蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

補助部隊(Auxiliary Units)

補助部隊(ホームガード打撃部隊、またはGHQ 補助部隊)は、第二次世界大戦中にイギリス政府によって創設された特別に訓練された極秘の準軍事部隊であり、ナチスドイツによる英国への侵攻(「アシカ作戦」)の可能性に対して非正規戦を行なうことを目的としていた。

ヨーロッパ大陸のいくつかの国の急速な崩壊を目の当たりにしてきたという利点により、イギリスは戦争中、侵略に備えて多層的なゲリラ部隊を編成することができた唯一の国だった。

補助部隊は軍事作戦中に制服を着たゲリラとして戦うことになる。
地元のホームガード指揮官たちですらその存在を全く知らされておらず、ひとたび侵攻が起こればすべての補助部隊は作戦基地へと姿を消し、ホームガードの指揮系統から外れることになっていた。
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補助部隊はホームガードに属する志願兵でありホームガードの制服を着ていたが、地域の通常の防衛行動には参加せず、ホームガードによる抵抗が終了すると活動を開始し、短期間だが暴力的な行為で最大限の騒乱と混乱を引き起こすことになっていた。
彼らは長期占領に対する継続的な抵抗勢力としては想定されていなかった。

補助部隊をめぐる秘密主義は、メンバーが「(これまでに)軍籍も制服も持たず、活動に関する公式記録もほとんどない」ことを意味した。

補助部隊での任務は非常に危険なものである事が予想され、隊員の平均余命はわずか12日とみられていた。敵に捕まりそうになったら隊員同士で撃ち合うか爆発物を使って自決するよう命じられていた。


ウィンストン・チャーチル首相は陸軍省に促され1940年初夏に補助部隊を発足させた。これはすでにSIS(MI6)によって立ち上げられていた民間人国土防衛計画に対抗するものであり、しかし、陸軍省の管理外のものであった。

補助部隊は本土軍総司令官(Commander-in-Chief, Home Forces)の指揮下にあったが法的にはホームガードの一部であった。

現代では補助部隊は「英国レジスタンス組織」と呼称されることもある。しかしこの呼称は組織内で使用されたことはない。彼らの役割がどのようなものであったかについてのその後の誤解を反映しているものと言える。

補助部隊のメンバーは俗に 「スカリーワグ(※scallywag:やんちゃ、いたずら好き、ワル)」、彼らの活動は 「スカリーワギングscallywagging」と呼ばれていた。


◎始まり

MI6に属する破壊工作・レジスタンス部隊であるセクションDは、1940年6月中旬から人員を募集し、武器や装備を集め始めた。

これに軍当局は疑念を抱き、本土軍総司令官のアイアンサイド将軍は、すべてのゲリラ組織とサボタージュ組織を軍の管理下に置くよう主張した。

対抗措置としてコリン・ガビンズColin Gubbins大佐が新しい組織の指揮官に選ばれた。
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ガビンズはイギリス陸軍の正規軍人で、1919年のロシア内戦への連合軍の介入と1919年から1921年のアイルランド独立戦争でゲリラ戦のかなりの経験と専門知識を身につけていた。
彼は1939年初頭から陸軍省が管理する別のゲリラ組織、MI Rに所属していた。英国軍特殊部隊の前身である独立中隊(Independent Companies)を率いたノルウェーの作戦から帰還後、近衛旅団の臨時指揮官を引き継いですぐの選出であった。

ガビンズは後にこう記している。
「実際、私は白紙の小切手を渡された訳だが、それに見合うだけの金が銀行にあっただろうか? 
すべては即興で行われなければならない。 時間は非常に重要だった。
本格的な侵攻が開始されるまで最短だと6週間と見られていた。 運が良ければ10月までは猶予があるだろう。その後は気候条件次第だが...」


ガビンズは一緒にノルウェーに派遣された士官、現地で知り合った士官数人を起用した。
部隊の配置は郡(county)単位に分散された。侵攻があれば互いに分断・孤立するだろうとみられたからである。
また、英国全土に配備されたわけではなく、沿岸部、とくに敵の侵攻の危険性が最も高く脆弱とみられていたイングランド南東部のケントとサセックスに優先的に配備された。
この時代の将校で最もよく知られているのは、擲弾兵部隊のピーター・フレミング大尉と王立工兵部隊のマイク・カルバート大尉である。


◎作戦偵察隊(Operational Patrols)

作戦偵察隊は4人から8人で構成され、農民や地主であることが多かった。
彼らは通常ホームガードの最も有能な隊員から採用され、優れた地元知識を持っており、その土地で生活することができた。猟場番人(Gamekeeper)や密猟者は特に重用された。
隊員は常にホームガードの制服を着て戦うことを意図されており、1942年からはホームガード201大隊(スコットランド)、202大隊(イングランド北部)、203大隊(イングランド南部)のバッジを着用していた。

ウィルトシャーのハイワース近郊にあるコールズヒル・ハウスでは、週末コースでおよそ3500人が暗殺、非武装戦闘、破壊・妨害工作などのゲリラ戦の訓練を受けた。
各偵察隊は自己完結型の細胞であり、侵攻された場合には自給自足し、自律的に活動することが期待されており、通常は半径15マイル以内で活動する。

通常、工兵隊が地元の森林地帯に建設した、カモフラージュされた入り口と緊急脱出用トンネルを持ち、巧妙に隠蔽された地下作戦基地(AUOB / OB)が提供された。このような地下基地はイングランド、ウェールズおよびスコットランドで400~500箇所建設されたと推定される。
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一部の偵察隊は、さらに観測所や地下の弾薬庫を持っていた。偵察隊には消音器付きピストルやステンガン、フェアバーン・サイクス戦闘ナイフなどの最新兵器、大量のプラスチック爆弾、発火装置、2週間分の食料が支給された。

隊員は捕虜になった場合は銃殺されることを予期しており、生け捕りにされるよりはまず自らを撃つことが期待されていた。

部隊の任務は、通常部隊が準備された防衛線に後退している間に自陣の背後から侵攻軍を攻撃することだった。
航空機、燃料貯蔵庫、鉄道線路、車両基地が標的の上位にリストアップされ、ドイツ軍幹部や現地協力者の暗殺も含まれていた。

偵察隊はドイツ軍将校が使用している可能性のある地元の家屋を秘密裏に偵察し、初期の殺害ターゲットとして第五列と思われる人物のリストを作成する事になっていた。

補助部隊はホームガードの制服を着て戦うが、そうでなければジュネーブ条約の下では明らかに非正規戦闘員となる。
彼らとその武器は隠蔽され、現地のホームガード司令官の管理下に置かれることはなく、戦闘における「戦争の規則」の制約を受けることもない。

一般的なホームガード部隊は、降伏せずに戦い続けるよう指示されていたが、それでも弾薬が尽きれば投降せざるを得ない。しかしそれは地元に隠れている補助部隊にとっては、自分たちが勝利者だと思っているドイツ兵をできるだけ多く殺す機会であると見なされた。


◎特殊任務班と信号ネットワーク

補助部隊の作戦偵察とは別に特殊任務班(Special Duty Sections)があった。これはもともとSIS(MI6)が募集したもので、地元の民間人から入念に審査・選抜された。それは「目と耳」として機能し、「不用意な会話」や部隊の動き、補給路の監視から得たあらゆる情報を軍諜報機関に報告した。
これは海岸沿いに隠された短距離無線の信号ネットワークによって支えられていた。しかしこの仕組みではそれらの情報を作戦偵察隊に伝える手段はなかった。

無線ネットワークが侵攻後も長く存続する可能性は低く、そうなれば孤立した作戦偵察隊を亡命英国政府となおも本土に残されたその代表組織と連携して行動できる全国的な活動網に結び付けることは不可能だったであろう。代わりとしてSIS は長期間行動することを目的とした強力な無線を備えた別個の抵抗組織 (セクション VII ) を創設した。

特殊任務班は主に民間人から採用され、その数は約4000人だった。彼らは車両、高級将校、軍事部隊を特定する訓練を受けており、情報を収集し、デッドレタードロップ(※秘密の場所に情報を隠し、隠した事を特定の合図で相手に知らせる伝達方式。逆に直接会って情報のやり取りをするのはライブドロップと呼ばれる)で報告書を残すことになっていた。

報告書は回収役(runners)によって収集され、訓練を受けた民間信号スタッフが操作する200以上の秘密無線送信機の1つに届けられる。
民間人は「情報収集員」として活動し、アウトステーション(※OUT Station:敵占領地にある秘密無線基地)の無線を操作した。ATS(Auxiliary Territorial Service:補助地方義勇軍)の隊員や王立通信局員はイン・ステーションとゼロ・ステーション(※IN-Station  Zero Station どちらも非占領地にあるハブ的な秘密無線基地)を運営した。
(※※イン・ステーションは全国で32箇所建設されたがその場所は厳重に秘匿されたため、戦後になって発見されたのはうち12箇所しかない。2016年にノーフォーク州ノリッジでほぼ無傷のイン・ステーションが発見され話題になった。→
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◎その後の歴史

1940年11月、コリン・ガビンズはセクションDとMI Rを統合した特別作戦本部(SOE:Special Operations Executive)の作戦部長となった。
補助部隊はドイツ軍の脅威が去った後も長く存続し、1944年11月になって廃止された。
その後、何人かの補助部隊々員がSASに入隊した。多くの隊員が1944年末のフランスでの作戦、特にハウンドワース作戦とブルバスケット作戦で活躍した。

1942年、補助部隊の作戦偵察隊は対侵攻部隊(anti-raiding force)としての再編成を試みた。これは主に部隊が解散させられるのを避けるための方便だった。陸軍省は志願者を通常のホームガードの職務には戻さないと約束していたからだ。そのため、ホームガードの全面解隊まで存続させなければならなかった。
それにもかかわらず、一部の部隊が1944年のDデイ上陸作戦に先立ってワイト島に配備され「プルート」燃料パイプラインがドイツ軍の特殊部隊に攻撃されるのを防いだ。(”Operation Pluto”→
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その後、補助部隊を完全にホームガードの指揮下に置くことが提案されたが1944年11月の最終的な解隊までに制定されることはなかった。

(”Auxiliary Units”英語Wiki→


まさか「裏ホームガード」とでも言うべき組織があったとは思いもよりませんでした。
装備も(設立当時としては)至極真っ当なものですし(真っ当ではない例→)、活動の内容もムチャシリアスです。
非正規戦のヤバさというのが伝わります。

2024

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
231226

バッドXB-1スカイラウンジ

10月に入りましたがまだ暑い日が続いてます。夏服がしまえない…。

米国では都市交通手段としてヘリコプターが期待された時期がありました。
代表的なところではニューヨーク・エアウェイズ(NYA)がパンナムビル屋上から近隣の空港までバートル107やシコルスキーS-61による旅客輸送を行なっていました。
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とはいえヘリポートまで乗客が足を運ぶ必要があり、「空飛ぶ車」で夢見られている「Door to Door」な地点まではまだ距離がありました。

西海岸のロサンゼルスではヘリによる輸送網が1950年代から急速に広まっていましたが、ニューヨークと同様に高運賃・低利便性による利用者数の伸び悩みがあったようです。
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(初期の航空事業のように郵便輸送のついでに旅客輸送が行われていたのが原因らしい、というのがオモシロ)

1967年、ロサンゼルス空港局は米国住宅都市開発省(US Department of Housing and Urban Development)の援助のもと新しいヘリ交通手段の実現可能性調査を始めました。

協力企業はSystems Development Corp.、ロサンゼルス航空(LAA)、シコルスキー・エアクラフト社、バッド社Budd Co.など。
ロサンゼルス航空は当地でのヘリ輸送事業を展開していたのでマネジメントを担当。
シコルスキーはS-64スカイクレーンを提供。
バッド社は乗客モジュールの試作を担当しました。

この調査の最大の特徴はモジュール式の乗客用ポッドを地上ではトレーラーバスのように走らせて乗客をピックアップし、ヘリポートに到着するとシコルスキーS-64スカイクレーンに搭載して空港を目指す、という点でした。
各ヘリポートからロサンゼルス国際空港まで最短8分で結ぶことが目標となりました。
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車両メーカーであったバッド社が製造した乗客モジュールは「XB-1 SkyLounge」と名付けられていました。
スポット溶接のアルミ製セミモノコック構造で、全長30ft 4in(約9.25m)、幅 8ft 8in(約
2.64m)、高さ 8ft(約2.44m)、空虚重量 12,000 ポンド、座席数23でした。
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地上を走らせるには車輪小さくね?と思われるかもしれません。
一応、本格的に生産された時にはしっかりとした車輪が付き、全長も延ばされて座席数は44まで増やされる予定でした。
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67年の調査ではモジュール式の可能性を探る段階だったため、元々S-64(CH-54)の装備だったポッドシステムとほとんど変わりません。
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バッド社では軍用移動病院、キッチンカー、通信センター、海上石油掘削施設などを含む、スカイラウンジのコンセプトに基づいたいくつかのヘリコプター空輸システムの研究も進められていたそうです。

しかしこれが他の公共交通機関やロサンゼルスの充実した自動車交通事情と比較したとき、どれだけのアドバンテージが発揮できたか分かりません。
近くのバス停から乗れるけど料金はヘリ+αでは市場へのアピール度は低かったでしょう。

しかも翌1968年にはロサンゼルス航空では大きな事故が5月・8月と連続して発生し、71年に会社そのものが無くなってしまいました・・・。

Su-17の主翼フェンス

暑中お見舞い申し上げます。夏は敵。

Su-17~22系の内翼部といえばでかいフェンスが付いているのですが。
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特に一番外側、可動翼のキワにある大きなフェンスは下がパイロンを兼用する特殊な形状をしています。

当然フェンス部は薄く、パイロン部分はそれなりの厚さになっています。
前から見たときのその厚さの変化はこんな。
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んでフェンスの後端はこんなふうに主翼下面に回りこんでいます。
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しかも薄いまんま!
ということは下面のどこかで厚さが変化しているはずです。

それが分かる写真はどうにも少なくて…。
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こういうふうに途中ですぼまっているのは分かったのですが正確には主翼のどのあたりなのだろう?と訝ることしきり。

そしたらモニュメントとなった機体の写真にばっちり写っておりました!
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いろいろ探してるうちに可動翼を取り外した写真も見つけました。(真横からではないですが)
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この部分で厚さが変化しているのですね。
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アトミックゴルフボール

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1950年代米国の原子力に寄せる無邪気なまでの信頼感というのは度々取り上げてきましたが、その中には「原子力ウェットスーツ」みたいな斜め上の飛躍を見せるものが含まれます。

今回の「アトミックゴルフボール」もその一つです。
…安心してください。ボール同士をぶつけるとデーモンコアるとかそういうものではありません。

ラフに打ち込まれたゴルフボールを捜しやすくするためのある試みが1950年に行なわれたのです。
ボール内部に少量の核物質を埋め込み、ガイガーカウンターでその位置を突き止めるというものでした。
こちらのブログ→内にソースとなったアクロン・ビーコン・ジャーナル紙(オハイオ州:2000年8月20日号)が紹介されていましたのでちょっと訳してみました。

◎アトミックゴルフボール
1950年代、原子力は私たちの友人であった。
住宅の暖房、自動車の動力源、家電製品の電力源など、さまざまな形で私たちの生活を便利にするものだと科学者たちは約束していた。

第二次世界大戦の終結のために、アメリカが広島と長崎に原爆を投下してから5年が経とうとしていた。
放射能をもっと明るいイメージにする時が来た。
ゴルフの時間だ。
50年前、アクロンのゴルファーはポーテージ・カントリー・クラブでブレックスビルのB.F.グッドリッチ研究所の科学者が開発した実験装置を試し、原子時代に突入したのだ。

その発明とは「原子ゴルフボール」である。
ゴルファーを深い草むらでの長く、無益な捜索から解放するために考案されたシンプルな装置だ。

原子ボールは、コアに埋め込まれた少量の放射性物質を除いてあらゆる点で普通のゴルフボールと違わないものだった。ラフでボールを見失ったゴルファーは、取り出したガイガーカウンターのダイヤルの針とクリック音を追跡するだけで放射線の発生源にたどり着くのだ。

グッドリッチ社のプロジェクトを率いた核物理学者のウィリアム・L・デビッドソンJr.博士は、1950年にアクロンビーコンジャーナル紙に対し、放射能を含んだゴルフボールは「ダフり屋の祈りに対する答え」になるだろうと述べている。

デイビッドソンは、1946年に出版された「応用核物理学(Applied Nuclear Physics)」の共著者で、科学界で高く評価されていた。
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1940年代後半、彼は月へのロケット旅行、原子力発電所、放射線照射された食品の出現を正確に予言していた。

1950年6月、グッドリッチ社はポーテージ・カントリー・クラブでデニー・シュート、ジミー・トムソン、ローソン・リトルの3人のプロゴルファーを使った原子ゴルフボールのテストを行なった。
ラウンド中、彼らのキャディーはガイガーカウンターを携帯していた。
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(Denny Shute)

Jimmy Thomson
(Jimmy Thomson)

Lawson Little
(Lawson Little)


翌日の新聞には、この装置が「ジャングルの奥深くに打ち込まれたボールの隠し場所を正確に探知した」「1899年にアクロンで発明されて以来、近代的なゴルフボールを量産してきたグッドリッチは、ゴルフ界に新たなブレークスルーをもたらした」と報じられている。

しかし、今週アクロンのファイアストンカントリークラブで開催されるNECインビテーショナル・トーナメントで、タイガー・ウッズが放射性物質を含んだゴルフボールを使う姿を見られないのにはいくつかの理由があるのだ。

原子ゴルフボール計画には、当初から重大な制約があった。

放射線は危険であり、命にかかわるものだ。
しかし、ボールに内蔵された放射性物質の量ではガイガーカウンターは1.5メートル以内に近づかないと検出できない

また、その「安全」レベルであっても、ゴルファーは週に3時間以上ボールを持たないようにと勧告されていた。

放射性物質を含んだゴルフボールが何個も同じ場所に保管されていれば、その危険性は増す。そのため、どこのゴルフショップでも販売することは現実的ではない。

しかも、ほとんどの人はガイガーカウンターを持っていなかった。
25ドル程度の安いモデルもあったが、原子力委員会によると最も効果的な機械は1950年代初めには700ドル程度かかるという。
結局、グッドリッチ社にとって放射性物質を含んだゴルフボールは会社の利益にならないので、実験段階から先に進むことはなかった。

もちろんグッドリッチ社はゴルフボールの製造で大きな収益を上げていた。
生産すればするほど儲かった。1899年から1971年の間、ゴルフボールの製造ラインが閉鎖されるまで 何百万個ものゴルフボールを製造したが、放射性物質入りボールの生産数はほんの一握りだった。

グッドリッチ社の生産・一般製品部門のゼネラルマネージャー、E.F.トムリンソン氏は1950年に記者に対してガイガーカウンターのアイデアが成功しないことを願っていると冗談半分に語っている。
ゴルフボールの紛失は、私のビジネスにとって好都合なのです

(BY Mark J. Price)


と、いう具合です。
その後ゴルフボールに冠される「アトミック」は飛びの違いを想像させる「威勢の良い修飾語」に納まる事になりました。
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そいやテレ東も(ゴニョゴニョ…)
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