April 14, 2024

ヒュームの帰納の問題の再発見

ヒュームの帰納の問題は現代の科学哲学で帰納をめぐる哲学的問題を紹介する際、必ずといっていいほど言及される。このように定番になっていることから、「ヒュームの帰納の問題」がヒュームが『人間本性論』を公にして以来一貫して哲学の大問題として論じられてきたような印象を持つ人も多いかもしれない。かく言う私自身も科学哲学の歴史について調べ始めるまで、当然のようにヒュームの帰納の問題が二百数十年来の大問題だったと想定してきた。
しかし、少し調べれば分かるように、19世紀前半から中頃にかけての「帰納」をめぐる論争(ハーシェル、ヒューウェル、ミルらによるもの)では、ヒュームが指摘した論点は全く顧みられていない(このあたりは『科学哲学の源流をたどる』でも少し紹介したし、以下でも触れる)。では、ヒュームの帰納の問題を哲学的問題圏の中央へと押し出したのは誰なのだろうか?言い換えればヒュームの帰納の問題を「再発見」したのは誰なのだろうか?ここでいう「再発見」は、「個人的に認識した」ということではなく、「哲学コミュニティの共有知となるような形で提示した」というニュアンスで捉えてほしい。
本題に入る前に言葉づかいについて一言述べておく。「ヒュームの問題」というときには、「ヒュームの帰納の問題」の他「ヒュームの因果の問題」を指す場合がある。こちらはヒュームの著作以降ずっとその存在が認識されてきた。両者の問題を明確に区別するため、まわりくどい表現ではあるが、「ヒュームの帰納の問題」「ヒュームの因果の問題」という呼び分けを一貫して行う。

1 ヒューム自身の記述

まず、ヒューム自身は「帰納の問題」について述べているとされる箇所で実際に何を述べているか確認しよう。ほぼ同趣旨の議論が『人間本性論』と『人間知性研究』で行われている。
『人間本性論』(1739-1740, A Treatise of Human Nature)では、第一部「知性について」(book 1 : Of the Understanding)の中で(以下訳文は木曾好能訳『人間本性論 第一部 知性について』法政大学出版局 普及版2019より)でこの問題が取り上げられている。
因果関係についての知識をわれわれはどうやって得るのか、という問題を考察する中で、ヒュームはいくつかの議論を考察しているが、「帰納の問題」として知られるのはそのうちの一つということになる。

"if Reason determin’d us, it wou'd proceed upon that principle that instances, of which we have had no experience, must resemble those, of which we have had experience, and that the course of nature continues always uniformly the same."
「もし理性がわれわれを決定するのであれば、理性は、「経験されなかった事例は、経験された事例に必ず類似し、自然の歩みは常に一様に同じであり続ける」という原理に基づいて、そうするであろう」(邦訳 110-111ページ)

この原理が「斉一性の原理」(principle of uniformity)などと呼ばれる原理である。この原理について、ヒュームはこう述べる。

Our foregoing method of reasoning will easily convince us, that there can be no demonstrative arguments to prove, that those instances, of which we have had no experience, resemble those, of which we have had experience.
「われわれの先の論法は、「経験されなかった事例は、経験された事例に類似する」ということを証明するいかなる論証的議論もあり得ないことを、容易に確信させるであろう。」(邦訳111ページ)

論証的議論(demonstrative argument)は現代的な意味における演繹的推論に近いイメージだが、観念間の関係についての推論ということなので、むしろカント的な演繹に近いかもしれない。論証的議論がない根拠として、斉一性の原理が成り立たない状態を想像することができることが挙げられている。では、論証的でない議論はどうか。

The idea of cause and effect is deriv'd from experience, which informs us, that such particular objects, in all past instances, have been constantly conjoin'd with each other: And as an object similar to one of these is suppos'd to be immediately present in its impression, we thence presume on the existence of one similar to its usual attendant. According to this account of things, which is, I think, in every point unquestionable, probability is founded on the presumption of a resemblance betwixt those objects, of which we have had experience, and those, of which we have had none; and therefore 'tis impossible this presumption can arise from probability. The same principle cannot be both the cause and effect of another; and this is, perhaps, the only proposition concerning that relation, which is either intuitively or demonstratively certain.
「原因と結果の観念は、これこれの特定の対象が過去のすべての事例においてたがいに恒常的に随伴していたということをわれわれに教えるところの、経験から生じる。そして、それらの対象の一方に類似した対象が印象として直接現前していると想定されているのであるから、われわれはその対象に基づいて、それに常に伴っていた対象に類似した対象が存在するものと決めてかかるのである。以上の説明はすべての点で疑問の余地のないものに思われるが、この説明によると、蓋然性(蓋然的推論)は、経験された対象と経験されたことのない対象の間の類似性の仮定に基づいており、それゆえ、この類似性の仮定が蓋然性から生じることは、不可能である。同じ一つの原理が、他のものの原因であると同時に結果であることは、不可能なのである。おそらく、このことが、原因と結果の関係についての命題で、直観的または論証的に確実な、唯一の命題であろう。」(邦訳111-112ページ)

ここで「同じ一つの原理が、他のものの原因であると同時に結果であることは、不可能なのである。」というのがヒュームの議論の核になる部分である。斉一性の原理(類似性の仮定と言い換えられている)は過去の類似性から導出されているように見えるが、過去の経験からなにかを導出するのにそもそも類似性の仮定が必要だったはずなのだから、自分で自分を導出する形になってしまい、そんな議論は不可能だ、というわけである。ここでは循環論法という言葉も無限背進という言葉も使われていないが、「同じ一つの原理が、他のものの原因であると同時に結果であることは、不可能なのである。」という一文をそうした議論を指し示すものとして解釈するのは十分可能であろう。

さて、『人間知性研究』(An Enquiry Concerning Human Understanding)の方ではヒュームはどう述べているだろうか。(以下、訳文は『人間知性研究』神野慧一郎, 中才敏郎訳 京都大学学術出版会、2018による)

All reasonings may be divided into two kinds, namely, demonstrative reasoning, or that concerning relations of ideas, and moral reasoning, or that concerning matter of fact and existence. That there are no demonstrative arguments in the case seems evident; since it implies no contradiction that the course of nature may change, and that an object, seemingly like those which we have experienced, may be attended with different or contrary effects.
「一切の推理は二つの種類に分けられるであろう。すなわち、ひとつは論証的推理あるいは観念間の関係についての推理であり、もう一つは、精神学的推理あるいは事実と存在についての推理である。懸案の場合に、論証的な議論がないことは明白なように思われる。なぜなら、自然の行程が変化しうるということ、そして、われわれがこれまで経験したことのある対象と見かけの上で似た対象が、[これまでとは]異なった結果あるいは反対の結果を伴いうるということは、何の矛盾も含まないからである。」(邦訳 66ページ)

ここでは論証的推理demonstrative reasoningと対比されるのが精神学的推理moral reasoningというわかりにくい言葉になっているが、経験的根拠に基づく推論の話をしているようである。そして斉一性の原理について論証的推理がないということについては『人間本性論』の指摘を踏襲している。

We have said that all arguments concerning existence are founded on the relation of cause and effect; that our knowledge of that relation is derived entirely from experience; and that all our experimental conclusions proceed upon the supposition that the future will be conformable to the past. To endeavour, therefore, the proof of this last supposition by probable arguments, or arguments regarding existence, must be evidently going in a circle, and taking that for granted, which is the very point in question.
「われわれが述べたように、存在に関する一切の議論は原因と結果の関係に基づいており、その関係についてのわれわれの知識はもっぱら経験に由来する。しかも、われわれの実験的推断はすべて、未来が過去と一致するであろうという想定に基づいてなされている。それゆえに、この最後の想定を蓋然的な議論または存在に関する議論によって証明しようと務めることは明白に循環することであり、まさしく問題となっている点を当然のこととして仮定することであるにちがいない。」(邦訳67-68ページ)

ここが『人間知性研究』における帰納の問題の説明に該当する箇所である。蓋然的な議論の根拠となるべき「未来が過去と一致するであろうという想定」、つまり斉一性の原理を蓋然的な議論(存在についての議論というのがどのような議論を想定しているかははっきりしないが)に基づかせようとするのは「循環」going in a circleであり論点先取(taking that for granted, which is the very point in question)であるというわけである。言っていることは同じであるが、「循環」という言葉が明示されることで議論の趣旨がより明確になっている。

「ヒュームの帰納の問題」についての典拠としてこれらの箇所を見たときに一つ気づくのは、ヒュームが一切「帰納」という言葉を使っていないということである。ヒューム自身はprobability(蓋然的推論)という表現を用いている。これはヒュームの時代背景を考えれば自然なことで、この時期は帰納という言葉は個別についての命題から一般についての命題への推論という意味で捉えるのが普通であった一方、ヒュームはその形式に乗らないものも含めた経験に基づく推論全般の話をしていたため、「帰納」という言葉は使いにくかったはずである。演繹と帰納という言葉の現代の用法に慣れていると気づきにくいポイントかもしれない。
他方、ヒューム自身が確かにヒュームの帰納の問題として現在知られる問題を指摘しているということもこれらの引用から分かる。古典的な議論の典拠をたどると、その議論をしたとされる本人はまったくそんな議論をしていないというのは哲学ではよくあることで、他ならぬヒュームについても、メタ倫理学のヒュームのテーゼ(「である」から「べきである」は導出できない)はヒューム自身が述べたテーゼではない。それと比べれば、ヒュームの帰納の問題はまちがいなくヒュームが指摘した問題である。
とはいえ、ヒュームの表現は(特に『人間本性論』のバージョンは)わかりにくいので、ここでそんな重要な議論がなされているというのは、何気なく読んでいると見逃してしまうかもしれない。ヒュームの議論が「再発見」される必要があったのは、この分かりにくさも一因であろう。

2 ヒュームの帰納の問題の忘却

さて、このヒュームの帰納の問題が「再発見」されたのがいつかという問いが意味をなすには、まず、この問題が一端忘却されたということを確認しなくてはならない。これはなかなかトリッキーな問いで、文章中で言及されていなくても、ただ言及しないだけで問いそのものは認識されているということはありうる。しかし、当然触れるべき文脈で触れられていないならば、それはこの問題が忘却されていると考える一応の理由になるはずである。

(1)ミルの『論理学体系』
帰納的方法について論じた大きな著作といえば1843年に刊行され、何度も改訂を繰り返したミルの『論理学体系』である。本書には第三篇第3章「帰納の根拠について」という、いかにもヒュームの帰納の問題を論じそうな章が設けられている。しかし、ここで(それどころか帰納について論じている箇所のどこでも)ミルはヒュームの名前に言及しない。代わりに、以下のような記述がある。(以下の引用ではCollected Works of John Stuart Mill, vol. VII, 1973 のページ数を示す)

"Whatever be the most proper mode of expressing it, the proposition that the course of nature is uniform, is the fundamental principle, or general axiom, of Induction. It would yet be a great error to offer this large generalization as any explanation of the inductive process. On the contrary, I hold it to be itself an instance of induction, and induction by no means of the most obvious kind." (Collected Works vol. 7, p.307)
「どう表現するのがもっとも適当であるにせよ、自然の仮定は斉一的であるという命題は、帰納の根本的な原理、ないし一般的な公準である。この大きな一般化を帰納的プロセスのなんらかの説明として提示するのは大きな過ちであろう。むしろ、これ自体が帰納の一例であって、しかも決して最も明白な種類のものというわけではない帰納なのである。」

つまり、ミルは、帰納的推論が斉一性の原理を前提としていること、斉一性の原理の正当化に帰納が必要であるということをヒューム同様に認識しながら、これは循環論法だから正当化にならない、というヒュームの肝心の指摘は無視したかっこうになっているのである。

もう少し帰納の問題に迫っていそうな箇所として、第三篇第21章「普遍的因果の法則の証拠について」で以下の箇所がある。

"The assertion, that our inductive processes assume the law of causation, while the law of causation is itself a case of induction, is a paradox, only on the old theory of reasoning, which suppose the universal truth, or major premise, in a ratiotination, to be the real proof of the particular truths which are ostensibly inferred from it. According to the doctrine maintained in the present treatise, the major premise is not the proof of the conclusion, but is itself proved, along with the conclusion from the same evidence." (Collected Works vol. 7, p.572)
「われわれの帰納のプロセスが因果関係の法則を前提としながら、因果関係の法則そのものが帰納の事例だと主張するのは、推論についての古い理論においてのみ逆説となる。そうした理論では、厳密論証における普遍的真理つまり大前提はそこから明示的に推論される個別の真理の本当の証明であると想定される。本論考で主張されている説によれば、大前提は結論の証明ではなく、それ自体、結論と同じ証拠から結論とともに証明されるものなのである。」

因果関係の法則自体が帰納だというのはパラドックスだ、というのは(ここでもまたヒュームの名前は出てないのだが)ヒュームの帰納の問題を思わせる。しかし、そのあとに述べていることを見るかぎり、ミルがここで想定しているのは三段論法的論証にまつわるパラドックスのようである。それに対して、ミルの方法では、前提となる普遍命題の方がより確実だと主張するわけではなく、帰納の前提も結論も同じ証拠によって「証明」されるからいいのだ、というわけである。しかし、ヒュームの帰納の問題では、その「証明」がさらに高次の斉一性の原理を前提をせずにどうやって成り立つのかが問題となっているわけで、論点が食い違っていると言わざるをえない。最大限好意的に解釈しても、ミルがヒュームの帰納の問題を認識していたとしても、その真の威力には気づいていなかったとは言わざるを得ないのではないか。

私自身の検討はこの程度だが、ミルがヒュームの帰納の問題を認識していたかどうかについては、ミル研究者のジョフリー・スカーによる詳細な検討がある (Scarre, G. (1989) Logic and Reality in the Philosophy of John Stuart Mill. Kluwer., ch. 4) 。これまでのミル解釈では、ミルはヒュームの帰納の問題に答えようとしながら失敗している、という解釈の仕方が一般的だったが、スカーはミルが(というよりこの時代の哲学者全般が)ヒュームの帰納の問題を認識していなかったと分析する。スカーはここで検討した箇所以外の箇所も踏まえ、ミルが関心をもっていたのは全く異なる問題だったと論じている。
他方、以下の論文では上の2つ目の引用箇所を手がかりに、ミルはこの問題を認識し解決を提示していると論じている。(すでに書いたとおり、わたしはその読み方には無理があると思うが)
Millgram, E. (2009) "John Stuart Mill, Determinism, and the Problem of Induction" Australasian Journal of Philosophy 87, 183-199.

(2)18〜19世紀のそのほかの哲学者
前項で紹介したスカーの論考では、補遺として、18〜19世紀の他の哲学者がヒュームの帰納の問題を理解していたかどうかを検討する(Scarre 1989, pp. 100-103)。検討の対象となるのはGeorge Campbell、Dugald Stewart、Thomas Reid、William Hamilton、Thomas Brown、Samuel Bailey、Kant,William Whewellといった哲学者たちである。スカーの結論は、これらの哲学者は全般にヒュームの帰納の問題を認識論的な問題ではなく心理学的な問題ととらえ、そのためヒュームが何を言っているかを理解しそこねている(少なくとも文章の中で理解を表現できていない)ということになる。

(3)ヒューム著作集におけるグリーンのコメンタリー
奇跡論など一部の論考をのぞいてあまり言及されなくなっていたヒュームがふたたび英国の重要な哲学者として注目されるようになったのは、19世紀末のヒューム著作集の刊行がきっかけになったとスカーは言う。
「事実は、グリーンとグロースの編集によるヒュームの著作が1874年に出版される前は、この帰納の懐疑論的問題についての生き生きとした関心はどこにも存在せず、ミルはその前に亡くなっていたのである。」(Scarre 1989, p.83)
ということは、その著作集ではヒュームの帰納の問題がクローズアップされているということだろうか。チェックしてみよう。
この著作集の『人間本性論』の巻には編者の一人であるT.H.グリーンによる300ページ近い長大な批判的コメンタリーが付されている。
Hume, D.(1874) A treatise on human nature; being an attempt to introduce the experimental method of reasoning into moral subjects; and, Dialogues concerning natural religion. Edited by T.H. Green and T.H. Grose. Longman, Green and Co.
https://archive.org/details/atreatiseonhuma00unkngoog/

グリーンが「斉一性の原理」に言及するのは同書のpp.272-276(320節から323節)あたりであるが、そこではたとえば以下のようなことが述べられている。

The procedure of the inductive logician shows that his belief in the uniformity of a sequence is irrespective of the number of instances in which it has been experienced. A single instance in which one feeling is felt after another, if it satisfy the requirements of the 'method of difference,' i.e. if it show exactly what it is that precedes and what it is that follows in that instance, suffices to establish a uniformity of sequence, on the principle that what is fact once is fact always. Now a uniformity that can be thus established is in the proper sense necessary. Its existence is not contingent on its being felt by anyone or everyone. (p. 273)

ここで出てくるmethod of differenceはミルの「差異法」のことなので、「帰納的論理学者」inductive logicianとして想定されているのもミルやその追従者であろう。ここでグリーンが述べているのは、そうした近年の帰納的方法論を使って、1回きりの事例からも継起の斉一性の原理を確立することができるということである。そして、そうして確立された斉一性は本来の意味において必然であって、だれかがそれを感じることに依存しない、ということである。そう考えるのであれば確かに帰納の問題は生じようがない。しかし、ヒュームがこのグリーンのコメントを聞いたならば、差異法も過去の事例に対して適用される以上、そこで得られた結論がまだ調査していない対象にも適用されるとどうして思うのか、なぜ「必然性」がそこにあると思うのか、と聞き返すだろう。
グリーンは続けて以下のように述べる。

"It may be objected indeed that the principle of the 'uniformity of nature,' the principle that what is fact once is fact always, itself gradually results from the observation of facts which are feelings, and that thus the principle which enables us to dispense with the repetition of a sensible experience is itself due to such repetition. The answer is, that feelings which are conceived as facts are already conceived as constituents of a nature" (p.273)

ここで確かにグリーンは、反復 (repetition)によらずに一般化を行うためには斉一性の原理に訴える必要があるが、その斉一性の原理自体が反復によって徐々に確立してきたものではないか、という反論を考察している。この反論のパターンがヒュームの帰納の問題を踏まえたものであるのは間違いないだろう。しかし、前の引用からの続きとしてよく読んでみると、グリーンが扱っているのは、帰納的一般化のために反復が必要なのか単一の事例でもいいのかという対比であって、反復からの一般化も含めた帰納そのものへの懐疑ではない。また、グリーンのこの反論への答えが、「事実として捉えられる感覚自体がすでに自然の構成要素として捉えられている」から反復は必要ない、というのはヒュームの問題のバリエーションへの答えとしてあまりに軽すぎるように思われる。心理的事実としてそう捉えるにしても、すでに自然の構成要素であるものとして捉えることがどうやって正当化されるのか、とヒュームなら当然ききかえすところであろう。
この箇所から判断するかぎり、おそらくグリーン自身はヒュームが斉一性の原理が循環的にしか正当化されないという議論を行っていることを認識している(だからそのバリエーションをここで持ち出している)。しかし、コメンタリーの読者は(少なくともここの記述の内容からは)ヒュームがそんな強力な議論を提示していることに気付けないだろう。哲学コミュニティの共通認識として、という意味では、ここでヒュームの帰納の問題が再発見されたとは言い難いように思われる。これだけ依拠しておいてスカーには申し訳ないが、1874年にヒュームの帰納の問題が再発見され、以後哲学の重要問題として扱われ続けてきた、という解釈には同意しかねる。では誰が再発見したのだろうか。

3 ポパーとライヘンバッハの定式化
ヒュームの帰納の問題を再発見したのは誰かというのを考える上では、明確に再発見された後だと言える時点を特定して、そこから遡って探索を行うのが一つの定石だろう。

(1)ポパー
科学哲学においてヒュームの問題について論じている古めの著作としておそらく多くの人が思いつくのがポパーの『探求の論理』(Logik der Forschung 1934)であろう。ポパーはよく知られているように、ヒュームの帰納の問題を一つの根拠として帰納的方法は正当化できないと考え、「演繹的方法」を科学の中心に据えるべきことを主張した。以下、英文は1959年の英語版『科学的発見の論理』(The Logic of Scientific Discovery, Hutchinson and Co. 1959)による。  

"That inconsistencies may easily arise in connection with the principle of induction should have been clear from the work of Hume;.....Thus, if we try to regard its truth as known from experience, then the very same problem which occasioned its introduction will arise all over again. To justify it, we should have to employ inductive inference; and to justify these we should have to assume an inductive principle of a higher order; and so on. Thus the attempt to base the principle of induction on experience breaks down, since it must lead to an infinite regress." (Popper 1959, p.29)
つまり、ヒュームの議論に明確に見られるように、帰納の原理を正当化しようとすれば帰納的推論を使わざるをえないが、帰納的推論は帰納の原理を前提とせざるをえず、無限背進(infinite regress)に陥ってしまうというわけである。おなじみのヒュームの帰納の議論がここで明確に定式化されている。
ちなみにドイツ語では ”Wir musten ja, um das Induktionsprinzip zu rechitferigen, induktiv Schlusse anwerden, fur die wir also ein Induktionsprinzip hoherer Ordnung voraussetzen musten usw. Eine empirische Auffassung des Induktionsprinzips scheitert also daran, das sie zu einem unendlichen Regres fuhrt." (ss. 4-5.)となっている。『科学的発見の論理』はかならずしもドイツ語版の忠実な翻訳となっていない箇所もあるようだが、ここはほぼ直訳だと言ってよいだろう。

(2)ライヘンバッハ
この周辺の箇所でポパーが帰納についての先行する議論として引用するのが、ライヘンバッハの「因果と確率」という論文である(Reichenbach, H., (1930) "Kausalitat und Wahrscheinlichkeit" Erkenntnis 1, 158-188.) この論文はModern Philosophy of Science: Selected Essays (translated and edited by Maria Reichenbach, Routledge & Kegan Paul, 1959) というライヘンバッハの論文集に"Causality and probability"というタイトルで英訳して収録されている。(今回は英訳の方しかチェックできなかった)
この論文でヒュームの帰納の問題は明確に言及されている。

"Hume has also shown that it is impossible to justify induction by experience because any such inference presupposes induction on a higher level. This epistemological fact cannot be denied, and philosophical theories which do not accept it cannot be taken seriously. For this reason, we shall discuss only two philosophical treatments of the problem of induction which have been developed in response to Hume's criticism." (Modern Philosophy of Science: Selected Essays., p.74)

経験からの帰納は必ず高次の帰納を前提とするので帰納の正当化は不可能だ、というわけである。簡潔ではあるが現代におけるのと同じヒュームの帰納の問題の話をしているのは明確である。
一つ注意しておくと、ライヘンバッハもポパーも、ヒュームがオリジナルの議論でやったような循環論法としてではなく、高次の帰納や高次の斉一性の原理を持ち出す必要があるという無限背進の問題として帰納の問題を定式化している。アグリッパのトリレンマでも循環と無限背進はトリレンマの別の角ということになっていて、論理的には両者の議論は区別可能だが、ここではそこまで細かいことを気にする必要はないだろう。
いずれにせよ、1930年代にはヒュームの帰納の問題は再発見されていたというのは間違いなく言えるだろう。探索の対象となるのはその前の時期ということになる。

4 再発見者の候補

以上の議論で、ヒュームの帰納の議論の再発見の時期は1874年ごろから1930年ごろの50年あまりに絞られたわけであるが、この50年あまりの間のどこで再発見されたのかというのはなかなか特定が難しい。再発見者の候補をいくつか見てみよう。

(1)グリーン
前出のスカーは「ヒュームの前にはセクストス・エンペイリコスが帰納の合理性に疑いを投げかけるような問題が帰納にはあることを知っていた。ヒュームのあとで、この問題の明確な把握を示した最初の哲学者として私が知るのはT.H.グリーンであり、彼がヒュームの著作が1874年に再発行された際の編者の一人であったのは決して偶然の一致ではない。」(Scarre 1989, p.103)とのべる。
しかし、スカーが引用するのはグリーンのヒューム著作集へのコメンタリーではなく、ミルの帰納の概念についての論考の一部である。(Green, T.H. 1890 The Logic of J.S. Mill, in The Works of Thomas Hill Green, ed. by R.L. Nettleship, vol. 2 Longman, Green and Co. )
今回は1890年版が参照できなかったので1911年の6刷りを参照している。
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.264867/
以下がその引用箇所である。

"But how do we know that the instances, with the examination of which we are always dispensing on the strength of the [inductive] rule, might not be just what would invalidate it if they were examined? (Green vol. 2 282)

ここでグリーンはまだ確かめていない事例が実は既知の事例と食い違っている可能性があることを指摘している。つまり、帰納の問題を、単なる心理学的問題ではなく、正当化の問題であり、懐疑の対象となる問題としてグリーンが認識しているのは間違いなさそうである。しかし、ヒューム、ポパー、ライヘンバッハの引用で確認したような「循環論法」や「無限背進」の問題を指摘しているわけではないという点で、グリーンがヒュームの帰納の問題をフルに提示できているのかというと物足りない。それだけでなく、この引用の直前の部分を見ると、そもそもヒュームの帰納の問題についてグリーンは論じていないのではないかという疑惑が生じる。

It [the axiom of the uniformity of nature] is regarded as an assumption that things resembling each other in a great many points will resemble each other also in others, or that what has happened often will happen always, that the future will resemble the past. If we ask for the ground of such an assumption, we are referred to inductio per enumerationem simplicem. A rule which is to enable us to dispense with such enumeratio is itself founded on it. Upon the strength of a mere enumeration of instances in which phenomena have appeared in a uniform relative order, we assume from a single instance, in which two phenomena have been associated, that they will -be in all instances so associated. (pp. 281-282)

この箇所をよく読むと、「もし我々がそうした仮定の根拠を求めるなら、我々は単純枚挙の帰納へと差し向けられる。そうした枚挙をなしですますことを可能にするような規則は、それ自体が枚挙に根拠付けられている」とグリーンは言っていて、「そうした枚挙をなしで済ます」to dispense with such enumeratioことができるのか、つまり一つの事例だけから一般化できるのかという問題を考えているようである。ということは、この直後のスカーが引用する箇所での懐疑は、枚挙に基づかない一つの事例からの一般化についての懐疑だったことになる。この問題意識は上で引用したヒュームへのコメンタリーにおける問題意識とも一致する。
ここでも、グリーンがヒュームの帰納の問題を理解していたであろうことは推測できるが、それを読者に伝わる形で定式化しているかというと、そこまではしていないと言わざるを得ない。ふたたび、スカーには悪いけれども、「ヒュームのあとで、この問題の明確な把握を示した最初の哲学者」というグリーンの評価には同意することができない。

(2)エイキンス
19世紀における言及の例として、H.A. エイキンスの1893年のヒュームについての研究書にヒュームの帰納の問題に関連する記述があった。
Aikins, H.A. (1893) The Philosophy of Hume, as contained in extracts from the first book and the first and second sections of the third part of the second book of the Treatise of human nature. Holt and Co.
https://archive.org/details/cu31924029012719/

But in every case the inference is a matter of imagination, and not of reasoning. For, did the inference from past to future depend upon reasoning, the uniformity of nature would have to be the major premise. And what reasoning could ever prove this premise? It cannot be demonstrated, for there is no contradiction in supposing the course of nature to change; and in every attempt to prove it by induction it is merely assumed. (p.29)

この最後の「自然の斉一性を帰納で証明しようとするいかなる試みにおいても、それは単に仮定されている。」というのは明らかにヒュームの帰納の問題を指した一文である。本当にヒュームの帰納の問題を正しく認識しているかどうか若干あやしいグリーンと比べると、定番の定式化に一歩近づいてはいる。とはいえ、循環や無限背進の可能性への言及がないので、なぜ自然の斉一性を単に仮定するしかないのか、この説明ではよくわからない。

(3)ラッセル
バートランド・ラッセルは一般むけの哲学入門書において帰納の問題をとりあげており、彼の記述を通して帰納の問題を知ったという人も多いだろう。
1912年の『哲学入門』(Problems of Philosophy, Holt.)の第6章「帰納について」(On Induction)において、ラッセルは以下のように述べる。
(訳文は『哲学入門』高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2005による)
It has been argued that we have reason to know that the future will resemble the past, because what was the future has constantly become the past, and has always been found to resemble the past, so that we really have experience of the future, namely of times which were formerly future, which we may call past futures. But such an argument really begs the very question at issue. We have experience of past futures, but not of future futures, and the question is : Will future futures resemble past futures ? This question is not to be answered by an argument which starts from past futures alone. We have therefore still to seek for some principle which shall enable us to know that the future will follow the same laws as the past. (pp.100-110)
「「私たちが、未来は過去に似ているだろうということを知っているとする理由ならある。未来だったことも絶えず過去になっていったのだし、また未来と過去が類似していることも、見出されてきた。だから私たちは、本当は未来の経験を持っているのである。つまり、以前は未来であった、「過去の未来」とでも言える時の経験を持っているのだ」という議論がある。しかしこれは、実は問題の答えを先に決めてしまった上で、議論している。「過去の未来」の経験があるとしても、「未来の未来」の経験はない。すると、「未来の未来」は「過去の未来」と似ているのかが問題になる。「過去の未来」から議論をはじめても、決してこの問いに答えることはできない。それゆえ、未来が過去と同じ法則に従うことが知られるようにするためには、やはり何らかの原理が必要になるのである。」(邦訳80ページ)

"really begs the very question at issue"(問題となっている点を論点先取している)という表現から、帰納の正当化が循環論法になってしまうというヒュームが指摘した問題をここで扱っているのが明瞭である。しかしこの周辺にはヒュームへの参照はなく、本書の他の箇所で若干名前が触れられる程度にとどまっている。さらに言えば、ヒューム自身は帰納の問題のポイントをここまで明確に提示してくれてはいないので、議論の提示の仕方自体にラッセルのオリジナリティがかなりあるのは間違いない。

2年後の『外的世界についてのわれわれの知識』Our Knowledge of the External World(1914) では明示的にヒュームと結びつけた記述がなされている。

Among observed causal laws is this, that observation of uniformities is followed by expectation of their recurrence. A horse who has been driven always along a certain road expects to be driven along that road again; a dog who is always fed at a certain hour expects food at that hour and not at any other. Such expectations, as Hume pointed out, explain only too well the common-sense belief in uniformities of sequence, but they afford absolutely no logical ground for beliefs as to the future, not even for the belief that we shall continue to expect the continuation of experienced uniformities, for that is precisely one of those causal laws for which a ground has to be sought. If Hume's account of causation is the last word, we have not only no reason to suppose that the sun will rise to-morrow, but no reason to suppose that five minutes hence we shall still expect it to rise to-morrow.
pp.224-225

ここでは "as Hume pointed out" と、ヒュームの議論であることが明示されたうえで、経験された斉一性の継続 "continuation of experienced uniformities" そのものが根拠が求められている因果法則の一つなのだ、と述べられている。しかし『哲学入門』に比べると議論の構造がわかりにくく、「論理的根拠」logical groundという言葉を使うことで読者を(ヒュームが帰納的推論の演繹的証明を求めているというよくある誤解に)ミスリードしてしまう可能性すらある。
ほぼ同時期に書かれたこの2書の記述をあわせるなら、ラッセルはヒュームの帰納の問題の構造をよく認識し、しかもそれがヒュームに由来するものであることも認識していたと言ってよいだろう。しかし、同時期にもう少し明瞭な言及はないのか、もう少し探索したいところである。

(4)ケンプ=スミス
20世紀初頭のヒューム研究を代表する研究者というとケンプ=スミスの名前が上がるだろう。しかし、ケンプ=スミスのこの時期の著作でヒュームの帰納の問題についての発言を探しても、なかなかそれらしいものは見つからない。

Norman Kemp Smith (1915) "Kant's Relation to Hume and to Leibnitz" The Philosophical Review 24, pp. 288-296.

この論文で、ケンプ=スミスはヒュームの帰納への見解について以下のように言及している。

"While Hume maintains that induction must be regarded as an irrational process of merely instinctive anticipation, Leibnitz argues to be self-legislative character of pure thought." (p.293)

残念ながらこれではヒュームがどういう根拠に基づいて帰納を不合理だと判断したのか(ケンプ=スミス自身がそれをどう解釈したのか)がわからず、ヒュームの帰納の問題が紹介されているとはいえない。

(5)ケインズ
ポパーがヒュームの帰納の問題を取り上げた箇所でライヘンバッハを引用していることは紹介したが、実は同じ箇所でポパーはジョン・メイナード・ケインズも参照している。参照されているのは1921年のA Treatise on Probability(Macmillan and Co.)である。
https://archive.org/details/treatiseonprobab007528mbp/

ケインズは本書第三部「帰納と類推」の冒頭の第18章「イントロダクション」でヒュームからの引用を掲げる(p.217)。ただし、よく引用される箇所ではなく、Philosophical Essays Concerning Human Understanding (1748)からの引用となっている。
その後、第23章「帰納についてのいくつかの歴史的覚書」で、「このテーマ[帰納]をベーコン、ヒューム、ミルの名前を結びつけるのが普通である」(p.265)と述べたのち、ヒュームについての簡単な記述が272ページにあらわれる。そこでは以下のように書かれている。

Hume showed, not that inductive methods were false, but that their validity had never been established and that all possible lines of proof seemed equally unpromising. The full force of Hume's attack and the nature of the difficulties which it brought to light were never appreciated by Mill, and he makes no adequate attempt to deal with them. Hume's statement of the case against induction has never been improved upon; and the successive attempts of philosophers, led by Kant, to discover a transcendental solution have prevented them from meeting the hostile arguments on their own ground and from finding a solution along lines which might, conceivably, have satisfied Hume himself. (p.272)

ポイントとなる部分だけ抜き出すと、「ヒュームは帰納的方法が偽であることを示したというわけではなく、その妥当性が決して確立されたことはなく、証明のあらゆるありそうな路線がどれも同じく有望でないことを示したのである。」「ヒュームの帰納への反論より改善されたものはこれまであらわれてこなかった」とケインズはヒュームの議論に高い評価を与えている。しかし、その前後を見ても、具体的にヒュームのどの議論が決定的なのか詳細な説明はない。
まとめると、おそらくケインズ自身はヒュームの帰納の問題を正しく理解していたが、ケインズのこの著作を読んだ人がヒュームの帰納の問題を理解できるような形で提示してくれてはいない。しかし、他にヒュームの帰納の問題について言及している本が少ない中で、この本でのヒュームに対する肯定的な評価は「再発見」が共有されていく上で重要な役割を果たした可能性がある。

(6)ホワイトヘッド
1930年代ごろのヒュームの帰納の問題への言及を見ていると、ホワイトヘッドが参照されている場合がある。参照されるのは『科学と近代世界』(Science and the Modern World, Cambridge University Press, 1926)である。本書でホワイトヘッドはヒュームと帰納について以下のように述べる

"The special difficulties raised by induction emerged in the eighteenth century, as the result of Hume's criticism." (p.63)

しかし、その批判の内容がどういうものかについての説明はなく、ここだけ読んでもヒュームの帰納の問題の理解は得られない。とはいえ、ホワイトヘッドの著作で言及されたということはヒュームの帰納の問題の重要性を多くの人に認識させる一つのきっかけになったであろうことは想像できる。

(7)ヘンデル
C.W.ヘンデルの1925年の『デイヴィッド・ヒュームの哲学についての論考』は、今回見たヒューム解釈書の中でもっとも明確にヒュームの帰納の問題について述べたものとなっている。
Hendel, C.W. (1925) Studies in the Philosophy of David Hume. Princeton University Press.

And although we cannot prove that the order so far known to us must be found in all subsequent experience, we may certainly deem it likely that the special laws of our experience will apply to the future. In other words, we have an assurance in our maxim of the uniformity of nature from our experience of the many specific instances when it has been warranted. But all unawares, we have only begged the question, in this argument. for this very "probability is founded on the presumption of a resemblance betwixt those objects, of which we have had experience, and those, of which we have had none. and therefore 'tis impossible this presumption can arise from probability." The induction of the very principle of induction itself is no explanation of it. Thus the whole problem still wait for a solution." (pp.177-178)

ここでは、ヒュームの『人間本性論』の該当箇所の引用を交えながら、ヒュームの帰納の問題が論点先取の問題であり(we have only begged the question)、帰納についての循環的議論はそもそも議論として成立していない(The induction of the very principle of induction itself is no explanation of it)という指摘なのだということが明瞭に述べられている。
少なくとも1925年にはヒュームの帰納の問題は再発見されていたと言ってよいだろう。

5 暫定的結論
ここまで調査した限りにおいて、ヒューム著作集が1874年に刊行されたことは確かにヒュームの帰納の問題に注意が向けられるきっかけとなっているが、この時期にはヒュームの帰納の問題の明瞭な定式化は(今回の調査では)見つけられず、すぐにこの問題の重要性が共有されたわけではなさそうであることが推測される。
今回の調査の範囲で、ヒュームの帰納の問題の内容を最初に明瞭に提示したのはラッセルの『哲学入門』(1912) だったが、そこではヒュームの名前は言及されない。ヒュームと帰納を結びつける発言はラッセル、ケインズ、ホワイトヘッドらに見られるが、こちらでは帰納の問題の内容がはっきりとは述べられていない。
ヒュームに結びつけて帰納の問題を最初に明示的に提示しているのは、今回の調査の範囲では1925年のヘンデルのヒューム研究書だったが、これがどの程度影響力のある研究書だったかはよくわからない。しかもここまでくると1930年代のライヘンバッハやポパーの定式化までもうすぐである。ヒュームの帰納の問題が内容の正しい理解とともに哲学の大問題として共有されたのは実はライヘンバッハやポパーの功績であるという可能性も今回の調査では排除できなかった。
とはいえ、今回検討した時期(1870年代から1920年代)には、今回調査できなかった文献(特にヒューム研究書)がまだまだ多くある。また、この時期にドイツ語圏でヒュームへの言及が多いのは目についたものの、本格的に掘り下げることはできていない。「こんな大事なものを見落としているよ」というようなことがあればぜひお知らせいただきたい。





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April 04, 2024

演繹と帰納についてのノートの補足(その1)

演繹と帰納の定式化については以前の記事で記載したが、そのあとで某辞書項目の作成を依頼されたことをきっかけに、科学方法論や論理学の教科書類の追加調査を行った。なのだがどうも追加で調べたことがほとんど辞書項目には反映できないことがわかってきたので、別途ブログ記事とすることとした。今回はその中から、カント、パースおよびinternet archive で読むことができる1920年代くらいまでの教科書類を中心に紹介したい。

1 カントの用法

カントは「演繹」という言葉をちょっと特殊な意味で使っている。(以下訳文は宇都宮芳明監訳 以文社)
『純粋理性批判』「超越論的演繹一般の諸原理について」と題する節で、「演繹」は次のように
「法学者は権限と越権を論ずるとき、一つの訴訟の中で、何が正当であるかについての問い(権利問題)と事実に関する問い(事実問題)とを区別する。そして彼らは両者の証明が要求されると、権限や権利要求をも明らかにしなければならない前者を演繹と呼んでいる。(nennen Sie den ersteren, der die Befugnis, oder auch den Rechtsanspruch datun soll, die Deduction.)」(A84, B116, 邦訳pp.153-154)

演繹には「超越論的演繹」と「経験的演繹」がある。超越論的演繹は「概念がどのようにしてア・プリオリに対象に関係するのかという仕方の説明」
(die Erklarung der Art, wie sich Begriffe a priori auf Gegenstande beziehen konnen)であり、経験的演繹は「いかにしてある概念が経験とそれに関する反省から得られるかという仕方であり、したがって正当性にではなく、そこから所有が生じた事実にかかわる」(die Art anzeigt, wie ein Begriff durch Erfhrung und Reflexion uber dieselbe erworben worden, und daher nicht die Rechtmasigkeit, sondern das Factum betrifft, woduruch der Besitz entsprungen.) (A85, B117 訳文は邦訳p.154)

以上の箇所からは、カントは法的概念を操作して規範的含意を導き出したり、それと類似のことを哲学的概念について行ったりすること、つまりは今でいうところの概念分析に近い作業を「演繹」と呼んでいるように見える。

2 パースのいくつかの用例

パースは演繹・帰納についていくつか注目すべき記述を行っているが、パース自身の独自な思想がわかりにくいのと、異なる著作の間でかなり方向性の違う定式化をしているのとで、なかなか扱いにくい対象となっている。
以下、引用は The Essential Peirce: Selected Philosophical Writings volume 1 (1867-1893). Ed. by N. Houser and C. Kloesel, Indiana University Press, 1992 (以下 EP vol. 1 と略)より。

「4つの無能力のいくつかの帰結について」(1868) "Some consequences of four incapacities" Journal of Speculative Philosophy 2, 140-57.

A complete, simple, and valid argument, or syllogism, is either apodictic or probable. An apodictic or deductive syllogism is one whose validity depends unconditionally upon the relation of the fact inferred to the facts posited in the premises. A syllogism whose validity should depend not merely upon premises, but upon the existence of some other knowledge, would be impossible; for either this other knowledge would be posited, in which case it would be a part of the premisses, or it would be implicitly assumed, in which case the inference would be incomplete. But a syllogism whose validity depends partly upon the non-existence of  some other knowledge is a probable syllogism." (EP vol.1 p.31)

ここで演繹的三段論法は「確実な」(apodictic)三段論法と言い換えられ、これは、「その妥当性が前提の中で措定されている事実から推論される関係に無条件に依存する」三段論法と説明されている。これに対して、「蓋然的三段論法」は「妥当性が他の知識の不在に部分的に依存する」と特徴づけられる。そこからすこしあとでは、演繹的三段論法の例を挙げたあとで "In both cases, It is plain that as long as the premises are true, however other facts may be , the conclusions will be true"とも述べられており、その後に定番となる演繹の定式化を先取りするものとなっている。

他方、蓋然的三段論法には「帰納」と「仮説」がある。違いは想定される「知識の不在」にある。
In the former case, the reasoning proceeds as though all the objects which have certain characters were known, and this is induction; in the latter case, the inference proceeds as though all the characters requisite to the determination of a certain object or class were known, and this is hypothesis.(EP vol.1 p.32)
言い回しがわかりにくいが、個別の事例についての反例がないと想定することで成り立つのが帰納、あるクラスを特徴づける性質についてわからないことがないと想定するのが仮説ということになる。「帰納」については「仮説」との対比において、個別から一般を導き出すという旧来の定義を維持しているとも言える。

「演繹・帰納・仮説」(1878) "deduction, induction and hypothesis" Popular science monthly 13, August 1878, 470-82.

パースの「仮説」(アブダクション)の考えを説明する際によく引用される論文だが、アブダクションが演繹や帰納と対比する形で導入される関係上、この論文でも演繹や帰納の概念に対する言及が行われる。

"Barbara particularly typifies deductive reasoning; and so long as this is taken literally, no inductive reasoning can be put into this form. Barbara is, in fact, nothing but the application of a rule. The so-called major premise lays down this rule; as, for example, all men are mortal.... All deduction is of this character; it is merely the application of general rules to particular cases." EP vol.1 p187

Barbaraは三段論法の妥当な形式の暗記法で使われる言葉で、もっとも基本的な形式を指す。演繹という概念のパースの理解を知る上で重要なのは、「すべての演繹はこの性質を持つ。すなわち、それは、一般的法則の特定の事例への適用にすぎない」という最後の一文である。
この論文で具体的な説明に使われるのは次の3つの文の組み合わせである(p.188)。

rule, all the beans from this bag are white. 規則:この袋から出た豆はすべて白である。
case,  these beans are from this bag 事例:これらの豆はこの袋から出た。
result  these beans are white 結果:これらの豆は白である。

そして、「規則」と「事例」から「結果」を推論するのが演繹、「事例」と「結果」から「規則」を推論するのが帰納、「規則」と「結果」から「事例」を推論するのが「仮説」だと説明される。
演繹と帰納に注目すると、「事例」(初期条件)を固定した上で一般から個別への推論をするのが演繹、個別から一般への推論をするのが帰納という対比になっており、古典的な演繹と帰納の定式化に沿ったものになっている。パース自身帰納が「演繹的三段論法の転倒にすぎないものになっている」(but an inversion of the deductive syllogism)とのべる(p.188)。ただ、それに続けて「演繹的三段論法を転倒させる方法はこれだけではない」(this is not the only way of inverting a deductive syllogism)と述べて「仮説」を導入しており、演繹と帰納が単純に一対一で対照の関係になっていないというところに第三の推論形式の入る余地を見ているようである。


「帰納の蓋然性」 (1878) "The probability of induction" (Popular Science Monthly 12, April 1878, 705-18.
ここでは少し方向性の違う演繹と帰納の定式化が行われる。

"All our reasonings are of two kinds: 1. Explicative, analytic, or deductive; 2. Amplificative, synthetic, or (loosely speaking) inductive. In explicative reasoning, certain facts are first laid down in the premises. These facts are, in every case, an inexhaustible multitude, but they may often be summed up in one simple proposition by means of some regularity which runs through them all.... " EP vol. 1, p.161
ここで演繹は「解明的」「分析的」と並列され、帰納は「増幅的」「総合的」と並列されている。この引用のあとに演繹的推論の例が挙げられるが、「ソクラテスは人間である」ということからソクラテスが木のように見えたり犬のように見えたりする瞬間はない、というような帰結を導き出すのが演繹とされる。そうした考察について、つづけて ” this will enable us to throw part or all of them into a new statement, the possibility of which might have escaped attention. " (p.162) とのべられており、そうした「人間」の概念分析に類する作業の結果、注意を逃れていた側面が言明としてまとめるのが「分析」であり演繹だというわけである。
この演繹の捉え方は、カントが超越論的演繹という言葉を使う際にイメージする演繹と近いように思われる。


3 19世紀の他の定式化の例

(1) 1855 Principles of Psychology  by Herbert Spencer, Longman, Brown, Green and Longmans.
https://archive.org/details/b21965377/
スペンサーの『心理学原理』の中で、演繹と帰納についてスペンサーなりの見解が示されている。(1855年版では p.164, 1872年のsedond edition では vol.2, p.110)
スペンサーはさまざまな推論を前提と結論がそれぞれどういう量を扱っているかで区別する。
1つのものについての命題から1つのものについての命題をみちびく(from one to one)のは、個別から個別へ(from particulars to particulars) の推論そこに出てくる項がどういうものか次第で妥当にも疑わしいものにもなる。
1つについての命題から全称命題に一般化する(from one to all)のは帰納の一種(species of induction)だが、これもそこに出てくる項がどういうものか次第で妥当にも疑わしいものにもなる。
いくつかについての命題から全称命題をみちびく(from few to all) のは通常の仮説 (ordinary Hypothesis)
多くについての命題から全称命題をみちびく(from many to all)のは本来の帰納(Induction proper)
いくつかから一つ(from some to one)を導くのは仮説的演繹(Hypothetical deduction)
全称命題から一つを導く(from all to one)、ないし全称命題からいくつか(from all to some)を導くのは本来の演繹(Deduction proper)

ここでは、演繹が一般から個別、帰納が個別から一般への推論だという基本線は維持しつつ、根拠となる事例の数や結論の一般性の度合いに応じてもっと細かい区別をしようという試みがなされている。注目されるのは演繹でも帰納でもない推論として「仮説」が挙げられていることで、名前だけではあるがパースが第三の推論方法を挙げる際に参考にしているかもしれない。


(2) 1867 The elements of deductive logic, Thomas Fawler, Clarendon Press.
https://archive.org/details/elementsdeducti09fowlgoog/
フォウラーは後にオックスフォード大学の総長まで務めた人物だが、哲学者としてはほぼ忘れられた存在。ただ、The elements of deductive logicとThe elements of inductive logicという論理学の入門書は何度も版を重ねた。

演繹と帰納について本書では興味深い定式化を行っている。
This division may easily be shewn to be exhaustive. In any inference, we argue either to something already implied in the premises or not ; if the latter, the inference is inductive, if the former, deductive. (p.70)


前提にすでに含まれているものを導出するのが演繹、そうでないものを導出するのが帰納だというわけである。

後の版で追加された注では、フォウラーの解釈は演繹と帰納の違いを推論の形式の違いとする通常の見方に異をとなえるものであることが明確にされている。
"the most essential distinction, however, between inductive and deductive reasoning consists not in the form of the inferences, but in the nature of the assumptions on which they rest. ” (eighth edition, 1883, p.73 note 3)

そして、仮定としては、「言語と共在の諸原理」を仮定するのが演繹、「普遍的因果」と「自然の斉一性」を仮定するのが帰納だとされる。
かなり独自な演繹と帰納の理解であるが、系列としてはカントの演繹の用法に近いように見える。


(3) 1894 Logic, inductive and deductive, William Minto, Scribner's Sons.
https://archive.org/details/logicinductivede00mintrich/
ミントはアバディーン大学でアレクサンダー・ベインのあとをついで教授となった。

"The distinction commonly drawn between Deduction and Induction is that Deduction is reasoning from general to particular, and Induction reasoning from particular to general.
But it is really only as modes of argumentation that the two processes can be thus clearly and fixedly opposed. The word Induction is used in a much wider sense when it is the title of a treatise on the Methods of Scientific Investigation, It is then used to cover all the processes employed in man's search into the system of reality; and in this search deduction is employed as well as induction in the narrow sense." (p.235)

定番の用法では演繹が一般から個別、帰納が個別から一般という推論であることを指摘した上で、帰納についてはそのパターンにはまらない用法、つまり科学的探求全般を指す用法があり、演繹もまた広い意味での帰納の一部になっていると指摘している。これはミルやベインの路線に忠実な記述といってよいだろう。

(4) 1895 The Essentials of Logic by Bernard Bosanquet, Macmillan.
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.61802/
ボザンケトはイギリスのヘーゲル主義者の一人。

ボザンケトはいわゆる単純枚挙による帰納がまったく科学的でないということを説明したあと、科学的帰納について以下のように述べる。
The principle of scientific system is quite a different thing. Essentially it has nothing to do with number or with a generalized conclusion. It is merely this, "What is once true is always true, and what is not true never was true. " The aim of scientific induction is to find out What is true, i.e. what is consistent with the given system. (p.153)

演繹については以下のような記述がある。
Classification and hypothesis bring us into Deduction, which is not really a separate kind of inference from Induction, but is a name given to science when it becomes systematic, so that it goes from the whole to the parts, and_not from the parts to the whole. In Induction you are finding out the system piecemeal, in Deduction you already have the clue, but the system, and the system only, is the ground of inference in both. Induction is tentative because we do not know the system completely. Their relation may be fairly represented by the relation of the first figure of the Syllogism to the second and third. The difference is merely that in deduction we are sure of having knowledge which covers the whole system. (p.162)

演繹も広い意味の帰納の一部であり、体系がどうなっているかについてすでにわかっているので全体から部分への推論をするのだ、ということのようである。一般から個別へという定番の演繹の定式化を否定しているわけではなく、全体として、演繹や帰納の用語法についてはJ.S.ミルに非常に近い路線を採用していることがわかる。

(5) 1898 Logic, Deductive and Inductive by Carveth Read, Grant Richards. (first edition 1898, second 1901, third 1906)
https://archive.org/details/logicdeductivea00readgoog/

リードはUCLなどで教えた哲学者。論理学についての著作のほか、人類進化についての著作などもあるようである。
 "Two departments of Logic are usually recognised, Deduction and Induction; that is, to describe them briefly, proof from principles, and proof from facts. Classification is sometimes made a third department"(pp.3-4)
演繹、帰納、そして分類という3つが対立してとらえられているが、演繹と帰納の対比の仕方は定番の方法にそっている。このあとで演繹と帰納は対立するわけではなく相互に依存している、と説明が続くが、両者の基本的な定式化を変更するものではない。


4 20世紀初頭の定式化の例


(1) 1902 The Principles of Logic by Herbert Austin Aikens. Drummond.
https://archive.org/details/principlesoflogi00aiki/

エイケンスについては伝記的な事項はよくわからない。『論理学の諸原理』は何度か版をかさねたようであり、他に『ヒュームの哲学』という著書がある。
演繹と帰納の対比については注で以下のようにのべている。

"It is often said that the difference between Deduction and Induction is that the one proceeds from generals to particulars, while the other proceeds from particulars to generals; that is to say, that deducticon proceeds from statements about classes of things to statements about smaller classes or about individuals, while induction proceeds from statements about individuals to statements about classes. But in deduction it is only the first figure of the syllogism that goes from statements about classes to statements about the individuals in them; and in induction it is only the process corresponding to the first figure that is concerned with mere generalization. This statement, therefore, is based upon too narrow a view of the scope of both branches of Logic," (p.222)

引用部分の前半で、一般から個別か個別から一般かという通常の演繹と帰納の対比を紹介したあとで、演繹の場合にはそのパターンになっているのは三段論法の第一格のみであり、帰納の場合もそれに対応するものだけが単なる一般化になるという。だから演繹と帰納の定義としては視野が狭いというわけである。この批判は三段論法の範囲内で言えることなのでもっと早くに出てきていてもおかしくないはずだが、見た範囲ではこれより前にはこの批判はあらわれていない。
エイケンスの対案は以下のとおりである。

"One of the most obvious differences between deduction and induction is that in deduction any conclusion that follows from the given premises at all seems to follow with absolute certainty, while m inductive reasoning it only follows with a greater or less degree of probability (p.226)

つまり、演繹は結論が確実に前提から導かれる推論であるのに対し、帰納の場合は蓋然性が大きかったり小さかったりするような形でしか導かれないということである。これは20世紀型の演繹の定義を先取りしているように見える。

(2) 1906 Introduction to logic H.W.B. Joseph. Clarendon Press. (first edition 1906, second edition 1916)
https://archive.org/details/anintroductionto00joseuoft/
ジョゼフはオックスフォードで教鞭をとった哲学者。本書はその最初の著書のようである。
本書の第18章「帰納について」は、帰納の概念がアリストテレスからベーコン、ハーシェル、ヒューウェル、ミルと変遷を遂げてきたことを歴史的に追跡していて、非常に興味ぶかい。その結論として、帰納と演繹を旧来の対立構造で見ようとすると、2つの困難に陥るという。
"If any one likes to keep the antithesis between  Induction and Deduction, and to call inference deductive when it proceeds from conditions to their consequences, and inductive when it proceeds from facts to the conditions that account for them, he will find..." (p.369)

一つはそもそも帰納と演繹は厳密に分離できないということであり、もう一つはこれまで演繹論理と呼ばれてきたものの一部は、この対立の意味では帰納になってしまう(that what has been called Deductive logic, what Inductive Locig has been contrasted with, analyzes forms of inference which, if the antithesis between Induction and Deduction be thus understood, must be called inductive)ということである(p.369)。

では対立構造をどうみればよいかということについては、弁証と証明(Dialectic and demonstration)ないし帰納と説明 (induction and explanation)として考えるべきだ、という(ibid.)。ただ、これは演繹と帰納の対比と完全には対応していないということが同じ箇所の注で述べられており、演繹や帰納の概念を説明や弁証で置き換えようということではないようである。つまりジョセフは、対立構造の捉え方については批判しているが、演繹と帰納の概念そのものの定式化という点では旧来の考え方を踏襲しているように見える。

(3) 1909 Logic, Inductive and Deductive by Adam Leroy Jones. Holt and co,
https://archive.org/details/logicinductivede00jone/

ジョーンズはコロンビア大学で教鞭をとった哲学者。彼の名前のついた学生表彰がコロンビア大学哲学科に受け継がれているようである。


Sometimes induction is identified with scientific method, but it is often used in a narrower sense; and, in any case, it might seem to exclude deduction, which is an essential part of complete scientific method: therefore it is less confusing to think of induction as simply a part of scientific method.(p.3)

狭い意味での帰納も演繹も科学的方法というより大きな方法論の一部なので対立的に捉えるのは混乱のもとだ、というわけであるが、帰納や演繹という概念そのものを変更しようとしているわけではない。
演繹について旧来の定式化を受け継いでいることは他の箇所の記述からもうかがえる。

An inference from a law or general principle to some consequence of the principle is a deductive inference. When we reason in this way we reason deductively, we deduce a conclusion, we employ deduction.(p.111)

法則や一般的原理からその原理の何らかの帰結へと推論するのが演繹的推論だということで、非常に古典的な定式化となっている。


(4) 1914 The Problem of Logic by Boyce Gibson. A&C Black.
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.203904/

ギブソンはイギリスで育ちメルボルン大学で教鞭をとった哲学者。本書『論理学の問題』は伝記的記述によれば最初に1908年に発行されたようだが確認できず。
https://adb.anu.edu.au/biography/gibson-william-ralph-boyce-6314

アリストテレス論理学における「すべてと無の格率」(Dictum de omni et nullo、全体クラスについて成り立つことは部分クラスについても成り立ち、全体クラスについて否定されたことは部分クラスでも否定される)について述べる中で、ギブソンは以下のようにのべる。

Deduction is defined as 'the applying of a general law or rule to particular cases,’ and it is then pointed out that this is precisely the function of the Dictum.  (p.244)

ここだけ見ると、ギブソンは「一般的法則や規則を個別の事例に適用する」という旧来の演繹の定義を受け入れているように見える。しかしこのあとギブソンは科学における体系からの事例の導出が「すべてと無の格率」が想定するような単純なものでないことを理由として、演繹の原理をなんらかの単一の孤立した一般性から進む推論としてプロセスを表彰するようないかなる原理とも同一視することの不可能性」(impossibility of identifying with the Principle of Deduction any principle which represents the process as an inference proceeding from some single, isolated genrality)があるという。(p.245) ギブソンは「演繹プロセス」(deduction process)を「演繹推論」(deduction inference)と区別し、前者を「体系化された知識の非体系的な事実への妥当な適用」(the valid application of systematized knowledge to unsystematized fact)と定式化する。(p.246)
このように、ギブソンは大筋で一般から個別へという演繹のイメージを継承してはいるものの、三段論法と科学的プロセスの違いを捉えるために工夫を加えようとしていたようである。

(5) 1922 Logic , Part 2, William Ernest Johnson, Cambridge University Press.
https://archive.org/details/logicpartiidemon00john/

ジョンソンはケンブリッジで教鞭をとった哲学者。本書を含む『論理学』三部作が主著となる。

ジョンソンは旧来の包摂的演繹(subsumptive deduction)に対し、関数的演繹(functional deduction)の概念を提案する。

 It will be shown that, in the deductions peculiar to pure mathematics, the premisses and conclusions assume the form of functional equations; and that it is owing to this characteristic that properties in the technical sense can be deductively demonstrated. We therefore give the name functional deduction, in antithesis to subsumptive or syllogistic deduction, to the specifically mathematical form of inference.(pp.124-125)

つまり、関数的等式を使う数学的推論における演繹は三段論法の形に落とし込むことができないので、別のタイプの演繹として名前をつけて区別しようというわけである。
ここでいう関数は f(A, B, C) = φ(A, B, C)という形式をとるものを想定しており、ジョンソンが例として挙げるのは
(a+b)x(a-b) = a^2 - b^2
などの数学的定理を表現する式である。(pp.126-128)
これらの変数に具体的な数字をあてはめることでこれらの式から無数の異なる結論を導き出すことができる。
ジョンソンは関数的演繹は伝統的な演繹の定義を逸脱するものだと考える。

Now it will be found that, in inferences of the nature of functional deduction, the derived formula may have a range of application — not narrower than but — equal to or even wider than that from which it is derived. Thus the word deduction as here applied does not answer to the usual definition of deduction (illustrated especially in the syllogism) as inference from the generic to the specific.

つまり、結論が前提よりも適用範囲が広いという意味では一般から個別へという演繹の伝統的な定義を逸脱しているということである。

帰納についてもジョンソンは独自の考察をしている。ジョンソンは帰納を直観的帰納(intuitive induction)、要約的帰納(summary induction)、論証的帰納(demonstrative induction)、疑わしい帰納(problematic induction)の4つに分類する。(p.190) これらのさまざまな帰納についての解説が『論理学』第二部の後半から第三部にかけて行われる。直観的帰納というのは直観的なパターン認識のようなことを想定しているらしく、経験的なものと形式的なもの(数学においていくつかの事例から定理の候補を思いつくなど)が区分される。要約的帰納は「完全な帰納」とも呼ばれるもので、全数調査することで結論の確実性が保証されるタイプの帰納である。幾何学における証明(幾何学的帰納)も要約的帰納の一種とされる。
論証的帰納は今行っている考察との関係で特に興味深い。ジョンソンが想定するのは、モードぅス・ポネンスやモードぅス・トレンスなどを通して個別についての前提から一般的な結論を導くことを論証的帰納と呼ぶ。これが「論証的」と呼ばれるのは、「 結論が前提から必然的に導かれるという意味において」 (in the sense that the conclusion follows necessarily from the premisses) (p.210)である。つまり、現在演繹的という言葉の意味として捉えられている内容が、ジョンソンにおいては「論証的」という言葉とむすびつけて理解されており、しかもそれが演繹と帰納の区分において帰納の側にも適用されると考えられていたということである。演繹に関数的演繹というバリエーションが認められたのと同じように、論証的帰納にも数学における推論を指す関数的帰納と呼ばれるバリエーションがある。最後に、「疑わしい帰納」と呼ばれるのが、他の多くの論者によって帰納と呼ばれるプロセスであり、ミルの方法などもここに含まれる。ジョンソンはこれと別に個別から個別への推論をeductionと呼んで区別している(Logic part 3, p.43)

ジョンソンの論理学に関する思想はここで紹介した以外にも独自のアイデアを多く含んでいるが、新しい記号論理学や数学基礎論がまさに発展していた時代において、アリストテレス論理学を数学へ拡張するような発想は古臭く感じられただろう。結果的に、彼もまたここで紹介している他の論理学者たちと同様忘れられた論理学者となってしまった。

ともあれ、ジョンソンは一般から個別へ、個別から一般へという演繹と帰納の定式化を愚直なまでに守りつつ、その枠組みで扱いきれない多様な推論について語るためにさまざまな概念を導入している。


今回紹介するのはとりあえず以上。


iseda503 at 17:53|PermalinkComments(0)

July 26, 2023

物理(学)帝国主義についての追補

前回の記事で「その後朝永が桑原に確認を本当にとったのかどうか、その結果がどうだったのかということは少し調べただけではわからない。」と書いたが、これについて同じ著作集の中にそれについての言及があることをご指摘いただいたので追補したい。

朝永は前回紹介した講演の4ヶ月後、桑原と同席したセミナーで事実関係を確認している。このときの講演とその後の総合討論はそれぞれ「物理学と私」「科学と私」というタイトルで朝永の著作集に収録されている。
「物理学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、pp.129-172.
「科学と私」『朝永振一郎著作集 2 物理学と私』小谷正雄解説(みすず書房 1982)、173-211.

これは1977年7月19日から20日にかけておこなわれた「東京理科大学特別教室セミナー」で、朝永の講演は19日に、討論は19-20日に行われた模様である。討論の方でも一回朝永が「物理学帝国主義」という言葉を使っている(p.204)が、特に桑原が反応していたりもしないので、ここでは講演および質疑の方のみ紹介する。
この講演の中で、朝永は、物理学帝国主義とそれへの批判についてひとくさり述べたあと、以下のように説明する。

「実は、物理帝国主義ということは桑原さんが言い出したのかと思っていたのですけれども、さっき桑原さんに聞いたら、自分もその辺よく記憶がないというのですが、ぼくにしゃべったことは覚えているのです。オルテガというスペインの哲学者がいるのですが、彼がやはり物理帝国主義という言葉を使っているのです。それからもっとひどい言葉は「実験室のテロ」という言葉(笑)。つまり、物理学者は実験室で自然をおどかして、暴力をふるって、自然に何か変な泥を吐かせる。そういうことをやって物理学の領土を広げていくということらしいのです。」(p.149)

つまり、基本的には桑原が独立に思いついたのかどうかは本人にもわからない(とはいえ桑原がすぐ思い当たるような他の明確なソースもない)というところのようである。ここだけ読むと、オルテガがこの言葉を使っているということをここで桑原に聞いたようにも読めるが、このあとでくわしくオルテガに言及するので、すでに朝永はオルテガがこの言葉を使っていたことを知っていて読んだ上で桑原に質問したことがわかる。また、ここでの発言と前の講演に対する付記の内容を見比べるなら、付記の方が先に書かれているはずだ(つまり著作集に収録する際に付記されたのではなく、講演録作成直後にすでに付記されていた)ということもわかる。

内容についてだが、前回紹介した講演から4ヶ月しかたっていないこともあり、主な話の趣旨は変わらない。
この話題が登場するのは「物理学帝国主義」「物理学帝国への批判」「科学の抽象化」といった節タイトルの箇所なのだが、「物理学帝国」という言い方は本文中にも出てきていて、どうも朝永の頭の中ではこの表現は「物理学」の「帝国主義」ではなく、「物理学帝国」の「主義」だったようである。

「帝国」への最初の言及箇所は以下のようなところである。

「ただ、そういう新しいものを入れるたびごとに、物理学自身の法則をだんだん変えていかないといけない。つまり、帝国が領土を広げるときに、もとの法律ではやはりうまくいかんというので法律を変える、そういうふうな形ですね」(p.145)

この説明として、たとえば

「原子・分子の中の現象まで物理帝国の中に入れるときには、アインシュタインが直した---ニュートンのままでもいいのですけれども---量子力学という新しい、法律の大改正をしなければならない」(pp.145-146)

という。(ここだけ切り取るとわかりにくいが、アインシュタインが一度変えた「法律」(法則)を量子力学のためにさらに変えなくてはならない、という意)
こうした「法律の改正」の結果物理法則は非常に抽象的な数学になっていく。

「そういうわけで、物理学の世界がわれわれの日常の世界と違って、非常に抽象的で、ある意味で索漠とした世界になってしまう。これが物理学の嫌われる一つの原因なのです。
それにもかかわらず、帝国主義でどんどん領土を広げる。そして普遍化ですね。そういう意味で、普遍化はいいとしても、抽象化が行われて、非常に味のない世界ですね。(中略)物理学の自然というのは、人間がつくり上げ、でっち上げた恣意的な、人為的な世界であって、本当の世界ではないのだという見方が出ている。」(p.147)

法律の改正という比喩と抽象化が結びつくあたりがおもしろいところであるが、趣旨として述べていることは前回紹介した3月の講演と変わっていない。

変わっていない点としては、「帝国主義」のもう一つの意味への言及もある。これは講演への質疑の応答の中で出てくる。

「ですから、科学というものは、他の要素と切り離して学ぶことができるものだということですね。これが今度別な意味での帝国主義です。つまり、ヨーロッパで生まれた科学が世界中に広がっていくというのは、宗教とか風俗習慣、あるいは言葉は、なかなか広がらないのですけれども、科学といのはそういうものと独立に、無関係に理解できるという、そういうことが別の意味で帝国主義なんですね。」(p.169)

変わった点としてはオルテガへの言及があることである。先程引用した149ページでの言及に続けて、朝永は以下のように言う。

「しかし、オルテガも、よく読んでみますと、物理学者自身をけなしているのではなくて、物理学者の名において行われたり言われたりすることが、彼の非常にいやなことであるというふうに読めるわけです。
その証拠には、オルテガはガリレオを非常に高く買っております。それからアインシュタインを非常に評価している。つまり、本当に宇宙の調和というようなことをわれわれの前に広げてくれるような、そういう意味の物理学はいいけれども、そうでない、あとのもろもろの物理学から生まれてくるいやらしいものは正に帝国主義だという、そういう考えではないかと思うのです。」(pp.149-150)

これがオルテガ解釈としてどのくらいもっともらしいかについては論評しないが、かなり自分自身の見解に引きつけている様子はうかがえる。
オルテガと物理(学)帝国主義への言及はここにとどまらない。抽象的なもののはずの物理学から現実への応用が発生することがある、という話の文脈で、朝永はふたたび帝国主義という言葉を用いる。

「しかも、そのチャンネル[われわれの世界と抽象的な世界の間のチャンネル]を通じて、原子爆弾みたいなものが突如として飛び出してくる。
これは、物理学帝国主義がだんだん広がっていくうちに、原子の中、あるいは、そのもう一つ中の原子核の中というものまで、その領土に入れたわけですね。そして、その領土の風俗、習慣、そこを支配している法則は何であろうかということを調べているうちに、そこにはものすごく大きな破壊力が隠れているということがわかったわけです。(中略)
 オルテガが物理帝国主義を嫌ったのは十九世紀の物理学に対してらしいのですが、彼は原爆が出るより前に亡くなったと思いますが、原爆が出てきたとき、彼がどういうことを言ったであろうかと想像するのもおもしろい。」(p.155)

朝永自身が「物理帝国主義」というネガティブな呼び方に値する「いやらしいもの」のひとつとして原子爆弾を想定していたことがわかる。




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