『フレッド・アステア自伝 Steps in Time』と『ジンジャー・ロジャース自伝』を続けて読んだ。
しまった、ロジャース自伝は書影を撮っておくのだった。
図書館で借りて読んで、すでに返却済みで、記憶を頼りに書くので、じゃっかん不正確なところがあるかもしれない。
アステア自伝では「ロジャーズ」となっていたが、本稿では「ロジャース」としておく。
『フレッド・アステア自伝』は2006年の発行だが、原書の発行は1959年。その間、日本人でも英文の読める熱心なアステアファンは原書を読むことがあったのだろうが、五十年近く経ってやっと日本語訳で読めるようになったわけだ。ありがたいことで、出版した青土社はえらい。
フレッド・アステアのダンスはよく「華麗」と言われるが、アステアのダンスの魅力を一語で言い表すとしたら、私なら「軽妙洒脱」と言いたい。そしてこの本の文章もまた軽妙洒脱である。まるで、アステアの声が聞こえて来るかのような訳文。訳者はもともとアステアの大ファンだったそうで、そういう人だからこそできた訳業だろう。
アステアは映画界に入る前はお姉さんとのコンビで舞台で活躍していたのだが、この本を読むと、お姉さんのアデールが舞台のダンサー・俳優として傑出した人だったことが想像できる。
『ジンジャー・ロジャース自伝』は、なにか事件が起こったときの語り口にぐいぐいひきこまれてしまう。本人が完全に一人で書いたのか、手を貸した人がいるのかわからないが、この文章の力量はかなりのものだと思う。
ジンジャーには「有名なステージママ」がいたと言われ、そこにはいくらかネガティブなニュアンスが感じられたが、この本を読んだらそれは払拭された。風評よりもジンジャーの言葉を重んじたい。
ジンジャーと母のレラはクリスチャン・サイエンス(キリスト教の信仰治療主義の一派)の信者であり、精神療法師の祈りやアドバイスによって病気が治るような話が何度か出てくる。私は普段そのての話には距離をおきたいたちだが、読んでいてあまり抵抗は感じなかった。
アステアの自伝では、話題に出た人が不利をこうむるようなことがほとんど書かれてなく、これはアステアの人柄によるものだろう。それにくらべるとジンジャーは、冷徹にありのままを書いている。
たとえば。『ブロードウェイのバークレー夫妻』でアステアの相手役はジュディ・ガーランドが予定されていたが、ジュディが出られなくなりジンジャーが代わりを務めることになった。これをアステアはジュディが病気で出られなくなったと書いているが、ジンジャーはジュディが降ろされたと書いている(降ろされた理由には病気が関係しているかもしれないが)。こういうところは、(悪意はないのだろうけれど)ずけずけと書いているジンジャーの本のほうが、当時の映画界の機微が伝わってきておもしろい。
このような言い方の違いにすぎないものではなく、もっと大きなくいちがいもあったと思った。記憶が曖昧なので具体的な話は省略するが、そこがおもしろいところでもあり、肝要なところでもあるので、識者か熱心なファンが整理して書いてくれることを期待する。
アステア&ロジャースの映画を五本監督したマーク・サンドリッチはアステアにくらべてロジャースのことを軽んじるため、ジンジャーはこの監督が嫌いなようだ。アステアとの共演作でジンジャーが一番好きなのは『有頂天時代』とのこと。
ジンジャーはアステアのことを高く評価しているが、自分が「アステアの相手役」としてばかり見られることには我慢がならないようだ。ここではアステアとジンジャーのことを一緒に書いたが、そこは誤解してないつもり。
『気儘時代』より、ダンスシーン。
しまった、ロジャース自伝は書影を撮っておくのだった。
図書館で借りて読んで、すでに返却済みで、記憶を頼りに書くので、じゃっかん不正確なところがあるかもしれない。
アステア自伝では「ロジャーズ」となっていたが、本稿では「ロジャース」としておく。
『フレッド・アステア自伝』は2006年の発行だが、原書の発行は1959年。その間、日本人でも英文の読める熱心なアステアファンは原書を読むことがあったのだろうが、五十年近く経ってやっと日本語訳で読めるようになったわけだ。ありがたいことで、出版した青土社はえらい。
フレッド・アステアのダンスはよく「華麗」と言われるが、アステアのダンスの魅力を一語で言い表すとしたら、私なら「軽妙洒脱」と言いたい。そしてこの本の文章もまた軽妙洒脱である。まるで、アステアの声が聞こえて来るかのような訳文。訳者はもともとアステアの大ファンだったそうで、そういう人だからこそできた訳業だろう。
アステアは映画界に入る前はお姉さんとのコンビで舞台で活躍していたのだが、この本を読むと、お姉さんのアデールが舞台のダンサー・俳優として傑出した人だったことが想像できる。
『ジンジャー・ロジャース自伝』は、なにか事件が起こったときの語り口にぐいぐいひきこまれてしまう。本人が完全に一人で書いたのか、手を貸した人がいるのかわからないが、この文章の力量はかなりのものだと思う。
ジンジャーには「有名なステージママ」がいたと言われ、そこにはいくらかネガティブなニュアンスが感じられたが、この本を読んだらそれは払拭された。風評よりもジンジャーの言葉を重んじたい。
ジンジャーと母のレラはクリスチャン・サイエンス(キリスト教の信仰治療主義の一派)の信者であり、精神療法師の祈りやアドバイスによって病気が治るような話が何度か出てくる。私は普段そのての話には距離をおきたいたちだが、読んでいてあまり抵抗は感じなかった。
アステアの自伝では、話題に出た人が不利をこうむるようなことがほとんど書かれてなく、これはアステアの人柄によるものだろう。それにくらべるとジンジャーは、冷徹にありのままを書いている。
たとえば。『ブロードウェイのバークレー夫妻』でアステアの相手役はジュディ・ガーランドが予定されていたが、ジュディが出られなくなりジンジャーが代わりを務めることになった。これをアステアはジュディが病気で出られなくなったと書いているが、ジンジャーはジュディが降ろされたと書いている(降ろされた理由には病気が関係しているかもしれないが)。こういうところは、(悪意はないのだろうけれど)ずけずけと書いているジンジャーの本のほうが、当時の映画界の機微が伝わってきておもしろい。
このような言い方の違いにすぎないものではなく、もっと大きなくいちがいもあったと思った。記憶が曖昧なので具体的な話は省略するが、そこがおもしろいところでもあり、肝要なところでもあるので、識者か熱心なファンが整理して書いてくれることを期待する。
アステア&ロジャースの映画を五本監督したマーク・サンドリッチはアステアにくらべてロジャースのことを軽んじるため、ジンジャーはこの監督が嫌いなようだ。アステアとの共演作でジンジャーが一番好きなのは『有頂天時代』とのこと。
ジンジャーはアステアのことを高く評価しているが、自分が「アステアの相手役」としてばかり見られることには我慢がならないようだ。ここではアステアとジンジャーのことを一緒に書いたが、そこは誤解してないつもり。
『気儘時代』より、ダンスシーン。