季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

目次

本紀

  1. 巻一 昭烈帝紀
  2. 巻二 安楽公紀

列伝

関羽張飛趙雲伝

諸葛亮蒋琬姜維陳祗伝

  • 姜維伝 上
  • 姜維伝 中
  • 姜維伝 下之上
  • 姜維伝 下之下
  • 陳祗伝
  • 費禕董厥樊建伝
    馬超黄忠黄権陳式伝
    李恢馬忠張嶷王嗣霍弋伝
    陳勰伝

    戦役志
    地理志

    益州

    涼州

    荊州

    諸葛亮遺構

    北伐関連地理

    人物遺構

    要衝

    職官志

    百官表

    北伐考論

    季漢政権論

    政治制度考論

    地理考論

    出自考論

    旧版

    建安八年~十年 博望の戦い・曹操包囲網(旧版)

    街亭の位置及び諸葛亮の行動について

    馬謖が張郃に敗れた戦場である街亭は、一般的には現在の街亭古戦場の辺りであったと考えられている。

    しかしながら、そうではなく、祁山の近くであったとする主張もある。

    そこで、街亭はどことみなすのが妥当なのかを検討した。街亭はどこにあったのか、そして、その過程で浮かび上がってきた、当時の諸葛亮がどう動いていたのか、ということを論じることにする。

    目次

    1. 街亭はどこにあったか
    2. 街亭の戦いにおける諸葛亮の行動
    3. 参考史料
    4. 関連記事

    街亭はどこにあったか

    現在の街亭古戦場近傍を街亭とみなす意見は、元和郡県志や通典の記述が時期の早いものであり、遅くとも唐代には、隴城県にある街泉亭が、馬謖の敗れた街亭であるとみなされていたことがわかる。

    更に後代の読史方輿紀要でも、元和郡県志等の記述を踏襲し、秦安県の街泉城が馬謖の敗れた地であると述べ、そこでは劉昭の言葉を引いて根拠の一つとしている。

    読史方輿紀要が引く劉昭の言葉を是とするなら、街亭を秦安県にあったとみなす意見は、唐より更に遡り、南北朝の時代には成立していたと考えられる。

    一方、街亭を祁山の近くと直接的にみなす史書の記述については、私の知る限り見当たらない。

    では、街亭を祁山近傍とみなしている意見の根拠は何であろうか。

    それは、三国志諸葛亮伝の注に引く袁子の以下の記述である。

    (或)曰何以知其勇而能闘也袁子曰亮之在街亭也前軍大破亮屯去数里不救官兵相接又徐行此其勇也

    袁子、すなわち袁渙の子である袁準が、ある人と諸葛亮について論じており、その中で諸葛亮の勇敢さを説明した一節に、街亭の戦いにおける諸葛亮の振る舞いが説明されているのである。

    袁準は、前軍、すなわち馬謖が大敗した時、諸葛亮が数里の距離にありながら救わず、魏の兵が接する状態になっても、慌てることなく徐に退いたことを以て、諸葛亮が勇敢であると語っているのである。

    そして、三国志において、第一次北伐における諸葛亮の行動が「出祁山」「囲祁山」「攻祁山」等と記述されていることを考慮し、諸葛亮が祁山の近くにあって、街亭もその数里先の場所にあったとみなしているのである。

    街亭を祁山近傍とみなすこの推測は、妥当なものと言えるのであろうか。

    少なくとも、軍事的合理性や、三国志等から窺い知れる戦況から考えると、あまり妥当とは言えない。

    そもそも馬謖は、街亭の南山に登った上で、張郃に包囲され、水を絶たれて軍が潰走しているのである。

    張郃が現れ、一気に攻め破られたわけではない。

    したがって、馬謖が諸葛亮の数里先という、肉眼でも分かる位置で敗北したのなら、諸葛亮は馬謖が南山に赴くのも、張郃がそれを包囲するのも、はっきりと確認しているはずである。

    そんな状態で少しも兵を動かさないということになれば、馬謖がゆっくりと敗れるのを黙って見ていたと結論せざるを得ず、街亭での敗北を機に退いた漢軍の敗北を馬謖の責とすることに、軍の合意が得られるはずがない。

    諸葛亮が、その権力によって戦いの記録を実際の戦況から捻じ曲げ、馬謖に全ての責任を負わせた、と主張することもできるかもしれないが、それは史書から得られる諸葛亮像との乖離が激しい上、袁子一つでそうした解釈を導くのは乱暴に過ぎるだろう。

    街亭を祁山の近傍としてしまうと、三国志に書かれる街亭の戦いの記述と整合性が取れない上、諸葛亮が愚将となってしまうため、諸葛亮を称賛する文脈でこの逸話を述べた袁準も、また不合理な行動を取っているように見えてしまうのである。

    また、そもそも、この論の基礎となっている袁子の記述だけを見ても、街亭を祁山近傍とするのは無理があるとわかる。

    袁子には、「亮之在街亭也」とはっきり書かれている。これはつまり、袁準は諸葛亮がいた場所を祁山ではなく街亭であると言っているのである。

    「数里先なら祁山にいたことを指して街亭にいたと述べても不思議ではない」と考えるのかもしれないが、それなら三国志を含む史書において、馬謖が敗れた場所を祁山とするものが皆無であることが不自然になろう。

    もし、三国志等に見える街亭の戦いの流れと、袁準の言葉とを、どちらも是として解釈をするのであれば、それは、諸葛亮が張郃に包囲される馬謖を救援するため、街亭に向かっていた、ということになるのである。

    街亭の戦いにおける諸葛亮の行動

    さて、諸葛亮が馬謖を救援するために街亭に向かっていたとして、当時の状況として諸葛亮が街亭に達することはできたのであろうか。

    祁山から街亭までは、西県を経由する道で約150kmであるが、仮に諸葛亮が郭淮の籠もる上邽近傍にいたとすると、その距離は約90kmとなる。

    替え馬を用意していない状態の伝令であれば、一日に45km程度が妥当なところであり、諸葛亮が祁山にあれば四日、上邽にあれば二日で、馬謖は危急を告げることができる。

    また、行軍ということであれば、祁山からなら十日、上邽からなら六日で街亭に達することができるだろう。

    したがって、街亭祁山間で想定すれば半月、街亭上邽間で想定すれば七日から八日で、馬謖の救援に応じて諸葛亮の軍が街亭に至ることができるのである。

    馬謖は水を絶たれて敗れた。包囲されるまでに備蓄していた分の水を消費しきれば、一日二日しか持たなかっただろう。

    張郃による包囲から潰走まで、精々五日程度だったと考えられる。

    祁山からの救援であれば包囲される十日前に、上邽からの救援であれば包囲される二日前に張郃を発見できれば、諸葛亮は馬謖が大敗する直前に、街亭近傍に達することができるだろう。

    馬謖は前軍として派遣されているので、魏の救援軍に対する索敵は実施していたはずである。そして、監視するとすれば隴関であろう。

    隴関から街亭まで約50kmであり、馬謖が張郃を確認した四日後には接敵する距離である。

    したがって、諸葛亮が上邽より救援を送れば救援は間に合い、祁山からなら間に合わない可能性が高かったということである。

    三国志は諸葛亮が祁山を攻めたとしているが、曹真残碑には諸葛亮が上邽で兵を称したと書かれる。

    それが本隊か否かは不明であるが、諸葛亮が上邽近傍にも一定程度の兵を置いていたことは間違いないだろう。

    したがって、上邽包囲軍から兵を抽出し、諸葛亮自身はそれを指揮するため少数で移動し合流したなら、諸葛亮自身が馬謖の救援のため街亭近傍に達することができた可能性が残ることになる。

    ただし、諸葛亮は馬謖が逃げたことを向朗が報告しなかった時、それを告げる別の者の言葉がなければ逃げたことを把握できない状況にあった。

    その状況に照らし合わせれば、街亭から数里という袁準の言葉も誇張がある可能性が高く、諸葛亮と街亭の位置関係は、数里ではなく一舎程度であったのかもしれない。

    また、緊急事態であり強行軍で救援に向かったと考えるなら、十日の行軍が六、七日に縮まった可能性もあり、諸葛亮が祁山にあったとしても、街亭近傍まで救援に向かうことができた可能性を否定しないだろう。

    こうした背景を考慮すると、近くにあった馬謖を救援せず、あえてゆっくり移動したという逸話が、前軍の大敗にも慌てることなく、無理に救援して隊列の整わない状態を攻撃される愚を犯さず、敵と接しながら隊列を保って退くという、諸葛亮の勇敢さを示すに十分なものになるだろう。

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (張郃伝、諸葛亮伝、馬謖伝)
    2. 杜佑 『通典』 (州郡四)
    3. 李吉甫 『元和郡県志』 (巻三十九)
    4. 顧祖禹 『読史方輿紀要』 (巻五十九)

    関連記事

    袁紹を敗北に導いたものは何か

    公孫瓚を破り河北の雄となった袁紹は、官渡で曹操と雌雄を決することになったが、食糧庫への奇襲によって敗北に至った。

    この戦いにおいて、袁紹を敗北へと導いたのは何だったのであろうか。

    それを検討してくこととする。

    目次

    1. 敗北の主たる原因
    2. 敗北の組織的要因
    3. 参考史料

    敗北の直接原因

    官渡の戦いにおける敗北が烏巣の陥落に起因していることは、三国志武帝紀、袁紹伝などからも分かる。

    烏巣は、袁紹が北からの物資を迎えさせるため、淳于瓊ら五人の将、総勢一万の兵によって守らせた場所である。

    この烏巣に物資が集積されていることを、袁紹軍から降ってきた許攸が伝え、それに基づいて曹操が奇襲し、それを成功させたのである。

    では、烏巣は何故陥落したのだろうか。

    いくつかの要素があるが、直接的な原因は、曹操を前にした淳于瓊の判断であろう。

    武帝紀によれば、淳于瓊は迫りくる曹操の軍勢が少数であることを確認すると、自ら兵を率いて陣門の外に布陣してこれを迎え撃っている。そして、その戦いで不利となって陣内に退いたのであるが、攻撃する曹操軍も眼前にいたため、彼らを烏巣陣内に迎え入れる結果となってしまっているのである。

    曹操の側近が進言したように、烏巣陣内の戦いに曹操が勝利する以前に、袁紹軍の騎兵がすぐ近くまで迫っていた。

    もし淳于瓊が烏巣の陣地を固めて外に出なければ、曹操が烏巣を陥落させる前に袁紹軍の騎兵が救援に現れたのは間違いないだろう。

    淳于瓊の目的は烏巣を守ることであって、曹操を破ることではない。そこを勘違いした淳于瓊の軽率な行動が、烏巣の陥落を招いたと言っても過言ではないだろう。

    敗北の組織的要因

    淳于瓊が烏巣の死守よりも曹操の撃破を優先したことが袁紹に敗北をもたらしたが、その背景となった組織的要因は何であろうか。

    袁紹の敗北に繋がった淳于瓊の行動は、期待されている役割よりも大きな成果を得ようとして欲張ったことによって引き起こされている。

    こうした判断を淳于瓊にさせたのは、個人的な功名心であろうか。恐らくそうではなく、袁紹軍という組織全体の風土がそうさせたと考えるべきであろう。

    袁紹軍は、大きな功績を上げた人物であっても、袁紹に嫌われたり、失敗をしたりすれば、容易に失脚したり処刑されたりする環境であった。

    その最たる例が麴義である。

    彼は袁紹が冀州牧を得る際に助力し、界橋の戦い以来、対公孫瓚戦でも大きな功績を上げていた。

    しかし、その功績を恃み驕り高ぶっていたため、易の包囲に失敗したことを機に袁紹に処刑されてしまった。

    また、官渡の戦いの後のことであるが、同じく大きな功績のあった田豊も讒言によって処刑され、審配は蒋奇という人物に讒言され、危うく失脚するところであった。

    三国志郭嘉伝注の傅子にも、「紹大臣争権、讒言惑乱」という郭嘉による袁紹軍に対する分析があり、烏巣の情報をもたらした許攸の投降も、彼が自身の立場の危うさを感じたことに起因しており、旧友や功績の多寡が勢力における立場を保証しない状態が垣間見えるのである。

    こうした状態は、袁紹自身に権力が集中し、その一存によって賞罰も含めた人事が決定されるという組織の構造があったことを意味している。

    君主権力が強かったと言えば聞こえは良いのであるが、その君主が公正でなければ、群臣の多くが君主の顔色を伺い、保身に努めたり、或いは他者の失敗や失言をもとにした讒言による追い落としが横行したり、勢力を不安定な状態にさせてしまうものである。

    一方袁紹は、自分を諌めたというだけで盟友の張邈を殺そうとするような人物であった。

    袁紹軍は、公正さを欠く君主のもとに権力が集中する状態であったと考えるべきであろう。

    この、臣下にとって立場が不安定な勢力にあっては、消極的な人物は保身に汲々として大胆な策を提言・実行できないであろうし、そこで出世するような人々は、他者を追い落とすために過度に大きな功績を求めたり、他者の失敗を手ぐすねを引いて待ち構えたりするよう人物が多くなるだろう。

    そして淳于瓊は、その立場から言って後者の人物と言える。

    重臣が権を争う袁紹軍の風土が、淳于瓊に組織の利益より個人の利益を優先する判断をさせ、それが烏巣の陥落と、官渡での敗北を袁紹にもたらしたと言えるのである。

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (武帝紀、袁紹伝、張邈伝、郭嘉伝)
    2. 范曄 『後漢書』 (袁紹伝、公孫瓚伝)

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