シカゴ・カブスがリーグ選手権逆転優勝で71年振りのワールドシリーズ進出を決めた。
第2・第3戦の連続完封で1勝2敗となった時点では、ファンの間に「今年もダメか」と、諦めムードが漂ったものだった。不振を極めた打線の中でも深刻だったのが主砲のアンソニー・リゾー(リーグ選手権第3戦まで26打数2安打)と、レギュラーシーズン95打点と勝負強さを発揮したアディソン・ラッセル(同じく24打数1安打)だった。
スランプに陥っていた二人のバットに火がついたきっかけが、チームメート、マット・シーザーからの「借り物」にあったことは日本でも報道されたので読者もよくご存知だろう。リゾーはバットを、ラッセルは下着(英語の報道では「underware」としか書いてないので、どの部分の下着であったかは不明)を借りた途端に、第4-6戦、それぞれ14打数7安打2本塁打、13打数6安打2本塁打と打棒が復活したのである。
では、なぜシーザーからの借り物にそれだけのご利益があったのかというと、それは、私の見るところ、彼が施してきた「功徳」のたまものであったに違いないので、今回はその辺りを説明しよう。
シーザーがビラノバ大学に入学したのは2007年。すぐに、フットボールと野球の両チームでスター選手として活躍し始めた。骨髄移植ドナーの登録をしたのは2008年。特に深い考えもなくフットボール部の監督が熱心に行っていたチャリティ活動に協力したのである。ドナーになる確率は8万分の1、自分の骨髄が必要とされることがあるなど夢にも思っていなかった。
「適合」となって自分の骨髄を必要としている患者がいると知らされたのは、翌2009年のことだった。「どういった患者であるのかは教えることができないし、(患者の病態次第なので)いつ必要となるのかも全くわからない。それでもドナーとなってくれるか?」と聞かれ、二つ返事で「もちろん」と答えたのだった。移植前に血球を増やすための薬剤を使用するので脾臓が腫大し、コンタクトスポーツの選手の場合脾臓破裂の危険があること、処置の後少なくとも三週間は激しい運動はできないことの説明も受けたが、すべてを承知した上で同意したのだった。
「これから移植を行う」と連絡があったのは2010年5月、MLBドラフトのひと月前だった。プロのスカウト達がとりわけ注目する時期に3週間欠場した場合、契約金が下がったり、ドラフトされなかったりするリスクを冒すことになるのは百も承知だった。しかし、世界のどこかで自分の骨髄を待つ、死にかけている患者がいるというのに見捨てることなどできるはずはなかった。
骨髄を提供した3週後、チームに復帰したシーザーは第1打席で本塁打を放ってスカウト達に実力をアピールした。1週後のドラフトで、第5巡に指名したのはカブスだった。
レシピエントが3歳のウクライナの少女、アナスタージアだとわかったのは翌年のことだった。アナスタージアが白血病と診断されたのは生後3ヶ月。助かる術は骨髄移植以外になかったのにウクライナでは骨髄移植は行われていず、医師達は両親に対し「諦めて次の子を作りなさい」と勧めたほどだった。しかし、諦めることができなかった両親はイスラエルに渡って移植の可能性を探った。そして、幸運にも移植ドナー登録者の中に「適合者」がいることを知らされたのだった。
シーザーは、スカイプを通じて、初めて、アナスタージア一家と対面した。元気なアナスタージアの愛くるしい姿を見るだけで喜びがこみ上げたが、と同時に、不治の病と闘ってきた一家の苦労に比べたら、自分のマイナーリーグでの苦労など苦労のうちに入らないと思わざるを得なかった。その後、折に触れて一家と近況を伝えあったが、やがて一切の音信が途絶えるようになった。東ウクライナにロシアが侵攻した直後からだった。
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