2004年04月21日

新学期


 新学期。アラビア語の授業も始まったばかり。非常に簡単な表現を扱うだけです。その中でもスタンダードなのが「私は日本人です」。今日も授業で例年のようにこの「アナー・ヤーバーニー(ヤーバーニーヤ)」を学生さんに順番に口にしてもらっていました。

 しかしある学生さんがこのフレーズをなかなか口にされなかったので、まだ覚えてないのかな?と思いましたら、その学生さんは、申し訳なさそうな小さな声で「朝鮮人です、っていうのはどういうんでしょうか・・・・」。





 なんともまあ罪深いことをしてしまったものか、と。なんでもない語学の初歩的な1表現のようではありますが、状況によってはとんでもない暴力を持ち得てしまうのでした。もちろん、お詫びをいって、必要な表現をすぐ板書したのですが、考えさせられることの多い出来事でした。

 日本で実施される授業なので「私は日本人です」という表現の使用頻度が高いことはもちろんなのですが、その扱い方には考慮が必要なのでした。あー。

khawarnaq at 00:07|PermalinkTrackBack(0)

2004年04月02日

社会人としての心構え

 4月1日。テレビニュースは様々な入社式の様子を伝えていました。

 セレモニーということで新入社員は皆一様に同じ服装で勢揃いですが、やはりこの光景は異様です。まるでナ○スの党大会?祝辞も、石原知事は少し異なる祝辞を述べていましたが、その他のケースはほぼ一様に、若い人の斬新な活力に期待するというようなものでした。

 まあそもそも、ある時期に一括採用し、入社式なるものを壮大に実行する時点で、「かいしゃ」の前近代的な宗教性・封建制が露見してしまっているわけですが、そのセレモニーの現場で、新入りに「斬新な活力」を期待するというコメントは極めてシニカルです。見方によってはその儀式は、若者の「斬新な活力」のお葬式のようなものなわけですから(喪服で勢揃い)、その死刑執行側の頭領?が(失礼)、そのようなコメントを口にするのは、ある種の贖罪行為なのかもしれない、と深読みしてしまいます。Apple のような会社は日本には生まれそうにないですね。これを「文化」の特殊性の名で正当化すべきではないと思います。

 バブル崩壊で失われた富の量は世界史上でも類例のない規模で、その悲劇の破壊的な暴力を最小限に引き留めるだけで精一杯という状態が続く中では(その被害を予想以上に小さくしているとリチャード・クー氏は称えていたように記憶しています)、なかなか前向きな発想は生まれにくいと思いますが、技術革新や利益の拡大といった企業経営の視点のみから捉えられた「改革」に気をとられて、世の中全体を前に進める作業を忘れてしまっては、かえって逆効果なのでは、と考えてしまいます。

 「不況→既得権保持者の権限増大→社会の硬直化→不況の深刻下」という悪循環に陥らないことを切に願うばかりです。

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2004年03月23日

せむし男


 掲示板で『千夜一夜』に登場した「せむし男」の描写がもつ効果、不思議な慰安を感じさせる効果について触れたことがありましたが、この同じ効果を創作の柱の一つに加えた作家に偶然出会いました。カフカです。

 言うまでもなくカフカはユダヤ人で、ユダヤ神秘主義の世界観をその創作の背景に設定しています。被造物の世界には従うべき掟があるのですが、それが現代の腐敗した人間には分からなくなった。これは、現代の人間に救済の希望がないこと、さらに、何が禁じられているのか分からないために、いつ罪を犯すのか分からないこと、を意味します。

 しかしこの「掟」が人間に伝わらないのは困ります。そこでカフカはその作品中に、人間にその「掟」の伝達をなんとか可能にする不思議な存在物を送りこみます。彼らは「助手たち」とよばれています。その描写の一例です。

「床の片隅に二枚の古い婦人用のスカートを敷いて居場所にしていた。できるだけ場所をとらないというのが・・・・彼らからすれば手柄なのだ。この点で彼らは、もちろんこそこそ囁きあったりくすくす笑ったりしながらだが、さまざまな工夫をし、腕と足とを絡ませあい、いっしょにうずくまった。薄闇のなかで見ると、彼らのいるはずの隅には、ただ大きな糸玉しか見えなかった。」(『城』第4章)

 独特な「慰安感」がありませんか?
 こういった「助手たち」が、ではどのように、その「掟」を表現するのかというと、もちろん人間ではありませんから、明確な人間の言葉ではっきりとそれを伝えるわけではありません。そうではなくて、多様な解釈を許す「みぶり」でそれを伝達するわけです。

 私にはこういったカフカの「助手たち」の機能が、『千夜一夜』の「せむし男」にも確認できるのではないか、と感じています。この「せむし男」が、当時のバグダードの住人達からかなり手荒な扱いを受けたこと、その住人達の宗教が異なり、それぞれ、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒であったこと、が、当時のバグダードで、人間の救済に必要であった真の「掟」が忘却されていたことの、暗示であったのかもしれないと思います。一方、その「掟」の媒介者である「せむし男」を溺愛していたのが遠い中国の王であったことは、どこかに「掟」の復活の可能性をかすかに匂わせる効果もあるのでしょう。

 ちなみにカフカそのものでは、「せむし男」は別の権能を担っています。その頭を深くたれた姿勢が、深い罪の自覚に苦しむ者を表現しているのです。それは忘却された「掟」をまだ理解している分、人間より優れた存在となります。また同時に、人間に対し、罪そのものの存在をその「姿」で暗示する役割も担っているわけです。

 ユダヤ人カフカのこのような感性が、彼の血統が中東に繋がっていることと無関係でなかったら面白いと思います。もっともカフカの「せむし男」のようなキャラクターは、近代文学の世界ではそれほど主たる存在感を発揮してはいませんが、民話、神話の世界では希有なキャラクターではありません。こういったその他の地域の民話、神話との比較によって、中東的な「せむし男」の機能の個性を浮かび上がらせることができたら、と思います。

 ちなみにユダヤ神秘主義における「掟」のイメージは、イスラム神秘主義のそれとはかなり異なるものだ、という印象を受けました。イスラム神秘主義の場合、もっとも神に近づいた(ないし合一した)意識レベルにおいて、神が「掟」のように把握されることはないと思います。あくまで「掟」は、地上的世俗的な性格を持たされたままです。一方カフカのユダヤ神秘主義では、最奥のそれも、「掟」的に把握されています。これは、古代的な「運命」概念との接近を匂わせますが、アラブの詩の世界には、古典期においても現代においても、非イスラム的な「運命」概念が存続しているだけに、非常に興味深いものです。

khawarnaq at 04:18|PermalinkTrackBack(0)

2004年03月07日

久々に


 気が付くと数ヶ月日記をつけていませんでした。すいません。weblog がこれだけ広まっているご時世に、古いタイプの日記にいつまでも固執する理由を見いだせないので、日記はこれから weblog のほうに残していこうと思います。

 『千夜一夜』冒頭の有名なシャフリヤールの逸話ですが、思い出すとよく吹き出してしまいます。あれは基本的にお笑いだったんですね。

 残虐で好色な王としての側面ばかりが強調されがちなシャフリヤールですが、最初の設定では、理想的、模範的な男性になっています。女性の愛顧を多く集めそうな性格設定ということも出来るでしょうか。王様という最高の地位にあり、勇敢な騎士であり、理想的な統治をなす叡智をも兼ね備えているのです。お金も地位も男らしさも頭の良さもそろった男性なわけです。

 さてしかし物語では、そのシャフリヤールさえも、奥さんに浮気をされてしまいます。

 そこで世をはかなんで、みんなこうなのかと思って旅にでる訳ですが、すぐさま人間より遙かに強大なジンで出くわし、さらにそのジンの奥さんの人間までもが浮気をしていて、なんと今度は自分たちが間男の役をまんまと担わされるわけです。この一節は本当に笑えます。アラブ的な笑いのニュアンスをご存じの方にはよく分かっていただけると思います。

 こういった設定が語られる背景として、「妻の浮気に悩む夫が大勢いた」という事実があったものと推定されます。これだけ理想的な男性でも、ましてやジンまでもが妻に浮気されてるわけだから、ということでちょっとした慰安を一般聴衆に与えていたものと思います。

 レーンの本にある、妻の売春の手引きをする妻の実母の存在が、妙に真実味を帯びてきます。これは、妻の立場の社会的な弱さの反映と見ることも可能です。いつでも簡単に離縁させられてしまう恐れがあった訳ですから、可能な限り蓄財に励んで、もしもの場合に備えたのでしょう。

khawarnaq at 22:39|PermalinkTrackBack(0)
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