結構前の話だったのですが、今年(2017年)2月1日に、南大東島地方気象台は創立75周年を迎えました。
ちなみに、この2月1日と言う日付は、現在も放映されているプリキュアシリーズの第1作目、「ふたりはプリキュア」が始まった日でもあります。こちらは2004年に開始しましたので、南大東島地方気象台はプリキュアのちょうど62年歳上ということになります。こちらはいい加減いい年を食った気象台とは異なり、13歳とまだ若いところです。ティーン。ティーンエージャーです。
さて、プリキュアの世代的には祖母、もしくは祖父に当たる南大東島地方気象台ですが、その始まりについて調べると結構面白かったりしたので、引用も少し交えつつ、何回かに分けて記述して行こうかなと思ってます。
なお、斜字の部分は特に出典の記載のない場合は「南大東島地方気象台50年誌(1992年・南大東島地方気象台刊)」からの引用となります。(引用部は斜字とします。)
実は南大東島地方気象台「75周年」の起点である1942年2月1日は、「国営」として南大東島観測所が業務を開始した日で、その前に民間(製糖会社)により観測業務は行われていました。
戦前においては(も)、気象観測の業務は国や県などの行政に委ねられることが多かった(都道府県営の測候所はそう珍しくはありませんでした)中で、なぜ民間だったのかと言うと、この島の特殊事情が絡んでいます。
南大東島・北大東島・沖大東島(ラサ島とも、現在は無人島)は、行政の管理を及ばせることが難しかったという事情もあり、民間の企業が島のほぼ一切を管理する形で支配を行っていました。南大東島の場合は玉置製糖→東洋製糖→大日本製糖と島の開拓(1900)からの戦前の45年間で2回管理者を変えながらも、企業による支配体制は継続した形となっていました。
島の「ほぼ一切」を、ということで、企業は住民の衣食住のみならず、本来であれば国家が持つところの学校や郵便も管理していました。(さすがに警察は日本政府に依頼を行ったようですが。)果ては、島だけで通用する紙幣をも発行、管理をしています。そのなかで、気象観測も東洋製糖会社が島を統治していた、1917年8月11日に開始される事になります。
南大東島での気象観測は大正6年(1917)8月11日東洋製糖会社の私設気象観測所として農業気象観測の目的で中央気象台指導の下に業務開始したことに始まる。これは沖大東(ラサ)島の気象観測から二年遅れて開始したことになり南大東島開拓(1900年1月23日)から数えて17年目にあたる。
昭和2年10月6日 東洋製糖会社から大日本製糖会社に併合された時も気象観測業務は継続された。
また、海軍水路部の移動観測班によって、昭和10年9年から昭和13年4月まで気象観測が行われている。
さとうきびを中心とした農業生産は南大東島では開墾当初から積極的に行われており、それに資するために、というのが元々の目的だったようです。ただまぁ流石に気象観測は一から、ということはできず、中央気象台(気象庁の前身)の指導を受けていたようです。
沖大東(ラサ)島は、当時農業の肥料となる燐の多く採掘出来る島で、全盛期には2000人以上の人口を抱えていました(南大東島は3000人以上住んでいた時期があったようです。)が、太平洋戦争後に引き揚げが行われ、無人島となりました。(南北大東島と地理的に離れていたことが一つ原因として挙がりそうですが、それに加え燐の減産・価値の低下も絡んだのかなと思われます。)現在は米軍の射爆場となっています。
大正6(1917)年10月南大東島に無線電信が開通し、東洋製糖株式会社(私設大東島気象観測所)は南大東島で気象観測を行い、翌年3月から南大東島の気象状況が中央気象台に通報された。
設立当時の南大東島観測所は、会社の事務所裏側に設置され、地上35尺(10.5米)の鉄塔上に風力計が設置され、風向計は事務所の屋上に設置された。
気象観測所が設立された契機は、無線電信の開通だったようです。気象データはその場のものだけでは不十分であるということから、中央気象台とのデータ交換も行っていたのでしょう。風力と風向が異なる器械で観測されていた、というところに時代を感じますね。
さて、私設観測所として運営されていた南大東観測所ですが、1934年の室戸台風により内地が大きな被害を受けた事に伴い、国営への移行が検討されます。
1937年の秋頃に発行された、測候時報 第8巻12号内の「凌風丸の進水式挙行」記事に以下の記述があります。
中央氣象臺に於て海洋観測船の建造を希望要求せることは一昔來のことであったがなかなか容認を得なかった、偶々昭和9年9月21日の彼の室戸颱風に刺激されて愈々大東島やラサ島や硫黄島に測候所を設置して颱風観測網を張ることの絶對的必要とすると共に是等の島嶼は交通の便なき為め職員の交替や測器、飲料水、生活必需品の運搬の便なき為め事業遂行困難に依り是等の測候所に巡航すべき船舶の必要缺くべからずとし(旧字は可能な限り再現)
台風早期把握のため、台風の通過点に当たる観測地点の拡充が急務であったことが挙げられています。先行して必要となる補給機能も持った観測船の運用が開始されてから、次々と観測所が開設されていきます。
凌風丸は昭和12(1937)年5月に完成した。硫黄島は、昭和12年11月から凌風丸による調査が行われ、翌年予算が成立。昭和14年11月1日に中央気象台硫黄島観測所が開設された。
沖大東島(ラサ島)は、昭和15年1月に中央気象台の管轄官署として新たに観測所が開設された。
もちろん、南大東島についても同時に同様の検討がなされ、凌風丸の就航の翌年である1937年の12月に沖大東島とともに気象観測所の"新設"が決議されます。
このように、製糖会社によって気象観測業務が行われているなかで、絶海の孤島に位置し交通事情・生活物資・飲料水も天水に依存するという地理的環境的悪条件下にあるなかで中央気象台は気象最前線基地としての重要性を痛感し南大東島・ラサ島の気象観測について、官営観測所の設立を政府に申請していたところ、昭和13年12月両島に気象観測所の新設が認められた。
ここから、立地上困難も伴う中、国営の観測所新設のため、各作業が進められる事になります。
昭和14年11月 大日本製糖会社から無償で提供された敷地(2,000坪)現在の位置に中央気象台から派遣された鈴木新八郎監督の下に(庁舎90.87坪)(宿舎6棟)及び無線塔の新築工事が行われた。
昭和15年1月1日 南大東島観測所国営移管 中央気象台南大東島観測所と改祢(文部省令告示606号)
現在、南大東島地方気象台の「創立記念日」となっている日付より前に、国営移管そのものはなされています。このときはしかし、国営の官署としての運営は行われておらず、所長も、所長に次ぐ重要職である無線課長も着任してはいませんでした。
昭和15年12月庁舎・官舎6棟、無線塔が完成した。また、昭和16年5月、石垣島から大浜孫詳が無線通信担当者として赴任し、同年9月8日、無線機器の取付を終了した。神戸海洋気象台の気象技師飯田務は、初代所長として昭和16年7月1日着任した。昭和17年1月23日に観測施設の設置が完了し、27日から気象無線放送の受信を開始した。
国営移管から2年かけ、施設の建設・人員の配備を着々と進めて、業務開始へと突き進んで行きます。
無線通信担当者は沖縄県からの登用でしたが、所長は内地(沖縄県以外)からの登用で、この傾向は終戦まで続いて行く事になります。
(尤も、終戦までの時間がそれほど長い訳ではありませんが)
昭和17年(1942)2月1日 中央気象台南大東島観測所として業務開始を行う。業務内容は1日7回の気象観測と1日3回の気象電報の通報業務を行った。
これが現在の南大東島地方気象台の創立記念日である。
当時の職員は所長以下6名で、東京からの職員は6ヶ月の出張交替制の勤務であった。また所長官舎は、島では唯一の赤瓦葺き住宅であったため島の住民から名物の建物として慕われ人気の的であったという。
6名で観測所の運営は大丈夫なのかと思いますが、後に引用する箇所にもありますが、1日7回観測は、06時から22時までの間で行われるものでしたので、おそらく昼夜交代制を敷かなければならないということはなかったのかなと推察されます。
所長官舎だけ豪華っぽかったのもなんとなく時代を感じなくはないですが、こうした傾向はどこで、いつまで続いたのかは気になります。(今後紐解けるかもしれません)
観測種目は、風向、風速、気圧、気温、湿度、雨量、蒸発量、地面温度、地中温度、日照時間の9要素であった。観測に使用した観測器械は下記のとおりである。
器械の種類 器械の高さ
気圧計(自記晴雨計) 海面上の高さ 15.7m
温度計(寒暖計) 地上からの高さ 1.3m
風向計(風信器) 〃 12.7m
風速計(ロビンソン風力計) 〃 12.7m
雨量計 〃 0.2m
自記雨量計 〃 2.9m
ダインス自記風圧計 〃 12.9m
蒸発計(小型)
ロビッチ日射計 (設置年月日は定かでない)
ジョルダン日照計
露場(標石) 海面上の高さ 14.6m
地上気象観測は1日7回観測(06、09、10、12、14、18、22時)と1日3回(06、12、18)の通報を行っていた。観測は、昭和18年9月に15回観測通報、更に同年12月に18回観測通報に増やされた。昭和19年4月には定時気象電報時の変更により観測時が1日17回に変更された。そして同年7月毎時観測が実施され定時気象電報の発信も増加された。
はじめ1日7回であった観測は、時を経る毎に増え、開設から2年あまりで毎時観測に移行しています。職員もそれに伴い数を増やして行く事になりました。
こうして、南大東島地方気象台の前身である、南大東観測所が「国営として」誕生しました。
ここから現在(2017年)に至るまで、75年の歴史を刻んで行く事になるのですが、
南大東島観測所の設立の頃は、太平洋戦争勃発問もない頃であり、南方海域における気象観測通報は戦略上絶対必要であり、特に航空関係における気象諸情報は大変重要なものであったと考えられる。
このように「大変重要な」役割を担う事になってしまった観測所は、その重要さゆえに、時代に翻弄されていくことになります。
それは次回に話を譲ります。(あんまり長くなるとだれますし…というにも長くなりすぎた嫌いはあります)
ちなみに、この2月1日と言う日付は、現在も放映されているプリキュアシリーズの第1作目、「ふたりはプリキュア」が始まった日でもあります。こちらは2004年に開始しましたので、南大東島地方気象台はプリキュアのちょうど62年歳上ということになります。こちらはいい加減いい年を食った気象台とは異なり、13歳とまだ若いところです。ティーン。ティーンエージャーです。
さて、プリキュアの世代的には祖母、もしくは祖父に当たる南大東島地方気象台ですが、その始まりについて調べると結構面白かったりしたので、引用も少し交えつつ、何回かに分けて記述して行こうかなと思ってます。
なお、斜字の部分は特に出典の記載のない場合は「南大東島地方気象台50年誌(1992年・南大東島地方気象台刊)」からの引用となります。(引用部は斜字とします。)
実は南大東島地方気象台「75周年」の起点である1942年2月1日は、「国営」として南大東島観測所が業務を開始した日で、その前に民間(製糖会社)により観測業務は行われていました。
戦前においては(も)、気象観測の業務は国や県などの行政に委ねられることが多かった(都道府県営の測候所はそう珍しくはありませんでした)中で、なぜ民間だったのかと言うと、この島の特殊事情が絡んでいます。
南大東島・北大東島・沖大東島(ラサ島とも、現在は無人島)は、行政の管理を及ばせることが難しかったという事情もあり、民間の企業が島のほぼ一切を管理する形で支配を行っていました。南大東島の場合は玉置製糖→東洋製糖→大日本製糖と島の開拓(1900)からの戦前の45年間で2回管理者を変えながらも、企業による支配体制は継続した形となっていました。
島の「ほぼ一切」を、ということで、企業は住民の衣食住のみならず、本来であれば国家が持つところの学校や郵便も管理していました。(さすがに警察は日本政府に依頼を行ったようですが。)果ては、島だけで通用する紙幣をも発行、管理をしています。そのなかで、気象観測も東洋製糖会社が島を統治していた、1917年8月11日に開始される事になります。
南大東島での気象観測は大正6年(1917)8月11日東洋製糖会社の私設気象観測所として農業気象観測の目的で中央気象台指導の下に業務開始したことに始まる。これは沖大東(ラサ)島の気象観測から二年遅れて開始したことになり南大東島開拓(1900年1月23日)から数えて17年目にあたる。
昭和2年10月6日 東洋製糖会社から大日本製糖会社に併合された時も気象観測業務は継続された。
また、海軍水路部の移動観測班によって、昭和10年9年から昭和13年4月まで気象観測が行われている。
さとうきびを中心とした農業生産は南大東島では開墾当初から積極的に行われており、それに資するために、というのが元々の目的だったようです。ただまぁ流石に気象観測は一から、ということはできず、中央気象台(気象庁の前身)の指導を受けていたようです。
沖大東(ラサ)島は、当時農業の肥料となる燐の多く採掘出来る島で、全盛期には2000人以上の人口を抱えていました(南大東島は3000人以上住んでいた時期があったようです。)が、太平洋戦争後に引き揚げが行われ、無人島となりました。(南北大東島と地理的に離れていたことが一つ原因として挙がりそうですが、それに加え燐の減産・価値の低下も絡んだのかなと思われます。)現在は米軍の射爆場となっています。
大正6(1917)年10月南大東島に無線電信が開通し、東洋製糖株式会社(私設大東島気象観測所)は南大東島で気象観測を行い、翌年3月から南大東島の気象状況が中央気象台に通報された。
設立当時の南大東島観測所は、会社の事務所裏側に設置され、地上35尺(10.5米)の鉄塔上に風力計が設置され、風向計は事務所の屋上に設置された。
気象観測所が設立された契機は、無線電信の開通だったようです。気象データはその場のものだけでは不十分であるということから、中央気象台とのデータ交換も行っていたのでしょう。風力と風向が異なる器械で観測されていた、というところに時代を感じますね。
さて、私設観測所として運営されていた南大東観測所ですが、1934年の室戸台風により内地が大きな被害を受けた事に伴い、国営への移行が検討されます。
1937年の秋頃に発行された、測候時報 第8巻12号内の「凌風丸の進水式挙行」記事に以下の記述があります。
中央氣象臺に於て海洋観測船の建造を希望要求せることは一昔來のことであったがなかなか容認を得なかった、偶々昭和9年9月21日の彼の室戸颱風に刺激されて愈々大東島やラサ島や硫黄島に測候所を設置して颱風観測網を張ることの絶對的必要とすると共に是等の島嶼は交通の便なき為め職員の交替や測器、飲料水、生活必需品の運搬の便なき為め事業遂行困難に依り是等の測候所に巡航すべき船舶の必要缺くべからずとし(旧字は可能な限り再現)
台風早期把握のため、台風の通過点に当たる観測地点の拡充が急務であったことが挙げられています。先行して必要となる補給機能も持った観測船の運用が開始されてから、次々と観測所が開設されていきます。
凌風丸は昭和12(1937)年5月に完成した。硫黄島は、昭和12年11月から凌風丸による調査が行われ、翌年予算が成立。昭和14年11月1日に中央気象台硫黄島観測所が開設された。
沖大東島(ラサ島)は、昭和15年1月に中央気象台の管轄官署として新たに観測所が開設された。
もちろん、南大東島についても同時に同様の検討がなされ、凌風丸の就航の翌年である1937年の12月に沖大東島とともに気象観測所の"新設"が決議されます。
このように、製糖会社によって気象観測業務が行われているなかで、絶海の孤島に位置し交通事情・生活物資・飲料水も天水に依存するという地理的環境的悪条件下にあるなかで中央気象台は気象最前線基地としての重要性を痛感し南大東島・ラサ島の気象観測について、官営観測所の設立を政府に申請していたところ、昭和13年12月両島に気象観測所の新設が認められた。
ここから、立地上困難も伴う中、国営の観測所新設のため、各作業が進められる事になります。
昭和14年11月 大日本製糖会社から無償で提供された敷地(2,000坪)現在の位置に中央気象台から派遣された鈴木新八郎監督の下に(庁舎90.87坪)(宿舎6棟)及び無線塔の新築工事が行われた。
昭和15年1月1日 南大東島観測所国営移管 中央気象台南大東島観測所と改祢(文部省令告示606号)
現在、南大東島地方気象台の「創立記念日」となっている日付より前に、国営移管そのものはなされています。このときはしかし、国営の官署としての運営は行われておらず、所長も、所長に次ぐ重要職である無線課長も着任してはいませんでした。
昭和15年12月庁舎・官舎6棟、無線塔が完成した。また、昭和16年5月、石垣島から大浜孫詳が無線通信担当者として赴任し、同年9月8日、無線機器の取付を終了した。神戸海洋気象台の気象技師飯田務は、初代所長として昭和16年7月1日着任した。昭和17年1月23日に観測施設の設置が完了し、27日から気象無線放送の受信を開始した。
国営移管から2年かけ、施設の建設・人員の配備を着々と進めて、業務開始へと突き進んで行きます。
無線通信担当者は沖縄県からの登用でしたが、所長は内地(沖縄県以外)からの登用で、この傾向は終戦まで続いて行く事になります。
(尤も、終戦までの時間がそれほど長い訳ではありませんが)
昭和17年(1942)2月1日 中央気象台南大東島観測所として業務開始を行う。業務内容は1日7回の気象観測と1日3回の気象電報の通報業務を行った。
これが現在の南大東島地方気象台の創立記念日である。
当時の職員は所長以下6名で、東京からの職員は6ヶ月の出張交替制の勤務であった。また所長官舎は、島では唯一の赤瓦葺き住宅であったため島の住民から名物の建物として慕われ人気の的であったという。
6名で観測所の運営は大丈夫なのかと思いますが、後に引用する箇所にもありますが、1日7回観測は、06時から22時までの間で行われるものでしたので、おそらく昼夜交代制を敷かなければならないということはなかったのかなと推察されます。
所長官舎だけ豪華っぽかったのもなんとなく時代を感じなくはないですが、こうした傾向はどこで、いつまで続いたのかは気になります。(今後紐解けるかもしれません)
観測種目は、風向、風速、気圧、気温、湿度、雨量、蒸発量、地面温度、地中温度、日照時間の9要素であった。観測に使用した観測器械は下記のとおりである。
器械の種類 器械の高さ
気圧計(自記晴雨計) 海面上の高さ 15.7m
温度計(寒暖計) 地上からの高さ 1.3m
風向計(風信器) 〃 12.7m
風速計(ロビンソン風力計) 〃 12.7m
雨量計 〃 0.2m
自記雨量計 〃 2.9m
ダインス自記風圧計 〃 12.9m
蒸発計(小型)
ロビッチ日射計 (設置年月日は定かでない)
ジョルダン日照計
露場(標石) 海面上の高さ 14.6m
地上気象観測は1日7回観測(06、09、10、12、14、18、22時)と1日3回(06、12、18)の通報を行っていた。観測は、昭和18年9月に15回観測通報、更に同年12月に18回観測通報に増やされた。昭和19年4月には定時気象電報時の変更により観測時が1日17回に変更された。そして同年7月毎時観測が実施され定時気象電報の発信も増加された。
はじめ1日7回であった観測は、時を経る毎に増え、開設から2年あまりで毎時観測に移行しています。職員もそれに伴い数を増やして行く事になりました。
こうして、南大東島地方気象台の前身である、南大東観測所が「国営として」誕生しました。
ここから現在(2017年)に至るまで、75年の歴史を刻んで行く事になるのですが、
南大東島観測所の設立の頃は、太平洋戦争勃発問もない頃であり、南方海域における気象観測通報は戦略上絶対必要であり、特に航空関係における気象諸情報は大変重要なものであったと考えられる。
このように「大変重要な」役割を担う事になってしまった観測所は、その重要さゆえに、時代に翻弄されていくことになります。
それは次回に話を譲ります。(あんまり長くなるとだれますし…というにも長くなりすぎた嫌いはあります)