金、アンモ、ヒスイ、水晶・・・  過去、そしてこれからと、愛機ジムニーとともに石を求めてあちこちの山を歩いた思い出日記を少しずつアップしていきます。  時にゆかしきもの・おかしきものを通した妄想世界にみなさまをご案内致します。

ナミビア エロンゴ山地のアクアマリン

■Aquamarine Erongo Mountains, Karibib, Erongo Region, Namibia. 

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標本のサイズ(約):5mm×8mm×18mm 7.65ct 

 アクアマリンは海水のような淡い水色と透明感を持った緑柱石(ベリル)のことです。主な産地はブラジル、スリランカ、マダガスカル、ロシア、パキスタン、アフガニスタン、インドなど。標本として国内で目にするのはパキスタン産が圧倒的に多く、次にブラジル産、アフガニスタン産、ナミビア、ナイジェリア、ベトナム産などです。
 ラベル表記を和訳すると、「ナミビア,エロンゴ州,カリビブ,エロンゴ山地のアクアマリン」と、なります。
 エロンゴのアクアマリンは神秘的な青みが魅力です。

■ナミビアと鉱物
 ナミビアはアフリカの南西部にある国で人口250万人、人種構成は黒人が90%近くを占め白人は10%に満たないという黒人社会です。かつてドイツとイギリスの植民地であったためその影響が残っています。
 鉱物資源はナミビアにとって最も重要な国家収入であり、経済の柱となっています。なかでもダイヤモンド(漂砂鉱床)とウランが大きな割合を占めています。1990年の独立後に設立された「鉱山・エネルギー省」が鉱物資源を管理しています。

■エロンゴ山地の地質
 ナミビアは5.6億年昔、先カンブリア時代の激しく変成作用を受けた花崗岩帯に広く覆われています。

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 産地として記載されているエロンゴ山地は北西から東南の方向へ200kmに及ぶ先カンブリア紀のペグマタイト脈の中に位置します。このペグマタイト脈は錫、タングステン、タンタル等の金属資源とトルマリン、アクアマリン等の宝石を産します。

■エロンゴ山地での採掘
 エロンゴ山地は世界で最も乾燥しているナミブ砂漠北部に位置します。
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 麓は道路も無い無人地帯で、鉱夫達は個人または小さなグループで水・食料と採掘用の工具を携え危険な急斜面を500m近く登って採掘エリアに達します。
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 ナミビアでの鉱物採取は政府や外資が管理する鉱山地域以外では基本的に自由で、エロンゴ山地の場合も同様です。しかし、宝石採掘の鉱夫達の採掘道具は小型電動ドリルまでで、ダイナマイト等を使った破壊的な採掘は厳しく禁じられています。
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 採掘活動は数日から数週間に渡り、うだるようなナミビアの太陽の下、危険な斜面でハンマーとたがねを使ってペグマタイト脈やポケットを探します。ペグマタイト脈が見付かると今度はタヌキ掘りで脈を掘り進めながら採掘を行います。
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 このような過酷な条件下の長時間労働によって煙水晶、蛍石、トルマリン、アクアマリンなどの宝石が掘り出されています。
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 採掘した標本は露店や地元のオープンフェアに並び、ナミビアに常住する世界各地からの鉱物商がそこで標本を物色します。
 ミネラルショーに並ぶエロンゴのアクアマリンはこうやって掘り出され、買い付けられて日本にやってきているのです。

画像転載:Smallminer in Namibia - English Version (youtube.com)


海軍折メス その● 折メスと紐の支給数と交換期限について

新しい事実が判明しましたので、付け加えます。
■供与数と交換期限

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 明治・大正と下士卒に供与された折メスですが、分類上「被服」ということを考えれば、当然そこには支給定数と交換期限があるはずです。それに関する公文書がなかなか見つからなかったのですが、なんとか記述されている部分を見つけることができました。以下の通りです。

■国産折メスの支給が始まった明治10年代
 明治16年官報146号付録海軍省丙第115号達別冊の海軍下士以下被服給与概則には折メスの支給対象が「二等・三等兵曹、水兵、信号夫、船艙夫、帆縫夫、造綱夫」と詳細に記されています。そのなかで支給定数は「折メス」2丁、「紐」2本、交換期限については「折メス」「紐」ともに1年6カ月とあります。


■明治中期

 明治23年勅令65号による海軍被服条例には被服・菱食という項目があり、その中の下士卒への被服交付表には折メスは「兵曹、水兵に限る」とあります。ここでは支給定数は「折メス」1丁、「紐」2本、交換期限については「折メス」「紐」ともに1年6カ月とあります。

■明治末
 公文書ではありませんが、明治43年の「最近海軍宝典(佐々木新之承海軍兵曹)」という書籍では支給定数は「折メス」1丁、「紐」2本、交換期限については「折メス」は2年、「紐」は1年6カ月あります。
 同じく公文書ではありませんが明治44年の「海軍下士卒必携届願便覧(岩石一郎編)」には支給定数は「折メス」1丁、「紐」3本、交換期限については「折メス」、「紐」ともに3年とあります。


■折メスの支給の廃止
 大正11年勅令第226号では同服制中折「メス」(水兵ニ限ル)ノ項ヲ削ル・同図中折メスノ図ヲ削ルとあり、折メスの支給が終わります。

■考察
 明治10年代に折メスの支給数は2丁で始まりましたが、明治中期以降は1丁になっています。過去の記事で紹介したとおり、初期の軍艦は鉄骨木皮船体です。甲板は木材やロープだらけで折メスが活躍する場面が多かったはずです。

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破損を報告した公文書http://blog.livedoor.jp/gogomogutan/archives/10424359.htmlも残されています。やがて製造技術の向上http://blog.livedoor.jp/gogomogutan/archives/10428192.htmlで破損が減るとともに支給数は減ったと推察されます。

 紐は逆に支給本数が2本から3本に増えています。こちらも過去の記事で紹介したとおり、作業中に紐が切れて折メスを海中に落下させ紛失する事故http://blog.livedoor.jp/gogomogutan/archives/10457262.htmlを含め紐の切断は結構あったようです。重量のある折メスを吊す紐は消耗が早かったと思われます。

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 交換期限については明治末になると折メスはそれまでの1年6カ月から2年、そして3年と急に延長されています。これは軍艦の近代化で鋼鉄艦となり折メスが必要とされる場面が減り、消耗の度合いが減ったことが原因と考えられます。

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 1年6カ月が交換期限だった紐もその時点で3年になっています。

■交換期限と数について
 被服関係の物品(折メスも被服)はそれぞれ期限があって交換するようになっていましたが、それは一品ずつ交換するということです。つまり3着あるものは期限ごとに1着ずつ新品と交換するものであって支給された3着を同時に交換するということではありません。

陸軍御用達商店 藤丸屋の徳利 銘酒大関

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 「陸軍御用達」の文字がカッコイイ古い徳利。貫入が全体に入りいい感じです。
電話番号は435番の3桁。3桁の電話番号は手動交換機時代を意味します。東京と横浜で電話交換サービスが始まったのが明治23年のこと。
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やがて大正15年になると電話交換の自動化が始まり、電話番号は局番+4桁の加入者番号になっていきます。電話交換の自動化は、大都市で少しずつ切り替えられていきました。
 「大関」は One CUPで有名な大関酒造が製造する清酒の酒銘です。
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大関酒造は正徳元年に灘五郷の一つである今津郷で創業を開始しました。当初の酒銘は「萬両」でしたが、大相撲の大関が横綱に次ぐ番付であることから、「更に上を目指す」という意味を込め、明治17年より「大関」としています。

 以上のことから恐らくこの徳利は明治~大正期に作られたものと思われます。陸軍にお酒を納めていた「藤丸屋」はどこにあった商店なのでしょう?調べてみましたが分かりませんでした。
高さ28cm


海軍 艦隊旗艦の艦内居室表示銘板 / 古物談義

■艦内「長官休憩室」「士官休憩室」銘板

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 この銘板は旧家から幾つかの海軍関係の品々と一緒に出たものです。右書きで浮き文字、材質は真鍮で出来ており、大きさは18.5cm× 5.5cm、重さ約210g
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 上の表は大正10年改正の艦船造修規則(艦船内諸室諸倉庫等の名称を定めたもの)第63条の一部ですが、その中に「長官休憩室」「士官休憩室」の名称が確認できます。
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また、「諸室諸倉庫の名称は真鍮版に刻記(年代によっては標記)し」とあります。つまり、これらは艦内の部屋の表示として使われていたものです。明治・大正期の艦船造修規則には「真鍮」・・・・・と書かれていることから本品は古い時代のものと思われます

■軍艦の部屋
 軍艦内には「艦長室」から「厠」、「米麦庫」に至るまでたくさんの部屋や倉庫がありました。そのうち居室は「公室」と「私室」に区別されていました。
 「公室」は来賓接見、軍議、同僚との会合などに使用されるもので、「長官公室」「艦長公室」「士官室」「士官次室」「准士官室」などがあります。そのうち「士官室」は副長以下大尉以上の会合、「士官次室」は中尉以下候補生の会合、「准士官室」は兵曹長以下准士官の会合に使用され、食事もここで行われました。
 「私室」を持てるのは司令長官、艦長、副長以下大尉相当官までで、中尉以下候補生は「私室」は与えられませんでした。ただし、兵曹長と准士官には私室が与えられました。
 長官に関わる部屋を拾い出すと「長官公室」「長官室」「長官寝室」「長官休憩室」・・士官に関わる部屋は「士官室」「士官寝室」「士官休憩室」です。

■考察① どの艦の銘板か?
 この2つの銘板は形状も同じことから同一艦のものと思われます。今となってはどの艦のものか分かりませんが、「長官=司令長官」の部屋があるということは、この銘板の艦が「艦隊旗艦」に相当するフネだったということになります。
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 因みに「艦隊」とは海軍の部隊単位の一つで、幾つかの「戦隊」から構成され、「艦隊」の旗艦には「司令長官」が座乗します。「戦隊」の旗艦には「司令官」が座乗します。基本的に「戦隊」は、同型艦を集めて構成・運用します。「連合艦隊」は2個以上の「艦隊」で構成された帝国海軍の中核部隊です。

■考察② 具体的艦名は?
 さらに部品(2つの銘板)が現存しているという点で絞り込むと、「艦隊旗艦」を務めた経歴を持つ艦のうち現存しているもの、老朽化で廃艦・解体となったもの、または終戦時残存(大破着底も含む)していて、その後解体されたものとなります。

 該当しそうな艦は、「三笠(戦艦)」日露戦争連合艦隊旗艦第一艦隊一番艦 司令長官 東郷平八郎大将」→大正12年、除籍 記念艦として横須賀に現存 
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「出雲(装甲巡洋艦)」日露戦争第二艦隊旗艦 第二戦隊旗艦 司令長官 上村彦之丞中将 / 支那事変第三艦隊旗艦 第十戦隊旗艦 司令長官 長谷川清中将」→昭和20年、呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底 戦後解体 
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「周防(戦艦)」第一次世界大戦(青島の戦い)第二艦隊旗艦 第二戦隊旗艦 司令長官 加藤定吉中将」→大正11年除籍 呉海軍工廠の繋留堀にて解体作業中、漏水のため転覆 三ツ子島に曳航されて護岸用として自沈 
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「厳島(防護巡洋艦)」日露戦争第三艦隊旗艦 第五戦隊旗艦 司令長官 片岡七郎中将 / 日露戦争樺太作戦第四艦隊旗艦 第七戦隊旗艦 司令長官 出羽重遠中将」→大正8年、除籍 大正14年、舞鶴飯野商事会社呉支店に売却 大正15年、呉吉浦で解体 
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「八雲(装甲巡洋艦)」日露戦争樺太作戦第三艦隊旗艦 第五戦隊旗艦 司令長官 片岡七郎中将」→昭和21年、日立造船舞鶴造船所で解体
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 この5隻のなかに銘板の主が居るはずです。

■各艦の目覚ましい働き
「三笠」・・・連合艦隊は日本海海戦では戦力の劣勢をカバーするため敵前T字戦法を実行、激戦の末ロシアバルチック艦隊を撃破しました。
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「出雲」・・・上村率いる第二戦隊は蔚山沖海戦でウラジオ艦隊の装甲巡洋艦「リューリク」を撃沈します。撃沈されたリューリクは日本の商船を多数撃沈しており、恨みの深い相手でしたが、沈みながらも味方艦を逃がすために砲撃を続ける姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助に当たりました。
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「周防」・・・青島の戦い(第一次世界大戦)では陸軍第18師団と第二艦隊が投入されました。18師団は最新鋭の移動可能な攻城砲四五式二十糎榴弾砲をはじめとする重火器による砲撃、第二艦隊は隷下の旧式戦艦を駆使して青島要塞に激烈な艦砲射撃を仕掛け要塞を無力化、陥落に貢献しました。
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「厳島」・・・第三艦隊は日本海海戦においてバルチック艦隊発見を受電して急行、その後バルチック艦隊と並走して東郷平八郎司令長官に向け、正確な位置、隊形、針路などを詳細に通報し、海戦の前座を見事に務めました。

「八雲」・・・日本海海戦では第二戦隊に所属し、第一戦隊とともにバルチック艦隊を迎え撃ち、敵艦アドミラル・ウシャーコフを撃沈するなどの活躍を見せました。樺太作戦の護衛、青島の戦いにも参加しています。
 太平洋戦争末期の呉軍港空襲にも生き残り、終戦時には中破状態ながら航行可能だったため、復員輸送に使用(下画像)されました。
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 「出雲」や「八雲」は日露戦争から終戦まで実に45年以上も現役で働きました。

■現存数が少ない軍艦のパーツ
 昔も今も金属資源は貴重です。老朽化して廃艦となった艦の装備で使えるものは転用、解体スクラップは金属資源としてリサイクルされました。海戦で失われた艦はそのまま海の底です。終戦時の残存艦艇は復興資材原料として民間に売却され、次々に解体されて溶かされていきました。
 そういう訳で現在、軍艦のパーツはほとんど現存していません。

■結論
 二枚の銘板の主は「三笠」「出雲」「周防」「厳島」「八雲」のいずれかの艦です。銘板からの絞り込みはここまでとなります。
 いずれの艦も「ここ一番」の重要な場面で大変よく働いた武功艦でした。


海軍 艦砲射撃優等章 / 古物談義

■艦砲射撃優等章 

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■艦砲射撃優等章の沿革 敷島 出雲 
 明治40年、海軍は「艦砲射手優等章」を制定します。海軍の優等章には「艦砲」、「魚雷」、「機雷」、「通信」、「航空」。「機関」など、様々な技術領域のものがありますが、「艦砲」は最も早く制定されました。そこには日露戦争時の日本海海戦で確立された「大艦巨砲」と「艦隊決戦」を至上とする海軍の姿勢が見て取れます。
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m40 艦砲射手優等章

同年制定の「艦砲射撃褒章令施行規則」によると、検定射撃において成績優秀な射手に褒状及び賞を授け「艦砲射手優等章」を付与するとあります。
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そして、3回続けて優等章の成績を得ると「艦砲射撃優等徽章」が授与されます。
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因みに「艦砲射撃優等徽章」は、もともと明治32年に「艦砲懸賞射撃優等射手徽章」という名称で制定され、明治40年に「艦砲射撃優等徽章」と改められました。
艦砲射撃優等徽章

「艦砲射手優等章」は、明治44年に「艦砲射撃優等章」と改められます。
m44 射手優等章名称変更

艦砲射撃優等章

「艦砲射手優等章」も「艦砲射撃優等賞」も徽章そのものの形状・サイズ・材質に変化は無く、地金は銅を使用し、桜花と錨は金色、砲弾は銅色になっています。違いは共箱の文字で、それぞれ「艦砲射手優等章」と「艦砲射撃優等賞」となっています.

■艦砲射撃は究極の職人技
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 艦砲射撃は相手艦までの方位・距離をもとに空気抵抗や高度によって微妙に変化する風向・風力・気圧などを加味した複雑怪奇な弾道計算を行い、砲はそれに応じた方位および高角を採らなければなりません。
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 ここまでは陸上砲も同じですが、軍艦は海に浮いているので 艦の動揺もあれば上下動もありますし、左右への振れ回りもあります。よって水平面に対し常に複雑に変化する艦上の砲を計算された方位および高角に合わせるという高等技術が要求されます。
 さらに射撃艦も相手艦も運動し、目標の位置が刻々と変化するので、「見越し」という要素が必要となってきます。これら全てを弾の飛び交う中、風が吹く中、波・しぶきをかぶり、砲煙を浴びながらアナログのマンパワーで行っていたのですからまさに究極の職人技です。
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 帝国海軍はこの技を日夜ひたすらに練磨し、究極まで高めたのでした。
*画像は昭和15年支那事変における軍艦「出雲」と主砲及び側砲砲員の射撃の様子

■画像の「艦砲射撃優等章」について
 これまで述べてきた沿革と共箱の「艦砲射撃優等章」の文字から、この徽章が明治44年に改正された「艦砲射撃優等章」であることが分かります。
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 海軍の優等賞は数が少なく共箱付きとなるとなかなかお目にかかれません。本品は使用痕のない非常に状態の良い個体で、大切に保管されていたものと思われます。
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 残念ながら乗組んでいた艦名や持ち主の履歴などに関する情報やお話は得られませんでした。

*転載:海軍制度沿革


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