海中の葉・地上の種

WGE 河野ミチユキの雑記帳ってか日記。

1年に1回ペースかよとは思うけれども心機一転とか

●もはや年に一回の更新頻度

年の瀬です。
今年は個人的な演劇にまつわる話題の数はそんなにありませんでしたが、関わった事業などについてとても感謝しております。ありがとうございました!久々の出演?作などもあり(長崎の月いちリーディング)、劇団時代にはなかなかできなかったことをやらせていただきました。

●そしてこのタイミングで

心機一転というかなんというかですが、これまで「河野ミチユキの演出日記」→「河野ミチユキのなんてろ日記」→「河野ミチユキのなんてろぐ」と変遷してきたこの文章の掃き溜めも「海中の葉・地上の種」と名前を変えて続けることにします。といっても、頻度はそんなに変わることはないんでしょうけど。
「WGE」の個人屋号で活動し始めたのはずいぶんと前のことになります。
WGEは「河野がやりたいことだけをやる」がコンセプトの団体名でして、まぁフリー時の個人屋号とでも言えばいいんでしょうか。大抵がデザイン仕事を受けることが多かったのですが、今年は演劇のお仕事でもWGEを使用することがちょこちょこありました。

●WGEの由来

「Wakame-Gohan Entertainment」の略なんですよ。
わかめごはんが大好きなので。
ネーミングの由来を聞かれることが多いのでこれを伝えると、「なんかもっとかっこいい由来だと思ってたw」って大概言われます。

大好きな物を名前にする幸せ。
んで、ブログの名前もわかめごはんのことを想って名付けました。
こう称すると、わかめごはんもなんとなく壮大で歴史ある食べ物のような気がしますな。

●今年はどんな年だったのか

今年は某駅前劇場の舞台主任として舞台に関わることになった年でした。
声を掛けていただいたことにも深く感謝しております。これまでずいぶんと劇場に関わるお仕事をしてきましたが、新しい職場もチームに恵まれ、時には様々なトラブルもありますが楽しく運営しております。
熊本市民と劇場との関係性を「利用者と施設、それぞれの在り方」の観点で、前職から引き続き考える日々です。
劇場側の利用者への寄り添いは然ることながら、利用者が劇場とどう付き合ってもらえばいいのか…

例えば、利用者は自身のイベントについてどこまで考える必要があるのか。
催事の打ち合わせをしていて、「いやそれはホール職員じゃなくて利用者さんが決めることですよ」という事案がいまだに熊本では多いことを、どうやって解決するべきなのか日々悩んでいます。

「そもそも論」みたいなことをお話しするのは角も立つし。
しかし「その認識では県外に出たら恥かきますよ」みたいなことはどうにか伝えなければならないとも思いますし。
県外で自前の催事などやらない人が多数でしょうから、その助言も人によっては余計なことですしね…
上から物を言うつもりはさらさらないんですけど、うーん、芸術文化レベルはなかなか上がらないなぁというのが正直なところです(個々のパフォーマンスのことを言ってはいません、制作的なことについてです)。頑張らないと。こちらが手を出すことは簡単なんですけどね。
決して愚痴ではなくって、現状を少しでも良くしていきたいという試行錯誤、一念ですね。

来年も弊ホールではたくさんのイベントがあります!
利用者の皆様もお客様も、よろしくお願い申し上げます!

●残念ながら

それで、自分の演劇の話なんですが。
年明け3月に「アクワリウム」をやる予定を立てたんですが、残念ながら降板することになりまして。
「アクワリウム」は上演するのにとても難しい作品なので、重い腰を?かなり持ち上げて臨んでいましたが、結果的にこんなことになりました。不甲斐なし。

●体調は今のところ大丈夫

先月、癌の宣告を受けました。
「いやぁ…お会いしてちょっとしか経ってないのにこんなことをお伝えしなければならないことになってしまいました…」と苦笑いするかわいいおじいちゃん先生のおかげで発見に至りました。
お医者さんから告げられて、すぐにその足で大きな病院に転院し、その後は毎週精密検査を受ける12月でした。最初は潰瘍かな→いや、違うけど治ります!→うーん…抗癌剤治療が…みたいになってきてるので、もう後はこちらはどうすることも出来ないし、先生にお任せするのみですね。
周囲が泣き濡らすのを見ているのがとても辛いです。

●欠損について思うこと

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私は左腕の感覚を後天的に失っています。
しかし左腕はありますし、手も普通に(失った機能はありますが)動いているので、たぶん初対面の方は気付かないと思います。

幼少の時分、近所に左手の中指と薬指を事故で失った女の子がいました。
一緒に遊んでいるときにふと、気付いたのです。その子の指が足りないことに。
何か紙を手で押さえる時に、他とは少し違う角度の手首で押さえつけたことで気付いたのです。
そして、なぜだかそれがとても美しく思えました。
ないものをカバーするために、他人とは違う形で対処する。
このことは私の創作に強く影響を与え続けています。
拙作戯曲でも「身体の欠損」を描いたものがいくつかあります。
それとは別に「目に見えないものの欠損」も書いたことがあります(これはおそらく「欠損」とは言わないと思いますが)。「記憶」「感情」とかですね。いや、感情は見た目に解るか。

つまり言葉を選ばずに言うと、私にとって「欠損」はとても魅力的なのです。

本当は口に出してはならないことですが、
左腕の感覚を失った時に、「どうして腕ごと無くならなかったんだ」とも思いました。
「腕ごとなくなっていたら、俺は書いてもいいことがぐんと広がる」と。
当事者しか書けないことは、私が書きたいことの中にはたくさんあるのです。
でも、当事者でない私は、書くことを許されない。それが悔しいのです。

●失う、を意識する

ということで、今年の最後の2ヶ月は必然的に「魂の喪失」について考えることが多くなりました。
魂は「欠ける」ことはなく、無になることと認識してます。
だから魂を失った瞬間、私は「欠損」を意識しないで済むことにはなるのですが笑
十中八九生き延びるので、全然悲しみとか心配はしてないんですけど、当人としては万が一を思考するきっかけにはなり得ますし、こうした思索は楽しいものです。
私はいわゆる自分の家庭を持っていませんが、少なからず側にいてくれる人達はおりますので、そうした人達を残していくことだとかについても考えますし、そこにはもちろん悲しみもあります。
年明け早々に手術します。「手術してもらいます」か、俺はしないもんね。
そうすると、体内の幾許かのなにかしらが無くなるんですね。クソーまた外見ではわからない変化ですw
何百グラムか何キログラムか知りませんけど、体重は軽くなりますね!
これまで出来たことが出来なくなることも説明を受けました。これは付き合っていくしかない。

●腹を割ってみなけりゃわかんない

実際に開腹してみないとわからないことも多々ありますので、今は体の内部については考えてもしょうがないなーと、とりあえず食べたい物をたくさん食べて栄養を溜め込んでおこうみたいな気持ちで年末を過ごしております。
いやぁ、高価な物や美味しい物を12月はたくさん食べました〜!

そんな理由での降板と相成りましたので、心待ちにしていただいた皆様には本当に申し訳ありませんが、今は恢復することに専念しますね。
やり残したお仕事や心残りのお仕事がいくつかあるので、それを術前に上げてしまいたいと奮闘しております。

●食べられるようになったなら

大好きなわかめごはんを食べたいと思います!
それを夢見て、食べられるように頑張ります!
来年もいい年になりますように!
元気な顔でまたお会いしましょう!
皆様、良いお年をー!

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ずーっと考えていた孤独について

●どういう風の吹き回しか

お久しぶりです。河野です。
1年くらい怒濤の日々のような、かといって中身が何にもないような、無駄なような有意義なような、よくわからない日々を過ごしています。どっちかと言えば、元気です。

何か書く気も起きず、つまり碌に働かず、このまま海外で虫とか魚を食って生きていこうかな、と。淡水魚なら食えそうだけど、虫を食えとなっても食えるだろうか。生きていくためには食わないとなぁとか、さて、どの国に行こうかなとか、本当に生産性の低い思索に費やしておりました。エニアック程度の思考回路で(いや、速いのかなそれは)。

働かないと人との付き合いも減っていきそうですが、いろんな仲間などが連絡をくれて、どうやら孤独を感じる暇はないように思います。感謝です。

どういう風の吹き回しか、ブログをアップします。
実際は、今年8月8日から頭の中に湧いたり、少しずつ書いたりした文章の寄せ集め、吹きだまりのようなものです。
そして、個人的には決意表明の感触もあります。でもたぶん、ぼんやりしてます。

●ひとりになりたい なりたくない



欅坂46のメンバーは平均年齢20歳くらいですかね。ハイティーン、というか、世界観はローティーンなのかな。あの日、車中ではこの歌がループで流れていて(まだ音源が解禁されたばかりだったな)、親父の家を訪ねたのです。

数日ぶりです。少し遠い場所で仕事をしていたので。

玄関を開けて、
暗い部屋に、テレビがついてる様子だけが見える。
扇風機が回っていない。

いつもの風景のような、全く違うような。
いや、全く違う。
なにより、部屋が暑い。
居られない暑さじゃないが、じわりと汗が滲む。

親父の寝床に行き目を遣ると、
彼は少し固くなっていました。

ベッドに駆け寄る頭の中で、アンビバレントのフレーズが繰り返し鳴っていました。
少し固い父親に触るのは初めてでした。

●孤独は、ひとりでいるっていうことじゃない

それは知識としては当たり前で、状況としては混乱でした。
大声で呼びかけ、肩を揺さぶり、
つまり、その時私は、初めての経験を、
亡骸に触ったことはあるが、それが親だったことがつまり、

はじめてで、

さっき、部屋に入って目を遣った、あの瞬間に、彼は固くなっていた、
と言ったけど、
それは記憶違いで、
だって、触れたのは、今のそれがはじめてで、
でも、やはり見た目でも固そうだった気もする。

彼はひとりで逝ってしまった。
その言葉が頭の中で廻り続けていた。相変わらずの脳内BGMは少女たちが歌っていた。


ひとりになりたーい なーりたーくなーい
だけど孤独にー なーりたーくなーい
どうすればいいんだー この夏ー(アンビバレント/欅坂46より)



フォージョーキは、若い男女の話のようでもあり、老齢でもあるかのようなニュアンスもありたいと、作った作品でした。
所々のエピソードは、身近な話が元になっていました。我が身を切ることは少なからず創作には必要ですが、フォージョーキにはそこそこ親父のエピソード(というか俺の親父に対する空想やイメージや実際起きたことなど)が含まれていました。あれ、身を切ってるのは親父か。切られてんのか、俺にw。

ひとりで逝ってしまったが、
孤独だったのかは、本人に訊かないとわからない。

●俺は、あの人は孤独だったんじゃないかと思う

フォージョーキで、
「孤独は、ひとりでいるっていうことじゃない。
……ひとりでいる、と、感じてしまうことなんだ」というセリフを書いたんですが、
よくあるような言葉だけど、かなり思い入れがあります。

ひとりじゃなければ、孤独じゃないかというと、そうでもありませんし。

俺は、あの人はきっと孤独な一生だったに違いないと思う。
そして、
俺も、ずっと、42年間、孤独だったと思う。
いや、それは少しカッコつけすぎている。
孤独な作業が多かったように思う。否、たくさんの人に活かされていることは忘れていないけれど、

うーん、孤独に敏感な人間であったことは、自覚する。

●ひとりで生きていける、という神話

「あの人はひとりで生きていけそうだもんね」と評価される人物が世の中には五万といらっしゃることと思います。
「私はひとりでも生きていけるタイプ」と自称する方もいるでしょうね。

「私はひとりじゃ生きていけない」これもまた多いかな。というか、上のと半々、か。

「俺はひとりでも生きていける」という佇まいだった男が、
「やはりひとりでは生きていけない」と言わねばならない葛藤に、付き合っていたように思います。
父親の。

「ふたりで生きて欲しい」と願われた時は、
ひどく驚いたものです。
ひどく驚いたほどの、私と父親の関係だったからです。

日ごとに少しずつ何かを覚えているのが困難になり、
2人の息子に関係する事柄を混乱するようになり、
時間の感覚を喪失し、
自分の意志を説明する言葉を見失い、
普通に動いているけれど、
年中無愛想だったあの親父が、
俺の呼びかけに笑顔を作ることでしか反応ができなくなって、

ただ、本人が望むままに生きてもらった。
俺が用意したいろいろは最終的に全て解約して、
ただただ望むように。

でも、本当に望んでいたのだろうか。
言葉を喪失し、あるいは意志自体を見失ってしまっていたのならば、
本当の本当は、何を望んでいたのだろうか。

彼の心が外側から見えなくなった時、
彼は孤独に陥っていることになっていたのではないか。
目の前には俺がいるから、本人は孤独と感じないままに。

目の前の俺すらも、彼を理解してあげられていなかったんじゃないか。
それが悲しくてやりきれない。

●孤独は、ヒトになる子にあげよう。

「孤独は、ヒトになる子にあげよう。代わりに、お前には音をつくってあげよう。」
みんな大好き野田秀樹の戯曲「半神」の印象的な台詞です。もちろん、私も大好き。

人と孤独はセットなので、その関係性をいつも考えてしまいます。

孤独は欲しくないから、人にならなくてよかったとも度々恨みます。

でもやっぱり人なので、孤独と戦うことを営むべきです。

声を掛けたい人達にたくさん「一緒に生きてよ」とお願いするべく、
動き出したいと、ようやく思えたのです。
自分が孤独じゃないよ、って顔をできる間くらい、
一緒にいる人を求めようと、父に倣って。

演劇は私にとっては、
「一緒に生きてよ」って人を誘ってるのに、
自分はどんどん孤独になっていく気がする不思議なものでした。

演出とか劇作とか、
ずんずんと他人の懐に潜り込むのは、
対象がどんどん離れていくのが怖かったからかもしれません。
なぜそうなるのかわかりません。
演劇をやっているみんながそう感じているのかも知りません。
でも、私にはそうでした。
他人に評価されるべき対象ということが、そう感じさせるのでしょうか。
今でもよくわかりません。

よくわからないままですけど、
今後は違う形で、
孤独と戦うことにしようと思いました。

やはり、ぼんやりした決意表明のようなもの、になってしまった。
孤独を愛することだってできますが、
私はそんなに強い人間ではないことも知っています。

どうやってまた、社会と関係できるのか、
自分でも楽しみです。
少しずつ、演劇のお仕事も再開しています。
何かやる時には、お知らせします。
以前よりは遥かに少ない活動です。
なぜなら他の文化活動を行っているからです。

ですが、
このブログには、演劇のお話で、
発信しました。



これが私の、演劇への関わり方の全てだったのか。
言葉にしてみて、
言い得ているような、全くそうでもないような、

アンビバレントな感覚が、私は大好きです。

極私的な書きなぐり、ご容赦ください。
もし読んでいただいた方、おつきあいありがとうございました。



【追記】

親父の生前最後の、俺の演劇に対する評価は、酷いものでした。
花習舎を片付けに熊本に行く日々に「なぜひとりでやるんだ、結局、おまえがやってきた演劇とはそういうことだったんだ、演劇を騙るな」と言われましたね。

まったくもって図星に感じて、
思い出すとこんな雑文を書かずにはいられなくて、



没後、
親父の家を片付けていると、
俺の初出演舞台の半券が出てきました。

なぜあるのか。親父は観に来ていないはずなのに。

本当に、何も見えないアンビバレントな人でした。

そのチケットを見つめようにも、
俺の視界も見えなくなっていきました。続きを読む

ゼロソー代表として、最後のごあいさつ

●3月にご挨拶をすると言っていたのに

3月のゼロソーの小柳銀大学院修了記念公演「卒業制作」にはたくさんのご来場をいただきまして本当にありがとうございました。
どこかで情報を聞きつけて、かつての職場の方やら旧知の方々もご来場いただき、メッセージや贈り物なども賜り、本当に嬉しい2日間でした。

その後、4月の劇団マエカブさんの熊本公演のご利用をもって、健軍花習舎も閉館いたしました。短い期間ではありましたが、ご愛顧賜りましたこと、心からお礼申し上げます。
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●5月には

そしてつい先日の宮崎県は三股町のみまた演劇フェス「まちドラ!2018」に町民チームの演出として参加してきました。
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そもそも、何年もお付き合いいただいているこの三股町という町は、出会う人々が総じて少し狂ってる町なんですが(いい意味で)、そのおかげでというかなんと言うか、超ハッピーな創作が出来たように思います。大打ち上げ大会では、町民演出家チームと中村幸ちゃんとホールのワッキーと5人で、不思議少年大迫くんの本で出し物までやらせてもらえました。夢のような滞在期間でした。

●私自身の

そして、この「まちドラ!」の「ゴトーを待ちながら」という作品をもって、河野の演劇活動も休止となります。

まだ正直、整理のつかない身辺と心の中ですが、そんな気持ちも文章として素直に残しておこうかと思います。

立ち止まることは、本当に恐ろしいです、というか、これまでそんなことを考えたことなかった、です。これを書いている今も、経験したことのない喪失感がほとんどを占めています。そんな感情とは裏腹に、3月の公演の稽古段階時から平行して、劇団の後片付けといいますか、まぁそんなことをやっておりました。会社を畳むのと似ていて、それなりにお金もかかるし意外と難儀なこともあります。ちょうど父親の「終活」に付き合っているので、それともなんとなく似ているなぁとか。
劇団活動のそのほとんどが楽しい想い出ですが、ひとたび喋り出せば、恨みつらみのひとつやふたつ、芋づる式に引っ張り出されるかもしれません。物を書くことで頭の中を整理してきた自分ですので、ある目的のために、なんてろぐを久しぶりにしたためようかと思います。

●集団の活動休止

月並みな言い方になりますが、17年と言うのは振り返ると、長いようで、あっという間でした。
「月並み」とは言ったものの、この「長いようで短い」的な言葉は私にとって遣いにくい、少々特別で特殊なものです。実感としては、昨日劇団員募集のチラシを作った、みたいな感覚です。それから18年も経っていたのかと、愕然としています。

●自分の演劇

ゼロソーでこれまでやってきた演劇は、というよりも、演劇そのものが、関係性の芸術であり、自分のテーマだった「コミュニティの歪み」だとか「集団のシステムへの興味」とかを考察する場だったと、意識もしていたし、振り返ってみてもそうです。
「人と人とのつながり」について考え悩む。劇団というコミュニティもそうですし、演劇自体が1人ではできないことです。
裏を返せば、その対極の「孤独」についても思考する日々でした。

なので、「作品」を作ることではなく、「場」をつくることが私の本来の責務でした。
場のために作品を作っていた、と言っても言い過ぎではないのかもしれません。

10〜20代の頃は、生き急いでいた気もしますが、それはやはり「若い」ということこそが必要なシーンが世の中にはたくさんありますから。しかし、どうも私の持つ時計は相当のんびりしているようで、これが人様に迷惑をかけることの多い所以であります。自分の成したことが千年先にでも人類の(果たしてその時に人類が地球の長なのかは不明ですが)役に立つことがあればいいなーと今も思います。

●ところが実は

2018年が明けた頃、新年度に向けて活動は進んでおりました。
劇団の法人化に伴う2集団への分割新体制、新人オーディション、春からの劇団メンバーによるラジオのレギュラー番組やそれにまつわるインターネット生放送の恒常化、レパートリー公演「竜宮都市ゴーヘイ」の大劇場公演化、見立て演劇の新パラダイムに乗り出すための新作「レコーデッド(仮題)」等々、来年度以降の短・中期スケジュールも立てていましたが、一旦すべてご破算となります。私の力不足によってこのような決断を下さざるを得ない状況になってしまいました。
活動休止自体は、活動中の在籍メンバーの意思確認後の決断です。

金銭的に苦しい局面ももちろんありました。そうした金銭的コストもさることながら、人的コストのことを私はかなりシビアにメンバーと話していたように思い出します。制作サルカンバ!の力のおかげで乗り越えて来れたことを深く感謝しています。

●目的

ある目的のために書く、と書きはじめたこの今日のエントリーですが、
今後も熊本や各地で「劇団」が産まれ続けて欲しいがために書いています。

運営していると、辛いことや大変なこともたくさんあります。
ゼロソーは、自前の小劇場もやったり様々なイベントにも参加したりして、たしかに事業規模は地方劇団としては少しだけ大きかった(というか手広かった、と言ったほうがいいのかしら)のですが、上記のように優秀な制作さんのおかげで「破産して劇団休止」というわけではありません。
メンバーの手出しも、その事業規模に照らし合わせて考えると多くはありません。
一方、人的コストの無理が震災後に確実に発生したので、貸館としての花習舎閉鎖はいわゆるそうしたコストカットでもあります。劇団活動休止よりも先に、花習舎閉鎖が決まったという流れはそうした理由でした。リスクマネジメントが追いつかなかった反省があります。
ですが、同時に稽古場が閉鎖となりましたので、集団の「場」がなくなったことで、ドミノ式に劇団も休止、という総意に至りました。「場」の喪失。実感します。

劇団の色にも寄るだろうし、能力というか「才能」といった避けられない壁もあるし、地域性なども大きな要素ですが、
演劇を志す若い人々が、どこかに所属する方法だけじゃなく、自分でその場を作るという選択肢もあるんだよ、とずっと話したいと思っていました。
だって俺もできたんだもん、周囲の演劇に対して真摯で優秀な仲間がいたから。
過去の失敗を繰り返さないでほしいな、と、今の私は願うばかりです。今日のエントリーが何かの参考になれば嬉しいです。あんまり実のあること書いてないか。

●彩りが消えた日

生活に彩りがなくなる瞬間はその時は意識できませんが、後々思い返すととても恐ろしいものです。が、それでも歩いていきます。

メンバーでの協議の末、「ゼロソー」の名は河野が預からせてもらうという形となりますが、私自身の演劇活動再開は未定です。すぐかもしれないし、時間がかかるかもしれない。わかりません。

ただ、私以外のメンバーは今後も熊本かあるいは他地域で演劇を続ける者もいることでしょう。引き続きご愛顧いただけるとこれ以上の幸いはありません。

僕の演劇は、いったん、一区切りです。
恩師である、天国のタブチヒロユキさんと五島和幸さんにもお暇することをお詫びしたいです。

演劇文化がこれからも未来永劫、世界に存在しますように。
ありがとうございましたー!

九州戯曲賞のこと

 この度、平成27年度九州戯曲賞大賞に選んでいただきました。
 いつも応援してくださる皆様、今回の戯曲賞に関わるすべての皆様、これまで一緒に作品と歩んでくれたカンパニーメンバーとスタッフ、ほかにもたくさんの方々の顔が浮かびます。まずは、本当にありがとうございました。

受賞直後は相当に浮かれており、でも翌日は職場で消防訓練したりして慌ただしく過ごしていました。少し落ち着いてお礼の文章を書こうと。そしてこの夜になりました。

「チッタチッタの抜け殻を満たして、と僕ら」は、「海のかおりの三部作」2番目の物語に当たります。田舎で活動している私が描くべきは故郷の風景だ、と自分の中で縛った「海のかおりの三部作」。頭の中ではずっと温めていたものでしたが、なかなか形にすることができず、制作時はメンバーにたくさんの迷惑をかけながらの執筆でした。戯曲としても、なんというか、非常に不細工な、というか、仕上がりが正直「これ…お客様にお出ししていいものなのでしょうか」と私もカンパニーメンバーも不安な表情をしていたことを思い出します。しかし、上演時には観客の皆様にも概ね喜んでいただけたみたいで、いろんなお声を(もちろん厳しい言葉も)聞くことができました。全ての上演が終わったあとに、「カンパニーの大切な財産として、もっといい舞台作品にし続けたい」とメンバーが話してくれたことも嬉しい反応でした。つまり、メンバーの中で「チッタチッタ」は少しも終わってないのです。

 あともうひとつ、この作品は「松岡優子舞台生活30周年記念公演群」の3作品のうちの一作品であるという側面からも触れる必要があるかと思います。チッタチッタという役どころは彼女の存在なくしては成立しないものでした。ゼロソーを表でも裏でも創立から牽引する女優への精一杯のお祝いであります。

 思えば15年です。カンパニーのメンバーも今やそれぞれ団外でも活動してはおりますが、重要な「ホームグラウンド」が認められない悔しさや苛立ちは想像に難くありません。これでその何分の一かでも恩返しができたのでしょうか。
 この作品の全ての関係者が現在もなおカンパニーにいる訳ではありません。演劇の世界から離れてしまった者もおります。それでもみんな自分のことのように喜んでくれ、お祝いのメッセージを届けてくれました。そんな人たちとひとときでも共に作品を作れたことも誇りに思っています。

 何かにつけ「一歩目を踏み出し」て、でもその一歩目の着地がどうにもこうにも情けないものでしたが、本当にようやく「一歩目」が着地しました。
 文化活動の消費スピードもますます速くなる現代において。そんな中、観客のだれかの、一生残る胸の端っこの引っ搔き傷のような、そんな作品を変わらず目指していこうと思います。
 
 本当に、ありがとうございました!

チッタチッタの抜け殻は満たされたのか

●30周年は幕を降ろしました

こんちは。河野です。
走っても走ってもゴールが見えない、「松岡優子舞台生活30周年記念公演群」。
先日、ようやく閉幕いたしました。
第1弾「或星」
第2弾「つれなのふりや すげなのかおや」
第3弾「チッタチッタの抜け殻を満たして、と僕ら」
3作品、計10公演。たくさんの人に助けていただき、遠方からのお客様にも多数おいでいただきました。
関係者やお客様に、ご迷惑もたくさんお掛けしてしまいました。
申し訳ありませんでした。
そして本当にありがとうございました。

●おまつりですから

しかし、先日、チッタチッタを終えた松岡がこう申しておりました。
「大変だったけど、みんな最後まで楽しんでたね!」
お祭りですからね。楽しんだモン勝ちだ!それでも、それを差し引いても、相当みんなキツかったでしょうね。

頼もしいメンバーや関係者におんぶされて、なんとか辿り着いたゴールには……なんにもなかった。
というか、先はやっぱり見えなかった。

でも、後ろを振り向けば、出会った人たちや、新しい力を備えたメンバーがいました。それが、今回のお祭りで僕らが獲得した何物にも代え難い財産でございました。

●個人的には

私は、なんと言いますか思い返せば、これまで生きて来た中で最高に忙しい年度でした。
そんなことってあるのかな。生きてきた中で一番忙しいってなぁ。それが私の生きる道なのか。「忙しいことはいいことだ」とも言うし、「忙しいと言っている人はさほど忙しくない」とも言うし。でもどうにか変わらなければ、変えて行かなければ。弱音も吐いたし、失敗も数知れず。しかし言い出しっぺという責任はあります。果たして責任を全うできたのか。かなり疑問です。

●30周年のいきさつのようなもの

松岡は当初、この周年企画に難色を示しておりました。「恥ずかしい」といった趣旨で。
地方の小さな劇団の女優が、周年記念公演をやる。ある意味、勘違いも甚だしい。
こういった、企画段階での松岡の進言というのは結構的を射ていて、カンパニーの進行方向に大きな影響を与えることが常です。なにより、私がその点を一番信用しています。
しかし、今回は無理矢理押し通しました。やる、と決めた後も「チラシの松岡優子っていうのは小さめでいい」などと言うもんだから「いや、ドカーンといきます、もうチラシもできちゃった」と強引に事を運んで行ったのでした。

●「或星」への道

宮崎・こふく劇場の永山さんにオファーしに行った頃には、松岡も状況を楽しみ始めていたように思います。「永山さんに振り付けとかお願いしてみようか!」とケラケラ笑っていたのを思い出します。きっともうこのとき既に、この公演群の成功は約束されていたのかもしれません。当の本人が笑ってるんですからねぇ。
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ほらねぇ。「30周年」の「3」ピースですよ。
そして、「或星」は物凄い作品になったと思っています。雷雨にて中止した回もあり、すべての関係者に心残りが。…と、いうことは…どうにかなるといいなー!

●「つれなのふりや すげなのかおや」への道

「ゼロソーの嫉妬」をやってる頃、見に来てくれてた亀井君を(予めオファーを受けてくれていたので)捕まえて、内容について聞くと、面白い企画を考えていてくれていた。複数人で書く、ということ。「熊本大学演劇部」のつながりを感じられるものになること。
「ゼロソーが続いたのは河野さんの才能じゃないですよ!松岡優子がいなかったらゼロソーなんて海の藻屑ですよ!」みたいなことを亀井君は言った。
そして、「つれな〜」では、松岡優子の半生というか、決して半生ではないけれども、半生としかいいようのない、不思議な作品が生まれた。面白い俳優さんたちがそれぞれの色で存在感を発揮し、それでいて全員が松岡優子だった。こう書いても意味が分からない。でもそうなんだもんなぁ。
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若い才能と知り合う事ができた、迸る公演だったなぁ。

●「チッタチッタの抜け殻を満たして、と僕ら」への道のりは途中

チッタチッタは作品として、これから育んでいこうと思っているものです。
ですから、まだ終わっておりません。
「30周年記念公演群」は、熊本公演で終わり。

それにしても、チッタチッタは松岡の近年稀に見るハマリ役だなぁ。どうですか?
ゼロソー創立からずっと俳優組の先陣を切っていた松岡。
その魅力をゼロソーが、いや私が、
一番わかっていなければ、ゼロソーでの活動はなんだったんだろう、ということになる。
「松岡さんにあんな役やらせないで!」という人もいらっしゃるのかなぁ?うーん。

ただこれが、私河野が、松岡優子の魅力を最大限に引き出せるキャラクターではないか、という問いへの現時点で到達した答えです。
いかがでしょうか。

●見えない道に、はじめて足跡をつけるのは自分だ

お祭り気分はここまでにして。
真摯に作品に向かおうと思います。有り難い事に、ゼロソーのメンバーもその気持ちを共有してくれているようです。
今後とも、松岡優子とゼロソーをよろしくお願いいたします。
重ね重ね、ありがとうございました!

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河野ミチユキ

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