「ニコマコス倫理學」(その一)
(「ニコマコス倫理學」の讀書會が行はれたが、それについて記す前に、
最近文春新書として刊行された、『福田恆存の言葉』(福田恆存著)の感
想を書きたい。「ニコマコス倫理學」に關係してゐるからである。)
『福田恆存の言葉』には「處世術から宗教まで」と云ふ副題が附いてを
り、同書はもともと「三百人劇場」での連續講演を文字に起こしたもので
ある。この本を編集した恆存次男福田逸氏によれば、恆存は逸氏に「タイ
トルをかうしておけば、何を喋つてもいいわけだらう、氣樂なものさ」と
語つて、講演を始めたさうである。さう云ふ譯で、本書は「處世術」の話
が冒頭に來る。二葉亭四迷の『浮雲』主人公、内海文三の「處世術缺如」
を論ひ、福田恆存はかう語る。
處世術といふと私たちは何か惡いもののやうに考へてゐるんです。(中
略)私は、できることなら處世術の達人になりたいと思ふのですが、どう
もまだうまくいかないで、失敗ばかりしてゐる。ゴマすりといひますけ
ど、ゴマはすつたはうがいい。すり方のへたなのがいけないので、うまく
すればよろしいわけなんです。(中略)
世の中からうまく扱はれてゐない、あるいは仲間からよく思はれてゐない
といふ人間をよく見てますと、ちやんとそれだけの理由があるので、不當
にさういふ目に遭つてゐる人といふのも、(私は)これまた全くといつて
いいぐらゐ出會つたことがないんです。(中略)
自分がゴマすりが嫌で出世なんかしたくないんだと、のんきに暮らしてゐ
たいんだというんだつたら、人のゴマすりに腹を立てたり文句を言つたり
することはないんです。ところが、實際は自分も出世したい。それなの
に、あいつはゴマすりがうまくて俺はへたで、といつて文句を言ふ。それ
だつたら、それほど出世したかつたらやつぱり一生懸命ゴマすつたらよさ
さうなものですが、それはやらない。やらないんぢやなくて、やれない。
自分の無能力から來ることに過ぎないんです。やれたら必ずやつたに決ま
つてゐるんです。(『福田恆存の言葉』)
以上の言葉に、『浮雲』主人公内海文三に對する批判の全てが過不足な
く表現されてゐる。文三は早くに父を亡くし、東京の叔父の家に子供の時
から暮らしてをり、田舎には年老いた母がゐる。叔父の家にはお勢といふ
娘がゐて、文三と一緒に育つたが、叔母はいづれお勢を文三に娶せようと
考へてゐる。お勢は「根生(ねおひ)の輕躁者(おいそれもの)」であつ
たにも關はらず、文三はお勢が好きである。別嬪に見えたからである。
さて、『浮雲』は、文三が勤めてゐた役所を免職になつた處から始ま
る。役所をしくじつた理由は、課長と折合ひが惡かつたからで、詰りは、
文三の「處世術」が拙劣であつた爲である。ここに文三の元同僚であり、
現在役所で出世の階段を上らうとしてゐる本田昇なる男が現はれる。昇は
文三とは對照的に「處世術」の達人なのだが、昇の世渡り上手を、『浮
雲』から引かう。
まづ課長の身態聲音(みぶりこわいろ)はおろか、咳拂ひの樣子から嚔
(くさめ)の仕方まで眞似たものだ。ヤ其また眞似の巧な事といふもの
は、宛(あたか)も其人が其處にゐて云爲(うんゐ)するが如くでそつく
り其儘、唯相違と言ツては、課長殿は誰の前でもアハヽヽとお笑ひ遊ばす
が、昇は人に依ツてエヘヽ笑ひをする而已(のみ)。また課長殿に物など
言懸けられた時は、まづ忙はしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹ん
で承り、承り終ツてさて莞爾(につこり)微笑して恭(うやうや)しく御
返答申上る。(中略)
日曜日には、御機嫌伺ひと號して課長殿の私邸へ伺候し、圍碁のお相手も
すれば御私用をも達(た)す。先頃もお手飼に狆(ちん)が欲しいと夫人
の御意、聞よりも早飲込み、日ならずして何處で貰ツて來た事か、狆の子
一疋を携へて御覽に供へる。件(くだん)の狆を御覽じて課長殿が「此奴
(こいつ)妙な貌(かほ)をしてゐるぢやアないか、ウー。」ト御意遊ば
すと、昇も「左様(さやう)で御座います、チト妙な貌をして居りま
す。」ト申上げ、夫人が傍らから「其れでも狆は此樣(こん)なに貌のし
やくんだ方が好いのだと申します。」ト仰しやると、昇も「成程夫人(お
くさま)の仰る通り狆は此樣(こん)なに貌のしゃくんだ方が好いのだと
申ます。」ト申上げて、御愛嬌にチヨイト狆の頭を撫でゝ見たとか。
(『浮雲』)
ここで、作者は本田昇の「處世術」を烈しく批判してゐる。或は完全に
否定的に描いてゐる。これを讀めば、讀者も、殆ど例外なく、本田昇は何
て嫌な俗物なんだらうと思ふに違ひない。では、福田恆存から、「處世
術」が何故惡いのか、上手なゴマすりが何故惡いのか、それは自分がゴマ
がすれないだけの無能力の言譯に過ぎず、ゴマがすれたらするのではない
かと、嚴しく問詰められたら何と答へるか。「處世術」を否とする文三や
讀者が、果たしてその具體的な説得力ある根拠を持つてゐるのか。先づは
それを考へねばならない。話のついでにもう一つ追加しておくと、人間は
他人に嚴しい人ほど、自分に對しては極度に甘い。それは我々生來のもの
なのである。「ゴマすり」の全く通じない人物にも、「あなた程、他人に
對してだけではなく、自分にも嚴しい人は見た事がない。あなたにだけは
ゴマすりが全く通じない」と云ふ「ゴマすり」は通じるのである。(續
く)