教授と學生『ニコマコス倫理學』(アリストテレス著)(第333回)

「ニコマコス倫理學」(その一)

(「ニコマコス倫理學」の讀書會が行はれたが、それについて記す前に、
最近文春新書として刊行された、『福田恆存の言葉』(福田恆存著)の感
想を書きたい。「ニコマコス倫理學」に關係してゐるからである。)

 『福田恆存の言葉』には「處世術から宗教まで」と云ふ副題が附いてを
り、同書はもともと「三百人劇場」での連續講演を文字に起こしたもので
ある。この本を編集した恆存次男福田逸氏によれば、恆存は逸氏に「タイ
トルをかうしておけば、何を喋つてもいいわけだらう、氣樂なものさ」と
語つて、講演を始めたさうである。さう云ふ譯で、本書は「處世術」の話
が冒頭に來る。二葉亭四迷の『浮雲』主人公、内海文三の「處世術缺如」
を論ひ、福田恆存はかう語る。

處世術といふと私たちは何か惡いもののやうに考へてゐるんです。(中
略)私は、できることなら處世術の達人になりたいと思ふのですが、どう
もまだうまくいかないで、失敗ばかりしてゐる。ゴマすりといひますけ
ど、ゴマはすつたはうがいい。すり方のへたなのがいけないので、うまく
すればよろしいわけなんです。(中略)
世の中からうまく扱はれてゐない、あるいは仲間からよく思はれてゐない
といふ人間をよく見てますと、ちやんとそれだけの理由があるので、不當
にさういふ目に遭つてゐる人といふのも、(私は)これまた全くといつて
いいぐらゐ出會つたことがないんです。(中略)
自分がゴマすりが嫌で出世なんかしたくないんだと、のんきに暮らしてゐ
たいんだというんだつたら、人のゴマすりに腹を立てたり文句を言つたり
することはないんです。ところが、實際は自分も出世したい。それなの
に、あいつはゴマすりがうまくて俺はへたで、といつて文句を言ふ。それ
だつたら、それほど出世したかつたらやつぱり一生懸命ゴマすつたらよさ
さうなものですが、それはやらない。やらないんぢやなくて、やれない。
自分の無能力から來ることに過ぎないんです。やれたら必ずやつたに決ま
つてゐるんです。(『福田恆存の言葉』)

 以上の言葉に、『浮雲』主人公内海文三に對する批判の全てが過不足な
く表現されてゐる。文三は早くに父を亡くし、東京の叔父の家に子供の時
から暮らしてをり、田舎には年老いた母がゐる。叔父の家にはお勢といふ
娘がゐて、文三と一緒に育つたが、叔母はいづれお勢を文三に娶せようと
考へてゐる。お勢は「根生(ねおひ)の輕躁者(おいそれもの)」であつ
たにも關はらず、文三はお勢が好きである。別嬪に見えたからである。
 さて、『浮雲』は、文三が勤めてゐた役所を免職になつた處から始ま
る。役所をしくじつた理由は、課長と折合ひが惡かつたからで、詰りは、
文三の「處世術」が拙劣であつた爲である。ここに文三の元同僚であり、
現在役所で出世の階段を上らうとしてゐる本田昇なる男が現はれる。昇は
文三とは對照的に「處世術」の達人なのだが、昇の世渡り上手を、『浮
雲』から引かう。

まづ課長の身態聲音(みぶりこわいろ)はおろか、咳拂ひの樣子から嚔
(くさめ)の仕方まで眞似たものだ。ヤ其また眞似の巧な事といふもの
は、宛(あたか)も其人が其處にゐて云爲(うんゐ)するが如くでそつく
り其儘、唯相違と言ツては、課長殿は誰の前でもアハヽヽとお笑ひ遊ばす
が、昇は人に依ツてエヘヽ笑ひをする而已(のみ)。また課長殿に物など
言懸けられた時は、まづ忙はしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹ん
で承り、承り終ツてさて莞爾(につこり)微笑して恭(うやうや)しく御
返答申上る。(中略)
日曜日には、御機嫌伺ひと號して課長殿の私邸へ伺候し、圍碁のお相手も
すれば御私用をも達(た)す。先頃もお手飼に狆(ちん)が欲しいと夫人
の御意、聞よりも早飲込み、日ならずして何處で貰ツて來た事か、狆の子
一疋を携へて御覽に供へる。件(くだん)の狆を御覽じて課長殿が「此奴
(こいつ)妙な貌(かほ)をしてゐるぢやアないか、ウー。」ト御意遊ば
すと、昇も「左様(さやう)で御座います、チト妙な貌をして居りま
す。」ト申上げ、夫人が傍らから「其れでも狆は此樣(こん)なに貌のし
やくんだ方が好いのだと申します。」ト仰しやると、昇も「成程夫人(お
くさま)の仰る通り狆は此樣(こん)なに貌のしゃくんだ方が好いのだと
申ます。」ト申上げて、御愛嬌にチヨイト狆の頭を撫でゝ見たとか。
(『浮雲』)

 ここで、作者は本田昇の「處世術」を烈しく批判してゐる。或は完全に
否定的に描いてゐる。これを讀めば、讀者も、殆ど例外なく、本田昇は何
て嫌な俗物なんだらうと思ふに違ひない。では、福田恆存から、「處世
術」が何故惡いのか、上手なゴマすりが何故惡いのか、それは自分がゴマ
がすれないだけの無能力の言譯に過ぎず、ゴマがすれたらするのではない
かと、嚴しく問詰められたら何と答へるか。「處世術」を否とする文三や
讀者が、果たしてその具體的な説得力ある根拠を持つてゐるのか。先づは
それを考へねばならない。話のついでにもう一つ追加しておくと、人間は
他人に嚴しい人ほど、自分に對しては極度に甘い。それは我々生來のもの
なのである。「ゴマすり」の全く通じない人物にも、「あなた程、他人に
對してだけではなく、自分にも嚴しい人は見た事がない。あなたにだけは
ゴマすりが全く通じない」と云ふ「ゴマすり」は通じるのである。(續
く)

教授と學生『ヒューマニズムの悲劇』(ワインシュトック著)(第332回)

「ヒューマニズムの悲劇」(その五)

ゼミ生 ポリスの秩序が「倫理的」である事を放棄して、「秩序維
持」への努力を、ポリス市民が怠れば、ポリスには忽ちデマゴーグが
跋扈するやうになるのですね。エリニュス(復讐の女神達)がエウメ
ニデス(惠み深い女神達)に變はつても、人間の本性にある獸的部分
が無くなる譯ではありません。ですから、市民が自らの中に潜むエリ
ニュスを忘れず、エリニュスに對する警戒を怠らない時にのみ、ポリ
スは安定します。ワインシュトックはかう述べてゐます。

ポリスが「權力に對して責任を負つてゐるものである事を忘れる」な
らば、自由は人間を滅ぼすに違ひない。人間の精神が「無制約」なも
のを求め、「自分の限界を超えよう」としても、人間は「死すべきも
ののなかに縛り」つけられてゐる。この「自分自身の悲劇的意識」の
中でのみ、人間は眞實の「自分を自覺」する。詰り、市民が「人間の
限界を共同に意識してゐる」時にのみ、「個人、あるいは集團の不
遜」が閉め出され「ポリスの融和」が作り上げられる。

松原 なるほど、立派な説だ。君が引用してくれたワインシュトック
の言分を認めるとして、では何故、ポリス時代のギリシア人達は神々
の存在を急速に忘れるやうになつたのか。ギリシアの神々よりも、キ
リスト教の神は遙かに長持ちしたが、それは一體何故なのか。(黙
る、ややあつて)かうは言へるだらう。ギリシアの神々は人間に關は
り過ぎる。詰り、detachment がさつぱり守られてゐない。人間に對し
て detachment とは云へず、その上神々相互の對立から正・不正の
「理不盡」が生じるが、この「理不盡」を「理不盡」の儘、まるごと
人間が受け入れるのは頗る附きの難事だ。しかし、これがやれないと
なると、市民が「人間の限界を共同に意識」する事なんぞ、あり得な
い。その點、キリスト教の神は detachment を、すなはち「沈黙」を
守る。とすれば神の「沈黙」が、キリスト教の長持ちの理由だな。
「マタイ傳」にイエスの死を描いた處があるだらう。「イエス大聲に
叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが
神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意(こころ)なり。」イエスの問ひ
にも、神は沈黙を守つた。それでも、なほ、イエスの言葉を通して變
らず「わが神」を信ずる事が出來るか。「出來る」と言ひ切れなけれ
ば、信仰はない。
 ポリス時代のギリシアに話を戻さう。先に述べた通り、エウリピデ
スに至り、神々の合理化が行はれ、その結果、理不盡ではあるが人間
を超越した存在である神々への信仰が急激に薄れた。エリニュスの存
在も忘れられる。徹底的なヒューマニズム(人間中心主義)の世界と
なるが、そこに次元の異なる二つの人生觀、或は生き方が生れた。一
つは、「享楽」的「人生觀」に基づく生き方。すなはち、ワインシュ
トックの言葉を借りれば、「人間にとつて最も賢明なのは、束の間の
人生の樂しい時間を幾らかでも味はう爲に、不安を忘れ、その他の一
切を偶然に委ね、日々の義務を果し、最善をつくし、解けない謎に頭
を煩はす事など止めてしまふ」。無論かうした「人生享楽」を引つ繰
り返したストイックな生き方も同時に生れる。滅私、克己、禁慾を宗
(むね)として生きるのである。しかし享楽的に生きようが、その正
反對にストイックに生きようが、かうした生き方は個人に徹した生き
方であり、共同體の運命には全く無關心である。そこで「個人主義」
とは正反對の二つ目の生き方が出て來るが、それは、他者との關係性
を大事にし、共同體の維持、存續をはかり、「正義」を求める生き方
である。但しこの「正義」は「悲劇時代」には「ゼウスの正義」と結
び附いてゐたが、「悲劇時代」の終焉と共に、「神抜き」の「正義」
となる。「正義」とは何かと云ふ問ひこそが、ギリシア哲學の眞髓だ
が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲學の系譜を考へる
と、アリストテレスに至り、「正義」を考へるに當つて、神々は完全
に用濟みとなつてゐる。ソクラテスにはダイモンが、プラトンにはイ
デアがあつたが、アリストテレスには最早「理性」しかない。人間の
精神活動のうち、「理性」で捉へられる部分しかない。しかし、人間
には「理性」と同時に「心情」があり、「心情」には「理性」の及ば
ぬ領域がある。その廣大な領域を統御するのは「合理」ではなく、
「合理」を遙かに超越した存在の筈だ。では「心情」を除外して、或
は「神」を抜きにして、「倫理學」は可能か。アリストテレスは「ニ
コマコス倫理學」を書いてゐるが、今日、どれ程の説得力があるか。
(北村註、令和六年からおよそ半世紀前、早稲田大學文研研究室の一
室で、以上のやうな、本質的であるがゆゑに、現在些かも古びてゐな
い講義が行はれてゐたのである。その場に居合はせた私はつくづく幸
運であつたと思ふ。)

教授と學生『ヒューマニズムの悲劇』(ワインシュトック著)(第331回)

「ヒューマニズムの悲劇」(その四)

ゼミ生 オレステースの母殺しについて、アテナの一票は「無罪」に
投じられました。投票に先立ちアテナは「私の票はオレステースの側
に加へよう」と宣言してゐます。アポロン神及び、アテナ女神は「共
同體、ポリスの利益」の立場に立つてゐますので、クリュタイメース
トラの夫殺し、更に彼女がアイギストスを愛人としてアルゴスの王位
を簒奪した事、かうした罪を許す事は到底出來ません。そもそも、
「ギリシア悲劇」は神話の再演ですので、オレステース「無罪」を觀
客は豫め知つてゐます。だから「エウメニデス」と云ふ作品に、オレ
ステースは「有罪」か「無罪」かと云ふサスペンスはありません。さ
うすると、アレイオス・パゴスの法廷場面に於ける、作者アイスキュ
ロスの「作意」は一體何處にあるのでせうか。

松原 そこを君達にしつかり考へて欲しい。裁判の目的は「復讐の聯
鎖」を斷つ事にあつた。「アテナの一票」で、「家族」よりも「共同
體、ポリス」の維持・存續を、神話に從ひ作者が描いた譯だが、「家
族」と云ふ「近い人間」への愛よりも、「共同體、ポリス」と云ふ
「遠い人間」への利益を優先した時、そこに度し難い「僞善」が生れ
る恐れがある。この種の「僞善」は質(たち)が惡い。「國の爲」と
云ふのは惡黨の最後の「口實」だが、それよりも惡性なのは「國の
爲」を他人に強制する輩(やから)が現れる事だ。強制された「善」
は既に「善」ではない。例へば、先の戰爭における「神風特攻隊禮
讃」を聞くと、つくづく厭な氣になる。安直な「特攻隊禮讃」は止め
て欲しい。それに何より、「母殺し」を「無罪」とする判決が出て、
エリニュスは納得するのか。「復讐の聯鎖」を眞實打ち止めに出來る
のか。

ゼミ生 さうか、問題は判決をエリニュスにどう納得させるかなので
すね。「アレイオス・パゴスの法廷」の場面の主眼はオレステースの
有罪か無罪かを廻るサスペンスではなく、エリニュスの處遇にありま
す。「エウメニデス」では、かうなつてゐます。判決に怒り狂ふエリ
ニュスにアテナはかう言ひます。

アテナ どうか黒い大波のやうなはげしい憤怒の發作を鎭めてくれ。
そして私と同じ町に住み、おごそかなる祀(まつ)りごとを受けても
らひたい。この大いなる國から、結婚や子供の誕生のやうな祝ひごと
に、奉納の數々の品を永遠にわたつて受け入れるやうになれば、そな
たも今の私の言葉を喜んでくれるであらう。

(中略)

コロスの長(エリニュスの聲) アテナよ、いかなる座所に祀られる
といふのか。

アテナ あらゆる痛みから解放されたところ。そなたはこれを受ける
がよいぞ。

コロスの長(エリニュスの聲) それを受けるとしよう。すると私に
はどのやうな誉れが待ちうけてゐるといふのか。

アテナ そなたを祀つてこそ、それぞれの家が榮えるやうになる。

(中略)

コロス(エリニュスの聲) では女神アテナと共に住むことを受け入
れよう。この都を辱(はづか)しめるやうなことはあるまい。(橋本
隆夫譯)

 かうして、エリニュス(復讐の女神達)がエウメニデス(惠み深い
女神達)に變はりました。エリニュスはアポロン神やアテナ女神のや
うなオリュンポスの神々より遙かに古い、原初の世界の神ですので、
この場面の意味する處は、法廷に於ける、エリニュスの敗北を通し
て、新・舊の神の交代劇を描いてゐるのでせうか。

松原 そんな事よりも、遙かに大切な事がある。アイスキュロスはエ
リニュスをエウメニデスに變へる事により、ポリスの内部に引き入れ
てゐる。この意味する處は何か。考へようによつては、作者は随分危
ない橋を渡つてゐる。エウメニデスがいつ何時エリニュスに戻るか解
らないのだからな。しかもその時、エリニュスはポリスの中心部にゐ
る。ワインシュトックは大凡こんな事を述べてゐる。
 エリニュスは、「人間界の秩序のなかに同化される事になつた」。
ポリスは、「天上のであらうと地下のであらうと、ただ生きた神々が
どこにも、そしていつも居合はせる時だけ倫理的であり續ける」ので
ある。
 要するに、ワインシュトックの言ひたい事はかうだ。エリニュスの
存在を忘れない爲に、エリニュスをエウメニデスとして城壁の中に閉
じ込めた。ポリスの秩序は、神々と結び附いた形でのみ維持される。
神々を用濟みにすれば、「人間界の秩序」は人間だけのものとなるか
ら、「秩序」は絶對的なものではなくなり、やがてポリスの秩序は、
その時その時の人間の都合に合はせて「倫理的」でなくとも構はない
と云ふ事にもなる。(續く)
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