July 26, 2023
物理(学)帝国主義についての追補
前回の記事で「その後朝永が桑原に確認を本当にとったのかどうか、その結果がどうだったのかということは少し調べただけではわからない。」と書いたが、これについて同じ著作集の中にそれについての言及があることをご指摘いただいたので追補したい。
朝永は前回紹介した講演の4ヶ月後、桑原と同席したセミナーで事実関係を確認している。このときの講演とその後の総合討論はそれぞれ「物理学と私」「科学と私」というタイトルで朝永の著作集に収録されている。
「物理学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、pp.129-172.
「科学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、173-211.
これは1977年7月19日から20日にかけておこなわれた「東京理科大学特別教室セミナー」で、朝永の講演は19日に、討論は19-20日に行われた模様である。討論の方でも一回朝永が「物理学帝国主義」という言葉を使っている(p.204)が、特に桑原が反応していたりもしないので、ここでは講演および質疑の方のみ紹介する。
この講演の中で、朝永は、物理学帝国主義とそれへの批判についてひとくさり述べたあと、以下のように説明する。
「実は、物理帝国主義ということは桑原さんが言い出したのかと思っていたのですけれども、さっき桑原さんに聞いたら、自分もその辺よく記憶がないというのですが、ぼくにしゃべったことは覚えているのです。オルテガというスペインの哲学者がいるのですが、彼がやはり物理帝国主義という言葉を使っているのです。それからもっとひどい言葉は「実験室のテロ」という言葉(笑)。つまり、物理学者は実験室で自然をおどかして、暴力をふるって、自然に何か変な泥を吐かせる。そういうことをやって物理学の領土を広げていくということらしいのです。」(p.149)
つまり、基本的には桑原が独立に思いついたのかどうかは本人にもわからない(とはいえ桑原がすぐ思い当たるような他の明確なソースもない)というところのようである。ここだけ読むと、オルテガがこの言葉を使っているということをここで桑原に聞いたようにも読めるが、このあとでくわしくオルテガに言及するので、すでに朝永はオルテガがこの言葉を使っていたことを知っていて読んだ上で桑原に質問したことがわかる。また、ここでの発言と前の講演に対する付記の内容を見比べるなら、付記の方が先に書かれているはずだ(つまり著作集に収録する際に付記されたのではなく、講演録作成直後にすでに付記されていた)ということもわかる。
内容についてだが、前回紹介した講演から4ヶ月しかたっていないこともあり、主な話の趣旨は変わらない。
この話題が登場するのは「物理学帝国主義」「物理学帝国への批判」「科学の抽象化」といった節タイトルの箇所なのだが、「物理学帝国」という言い方は本文中にも出てきていて、どうも朝永の頭の中ではこの表現は「物理学」の「帝国主義」ではなく、「物理学帝国」の「主義」だったようである。
「帝国」への最初の言及箇所は以下のようなところである。
「ただ、そういう新しいものを入れるたびごとに、物理学自身の法則をだんだん変えていかないといけない。つまり、帝国が領土を広げるときに、もとの法律ではやはりうまくいかんというので法律を変える、そういうふうな形ですね」(p.145)
この説明として、たとえば
「原子・分子の中の現象まで物理帝国の中に入れるときには、アインシュタインが直した---ニュートンのままでもいいのですけれども---量子力学という新しい、法律の大改正をしなければならない」(pp.145-146)
という。(ここだけ切り取るとわかりにくいが、アインシュタインが一度変えた「法律」(法則)を量子力学のためにさらに変えなくてはならない、という意)
こうした「法律の改正」の結果物理法則は非常に抽象的な数学になっていく。
「そういうわけで、物理学の世界がわれわれの日常の世界と違って、非常に抽象的で、ある意味で索漠とした世界になってしまう。これが物理学の嫌われる一つの原因なのです。
それにもかかわらず、帝国主義でどんどん領土を広げる。そして普遍化ですね。そういう意味で、普遍化はいいとしても、抽象化が行われて、非常に味のない世界ですね。(中略)物理学の自然というのは、人間がつくり上げ、でっち上げた恣意的な、人為的な世界であって、本当の世界ではないのだという見方が出ている。」(p.147)
法律の改正という比喩と抽象化が結びつくあたりがおもしろいところであるが、趣旨として述べていることは前回紹介した3月の講演と変わっていない。
変わっていない点としては、「帝国主義」のもう一つの意味への言及もある。これは講演への質疑の応答の中で出てくる。
「ですから、科学というものは、他の要素と切り離して学ぶことができるものだということですね。これが今度別な意味での帝国主義です。つまり、ヨーロッパで生まれた科学が世界中に広がっていくというのは、宗教とか風俗習慣、あるいは言葉は、なかなか広がらないのですけれども、科学といのはそういうものと独立に、無関係に理解できるという、そういうことが別の意味で帝国主義なんですね。」(p.169)
変わった点としてはオルテガへの言及があることである。先程引用した149ページでの言及に続けて、朝永は以下のように言う。
「しかし、オルテガも、よく読んでみますと、物理学者自身をけなしているのではなくて、物理学者の名において行われたり言われたりすることが、彼の非常にいやなことであるというふうに読めるわけです。
その証拠には、オルテガはガリレオを非常に高く買っております。それからアインシュタインを非常に評価している。つまり、本当に宇宙の調和というようなことをわれわれの前に広げてくれるような、そういう意味の物理学はいいけれども、そうでない、あとのもろもろの物理学から生まれてくるいやらしいものは正に帝国主義だという、そういう考えではないかと思うのです。」(pp.149-150)
これがオルテガ解釈としてどのくらいもっともらしいかについては論評しないが、かなり自分自身の見解に引きつけている様子はうかがえる。
オルテガと物理(学)帝国主義への言及はここにとどまらない。抽象的なもののはずの物理学から現実への応用が発生することがある、という話の文脈で、朝永はふたたび帝国主義という言葉を用いる。
「しかも、そのチャンネル[われわれの世界と抽象的な世界の間のチャンネル]を通じて、原子爆弾みたいなものが突如として飛び出してくる。
これは、物理学帝国主義がだんだん広がっていくうちに、原子の中、あるいは、そのもう一つ中の原子核の中というものまで、その領土に入れたわけですね。そして、その領土の風俗、習慣、そこを支配している法則は何であろうかということを調べているうちに、そこにはものすごく大きな破壊力が隠れているということがわかったわけです。(中略)
オルテガが物理帝国主義を嫌ったのは十九世紀の物理学に対してらしいのですが、彼は原爆が出るより前に亡くなったと思いますが、原爆が出てきたとき、彼がどういうことを言ったであろうかと想像するのもおもしろい。」(p.155)
朝永自身が「物理帝国主義」というネガティブな呼び方に値する「いやらしいもの」のひとつとして原子爆弾を想定していたことがわかる。
朝永は前回紹介した講演の4ヶ月後、桑原と同席したセミナーで事実関係を確認している。このときの講演とその後の総合討論はそれぞれ「物理学と私」「科学と私」というタイトルで朝永の著作集に収録されている。
「物理学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、pp.129-172.
「科学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、173-211.
これは1977年7月19日から20日にかけておこなわれた「東京理科大学特別教室セミナー」で、朝永の講演は19日に、討論は19-20日に行われた模様である。討論の方でも一回朝永が「物理学帝国主義」という言葉を使っている(p.204)が、特に桑原が反応していたりもしないので、ここでは講演および質疑の方のみ紹介する。
この講演の中で、朝永は、物理学帝国主義とそれへの批判についてひとくさり述べたあと、以下のように説明する。
「実は、物理帝国主義ということは桑原さんが言い出したのかと思っていたのですけれども、さっき桑原さんに聞いたら、自分もその辺よく記憶がないというのですが、ぼくにしゃべったことは覚えているのです。オルテガというスペインの哲学者がいるのですが、彼がやはり物理帝国主義という言葉を使っているのです。それからもっとひどい言葉は「実験室のテロ」という言葉(笑)。つまり、物理学者は実験室で自然をおどかして、暴力をふるって、自然に何か変な泥を吐かせる。そういうことをやって物理学の領土を広げていくということらしいのです。」(p.149)
つまり、基本的には桑原が独立に思いついたのかどうかは本人にもわからない(とはいえ桑原がすぐ思い当たるような他の明確なソースもない)というところのようである。ここだけ読むと、オルテガがこの言葉を使っているということをここで桑原に聞いたようにも読めるが、このあとでくわしくオルテガに言及するので、すでに朝永はオルテガがこの言葉を使っていたことを知っていて読んだ上で桑原に質問したことがわかる。また、ここでの発言と前の講演に対する付記の内容を見比べるなら、付記の方が先に書かれているはずだ(つまり著作集に収録する際に付記されたのではなく、講演録作成直後にすでに付記されていた)ということもわかる。
内容についてだが、前回紹介した講演から4ヶ月しかたっていないこともあり、主な話の趣旨は変わらない。
この話題が登場するのは「物理学帝国主義」「物理学帝国への批判」「科学の抽象化」といった節タイトルの箇所なのだが、「物理学帝国」という言い方は本文中にも出てきていて、どうも朝永の頭の中ではこの表現は「物理学」の「帝国主義」ではなく、「物理学帝国」の「主義」だったようである。
「帝国」への最初の言及箇所は以下のようなところである。
「ただ、そういう新しいものを入れるたびごとに、物理学自身の法則をだんだん変えていかないといけない。つまり、帝国が領土を広げるときに、もとの法律ではやはりうまくいかんというので法律を変える、そういうふうな形ですね」(p.145)
この説明として、たとえば
「原子・分子の中の現象まで物理帝国の中に入れるときには、アインシュタインが直した---ニュートンのままでもいいのですけれども---量子力学という新しい、法律の大改正をしなければならない」(pp.145-146)
という。(ここだけ切り取るとわかりにくいが、アインシュタインが一度変えた「法律」(法則)を量子力学のためにさらに変えなくてはならない、という意)
こうした「法律の改正」の結果物理法則は非常に抽象的な数学になっていく。
「そういうわけで、物理学の世界がわれわれの日常の世界と違って、非常に抽象的で、ある意味で索漠とした世界になってしまう。これが物理学の嫌われる一つの原因なのです。
それにもかかわらず、帝国主義でどんどん領土を広げる。そして普遍化ですね。そういう意味で、普遍化はいいとしても、抽象化が行われて、非常に味のない世界ですね。(中略)物理学の自然というのは、人間がつくり上げ、でっち上げた恣意的な、人為的な世界であって、本当の世界ではないのだという見方が出ている。」(p.147)
法律の改正という比喩と抽象化が結びつくあたりがおもしろいところであるが、趣旨として述べていることは前回紹介した3月の講演と変わっていない。
変わっていない点としては、「帝国主義」のもう一つの意味への言及もある。これは講演への質疑の応答の中で出てくる。
「ですから、科学というものは、他の要素と切り離して学ぶことができるものだということですね。これが今度別な意味での帝国主義です。つまり、ヨーロッパで生まれた科学が世界中に広がっていくというのは、宗教とか風俗習慣、あるいは言葉は、なかなか広がらないのですけれども、科学といのはそういうものと独立に、無関係に理解できるという、そういうことが別の意味で帝国主義なんですね。」(p.169)
変わった点としてはオルテガへの言及があることである。先程引用した149ページでの言及に続けて、朝永は以下のように言う。
「しかし、オルテガも、よく読んでみますと、物理学者自身をけなしているのではなくて、物理学者の名において行われたり言われたりすることが、彼の非常にいやなことであるというふうに読めるわけです。
その証拠には、オルテガはガリレオを非常に高く買っております。それからアインシュタインを非常に評価している。つまり、本当に宇宙の調和というようなことをわれわれの前に広げてくれるような、そういう意味の物理学はいいけれども、そうでない、あとのもろもろの物理学から生まれてくるいやらしいものは正に帝国主義だという、そういう考えではないかと思うのです。」(pp.149-150)
これがオルテガ解釈としてどのくらいもっともらしいかについては論評しないが、かなり自分自身の見解に引きつけている様子はうかがえる。
オルテガと物理(学)帝国主義への言及はここにとどまらない。抽象的なもののはずの物理学から現実への応用が発生することがある、という話の文脈で、朝永はふたたび帝国主義という言葉を用いる。
「しかも、そのチャンネル[われわれの世界と抽象的な世界の間のチャンネル]を通じて、原子爆弾みたいなものが突如として飛び出してくる。
これは、物理学帝国主義がだんだん広がっていくうちに、原子の中、あるいは、そのもう一つ中の原子核の中というものまで、その領土に入れたわけですね。そして、その領土の風俗、習慣、そこを支配している法則は何であろうかということを調べているうちに、そこにはものすごく大きな破壊力が隠れているということがわかったわけです。(中略)
オルテガが物理帝国主義を嫌ったのは十九世紀の物理学に対してらしいのですが、彼は原爆が出るより前に亡くなったと思いますが、原爆が出てきたとき、彼がどういうことを言ったであろうかと想像するのもおもしろい。」(p.155)
朝永自身が「物理帝国主義」というネガティブな呼び方に値する「いやらしいもの」のひとつとして原子爆弾を想定していたことがわかる。
iseda503 at 21:17|Permalink│Comments(0)│
July 23, 2023
物理(学)帝国主義という言葉を使い始めたのはだれか
(細矢先生のお名前を間違えるなどいくつか誤字を指摘いただきましたので修正しました。ありがとうございます)
(さらにご指摘をいただき追補を別記事として書きました。)
(さらにご指摘をいただきオルテガのスペイン語原文についての追記をしました)
「物理帝国主義」ないし「物理学帝国主義」という言葉は物理学と他の学問のある種の関係や物理学者の態度を指すことばとして漠然と用いられることが多いと思うが、だれがこういう言葉を使い始めたのだろうか?
ネット上を少し検索すると「伏見康治によると、この言葉は桑原武夫が初めて使ったとのこと」という解説が出てくる(ウィキペディア「物理帝国主義」の項、2023年7月15日参照)。まずはその参考文献をみてみることからはじめる。
1細矢治夫の記述
典拠となっているのは化学者の細矢治夫が『日本物理学会誌』に寄稿した以下の文章である。ダウンロードして読むことができる。
細矢治夫(1996)「「物理帝国主義」について」『日本物理学会誌』51(4) p. 265.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/51/4/51_KJ00001504799/_article/-char/ja/
この文章の最後に「追記:最近伏見康治先生から,「物理帝国主義」という言葉は,桑原武夫が初めて使った,とお聞きした.」とあり、これが上記のネット上の記載の根拠となっていると思われる。
この文中では細矢は「物理帝国主義」という言葉の意味を直接は規定せず、「どんな辞書にも載っていない」「きちんと定義している文献も存在しないだろう」一方で「この会誌の読者諸氏のほとんどは,ほぼ同じ意味に解釈されていると思う」、つまり「この言葉は,物理学者或いは物理屋さん自身がつくりあげ,身内の間で,或いは専門の近い人の間でjargonのように使われている言葉であると,化学畑の私は認識している」と述べる(p.265)。
この小文全体をとおして、物理帝国主義が何かははっきりとは書かれていない。ただ、この小文の内容としては、化学者が物理学を勉強しないといけない反面、物理学者は化学を勉強しようとしない、と不満を述べた後、「われわれ化学の人間が物理学者へ期待することは,帝国をつくるならば,ナポレオンのエジプト遠征のように,被征服者の築き上げた学問的成果を十分に理解したその上に作って欲しいということである」(p.265)とまとめている。このまとめから逆に推測するならば、細矢自身は物理帝国主義という言葉を物理学という学問の内容というよりは、その内容に由来する物理学者の態度についての言葉として理解していたようにも見える。
しかし、伏見康治はどのようにして桑原武夫が物理帝国主義をはじめて使ったと知ったのだろうか?
2 朝永振一郎と桑原武夫の「物理(学)帝国主義」
この問いに対する答えも少し調べると簡単に見つかる。伏見康治が解説を書いた朝永振一郎の著作集にこの件についての言及があるのである。そこで、朝永の著作で「物理(学)帝国主義」についてどう述べられているかを確認しよう。
朝永振一郎が「物理学帝国主義」という言葉に言及しているのは「物理学と文明とのかかわり」と題する講演においてである。(『朝永振一郎著作集3 物理学の周辺』、伏見康治解説、1983年、みすず書房、291-337ページ)。これは1977年3月15日の「エネルギーを考える会」総会での講演ということである。
この講演の前半では物理学の歴史をたどりながら、物理学が少数の普遍的な法則からあらゆることを導き出そうとする分野として発展してきたことが説明されている。「物理学帝国主義論」と題する節(p.313以降)はこの講演の後半部分に登場する。この節で「物理学帝国主義」は以下のように導入される。
「皆さんは「物理学帝国主義」ということばをご存じでしょうか。これは桑原武夫先生が言い出したんですけれども、私が学術会議の会長をしていたとき、彼は副会長をしていて、そのときにヒョイと言い出したことばなんです」(p.314)
日本学術会議のウェブサイトによれば、朝永が会長をしていたのは1963年1月から1969年1月までであり、この間桑原はずっと副会長を務めている。
https://www.scj.go.jp/ja/head/kakolist.html
つまり、朝永が「物理学帝国主義」という言葉をきいたのはこの期間ということになる。ただし、桑原武夫が「言い出した」ということについてはこの講演録の最後に以下の付記がある。
「付記 「物理学帝国主義」という言葉は桑原武夫さんから聞いたのですが、スペインの哲学者オルテガが1930年ごろ使っていことを最近知りましたので念のため付記します。ただし、桑原さんがオルテガを援用されたのか、それともそれとは無関係に御自分で発明されたのか、まだ御当人に確かめてはおりません。いずれ確かめるつもりです。」(pp. 336-337)
ということで、朝永の認識としてはこの表現はオルテガが発明したかオルテガと桑原が独立に発明したか、ということで落ち着いていたようである。その後朝永が桑原に確認を本当にとったのかどうか、その結果がどうだったのかということは少し調べただけではわからない。(この点について追補あり)
ところで、この著作集が出たのが1983年で、解説を書いた伏見は、その時点で、付記まで含めて朝永の講演録を読んだ、つまりオルテガが桑原より前にこの言葉を使ったと知っていたはずだと考えられる。その伏見が1996年の細矢の文章で「最近」と振り返られるような時点において「桑原武夫が初めて使った」と述べたというのは若干奇異に感じられる。10年以上前のことなので記憶が曖昧になっていたのか、付記を読み飛ばしたのか、あるいは他の理由があったのか、今となってはわからない。
さて、表現の発案者についてはこのくらいにして、朝永や桑原はこの言葉をどのような意味で使っていただろうか。
この言葉が桑原の口からでてきた背景として、物理学者が非常に金のかかる研究所の要望を次々に出してくることに対し、他の分野の人たちが文句を言っていた、と朝永は振り返る。
「そのときに物理の連中があんまりうるさくそういうことを言い出すもんですから、まるで物理学帝国主義だと、桑原さんが言ったんです。つまり、どんどん自分の領域を広げていく、というわけですね。」(p.315)
しかし、この講演の中でこの言葉を紹介した朝永の意図は若干ことなる。
「彼が物理学帝国主義ということばを言い出したのは、そういう次元の話だったんですけれども、いま言ったように、いろいろ互いに関係ないと思うような現象を一つのワクの中に入れてしまう、そういう意味で物理学は確かに帝国主義みたいなところがあるわけです」(p.315)
そして、物理変化と化学変化の区別がなくなったことで「物理帝国の中に化学も入った」、分子生物学が登場することで「分子の生物学、生物物理とか言って、生物学も、少なくともその一部は帝国主義に新しく征服されることになった」、遡れば「ニュートンの時代に天文学と地上の運動学、これが一つになって、帝国主義の始まりがすでに現われている」と続ける (pp.315-316)。これは物理というものの持つ抽象化という特徴とも密接に結びついている。
「抽象化することによって、あらゆる現象をその中に取り込んでしまう、そういう帝国主義的な性格の学問、それが物理学なのです。帝国主義というようないささかショッキングな言い方を避けるなら、普遍学という言葉で物理学の性格を言ってもよい。」(p.320)
このようにまとめると朝永が「帝国主義」という否定的なニュアンスの言葉を無邪気に肯定的に用いているようにも聞こえるが、このようにして物理学が「どんどん領土を広げていった」ことについて「このことが物理に対する嫌悪感をいろんな人が持つ原因になったことも事実です」(p.317)とも書いていて、否定的な意味も意識しながらの言葉の選択であることがわかる。
朝永は物理学帝国主義ということばをまた別の意味でもとらえており、それは「物理学帝国主義のもうひとつの意味」と題する節(p.320以下)で説明されている。それは、文化を越えて広がるという意味での普遍性を指す言葉としてである。
「いろんな文化、伝統で価値観というのは非常に違うにかかわらず、物理学、あるいはそれとの関係においてつくり上げられた技術というものは、世界中どこへでも広がっていっているわけです。ですから、物理学は多くの異なる現象をその中に包み込んだという点で普遍的だというのとは別に、あらゆる国々、異なる民族に広がっていくという、こういう意味での帝国主義というのがもう一つあるわけですね。」(p.321)
これに続けて物理はある程度勉強しないとものにならないけれども、物理に基づく技術は学理を知らなくても使いこなせる、という点において「さらに普遍性が強い」(p.322)と朝永は言い、こうまとめる。「そういうわけで物理帝国主義というのは、いま非常な猛威をふるっているわけです」(p.323)。意識してかどうかこの引用箇所では朝永は「物理学帝国主義」ではなく「物理帝国主義」という表現を用いている。内容的にも、物理学そのものというより物理学に基づく技術の帝国主義なので、「学」がないほうが自然だと感じたのかもしれない。
ともあれ、朝永はこの意味での物理(学)帝国主義についても、「これに対して、やはり嫌悪の情を持つ人はたくさんおられますし、私はそれももっともだと思うんです」(p.323)と、ネガティブな面を意識している。
朝永の講演はまだまだ続くが、とりあえず「物理(学)帝国主義」という言葉を桑原と朝永がどう使ったかを確認できたのでここではよしとする。まとめるなら、桑原は非常に世俗的な意味で物理学者が学術界のリソースを独占していくさまに対して「帝国主義」と言ったのに対し、朝永は物理学という学問そのものの「普遍学」としての性格について、嫌悪感を持つ人が使いそうな表現として「物理学帝国主義」ないし「物理帝国主義」という言葉を使ったといってよいだろう。
ところで、桑原自身も、後の書籍で自らの「物理学帝国主義」という言葉の使用について言及している。言及しているのは「人文科学における共同研究」という文章で、初出は『展望』114号(1968年6月号)、『桑原武夫集 7』(岩波書店,1980) pp.381-408などに再録されている。この言葉が登場するのは、歴史家アンリ・ルフェーヴルが来日した際のやりとりについて述べているところである。
「そのとき彼(アンリ・ルフェーヴル)がいうのには、ある一つのディシプリンが帝国主義的になって、他の学問を支配することはよろしくない。たとえばマルクス主義において経済学主義におちいるのもその一例であります。これは学問の発達上おもしろくないのじゃないか。私も前に物理学帝国主義ということばを使ったことがありますけれども、ルフェーヴルは、科学におけるデモクラシーということが必要だというのです。(中略)この点では、私はルフェーヴルと意見が一致したわけであります。」(『桑原武夫集 7』p.400)
ここではルフェーヴルは学問の関係において「支配」の関係が生じることを問題視していて、「物理学帝国主義」という言葉を使う桑原もそれと「意見が一致した」というわけだから、桑原自身も物理学帝国主義にそうした学問間の関係についての意味合いを込めていることになる。朝永が回想する桑原の発言とはだいぶ印象が異なるが、もちろん桑原がいろいろな意味を込めてこの言葉を使っていた、というのは十分ありうることである。
3 オルテガの「物理学の帝国主義」
さて、ではオルテガはどのような文脈で「物理学帝国主義」について語っているのだろうか。これも比較的容易に見つけることができる。日本語で読むことができるものとしては、「哲学とは何か」という講演録にこれについての言及が収められている。邦訳の書誌情報は以下のとおりである。
オルテガ「哲学とは何か」(生松敬三訳)『オルテガ著作集6 哲学とは何か 愛について』(1970, 白水社)
編者まえがきおよび訳者解説によれば「哲学とは何か」は一般向けに行われた講義録であり、1930年の2月に第一講が、4月以降に第二講以降に行われた。その後同年の8,9,10月に『ラ・ナシオン』紙に掲載され、部分的には1947年の全集に収録された。「物理学の帝国主義」という表現が出てくる第2講は1930年の4月5日に行われたとのことである。英語訳は1960年に出版されている。
Jose Ortega y Gasset (1960) What is Philosophy? Translated by Mildred Adams. Norton & company.
そういうわけで、桑原がオルテガからこの表現を学んだかどうかは、書誌的な情報からはなんとも言えない。フランス文学者である桑原ならば英訳をまたずにオルテガの講演を読むことはありえないことではないし、英訳が1960年出版なのでそれを読んだ上で学術会議で1963年ごろに発言したということも考えられなくはない。
オルテガのスペイン語の原文をすぐには確認できないので、とりあえず邦訳と英訳をもとにオルテガがどういう文脈において、どういう意味でこの表現を使ったかを見ていこう。(追記:スペイン語原文についてはインターネット・アーカイブなどで読めることをご指摘いただいた。スペイン語ではimperalismo de la fisica となる)
「物理学の帝国主義」という表現は第2講の後半にあらわれる(邦訳p.41) 。この言葉が出てくるまでの文脈(pp.,39-41)としては、19世紀の後半60年に「哲学的精神の萎縮と夏枯れ」が生じていると述べられ、その主な原因として、物理学の成功が挙げられる。物理学は数学的な認識法と経験的な認識法という確実さの2源泉を組み合わせた「実験的」な認識方法を構築することで「他のものへの優越」を示すようになった。それだけでなく、第三の特性として「物質支配のための実際的有用性」を持つことで「大勝利」をおさめた。物理学の帝国主義という言葉はそうした説明のあとで以下のように登場する。
「物理学は並ぶものなき威信を獲得した。なぜなら物理学から機械も医学も生まれたからである。一般大衆は知的好奇心からではなく、物質的利害から、物理学に関心を寄せた。このような雰囲気の中で、「物理学の帝国主義」と名づけうるようなものが産み出されてきたわけである。」(邦訳p.41)
念のため英語版の同箇所も付す。
"Physics acquired a peerless prestige because out of it came both medicine and the machine. The masses of the middle class became interested in it not out of intellectual curiosity, but through their material interests. It was in such an atmosphere that what we might call the 'imperialism of physics' was produced. " (英訳 p.41)
オルテガは「物理学の帝国主義」という言葉のこれより正確な規定を与えてはいないので、具体的に何を指しているかここからはよくわからない。第2講のこのあとの部分は、物理学が主にその有用性によって社会に受け入れられることによって、他の分野に対しても攻撃的になってきた、ということが観察される。
「社会的環境の幸運と助力によって、われわれはとかく思い上がりがちなものだし、性急にも攻撃的にもなる。物理学がまさにそれだった。そのためにヨーロッパの知的生活は約百年間、「実験室のテロリズム」とでもいうべきものに悩まされたわけである。
その威力に屈して哲学者は哲学者たることを恥じた。つまり、自分が物理学者でないことを恥じたのである。真に哲学的な問題は物理学的認識方法では解決されることがないものだから、そういう問題に手をつけることを断念し、哲学を最小限に収縮させ、へりくだって物理学に奉仕させることによって哲学を放棄したのだ。」(邦訳 p.45)
このようにして形而上学や「認識とはそもそも何であるのか」(p.46)というような問題が扱われなくなってしまったことが問題だとオルテガは言う。この箇所では「物理学の帝国主義」という言葉は出て来ないけれども、2つめの引用箇所の内容などから推測するなら、物理学者の他分野への攻撃やそれによって哲学者が独自の問題意識を放棄してしまうことを「物理学の帝国主義」と呼んでいるのではないかとは考えられる。
ちなみに、認識とは何かという問題なら、むしろ19世紀から20世紀初頭の哲学の大問題だったではないか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかし、オルテガはカントを物理学の軍門に下った哲学者の筆頭に数えており、自然科学的知識を知識のパラダイムと捉えた上で知識の源泉を問うのは、それだけで物理学帝国主義に支配されることだったと思われる。この表現の発案者としてオルテガに言及するならば、そうしたオルテガの問題意識と現代においてこの言葉が用いられるときの問題意識のずれも気になるところである。
4 そのほかの用例
オルテガはともかくとして、日本で物理学帝国主義という言葉を最初に使ったのは本当に桑原武夫なのだろうか?こうした言葉が活字としては残りにくいということは踏まえた上で、少し探索してみると、いくつか古めの活字化された用例が見つかる。
4-1 武谷と湯川の用例
興味深いことに、武谷三男や湯川秀樹も60年代に「物理学帝国主義」「物理帝国主義」という言葉を使っている箇所がある。
まず武谷だが、「現代の理論的課題」と題する文章(初出は『思想』1964年12月号 p.98~、以下の引用は書籍武谷三男『現代の理論的諸問題』(岩波書店、1968年)pp.53-84、より)の中でこの言葉が使われている。文脈は科学者の平和運動への参加について述べている箇所である。
「いわば政治家的な立場に対して,科学者の立場からの考え方をして見ることも必要ではないか.(中略)ということは,現在パグウォッシュ会議とか北京シムポジウムというようなものが行われ、それが、平和のためにある意味を持っているかぎり,科学者の立場というものを注目してもよいのではないかと思うのです.物理学者は,偉そうなことを言っているとか,物理学帝国主義という言葉を言う人がいる.学術会議副会長の桑原先生など,そういうことをおっしゃたそうですが,また一般に文科系の先生方はそういった印象をもっておられるようですがね。
しかし国連以外に実際国際的に何かやろうとすると,たいてい物理学者が主にならざるを得ない羽目に陥ってしまうのです.」
ここでも「物理学帝国主義」という言葉を使った人物として桑原が名指しされている。しかもこの一文の初出が1964年であるので、朝永の証言と組み合わせると、桑原の発言の時期は63年から64年に絞られることになる。
それはそれとして、武谷の考える「物理学帝国主義」はこれまでに見てきた用例とはかなり文脈が異なり、科学者の平和運動を物理学者が牛耳っているというような状況を指すようである。
次に湯川の用例である。この言葉は湯川秀樹『思想との対話9 創造への飛躍』(講談社 1968)に収められた「物質とシンボル」という文章に登場する。この文章の初出がどこか調べがつかなかったが、本書では「1965年10月」と、初出年月のみ記載がある。分子生物学の発展によって生物学の研究手法が変わっていくことについて述べている文脈でこの表現があらわれる。
「最後にこのような状況を、別の角度から眺めてみよう。自然界の法則的な把握ないし理解は物理学で代表される。その対極には歴史的な把握ないし理解が考えられる。生物学での進化論的な見方はその一例である。所が妙なことに、法則的な理解の仕方が歴史的な理解の仕方を基礎づける、基礎づけなければならないという風に考えられてきた。特に物理学は先進的な学問なのだから、基礎的な面を開拓するのは物理学の役割であって、ほかのものはこの物理学が開拓した土台の上に構築されねばならないという考え方がかなり広く行われているように思われる。「物理帝国主義」という言い方には、このような傾向への批判が含まれている。私はそういう一方的な見方は必ずしも正しくないと思う。歴史的なものを物理学者が理解しようと思うならば、自分の方も変わらねばならない。自分のたて前も変えてかからねばならないのではないか。」)(p.131)
武谷とは対照的に、湯川は学問間の関係として、物理学による基礎づけという抽象度の高い問題について物理帝国主義(ここは「学」がついていない)を使っている。
1960年代なかばに武谷や湯川といった物理学のビッグネームたちがこの言葉を意識していたというのは興味深いが、彼らだけが意識していたというよりは、多くの物理学者に同じような問題意識が共有されていたが、活字として残ったのが武谷や湯川だったと考える方が自然だろう。
4-2 日本物理学会誌
60年代から70年代にかけて、いくつかの用例が見られるのが『日本物理学会誌』である。Jstageの日本物理学会誌で「物理学帝国主義」で検索をかけると、以下の用例がひっかかる。
小野健一, 高橋秀俊, 柿内賢信, 並木美喜雄, 近藤正夫, 小野周(1966)「大学における物理学の教育について (第2回)」『日本物理学会誌』21(11), pp.762-771.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/21/11/21_KJ00002738097/_article/-char/ja
これは物理学教育についての座談会である。この中で、「科学は基礎学科になる」「他と併列されるものではなく,人間の精神活動のエッセンシャルな礎石である。」という発言に対し、並木美喜雄が「そういうのをよく「物理学帝国主義」といわれます。物理学は,化学を征服し,生物学に干渉し,人間にも手を回わしてきたということで物理学帝国主義といわれるらしい」と答えている(p.766)。
並木の言う物理学帝国主義は、物理学があらゆる分野の基礎となる、というような考え方を指すようである。そして、「よく「物理学帝国主義」といわれます」というからには、1966年の時点でこの表現が特定の誰かの発案した言葉とは思われないレベルで広まっていたことがうかがえる。
斎藤信彦 (1970) 「還元主義と数学」『日本物理学会誌』25(1), pp.79-81.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/25/1/25_1_79/_article/-char/ja
この文章では物理学帝国主義が以下のように説明されている。
「表題に書いた還元主義とは上位の学問体系がそれより下の学問体系の法則で説明され,結局すべて物理学に還元されるという主張である。別名は物理学帝国主義という悪名の高いものである」(p.80)
このあと、生物学や意識の研究がこの意味で還元可能かということが論じられる。
ここで物理学帝国主義と呼ばれている立場は現代の科学哲学では物理主義ないし物理還元主義と呼ばれるだろう。
朝倉昌, 郷通子, 後藤英一, 鎮目恭夫, 杉田元宜, 中條利一郎, 外山比南子, 藤田宏, 森毅, 斎藤信彦, 石田晴久, 大畠永生, 堀素夫(1979)「外野から見た物理学」『日本物理学会誌』34(1), pp.22-36.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/34/1/34_KJ00002743188/_article/-char/ja
これもまた座談会である。インフォーマルな言葉という性格上、そういう機会でないとなかなか活字として残らないという事情があるだろう。
この座談会では「物理学帝国主義」が節タイトルとして掲げられたあと(p.23)、森毅、斎藤信彦、鎮目恭夫らの対話の中でこの話題が触れられる。
「森 数学なんていうのは高所の見物であるわけですが,警戒していやはる人がようありますね.
斎藤 物理が中に入ってくることがですか.
森 物理が入ってくることを警戒する.生物とか地学関係とか,あるいは化学系とか.物理学帝国主義に支配されるのではないかと.それはおかしいと思うんですがね.入って行く方の感覚という問題があるのかもしれないんです.物理の人が生物へ入ってくるとか.
斎藤 この座談会の準備の時に,いろんな周辺分野がある.そういう所に若い人達を勧めるということは,物理学帝国主義というものを大っぴらに広げるというような印象を与えるのではないか,ということを話し合ったこともあります.物理の学問自身はそういう性格を持っているだろうと思います.(中略)
森 その問題は,数学なんかもっとひどいんで,それを棚に上げていうわけですが,帝国主義といわれるのは,母国の習慣をそこへ持ち込むことが問題なんだと思うんです.先程,鎮目さんがこだわられた,観客席か,場外か,場内かという問題は,内野が一番本国ですね.その本国の延長線において見るか,周辺というのを周辺それ自体として見るか,ということにかかわるんじゃないですか.
斎藤 それは追々いろんな分野の方に話をして頂きたいと思うんですが,我々としては本国の見方をその周辺の所へ持っていって,それによりプラスになることがあるのではないか,つまり他の分野で,そこで育ってきた人たちと違った考え方をすれば,それは本国の見方を移して植民地支配をしているんだということもあるかもしれませんが,学問全体としてはプラスになることがあるのではないでしょうかね.
鎮目 それが帝国主義の考え方だね.」(p.24)
森の発言中にある観客席、場外、場内、というのは、この座談会のタイトルにいう「外野」が野球の比喩であることを踏まえた上で、狭い意味での物理学を「内野」ととらえつつ、「観客」まで含めてかなり広く物理学の裾野をとらえようという視点を鎮目が提示した(p.23)ことをうけている。それはともかく、そうした狭い意味での物理学でのやり方を「外野」(他の学術分野)や「観客席」(影響をうける一般社会)まであてはめようとする態度がここで「帝国主義」と呼ばれているわけである。
帝国主義をめぐる談義はこのあとも続く。
「物理のやつが出てくると,物理学者は数学も割に得意だし,物理の枠で侵略して、新しい発見を取ってしまう,そういうインフェリオリティ・コンプレックスをまわりの人が持つような面は確かにあると思うんです.本国の行き方を持っていって,これは役に立ちはしませんか,と言って方々へ押しつけられたのでは,これはかなわないわけですよ.」(p.24 鎮目)
「幾分でも物理を経験したものですから,物理学者の中でほんとうにできる人とそうでない人を、自分なりに見分けることができます.本当に帝国主義者たる器量のある人はそんなに数多くないという感じと,器量のある人達に対するこわいという感じをもっています.」(p.25 朝倉)
「帝国主義といわれたのは,物理の人が他の分野へ行った時に,それが本当にその学問に対して実りになるかどうかという,そういう批判を含めての帝国主義ということの批判があると思うんですけれども.」(p.25 斎藤)
以上のようなコメントからは、この座談会の出席者たちには、物理学帝国主義についてかなり具体的なイメージが共有されていたことがうかがえる。そして、そのイメージはどちらかというと個々の物理学者の態度として、物理学を当てはめる他分野のやり方を尊重するかどうかという点に関わるようである。
4-3 村上陽一郎の「分析的思考のアポリア」
ここまで紹介してきた用例は、特に1960年代については物理学者によるものが主だったので、科学論系からの用例を一つ紹介して終わりにしたい。『現代思想』の創刊号に掲載された村上陽一郎の「分析的思考のアポリア」は副題に「物理帝国主義の行方」とあり、物理(学)帝国主義を主要テーマとする論考としては今回調査した中で最も古いものとなる。書誌情報は以下のとおりである。
村上陽一郎(1973)「分析的思考のアポリア ---物理帝国主義の行方」『現代思想』1(1) pp. 36-43
この論考の冒頭では「比較的ポピュラーになってしまった諧謔的表現に「物理帝国主義」というのがある。植民地は物理学以外の他の諸科学のことである。」(p.36)と、この表現がすでに「ポピュラー」になっているという認識が示されたあと、「むしろ私は科学における南北問題と言った方が適切ではないかと思っている」(p.36)と続けられる。
村上の考える物理帝国主義ないし科学における南北問題とは、第一には「発展の先後、歴史的な縦の関係」(p.37)を指す。これは、物理学が先に発展したために、他の「発展途上」の科学が物理学の後追いをするという現象である。しかしこれは第二の「自然科学(のみならずすべての知識体系)の内部構造、すなわち共時的な横の関係」でもある。これは「「原理的には」、物理学だけで世界は記述し尽されるとする発想」とも言いかえられる。この発想に基づく要素還元主義的な研究手法がタイトルにいう「分析的思考」であり、その限界が近年あらわになっている、と村上は言う。それに対置されるのが総合的思考であり、具体的には目的論的説明や機能的説明がその例として挙げられる。村上が問題にしている「物理帝国主義」はもはや物理学者の態度ですらなく、非常に広範囲な科学方法論の問題に還元されているわけである。
さて、以上、物理(学)帝国主義の初期の用例を調査してみたが、今回の調査では1963年より前の用例は発見することができなかった。そのため、とりあえず、朝永が聞いた桑原の発言の中でがこの言葉が日本で最初に使われたという可能性は依然として残ることになる。ただ、武谷と湯川が64年や65年といった早い段階で言及し、1966年にすでに「よく「物理学帝国主義」といわれます」という発言が座談会で行われて特に疑義も出ていないなど、わずかに見える部分からは、ここで見つかった用例を越えて、物理学界隈で活字にならないところで60年代にかなり広まった用法であったことを推測させる。
5 「物理帝国主義」「物理学帝国主義」をどう使うか
以上、「物理学帝国主義」「物理帝国主義」のやや古めの用例を見てきた。網羅的な調査はできないものの、調査にひっかかる最初期の用例が1960年代なかばの物理学者の発言に集中していることから、このころに物理学者を中心に広まり始めた用語であることが推測される。
もしこれらの言葉の「本来の用法」を問題にするのであれば、オルテガや桑原の用法を参照することになるだろう。しかし、紹介した用例に見られるように、これらの表現が使われるようになった初期の段階においてもかなり多様な意味合いが込められていたことが明らかであり、どれか一つを正解とするのは適当ではないだろう。
代表的な用例は以下のようになるだろう(もちろんお互いに密接に結びついているので、どの用例がだれの考えか必ずもきちんと対応しているわけではないが。)
学問自体の性質を指す表現として
・物理学的方法論が分子生物学をはじめ他の領域で使われること、特に、そうした方法ばかりが使われるようになること (湯川、桑原)
・あらゆるものが物理的な対象から構成されていることを理由とし、物理学があらゆる分野を基礎づけると考えること(還元主義、物理主義)(斎藤、並木、村上)
・あらゆる現象を記述する普遍学としての性質を物理学が持つこと (朝永)
・文化を越えて共有されるという意味での普遍学としての性質を物理学が持つこと (朝永)
・他の分野(オルテガの場合は哲学)の問題意識そのものが物理学に規定されるようになること (オルテガ)
物理学者の態度を指す表現として
・他の分野(主に生物学などの自然科学領域、しかしオルテガの場合は哲学)の固有のやり方に敬意をはらわない(他分野のやり方を知ろうとしない、攻撃的な態度をとるなど)(オルテガ、「外野から見た物理学」座談会、細矢)
・外に向けて科学の代表のような顔をする(予算配分において、社会運動において)(桑原、武谷)
物理学者以外の研究者の態度を指す表現として
・物理学に劣等感を持つこと (オルテガ)
これらの用法の違いは微妙だからこそ、はっきりさせておかないとかえって意図が誤って伝わる可能性も高い。誤解を避けるためにも、この言葉を使いたいならどういう意味で理解しているのか少し説明をつけるような配慮がほしいところである。
iseda503 at 15:46|Permalink│Comments(0)│
September 21, 2022
知られざるコンピューターの思想史
小山虎さんの『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』は、いろいろな意味で刺激的な本である。もっと話題になってもいいと思うのだが、今のところあまり話題に取り上げられている様子がない。それは理由がないことではないだろうと思う。以下、この本を読んで思ったことをつらつらと書き留めておきたい。
1 学術的な思想史の本として
いきなりであるが、この本を学術的な思想史の本として扱うのは現時点ではむずかしいと思う。「学術的な思想史の本」でないとしても、あとで述べるように、ある種の歴史観についての学術書として、あるいは思想史に関する一般むけの著作としてはまた評価が異なってくると思う。しかし、歴史そのものを学術的に扱う場合にはそれなりの作法があり、本書がその作法に従っているとはいいがたい。あとがき(p.353あたり)から判断すると、著者の小山さん自身も一般向けメルマガの書籍化として(つまり思想史の学術書とは一線を画すものとして)本書をとらえておられるようであるが、あまり思想史の著作を読み慣れない読者はそのあたりの境界がよくわからずに読んでしまうようにも思う。以下に書くことはもちろん小山さん自身はよく自覚しておられることだと思うが、どちらかというと本書の一般読者むけの念押しとして書いておきたい。
こうした歴史系の著作を読む際、研究者仲間はたいていは文献表や注から読み始めるのではないかと思う。そうするとまず驚かされるのが、本書巻末の参考文献表に挙げられている本が7冊しかない(英語5冊、日本語2冊)ことである。実際には7冊しか参照されていないということはなく、章末注の中でのみ名前が挙がっている書籍や論文も多くある。ただ、その典拠情報を巻末に整理しないことによって、同業者に学術的な思想史の本として読んでもらうつもりはない、というサインを送っているようにも読める。
次に、典拠に関連する注を見ていったときに驚くのは、人物や組織についての事実関係の注で英語版Wikipediaをはじめとする二次的・三次的資料ばかりが参照されているという点である。二次的・三次的資料といってももちろんいろいろなものがあり、一概に典拠として使えないということはもちろんない。たとえば本書では哲学者についてはスタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy、SEPとよく略称される)というオンラインリソースも多く参照されている。SEPの記事はその分野の第一人者が書いていることが多く、私自身もとりあえずの典拠として挙げることがよくある。これは特に問題視することではないと思う。ただ、SEPの記事もバランスがとれたものばかりではなく、著者の関心が色濃く反映された記述がされることがあるので、もうすこし視点の違うものや一次資料に近いものをあたれるならそれにこしたことはない。
そのSEPと比べても、英語版Wikipediaを堂々と典拠として挙げることには反対せざるを得ない。英語版Wikipediaが日本語版と比べてはるかに情報の精度が高く、調べ物の際に大変有用であることは否定しない。しかし、英語版Wikipediaの記述はSEPにくらべればはるかに玉石混交で、記述のバランスがとれてないことも多いというのが私の印象である。それとは別に、いたずらの対象となりやすいことも日本語、英語を問わずWikipediaの弱点だと思う。以前、ある概念についての英語版Wikipediaの項目を読んでいて、それを最初に使ったとされる人物の名前がまったく見覚えがない名前で、調べてもまったく関連情報が出てこなかったということがあった。さらに調べると大学の学生らしき同名の人物が検索にひっかかった。おそらく本人か友人かがいたずらしたのではないかと推測される。そのいたずらはすぐに削除されたが、似たようないたずらはけっこう頻繁に目にする。そういうこともあって、学生にレポート課題を出させるときにもWikipedia 情報には注意するように毎回注意喚起している。少し長くなったが、歴史記述の学術的な典拠として、私自身の判断としては、現時点では英語版Wikipedia は使えないし、学生にもそう指導している。(「現時点では」使えない、という但し書きをつけた理由だが、こうしたことについてのスタンダードは時とともに変わるものなので、たとえば30年後に本書を振り返ったときには英語版Wikipediaを典拠とすることに何の違和感もないかもしれないし、この文章を30年後に読んだ人は「昔の人は頭が硬かったんだな」と言うかもしれない。)そういう観点からは、本書の典拠のとり方が一つのメッセージとなってしまわないかというのを危惧している。
なお、典拠として何を使うかということと情報の質は必ずしも相関しない。本書の記述についてわたしがチェックできる範囲でいくらか調べた限りでは、むしろ内容の正確さには非常に注意が払われていると感じた。あとで数件疑問に思った点を挙げるけれども、これだけ膨大な情報を扱っている書籍であればもっと多く疑問点があるのが普通である。小山さんは二次資料に依拠するとしても、依拠すべき二次資料の選択については信用できる人なのだと思う。
何を典拠とするかということは本書の性格とも関わる。本書はこれまであまり光が当てられてこなかった、現代英米哲学やコンピュータ・サイエンスの思想的背景の東欧における起源(特にフォン=ノイマンやタルスキの生い立ち)に光をあてることを一つの眼目にしている。あまり光があてられてこなかったのには理由があって、この歴史を本気で(つまり学術的に認められる思想史研究として)語ろうとすれば、英独仏の3カ国語に加えてハンガリー語やポーランド語の文献を読みこなす必要がある。要するにハードルが高すぎて誰にも手が出せない状態にあったわけである。私自身『科学哲学の源流をたどる』では主に英語圏とドイツ語圏の話をし、すこしだけフランス語圏の話をするというバランスになったが、それは私自身の語学能力から言ってそれ以上のことはできなかったからというのもある。
小山さんはもしかしたらハンガリー語やポーランド語も堪能な上であえてわれわれ読者にもわかるように英語の文献のみを挙げてくれているのかもしれない。一般向け書籍であればそれも十分ありだろう。ただ、研究者仲間からすれば、英語文献だけを手がかりにしてこの問題を論じている(ように見える)こと自体、本書を学術的な思想史としては読めない一つの理由になるだろう。
2 本書の提示する「歴史観」ないし「視点」について
さて、最初に述べたように、本書は実証的な思想史研究というよりは、「ある種の歴史観についての学術書」として読むべき本だろうと思う。その歴史観の要点は2つある(他にもあると思うが以下で取り上げるのはこの2つである)。一つは、英米の分析哲学とコンピューター・サイエンスという2つの学問について「一見何の関係もなさそうに見える二つの学問の複雑に絡み合った成立史」(p.19)を描くことができるという歴史観であり、もう一つはその絡み合った成立史を読み解く鍵となるのが「19世紀から20世紀にかけて行われた「オーストリア的」なもののヨーロッパからアメリカへの移行」という視点だという歴史観である。「歴史観」という言葉が大げさなら「視点」くらいでもいいかもしれない。いずれにせよ、小山さんがやろうとしているのは、実証研究から一歩距離をおくことでかえって見えてくる大きなパターンをとらえる「視点」を提示することだと思われる。それ自体は非常におもしろい試みであり、わたしも触発されるところが大きかった。
本書が扱う膨大な話題のうち、私自身の専門と多少なりともかかわるのはウィーン学団の成立やそのアメリカでの受容にまつわる一部分だけであり、小山さんの語るストーリーの全体像の評価はわたしにはできない(できる人が誰かいるのかというのは疑問である)。しかし、わたしに多少なりともわかる範囲で考えたとき、「コンピューターサイエンスと分析哲学の複雑な絡み合い」と「「オーストリア的」なものの移行」という2つの視点が本当に有益なのかということにはちょっと疑問がある。それについて少し話したい。
2-1 「オーストリア的」なものについて
「オーストリア的」なものの方から取り上げる。小山さんの言う「オーストリア的」の具体的な意味は44-46ページあたりで説明されている。それによると、カント的、プロテスタント的な考え方がドイツ的であるのに対し、カトリック国家であるオーストリアの文化はアリストテレス的である。そして、カントとアリストテレスはプロテスタントとカトリックの争いを反映して「両立しえない哲学者」(p.46)になったという。以上のような説明のあとで、「このドイツとプロテスタントを否定するという点にこそ、「オーストリア的」の本質があるといえよう。」(p.46)と小山さんはまとめる。
この考えを援用して、小山さんはウィーン学団といわゆるベルリン・グループ(ライヘンバッハやヘンペルのグループ)の関係を以下のようにまとめる。
ライヘンバッハがカントの影響下にあってウィーン学団がマッハの影響下にあった、という対比が直前でなされている(p.104)が、差があるとしても微妙な温度差のレベルではないだろうか。バックグラウンドから言ってもドイツ出身のシュリックやカルナップの問題意識が新カント派の影響を受けているということは近年よく指摘されるようになっている(わたしの『科学哲学の源流をたどる』でも少し紹介した)が、彼らを理論的支柱とするウィーン学団が「ドイツとプロテスタントを否定する」ものにはたしてなりうるのだろうか。もちろん新カント派の思想自体はウィーン学団の批判の対象になるわけだが、この点でも特にライヘンバッハらドイツ側の哲学者と大きな違いがあるわけではない。国際会議においても雑誌の編集においても両グループは特に問題なく協力しているが、ウィーン学団がドイツ的なものを否定していたのだとしたら、そもそもそうした協力自体難しかったはずである。
また、わたしの理解では、ライヘンバッハらがシュリックやカルナップらと学問上で距離をおいたのは「意味の検証理論」をはじめとする極端な実証主義の主張だった。むしろこの点では「哲学に科学や数学の基礎づけという役割を与え」るのがウィーン学団側で、哲学と科学基礎論の明確な切り分けがないのがベルリン・グループという構図になっているように思われる。カントとの距離感と「哲学に科学や数学の基礎づけという役割を与え」るかどうかというのがあまり相関していないのではないだろうか。それとも、「基礎づけ」という言葉に特殊なカント的意味合いを含ませてあるのだろうか。
もう一点、気になるのが、カトリックとユダヤ教の関係である。本書の登場人物の多くがユダヤ系なわけであるが、もし「オーストリア的」なものの基本的な特徴がオーストリアがカトリック国家であるという点にあるのであれば、本書に登場するユダヤ系の知識人たちは「オーストリア的」なものの担い手たりえないのではないだろうか?これについては小山さん自身による以下のような記述がある。
その後、本書の後半にむかうにしたがって「オーストリア的」という言葉はあまり使われなくなるが、340ページで「ウィーン学団を受け入れた「オーストリア的」アメリカの大学」という見出しの一部として、本書のまとめ部分に登場する。ではアメリカの大学はどう「オーストリア的」なのか。これを本文中で確認すると、ウィーン学団のメンバーを受け入れたのは中西部の大学であったこと、中西部はもともとドイツやオーストリアの移民が多く住んでいたこと、特に「クリーブランドは「オーストリア的」なアメリカの象徴」であることなどである。しかし、もう一度確認すると、著者がいう「オーストリア的」であることの本質は「ドイツとプロテスタントを否定するという点」(p.46)だったはずであるが、ここまでの章でアメリカ中西部の人々やそこにある大学がドイツやプロテスタントを否定していたという話はわたしが見るかぎりどこにも出てこず、むしろドイツ移民とオーストリアや東欧の移民が共存していたという話ばかりが書かれている(クリーブランドについても、書かれているのはオーストリア移民も多かったということだけであって、ドイツ移民と共存していたことがむしろはっきり述べられている)。
それとも、177ページで言うような意味で「オーストリア的」なのだろうか?アメリカ中西部の諸大学はドイツやチェコやハンガリーに還元されないものとしての「オーストリア」アイデンティティを持っていたという意味で「オーストリア的」だったのだろうか。それも非常にありそうにないことに聞こえる。
ちなみに本書の副題は「アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ」となっている。アメリカンアイデアリズムというのはヘーゲル哲学の影響の強い観念論・理想主義のことであり、この思想的な流れがアメリカ哲学のその後に影響したというのが本書の後半の一つの筋となっている。さて、ここで、ヘーゲル哲学や観念論は「ドイツ的」か「オーストリア的」かといえば「ドイツ的」に分類されるのではないだろうか。この点についての著者の考えがどうなっているか、本書の中を探してみたが見当たらなかった。
まとめると、「オーストリア的」という言葉は本書のそれぞれのパートで変幻自在に意味が変わっているように見受けられる。最初に導入された意味で特に用いられているのがウィーン学団とベルリン・グループの対比の箇所であるが、ここもどちらとも言えるレベルのものをむりに切り分けるために使われているように思われる。総じて「オーストリア的」という概念は、本書の「視点」を明確化するというよりむしろぼかすような形で作用していると思う。
2-2 複雑に絡み合った歴史について
「オーストリア的」についてはこのくらいにして、分析哲学とコンピューターサイエンスの歴史についての著者の捉え方についても少しコメントしておきたい。2つの学問の成立史が複雑に絡み合っているということを著者は示しているだろうか。本書に何度か出てくる人間関係表に両方の立役者が登場し、複雑な人間関係の線が引かれているのは確かである。そして、両者がともに19世紀末から20世紀初頭に発展した論理学や数学基礎論を出発点としているというのももちろん言うまでもないことであろう。
3 細かい点について
本書が扱っている話題のかなりの部分がわたしがよく知らない話題なので、全体に対して細かいファクトチェックをすることはできない。以下、いくつか気になったことを挙げる。
pp.76-77マッハ協会が欧米諸国に活動を広めていく上で「その際に用いられた略称」が「ウィーン学団」だという説明がなされているが、わたしの理解する両者の関係は異なる。マッハ協会は成人教育を目的とした明確な団体であるのに対し、ウィーン学団はシュリックの自宅の会合の参加者によって構成された理念的な集団を指す名前のはずである。少なくとも正式名称と略称という関係にはないはずである。
p.106 『認識(Erkenntnis)』の編集長は「ライヘンバッハだ」とあり、「むしろベルリン・グループの機関誌の側面の方が色濃い」と続けられているが、Erkenntnis誌はカルナップとライヘンバッハが共同編者をしていたはずで、たしかにライヘンバッハは大量に寄稿しているが、ウィーン学団のメンバーも多く論文を掲載しており、「ベルリン・グループの機関誌」はかなり言い過ぎだと思う。
p.310 「パトリック・サップス」とカタカナ表記されている名前だが、わたしが耳で聞いた範囲では「スッピズ」などの方が近いと思う。
今挙げられるのは以上だが、気になった点について調べてみたら書いてあるとおりだったことの方がはるかに多かった、というのは前にも書いたとおりである。
1 学術的な思想史の本として
いきなりであるが、この本を学術的な思想史の本として扱うのは現時点ではむずかしいと思う。「学術的な思想史の本」でないとしても、あとで述べるように、ある種の歴史観についての学術書として、あるいは思想史に関する一般むけの著作としてはまた評価が異なってくると思う。しかし、歴史そのものを学術的に扱う場合にはそれなりの作法があり、本書がその作法に従っているとはいいがたい。あとがき(p.353あたり)から判断すると、著者の小山さん自身も一般向けメルマガの書籍化として(つまり思想史の学術書とは一線を画すものとして)本書をとらえておられるようであるが、あまり思想史の著作を読み慣れない読者はそのあたりの境界がよくわからずに読んでしまうようにも思う。以下に書くことはもちろん小山さん自身はよく自覚しておられることだと思うが、どちらかというと本書の一般読者むけの念押しとして書いておきたい。
こうした歴史系の著作を読む際、研究者仲間はたいていは文献表や注から読み始めるのではないかと思う。そうするとまず驚かされるのが、本書巻末の参考文献表に挙げられている本が7冊しかない(英語5冊、日本語2冊)ことである。実際には7冊しか参照されていないということはなく、章末注の中でのみ名前が挙がっている書籍や論文も多くある。ただ、その典拠情報を巻末に整理しないことによって、同業者に学術的な思想史の本として読んでもらうつもりはない、というサインを送っているようにも読める。
次に、典拠に関連する注を見ていったときに驚くのは、人物や組織についての事実関係の注で英語版Wikipediaをはじめとする二次的・三次的資料ばかりが参照されているという点である。二次的・三次的資料といってももちろんいろいろなものがあり、一概に典拠として使えないということはもちろんない。たとえば本書では哲学者についてはスタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy、SEPとよく略称される)というオンラインリソースも多く参照されている。SEPの記事はその分野の第一人者が書いていることが多く、私自身もとりあえずの典拠として挙げることがよくある。これは特に問題視することではないと思う。ただ、SEPの記事もバランスがとれたものばかりではなく、著者の関心が色濃く反映された記述がされることがあるので、もうすこし視点の違うものや一次資料に近いものをあたれるならそれにこしたことはない。
そのSEPと比べても、英語版Wikipediaを堂々と典拠として挙げることには反対せざるを得ない。英語版Wikipediaが日本語版と比べてはるかに情報の精度が高く、調べ物の際に大変有用であることは否定しない。しかし、英語版Wikipediaの記述はSEPにくらべればはるかに玉石混交で、記述のバランスがとれてないことも多いというのが私の印象である。それとは別に、いたずらの対象となりやすいことも日本語、英語を問わずWikipediaの弱点だと思う。以前、ある概念についての英語版Wikipediaの項目を読んでいて、それを最初に使ったとされる人物の名前がまったく見覚えがない名前で、調べてもまったく関連情報が出てこなかったということがあった。さらに調べると大学の学生らしき同名の人物が検索にひっかかった。おそらく本人か友人かがいたずらしたのではないかと推測される。そのいたずらはすぐに削除されたが、似たようないたずらはけっこう頻繁に目にする。そういうこともあって、学生にレポート課題を出させるときにもWikipedia 情報には注意するように毎回注意喚起している。少し長くなったが、歴史記述の学術的な典拠として、私自身の判断としては、現時点では英語版Wikipedia は使えないし、学生にもそう指導している。(「現時点では」使えない、という但し書きをつけた理由だが、こうしたことについてのスタンダードは時とともに変わるものなので、たとえば30年後に本書を振り返ったときには英語版Wikipediaを典拠とすることに何の違和感もないかもしれないし、この文章を30年後に読んだ人は「昔の人は頭が硬かったんだな」と言うかもしれない。)そういう観点からは、本書の典拠のとり方が一つのメッセージとなってしまわないかというのを危惧している。
なお、典拠として何を使うかということと情報の質は必ずしも相関しない。本書の記述についてわたしがチェックできる範囲でいくらか調べた限りでは、むしろ内容の正確さには非常に注意が払われていると感じた。あとで数件疑問に思った点を挙げるけれども、これだけ膨大な情報を扱っている書籍であればもっと多く疑問点があるのが普通である。小山さんは二次資料に依拠するとしても、依拠すべき二次資料の選択については信用できる人なのだと思う。
何を典拠とするかということは本書の性格とも関わる。本書はこれまであまり光が当てられてこなかった、現代英米哲学やコンピュータ・サイエンスの思想的背景の東欧における起源(特にフォン=ノイマンやタルスキの生い立ち)に光をあてることを一つの眼目にしている。あまり光があてられてこなかったのには理由があって、この歴史を本気で(つまり学術的に認められる思想史研究として)語ろうとすれば、英独仏の3カ国語に加えてハンガリー語やポーランド語の文献を読みこなす必要がある。要するにハードルが高すぎて誰にも手が出せない状態にあったわけである。私自身『科学哲学の源流をたどる』では主に英語圏とドイツ語圏の話をし、すこしだけフランス語圏の話をするというバランスになったが、それは私自身の語学能力から言ってそれ以上のことはできなかったからというのもある。
小山さんはもしかしたらハンガリー語やポーランド語も堪能な上であえてわれわれ読者にもわかるように英語の文献のみを挙げてくれているのかもしれない。一般向け書籍であればそれも十分ありだろう。ただ、研究者仲間からすれば、英語文献だけを手がかりにしてこの問題を論じている(ように見える)こと自体、本書を学術的な思想史としては読めない一つの理由になるだろう。
2 本書の提示する「歴史観」ないし「視点」について
さて、最初に述べたように、本書は実証的な思想史研究というよりは、「ある種の歴史観についての学術書」として読むべき本だろうと思う。その歴史観の要点は2つある(他にもあると思うが以下で取り上げるのはこの2つである)。一つは、英米の分析哲学とコンピューター・サイエンスという2つの学問について「一見何の関係もなさそうに見える二つの学問の複雑に絡み合った成立史」(p.19)を描くことができるという歴史観であり、もう一つはその絡み合った成立史を読み解く鍵となるのが「19世紀から20世紀にかけて行われた「オーストリア的」なもののヨーロッパからアメリカへの移行」という視点だという歴史観である。「歴史観」という言葉が大げさなら「視点」くらいでもいいかもしれない。いずれにせよ、小山さんがやろうとしているのは、実証研究から一歩距離をおくことでかえって見えてくる大きなパターンをとらえる「視点」を提示することだと思われる。それ自体は非常におもしろい試みであり、わたしも触発されるところが大きかった。
本書が扱う膨大な話題のうち、私自身の専門と多少なりともかかわるのはウィーン学団の成立やそのアメリカでの受容にまつわる一部分だけであり、小山さんの語るストーリーの全体像の評価はわたしにはできない(できる人が誰かいるのかというのは疑問である)。しかし、わたしに多少なりともわかる範囲で考えたとき、「コンピューターサイエンスと分析哲学の複雑な絡み合い」と「「オーストリア的」なものの移行」という2つの視点が本当に有益なのかということにはちょっと疑問がある。それについて少し話したい。
2-1 「オーストリア的」なものについて
「オーストリア的」なものの方から取り上げる。小山さんの言う「オーストリア的」の具体的な意味は44-46ページあたりで説明されている。それによると、カント的、プロテスタント的な考え方がドイツ的であるのに対し、カトリック国家であるオーストリアの文化はアリストテレス的である。そして、カントとアリストテレスはプロテスタントとカトリックの争いを反映して「両立しえない哲学者」(p.46)になったという。以上のような説明のあとで、「このドイツとプロテスタントを否定するという点にこそ、「オーストリア的」の本質があるといえよう。」(p.46)と小山さんはまとめる。
この考えを援用して、小山さんはウィーン学団といわゆるベルリン・グループ(ライヘンバッハやヘンペルのグループ)の関係を以下のようにまとめる。
「「オーストリア的」な知的伝統と「ドイツ的」な知的伝統を特に区別しないのであれば、ウィーン学団とベルリン・グループの違いはぼやけて見えなくなってしまうだろう。しかし、プロテスタント哲学者として哲学に科学や数学の基礎づけという役割を与えたカントが大きな影響力を持っていたドイツと、ブレンターノにせよマッハにせよ科学と哲学の連続性を重視した哲学者が活躍したカトリック国家であるオーストリアの知的風土を区別するのであれば、ベルリン・グループとウィーン学団の違いは際立ったものとして見えてくるのである。」(p.105)この指摘を受けてあらためて考え直してみたのだが、やはり私にはウィーン学団とベルリン・グループがここでいわれているような点で「際立った」違いがあるようには見えない。
ライヘンバッハがカントの影響下にあってウィーン学団がマッハの影響下にあった、という対比が直前でなされている(p.104)が、差があるとしても微妙な温度差のレベルではないだろうか。バックグラウンドから言ってもドイツ出身のシュリックやカルナップの問題意識が新カント派の影響を受けているということは近年よく指摘されるようになっている(わたしの『科学哲学の源流をたどる』でも少し紹介した)が、彼らを理論的支柱とするウィーン学団が「ドイツとプロテスタントを否定する」ものにはたしてなりうるのだろうか。もちろん新カント派の思想自体はウィーン学団の批判の対象になるわけだが、この点でも特にライヘンバッハらドイツ側の哲学者と大きな違いがあるわけではない。国際会議においても雑誌の編集においても両グループは特に問題なく協力しているが、ウィーン学団がドイツ的なものを否定していたのだとしたら、そもそもそうした協力自体難しかったはずである。
また、わたしの理解では、ライヘンバッハらがシュリックやカルナップらと学問上で距離をおいたのは「意味の検証理論」をはじめとする極端な実証主義の主張だった。むしろこの点では「哲学に科学や数学の基礎づけという役割を与え」るのがウィーン学団側で、哲学と科学基礎論の明確な切り分けがないのがベルリン・グループという構図になっているように思われる。カントとの距離感と「哲学に科学や数学の基礎づけという役割を与え」るかどうかというのがあまり相関していないのではないだろうか。それとも、「基礎づけ」という言葉に特殊なカント的意味合いを含ませてあるのだろうか。
もう一点、気になるのが、カトリックとユダヤ教の関係である。本書の登場人物の多くがユダヤ系なわけであるが、もし「オーストリア的」なものの基本的な特徴がオーストリアがカトリック国家であるという点にあるのであれば、本書に登場するユダヤ系の知識人たちは「オーストリア的」なものの担い手たりえないのではないだろうか?これについては小山さん自身による以下のような記述がある。
「いかにユダヤ人差別があったとはいえ、オーストリアほどユダヤ人が法的に優遇されていた国はなかったのだ。むしろ帝国内のドイツ人にとって自分たちの国とはドイツ諸邦の一つであり、あるいはチェコ人やハンガリー人などの少数民族にとって、自分たちの国とはチェコやハンガリーといった帝国内諸国の一つであったことを思えば、帝国内のユダヤ人こそ最も「オーストリア的」な民だったと言えるのかもしれない」(p.177)もし「オーストリア的」という言葉の意味が46ページから変わっていないのだとしたら、オーストリア在住のユダヤ人はみなカントを否定してアリストテレスを信奉していたということなのだろうか?おそらくそうではなかろう。小山さんがここで言おうとしているのは、ユダヤ人たちがオーストリアをナショナル・アイデンティティとしていたという程度のことなのだと推察されるが、そうするとここで本書の中心概念の意味が変わってしまっていることになる。
その後、本書の後半にむかうにしたがって「オーストリア的」という言葉はあまり使われなくなるが、340ページで「ウィーン学団を受け入れた「オーストリア的」アメリカの大学」という見出しの一部として、本書のまとめ部分に登場する。ではアメリカの大学はどう「オーストリア的」なのか。これを本文中で確認すると、ウィーン学団のメンバーを受け入れたのは中西部の大学であったこと、中西部はもともとドイツやオーストリアの移民が多く住んでいたこと、特に「クリーブランドは「オーストリア的」なアメリカの象徴」であることなどである。しかし、もう一度確認すると、著者がいう「オーストリア的」であることの本質は「ドイツとプロテスタントを否定するという点」(p.46)だったはずであるが、ここまでの章でアメリカ中西部の人々やそこにある大学がドイツやプロテスタントを否定していたという話はわたしが見るかぎりどこにも出てこず、むしろドイツ移民とオーストリアや東欧の移民が共存していたという話ばかりが書かれている(クリーブランドについても、書かれているのはオーストリア移民も多かったということだけであって、ドイツ移民と共存していたことがむしろはっきり述べられている)。
それとも、177ページで言うような意味で「オーストリア的」なのだろうか?アメリカ中西部の諸大学はドイツやチェコやハンガリーに還元されないものとしての「オーストリア」アイデンティティを持っていたという意味で「オーストリア的」だったのだろうか。それも非常にありそうにないことに聞こえる。
ちなみに本書の副題は「アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ」となっている。アメリカンアイデアリズムというのはヘーゲル哲学の影響の強い観念論・理想主義のことであり、この思想的な流れがアメリカ哲学のその後に影響したというのが本書の後半の一つの筋となっている。さて、ここで、ヘーゲル哲学や観念論は「ドイツ的」か「オーストリア的」かといえば「ドイツ的」に分類されるのではないだろうか。この点についての著者の考えがどうなっているか、本書の中を探してみたが見当たらなかった。
まとめると、「オーストリア的」という言葉は本書のそれぞれのパートで変幻自在に意味が変わっているように見受けられる。最初に導入された意味で特に用いられているのがウィーン学団とベルリン・グループの対比の箇所であるが、ここもどちらとも言えるレベルのものをむりに切り分けるために使われているように思われる。総じて「オーストリア的」という概念は、本書の「視点」を明確化するというよりむしろぼかすような形で作用していると思う。
2-2 複雑に絡み合った歴史について
「オーストリア的」についてはこのくらいにして、分析哲学とコンピューターサイエンスの歴史についての著者の捉え方についても少しコメントしておきたい。2つの学問の成立史が複雑に絡み合っているということを著者は示しているだろうか。本書に何度か出てくる人間関係表に両方の立役者が登場し、複雑な人間関係の線が引かれているのは確かである。そして、両者がともに19世紀末から20世紀初頭に発展した論理学や数学基礎論を出発点としているというのももちろん言うまでもないことであろう。
しかし、「源泉を共有している」ことと「人間関係が複雑に絡み合っている」ことをくみあわせても、二つの学問分野の成立史自体が複雑に絡み合っているということにはならないだろうと思う。そこではたと気づくのは、本書で描かれる「思想史」はほぼ人間関係の話に終始しており、登場人物たちの思想内容についてはそれこそ辞書的な記述が少しずつ添えられているにすぎないということである。これではそもそも二つの学問分野が成立の過程で内容的に影響しあっているかどうか確かめようがない。
本書で一つだけ例外的に内容的な影響関係について語られているのがタルスキとデイヴィッドソンの関係である(pp.345-347)。デイヴィッドソンはよく知られているようにタルスキの真理定義を捉え直す形で真理条件意味論を考案した。これは二つの学問分野の影響関係の一例と言っていいだろう。ただ、デイヴィッドソンは分析哲学の成立期の哲学者というより、ある程度分野の形が固まってから登場した哲学者の一人というべきだろう。タルスキはタルスキで、コンピュータ・サイエンスの成立史という観点からは中心人物とは言いにくい。 本書の登場人物の中ではフォン・ノイマンやチューリングこそがそちらの歴史の中心に近いだろうが、彼らが成立期の分析哲学から内容的な影響を受けたとか、逆に彼らが成立期の分析哲学に内容的な影響を与えたといった例は本書では挙げられていないと思うし、わたしも思いつかない。もちろんチューリングテストのアイデアはその後の心の哲学などに影響を与えることになるが、それはまた少し後の話である。
「分析哲学」を広くとって、ウィーン学団やベルリン・グループそのものを分析哲学のはじまりに位置づけるなら、またちょっと話は違うかもしれない。科学哲学者たちの主催する会議に顔を出している以上、フォン=ノイマンも何かしら彼らの思想から影響をうけていないことはないだろう。ただ、そのあたりについては本書はあまり掘り下げてくれない。「数学の基礎づけ」が会議の1つのテーマとなっていることから、論理学や数学基礎論が両者の共通の関心としてあったということがわかる程度である(そしてそれはいわば公知のことがらである)。
というように考えていくと、複雑なのはあくまで人間関係であって、内容的には分析哲学とコンピュータ・サイエンスの成立史はたいして絡み合っていない、という常識的な見解がやはり支持されるように思う。もしかしたら、小山さんが言いたいのは、そもそもの前提として、思想史において内容が重要だというのが間違っていて、大事なのは人間関係なのだ、ということなのかもしれない。わたしも思想を理解する上で人間関係を理解することが重要であることは否定するつもりはない。ただ、それはあくまで思想の内容に人間関係が影響するからである。人間関係の話だけで完結してしまっては「思想史」まではたどり着いていないと私ならいいたくなる。3 細かい点について
本書が扱っている話題のかなりの部分がわたしがよく知らない話題なので、全体に対して細かいファクトチェックをすることはできない。以下、いくつか気になったことを挙げる。
pp.76-77マッハ協会が欧米諸国に活動を広めていく上で「その際に用いられた略称」が「ウィーン学団」だという説明がなされているが、わたしの理解する両者の関係は異なる。マッハ協会は成人教育を目的とした明確な団体であるのに対し、ウィーン学団はシュリックの自宅の会合の参加者によって構成された理念的な集団を指す名前のはずである。少なくとも正式名称と略称という関係にはないはずである。
p.106 『認識(Erkenntnis)』の編集長は「ライヘンバッハだ」とあり、「むしろベルリン・グループの機関誌の側面の方が色濃い」と続けられているが、Erkenntnis誌はカルナップとライヘンバッハが共同編者をしていたはずで、たしかにライヘンバッハは大量に寄稿しているが、ウィーン学団のメンバーも多く論文を掲載しており、「ベルリン・グループの機関誌」はかなり言い過ぎだと思う。
p.310 「パトリック・サップス」とカタカナ表記されている名前だが、わたしが耳で聞いた範囲では「スッピズ」などの方が近いと思う。
今挙げられるのは以上だが、気になった点について調べてみたら書いてあるとおりだったことの方がはるかに多かった、というのは前にも書いたとおりである。
iseda503 at 22:14|Permalink│Comments(0)│